2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月

2016年11月26日 (土)

言い訳をしないこと

 最近記事を書くスピードがとても遅くなりました。仕事が忙しいということもあるのですが、どうもそれだけではなく、自分の中で何か変化が起こりつつあるのだという気がします。

 ひとつには自分の中で何かが一段落したので、今までのような形で「書きたい」という欲望がちょっと落ち着いてきたことがありそうです。

 また、掲示板などでみなさんが盛んに議論を続けられていて、それは私が「こういう場ができるといいな」と考えていたことの一つなので、それが出来上がるまでの私の役割もまた一段落したような気がする、ということもありそうです。

 基本的に私は自分が書きたいと思ったときに書くので、次に自分の中でなにか自分を突き動かすような思いが生まれてくるまでは、こんな感じが続くのかなという気がします。それがいつどんな形でなのかはわかりませんが、でもたぶん「次」がいつかは訪れるだろうなという漠然とした感覚はありますね。

 それまでは無理に何かを絞り出すようなことはする気持ちにはなりません。今はちょっと違う角度で、広い意味でこの問題を考える時期だという気がしています。

 ところで、私は韓ドラとか結構面白くてよく見ているのですが、不思議な人間関係や不思議な生き方がたくさん出てきます。そこがまた面白いのですが、ときどきすごく気になることがあります。それは「言い訳をしない」という場面がときどき見られることなんですね。

 誤解だということを相手にいうべきだ、言わなきゃ相手はわかってくれないだろう。なんで言わないんだ。と感じるところで口をつぐんでしまう。見ていていらいらするんですね、なんでわざわざ黙っていることで変な方向に行くようにしているのか!と(笑)

 

 でも、ようやく最近ちょっとわかってきた感じがあります。もちごん誤解かもしれませんけれど。それはこんなことです。

 一生懸命相手に訴えて、相手に伝われば、当然言うでしょう。でも伝わらない経験を徹底して繰り返す体験が重なればどうでしょうか?伝えようとすることに無力感がまず生まれてもおかしくありません。誤解だということが自分ではわかっていても、何を言ってもその誤解が解ける見通したがたたない状況に置かれたとき、人は誤解を解きたいという気持ちさえ失っていってしまう。「もう勝手にすれば」という気持ちが生まれることになります。

 どう説明したところで、相手は自分の見方でしかものを考えられない。私も自分の見方でしか説明できない。そこを超えられる手掛かりがあれば努力もするが、それがことごとく否定された場合には残るのは無力感です。だからある意味で自分の世界に閉じこもろうとする。そうやってぎりぎり自分の世界を守ろうとするのでしょう。

 もしかするとアスペの方はそういう状態に陥ってしまうということが起こりやすいのではないか、そんなことを考えます。そう考えると、パートナーについてなんとなくわかる気がする部分も増えてくるんですね。

 

 私の場合は、たぶん定型的な感覚を使ってだと思いますが、他の人と思いを共有しあう世界がそれなりに広がっています。もちろん誰とでもそれが可能だということはありませんが、それでもある程度は可能だし、基本は「可能だ」という感覚がある。少なくともアスペの方よりはその感覚が強そうだとは感じる。

 もちろんそれでも絶望的に思いが共有できない場合があり、それはとてもつらいことになることもあります。その思いを拡大して、それこそが自分のベースとなる世界だと想像してみると、そこで自分が感じてしまう徹底した無力感がある程度実感できる感じがするんですね。

 で、その感覚で考えると、韓ドラの上に書いたようなシーンのいくつかは「ああ、そういうことなんだ」と納得できる感覚が生まれます。すべてではないのですが。

 徹底して無力感の中を生きざるを得ない状況の中で、どんな生き方が生まれてくるのか。これは定型アスペのどちらにも同じように問題になることだと思いますが、比較すればアスペの方のほうがそうなりやすい環境があることも間違いないでしょう。

 そのあたりの問題も考えていかなければならないなと思いますし、その意味でも、私自身がある種の自分自身の無力感をしっかりとみつめ、大事にしていくことが必要な気がしています。

 またひとつ、「共有できる」ことへの幻想が取れてきた気がします。わからない人にはわからない。別に理解されなくても自分が悪いわけでもない。この感覚、何人かの方が繰り返し書かれていたことでもありますね。ようやく少しその世界が実感でき始めたかもしれません。

 もちろん、理解しあうことについて変に悲観的になっているのとは全然違いますけど。

2016年11月 9日 (水)

「わかる」順序

 記事「ミートソースの愛」にいただいた亜紀子さんからのコメントに、記事を読んで「あぁ!なるほど!と思」われたことが書かれていました。定型の感じ方について、「この記事を読むまで、何を言ってるの?とばかり思って」いらっしゃったということです。

 似たような体験を私もここで逆の立場で繰り返しました。パートナーがいつも言うことを、「何を言ってるの?」と思っていたのが、ここでアスペの方から似たようなことを書かれるのをよんで、なんとなく「なるほど、ほんとにそうなんだ」と思うようになる、という話です。

 そういうことがあると、だいたい彼女からは「私の言うことを信用していない」と怒られるのですが、たぶんそういうことではなくて、ほんとに「わかんない」んです。ところが同じことを言う人が二人、三人と出てくると、自分にとってぴんとこなかった話が「ほんとにそういうことがあるんだ!」と感じられてくる。

 ある意味面白いことだなという気がします。自分にはピンとこないことでも、二人目、三人目の話から何か「ほんとなんだ」と思い出すスイッチが入るんですね(笑)。

 ただ、私の場合はとりあえず「ほんとにそういうことってあるんだなあ」と思えるようになっても、「なんでそう思うんだろう?」ということについてはピンとこない時期が続くようです。それからいろいろ考えているうちに、頭で「こういうことなのかもしれないなあ」という理解ができることがある。でもやっぱり頭で無理やり考えた感じにとどまって、感覚的にはピンと来ないままです。

 それがそのうちになんとなく「腑に落ちる」感じになってくる。「いや、そりゃそう感じるのも無理はないな」とか、「自分でもそういう状態になればそう感じるだろうな」というような感覚が生まれ始める。こういう状態になると、定型もアスペも基本は同じで、ただ条件の違い(持って生まれた感じ方の違いも含めて)でいろんなことが異なってくるんだ、という感じの理解になっていくみたいです。

 そうなってくると、「違う条件をもって生まれ、違う条件の中で育った、<同じ人間>」というような感覚が生まれてくるんですね。違いを突き詰めていくことで、違いを前提にした共通性みたいなものが感じられるようになる。そこまで来ると、だいぶ「わかった」という感じが出てきます。

 もちろんすべてについてわかるわけじゃなくて、たとえば「なんで病気の時、優しい言葉かけをしてくれないのか」みたいな、ひとつひとつのことについてそんな風になっていく印象を持ちます。ときどきいくつかの事がまとめてわかり始めることもありますけど。

 さらにその先にどういうステップがあるのかはまだよくわかりませんが、自分にとってわけのわからない人と、お互いに理解を進めていく順序みたいなものが、こういうところにあるのかもしれませんね。

2016年11月 5日 (土)

ミートソースの愛

 昨夜遅く(というか今日の未明)に大きめの仕事がひとつ一段落し、今日はそのせいで手つかずだったいろいろなことをやらなければなりません……('◇')ゞ

 ところで、これは本当のところはどうなのかよくわからないのですがさっきふと思ったことです。

 昨日子どもが帰ってきて、今日はお昼を一緒に食べるのですが、パートナーは今日も出勤で出ていきました。ふと台所を見るとパスタの袋が置いてあって、その上にメモ書きが。ミートソースを作ったからお昼はこれで、というのですね。

 朝忙しいときにわざわざ作っておいてくれたのか、と思い、それからこれこそが彼女の愛情表現なのか、となんとなく感じたのですね。

 

 もちろん、定型だって自分の好意や愛情の表現として人に何かを作ってあげるということはあります。でも、日々の家事として行うごはんづくりなどについては、いちいち愛情みたいなことをそこに感じることはなくなって、ふつうの当たり前のことになっていきます。だから、わざわざ子どものおべんとうにノリやふりかけでかわいい絵をかいて「愛情」を特別にアピールするようなこともやるし、「今日は特に頑張ってあなたのためにこれを作ったよ」というようなことをなんか表現するとかにおわせるとかする。そうするとあたりまえのことが改めて愛情表現に変わります。なんか「お飾り」をつけないといけないわけです。

 ところが彼女の場合はそういうのが一切ない。家族のために家事をするのは「あたりまえ」。いちいち感謝したりされたりは関係ない。定型だとそこで「ありがとう」とか「うれしかった」の一言がほしくて付け加えるような、相手をちょっと見るとか、ちょっと変わった渡し方をするとか、何かの表現は一切なし。だからこちらも「普通の事」としてみすごす。特にそこに愛情は感じない。

 でも、彼女にとってはその「普通の事」それ自体がある意味で愛情なのかもと思えてきたわけです。

 いやたぶん本人はそうは言わなさそう。単に「あたりまえのことをやっている」だけだと。ただしそれは「家族だからあたりまえ」なので、家族のきずながなければそれは特別のことになります。それは家族としてあたりまえのことだから、そこにわざわざなにかのアピールを付け加える必要な何も感じないし、それをするのはわざとらしく、変に感じる。そこに愛情などという大仰な言葉を付け加える必要も感じない。ただ淡々とやるだけです。

 彼女が福祉関係のしごとをするのは、当たり前の生活がむつかしくなった人に、少しでも当たり前に近い状態を送れるような援助をしたいからということでした。私の方はあるいみイベント屋みたいなもので、ふだんではない特別の出来事が大好きです。サプライズ系でしょうか。だから彼女に対してもそういうスタイルで喜んでもらおうとするのですが、ことごとく外れてきたわけです。もしかすると喜んでくれることもあったのかもしれないが、なにしろ表現がないので、うれしくなかったとしかおもえないことが繰り返される。

 

 彼女は素朴な日常のやりとりの繰り返しの中に、私なら愛情と表現したくなるようなものを保っている。そこに感情表現のやりとりはいらないわけです。ただ実際の行いがあるだけ。それに対して私の場合は表現を伴って初めて愛情が感じられる傾向が強い。それがなければなんだか機械的な、単なる義務的なふるまいに見えてしまう。だからそれにたいする感謝の気持ちも起こりにくいし、感謝を表現する気持ちにもなりにくい。

 アスペの恋人が結婚したとたんに「冷たくなった」と感じられる「釣った魚にエサはやらない」ケースがしばしば見られるのは、結婚して愛情を表現する必要がなくなったからで、あとはたんたんと結婚生活に伴って日常行うべきことをするだけのことに切り替わるわけでしょう。それ以上の「表現」のやりとりは必要を感じられなくなる。そう考えればいろいろなことがつながって考えられるようになります。

 
 

 

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ