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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年10月

2016年10月29日 (土)

「形の理解」の意義

 記事「人は生まれを選べないことについて」にいただいたKatzさんのコメント が私にはとてもヒットだったのですが、改めていうと、こういうことになります。

 人間は生まれたときに備わっているからだの特徴をベースに、生まれた後に周りの環境で自分を作り上げていきます。その中で、三つ子の魂百までという言葉にもあるように、基本的で感覚的な部分については一生引きずる。もちろんその後の経験でもだんだん変化はするけれど、それももともと持っているものをベースに変化するので、ゲームのようにリセットして最初からやり直しはあり得ない。

 定型アスペ関係の中では調整がものすごくむつかしい、そのレベルの根深い感覚のズレがたくさんあって、その感覚そのものをすり合わせることはほぼ無理、というところが多いわけです。(もちろん部分的には「共感」といえるものが生まれることも、ここで繰り返し経験済みですが)

 そうすると、そこでお互いになんとかうまくやっていくには、その感覚の部分はお互いの個性として受け入れあうしかなくなります。そしてその感覚が違う者同士がそのことを前提にどうやって関わり合い、理解しあうかを考える必要が出てくる。

 そこで意味が出てくるのが、感覚的な内容を抜きにした、形式的な部分の共有ということになります。Katzさんが取り上げた「礼儀」の部分ですね。

 
 考えてみると、実は世界中でそういう形でお互いに異質な人たちでつながる方法が作られてきています。

 アスペの方が定型社会に適応しようとされる場合、そこで要求される人間関係のやり方は感覚的に理解できないか、あるいは反発するようなものであることが多い。そういうときに使われる工夫は「パターンを覚える」というやり方です。

 秘書検定の参考書がアスペの方に役に立つという話も聞いたことがあります。いろんなシチュエーションで無難な、うまくいけば好印象を与えられるふるまい方を具体的に細かく解説しているわけですよね。そこにあるのも別に「なぜそうやるか」の理屈ではなくて、まずは「形」です。

 アスペの方が活躍しやすい職場として、病院、IT(特にプログラミング)、職人、法律関係、研究機関などがあげられることがありますが、どれも感情ではなく理屈で世の中を理解したり、型を重視して行動したりすることが重要な場所だったりします。

 自然科学は理屈の世界ですし、自然科学は実はアスペの方の活躍でここまで発達したのではないかという話も聞きますが、これも同じことですね。

 
 普通、そのあたりは「もともとアスペの方はそういう才能があるから」という風に言われますけれど、私は実は「小さいころからそういうものの見方を鍛えられ続ける」という、環境的な要素がすごく強いのではないかと想像しています。

 ご自身にとってはごく自然な感情の動き方が定型社会では共有されないので、そこで起こっていることが感覚的には理解できにくい。それを感情抜きでパターンや理屈で理解すると見えてくるものがたくさんあり、対応可能になる部分が増えていく。だからその部分での技術や知恵を小さいころから必死で育てられるということです。

 
 だからこそ、私が最初よくわからなかった「アスペの人は感情理解ができず、共感能力がない」という、世間でよく言われる話と、実際のアスペの方が「感情が豊かで、人から理解されることをとても求めている」という姿とのギャップは、実は見方がおかしいだけのことで、ほんとうはなんの矛盾もないことになります。

 自分が持つ豊かな感情的な部分で人とのかかわりがむつかしいから、感情に頼らない部分での付き合い方や生き方を模索し続けるというだけのことなわけです。 


 そしてそのような「感情的には理解できないものに対処しなければならない」という事態に置かれた時の対処の方法については、実は定型でも同じことをやります。

 たとえばこの場で私が考えてきたことのいくつかも、感情抜きで理屈で考えている部分があります。たとえば「入れ子」の話や「部分と全体」の話などもその例です。感情抜きの論理の部分で問題を理解しようとしています。ですから、そこで使う論理を共有できない方との間では定型アスペにかかわらず共通理解は成り立たないし、共有できる方には定型アスペにかかわらず伝わるものがある、という結果になりますが、いずれにせよ定型アスペの壁に左右されない理解の仕方の模索ではあります。

 言葉や文化の違いを超えて通用するものとしてよく取り上げられるものに、音楽と数学があります。音楽についてはもう少しいろいろ考えるべきことがありそうですが、数学についてはもうストレートに(共感)感情抜きの理解の仕方の世界です。論理学もそうです。


 さらにさかのぼって考えてみると、そもそも言葉というものもそういう風に成り立っているところがあります。たとえば「きのう、あの人おいしいおさかな食べたんだって!」という言葉、これでお互いに基本的なことは通じます。もちろん日本語を知っている人との間では、ですけれど。

 でも、実際にはおさかなへの思いは人によって全然異なる。大好きな人も大嫌いな人もいる。またその時に思い浮かべるおさかなの種類もみんな違うし、同じ種類でも色形大きさなども同じであることはない。

 つまり、具体的な内容の違いを無視したところで、「形」の部分で共有し、そのことで結果として内容の部分も含めて通じ合う関係が生まれるということになります。

 もちろん内容の部分が通じ合うといっても、実際はズレが大きくて、あとからそのズレに気づいて戸惑うこともいくらでもあるわけです。定型アスペ間で同じ言葉を使いながら、その意味が全然違ってトラブルが起こるのも同じ原因です。

 そう考えてみると言葉そのものが、違う感覚、違う見方を持った者同士をつなぐ工夫として作られているわけですね。


 通じ合うために内容を無視して形を共有する、ということを人間は普通にやっているわけです。政治の世界では時々「玉虫色の解決」というようなことを言ったりしていますが、それもそういう人間の工夫に潜んでいるものを露骨に表現したものでしょう。

 
 定型アスペ関係で、感情的な共有を最優先にして考えようとすると多くの場合失敗しますし、お互いに傷つく結果になります。そこでお互いにある程度受け入れられる範囲で、「形の共有」への道を模索することが大事になるのでしょうね。そのことがベースになってある部分、感情的にも共有できるものができてくるかもしれません。
 

2016年10月26日 (水)

人は生まれを選べないことについて

 

あすなろさんの掲示板の記事などを拝見しながら、「人は生まれを選べない」ということを改めてしみじみと感じつつあります。

 自分の親を選べるわけではないし、子どもを選べるわけでもないし、生まれる時代や場所を選べるわけではないし、自分の体を選べるわけでもない。

 自分が選択できないことについて責任を持つ必要はないし、持たせることもできない、というのは今の世の中では一応の基本的な考え方になっているでしょうけれど、でも実際はそうではないものが多いですよね。

 努力が足りないということはよく言われることですし、実際頑張ってできることであれば頑張ったらいいと思いますが、そもそも頑張るための土台がない場合、それは無理難題になります。「為せば成る、為さねばならぬ…」みたいな言葉がありますけど、そんなのある範囲に限定された話で、それこそ「あんた、空飛べるんだね?」という話です。

 体の構造上どうやったって頑張れないこともあるし、記憶力だの感覚の特徴だの、いわゆる「頭の良さ」だの、これも生まれ持ってきたもので、頑張れる範囲は自分で決められるものではありません。さらに「頑張る気持ちを持てる」ということだって、個人の努力でそうなれる部分はすごく限られていて、その人の状況の厳しさによってとてもじゃないがそんな気持なんか持てないよ、という状態に置かれている場合もある。

 頑張れる、というのもある意味では一つの「幸運」がなせる業と言える部分が大きいのだろうと思います。

 もちろん頑張らなくていいという話ではなく、頑張りにはその人なりの、その人にとっての頑張り方があるので、それを無視して外側から基準を押し付けて「頑張っているかどうか」を判断することには意味がなく、逆に差別にしかならないということです。

 人間って、自分を基準にしか考えられませんし、「相手に基準を求める」生き方をしていたとしても、そういうかたちで「人に基準を求める」という「基準」はその人独自のものです。だから自分が努力してできることを人はどうしても「みんなの基準」としがちです。「そういうのはよくない」と意識して修正することはある程度可能ですが、ふつうは自分の基準を人に無意識に押し付けてみんな生きています。そしてその基準に相手が達しないといって怒りを持ったりする。

 でも、そうやって自分の基準で人を責める人も(基本、誰もそうですが)、自分ができないことについて、それができる人から責められると、「それは無理難題だ」と思ったりする。「不当な要求」と感じたりする。ちょっと冷めた目で見れば、実に身勝手な理屈なわけですが、まあ多かれ少なかれみんなそうですよね。

 じゃあそういう「基準」への期待とか、要求はないほうがいいということかといえば、これもまたそれはあり得ません。人が生きるときにはなんらかの基準が必要で、前回書いた「善」の話もそういう基準の一つになります。基準を手掛かりに人は自分の位置を確かめるし、自分が進むべき方向を決める。また基準を共有することで人とうまく付き合っていけることになります。基準がなくなれば誰も生きていけません。

 そうすると改めて問題なのは、基準を持つことではないし、相手に基準を求めることでもなく、「唯一絶対の基準はない。そのひとの置かれた状況や、その人のありかたによって基準は変わる」という見方をどこまで保てるか、ということなだろうと思うわけです。(というのもひとつの基準で、同じ議論の中に入れ子的に入り込んでしまいますが (笑) )

 人がどんな基準をもって生きているかとか、どういう基準がその人にとって現実的だったり必要だったりするか、ということはあらかじめはわかりません。ただ、頑張っても頑張っても無理なら、それはその人にとっての基準ではないだろう、という風にあとから試行錯誤して見えてくるだけです。ですから、現実にできることは、その試行錯誤の姿勢を失わないこと、あるいは育てることなのかもしれません。

 パートナーを見ていると、私の基準からすると理不尽とか不合理に見えることがたくさんあります。でもその逆もそうなんですよね。彼女から見れば、私は理屈に合わない実に困ったやつに見えているはずです ('◇')ゞ

 自分に合わない基準を押し付けられて、それができないことに「責任」を押し付けられるというのはやはり理不尽でしょう。無限に努力できる人はどこにもいない。人間が選べる範囲なんて、実際にはものすごく限られています。「なんでもできる」という根拠のない万能感は思い込みにすぎません。人に対しても自分に対しても。

 そうすると、責任の範囲はその人その人によって異なるし、また他者に対する責任ということでいうと、大事なのは「お互いに責任を持てる範囲を調整していく」ということへの責任なのでしょう。

 そうやってお互いに自分が責任を持てる範囲を探っていくことが必要だし、逆に言えば責任を持てないことについては携わることは控えるべきだということになります。ただ「責任を持てないこと」というのは固定して決まったものではなく、ちょっとしたお互いの工夫でできるようになることもある。そういう工夫も含めての話です。工夫もせずに否定するのはたんなる差別的扱いでしょう。


 なんとなくそういうことのような気がしています。ただ、どうしても人は自分の基準で判断しがちですし、そして特に「自分が頑張って達成している基準」を相手が満たさない場合は相手を責める形になりやすい。これも人間が基本的に自己中心的だからですけれど、その時に「自分が頑張っている基準を満たさずにいられる相手」に対して「不当」なものを感じ、そういう状態に対して「不公平感」を感じる、という気持ちのしくみが人間にはあるようです。「公平」ということ自体は大事なことだと思いますが、この場合はその「公平」が逆に人を苦しめる結果になります。

 そのあたりもだんだんと整理して考えていかなければならないのだろうなと思います。

2016年10月23日 (日)

「偽善」の偽善

 ときどき思うことですが、自分がなんらかのことで傷つけられたとき、「こんな思いはほかの人にはしてほしくない」と考える傾向の人と、「自分と同じように人も扱われて当然」と考える傾向の人(さらには他人に自分がやられたことと同じことをする人)がいるようです。

 もちろん同じ人でもその両方があるかもしれません。

 私の好みは「ほかの人には」というほうですが、そういうのは偽善にしか感じられないひともあるのだろうなと、そうも思います。

 ところで善というのは、もともと「努力して目指すもの」という側面がありますから、まだ実際に実現しているわけではなかったり、あるいは頑張って維持しようとしているものであったり、その意味ではあらゆる善は偽善だ、といういい方もできなくはありません。

 ただし、善を偽善だと言い立てる人の場合、「偽善は善ではない」と言いたいわけでしょうから、そういうことを言う自分は、「嘘をあばく正義」のように自分をみなし、その点に限って言えば自分を「善」だと思っていることになります。

 つまり、善を偽善と言いたい人も、その言いたい気持ち自体の中に、実は善への思いを隠していることになります。ただ善への思いを裏切られた経験が、逆に善の虚を告発する形で現れているのでしょう。そういう人はさらにそこが進むとしばしば「偽悪」にもなります。

 

 そう私が考えるのは、もちろん私にもそういう形での偽善への告発の意識が結構強かったからなんですね。その経験から想像すると、まあそんなことなんだろうなという気がします。

 もともと何が善かということについては、人によって、おかれた状況によってものすごく違うことが起こりうるので、自分の基準からいえば、相手の善が悪に見えることはいくらでもあります。そしてその時は相手を「善意の顔をして悪を行っている」と見ることになる。

 もちろん、本人はほんとに意図的に悪を行う場合もあるんでしょうから、そういう場合は「正しく見抜いた」ことになるのかもしれませんけれど、実際はたんに善の中身がずれているだけのことも多い。定型アスペ間でそういうことが起こりやすいことは繰り返し書いてきたことですし、そういうことはもちろん定型アスペ間に限らず、あらゆるところで普通に起こっていることだと思います。

 
 あるアメリカのコメディタッチの映画で実に感心したセリフがありました。悪魔の言葉なのですが、「悪は正しい」ということの証明です。(なんか前にも書いたことがあるような気がしますが ('◇')ゞ )

  「神は正しい。神が正しいのは悪魔がいるからだ。悪魔がいるから神は正しい。神は悪魔を必要としている。したがって(神が必要とする)悪魔は正しい」

 まじめに考えると、これは相当に深い真理を言い当てているように思えます。善は悪との対比でしか自分の正しさを証明できない。もちろんその逆もそうで、悪は善との対比でしか自分の悪を証明できない。その意味でお互いに共犯関係ともいえます。


 何が言いたいのかというと、お互いの感じ方や必要などが違い、それぞれの善意が相手には悪意に見えることもある、というずれた関係の中で、お互いに調整しあって生きるには、自分の善を絶対と考えることができなくなる、というむつかしい問題があるわけですよね。

 ところが他方では自分の善を捨ててしまうと、生きる指針が失われてしまう、ということも起こるわけです。なにしろ善は「目指すもの」なわけですから、それがなくなるということは、目標が失われることにもなる。

 相手の善を偽善として攻撃する場合は、実際にはこの「目標が失われる」ということに耐えられないために、相手の善を悪として攻撃することに自分の善(目標)を見出すということをやっているわけですから、これもまたたんに相手の善を裏返しただけのことだともいえます。どちらも自分の善から逃れられないわけです。

 だから、相手の善を偽善として攻撃する種類の話では、この定型アスペ問題のズレは原理的に解決ができない。かりに定型的な善の世界の「偽善」が暴かれて、アスペ的な善の世界が実現することがあったとしたら、今度はそのアスペ的な世界が「偽善」として攻撃の対象になるだけの事です。たんなる裏返し。


 その種類を超えた議論がどう作れるのか。そのあたりがとても気になります。

2016年10月11日 (火)

ごはんのおかずを頼まれる話

 人は自分が傷ついたところから世界を見る。傷が多い人ほどそうなるわけですね。そしてその傷が理解されないことにまた傷つき,あるいは抑えきれない憤りを持つ。

 少なくとも私はやっぱりそうだなと,自分のことを振り返って思います。

 ややこしいのは,やり取りする二人がどういうところで傷つくかがずれた場合です。自分の傷を守ろうとして相手を傷つけ,でもそれには気づかないということがお互いに起こる。
 定型アスペ間はどこで傷つくかでずれが起こりやすく,そういう不幸な事態が起こりやすい関係ではありますし,アスペの方は少数派の運命として傷を傷として認めてもらいにくい環境にいますから,定型よりも問題が深刻化する場合が多い。

 ただ,基本の仕組みは同じだという気がします。


 
 最近,パートナーが私にちょっとしたことを頼んでくれることが増えてきました。しかも私の好みなどを込みにして。たとえば彼女の帰りが遅くなるとき,これまで私が代わりにご飯を作ろうかと言っても,自分が作ると言って譲らなかったのですけれど,先日は自分のほうから仕事に出ていた私におかずを買ってきてくれるようにと頼んできました。それも私の好きなおかずです。今の私はそんな些細なことに喜びを感じるのですね。

 シビアな関係を経て,気持ちを出し合うこと自体がものすごくむつかしくなっていったのだと思います。出すとまた傷つけあう結果で終わっていましたし,その時は自分の傷は感じても,相手の傷はお互いに全然理解しませんでした。それが少しずつ少しずつ,ほんとにかすかに「溶け」はじめているような気がします。たぶん,彼女のほうも私の中で起こっている変化を,どこかで感じ取っているのでしょう。



 

2016年10月 7日 (金)

部分の否定と全部の否定

 「スパゲッティを作って食べたら,ソースはすごくおいしくできたのに,麺のゆで方を失敗しちゃった」

 誰かがそんなことを言ったとします。ではその人は結局このスパゲッティを肯定したんでしょうか,否定したんでしょうか。

 私ならこう理解します。肯定する部分と否定する部分と両方ある。

 多分多くの方はこの私の理解の仕方はそれほどおかしいとは思わないと思います。もしかするとごく一部,おかしいと思う方もあるかもしれません。

 では次にその人が,まずこういったとします。

 「スパゲッティを作って食べたら,ソースはすごくおいしくできた。」

 で,ソースについての話がしばらく進んだ後,今度はこう言ったとします。

 「でもね,麺のゆで方は失敗しちゃった」

 さて,この人はスパゲッティを肯定したんでしょうか,否定したんでしょうか。

 私なら,肯定する部分と否定する部分と,両方あると理解しますし,たぶん多くの方は同じだろうと思います。上と変わりません。

 このくらい単純な話にすると,そこまで理解がずれる人はあまり多くないと思うのですが(とはいえ,ずれる方がいる可能性はあると思います),もう少し話が複雑になり,そこに人の評価がかかってきたり,その人と自分を一体のように考えているという条件があったり,またその評価のポイントがもっと複雑なものだったりしたばあいに劇的な変化が起こる可能性があるようです。

 一部の方にはここで書こうとしているたとえ話からの議論それ自体が,なんのことか全く理解できない可能性をあらかじめ前提にして書いています。理解できない理由を書くわけですから,いくら理解できない理由を書いても,その方が理解できるようにはなりません。理解できるにはどうしたらいいかという話とは全然質が違うからです。もちろん,「こうだから理解できない」から,「じゃあどうしたらいいのか」というその次の模索にはつながるとしても,その説明自体で分からない人が分かるようになるはずはありません。

 というわけで,申し訳ないですが,ここはわかる人にしかわからないという前提で書きます。

 ある人について,問題点を感じ,その問題点を回避するにはどうすればいいかを話し合いたいと感じたとします。その時,私はできる限りはこういう配慮をしようとします。つまり,相手を全否定しないようにするということです。ですから「あなたはこういうところはいいんだけれど,ここがよくないと思う」というようなバランスをとって話をしようとすることがわりと多い(できないこともありますが)。

 単純に部分と全体の理屈でいえば,そこで私が否定的に見ているのは部分であり,全体ではないことは明らかです。あるいは部分的に否定的に見えることを,全体としてバランスをとって見ようとしていることは明らかです。そのことをこれまで私はあまりにも当たり前のことと考え,そのことが人に伝わらない,という事態を想定していませんでした。

 しかし,もしかすると常に完全に同時にそのプラスとマイナスを言えば少し状況は変わるのかもしれませんが,上のスパゲッティの二番目の例のように,少し時を隔てて(あるいは同じ文章の中でも少し離れたところで)プラスとマイナスを別々に書くと,そこで劇的なことが起こるのだということに気が付きました。

 話の流れから,全体として見れば,単純な肯定でも単純な否定でもないのに,一部の読み手の人にとっては,今自分が読んでいるところで否定されていれば,それが全否定として感じられてしまい,修正が効かない場合があるということです。

 理屈としては単純に部分と全体の取り違えの話にすぎないのですが,それをいくら指摘してもまったく変化がありません。完全にその全体と部分を混同した判断で固まってしまうことが起こる。

 これは自分が(部分的に)批判された場合に限りません。自分と完全に混同してしまっている人が(部分的に)批判されている場合にも,まったく同じことが起こります。

 そういうことが,ほとんど物理法則のように安定して一部の方には起こるのだということが分かってきました。ものすごく長い時間をかければ変化がおこるのかもしれませんが,それも容易なことではない。


 ここからは想像ですが, たぶん最初に書いたスパゲッティの話ぐらいに単純化して,しかもあまり人としての評価(利害)に関わらないような話なら,そういう方の多くも部分と全体を区別できる可能性はあると思います。しかし,いったん話が自分自身の評価に絡んできてしまうと,(あるいは自分と一体として感じてしまっている人の評価に絡んでしまうと)まったくそれができなくなる,ということが劇的に起こる。


 そう考えると,私にとってはかなりわかりやすくなりますが,仮にそうだとすると,部分と全体の区別のもとに行う議論は,そういう方たちとの間ではほぼまったく意味がないことになります。完全にずれた話がつづくだけで,そのずれに気づかなければ,お互いに訳が分からずに混乱したやりとりが続くだけになります。

 むつかしいのは,そいう方たちは,周囲との間でその区別ができないことで大変に苦労されるわけです。もしそうなら,対策の一つはそのずれを理解して関係調整をし直すことなのですが,ところがそのずれを理解するには部分と全体の区別ができるようにならなければならない。でもそれができるのならもともと苦労しないわけです。

 これまでの私がまったく事態を理解しそこなっていたのは,そういうずれ方の問題です。そいういう種類のずれ方がある場合には,私が全体と部分との区別を前提に理解しているズレを説明することに意味がない,という,分かってみればものすごく単純で当たり前のことなのですけれど,それが私は理解できていなかった。

 部分と全体を区別して話をするというのも,ひとつの「技術」なのだと思いますが,その技術を身に着けていない人に,その技術を使った理解を求めても意味がない。イタリア語ができない人に,イタリア語でイタリア語を説明しようとしているようなものです。 

 
 仮にそういうことだとすると,そういうずれ方をする場合にはどういう関係調整の仕方が現実的に可能なのか,ということが次の問題として浮かび上がってくることになります。

2016年10月 1日 (土)

それぞれの世界の裏

 昨日の「それぞれの世界」の裏バージョンです。

 どんな人でもプラスに思える面とマイナスに思える面の両方を必ず持っています。それがない人はありえません。

 ただし,それが自分自身にどう見えているかはいろいろでしょう。自分のプラス面にあまり気づいていない人もいるし,逆にマイナス面に気づいていない人もいる。

 おなじことで,人から見てどうなのかもいろいろです。自分のプラス面を見てくれている人も,マイナス面を見ている人もいる。

 いつもながらお下品なたとえで恐縮ですが,美しく盛り付けられた素晴らしい香りの料理も,食べて消化されて,美しくないうれしくない香りの異物になって出ていきます。でも人にとってうれしくない異物も,フンコロガシには大事な食糧です。またそれが昔なら肥料にもなったりして,おいしい食材として戻ってきたりする。

 ひとつのまったくおなじことも,それがプラスなのかマイナスなのかは人によって見方が全然違います。今マイナスと思えることも長い目で見ればプラスに感じられることもあるし,その逆もあります。プラスはマイナス,マイナスはプラス。長所は短所,短所は長所。盗人にも三分の理。

 つまり,今自分がプラスやマイナスに感じていることは,自分の目で今の時点で見えている範囲のことで考えている以上ではありません。ほかの人は別の範囲を見ていたり,別の角度から見ていたりするのは普通のことですから,プラスかマイナスかの話が対立しやすいのはまあ運命とも言えます。

 じゃあプラスとマイナスと言うのは結局「見方」にすぎず,そんなものはないというのかというと,そういうことでもない。まず一つには,物事をプラスかマイナスかで判断するという枠組みは誰もが持っていて,そこから逃れることはたぶん無理です。その中身はずれるとしても,そういう判断をしながら生きているところでは同じ。

 ということは,生きる上ではどうしてもプラスとマイナスの判断をさけられないし,すてられないということになります。つまり「生きていくための判断」という点は基本的に動かないということになります(ただし人間は「精神的に生きるために肉体的に死ぬ」みたいなややこしいこともするので,この点は少し複雑ですが)。

 そして,この生きるということが,人間の場合はどうしても他の人とのかかわり抜きには成り立たないので,自分が生きていくためには「まわりとうまくかかわる」ということは基本的にプラスとして判断されることになります。もちろん自分を守るために「人を避ける」ということも「うまくかかわる」ことのバリエーションの一つです。

 多分そのあたりまではほぼすべての人に共通することで,ここから先はその人が生きている状況でさまざまになってきます。ただしプラスマイナスの判断をすること自体は誰も避けられないし,とても重要な問題になる。

 で,最初の話に戻ると,お互いに何をプラスと考えるかもずれるし,相手(や自分)のどの面を見ているかもずれる。一応そのことを前提に考えます。


 誰もがプラスの面とマイナスの面を持っているわけですが,人間は基本的には自分をマイナスのイメージだけでとらえたくないから(それは大変につらいことで,完全にはそうはなれず,必死でプラスを探します),プラスの面をできるだけ自分のメインと考えようとします。でも多かれ少なかれマイナスの面も意識しないことはできないわけです。

 そこで「このくらいのマイナスは仕方のないことだ」という形で自分を納得させようとします。そして自分の中のプラスとマイナスのバランスをとって,差し引きでプラスだと考えようとする。(まあ,意識してそこまで計算する人はほぼないと思いますが,理屈を考えるとそういうことになりそうに思います)

 ここでまた深刻なずれが発生することになります。「偽善」の仕組みです。

 Aさんが「これこそが大事」と思っていることについて,Bさんがそれほど重視していないとします。逆にAさんが「いいこととは言えないが,こっちは仕方がない」と思っていることについて,Bさんが「そここそが大事だ」と思っているとします。その二人がぶつかるとどうなるか。

 Aさんは「これこそが大事」と思っていることをやっているので,基本的に「善意」のつもりです。マイナスの面については「まあ仕方ない,勘弁してよ」と言う感じになる。ただプラスかマイナスかと言われればマイナスだとは思っているわけです。

 で,Aを見たBさんはAさんの「これこそが大事」はどっちかというとどうでもよくて,その人のマイナス面がどうしても許しがたく感じられる。「勘弁」できないポイントなわけです。で,Aさんに確認すれば,Aさんもマイナスだとは思っているので,そこがマイナスだということは否定されない。

 そういうことが起こると,Bさんにとっては「Aは本当はマイナスのくせに,プラスの顔をして平気でいる」と見えるわけです。だから「偽善」に見える。で,「偽善」だと言われると今度はAさんは,マイナス面であることは否定しきれないから,半分うなづかざるを得ないけど,「でもそうなないでしょう。もっと大事なことがあるでしょう」と言いたくなるし,「偽善」とまで言われることは到底納得できないことになります。

 おなじことがAさんからBさんを見た時にも起こりうるわけです。そうなるとお互いに相手を「偽善」だと言い募って消耗戦に入っていきます。それはお互いに自分の「善(プラス面)」を守るという大事な戦いにもなって,調整がむつかしくなる。もちろんAさんがそのBさんにとってのマイナス面を自分では意識していないときはもっと深刻にもなりえます。

 
 たぶん,こういうことは人が生きているところではどこでも普通に起こっていて,定型アスペ問題がこじれていく仕組みのひとつもそういうものだろうと思います。そうやってお互いに不信感を高めあっていくわけですね。それは定型の側もアスペの側も同じような気がします。


 ちょっと七メンドクサイ話になっているかもしれませんが,その意図はこういうことです。定型アスペ問題を「どっちがすぐれている」みたいな話で考えるのではなくて,お互いの生きている現実の違い,ずれからくる対立として考える。そのことはずっとやり続けてきました。そのために何がどうずれるのか,何がどう違うのかと言うことに注目をしてきた。

 そしてもちろん完全に等と言うことはありえませんが,いくつか大事と思える点について違いが見えてきた。そのうえで,どっちかがどっちかに合わせる,という形でないのだとすれば,じゃあどう調整したらいいのか,ということが問題になります。 

 これは当然定型とアスペの共同作業にならざるを得ませんから,そうすると共同作業をするためには「何を目指すのか」がある程度共有されている必要があります。そして共同作業が可能になるための共通の足場や共同のやり方が必要になる。

 そのためには定型アスペの違いの部分だけではなく,「ここは一緒だよね」の部分を見つけることが必要になるわけです。もしお互いに共通の仕組みがあるのだとすれば,それを利用して関係を調整する道が見える可能性があるからです。


 今回は相手の善意を偽善として攻撃するような理解の仕組みについて,定型アスペで基本は同じで,ただそれぞれが重視するポイントのずれからその仕組みが働きだして,悲惨な対立関係が生まれていく,ということを考えてみたことになります。

 

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