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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年9月15日 (木)

第三者の目

 

みるきさんがまたまた面白いことを書いてくださいました。

 実はこの前ぱんださんやあすなろさん、アンブロさんとズレながら話していたときに急に今更ながら思ったことがあったので書いてみます。なんだかすごく不思議で急に妙に恥ずかしくなったんです。今更・・・なのかもしれませんが、急に私もみんなに見られてるんだ!と気づいてしまいました・・・。あの時、どうして会ったことないのにみんな私の性格を知ってるんだろう~とすごく不思議で、そうしたら、マジックミラーだと思ってたのにただの透明の板だった!みたいな衝撃がありまして急に本気で恥ずかしくなってきちゃいました。結構今も恥ずかしいです。

 この話,私がこのところ「なんかもしかしてそういうこともあるのかなあ」と考え,「もしそうなら定型が傷つき,そのことについてアスペの方がピンとこない原因の一つが分かってくるなあ」と思っていたことそのまんまだったんですね。 ああ,やっぱりそうだったのか!と感動。

 みるきさんがそのあとに書かれているように,定型と言うのは多かれ少なかれ,この「みんなに見られている」という感覚の中で生きています。もちろん,四六時中明確に意識しているわけではないし,またあまりその感覚が強すぎると「自意識過剰」と言われたり,さらに強くなると別の精神障がいとみなされたりもしますけれど,基本的にその感覚の中で生きている。

 だからたとえば私が文章を書く時にも,暗黙の裡に常にそれを読む「いろんな人々」を意識しているわけですし,「どんな人が読んでいるか」の想像によって表現も調整します。さらにたぶん大きなポイントになるのは,だれか特定の人とやりとりをしているときにも,「それを読んでいる第三者がそのやりとりをどう見るか」を意識している。もちろん場合場合によってほとんど意識しないときも強く意識するときもありますが,基本はそうです。

 そのことが少なくとも定型社会にとってはものすごく重大な意味を持っています。つまり,「第三者の目」によって,自分たちの行動が強くコントロールされる,ということがそれで成り立つからです。人によってはその「第三者の目」が「神様」のようなひと(?)になることもあるし,なんとなく「世間の目」みたいに漠然としたものになることもあるけど,とにかくそうです。共同幻想というのもそういう視点から見ることもできる。

 で,「相手にどうみられているか」も重要ですが,さらに「第三者から自分がどうみられるのか」はものすごくその人の精神状態にも影響をしてくる。だから「可能な限り第三者からよく見られたい」とか少なくとも「変に見られたくない」という気持ちが自然に生まれている。

 そういう気持ちの動き方があるから,「人前ではじをかく」ということは,しばしばその人にとって決定的なダメージを与えられることになりますし,場合によっては「恥をかいた」ということで自らの命を絶つこともある。また「人前で恥をかかされた」ということは生半可な身体的攻撃よりもはるかにダメージが大きいことがよくあり,これも場合によっては一生恨まれる結果を生んだり,恐ろしい「復讐」を引き起こすこともある。 

 今回みるきさんが発見されたのは,その(定型的な)恥の感覚ということになります。

 だから,定型の場合相手に対してなにか批判的なことを言う場合には,相当の覚悟が必要になります。よほど深い信頼感があるか,あるいは完全に敵対するという覚悟を持つか,そのどちらかであれば「心置きなく(? (笑))」批判ができますが,中途半端な状況ではそれは危なすぎる。

 だからこそそこでいろんな形の「冗談半分」で言うテクニックが発達するわけです。冗談半分なら相手が怒ってしまっても「冗談だよ」と言いぬけることができますから。もちろん下手な冗談だとドツボにはまって逆効果ですが,そこのテクニックもまた一生磨き続けることになる。

 一昨日の「仕事をしているかどうか」の話もこのポイントからも考えることができます。「仕事をしているかどうか」は,単にその仕事の内容がどうであるかではなく,「第三者からその仕事ぶりをどうみられているか」によっても大きく左右される。私がパートナーの言葉に驚いた理由の一つは,私の「仕事」について,周囲の人たちがそれなりに評価してくれた,という「見られ方」を彼女に伝えているのにもかかわらず(私としてはそれで十分に「仕事をした」ことの証明になる),彼女が「仕事をしているように見えない」と言ったからなのです。

 ここでも私の評価(この場合仕事ぶり)が,第三者の目を含んで行われるという私の理解の仕方と,そこがすっぽりと抜けてしまったかのように見える彼女のそれとで相当大きなずれがあり,それがお互いの混乱を生んでいるとみることができます。

 そう考えると,これまで私が「頑張って仕事をしているんだよ。安心してね」というつもりで繰り返し第三者の評価を伝えていたことが,ほとんどまったくと言っていいほどに効果がなかったことの意味も分かってきます。

 また,「第三者によく評価されたこと」でうれしくなって,それを彼女に伝えても,「だからなんだっていうの?」という感じの対応をされる意味も分かります。「他の人にどう思われようと関係ない」というのは彼女の相当一貫した姿勢ですが,そのことの意味も分かる。定型的にはそれは「人の視線に振り回されないゆるぎない精神の強さ」とか「自立した姿」として理解されますが,必ずしもそういう話ではないということでもあります。(そう考えれば,アスペの方が別の形での他者の視線には激しく動揺される場合がある…ように見える…ことも多分理解可能になっていきます)
 定型がアスペの方の発言に驚き,傷つく場合の一部も,ここから説明が可能になります。定型にとって,批判はたとえその場に第三者がいないときでさえ,第三者の見方を暗黙裡に意識しながら行い(たとえその場では意識していなくても,何かがあれば実際は無意識に意識していたことが明らかになります),その「第三者の目から見たその人の像」を傷つけないように努力する。その配慮がないときには,それは完全に敵対関係に入ったことの宣言になるわけです。(例外は本当に親しく,相手を心配して「言わずにはおれない」という思いを何らかの形で相手に表現しながら厳しく批判する場合)

 アスペの方がその「第三者の目」を抜きに,まっすぐ「事実」だけを見て,「事実」についてだけ語られ,そこでストレートに批判している,と考えると,定型がそれで傷つく理由がはっきりします。

 このことは,私が「定型はクッションをたくさん使う」と表現してきたことにもつながります。定型は「第三者の目」を気にするから,そこで私とあなたの直接的な関係ではない,もうひとつの関係でクッションが作られることになる。クッションはだから「第三者の目」のことになります。

 入れ子の話にもここがつながってきます。私が入れ子と言うのは,「私の視点」「他者の中の『私の視点』」「私の中の『他者の中の【私の視点】』」「他者の中の『私の中の【他者の中の〔私の視点〕】』」……みたいに,視点が入れ子入れ子になっていくことですが,第三者の視点はこういう入れ子の関係の中に取り込まれてくることになるわけですから,話がつながってくるわけです。(つまり「他者」に「相手」だけではなく,さらに「第三者」も含まれる形の場合)

 
 定型はそういう第三者の目を組み込んだ形での「世の中」で,自分の価値を値踏みしたり,他者と価値を共有しようとしたり,それを守ろうとしたり,増やそうとしたりして生きているわけですね。でもこの点でアスペの方はかなり違う。もっとストレートな(?)世界に生き,そのストレートさの中で価値を見て生きているのだと思う。だから,定型的な生き方は嘘くさくも感じられることになる。本音を言わず,ごまかしを重ね,嘘をついて生きている生き方に見える。定型の側はアスペの方の生き方を「人の気持ちを考えない」と理解する。

 この「人の気持ちを考えるかどうか」は常に定型アスペで激しくずれるところです。定型はアスペの方にそれがないように感じることがしばしばある。それに対して,アスペの方もまた「定型は自分たちの気持ちをまったく考えない」と思われている場合がかなりあるわけです。どちらからも「相手は人の気持ちを考えない」という見方で「一致」しているわけです。

 けれども,実際はそこで問題になっている「気持ち」の中身が著しく異なっています。定型は第三者の目を込みにして成り立つ「気持ち」であり,アスペの方はもっとストレートな「気持ち」の世界なのだ,ということになる。このずれは大きく,そしてしばしば悲劇的でもあります。

 
 定型から見て,アスペの方がとても「純真」に感じられることが多いのも,同じ理由でしょう。いわば子どものような純真な心を感じ取ることもあります。私にとってはそれはアスペの方の大きな魅力の源泉でもあります。でも逆にアスペの方に激しく残酷な,情け容赦ない姿を見ることがある(あるいはそういう生き方が身についているように見える人がある)のも実はそのことの裏返しなのだということになります。子どもが時に非常に残酷であることともつながります。どちらもまったくストレートな姿なのであり,そのストレートさが美しく現れる場合と,醜く現れる場合がある,ということになります。

 
 これまで長年この問題を考え続けてきて,「なぜアスペの方の言葉に定型が傷つくことが多いのか(アスペの方にはその意図がまったくないにもかかわらず)」ということがずっと謎であり続けてきました。わかるようでほんとうになかなかわからなかった。かすかな手がかりと感じられることがいくつかはありましたが,そこどまりでした。

 みるきさんの今回のコメントで語られた,みるきさんの体験談によって,私の中ではその大きな疑問を根本的に解く,とても重要な手がかりが得られたように感じています。もやもやしていた視界がすっと晴れてきたような,そんな気持ちです。

 まあ,ずっこけの勘違いでしたらどうぞ笑ってやってください (笑)
 
 
 

 

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コメント

私も謎が解けました。
実生活のことですけど。
娘が学校からプリプリ怒って帰ってきました。原因を聞くと、女子はみんな最低だ!と言います。
女子から集団でいじめられたのか?と思って、ドキッとしましたが……。

娘が手を洗っている時に、後ろから(おそらくふざけて)わっ!と驚かされたそうです。
その時、娘は驚いて大声を出しました。
その大声があまりにも大きかったので、近くにいた友達が『うるさい!!』と怒ったそうなんです。
驚かされたから、驚いた。でも、何で自分が怒られなくちゃいけない。自分は被害者だ。女子はみんな意地悪だ。

と、いう流れだったようです。
娘の驚く声はとても大きいので、うるさいと言った友達の気持ちは分かります。まるで絶叫なので、周囲の人は、何が起こったのかと、心臓が止まりそうになります。家でもそれで姉に叱責されて大げんか。

周囲の人にとっては、あなたの声は、びっくりするレベルなんだよ。
と伝えても、
そんなの、咄嗟に出ちゃうんだから、仕方ないでしょ!
と取り合わない。
普段から声のトーンを落とすことを意識しないと(これは、自分も課題^^;)
と言っても、周囲がどう反応するかなど関係ない娘には、全然ピンと来ない。

こうしたちょっとした行き違いで、学校が嫌になることがとても多いです。

つまり、自分が起こした騒動が、娘にとっては、とつぜんみんなが攻撃を仕掛けてきたと映ってしまう。
娘は、悪意のあるいじめを受けたことはないのですが、娘にとっては、学校の友達にこうした敵がいっぱいいるわけです。

これが、アスペが集団の中でやっていくことの難しさなんだろうなとつくづく思います。

あすなろさん

 やっぱりここ,ポイントのようですね。

 たぶん,ようやく私にとっての定型アスペ問題の本丸に入ってきたと思います。

これ、単純なのにすごい発見ですね!
みるきさんの表現力、それを深く読み取るぱんださんの凄さにただただ感動です!

第三者がうようよいて自分を見ているのが見えているけど、その目線を気にせずに相当強靭な精神力で己を貫いているのかと私も思っていました 笑

実は本当に第三者に気付いていない可能性が高いのですね?
それならば、己を貫いた結果による第三者からの評価に左右されてしまうといった、これまで矛盾だと思っていたアスペの世界がすんなり理解できますね。

あすなろさんの娘さんのお話、娘さんが本気で悩んでいるのに申し訳ないんですが、私のパートナーとあまりにリンクして笑ってしまいました。

パートナーも驚いた声、痛い時の声(ちょっとした痛みだと私から見ると思うような…)が事件を思わせるレベルでいつも焦ります。出先だったり、窓が開いていたりすると、どうしてもそれこそ第三者の目にどう映るかと^^;
例えるならば、ドラゴンボールで孫悟空が強敵と闘っている時の叫び声。あんなのが家からしょっちゅう聞こえてきたら…ご近所さんにどう思われているのか今日も不安です 笑

あ、今ふと思ったんですがアスペの方が第三者の存在に気付くのって何がきっかけになるんですかね?みるきさんはふと気付かれたようなので気になって(^ ^)
それと、気付くのと気付かないままなのとアスペの方の幸せの為にはどちらがいいんでしょうか?価値観が全く違う事を考慮する事って難しいですね^ ^;

noaさん

 この話が定型アスペ問題のどこまでの範囲に通用するのかはまだよくわかりませんが,少なくともパートナーとのズレを理解する上では私にとっては結構分かりやすく感じます。さらにあすなろさんやnoaさんにも腑に落ちるところが結構あるということですから,この視点からじっくり考えてみることは意味がありそうですよね。

 あと気になるのは,アスペの方がこれを読んでどう理解されるかということです。これ自体がすごく「定型的な理屈」になるのか,それともアスペの方にもある程度納得される可能性があるのか,ということですね。このあたりは「スペクトラム」が関係するかもしれないし,それとはまた違う問題があるかもしれないし,今のところなんともわかりません。

 そのあたり,定型アスペ間でどの程度見方を共有する可能性があるのかによって,お互いのずれた関係を具体的にどう調整していけばいいかに違いが出てきそうです。

 すでにみるきさんからもお叱りを受けました恥の問題((笑))もそうですし,あと「第三者の目」とかとりあえずざっくりしたイメージで書いてみましたが,たぶんアスペの方にもアスペの方なりのそういったことはあるのではないか,という気もするので,そのあたりもだんだん考えていけたらなと思います。

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