2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

2017年1月31日 (火)

お土産の失敗

 出張先のあるお店で試食を勧められて、食べたらとてもおいしかったので、これは晩御飯にいいと思ってお土産に買って帰りました。

 パートナーは食事の献立についての自分のプランがあって、それを崩されるのを嫌いますから、最近は私の方は少なくとも2,3日の余裕をもってそういうお土産を買うように心がけているのですが、このお土産も保存がきくものなので、これは大丈夫、と安心して買いました。

 ところがここでもうひとつのミスをおかしました。そのおかずを彼女が苦手だということをすっかり忘れていたのです ('◇')ゞ 昔聞いて、家ではもうずいぶん長いこと全然食べなかったので、その事実自体を忘れていたんですね (笑)

 で、「私が苦手だということを忘れていたでしょう?」と言われてしまいました。あっちゃー!なわけですが、今回は彼女の態度が違いました。以前はそこですごく暗い顔になり、私としては激しく責められているような気分になったのですが、今回は彼女は私がそういううっかりミスをよくやる人間だということを認めてくれて、ある意味「あきらめ」てくれた感じで、深刻にならず、私は別のおかずを食べるから、あなたは自分で食べたらいいからと言ってくれたのですね。

 それにしても、「わあおいしい!」と思って、すぐに「彼女にお土産」と短絡してしまう私のおっちょこちょいも困ったものです。ほんとに人間、自分の視点で物を見てしまって人の見方を見失ってしまうのは、誰でもみんなそうだなと改めて実感です。人間関係のトラブルのほとんどが、結局それではないでしょうか。この点でもアスペも定型も同じだなあと思います。

2017年1月23日 (月)

得意×不得意=エネルギー

 ガーディナーさんがこんなことを書かれていました。 

「定型の人もみんな、私と同じように翻訳作業をしているのだと思っていました。その翻訳作業は社会で生きていく上での必需品だと思っていたのです。事実私はそれができるようになってから、人の中にいても違和感を感じることが少なくなりました。」

 このガーディナーさんの話から始めて、ちょっとひっくり返して考えてみます。

 今は英語が事実上世界の共通語のような扱いになっていますが、英語が母語でない人にとってはものすごく不利な状況です。なにしろ常に「翻訳」が必要ですから、何も考えずに(?)話せる人に比べて、二度手間で、すごい時間とエネルギーが必要になります。そして頑張ってそうやって翻訳したとしても、それがほんとに相手にうまく伝わる言い方なのかに全く自信が持てない。

 英語が母語の人にとっては「話す内容」が重要で、そこにエネルギーを使える。ところが「翻訳」が必要な人は話す内容以前に「話し方(?)」にエネルギーを使わなければならない。当然「話す内容」に使えるエネルギーが減りますから、「内容が薄く」なっても仕方ない。そうすると、英語が母語の人から見れば、その人は「考えが足りない人だ」ということになってしまいます。

 そこで思い出したのですが、アジア系の子どもは数学が強い、という話がアメリカなどであります。南米やアフリカなどの地域のことがわからないので、あまり単純には言えませんが、一つの可能性としては、英語が母語でなくてそこでは自分を発揮しにくいので、言葉に頼らない数学で頑張ろうとしやすい、ということがその原因の一つかもしれません。別にもともと得意というわけではなく。

 そう考えると、アスペの方の特徴に、理系が強い、という話がありますが、それともつながっていきます。もちろんアスペの方も定型同様数学が苦手な方はいらっしゃるわけですが、「定型語」が理解しにくく、そこで活躍しにくい場合に数学など、「定型語」に頼らずできるところで活躍しやすくなる。だからそこで頑張ることでその力が伸びやすくなる。

 芸術関係で活躍する方がある程度いらっしゃるように思えるのも、同じことですね。「音楽に国境はない」という言い方がありますが、そこには「定型語」はいらない。芸術系はもって生まれた才能が非常に大きいと感じますが、でも才能を生かせるかどうかはその後の環境や本人の努力にかかっています。「私は定型語の世界では人と思いが共有できずに苦しいが、芸術の世界では人に訴えかけて共感をもらえる」という経験があれば、そこにエネルギーを注ぎやすくなりますから、才能が開花しやすくなるわけでしょう。

 昔何かで読んで面白かったのですが、京都がなんで長いこと文化の中心でいられたかというと、「田舎者」をあちこちから入れたからというのですね。京都というのは古くから住んでいる人たちの間に独特の世界が作られているようで、その世界にはよそ者はなかなか入れない。「京都語」の世界があるわけです。だから田舎者が入ってきても決して仲間になれるわけではない。で、才能のある「田舎者」たちが、そこで自分の才能を必死で伸ばしてその京都語の世界の中で地位を得ようとする。それが常に新しい文化を生む力になって、京都がその場として文化の中心となりえたのだというわけです。

 東京も同じですね。大量に地方から違う言語(文化)を持つ人がやってきて、そこで自分を発揮できる道を探す。その能力を磨く。アメリカもそうです。膨大な移民を受け入れ、激しい摩擦を生みながらも、外からやってきた人が自分を磨いてアメリカの「次」を作る。今はまたそこで問題が起きていますが、それでも日本などよりよほどその点では「懐が大きい」とも言えるので、外国人どころか「宇宙人」とさえ言われるアスペの方たちも比較的活躍し安く、IT関係などで世界をリードしているわけです。

 シリコンバレーで活躍しているのは、今はほかにインドと中国の人といわれますが、この二つの社会も、歴史的に見て極端な「多文化社会」です。というか、もう少し正確に言えば、膨大な数の異質な文化を持った人たちを、うまくつなぐ方法を見つけて社会を拡大していったところが、巨大な「多文化社会」になるわけですね。そしてこの社会も今経済成長が著しい。

 仮にそう考えてみると、ある社会が魅力的なものを生み出し、活力ある状況を作るには、「言葉が伝わらない」人々がせめぎあって、しかもそれが単に対立と崩壊に向かうのではなく、なんとかつながりあって生きていくしくみが必要だと言えるのかもしれません。

 そこには二つの要素が必要になります。一つは個性的に自分を発揮し、新しいものを生み出していく力。もう一つはお互いをつなぐ力です。ものすごく単純化した言い方ですが、アスペの方は前者の世界で自分を作りやすく、ただし後者は苦手。定型は後者では活躍しやすいですが、前者になりにくい。どちらか一つではうまくいきません。両者がうまくかみ合い、補い合ったときにすごいエネルギーが生まれるのでしょう。

 ガーディナーさんが上に書いたような形で苦労されてきたという状況は、それをうまくひっくり返す方法を見つけられれば、逆に新しいものを生み出す大事な状況にもなりうる、という話になりますね。

 
 
 

2017年1月20日 (金)

警戒心

 

noaさんのコメントガーディナーさんのコメントを拝見して、いろいろ頭がすっきりすることがありました。

 ご本人にはどうやらそういう気持ちや意図は全くないのに、定型から見てアスペの方の応答(姿勢、視線、言葉遣いなどを含め)が攻撃的だったり拒否的だったり否定的だったりと感じられてしまう、という例が少なくなく、そのことで関係がこじれていく場合がかなりありそうなわけですが、そういうことが起こる「しくみ」についてです。

 特に何か危険が潜んでいる可能性がある場合、人は誰でも「わからない」状況については不安を抱きます。警戒心をもって、身構えていなければなりません。たとえば巨大地震の後、いつ余震が起こるかわからない状況で、建物が崩壊するなど生命が脅かされる状態になれば、みんな激しい不安を抱いて身構え続けざるを得ません。

 そういう不安な状態で、にこにこしているというのはなかなかできることではありません。もちろん、そういう状態でも明るくふるまえる人は、ほかの人の気持ちも楽にする力を持ったりして、貴重な人になりますが、みんながそうなれるわけではない。

 不安の原因がわかれば、不安をなくすためにその原因を取り除こうとする、というのも自然な流れでしょう。その原因が地震などの手に負えないものではなく、目の前の誰かだったりして、しかも「話してもわからない」となれば、その人から逃げるか、あるいはその人を攻撃する、という形で問題を解決しようとしはじめるのも、わかりやすいことです。そしてその時は、自分は基本的に「被害者」と感じるわけなので、相手を攻撃することは「正しい」ことにも感じられたりします。

 どれも自分を守るためにとる態度や行動だということになります。そこに定型アスペの違いはありません。

 アスペの方からすると、定型の理屈は、特にコミュニケーションの仕方などについては非常にわかりにくいものが多く、「何が正解なのか」が読みにくい状況に置かれています。もちろん逆も同じで、定型からするとアスペの方の気持ちの動きや行動の理屈は非常にわかりにくいものが多く、予測がつかずに困惑します。

 お互いに自分の理屈で理解できず、相手に理解を求めて解決することができない場合、その混乱した事態を克服するための簡単な方法の一つは、相手を強引に自分の理屈に従わせるというやり方です。これも世の中のいろんなところで普通に見られることです。子どもを叱るというのもその一つですし、独裁者の振る舞いもそのまんまそのものです。

 当然、定型アスペ間の混乱した状態でもそういうことが起こります。

 通常の社会では、定型が優位なので、基本的にアスペの方の方がそれに従わざるを得なくなることが多く、定型にとっては自分たちのやり方は世の中を成り立たせるために必要な「正しいこと」と感じられていますから、それにアスペの方を従わせることも「当然の事」と受け止められることが普通です。

 けれども状況次第ではこの関係は逆転します。たとえば家庭の中で強い力を持ちやすい男性の側がアスペである場合、その方が性格的に優しい方であればいいのですが、そうでない場合には女性を暴力的に従わせようとする、という場合も出てきます。職場で上司部下の関係で上司がアスペになった場合も、同じことが起こりえます。その場合、そのアスペの方にとっては自分の考えは当然の、合理的なものと感じられているでしょうから、それに相手を従わせることもまた「正しい」ことと思われるでしょう。DVやカサンドラもそういうところから起こったりしそうです。

 定型アスペ間では少数派であるアスペの方の方が、そこで「相手に従わなければならない」状況に置かれやすくなる、というのも自然な流れになります。で、その場合、自分ではよくわからない理屈に従わなければならず、自分の素直な感覚では「正解」にたどり着きにくいので、常に自分の外側(定型の側)に「正解」を求め続ける、という姿勢をとらざるを得なくなりやすい。だから気楽に自然にふるまうことができず、常に警戒心をもって緊張して生きることが必要になる。

 そういう背景で、アスペの方に定型に対する否定的、拒否的に見える姿勢が生まれたとしても、別に不思議なことではない、ということになります。定型の側は自分は普通のことをしているだけで、アスペの方に対して迫害しようとしているなどという意識はなく、むしろ気遣っている気持ちだったりしますから、その否定的な、警戒心の強い姿勢を見れば、「なんくせ」をつけられたり、「不当に攻撃された」気持ちにもなる。逆にアスペの方からすれば、「悪い」のは定型で、自分が警戒心を持つのは定型が攻撃的だから、という理解になりますから、定型のその感じ方が全く理解不能になる。

 そうやってお互いに「相手が加害者で自分の方が被害者だ」という思いが生まれることになります。

 

 そう考えてみれば、昔あんこさんが書かれていたような暴力的なアスペの父に苦しめられ続けてきた話も、アスペのパートナーに苦しめられてカサンドラに陥る話も、逆にアスペの方が定型に迫害されてシビアな状況を生きざるを得ない話も、みんな同じ話だということになります。そういう展開になる基本的なしくみは定型アスペに関係なく、一緒であるわけです。

  
 

 

2017年1月19日 (木)

一方通行の危険

 このブログで私がいつも心がけていることは、「自分の考え方で説明して納得せず、相手の人が<そのとおりだ>と納得してくれる説明を心掛ける」ということです。

 もちろんそれは大変にむつかしいことで、それが簡単にできるのなら世の中のトラブルのほとんどは解決したも同然でしょう。それができないからみんな悩むわけです。でも全く不可能というわけではありません。だからこの場でも少しずつアスペの方にも受け入れやすい説明の仕方を見つけてきましたし、アスペの方の中にも「この人天才じゃない?coldsweats02」と思うほど定型の気持ちの動き方をばしっと表現してくださる方もあります。

 だから、そのやり方は、たとえ時間がかかったとしても決して意味のないものではないということは今はほぼ確信を持っているのですが、ただ、そのやり方が果たして「どこの範囲の人まで通用するのか」ということはやはりわからないままです。

 極端な話、こうやって日本語で言葉でやりとりするわけですから、日本語がわからない人とは絶対にこのやりとりは無理なわけですよね。そういうたとえ話ならだれでもわかりやすいと思うんですが、定型アスペ間では同じ日本語を使っていても、注目するポイントやその言葉からイメージするもの、あるいは言葉の基本的な意味の理解自体が大きくずれてしまうことも多いのに、なかなかそのことに気づけないむつかしさがあります。

それで「同じ言葉」を話しているつもりなんだけど、お互いに全然見方が違っている可能性を考え、「その言葉で相手は何を言いたいんだろうか?」ということを想像していく努力が欠かせないわけです。

 当然のことながら、隠れたずれが大きければ大きいほど、その作業は大変になります。スペクトラムの話で言えば、お互いの「自閉度」の距離が大きいほど、お互いに相手のいうことを想像することがむつかしくなるのは当然の事でしょう。その意味で「どこまでの範囲の人とこのやりかたが通用するのか」という問題はずっと残り続けます。

 そしてもう一つ、一般によく言われるように、この「相手の立場を想像する」という作業自体にむつかしさがあるのがアスペルガーの特性なのだ、みたいなことがもしあるのだとすれば、このやりかたは定型は比較的やりやすいけれど、アスペの方の方はよりやりにくい、という可能性もあります。

 もしそうだとすれば、このやり方自体が一方通行になりやすく、「お互いに」ということが成り立ちにくくなる、という意味での限界があるかもしれません。もちろんアスペの方でも全然一方通行ではなく、定型以上にそれができるように感じられる方もあるわけで、そこには十分このやり方の意味はあると思いますが、やはりそうなりにくいなあと感じさせられる方もあるわけで、そこがむつかしいところです。

 

2017年1月18日 (水)

だからなに?

 久しぶりに昔お世話になった方にお会いして、いろいろ話したのですが、帰ってからパートナーにその話をしました。

 といっても会話が弾むということはあんまりないことなので、私もなんだかぼつぼつととぎれとぎれの話になってしまって、他の人と話す時のようにはあんまり「乗って話す」という感じはなりません。でも話さないと全く話さなくなるので、ちょっとだけ話す感じにしています。

 最近、ちょっと彼女の方でも話そうとしてくれているのか、ぼつぼつ短文レベルの会話が数回続く感じになっています。もちろん具体的に用事があるときにはもっとスムーズなのですが、特にはっきりした目的のない会話の時にそんな感じになります。

 で、そういうときにしばしば彼女から発せられる言葉が「だからなに?」という言葉なのですね。何度か書いたことがあったと思いますが、私が何気なく言った言葉、特にはっきりした目的もなく言う言葉に対してそう言われることが時々あります。

 そういわれて改めて自分が何を言いたかったのか考えるのですが、スムーズに会話が続くときには会話をしながらそれが見えてくることが多いのですが(つまり話し始めたときにはよくわからないまま曖昧に話す)、そこでぱたっと話を切られて「なんの目的なのか?」と聞かれると、わかんなくなってしまい、そこで話が終了してしまいます。

 ということで、ここからも定型アスペ間の会話の違いの特徴がわかるような気がします。

 定型は自分でもよくわからないことだけど、なんとなく気にかかることを相手に話すことがよくあります。そして相手とその話をしながら、連想することなどを語り合っていくうちに、だんだんそこで何が気にかかっていたのかがわかってくる、というようなことがあるわけです。

 こういう場合、ややたとえ話的に言えば、定型は一人の頭で考えるのではなく、相手と一緒に考えている、という状態に入るのですね。だから自分の中にあらかじめはっきりした結論があるわけではない。一緒にやりとりしながら結論が見えることもある、それを無意識のうちに期待しているわけです。

 それに対してアスペ的な対応はしばしば、「相手の結論を求める」スタイルになるような感じがします。相手が自分のことを考えるのは相手の作業であって、自分のことではない。相手が自分のわからないことを投げかけてこられても私には関係がない、相手の話だ、そういうスタンスが結構強い気がします。

 こういう感じになる場合には、定型はアスペの方を「冷たい」と感じることがよくあるわけです。

 それから、かならずしも何かの結論を話しながら出すことまで求めずに、なんとなく気にかかったことを話すだけということもあります。それは言ってみれば「情報をとりあえず共有しておきましょう」というような意味があるのですね。そんなこといちいち意識していませんが。個人で考えても、一緒に考えても、まだいろいろ情報不足でわからないこと、考え方が見つからなくてわからないことはいくらでもあります。そういう時に、「将来の解決」を想定して、とりあえず「気にしておく」状態を作るわけです。で、いつか何かを思いつくかもしれない状態にしておくわけですね。

 そうすると、「目的がはっきりせずに結論を相手と探ろうとする」場合であっても「ただ情報を共有しようとする」場合であっても、定型的には相手と一緒に考える、という作業の一つのステップとして重要なやりとりがそこにあるわけです。そこがうまく共有されなければ、その後の協力関係がスムーズに進展しない。

 報連相がしばしば問題になるのも、結局そういうことですね。「今すぐに役立つかどうかはわからない」けれど「共有しておけば将来役に立つかもしれない」というあいまいな情報も含めて、お互いに共有しておこうとする傾向が定型には強くて、関係が深ければ深いほどそれは強くて、相手にそれを求めることになります。

 そういう定型的なやりとりの中で「だからなに?」と相手に投げかけるのは、かなり強烈な相手に対する否定的な対応になります。「お前の言っていることは要領を得ない。もっと考えて話せ」という叱責であるか、「お前の言うことには私は興味が全くない。そういうくだらないことは話しかけないでほしいものだ」という拒絶であるか、そういう気持ちを相手に伝える場合にその言葉が使われることが多い。

 ですから、定型アスペ間でアスペの方からそういう言われ方をしたときに、定型は大変傷つくことになります。定型同士ではあえて相手を傷つける可能性を意識して使う発言の一つなので。

 さて、今考えてみたいのはその次の部分なのですが、そういう言葉をなぜアスペの方がしばしばつかうのだろうか、ということです。

 定型的な解釈では上に書いたように「拒否・否定」になりますが、よくよく注意してみると、アスペの方がその意図を持っているとはやはり思えない。いや、そういう場合もあるかもしれませんが、そうでない場合もあると感じる。私のパートナーについていえば、「拒否」というより「とまどい」という印象を持つことがよくあります。

 まずひとつはっきりしていることは、実際に私の発言が彼女にとって「それを話しかけることの意味がわからない」ということが前提にあるだろうということです。だから戸惑っている。表情も困ったようなとまどった表情になります(それが定型的には相手を非難しているサインにもなりやすいのがむつかしいところですが)。で、実際にわけがわからないから「もうこの話はやめて」という意味で「だからなんなの?」ということばを使うこともないとは言えませんが、そうではないことが多そうな気がする。

 ひとつ思いつくことは、彼女がこれまで定型からそういう言われ方をよくしたからではないかということです。アスペの方の話は定型に理解しにくいことが多いので、最初は鷹揚に聞いていたとしても、だんだん定型の側にいらだちが募ってきて、「だからなんなの?!」と強い口調で叱責するということが起こる。で、そのパターンを学んでしまうと、「わからないということをつたえたい」というだけの時にもその言葉を使いがちになる。という可能性です。

 もしそうだとすれば、「だからなんなの?」という言葉の意味の理解が、定型アスペ間で微妙に、でも結構重要なところでずれていることになります。

 そして定型の話がアスペの人にとって「意味がわかりにくい」理由の一つとして、上に書いたように「あいまいな情報をなんとなく共有する」ことに意味を感じるかどうかのずれがある。

 今回の記事のこの「可能性」の話が、どの程度適切なのかはもちろん私にはわかりませんが、いずれにせよこのあたり、もともと持って生まれた傾向の違いからくるずれの部分と、その後のやりとりの中で拡大していくずれの部分と、たぶんどっちもからんでの話だと思うので、それがどんなふうに絡んでいるのか、またいろいろと考えていくべき問題のように感じます。

2017年1月12日 (木)

ふたつのずれが生む対立

 昨日一度記事を書いて、ほぼ書き終わりというときに突然ブラウザーが勝手に終了してしまい、すべての努力が無になりました (泣)。ショックのあまり、改めて書き直す気力も起きず(泣笑)。もう昨日書いたことは忘れて、次に進みます……

 記事「挨拶というスイッチ」や「次のステップ」にいただいたコメントなどを拝見していて、「相手の配慮にどういう態度をとるか」という問題について、まただいぶ問題が整理されてきた感じがしています。現時点での私の理解でそこをまとめてみると、

① 「アスペだから相手の援助や共感を否定する」ということは成り立たない。
② アスペの方が定型に対してそのような態度をとる場合、少なくともその一部は援助や共感の中身が不適切だからである。
③ また、どの程度それに対して拒否的な態度が強くなるかということには、それまでの個人的な経験が効いてくる場合がある。
④ そのように拒否的な態度になる時の心の基本的な動き方は、定型アスペ間で違いはないので、定型でもたとえば震災後の被災者など、非常に困難な経験を経た場合には同じようなことが起こる。

 ということで、このように考えられる限りは、定型アスペ間には「違いはない」ということになります。にも拘わらず、この問題で定型アスペ間にトラブルが起こりやすい原因は何かというと、①「適切な援助や共感」の内容にずれがある。②アスペの方が陥る状態は、定型で言えば震災被災者が経験するレベルのきわめて重篤なものが多い。ということが考えられます。もしそうだとすると、こういうことが頻繁に起こることになります。

 アスペの方が自分の苦境を語る。定型はそれを聞いて、「自分ならこうするだろうな」と思えることが思い浮かびやすく、そのような問題の対処はそれほどむつかしくはないだろう(通常のレベルの工夫がわかれば乗り切れるだろう)と判断し、援助したい気持ちが起こる。しかしそこで定型が思いつく工夫はアスペの方の実態からずれている物が多く、アスペの方からすれば「有難迷惑」でしかない場合が多い。またアスペの方が体験しているのは、定型の想像をはるかに超えた深刻な事態なのであり、そこで求められているのは「援助」ではなく、中途半端な「共感」でもなく、カウンセリングの「傾聴」のような対応であるので、それを超えた定型的な積極的「援助」の姿勢は却って状態を悪くするものでしかない。

 そうなると、アスペの方としては定型からの働きかけは逆効果にしかならないので、それを拒否して自分を守るしかなくなる場合が多く、その定型の働きかけには苦しめられることになるので、その働きかけに対して「悪意」を感じるようにもなり、定型に対して否定的な態度や拒否的な態度、さらには攻撃的な態度をとりやすくなる。定型としては自分の想像力の及ぶ範囲で可能な限り努力し、心から「善意」で相手に対して努力をしていると思えるのに、その「善意」すら否定するような態度をとられるので、衝撃を受け、反撃の態勢に入りやすくなる。

 ということで「問題の深刻さについての理解のずれ」と「適切な対応についての理解のずれ」とが重なって、お互いに相手が悪意の塊にも見え始め、激しい敵愾心が生まれ、深刻な対立関係が拡大し、固まっていく。

 そんな感じでしょうか。

 

2017年1月10日 (火)

次のステップ

 このところ、また一つ定型アスペ問題の理解がステップアップしつつある感覚があります。私にとってこのところとても大きな理解の進展は、「しんどいことへの共感」や「励まし」が往々にしてアスペの方に非常に否定的な意味を持つという「謎」についてでした。

 「励まし」がかえってマイナスの意味を持つ、ということは、定型でもかなりシビアな状態で絶望的な気分になっていて、そのことを全然理解しない人から「お気楽」に励まされたときにはそうなりますから、比較的想像がしやすいことでしたが、「しんどいことへの共感」がマイナスの意味を持つ、というのは相当理解がむつかしい問題でした。

 何しろ学生時代に聞いたり読んだりした臨床心理学の話では、「しんどさに共感することの大切さ」みたいなことが「当然のこと」として語られていましたし、経験的にもそれはよくわかることでしたから、そのことを疑ってみることもなかったのですね。

 もちろん的外れの共感なら有難迷惑になることもわかりますが、その人がしんどいこととして語ることそのものについて、「ああ、それはしんどいだろうなあ」と共感してそのしんどさを共有した気持ちになる、そのこと自体がマイナスの意味を持つというのは、ほんとにわからなかったわけです。

 そしてその「しんどさ」を語るという行為が、相手の何かの援助を期待していない、ということもまた謎でした。もちろん定型でも「ただ話を聞いて、静かに見守っていてほしい」という気持ちになる場合はありますが、そこで適切に共感してもらえることは救いになるし、その適切な理解に基づいて援助してくれるのなら感激です。そこまでいかずに、たとえ理解は不十分に感じられても「私はどんなときにもあなたの味方です」とか言われれば、それはほんとに救われた気持ちになる。よくドラマなどでもしんどい状態にある相手に対する「殺し文句」としてそれが使われますが。

 そういう、定型的な支えあいの一番の基本みたいなところが、アスペの側からことごとく否定されるようなことが定型アスペ間では起こる。それが定型的にはわけがわからないから、「なんでここまで頑張ってる私の好意に対して、敵対的な態度で否定するのか?」という戸惑いが生じ、さらにそれがひどくなれば怒りになっていくという展開があるのですね。

 そういう定型的には「不思議」な展開について、一部は年末にも新しい見方ができ始めてきましたし、さらには今日りなこさんから頂いたコメントで、私がこれまで「もしかしたらこういうことだろうか」と考えてきたことが、アスペの方の口からほぼそのままに近い形で語られました。それで「ああ、やっぱりそういうことなのか」という感じがしてきたわけです。

 りなこさんが強調されているように思えたことは、相手の援助的なかかわりそれ自体が苦痛だということとは少し違って、「そのように援助をさせてしまっている自分」についての情けなさが自分を苦しめ、自分の価値を脅かし、それが結果として援助的なかかわり事態に対する否定的な、拒否的な姿勢につながることがある、という点です。

 つまり、「相手の好意」がうれしいという、相手についての思いよりも、「援助される情けない自分」という、自分についてのイメージが強烈にその方を支配してしまうということが起こっているのでしょう。だから「放っておいてほしい」という気持ちになる。これ以上自分をみじめな思いにしないでほしい、ということかなと想像します。

 そしてそういう状態でさらに「押しつけの援助」が続けば、それはもう自分を苦しめるためのいじめをされているとしか感じられなくなる可能性もあります。その結果自分を守るためにも定型に対する激しい怒りや敵愾心が生まれることにもなりうる。

 もしそういう風に考えられるのなら、ようやく定型的な感覚の一部を拡大して想像することで、その不思議な出来事がわかり始める感じが出てくるのです。

 だから、こういう言い方でもし表現できるのなら、その基本的な心の動き方は定型もアスペも一緒ということになります。

 「援助そのものがもともと否定的な意味を持つわけではないが、あまりに的外れな援助の押し付けは、こちらがしんどいだけになり迷惑だ。そして自分が一生懸命頑張ってやってもできないことが身に染みていて、もう自分自身に対して絶望的な状態にあるときに、さらに頑張れと励まされることはマイナスの意味しか持たない。そういう援助はいらない。そのくらいなら一人で放っておいてほしい。」

 このあたりの感覚は、定型でもうつ状態になれば十分にありうることです。だとすれば、それは「アスペの人に特有の心の動き」ではなく、厳しい環境に置かれ続けるために、鬱的にならざるを得ず、二次障がいとしてそういう姿勢を持たざるを得なくなる、という話だとして理解が可能になってきますし、実際りなこさんの書かれていることには、高校時代と社会人になってからの極端な違いの話として、そのことが語られていました。

 あすなろさんが掲示板で紹介されていた記事によると、ようやく脳科学などの方でも「アスペは共感できないのではなく、共感するポイントが定型と異なるだけだ」という見方を支持するデータが出始めているようですね。そんなことは定型アスペ間の対話を丁寧にやっていけば脳科学を持ち出さなくても十分わかることなのですが、結局脳研究をやる人の多くも、「アスペは共感能力に障害がある」という、定型的な見方しかできないから、自然とデータのとり方がそれを見つけるためのものになり、それにあったデータが集まってくるだけのことなわけです。

(いかに今の「科学的」研究が一見客観的で公平な事実を明らかにしているように見えて、実際は定型的な見方に偏ったものが多いかがそういう例を見てもよくわかります。別に科学的研究を否定したいのではありません。私は個人的には子どものころから科学の話が大好きで、科学的研究も大好きです。でもしばしば人を理解するときに、ものすごく大雑把で安易が議論が横行していること、それが「科学的な真理」として世の中に流通してしまうことにおおきな問題を感じるのですね。結果としそれはて「科学」を装った偏見の議論にもなりかねません。もっともっと丁寧に定型アスペ問題を見ていかなければ問題は解決しないはずです)

 
 この「援助に否定的」「しんどさへの共感に否定的」という問題も、定型的な見方からすればすぐに「共感的関係の否定」に見えてしまうので、「アスペは共感性の障がい」という見方を強める方向につながりやすいのでしょう。それもこれもやっぱり定型的な見方からの偏りなのだと思います。

 とすれば、次にこういう事が問題になりそうです。アスペの方は共感ができないのではなく、定型とは共感のポイントが異なるのだ、ということが明らかになってきたとして、ではアスペの方は援助を否定するのではなく、定型と援助のポイントが異なるのだ、という言い方がどこまでできるか、ということですね。言い換えれば「アスペの方に適した援助の仕方」はなんだろうか?ということです。

 ひとつには「放っておいてほしい」という「援助の仕方」が言われていましたし、「いろいろ口を出さずにただ見守っていてほしい」という感じのことも言われていました。まあそれがとりあえず現実的な対応の仕方という場合もあると思いますが、でもなんかそれだけではないものがありそうな、そんな気がするのです。それはこれまでアスペの方の書かれていることややり取りの中で微妙に感じ続けているものなのですが、まだうまく言葉にはなりそうにありません。もちろん私の勝手な思い込みである可能性もあります。

 このあたりを考えることが、次のステップの手掛かりになりそうな、そんな気がしています。

2017年1月 6日 (金)

挨拶というスイッチ

 定型アスペ間のずれとして時々話題になって(して)きたこととして、挨拶の問題があります。印象としてはアスペの方は挨拶をするけれども、どちらかというと、しなければならない形式的な儀式のような感じが強い気がします。それに対して定型のほうは単なる儀式を超えて、かなり重要な意味を実際に持つ。

 その違いがどんなところに現れるかというと、親しい関係になった時にどうか、というあたりがひとつのポイントになりそうです。「あいさつなんて形だけのものだ」という風に考えると、ごく親しい関係の中では挨拶はいらないものになる。朝起きて最初に見ても「おはよう」と言い合う必要をあんまり感じない。もしかすると「挨拶はしなければならないもの」という「決まり」として理解されている方の場合には、挨拶をしなければ決まりを守れなかったという不快感を持つこともあるかもしれませんが、それ以上ではない。

 定型の場合はたとえ親しい間でも挨拶が実質的に重要な意味を持つ場合が多い。なぜなら、ほとんど無意識レベルのことですが、挨拶によって相手の気持ちを知ったり、相手の調子を理解したり、自分に対する態度を判断したりするからです。普通に挨拶が交わせれば、それは「いつもと同じようにつきあっていけばいい」ということになるし、挨拶が不自然なら相手の調子が悪いか、自分に対してなにか不満や怒りを持っているなど、「なにか対応を考えなければならない」状態にあると考えるようになります。そして挨拶をしない場合には「かなりやばい状態にある」と感じられるようになり、結構強い不安や緊張状態が生まれる。

 つまり、定型は常にお互いの感情状態などを読んだり伝えあったりして、調整し続けようとする傾向が強いわけです。挨拶は、最初に出会ったときに「またいつものいい関係でいようね」ということを確認しあい、その状態にお互いに入るスイッチの役割をする。別れ際の挨拶の場合は「スイッチオフ」を確認するような意味がありますね。

 パートナーを見ていると、彼女にとってはたぶんこのスイッチの意味がかなり薄いんですね。ほぼないに等しい印象があります。だから挨拶をしなくても平気みたい。で、私の方は定型的に感覚が反応してしまうので、「挨拶がない」→「彼女の状態が悪い」→「何か悪いことがあったのか?私に対して何か強い不満があるのか?」というような疑問や不安が生まれてしまうことになり、その分しんどくなるわけです。

 定型は、自分のそういう態度の違いが相手にも大きな影響を持つと思っているから、意識して挨拶の仕方を変え、相手に対してメッセージを送ろうとすることもあります。自分の状態が悪いんだけど、相手には心配をかけたくないから無理やり元気そうに挨拶をする、というようなこともする。気づいていない相手に「自分は怒っているんだぞ」ということを伝え、警告するためにわざわざつっけんどんな挨拶をしたり、さらには挨拶をしない、という「特別な挨拶」(とても強い警告)をすることもある。 

 前に話題にしたことで、「相手の前でしんどそうな顔をする」ということが、定型的には相手に「援助を求める」意味を持ったり、「警告する」意味を持ったりという風に、半ば無意識的に、またはかなり意識的に相手に「伝える」という働きを自然に持つのに対して、アスペの方の場合はそういう「伝える」意味が非常に薄く、単に「自分がしんどいからそのまますなおにしんどい表情になる」というだけだという話がありましたが、ここも同じですね。

 また比較的最近話題になったことに「自分のつらさを語る」ということの意味が定型アスペ間でかなりずれてしまう、ということがありました。定型的には明らかに「強力な積極的援助を求めていること」と感じられる場合に、アスペの方はただ「自分のつらい思いを表現したかった」というところまでにとどまり、あとは見守ってもらいながら自分で解決するつもりなのであり、積極的に何かをしてほしいという気持ちはない、ということのようでした。

 これなども、私自身の経験から考えても、ものすごい定型アスペ間の誤解を生む原因になり、時に悲劇的な展開を生むこともあるかなり深刻なずれになります。

 考えてみると、これら全部、おんなじ問題ですね。

 定型的な関係ではお互いの感情的な関係の調整がとても重要なので、表情などの感情の表現は、相手に何かをメッセージとして伝えるという働きが強い。そして自分の問題を相手にも協力してもらって解決したり、あるいは相手との関係を断ち切ることで自分の安定を取り戻そうとするようなそういう展開に結びついていく。挨拶はそのお互いの状態が「今のままで大丈夫」なのか、「何か対応が必要なのか」を知るための手段になっているわけです。

 で、アスペの方の場合は、それは単に自分の状態がそのまま表れているだけで、相手に何かをしてほしいということがそこで「相手に対して表現」されているのではない。援助を求める場合にも「信頼できる人に見守っていてほしい」というレベルまでにとどまる。問題の解決はあくまで自分自身でしかないという固い信念がある。これも「病気の時にどう対応してほしいか」についての定型アスペ間の典型的なずれにつながるポイントでもありますね。

 「病気の時の対応」「しんどそうな顔の意味」「つらさを語る意味」などに見られる結構劇的なずれは、こんな形で全部同じ問題のバリエーションということになりそうですし、そこに「挨拶の意味のずれ」の問題も同じように理解できそうです。

2017年1月 1日 (日)

2017年1月1日

2017

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ