「形の理解」の意義
そうすると、そこでお互いになんとかうまくやっていくには、その感覚の部分はお互いの個性として受け入れあうしかなくなります。そしてその感覚が違う者同士がそのことを前提にどうやって関わり合い、理解しあうかを考える必要が出てくる。
そこで意味が出てくるのが、感覚的な内容を抜きにした、形式的な部分の共有ということになります。Katzさんが取り上げた「礼儀」の部分ですね。
考えてみると、実は世界中でそういう形でお互いに異質な人たちでつながる方法が作られてきています。
アスペの方が定型社会に適応しようとされる場合、そこで要求される人間関係のやり方は感覚的に理解できないか、あるいは反発するようなものであることが多い。そういうときに使われる工夫は「パターンを覚える」というやり方です。
秘書検定の参考書がアスペの方に役に立つという話も聞いたことがあります。いろんなシチュエーションで無難な、うまくいけば好印象を与えられるふるまい方を具体的に細かく解説しているわけですよね。そこにあるのも別に「なぜそうやるか」の理屈ではなくて、まずは「形」です。
自然科学は理屈の世界ですし、自然科学は実はアスペの方の活躍でここまで発達したのではないかという話も聞きますが、これも同じことですね。
普通、そのあたりは「もともとアスペの方はそういう才能があるから」という風に言われますけれど、私は実は「小さいころからそういうものの見方を鍛えられ続ける」という、環境的な要素がすごく強いのではないかと想像しています。
ご自身にとってはごく自然な感情の動き方が定型社会では共有されないので、そこで起こっていることが感覚的には理解できにくい。それを感情抜きでパターンや理屈で理解すると見えてくるものがたくさんあり、対応可能になる部分が増えていく。だからその部分での技術や知恵を小さいころから必死で育てられるということです。
だからこそ、私が最初よくわからなかった「アスペの人は感情理解ができず、共感能力がない」という、世間でよく言われる話と、実際のアスペの方が「感情が豊かで、人から理解されることをとても求めている」という姿とのギャップは、実は見方がおかしいだけのことで、ほんとうはなんの矛盾もないことになります。
自分が持つ豊かな感情的な部分で人とのかかわりがむつかしいから、感情に頼らない部分での付き合い方や生き方を模索し続けるというだけのことなわけです。
そしてそのような「感情的には理解できないものに対処しなければならない」という事態に置かれた時の対処の方法については、実は定型でも同じことをやります。
たとえばこの場で私が考えてきたことのいくつかも、感情抜きで理屈で考えている部分があります。たとえば「入れ子」の話や「部分と全体」の話などもその例です。感情抜きの論理の部分で問題を理解しようとしています。ですから、そこで使う論理を共有できない方との間では定型アスペにかかわらず共通理解は成り立たないし、共有できる方には定型アスペにかかわらず伝わるものがある、という結果になりますが、いずれにせよ定型アスペの壁に左右されない理解の仕方の模索ではあります。
さらにさかのぼって考えてみると、そもそも言葉というものもそういう風に成り立っているところがあります。たとえば「きのう、あの人おいしいおさかな食べたんだって!」という言葉、これでお互いに基本的なことは通じます。もちろん日本語を知っている人との間では、ですけれど。
でも、実際にはおさかなへの思いは人によって全然異なる。大好きな人も大嫌いな人もいる。またその時に思い浮かべるおさかなの種類もみんな違うし、同じ種類でも色形大きさなども同じであることはない。
もちろん内容の部分が通じ合うといっても、実際はズレが大きくて、あとからそのズレに気づいて戸惑うこともいくらでもあるわけです。定型アスペ間で同じ言葉を使いながら、その意味が全然違ってトラブルが起こるのも同じ原因です。
そう考えてみると言葉そのものが、違う感覚、違う見方を持った者同士をつなぐ工夫として作られているわけですね。
通じ合うために内容を無視して形を共有する、ということを人間は普通にやっているわけです。政治の世界では時々「玉虫色の解決」というようなことを言ったりしていますが、それもそういう人間の工夫に潜んでいるものを露骨に表現したものでしょう。
定型アスペ関係で、感情的な共有を最優先にして考えようとすると多くの場合失敗しますし、お互いに傷つく結果になります。そこでお互いにある程度受け入れられる範囲で、「形の共有」への道を模索することが大事になるのでしょうね。そのことがベースになってある部分、感情的にも共有できるものができてくるかもしれません。
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