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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年12月

2016年12月30日 (金)

右手と左手の握手

 もう成人している子どもと定型アスペ問題を話し合うことが時々あるのですが、定型アスペがコミュニケーションをとるということについて、こんなたとえ話をしていました。

 「右手しかない人と、左手しかない人がどうやって握手をするか、という問題」

 すぐにわかっていただけると思いますが、そういう二人が向き合って普通に手のひらを合わせて握手することは不可能です。

 可能性を考えると、まずどちらかの手のひらが相手の手の甲を包む形。これはどちらかが相手に合わせて包み込む感じでしょうか。でもその時は一方の人は包まれるだけで包み返すことがないという、一方的な関係になる。

 一人が手のひらを裏返してお互いの手のひらを合わせる形も考えられます。それでも親指がお互いに上下反対になるなど、不自然な握手になることは避けられませんし、何より手のひらを裏返す方はかなり無理な姿勢になるので、長く続けられません。

 握手をやめて、ハイタッチにする、ということもあり得ます。これならお互いに同じ姿勢でできますし、手のひら同士を合わせることにもなる。ただ「本当は握手をしたいのに」という気持ちが強ければ、違和感が残り続けるでしょう。

 同じように握手をあきらめて、向き合う形をやめて横並びになって「手をつなぐ」というやり方もあります。これはやはり握手へのこだわりがあれば「解決じゃない」と思えるかもしれませんが、ちょっと恋人同士のデートとかの感じも出てきますね (笑) ただ肩が触れ合うのが嫌だとかがあればこれも難しい。

 もちろん、もうそういうの、めんどくさいし、「握手が大事だ」ということにこだわれば、相手とは合わないんだ、と割り切ってお互いに「右手しかない人」を別に探す、「左手しかない人」を別に探すという形で関係解消というのもありでしょう。この場合は定型アスペ問題以前の状態に戻る形になります。

 「普通」の握手に対するこだわりが強ければ、この関係は決してうまくいきません。そして自分は右手で相手は左手で、全然違うんだということに気づけない場合はなぜ握手できないのかもわからずにいらだちを強め、場合によっては相手を激しく攻撃し始めますので、関係は作りにくい。

 だから、次のステップに進もうとすれば、どうしてもまず「手」というところは同じだけど、「右」と「左」で全然違うんだ、というところに気づく必要があります。これが結構難しい。

 右手優位の社会だと、左手の人は迫害されやすくなりますから、「自分にはなぜか合わない」ということを自覚しやすいですが、右手の人はそれが当たり前だと思っているので、そこに気づきにくくて「右手を出さない相手が悪い」となりやすく、迫害がなくなりにくい。

 かといって左手の人も実は同じ問題を抱えていて、相手が右手しかないということに気づきにくいんだということもわかってきました。その結果相手が左手を差し出さないと言って激しく攻撃しだすことになる。今度は右手の人が被害者になります。

 その意味で全くお互い様だと私には感じられるのですが、問題を解決しようとする限り、お互いに「相手が自分と同じ右手(左手)を出さないこと」に怒り続け、無理難題を無自覚に押し付け続けるようなレベルは超えなければならないでしょう。そのレベルで考えていく限り、どちらかが自分を殺して相手に無理やり合わせて苦労し続けるか、決裂と破たんになるのは目に見えています。

 お互いに右手しかもっていない、左手しかもっていないことがわかり始めたとして、じゃあどうしたらうまく「握手できる」のかはまたむつかしい問題です。普通の握手は無理ですから、上にたとえを書いたようになにか工夫が必要になり、「そもそも何のために握手するのか」ということを問い直して、「代替手段」を考える必要も出てきそうです。

 「手」という目に見えるものならわりにわかりやすい話ですが、感じ方や価値観、生き方など直接には目に見えないものの話になるとそこがものすごくむつかしくなる。でも考え方によっては、むつかしいとは言っても基本の理屈は「右手と左手の握手の工夫」というシンプルなものでもあるんですね。

 この難しいけどシンプルな、シンプルだけどむつかしい問題を、来年は考えていきたいと思います。

 みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。 

 
 

2016年12月28日 (水)

 またまたあすなろさんとガーディナーさんのやり取りで、思わず引き込まれるような議論がありました。恥を巡るやり取りです。

 恥というのは人が世の中でどうふるまうかを左右するような、ものすごく重要な感覚ですよね。子どものころにこんな話を読んですごく不思議だったことを思い出します。

 あるところの人々は、普段ほとんど裸で暮らしているんだけれど、腰に紐を一本巻いているのだそうです。で、裸に近い「丸見え」状態だということになりますから、私の感覚から言えば「恥ずかしい」状態になります。ところがその人たちは全然平気。

 ところが、その腰の紐一本が外れると、途端にものすごく恥ずかしがるということでした。それがびっくりですごく面白かったんですね。

 で、これは大人になってから読んだ本ですけど、明治時代くらいには男も女も今に比べるとかなり肌を見せることが普通だったみたいです。江戸時代とかでも公衆浴場は混浴で、結婚相手を判断するために、銭湯に行って相手の女性をそこで観察した、みたいな話も読んだことがあります。

 昭和になってもたとえば赤ちゃんにおっぱいを上げるとき、若いお母さんが公共の場で大っぴらに胸をはだけて授乳するということも普通に見られたようですし、田舎の人などは戦後でも女性が道端で「立小便」をするのが別に不思議ではなかったということもあったようです。都会暮らしの孫が田舎のおばあちゃんがそうするのを見てとても恥ずかしかった、という経験談を聞いたことがあります。

 何が恥なのかは時代によっても変わるし、社会によっても全然違う。人によっても大きく違うことがあります。

 年齢相応の恥、というのもありますよね。たとえば幼稚園の頃なら裸を見られても平気。よちよち歩きの子が素っ裸で現れたとしても、周りの大人も「まあかわいい」と言うことはあるかもしれませんが、その子に激しくおこったり、その後ずっと非難し続けたりということはちょっと想像しにくいことです。

 知的な遅れを持つ人が青年になった時に、ここでずれてしまって大問題になることがあります。「恥ずかしがるべきこと」を当人は別に何とも思っていないために、周囲がショックを受けたり、激しく攻撃したりし始めることがある。

 会社とかでも、たとえば1年たった人が初歩的なミスをしたときに「いまだにこんなミスをして、お前恥ずかしくないのか!」と叱責されることもあります。逆にそれをしっかりできるようになれば「自覚ができてきた」とか、「一人前になってきた」とほめられる。

 ということは、恥の感覚がずれると、お互いのコミュニケーションがうまくいかなくなるわけですし、また「恥ずかしくなくなるように」という「目標」がその人を「成長」に向かって駆り立てることもあるということですから、その「目標」がその人に合わないものであれば、その人はその「恥」の感覚に苦しめられることにもなります。

 恥は人をつなぐこともあります。その昔「パンツをはいたサル」という本を読んで面白かったのですが、(うろ覚えですけど)人は脱ぐためにパンツをはく、というのですね。どういうことかというと、最初の例にもどれば、人が体のどの部分を見せるのを恥ずかしく思うかは時代や社会によってすごく違うわけです。だから生まれつき何を恥ずかしいと思うかが決まっているとは思えない。それは生まれた後の経験で変わっていきます。

 今の人がパンツをはくというのは、どこかの時点でそういう習慣が作られたわけですよね。それまでは別にパンツをはかなくても平気だった。それがパンツをはくようになると、パンツをはかないことは恥になってくる。 

 そうすると面白いことが起こります。パンツを脱いでよいのは、人に見られない場所で、ということになりますが、その例外が出てくる。ものすごく親しい人の間ではそこはだいじょうぶになるわけです。逆に言えば相手の前でパンツを脱げる関係になると、それだけ親しいということになるわけですね。
 普通恥ずかしさを感じてできないことを、その人との間ではできる、ということになると、そこにものすごく深いつながりが作られることになる。恥の共有はだから絆の証明みたいになるわけです。

 だから、その人の意に反して恥ずかしい状態にすることは相手を激しく攻撃する意味にもなります。

 とうことで、「パンツは脱ぐためにはく」わけです。恥ずかしい部分をあえて作り出すことで、人間関係を作る手段とするということですね。


 定型アスペ関係でもこの「恥ずかしさ」を巡るずれが問題を起こすことは当然ありえます。

 まず、定型アスペに共通する部分から考えてみたいのですが、「人には見られないと思っていたところ、人から隠しているところが見られると恥ずかしくなる」ということはやはり共通しているようです。

 強く印象に残っているのは、みるきさんが突然ここでの発言が「人に見られている」という意識が出てきて、その時に「恥ずかしさ」が出てきたという話です。ここは私の想像が入りますが、それまでマジックミラーの向こう側の世界を一方的に見ていて、そこから自分の考えを表現しているような感覚だったのが、ある時突然、それがマジックミラーではなく、向こうからもこちらが見える状態になっていたことに気づいたときの気まずさ、みたいなものでしょうか。これも「見られないと思っていたところが見られた」ことへの恥ずかしさの例になります。

 ガーディナーさんの経験もまたとても考えさせられるものがあって、

「恥を語ること自体、私にとってそれほど恥ずかしいことではないのですよ。内容にもよりますが。むしろ、恥ずかしいことを隠しているのを、他人に見つかってしまった時こそが恥ずかしいので、恥の部分を公表することは、むしろ誇らしかったりもするのです。というか、公表した時点で、恥は恥でなくなるわけです。」

 と書かれています。「隠していたことを知られるのが恥ずかしい」というところはやはり一緒ですよね。ただしここはちょっと入れ子的になっていますが、ここでは「隠していた内容」を知られるのが恥ずかしいというより、「自分がそれを隠していたこと」を知られるのが恥ずかしいという話になっています。

 そしてその内容を知られること自体は実は恥ずかしくないのだと言う風に感じ方が変わられた。その変化がまたとても考えさせられる部分です。

 たとえばガーディナーさんの例でいうと、生物のテストで「ひどい点」を取った場合、それは「恥ずかしい」ことなので、隠さなければならない、という理解が最初はガーディナーさんにもあった。

 なぜそうなのか。世の中そうなっているからです。小学校の低学年の子どもなら、かなりませた子は別として、たぶんテストで悪い点数をとってもわりと平気で人にも見せられる。ところがそのうちに先生も悪い点数だといい顔をしないし、「困ったことだ」みたいな目線で子どもを見ていることを子ども達は敏感に察していきます。そうすると「世の中そういうもんだ」という理解が子どもの中に成立してきますし、それに沿った生き方をして、先生から褒められようとしますから、その基準が自然に身についてくる。

 でも考えてみれば、学校の成績で人の価値が判断されるような状態って、別に絶対のものではないわけですよね。成績が良くても「人が悪い」人もいれば、成績が悪くても「人がいい」人もいる。成績が良ければ「出世」できるチャンスが広がるかもしれなけれど、「出世」したから幸せということもないし、成績のいい人が人を幸せにできるかといえば、そんなことは決まらない。人を測る物差しとしては成績なんてほんとに偏った一面しかわからない不良品とも言えます。ただ、世の中それが通用しているから、それを無視できなくなる。


 だから実はガーディナーさん自身も心の奥底から「悪い成績が恥ずかしい」と信じていたわけではなくて、まわりがそうだから合わせざるを得ないという感じで、どこか違和感があったのだろうと想像します。

 それで、あるとき、「恥ずかしい」とされることをやってみると、別に何と言うことはないじゃん、ということに気づく。そうすると、今まで自分が一生懸命それに合わせようと努力してきたことに、ほんとはなんの意味もないじゃんということに気づく。自分はなんとバカなことに縛られてきたんだろうと気づいて「そうすることで、カタルシスを得る」ということが起こる。そして同時に、そんな馬鹿なことに縛られている周囲の人に対してつまんないと感じられるようになり、そういう小さなどうでもいいことに縛られなくなった自分が「むしろ誇らしかったりもする」ことになります。
 ガーディナーさんの話が定型の側から見てとても分かりやすく感じられるのは、「悪い点が恥ずかしい」という、その場の定型の人々が持っている感覚(もちろん定型でも状況によってそこは変わりますが、その場の人々はそうであった)を、ガーディナーさん自身が敏感に感じ取られるからだと思います。だから、「一応定型の感覚はわかって、それに合わせることもできる」ということになり、そのうえで「でもそれは自分にとって自然な感覚ではない」ということにも気づけて、そこを切り替えてアスペ的な感覚で物事を見ることができる。

 その二つの感覚をある程度行き来できるから、定型にわかりやすい形で翻訳もできるのだろうと思うわけです。


 あすなろさんの場合も、世の中の恥の物差し(非発達障がい者がメインで作られた物差し)に縛られて苦しまれてきた。それはもともと自分にはない、あるいはとても苦手な部分が絡んでくるので、その物差しを絶対のものとして見る限り、自分は「恥ずかしい」人間であるということになってしまって、逃れようがないわけです。そしてあすなろさんの場合は「それが私だもの!と開き直れるようになってきました。」という形でそこを抜けて、自分にとって自然な感覚をベースに、新しい自分を作ろうとされているわけですよね。

 あすなろさんとガーディナーさんの違いとして私が感じるのは、「私自身もようやく、ガーディナーさんの心境に近づいてきています。」とあすなろさんが書かれていることによく表れています。つまり、ガーディナーさんが高校時代にはある程度到達できた世界について、あすなろさんは今ようやくガーディナーさんたちの手助けを得ながら入り始めたと感じられているというあたりです。

 これは決してあすなろさんが勘が鈍いとか、理解力がないとか、そういう話ではなくて、あすなろさんが人間関係の理解の仕方については基本的に「非アスペ的」だからだろうという気がします。「非アスペ的」でそのあたりは定型的な感覚に近い(または基本はおなじ)だから、より強く定型的な「恥」の物差しに強く縛られる。その分逃れにくくなる。ただあすなろさんのADHD的な部分で定型社会の物差しでは虐げられる状態になるので、そこでどうしてもその物差しから自分を切り離さなければ苦しみがなくならないので、「開き直り」が必要になってくるのではないでしょうか。そう考えると、ガーディナーさんのほうはもともとアスペ的な感覚がベースだから切り替えやすくなり、あすなろさんは非アスペ的な感覚がベースだから、それを切り替えるのがよりむつかしくなる、という違いがあるのだという話で理解しやすくなります。


 ではそのアスペ的な感覚と非アスペ的な感覚の違いはなんだろうか、というおおきな問題が改めて表れてきます。

 そのことを考えるときに一つの手掛かりになるかなと思えるのが、あすなろさんが夫さんのことについて書かれていることです。あすなろさんは

 「アスペの夫は、この『恥』を私以上に恐れている」

と書かれています。そしてそのことのガーディナーさんとの違いの理由は「おそらく生育歴と覚悟の問題ではないか」とも考えられている。

 ではこのアスペの夫さんの「恥」の感覚はどういうものかというと、実はそれは定型的なそれとは内容がかなり違うことが説明されています。

 「彼の行動は、とにかく他人に『恥』とうつらないように振る舞うこと。しかし、アスペなので自分がどういう状況で『恥』をかいているのか、は、判断が難しいらしく、私から見て、『それは恥ずかしい』と思うチグハグな行動も、本人には自覚がありません。家族から見てチグハグでも、他人が社交辞令で『良いですね』と言えば、『良いこと』になり、それに沿わない家族の方が『恥』になってしまうのです。」

 つまり「世の中を生きていく上で「恥」が重要である」ということについてはアスペの夫さんは(たぶん成育歴上)強い信念を持たれていて、その感覚は激しく自分を縛る状態にある。そこを強調しなければ自分が守れないからです。ところが実際にはその「恥」の内容については周囲の定型的な人の基準がピンとこないから、どうしても非アスペ的な目から見るとずれまくっているように思える。

 自分にはわからない感覚で縛られ、でもその物差しを離れては生きていかれない状態に置かれたとき、人は自分を大事にできなくなりますし、結果として他人も大事にできなくなる。自分について暴力的に周りの物差しで支配しなければならないように、他人をも暴力的に支配しようとするようになる、というのはごく自然な展開と思えます。定型同士でも、そういった状態に人が置かれると、そのひとはものすごく暴力的にもなりえます。

 
 そう考えると、このアスペの夫さんも、ガーディナーさんも「恥」という感覚自体はあるけれど、「周囲の定型的な恥の内容」についてしっくりこない、という点は共通していることになります。ただ自分にあわないその内容にどこまで縛られるかにお二人の間の決定的な違いがある。ガーディナーさんは早い段階でそのずれに気づいて、自分の感覚を大事にされ始めたので、周囲との間にとても柔軟な関係を作ってこられ、多くの定型からも強い信頼を持たれるようになったのに対して、アスペの夫さんはそれができなかったために極端に暴力的になられた。

 ではそのお二人の違いはどこから来たのか。今の段階で私に考えられることは、ひとつには男女の違いによる、周囲の期待の持ち方の違いです。それからいわゆる「アスペ度」の違いが影響しているかもしれません。感覚が定型的なものから離れれば離れるほど、それを想像することがむつかしくなりますから、そのピンとこない感覚に合わせなければならないことへのストレスが大きくなる。その反動で暴力的にもなりやすくなります。もって生まれた性格の違いという見方もあると思います。定型でも人との穏やかな関係を優先したい方と、それよりも社会的な「実績」みたいな、別の物差しを優先したい人などの違いがあると思いますが、そういうことが影響しているのかもしれません。

 まあ、どの見方が正しいという話ではないと思うのですが、いろんなようそが組み合わさる形で違いが生まれるのでしょうね、たぶん。

 
 という風に考えてみると、一応私を含めた非アスペ的な感覚からの「恥」の理解やそれにかかわるふるまい方から、アスペ的な感覚からの「恥」の理解やそれにかかわるふるまい方をつなげて理解することもある程度できそうな気がしますし、同時に非アスペ的でもあすなろさんが他の定型とのずれに苦しんで「恥」の物差しを切り替えようとされることや、同じアスペであってもガーディナーさんとアスペの夫さんがほとんど正反対といっていいほどに振る舞いが異なる理由もある程度わかってくる感じがします。

 ただ、そういう理解をしたうえで、改めてその「恥の内容」の定型アスペ間のずれが何なのかを考えると、やっぱりまだ「こうだ」といえるものが私には見えてきていないことにも気づきますね。

 今の段階でひとつ考えられることは、定型の場合、「恥の感覚のすり合わせ」をすごくするということ、アスペの方の場合それが少ないためにずれが拡大する傾向が強くなること、というあたりです。

 最初のほうに書いたように、そもそも恥の内容は時代や社会などによってどんどん変わっていきますから、なにか固定した「恥」があるわけではありません。それでも社会の中で恥が大事な役割を果たすのは、その時々で人々が恥の内容の理解について、常にすり合わせをして、バランスをとっているからです。だから、ちょっとずつそこに変化が生まれ、長い目で見るとその物差しがびっくりするくらい変化していることもある。それがたぶん定型社会の仕組みです。

 アスペの方はこの仕組みにたぶん乗りにくいのですね。だから定型から「頑固だ」「融通が利かない」「自己中だ」みたいな否定的な評価を受けやすくなる。私も定型の中ではどっちかというとその傾向が強く、そこではアスペの方に共感する部分もあるので、個人的な経験からもたぶんそういうことではないかなと思えます。ただそのレベルが私の比ではない。

 そうすると、すり合わせが少ない分、ものすごくそれぞれの方が個性的にもなります。だからアスペ同士の方ならうまくいくかといえば、必ずしもそうならないことも多くなる。強烈な個性と個性のぶつかり合いになることもあるからです。

 恥のずれの問題も、そういう風に考えてみると、「内容のずれ」というよりは、むしろ「ずれの調整の仕方の違い」がおおきな問題なのかもしれません。


 さてそうだとすると、ここで考えようとしているのは「定型アスペのずれをどう調整するか」ということなのですが、改めてそこでいう「ずれの調整」の仕方自体にずれがある場合にどういう調整が可能なのか、という問題が見えてくることになりました。

新たなおおきな課題ですね。来年はぼちぼちそんなことを考えていくことになるかもしれません。
 

 
 

2016年12月25日 (日)

見守るという姿勢の意味

  いよいよ年も押し詰まってきました。

 このところ、あすなろさんやみるきさん、ガーディナーさんたちが掲示板で繰り広げていらっしゃるやりとりをぼちぼち拝見しながら、私の中でずいぶんすっきりしてくるものがあったような気がしています。特にガーディナーさんのこの議論は私には長年の謎を整理するのにとても助けになりました。

 悩みを人に聞いてほしい、聞いてもらうことで支えになる、というのは、定型であろうとアスペであろうとかなり共通しているのですね。だからこそ、「人が聞いている(見ている)ところで語る」ということをどちらもする。それは明らかにひとり言ではないわけです。そして「聞いてもらえる」という可能性を感じる(その意味で信頼をする)人に対して話をする、ということについても基本的には変わることがないようです。

 ただ、そのことを前提として、悩みがどう解決されるか、というところでしばしば大きなずれが起こる。

 そのずれ方は、例の「病気で寝ているときにどう対応してほしいか」というところのずれと全く同じであることに気づきました。

 「病気は自分自身の問題で、自分がおとなしく寝て、薬を飲んで、それで自分の力で直すしかない」というのが私のパートナーなどのかたい信念です。それに対して定型に比較的多いのは「病は気から。人の気持ちに支えられることで治る力(今風に言えば免疫力)も上がり、治りが早くなる」という感覚でしょう。

 たぶんこのあたりの感覚も「スペクトラム」で、「自分」と「他人」のどちらにウェイトが強いかについてはかなり個人差がありそうです。「自分」のほうが極端になれば、一切他者とのかかわりはできなくなります。「他人」のほうが極端になれば、とにかく四六時中人にかまってもらえなければ不安でいられなくなる。(そのどちらのパターンも正反対の意味で「自己中心的(他人抜きで自分の視点でしか考えられない)」であるところが共通するところは興味深いといえば興味深いことです。)

 実際には定型アスペにかかわりなく、その両極端の間のどこかでバランスをとって生きているのでしょうね。だからどちらも何らかの意味で「他人とのかかわりが必要になる」ところは同じになるし、そこで誤解が生まれやすい。

 定型でも人への訴え方には様々なレベルがあります。かるく世間話的に話をしあいたいという場合もあるし、とにかくじっくり話をさせてほしい、という場合もあるし、ほんとにいろいろ意見を言って一緒に考え、相談に乗ってほしいという場合もある。

 で、定型間でも相手がどのレベルで話をしているのかを見誤って、対応に失敗することはありますが、でも大体は「この人はどの程度までの応答を求めているのか、ただひたすら聞いてほしいのか、切実に援助を求めているのか」の違いはなんとなくわかりますし、たとえ少し誤解が生じたとしても、少しやりとりをすればそのずれに気づいて早く修正がききやすい。

 何がその判断の手掛かりになっているのかはすこしじっくり考えてみないとわかりませんが、そういう調整を定型は半ば無意識のうちにどんどんやっているわけです。

 で、その基準でアスペの方の語りを判断したとき、しばしばものすごく深刻に対応を求めているようにしか理解できないのだけれど、それで一生懸命対応するとわけのわからない拒絶に出会う、ということが起こるのですね。

 つまり、「こういう語り方が何を相手に求めるサインなのか」ということの理解が全くずれるわけです。だからお互いにやりとりがずれてしまって、お互いにわけがわからなくなり、お互いに傷つくということが起こる。

 たぶん、誤解が特に起こりやすいのは「深刻な問題」が語られたときです。定型的には深刻な問題が語られるということは切実に援助を求めている場合が多い。自分個人ではもうどうしようもないところまで追い詰められたから、人に助けを求めざるを得ない、ということだからです。だからそういう語り方が出てきたときには、なんとか具体的に援助をしようと考え始める(か、無視するか)。

 ところがアスペの方は基本的には問題は自分で解決するしかないというスタンスで、そのスタンスは非常に深刻な問題についてもあまり変わることがない。下手にいろいろなことを言われると、かえって混乱して自分なりの解決法が見つかりにくくなったり、妨げられたり、場合によっては逆にひどい状態になったりもする。そこで「相手と関係を調整しながら問題を解決していく」というスタイルは、事態をより複雑にするだけで、基本的にはとりにくいわけです。

 定型同士でも相性もありますし、相手がこちらのことを全く理解してくれずに、勝手に自分の理屈を押し付けてこられるような場合には同じような経験をすることもあります。「もうほっておいてほしい。あなたにいろいろ言われるとかえってしんどくなる」という状態です。アスペの方はそもそも感情の調整の仕方について定型的なやり方が合わないことが多いので、定型からの援助は大体がそういう意味を持ってしまうのだ、と考えると、私には事態がよく理解しやすくなります。

 だからアスペの方は、「自分で解決するから、口出しせずに見守っていてほしい」というスタイルになりやすい。それは無視してほしいという意味ではなく、やっぱり見守ってほしいという意味(本人が明確に意識していなくても、行動としてはそういう行動になっている)を持っているわけですね。その意味でやっぱり他者が必要。

 このパターンもこの問題に限らず、定型アスペ間では頻繁に起こることでしょう。お互いに他者は必要なんだけど、どういう形で必要なのか、その具体的な内容にずれがある。そしてそれをどういう行動や言葉で表現するかにさらなるずれがある。


 もしそういうずれがここでも起こっているのだとしたら、定型の側がとるべき態度は、無視でもなく、具体的な援助でもなく、まずは「見守る」という姿勢を貫くことなのかなと。そして本人が自分で解決していくことを願う。そして相手からの具体的な援助の求めがある場合に、その具体的な内容に限定して援助を行い、それ以上のことをやって相手を混乱させないことが大事になる。

 まあ、こんな風に書いてみると、大きく言えば定型同士の間でもこれはほぼそのまま通用する話になります。その意味では基本は同じなのでしょうね。別にお互いに宇宙人だというわけでもない。ただ、具体的な援助のポイントやお互いへの合図の交わし方にずれがあるだけということになりそうです。

2016年12月19日 (月)

共感と共有

前にも同じようなことを書いたようにも思うのですが改めて。

 「共感」という言葉はいろんな意味で使えて、相手と感情を共有して自分も全く同じ感情になり、同じように行動したくなる、という意味でも使えますし、カウンセリングみたいに「私はそう思わないけれど、あなたはそうなんですね、それはよくわかります」という風に、距離を置いて感情を共有するという意味だったり(もちろんカウンセラーは「私はそう思わない」ということは普通は言いませんけど。でも「それはあなたの問題で私の問題ではない」という区別はすごくすると思います。昔取った杵柄の知識では…)、私の場合はもっとルーズに、「人の見方を共有できる」というようなレベルまでとりあえず共感の一種として考えたりするわけです。

 たとえば「そこの小説取ってくれる?」と言って相手がそうしてくれたら、それも私は(広い意味での)共感の一種と考えるわけですね。なぜなら、相手の言っている意味を理解している、つまり「相手の見ている物を私も見て、相手の要求を理解する」ということができるから、その要求にこたえられるわけです。

 ただ、その種のやり取りの場合は、感情的な意味での共有は必ずしも必要じゃありません。その小説がその人にとってどんな価値があるんだろうとか、そういうことは別に理解する必要はない。その人がその小説にどんな思いを持つんだろうということも関係ない。そういうことは抜きで小説の受け渡しは可能です。

 定型アスペ間ではそういう形でのやりとりには普通はそんなに問題が起こらないんですよね。ただ「それについてその人がどう思うか、どう感じるか」が絡んでくるやり取りになると途端に難しくなる。相手が何かを差し出したとき、そのものにどんな思いがこもっているのか、その意図は何なのかの理解が全然ずれてしまうことが多いわけです。

 「自分の苦しさを語る」ということは、定型的には「共感してほしい」「理解してほしい」「援助が欲しい」「アドバイスが欲しい」「味方になってほしい」「問題を解決してほしい」といったような意図を暗黙の裡に持つのが普通です。その理解で定型アスペ間に深刻なずれが起こることがある、ということもこの間はっきりしてきました。

 私はアスペの方に感情がないなどという話は全然ばかげていると思いますし、感情の共有を拒否しているとも思いません。むしろ切実にそれを求められている場合もある。でもその求める中身が定型的なものとずれていて、そこが相手に伝わらないために悲劇的な展開になることが多い、ということだと理解しています。感情が絡むところでそのずれが起こるからこそ、冷静に対応することができずに、お互いに感情的な反応になっていくわけです。

 つまりこういうことになります。

 「相手が何を見ているのか」というようなレベルでは定型アスペの間に共有関係は簡単に成り立つ。また感情が大事だというところでも定型アスペは同じ。けれども感情の動き方に何か重大なずれがあり、感情の共有に困難が生まれることが多い。

 私はこの最初のところを含めて共感につながる話として考えてきたのですが、そうするとどうも話が混乱して伝わることが多いようなので、その最初のあたりは共有という言葉で表現し、感情の共有まで進んだ時に共感という、という言い方にしたほうが誤解が生まれにくいかなと思いました。

 
 

2016年12月 2日 (金)

みんなわかんないことはパターンで

 アスペの方はパターンで人を理解する、とか、感情を交えない「客観的」で「論理的」な形(理屈)で理解するのが得意、というような見方は多くあります。実際理系で活躍される方は多いわけですし、幼児の場合でもことばより物の形などのほうが得意とか、そんな話もあります。アスペの方は男性脳だみたいな話も聞きますが、それも男性のほうが感情よりも理屈で割り切って考えるからという話につながっているのでしょう。私がパートナーにひかれたのも、感情的な形ではなく、さらっとしたボーイッシュともいえる感じがよかったからなわけですし、そういう風にいろいろ並べてみると、そういう見方はかなり説得力があるようにも感じられます。

 ただ、一方であんまりそこを強調しすぎると、大事なことが見逃されてしまうような気もして仕方ないのです。アスペの方が想像力がないとか、感情理解ができないとかいうのはほとんど神話に過ぎない、というのはこの場ではもう常識になってきていると思います。共感を求めないというのも、むしろ共感を求めて裏切られ続けてきたからそういう姿勢になる場合が多く、逆にその方にとってフィットした形で共感されれば、そのことで救われることもある、ということもここではほぼ常識になってきているのではないでしょうか。

 つまり、ひどい人がそういう決めつけをするように、感情がないのではなく、気持ちの動き方や表現の仕方にずれがあるから、感情を共有されず、理解されず、拒否され、感情に頼らない他者理解を探さざるを得なかったという条件が、アスペ的な生き方を作っている部分が相当あるのではないかということです。

 三つ子の魂100まで、という言葉がありますが、人生のごくごく早い段階でほかの人とのかかわり方の基本ができてしまうのだとすれば(特に感情の面でのほかの人とのやり取りの仕方)、生まれながらに持ってきた特徴をベースに通じ合いにくい世界の中で最初の自分を作っていけば、大人になってからその生き方の特徴が容易に変わらないのも当然です。わけのわからない世界は、表面的なパターンで理解して対応するしか方法がない。

 で、このことをひっくり返して考えてみると、定型も同じなわけです。理解できないものやことについては、ピンと来なくても形だけまねるところからしか入れません。私は数学がとにかく苦手でしたけれど、あの公式というのも、大体は形だけまねて問題を解くだけで、意味は全然分かっていませんでした。だから応用も聞かない。変なところに使ってしまったりもする。公式を作ったり、使いこなしたりしている人たちの「気持ち」がわからないわけですね。だから「共感能力」がないと言われてもしかたない状態になる。

 アスペの方について、脳の働きで理解しようとするのも、同じようなことです。気持ちの動きがわからないから、物の動き方のパターンで理解しようとする。気持ちの動きと脳の働きが密接に関係しているのは間違いないですから、それはそれで大雑把には「理解」できる部分もある。

 そこまで問題を広げて考えてみると、定型もアスペも同じだよね、と言える部分も見えてくる気がします。つまり「相手がなんでそういうふうにするのかがピンとこない=共感的に理解できない」という状態になると、「上っ面」の「パターン」でおおざっぱに理解して対処するしか方法がなくなる、ということです。その感情を交えないやりかたが時に「客観的」と言われたりもしますが。


 人は理解できないものに出会うと、パターンで理解しようとする。そこは定型もアスペも関係なくみんなそうです。だから定型アスペ問題は、お互いのパターン理解の追求しかないのだ、という考え方も出てくるでしょうし、そのやり方が一定程度効果を持つこともたぶん間違いありません。でもそれだけでは納得できず、その次を探したくなる気持ちが私のこのブログでしつこく続けてきた作業を生み出しています。その気持ちがなければ、ここでのしつこい展開は決して生まれえませんでした。その結果新しく面白いことがわかってくることもあるし、ずれが逆に拡大して炎上することもある。世の中いいことばかりではありませんね。

 でもやけどを恐れていては火を使えるようにはなりません。けがをすることを恐れていてはナイフは使えるようになりません。新しいものを探したいという欲望に突き動かされる人間のサガのようなものでしょう。ある意味では私はそういう自分のこだわりについては極めて「粘着質」といえるかもしれません(笑)。また自分にこだわるという点ではアスペの方に通じる部分があるのかもしれない。そういう点では基本的にあきらめの悪い人間です ('◇')ゞ

 まあ、でも誰かが失敗すれば、後の人はその失敗から学んで次を生み出しやすくなる。誰も失敗しなければ成功も生まれません。いろんなひとがちょっとずつ失敗しながら新しいものをちょっとずつ見つけ出していけば、それが集まれば大きな前進になります。そう思えるので、絶望感みたいなものはないですね。もともと希望というのは「希(まれ)」な「望み」なわけですから、簡単に手に入ったら希望じゃなくなる? (笑)
 

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