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2016年9月10日 (土)

定型アスペ問題の卒業の仕方

 まるさんが掲示板にこんなことを書かれていました

「なんだか最近、自分の中で「アスペ定型問題」は下火になってきてしまって」


 その理由を読ませていただいて,思いつくことがありました。

 定型アスペ問題についてずっと考え続けてきて,まず私に見えてきたことは,物の見え方感じ方のレベルからぜんぜんずれていたりすることがある,ということでした。それは感覚過敏とか,そんな「定型基準」のレベルの話ではなくて,まさに「世界の体験の仕方がまず全然違う」という出発点からお互いの関係を考えなければならない,ということに気づかされる体験でもありました。

 次に,そのレベルまで「ずれ」を想像したうえで考えていくと,部分的には定型的な想像力を働かせることで,アスペ的な世界についても分かる感じが出てくる時がある,ということでした。それは単に私の思い込みではなく,「こういう感じではないか」と書くと何人かのアスペの方にその通りと言っていただく程度には,「共有できる」理解になっていました。

 けれどもそうやって一部で「問題の共有」の感覚が生まれる中で,他方で繰り返される炎上の中で改めて「どうやったって理解できない」部分もかなりはっきりしてきました。もちろんここについてもいずれ何らかの方法で「共有」できる可能性はあると思っていますが,少なくともそんなに簡単にできることではない,そうとう壮絶な葛藤や深いレベルの自分の見直しがあってはじめてできることのような気がしています。

 そういう状態で,とりあえず自分が「定型としてしか物を考えられない」という事実を改めて腹に据えたうえで,そのわからない部分を理解しようとすると,一部のアスペの方に対してはたとえば「入れ子」の話のようにちょっと「上から目線」の理解にならざるを得ないところがありました。なぜ上から目線かというと,「私は入れ子が理解できるが,相手はできない」という,「できるVSできない」という形でのはなしになってしまい,「理解の共有」はそこでは達成しえないからです。なにしろ「相手には理解ができないんだ」ということの理屈付けなわけですしね。

 そうすると,その意味では「対等」な関係ではなくなるとも言えます。なにしろ「できるVSできない」の「上下関係」になってしまうわけですから。

 ただ,少し視点を変えることで,ここも改めて対等な関係での話になる可能性も感じられます。たとえば私たちはだれでも昔赤ちゃんであったわけですが,私の体験でもそうですけれど,赤ん坊が泣いているとき,おなかがすいているのでも,暑すぎたり寒すぎたりしているのでも,のどが渇いているので,なにかにおびえているのでもなく,とにかく想像できるあらゆる可能性を考えてもわからないけど,でも泣き続ける場合があります。そんなとき新米の親は途方にくれたりするのですが,ようするに「わかんない」状態におかれて不安になるわけです。

 赤ちゃんに比べれば自分は明らかに「できる」人間ですし,「ケアをする」立場の人間なのですが,でも「私はわかっているVS相手はわかんない」という関係はここで逆転してしまっています。私は赤ちゃんが泣いている理由が分かんない。でも赤ちゃんの方は頭で理解しているのではないでしょうが,泣きたい気持ちは持っているという意味で分かっている。もちろん赤ちゃんの方だって,親の気持ちは分かんないわけですが。

 つまり,少し見方を変えると,こういう関係も「お互いに理解できない」という意味で「対等」な関係とも考えられることになります。

 「お互いに理解できない」という意味を,そこまで広げて考えた場合,定型アスペ関係のずれは「わかるVSわからない」という要素があろうがなかろうが,すべて「お互いに理解できない」という「対等」な関係として考える可能性が出てくることになります。

ま,このあたりはちょっと理屈に走っている感じがするので,今のところはこの程度にしておきたく思いますが,とにかく改めてものすごく基本的な感覚や考え方のところで「わからない」という部分を抱え込まざるを得ない,ということを性根に据えて向き合うしかない,というところに来るわけです。

 そうやって分かる部分が増える一方でわからない部分もまた見えてくるというところを行きつ戻りつしながら,「どうしたって自分の理屈では届かない世界」をふかく実感せざるを得なくなります。しかも差別的な見方が簡単に陥るように「だからあいつはだめなんだ」という否定的な理解ではなく,「相手には相手の理屈があって,それは私には理解しきれない」という形での理解なので,「お互いさま」の世界がさらに深まっていくわけです。

 そうすると,そうやって「お互いさま」の関係で一緒に生きていかなければならない,ということになれば,「相手を一方的に自分の思い通りに変える」という話にはならず,自分の思い通りにはならない相手をお互いに「受け入れあう」ということが必要になってきます。ところがそれがなかなか容易なことではない。なにしろあまりに異質で,自分が大事に感じていることを大事に感じてくれない,場合によっては否定される,ということがお互いに起こりやすいからです。

 そうすると,ここまで来るともう「相手が悪い」という形で「安易」に解決できなくなりますから,「相手には相手の理屈があってそうしているのに,なんで自分はそれを受け入れられないのだろうか?」という,自分のある種の「度量」の問題が浮かび上がってくることになります。もちろんこれもお互いさまの話なのですが,とにかく「どうしようもなく違う相手を受け入れられない自分」が問題になってくる。

 と,ここまで来ると,問題はもう「定型アスペ問題」というより「私の度量」の問題になってくることになります。「お互いの度量」と言い換えてももちろんOKです。「人格の未熟さ」みたいにも言い換えられるかもしれませんし「個性の問題」という言い方も可能になるかもしれません。とにかく「定型アスペ問題」という枠は外れてくる。

 つまりそれがある種の「定型アスペ問題」の「卒業」の仕方ではないかと,そういうことを思ったのでした。もちろんそれで「定型アスペ問題」がなくなっているわけではなく,お互いのずれを調整しなければならない,という課題は永遠に続きます。ただそれが「定型アスペ」という狭い枠の話ではなく,そのずれを調整するためにも「違う人間同士がお互いを受け入れあって生きる」ための「人としての度量」という,もっと一般的な問題に広がっているわけです。その意味での「卒業」ですね。

 まるさんの話は,私にはそんなふうに見えました。

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