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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年9月22日 (木)

タイミング

 何人かで話をしているとき,自分もその話の中に入ろうとすれば,上手なタイミングと言うのがあります。たとえば他の人が話しているときに話し出せば,相手の話を断ち切ることになり,相手を否定したり,自分より「下」として見たことになってしまいますから,雰囲気が悪くなりますし,「強引な人だ」とか「礼儀知らず」とか,悪い評価を与えられることが多いでしょう。

 逆に相手の話が一段落したときに,他の人の様子も見ながら,すっと話しに入ると,とてもスムーズに参加できることがよくあります。それは単に話す中身がどうのこうのというより,ほんとにタイミングのことが大きいんですね。

 定型でもそれがうまい人も下手な人もありますけれど,でも多かれ少なかれそういうタイミングを計ろうとするということはあると思います。下手な人はタイミングを計ろうとするんだけど,ずれちゃうという感じでしょうか。訓練である程度上手になれます。

 たぶん,そこには「息遣い」とか「体の動き」とか,いろんな身体の要素が入って,「場のリズム」みたいのができていて,そのリズムに沿った形で入り込むのがよいタイミングと言うことになるのだと思います。

 そうすると,アスペの方が定型の会話に入りにくいというのもわかります。通常は「場に合わない発言」とか,内容について言われることが多いと思いますが,実際はそれ以前に,無言の「場のリズム」「場の息遣い」のようなものに乗るか乗らないか,そのあたりからすでにずれが発生しているのだろうと,そんな気がするんですね。

 イメージとして言えば,歯車があるスピードで回っている。そこにもうひとつの歯車をかみ合わせたいとしたら,まずは相手の歯車のスピードに合わせてこちらの歯車を回し,凹凸がうまくかみ合うようにすっと歯車を入れる,ということが必要になる,その感じかと思います。

 で,このことを書いたのは,別に「アスペの方がそれができない」と言いたいわけではなくて,私もパートナーに対してこれができないんだなあと思ったからです。

 私は比較的定型間のやりとりのなかではそういうタイミングを感じ取ってそれに沿って話をすることは得意な方だと思います。それはみんなの会話に参加するときもそうですし,一人の人に対してなにかの話を切り出したいときにも,なんかそういう「今ならOKかも」というタイミングを計っています。もちろん成功するときも失敗するときもありますが,まあ下手なほうではない。結果としてそういうタイミングがうまくとれると,その人は話のリーダーシップを取りやすくもなりますから,これもまた定型的な「政治的動き」の一つと言えなくもありません。

 けれども,パートナーに関してはその定型的タイミングとりが通用しないんです。

 けんか腰の時はある意味相手のタイミングを無視していいわけです。あるいはタイミングを外してこちらのペースにしてしまう,というようなことを,けんかではよくやります。でも仲良くしたいときはそれはご法度。お互いにペースを合わせようとする。「息が合う」という,その表現のまんまですね。(だから,そのタイミングをはずして会話しようとすれば「けんか」と理解されてしまうことも起こるわけです)

 そのペース合わせがむつかしい。何か大事な話を切り出したいときに,「あ,今ならうまく切り出せそう」という,そのタイミングが全然つかめない。で,結局言い出せずに終わってしまう。考えてみるとそういうことがずっと続いてきたわけです。で,フラストレーションがたまりまくることになる。そうやって我慢できなくなって話を切り出すときには,ほんとにけんか腰になりやすくなる。こう書けばある意味マンガみたいなものですが,たぶんそういうこともあったのだと思います。

 今までは話の中身をどうパートナーに伝わりやすく切り出したらいいのか,ということを考えることが多かったのですが,たぶん,それ,だめなんですね。いや,全然だめじゃないでしょうけど,「それ以前」の問題がもっと大きいのではないかと思ったわけです。

 彼女とのやりとりでは,時間をかけることが重要だとか,書いて渡すなどの「間接的な方法」が有効だったりする,というのも,そこに原因の一つがあるとも言えそうですよね。当意即妙にタイミングを合わせる必要がないからです。

 彼女は小説も含めて本をよく読みますが,もしかするとそれも「彼女なりのペース」を自由に取れる形で読める世界,ということが大きいのかもしれないと思ったりします。

 アスペの方にとって定型的なリズムに乗るのがむつかしいと言われるように,私にとっては逆に彼女のリズムをつかんでそれに乗るのはとてもむつかしい,ということなのかなと思います。

 
 

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コメント

パンダさん

ほんとにそうですね~・・・・私の好きな人も、そのタイミングがわからなくて、(私からすれば、じっと「見てる」ように見える)疲れちゃうのかな~・・・

そういう場面が沢山あったように思います。

例えば「カラオケ」 
みんながノリに乗って(笑)いるときも彼は端っこにいました。(ひたすらじっと見てる)

ただ、そのあと2人で会ったとき「前は俺もこうだったんだ!」と言っていて(みんなと楽しそうにしていることがあったんだという話?)

その時は、「へ~」くらいにしか思わなかったのですが(。-_-。)

やっぱり、自分の気持ち(感情)を抑えてきたのかなと・・・

この前のガーディナーさんのお話を見て何となくそんな気がしました。

あ!ガーディナーさん。はじめましてm(__)mアンブロといいます。
よろしくお願いいたします。


ちなみに、定型の私は、幼いころから親にはいろいろなことをだめ!とおさえつけられてきました。(親に対しては、怒りとか憎しみはありません。)

当時は、なんでそんなにダメしか言わないの!!早く一人暮らししたい!と
思っていました。特に母親・・・世間の目を本当に気にする人で。

そして完璧主義者です。でも・・・それもある意味心配の裏返しだったんだなと。

母親も私が何してるかわからなかったから、どんな友達と遊んでいるのか。
なんで夜遅くに帰ってくるのか・・・理解不能だったんですよね。

母親の歩んできた人生の中にはなかったことを、娘の私がしでかすもんだから(笑)

少しずつ私の友達に会せたりしてたら、いつの間にかガミガミ言わなくなりました。
安心したのか・・・あきらめたのか・・・わかりませんけどね(´∀`*)

と・・・タイミングの話からズレましたが
(なんとなく、私も昔の話を思い出したので、書きたくなりました)

最近の彼を見てると、その抑えている感情をダメダメ!出てこないで無理。
という自分と

もうここは暗いからいやだ!出たい!と嘆いている自分との間で
葛藤しているように感じるんですよね。。。

こればっかりは、見ているしかできない・・・なんか。どうにもこうにもならないのわかってるんですけどね~( ;∀;)
でもこういう私の気持ちも仕方ないと受け止めつつ(笑)黙って待っていようと思います。

ではでは、朝晩冷えてきたので、体調にはみなさん お気をつけてくださいね。

アンブロさん

 お母さんの感じ,私のパートナーの子どもに対する対し方とすごく似ている気がしました。彼女もやっぱり「わからない」から結果的に「押し付け」的になるのでしょう。それはものすごく「心配」だからなのです。そこが私には理解できなかったんですね。だから彼女の子育てを否定的に見ることしかできなかったし,そのことに彼女はいまだに傷ついているんです。

 別のところでさっきあすなろさんのコメントへのお返事で書いたことともつながりますが,彼の場合もほんとにいろいろ苦労して調整しようとしているんですよね。ただ,その調整の仕方が定型とはずれがあって,なかなか苦労が実らない。そう考えると,つらいだろうなと思います。

アンブロさんへ。
こんばんは、初めまして、ガーディナーです。
よろしくお願いします。
葛藤を抱えている彼を優しく見守ってあげてるんですね。
そういうアンブロさんのお気持ちに、
彼は気づいているのかな?
カラオケに行った時に、じっと大人しく座っていらしたというお話。目に浮かぶようでしたよ。
これはタイミングということもあるでしょうけれど、
もう一つ別の理由として、ノリノリの明るいカラオケルームの空気に、同化することが難しかったのかな、とも思いました。
集団が苦手というのは、アスペでは当たり前のことですからね。
でもそのあと二人で会った時に、何かその周辺のお話を二人でされたんですよね。
そうやって彼は心の中の出しきれない何かを、お二人の時に出そうとされているのでしょうか。
大人になるまで感情を抑え込んできた人が、何かを表出しようとする苦しみは想像を超えるものがあると思います。
アンブロさん、おっしゃるように、長い目で静かに待っていてくださいね。でもどうか無理をなさらないように。きっと、アンブロさんのお気持ちのままにいることが、彼にとっても良いことにつながると思います。
というのはね、アンブロさんのコメントを読んでいくうちに、私の恥ずかしい昔話を思い出してしまったのです。聞いて頂けますか?

私は秘めた感情を誰かに傷つけられることが怖くて、だんだん誰にも話さなくなるという子供時代があり、でもその分自分の心は一人きりの世界の中で、際限なく育っていきました。そうするうちに感情を表出する言葉も失い、でも行き所のない私の心は肥大化していき、苦しみは大きくなりました。心を表出できなくなったことと反比例するかのように、頭でっかちになり、すべてに対して批判的になり、観念的になり、誰かれなく目についた人を相手に議論を吹っ掛けたり、かと思えば急にふさぎ込み、10日以上も学校を休んだり、もう誰もが扱いかねる思春期を過ごしました。

高校時代に出会ったU子という友人は、他県から引っ越してきた一風変わった女の子でした。彼女はどういうわけか、わがままで生意気な私に興味を持ち、教室で顔を合わせるたびに、「ねえねえ、ガーディナーちゃん、今日は何を考えているの、話して?」と無邪気に寄ってきて、私が話すこと話すこと、いちいち感心しながら聞いてくれました。
後年になって思い返せば、この時の彼女の私への接し方は、まさにカウンセラーそのものでした。私への圧倒的共感、興味、非指示的態度・・・、
2年間の彼女との付き合いの中で、私は心の内を明かすことの喜びを知り、自信を回復し、言葉を育てました。あのころU子相手に夢中になってしゃべっていたことの内容が何であったのかは、もう覚えていませんが、多分私のことですから、知ったかぶりをしながら、何やら偉そうに演説していたことでしょう。そんな私の話を笑顔で聞いてくれていたU子の寛容さに、当時の私は気づいてもいませんでした。思い出すだに赤面してしまいます。
今でも親しく付き合っているU子に、つい最近「どうして当時あんなに私の話を一方的に聞いてくれたの?」と聞いたところ、「だって本当に新鮮で面白かったんだもん、あの頃のガーディナーちゃん」と懐かしそうに言っていました。

同じ頃、娘が明らかにおかしい、正常じゃないと思っていた両親は、私を連れて精神科や相談所などへ行きましたが、どこへ行っても私は救われませんでした。
長い間感情を閉ざしていた私を救ってくれたのは、私に興味を持ち、受け入れて、尊敬の目を向けてくれた友人U子でした。初めて心が癒され、言葉が開かれました。

・・・という私の昔々のお話が、今のアンブロさんとどう繋がるのか、繋がらないのか分かりませんが、心を閉ざしたくて閉ざしているのではないのだとすれば、もしかしたら、最も近くにいる人の無邪気な笑顔、相手を大切に思う気持ちが、何か大きなエネルギーになるのかもしれない、と思い、書かせていただきました。

ガーディナーさん

お返事、ありがとうございます。とっても嬉しかったです(>_<)
ガーディナーさんの大切なお友達とのお話
なんだかすごく心が温まりました。

そしてそのお友達がニコニコしながら、心が踊るような気持ちで、ガーディナーさんのお話を聞いていた
『風景』が不思議と浮かびました。(しかも何故か『学校の屋上シーン』と『教室の中で一つの机に前後で座っているお二人のシーン』(笑)

私はかなりの妄想女なので。(幼き頃から)

ガーディナーさんの過去の話を呼んで、
『ガーディナー一家』のお話をされたコメントも読んでいると、その風景が私の中でストーリーのようにイメージされました。

ガーディナーさんの今回のコメントを読んで
私の上の一つ上のコメント...少し違うかな?と思ったので、聞いてください(^人^)

ちなみに、私の気持ちは彼は知っています。
というより、何度気持ちを伝えたか(笑)
回数は覚えてません(笑)

昔は自分の気持ちや発言することが(緊張して)苦手で...彼に出会い、こんなにも自分に正直に気持ちを伝えることができるんだと、一皮むけたような感覚なんです。

で、話を戻します。(すぐ違う方向に話がズレるのですみません)

彼の中には『二人の人物』がいて。

私からみると、『大人の彼』は穏やかで、とても優しい。あまりしゃべりませんが、自分に関わる全ての人に、『感謝』している。

『少年のような彼』は...まだ思い通りにコントロールできないような...そんな風に見えます。

そんな中、子どものように、素直に気持ちを伝える私をうらやましくもあり、妬ましくもあり
....そんな感じなのかな?

だからといって、変わってくれなんて思ってもいない。結局は『自分でなんとかしなきゃいけないこと』になるんですよね....

彼の中の『大人』と『少年』をコントロールしている、『彼』は『少年』の扱いに困り
(だって、全然言うこと聞かない〜勝手な決めつけはするし、見てて危なっかしい...)それを押さえるために、『ストーカー』と言ったのも
納得です(°▽°)
(でも裏を返せば、少年を監視している、自分にも言えることですけどね)

まるで、彼の少年と私がリンクしているような
そんなイメージが湧きました。

ガーディナーさんのコメントでここまで
ヒントのかけらがつながったような感じですごく不思議...です。

ちなみに...私と彼は結婚に一度失敗しています。
それは、私にとってはどうでもいいのですが
(^_^;)

この掲示板にたどりつくまでは、『愛着』とか
『執着』とか色んな言葉に惑わされ?自分の気持ちを否定もしてきました。

だけど、やっぱり
そんなの全部とっぱらって、私は、私の
『気持ち』を信じる。そう思えたら楽になれたんですよね。なんか、落ち着いて、彼を見れるようになったというか(笑)


私のエネルギーが、彼にとってプラスに動いてくれることを信じて、待ってみようと思います。かれこれもう一年半になるんですけどね〜....でも、私の『心』は全然変わらない。

『心』はまだ彼でいっぱいです(笑)

ガーディナーさん。またお話聞かせてください(*^^*)


パンダさんへ

実は(笑)母親は『お母さんもアスペかも?』なんて言ったことあったんです。

ちなみに父親は、数字に関してとんでもなく
『スゴい』計算は早いし(+_+)家計簿ノートも見せてもらったことありますが、めがまわるほど
びっしり...理解不能です(-_-;)

そんな両親の子どもの私は、昔から自分でも
『変わり者』だと思って生きてきました。
『普通って何?』と今も思っています。

なので、私は自分が定型...なのか?と違和感を感じつつ....

あすなろさんにも前に言われた、『ミックスされた人』これが一番しっくりくるかなぁ🎵

でも、ミックスされた『アンブロ』これが
私ですね(*≧∀≦*)

ぱんださんへ


タイミング~!タイミング!これこれ最も?苦手な部類です(笑)

話をするタイミングなんて最早賭けの域です。
そして段々とわかんないもーんと開き直ってくるから自己中さが増していくっていう~(/ー\*)

私の日常は周囲の寛容さで成り立っているといっても過言ではない気がします。
定型のみなさーん、いつもありがとねー

みるきさん

 なんか,すごくわかりやすい (笑)
 ほんとにアスペ街道まっしぐらみたいな (笑)

 そういう「面白い個性」の人が創造的に活躍するような
 面白い関係が作られていくといいなと改めて思います。

こんにちは~(^^)
私はADHDですが、タイミングを読めない者としてコメントします。タイミングを読めないのは、ADHD特性なのか、親と会話をしないで育ったからなのか分からないので、ADHD=タイミング読めない特性とは思わず聞いて欲しいです。

私にとっては、タイミングを読まれる事は実はちょっと疲れます^^;こっちは読み返してあげられないのに読んでくれる申し訳なさで、つい私が勝手に気を使ってしまうのです。
一番楽な関係は、”互いにタイミングを読まないで好き勝手する”です 笑

実際、全員空気読まない人たちとカラオケ行くと、私はとっても楽しいです!!
誰も知らない曲を1人で熱唱する人。さっき誰かが歌ったばかりの曲を、自分も歌いたいからと入れる人。(結果、一日に同じ曲が5回とかも 笑)
そんな自由人だらけの空間は、私も自由でいられます。互いに迷惑なら、公平なので『迷惑』ではないのです。

今、気付きましたが、だから私はどんなに傷付いても分かり合えなくても、アスペの彼と一緒にいるんでしょうね 笑

noaさん

 そうですか!noaさんもタイミング苦手派なんですね! (笑)

 考えてみるとADHDの方も,たとえば話が相手を置いてきぼりにしてどんどん展開していくとか,そういうことを時々聞きますけど,それも相手とリズムを合わせない,という意味でタイミングを読まないとか,空気を読まないとか言われることになるのかもしれないですよね。

 うーん,今思ったんですけど,逆にアスペの音楽家とかもいますよね。音楽ってタイミングが命みたいなところがあって,リズムを合わせないと成り立たないわけじゃないですか。そうするとアスペだから他の人とリズムを合わせない,という単純な話でもない。

 これまたなかなか奥が深そう……

アンブロさん。

彼の中に存在する「大人の彼」と「少年の彼」、どちらも大切な彼ご自身なんですよね。
どちらもかれの歴史の中で、大切に大切に育ててこられた尊い存在なんだと思います。
自分の中に複数の自分がいて、それが統合できずにいる苦しみは、私にもよくわかります。
表の顔と裏の顔、陰と陽の世界です。

それは決して『どちらを捨ててどちらを生かす』というものではなく、
どちらも否定することなく両方を融和させることができたときに、
今までの苦しみが嘘のように軽くなります。
それはもちろんアンブロさんがおっしゃるよに、彼の問題ですけれど、
苦しみを抱えながらも生きていく彼を、
傍で見ていてくれる人(アンブロさん)がいるかいないかで、
彼の苦しみ方や解放への道筋は大きく変わるような気がします。

でも、なんかさっきから私、言わずもがなのことを言っているみたいですね。
<彼に出会い、こんなにも自分に正直に気持ちを伝えることができるんだと、
一皮むけたような感覚なんです。>とか
<『心』はまだ彼でいっぱいです(笑)>とか。

やだ、もうしっかり幸せじゃないですか。
私なんかが何も話すことはありません。
お邪魔しちゃってすみません。ごちそうさまでした!
(ああ、私にもあったな、あんなころ)

ところで・・・。
高校の屋上や、教室の机を挟んでの二人の女子高生の会話シーン、いいですね。
ずいぶん前に観た<桜の園>という映画を思い出しましたよ。
(あんな古い映画、ご存知ないですよね。1990年製作、つみきみほが可愛かったです)
でも残念ながら、私の高校時代は、そんなに美しくはなかったんです。
もっと無様で、もっともっとカッコ悪かったですね。
なんか頭でっかちで、アンバランスで、ホント、恥ずかしいです。

私はアスペルガー真っ盛りで、人がどういう気持ちでいるかよりも、
自分のしゃべることに気がいってしまい、
彼女がそれを聞いてどう思うか、というようなことは
それほど考えていなかったと思います。
それでも、閉鎖的な地方都市で退屈な毎日を送っていた私にとって、
東京のイントネーションで話しかけてくる彼女の存在は、
何か新しい風を運んでくれるようで、憧れてもいました。

私は話し手、彼女は聞き手、という一方的な関係ではあったけれど、
お互いが憧れたり尊敬したり、というポジティブな思いを持っている
という点では、二人はいつも対等で、だからこそ、
私にとってはセラピスティックな関係だったと言えるかも知れません。

パンダさん、こんばんは。
ガーディナーです。

音楽家はタイミング、息遣いが命。まさにそう、その通りです。
実は今ここで初めてお話しすることですが、私の専門は音楽です。
小学4年生の時に、親に頼み込んでピアノを習わせてもらいました。

ピアノを始めてからの私にとって、音楽は誰にも邪魔されない自分だけの砦でした。
毎日叱られてばかりいた私でも、ピアノに向かっているその時だけは、
誰からの叱責を受けることもなく、自由に自分の世界に浸ることができました。
自分だけの息使い、自分だけのリズム、それが全てだったんです。
気持ちが高揚してくるとどんどんアッチェレランド(スピードが加速する奏法)するし、
重苦しい気分の時はずっしりと暗い低音を響かせ、
とにかく自分の思うように弾くことで、私の中のバランスをかろうじて保っていました。

そのうち、他人の作った曲を弾くことよりも、
自分の作った曲を好き勝手に引くことに興味を持ち始めました。
ADHDも持っている私は、毎日一定時間ピアノの前に座ってテクニック訓練をする、
ということがとても苦痛だったので、ピアノ教室ではいつも劣等生でした。

その後いろいろあって、ちょっと中略しますが、社会人になったばかりのある時、
住んでいる市のある障がい者団体から連絡があり、団体の青年学級の一環として、
音楽サークルを立ち上げることになったから、ボランティアで講師に来てくれないか、
といいうお話を頂きました。
それが私と障がい児(者)との出会いの瞬間でした。

その後本格的に音楽療法の勉強を始めた私は、
いろいろな障がいをお持ちの方たちや、
お年寄り、吃音の方、ママとベビーグループと係る仕事で働くことになりました。
そうした中で私の音楽は、
「自分の世界を護るための美しい砦」から
「今、目の前にいる人の心身が解放されるセラピー」へ、さらに
「私とあなたが一緒になって創り上げる歓び」へと進展しました。

音楽は一人でやるときは、自由に自分の息遣いそのままに表現すればいい。
でも、誰かとともに創るときには、当然相手の息使い、目の動き、体の緊張度、
そして何より大切な心の動きを察知しなければ成立しません。

この仕事を初めて20年以上の歳月が経ちましたが、重度な自閉症の方が、
私の呼吸を感じて、一緒に音を奏でることは、私にとっては当たり前のことです。
根底にあるのは、私が彼を尊敬している、そして多分彼も、
私を人として、認めてくれているという関係だと思います。
逆に、正統派の音楽家の方達とも音合わせをさせて頂く機会もありますが、
自分の感覚で歌ったり弾いたり、少しも楽しくありません。
多分(というか絶対ですが)、その音楽家先生達は、
私のことなどひとかけらの尊敬もしていないからでしょう。

以上、孤独な音楽少女だった私が、
その音楽を通じて、相手に合わせて呼吸をすること、
相手の感情を読み取ることを習得した、というお話でした。

ガーディナーさん

 ピアノの話,またもやすごいですね。

 ガーディナーさんの文章が定型的にわかりやすいのは,ある部分そのせいなんでしょうか?

 もしそうだとすると,「音楽療法」とか聞きますが,ものすごい可能性を秘めているのかもしれないですね。もちろんそもそもの音楽の苦手得意とかはかなりありそうだけど。

 一方では数学とかプログラムとか,そういう「理性的」な世界で活躍して他の人との関係を作り上げていくアスペの方があり,他方では音楽など「感性的」な世界で人とつながっていくアスペの方もある。

 youtubeにもこんなのもありました。ちょっと感動的かも。

 https://youtu.be/0qkeh22rDI8

 

そういうタイミングみたいなものがいわゆる「空気」と呼ばれるものなのかな?と思います。
当然、空気を読む能力に欠けるので、タイミングを計ってうまくやるということが困難です。
それは対人関係の全てに関わることで「挨拶をする」「礼を言う」といったことでさえ大変です。
うまくできないので、ものすごく気をはりつめて必死にやりますが、当然タイミングがずれます。
タイミングだけでなく「場にふさわしい声の大きさ」もなかなか捉えられないので、笑われたり叱られたりします。
こういうことでくたくたになるので、その上更に仕事もしなければいけないなんていう状況だと、どれほど疲れるかっていうのは定型発達者には予想もつかないでしょうね。

ひとさん

 タイミングと内容と両方あるのでしょうね。
 「場にふさわしい声の大きさ」というのも,「ふさわしさ」を感じ取るような
 なんかの仕組みが定型はあるのかもしれません。
 ふさわしさって自分の中では決まらなくて,人の評価で決まるものでしょうから,
 そのあたり「人の評価」をどうつかむのかと言うあたりで,
 一貫してずれが生まれるような気がしています。

 目が見えない方の苦労は,目をつぶることである程度は体験できますが,
 「人の評価が分からない」という状態を真似して体験するのはむつかしそう。
 そのあたりは,そう簡単に予想はできないのかもしれません。

 逆に「人の評価に振り回される」というのも定型の運命とも言えます。
 これもまたなかなかしんどいことにもなりますね。

こんばんは、ガーディナーです。
タイミングということについて、この間とはまた別件で思い出したことがあるので・・・。

前回のコメントは、どちらかというと、
アスペの私がより定型的タイミングをつかむまでの物語ンあっていましたgあ、
今日のコメントは、その逆で、アスペの子どもの立場から、
定型の大人たちのタイミングがどうしても会わないで困ったという回想になります。

風邪をひいて小児科で注射を打つことになりました。
5歳ぐらいのころだったと思います。
神経質で怖がりだった私は、注射と聞いたとたんウッとひるみました。
そのあとに続く沈黙が3秒ぐらいだったか、1分ぐらいだったかはもう忘れましたが、
その沈黙の間に、私なりの葛藤がありました。
注射は痛いから、泣きたいほどいやです。
でも私には、5歳のお姉さんとしてのプライドがあります。

ここは泣かずに頑張ろうと決心したその時、
「平気平気、注射は(予防接種で)慣れてるもんね」
と、母親が先回りして看護師さんたちに笑顔を向けて言いました。
何でそのタイミング?それ、いま、私が言おうとしたことなのに。
今私が自分で「平気平気、慣れてるモン!」と言って志気を上げて
ついでにみんなに「お、偉いな!」とか褒められて、
いい気分になってから、注射に挑みたかったのです。
本当は怖いし痛いのは大っ嫌いなんだけど、そうやって、気持ちを盛り立てて、
試練に打ち勝とうと思っていた時だったのです。

なのに、なのに・・・。あまりにもタイミングが悪すぎます。
母は、私の気持ちを全く無視して、私の顔も見ずに
他人の大人たちに「平気平気」だなんて勝手に決めつけている。
抑え込んでいた涙がどっと溢れてきました。
もう止まりません。
斯くして幼いガーディナーは、二人の看護師さんに両肩を押さえつけられ、
待合室中に鳴き声を轟かせながら、痛い注射を打たれることになったのです。

全てはタイミング、本当に間の悪い母の一言が、
多忙な看護師さんを二人も動員して
院長先生を憤慨させながらの注射にまで発展したという、
今となっては懐かしいエピソードでした。

(天国の母上様、今さらこんなこと言ってごめんなさい、
デキの悪い娘の戯言を笑って許してね。)

>ガーディナーさん

正直に話していただいて、ありがとうございます!

やりました、やりました!
お母様と同じこと!私も子どもたちにやってきました!

これ幼い子だけでなく、大人同士でも気を付けていないとやること、多いと思います。

そうやって成り立っている人間関係もとても多いと思います。

多くは下の立場の人間が『しょうがねえな』と上のご機嫌とりのために黙っている。

だから修正しようが無い。

いま、仕事でまさにこういうことの連続で、どこまでが良かれなのか、放置なのか、悩む毎日ですが、やっぱり時間を掛けて観察する、思いを巡らすというのは、とても大切だなと気づきました!

絶妙なタイミングでヒントをいただきました!

ありがとうございます!

あすなろさん、ご無沙汰しました。
ガーディナーです。

コメントありがとうございました。

>これ幼い子だけでなく、大人同士でも気を付けていないとやること、
>多いと思います。そうやって成り立っている人間関係もとても多いと思います。

そうですね、大人同士になるともっと感情や立場やもろもろの事情みたいなものが相まって、複雑な構造になりそうですね。
あすなろさんが、私のコメントのどの部分をご覧になって、大人社会と重なって感じられたのか、ということを、私なりに考えてみました。そうすると、二つの部分が浮き上がってきました。

まず一つ目は、
>>本当は怖いし痛いのは大っ嫌いなんだけど、そうやって、
>>気持ちを盛り立てて、試練に打ち勝とうと思っていた時だったのです。

の部分です。子どもが幼いなりに不安を乗り越えて、注射を受けようとするまでの心の動き、克己心は、その気になって気持ちに寄り添わないと絶対にわからないものです。そこに気が付いて待ってあげられる大人のどれほど少ないことでしょう。
大人でもそうですよね。
誰の目にも見えないところで独り頑張って、それが第3者の心無い発言で、台無しになってしまったという経験は、多くの人が持っていることでしょう。

それから二つ目は
>>母は、私の気持ちを全く無視して、私の顔も見ずに
>>他人の大人たちに「平気平気」だなんて勝手に決めつけている。

の部分です。なぜここで母はそのような言動をとったか?といえば、娘の心(内側)に気を使うよりも、周囲の看護師さんやDr(外側)に気を使い続けていたからです。
これも大人社会ではよくよくある話ですよね。
弱い存在の人たちには、ちょっとかわいそうかもしれないけど、まずはとにかく大きな歯車が滞りなく回っていけるように気を配る。弱い人たちも、そういう中で強く鍛えられていく。それができなきゃ一人前とは言えない、というような空気が、一般社会にはありますよね。

以上、この間の私のコメントから、あすなろさんが、大人にもある、とおっしゃったことは、このあたりかな?ということを推察してみました。

>ガーディナーさん

私は漠然と『大人も』と感じたんですが、細かく分析してくださって、ありがとうございます。
さすがです。

せっかくなので、私もガーディナーさんの解釈をまた深めてみたいと思います。

>誰の目にも見えないところで一人頑張って〜第3者の心無い発言で台無しに……

大人の場合、見えないところ、というのは、心の動きが主かなと思います。
子供以上に期待される要素はものすごく大きくて、失敗が許されない状況にあります。
それが『出来て当然』のことがあまりにも多くて、例えばガーディナー少女が注射に耐えられると自己主張しなくても実際耐えられた実績になったことは大きいと思うのですが、(泣いたとしても逃げ出さなかった)それすらも、出来ないのに、出来るように見せなくてはいけない、失敗すれば徹底的に叩かれる場面が、たくさんあると思います。

『耐えられるのよね』も同じ、支配的な言葉なんですが、『どうせ耐えられないでしょう?だからこうすればいいのよ』と言うのは、さらに屈辱を与えて自尊心を破壊する、最悪の言葉です。

大人は、求められている目標が高すぎるために、こういう屈辱を味あわされていることが多い。
厳しすぎるマニュアルなども、その例ですよね。
そうやって規制しないと出来ない、暴走すると思って、社員を徹底管理しているんです。

子供の頃から親にも支配的に接してこられて、社会に出てもなお、支配管理されていたら、ガーディナー少女が素朴に感じた疑問すら持てなくなってしまうのでしょう。
大人の場合、そうした洗脳が染み付いてしまって、疑問すら持たない人が、今度は自分が支配、管理する立場になってしまうという、非常に根深い問題になっていると思うのです。

2つ目の、
>本人の気持ちより、周囲に気遣っている
状態になっているのは、当然の結果ですね。
そもそも、他人を一括コントロールするためには、本人の気持ちなど関係無く、マニュアルを守れる人間を作ればいいのですから。

その目的は何かと言えば、取引先とか、顧客に気を遣うことでしかないわけです。

これが親子関係なら、他所の家や学校、自宅以外のところへの配慮しかないわけです。

それを『社交性を育てる』などと信じてしまうことほど、愚かなことはないですよね。

しかし、実際、信じている人の方が多くなっています。

私も、時々、自分の心に問い掛けてみないと、分からなくなる場面はたくさんあります。

ガーディナー少女が感じた違和感は、大人になっても、子供の頃のことだからと蔑ろに考えたり、忘れたりしてはいけないんだなと、つくづく思います。

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