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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年9月28日 (水)

「恥ずかしい」はなし

 ガーディナーさんが5歳の時に周囲の大人たちのことも含めて,その時に経験した言葉にならない葛藤をすごくリアルに覚えていらして,それを今言葉にされているのは改めてびっくりですが,その意味を考えられている内容も私には刺激的でした。

 前にもちょっと書いたかもしれませんが,カナータイプの自閉の子と遊ぶ家庭教師のようなことを学生時代にやったときに,一緒に公共交通機関とかに乗ると,その子が喜んだりなにかでいらだったりして大きな声を上げることがあって,そうすると「恥ずかしい」という感覚が湧いてきてしまった話を思い出しました。

 比較的最近までその「恥ずかしい」と感じることは「普通のこと」としか思わなかったのですね。でも,そこに実はものすごく大きな問題が隠れていることに気づかされるわけです。

 みるきさんもここで,他の人がみるきさんの「人に見せていない(あるいは人には見えていないと思っていた)」つもりの自分の性格(?)などについて,みんなが気づいているように感じられたとき,すごい恥ずかしさを感じられたわけです。それは何でしょうか。

 恥ずかしいという感覚は,「人に見られていないと思っている」「人に見せたくない」自分が見られたと感じるときに生まれる感覚なのだと思いますが,誰でも恥ずかしい思いをしたくないわけですから,できるだけ「恥ずかしくないふるまいをしよう」とすることになります。

 逆に言うと「恥ずかしい部分を見せる」というのは,すごく親しい関係になるということですよね。お下品な話,恋人同士になると,相手の前でおならができるようになるとか(笑)。つまり,「恥ずかしさ」をどうやりとりするかで,その人は相手との関係を微妙にというか,劇的にというか,調整していることになります。

 「何に恥ずかしさを感じるか」ということは,だから,その人のふるまいにものすごく影響することになります。「穴があったら入りたい」とか,「顔から火が出るようだ」などの感覚もそこに絡んでくるわけですし,相手に対して「恥を知れ!」と言うことも,おなじ感覚によって成り立つ話と言うことになります。

 そうやって人は「恥」という感覚によって,自分をコントロールするし,人をコントロールしようとするし,その「取引」によって人間関係を調整しようとしているというわけです。

 私が学生時代に感じたあの「恥ずかしさ」には,もう一つのポイントがあります。それはその恥ずかしさは「私自身」のことではなく,私が連れている「その子」のことなはずなのですが,でも感覚的には「私が恥ずかしい」という気持ちになるわけですね。つまり,「その子」と「私」はもう一体になってしまっていることになります。「その子の恥」は「私の恥」という状態になっている。

 その感覚は,めちゃくちゃ「自然」なもので,自分としては「周りはみんなそうだ」と信じ切っているわけです。「周りの人たちの視線が刺すように感じられる」みたいな表現もそういうことですね。周りの人たちも同じような感覚で生きていることを疑わないわけです。

 少なくとも定型の社会はそういう「人の視線」によって,自分がいたたまれないような思いになってしまうという,ある種不思議な仕組みによって成り立っている。そして多分アスペの方も多かれ少なかれそうなのだと思いますが,ただ,その強さとか,あるいは線引きの仕方のようなものがかなり違うのだと思います。そこで深刻にずれる。

 もちろんこの人の視線はマイナスのことだけではなく,プラスのものもある。褒められたらうれしいというのは定型アスペに関係なくそうですが,パートナーとの感覚の違いをよく感じるのは,自分以外の人が褒められた場合のことです。私は自分自身のことだけではなく,自分の子どもが褒められるようなことがあると,あたかも自分が褒められるような感覚を自然に持つのですが,そこがほんとに共有されにくい。

 定型同士の関係だと,「○○(自分たちの子ども)はすごく頑張って,こんなふうに成果をあげられて,ほんとによかったよね」というような会話は,こどもだけのことではなく,また子どもにとってよかったね,というだけのことではなく,「私たちにとってよかったこと」という話を含んでいると思うし,だから「一緒に子どもの成果を喜び合う」ということは,「自分たちにとって」とても大事なことになる。

 落語にも「子ほめ」というのがありますよね。最近こどもが生まれた家に行って,赤ちゃんをほめまくって親からなにかご褒美をもらおうとするような話だったでしょうか。それも同じ気持ちの仕組みがあるから成り立つことです。

 人に褒められるような自分でありたい,という気持ちは,定型社会の場合は「自分につながる人も褒められると自分がレベルアップした感じになる」ということにも広がって,「自分たちが褒められたい」という思いになっていく。世の中には叙勲だの○○賞だの,いろんな「誉める」制度がありますし,誰かがそうなると,「みんなでお祝いする」ということをやったりしますが,あれもまたそういう定型的な(?)感覚を利用したはなしになります。

 私は「虚飾」が嫌いな方だと自分では思っていました。お化粧などもあっさりめが好きだし,宝石とかにもほんとに興味がないし,宝石を身に着けている女性にそれだからと言って魅力を感じることもないし,勲章をもらってうれしい人の気持ちもわからないし,お金持ちにそれだからと言って魅力を感じることも全然ないし(お金は欲しいけど(笑))……。

 でもそれは「誰に何をどういうふうに褒められたいか」の違いであって,だからたとえば「清貧」とかをかっこよく感じたりすることがあるし(自分にできないからですが(笑)),そういう面でもし自分が褒められたりすれば(ないけど),きっとうれしいわけです。逆に「あいつは貪欲で虚飾にまみれたやつだ」とか言われると傷つくでしょう。

 そして上の話です。一緒にいた子の行動で自分が恥ずかしい思いをする。「まわりの刺すような視線を感じる」。で,そのことを「普通のこと」と信じて疑わない。パートナーと「子どもが頑張っている話」を共有しようとして一生懸命語っても彼女からは「だからなんだっていうの?」という態度で切り捨てられた感じになって傷つく。全部同じ話です。

 今まで私が彼女と「自分にとって大事なこと」を共有したいと思って手を変え品を変えて話をし,ことごとく無視され(るように感じ),「だからなんだっていうの?」という姿勢をとられ,「それで私に何と言ってほしいわけ?」と聞かれてショックを受けたのは,そこの基本的な感覚の違いだったということになります。私にとって「自分に関わる大事な問題」と感じられることが,彼女にとってはなんの意味もない空虚な世界の話だったというわけです。

 私が宝石を喜び,褒めあう世界を「虚飾」と感じるように,彼女は私が喜び,彼女と共有しようとする世界のことをほとんど意味のない「虚飾」の世界に感じるということでしょう。定型アスペのコミュニケーションで深刻な対立を生みやすいポイントの一つがここだと思います。定型が後生大事にしている「虚飾」の世界に,アスペの方はほとんど意味を感じない。あるいはそういう世界があって,それによって定型社会が成り立っていることを知らない。

 だからその虚飾を崩すようなことを,まったくその意識がなく素朴に語るわけです。でも定型的には「虚飾」といっても,それで人間関係を成り立たせているわけで,そこにある意味「自分をかける」と言うような世界なわけですから,「虚飾」といいながら実はものすごくリアルな世界です。それを正面から否定されてうろたえ,傷つき,そしてまた激しく怒るわけです。「それを言っちゃおしまいよ」の世界ですね。お金を「たんなる紙切れじゃん」と言ってしまったら,経済が崩壊するようなものです。

 ガーディナーさんが5歳の時に母親の「無理解な行動」で傷ついたのは,つまりそういう定型的な仕組みの中でお母さんがとった行動によって,ということになりますね。

 

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コメント

私の子育ては、独特にならざるを得なかったのですが、その結果、たどり着いたのは、
『例え、子供が金メダリストになろうとも、自分の教育の結果だとは絶対に思わない。
例え、子供が犯罪者になろうとも、自分の教育の失敗だとは決して思わない』
ということです。

なぜかと言うと、私はADHDなので、三人の子供の行事や成績に関して、管理しきれなかったんです。
子供が、見に来て欲しいなと思うような行事をすっかり忘れていたり、良い成績を取ってきても、結果を見ずに放置していたり。

後から子供が『寂しかった』と言っても、取り返しのつかないことが多くて、最初はごめんねと心底申し訳なく思っていたんですが、そのうち子供の方から『どうせわすれていると思ったよ。ま、そういう人だからね』と言うようになったという。

それで、私は子供の気持ちに沿って動くことが出来ないのは仕方ないことだから、それぞれ自分のことは自分で向き合ってもらい、その結果について何か言ってきたときには一緒に喜ぶけど、全て子供の責任でやったことだから、それ以上の気持ちを共有することは出来ない!

と割り切りました。

なので、それぞれ自分のやりたいようにやっています。
親の責任は無いのか?と言われたら、『はい』としか言えませんが、まるっきり無視しているわけではないので、最低限の責任は果たそうとは思っています。

気持ちの共有は、一般的な親子ほどありませんね。ましてや、アスペの子供たちとは、共有できないところの方が多すぎて^^;

いいのか悪いのか分かりませんが、子供はそれぞれ自由で楽しそうです。

あすなろさん

 なるほど,そういう「割り切り」がどうしても必要だったのですね。
 でもそれでお互いの間にいいバランスができるのなら,OKですよね。

 親子でバランスが取れても,周囲の理解はなかなかむつかしいというところがしんどいところだなあと。世の中はそういうバランスではない形でバランスをとって成り立っているところがあるから,どうしても折り合いが付きにくい。「お互いさま」の関係が成り立つのならいいですが,そこがむつかしいですもんね。

 結局一人一人の人が,自分の持って生まれた傾向とか,周りの環境とか,そういう個人的なものによって,それぞれのバランスを模索しながら生きていて,そのバランスの目指し方が「当然のこと」とか「普通のこと」とか,場合によっては「正しいこと」と,ごく自然に感じてしまう。ほんとは「自分にとっては当然」「自分にとっては正しい」ということを超えないんだと思うんですが。

 でも,なんか一緒に生きていかないといけないから,お互いにそれを押し付けあう。私なんかも以前に比べればだいぶそういうのは少なくなってきたとは思いますが,決してなくなりません。結局自分のやり方を全部否定したら生きていかれなくなりますし,お互いにどうしても譲れない部分が出てくる。

 一緒に生きていくのをやめれば問題はとりあえず目の前からなくなりますけど,実際にはそんなこと完全にはできませんものね。それができるならアスペの方も定型社会で苦労はしない。定型の側からいっても同じです。

 どこまでいってもその矛盾は消えることはなさそうですけれど,その中で,あすなろさん親子の中ではお子さんにとっていいバランスが作られているのだとすれば,そこは素晴らしいなと思います。別にすべての人にそれが通用するものである必要もありませんし,まずは足元が大事と言う考えもありますよね。最近ちょっとそんなことを考えることがあります。

この場合の「恥ずかしい」の感覚、私の場合は後付けの物で「普通」の「自然」な感覚ではないです。もともとがADHDで変わり者(人と違う発想ができる事がうれしいという感覚を持つ子供)だったので、自分自身が「恥ずかしい」と思われる(一緒にいる人に思わせてしまう)側でしたし…。

しかし、こういう周りに合わせる為に子供や彼氏に無理をさせてしまう事が現実あります。その感覚を「恥ずかしい」だと今の今まで思っていたのですが気付きました。
「恥ずかしい」ではなかったです。仲間はずれにされる可能性、いじめられる可能性、合わせておいた方が力になってもらえる…など感情というより打算的に考えた結果でした。
先天的には私は、人と違うこと、変わった発想をすること、自分軸で生きることに喜びを感じていたはずですから。すっかり忘れていましたが 笑 私、ADHDの私が大好きでした。

育児の話は、あすなろさんほどまだ割り切れてはいませんが、いろんな事はいい意味であきらめました。
私は、おかずを何品もたくさん作れない!片付いたきれいなきれいな部屋をキープできない!プリントに書いてある持ち物を見落としたりする!だからってもう誰にも「母親失格」なんて言わせません。私は私のできる愛情のかけ方をしていこうとなんだか決意しました。

ガーディナーさん、パンダさん、あすなろさんのおかげで私は自分の基礎(世間体ノイローゼいなる前の無垢な自分)を思い出し、なんだか強くなったっぽいです 笑
ありがとうございましたー!!

テンションMAXのまま書いてしまい、お騒がせしました^^;

noaさん

> 私は私のできる愛情のかけ方をしていこうとなんだか決意しました。

 この言葉はなにか心に響くものがありますね。

補足です。

責任を感じないことと、世間に責任を取っているように見せることは、別だと考えています。

なので、子供が犯罪を犯したら、真っ先に謝罪しますね。
女優Tみたいに。(笑)

あの女優さんも、ある意味、自責は少ないのかなと感じました。
もちろん、ストレスは大きいですけど。

世間はそういう表面上のものを求めているから、下手に自分の主張を通して敵を増やす必要はないかなという打算です。

息子が濡れ衣を着せられたときも、教えました。
『あなたは、悪くは無いけど、それを主張するより、謝った方が早い!』

そう言えば、あの時くらいから、息子も開き直ったような?

世間を舐めて掛かっている親子なのでした^^;

やっぱり!

今 掲示板やここの流れは、根っこは同じタイプの人が、これまでは 世間を意識して、言わないで来たところを次々に言い始めた・・
以前から 思って来たけど、ここに来ている方たちは、根っこは本当によく似たタイプですよね。
互いに ここまで本音を言わないうちは、違うタイプだと思って来た人たちもいたようだけど、こんなに解り合えるって喜んでいるところでしょう?

それに水を指すつもりは全然ないんだけど、高畑親子についてのあすなろさんの解説を聞いて、ここまで開き直っているのかと 空恐ろしくなったので・・・

どうして、そこまで開き直るのか、
それは、自信を持ちたいからじゃないですか?
子供にも自信を持たせたいからじゃないですか?

でも、本当の自信というのは、いかにもという わかりやすい自信、これまで世間で思われて来た
のとは違いますよね。

いじめられたくないからではないですか?
人の優位に立ったら いじめられない、とシンプルに思っていませんか?
そのためにも、社会的なステイタスが必要、と人一倍思っていませんか?

それもあって、めちゃくちゃくちゃがんばって来ませんでしたか?
心身を壊したこともあったかもしれないですね。

なので、純粋ですごく親切 困っている人にすごく優しいのに、大事なところで本当の事を言わない、身近な人を思い通りにしようとする、しばしばふんずける、という両極があるのではないですか?

今は 時代の流れが早い上に 寿命も長いから、ステイタスを獲得しても 途中で価値がなくなってしまうことも少なくない、ここがこれまでと大違いですよね。
例えば 歯医者さんになっても、今じゃ 都会では コンビニよりも多いとか・・


そういう中で どうやったら幸せな人生を送れるのか。
その一つのスキルが、自分や まわりの人の特徴を知る、ということで、このブログが そういう場所になっているわけですよね。

なのに、何かアクシデントがあると、優位に立つことやステイタスを守る、というわかりやすいものに 手っ取り早くこだわりぎてしまう・・
困っている人の話をよく聞いてあげたり 世話をすることで、自分の方が優れている、と感じる人は、世話をしすぎてしまう・・もちろん純粋な気持ちからもあるんだけど・・

こういう落とし穴を避けて来た人は、自分の中のいろんな面を楽しめたり、人生の波を楽しめたり、身近な人との関係を楽しめるようになるんじゃないかしら。


わたしのまわりを見ても、定型 非定型は必ずしも関係ないと思うんですよね。
たぶん40歳前後から50歳前後のどこかで どう腹を括るか?で違ってくると思うんだけどな。
(もちろん、わたしが 全部できてるという意味ではないし、ここに来ている人にも そうやって来た人もいるようだけど)


noaさんへ~o(*^▽^*)o


またしてもnoaさんのコメントを見てさらにさらにコメントをしたくなりました!

私は独身だし子どももいないのでお前が何を言ってる?(自分突っ込み)って感じなんですが、昔から私が親に思ってたことを書きたくなりました。

私は親にはただただ幸せでいてほしいと思ってました。今も変わらず思っています。親にも言うので親も知ってます。
何かができることよりもただどうか幸せにいてほしい。いつも笑顔じゃなくてもいい、怒っている日があっても泣いてる日があっても子どもみたいな日があってもやっぱり大人だなと思う日もあって・・片付けなんてはっきりいってできる人がやればいいしやる人がいなくても片付けできなくても死にはしないから別にどうでもいいし流石に死にそうに汚いなら面倒くさがりの私がやればいいよーって感じです。あ、私の親の話じゃなくて、片付けに関してはnoaさんが私の親だったらって話です。

私自身があまり親にしてほしいことも対してないので思うのかもしれませんが、料理なんて食べられれば何でもいいし、疲れたら買ってきてもいいしなんだったら食べない日があってもいいし、部屋なんて別にどうでもいい(ほこりじゃ死なないは秀逸な言葉だと思う私)、頑張ってる親ももちろんかっこよくて大好きだけど、頑張らなくていいのんびりしてるそのまんまの親も大好きです!

他の人は知りません。色々な人がいて色々な価値観、考え方があるんだとおもいますし、それでいいのだと思います。

ただ、私は親にはいてくれてるだけでいい、そう思います。


noaさんの文章を見ていたら親に大好きだよー!って伝えたくなりました。

またしても感謝します!
ありがとうございましたーヽ(´▽`)/

ココチさんへ。

とても心に刺さる文章でした。
先日はガーディナーさん、あすなろさん、ぱんださん、かぼちゃさん、キキさん、色々な方から感じる・・というか学ばせていただいていたことに繋がるんですが、ここにきて、出るわ出るわ自分の傲慢さ、慢心、人間不信・・と笑ってたんですがある意味思うことがあったので書いてみます。

先日私はあすなろさんへ掲示板で私は人に頼るのが苦手と書いたんですが、それは事実なんですが、もっというと、自分よりも年上の人に頼るのが苦手・・なんです。

もちろん基本中の基本で相手によります。

素直に心から尊敬できる方は数え切れないほどいらっしゃいますし、親しく関わらせていただいてる年上の方も年齢性別問わずいらっしゃいます。
これまで書いてきたことも全部本音です。

ただ、空気を読まずに言ってしまえば、年上の方には勝手な期待が私の中にあるので同世代や年下には感じないくらいいらいらすることも正直あります。

誠に勝手、ほんと、これは単なる私の身勝手、わがまま、完全に私個人の問題ですが、年上のあなたが、そのポジションにいるあなたがもっとこうやってくれたら下はもっとのびのび自由にできるのに!と思うことが事実たまにあります。
そんなのは個人の好み、能力、考えあるでしょうーとの自分の声もします。
それでも正直いうと今の今までずっとどこかしら思ってました。
職場でも正直思ってました。(何度でも言うけど人による。まあほとんどの人は素直に尊敬できる人たちばかりだった)
人としては尊敬してる、この世界で長く生きてる先輩として単純に敬意もある・・・でもそのこととそのポジションの役割は違う・・・こういう個人的な私の思い込みがあるので何度いらいらしたか知れません。

これがいいのか悪いのか、もうそんなことはいいので書いてしまいます。
あくまでも私個人の偏った一意見です。

私はアスペなので、好き嫌いでは物事を判断しない一面があります。認める部分主義というかある意味実力主義的なところもあると思います。
これが定型社会ではあまりうまく伝わらなかったことも多くあります。
人としての尊敬とその仕事?への向き不向きって別物だと思っています。少なくとも今の現実では。今後は社会幻想しだいで変わっていけると信じてます。
人間性は否定しない、いじめもしない、でもどう考えても向いてないだろーと思ってしまう一面も持っているんです。先日あすなろさんとみつみさんがお話されていた掲示板に話が似ていますが、私はどちらも共感できました。
みつみさんのおっしゃる公平性と人としての尊重と仕事の出来は別物という合理的な割り切り方も、あすなろさんがおっしゃる本人の自由な意思を尊重してどうやったらその人らしく働けるのかを考えみんなで工夫していけたらいいという想いも。


私は先日まで最低ですがどこか年上の人に対して不信感がありました。すみません。
何度でも言いますが、全員に対してとかじゃないです。
もちろん、尊敬できる人が大多数、でも正直・・なんでそうなる?と不可解な大人もいます。ほんとはそんなの人によるのに、私は年上にだけは期待値が高すぎて逆に失礼、傲慢になっていました。

ここの皆さんのおかげで、年上への見方も改めて考えさせられました。
これまでの失礼にはお詫びと心からの感謝をおくります。

追伸:それでもこれまで書いてきたことはどれも本心ですよ。そこだけは譲りません^^

追伸の追伸:今までは見守られてるっていやーだったんですが、今はくすぐったいけどあったかくていいものだな・・なんて思い始めました。みなさんのおかげです。ありがとうございましたm(_ _)m

ココチです。

思い出した。

こういうやりとりになると、ガーディナーさんが、コメントを入れにくくなってなってしまうかもしれないですね。
議論は苦手、とあったので・・

そうなるのは残念だな。
わたしの書いたことは 特定の誰かに向けたものではないし、特に触れずに いつものように書いてくださっても 全然かまいませんからね。

ココチさんへ~

何回もすみませんー(*゚▽゚)ノ

ココチさんのお話にあった「両極」、私の大好きな両極性なので思い出したから書いておきたくなりました。

私は元々ものすごく両極性が強い人です。
私はそういう自分が大好きです!もう本当そこがいい!と思っています。

この両極ってなぜか私が強くそういう人みたいな空気になってもおかしな話なので書き足しておくとこの世のすべてが両極でしょう~?とずっと思っているんですがどうですかー?

この世界はそもそも光と影。
命は美しく残酷。
人間だって、大人の部分と子どもの部分。
男性性と女性性。
アスペっぽい部分と定型っぽい部分。
・・・・上げたらキリがないですが、この世界はすべて両極性とバランスでできてる・・そう思います。

そしてほんとにみんな同じものを持っている。

他の人からちょっとずつ欠片を集めてきたら私ができる・・・そう思います。


日々本当に学ぶことが多く、知れば知るほど自分の知らなさが身にしみる、本当に自分1人では到底味わいつくせないこの世界は綺麗ですね。
他の人の人生、見てきたものを聞くたびにまだ見ぬ世界を感じられて感謝です。
私は自閉ぎみですが、人の話を聴くのは昔から好きでした。
でも本音だったら・・・ですけどね。・・・違うか、たとえ嘘でも誰かのための優しい言葉は聴くのが好きでした。それは決して嘘ではなかったです、私にとっては。まあ、大切な自分を守る精一杯の嘘もまた愛おしく嘘ではないのかなとも思います。
最近、ここも前よりもずっとずっと格別に好きです。

なんのこっちゃですねー。あー恥ずかしいわー。何いってるんだ???

私のコメントもたいした意味もないので流してもらってかまいません。

議論でも世間話でもなんでもありで好きにやりましょうねー。


>ココチさん

うーん。何か誤解されてますかね?
高畑親子の話なんて、絡ませてしまったからでしょうか?

私はべつに人に良く見られたいという意味で言ったわけではありませんよ。

世の中には話の通じない人間が多い。
その場の印象だけで人を判断しようとする傾向が強い。
マスコミなどの報道は特にその傾向が顕著なので、そんな人たちにいちいち、本当はこうなんです!と弁解したところで聞く耳を持ちません。
弁解すれば、さらにそこを叩くだけです。

だから、自分の信念はブレずにもっていればいい。多数派が何と言おうと、それは『印象』に左右されていることも多いから、それには惑わされることはないということです。

息子が友達に無実の罪を着せられたときも、必死に息子の正当性を分からせようとしました。
けれど、誰も味方をしなかったんです。

結局、息子より相手に付いたほうが有利だったからです。

私は相手を分からせてどうにもなるものではない。自分が悪くは無いのだから、そこは信じていていい。しかし、相手が謝罪をして納得するなら、それはある意味パフォーマンスとしてやっておくべきだと、説明しました。

対人関係は、ほぼ、パフォーマンスで成り立っています。
その中で自分を良く見せることも可能ですが、自分の価値観とは違うパフォーマンスを見せることで、余計な攻撃受けずに、自分の信念を守ることもできる。

そういった使い分けができるという意味です。

私はこの場ではそんなパフォーマンスを使っていません。けれど、世間には、どうにも話の通じない人がたくさんいます。

そういう人と接するとき、パフォーマンスを使って適当にあしらうというのも、社交術といえるのだと思います。

割り切るということについて

基本的に、他人である限り、誰もその人の本当の思いを知ることなどできないんです。
夫婦であろうが、親子であろうが、こうしたら通じるなどというノウハウはありません。

しかし、世の中は分かった気になっている人が多い。
それは多数派が同じように感じる傾向があるからです。
同じものがいくつか揃うと、この人とは意志が通じると感じます。
すると、ツーカーで同じ方向で行動することができます。
アスペと定型間にどうして隔たりができるかといえば、その『揃うもの』があまりにも少ないからです。
揃うものが少ない時、初めて人間は、この人とは通じないと感じます。

しかし、揃うものが多い人とは、本当に意志の疎通ができるのでしょうか?
揃うものの部分では、意志の疎通ができると思います。人間は厄介なことに、そこで意志の疎通が出来てしまうと、全てが通じると錯覚してしまうのです。

これが錯覚でなかったら、多くの人間関係は、破綻や争いを起こさずに、ずっと安泰に続いていくことでしょう。
けれど、錯覚しているがために、時々争いが生まれるのです。

アスペなどの少数派は、多くの定型と『揃う部分』があまりにも少ないために、そのことに気付きます。
所詮は、人が自然と同じ方向に行動するわけでは無いということに気付かざるを得ません。

だからこそ、孤独を実感し、個々はまるで別物なのだと知ります。

揃う部分が多い人間が、足並み揃えて作り上げるのが、共同幻想です。
それは、一人の力より、よほど大きな力になります。

しかし、その恩恵ばかりを受けてきた人は、そこから外れることに危機感を覚えます。
何とかして共同の真理があるのだと信じようとします。

民主主義社会では、複数の人が真理と言ったものは、真理になります。
しかし、これは単に人数が多かっただけで、その真理を真理と思わない人は、必ず存在するわけです。
多数派社会は、そういう少数派を排除することで、安泰を保とうとします。

人が人の気持ちを知ることが出来ると思い込むことは、結局、それに見合わなかった場合、反動で激しい抵抗感を覚えるのです。

本当は人の気持ちなど、目に見えている事象でしか分からない。
その裏の心理を知るには、よく話し合ったり、同じ傾向の人を見て考えるしかない。

まずは、自分以外の他人については、例え家族であろうが、自分の憶測だけで判断できるものではないという割り切りが必要なのだろうと思います。

本当のコミュニケーションは、知らないからこそ、憶測ではなく、しっかり相手を見つめようと努力することから始まるのだと思います。

みるきさん

そうそう、両極の話は そう思う人がいるかなぁ、と書きながら思ったもので 「自分の中のいろんな面を楽しめたり」と、後の文で書くことで、 自分的にはフォローしたつもり。

以前にもね。 アスペルガーの型について このブログで話題になった時も、「最近 大人の場合は、くっきり分けられるというより、こういう場面では~型、こう言う場面では ~型が出る、と 説明する先生もいる」という意味のことを わたし書いてるんですけど、こういう考え方好きだし・・


みるきさん

少し前に ちょうど みるきさんとすれ違いでコメントが載ってしまったので ? てな感じになってしまいましたね。
みるきさんのコメントは「年上」というキィワードから 思うままに 素直に書き綴ったように わたしには読めました。ただわたし自身のことについては 特に言及していなかったので、ほのめかす書き方になっているのか(チクリと)、別にどうということでもないのかわからないんですよね。
まぁ このままにしておくのがいいのかな、と・・

なので みるきさんも 返事はお気遣いなく・・

そうか,わたしは 高畑親子の件について,わかる範囲で事実関係を すごく調べたんだった。
TVからは 見てないけど,信憑性のある情報が出揃うまで,何日もインターネットの情報を見ていたんだった。

もともと 高畑さんがバラエティーに出始めの時,安住アナに自分のことを面白おかしく話している番組を 偶然2回見たことがあったし。
息子さんが小さい時のことや生活も インタビュー記事で読んだことがあったし。

今回 法律的なこともいろいろ出ていたので,信憑性のあるのはどれかと。
発達障害の件についても同様に・・

その上で、わたしなりに出したアウトライン的なものがあったんですね。
必要以上に 叩かれた部分があった一方で、勘違いから共感されてもいるのも現実だなと。

その上で書いたのが、最初のコメントだったんですよね。
そこが書いてないと、びっくりさせちゃったかも。


あすなろさん

一つ前のコメントがすれ違ったようですね。

うーん、あすなろさん個人に向けて書いたものではなかったんだけどなぁ
間に他のコメントが入らないように 急いで送信しちゃったもので、あすなろさんに書いたかのような語弊のある書き方になってしまったとしたら、悪いことしちゃったですね。


ただ、高畑さんの件について 根拠のある情報を集めてから 自分なりに判断したことからわかるように、わたしって定型(より)だけど 大勢の人の影響で わかった気になるのはイヤ。
パフォーマンスにだまされたくない。(肝心なところではね)


その証拠に、にわとりさんの例の件、あの 繰り返し話題にのぼる件ありますよね。
定型の人たちが何人も似たようなことを言ってたけど、わたしは違うスタンスだったし。

それから、夫婦でも割り切る、ということについては、以前の記事で、アスペルガーのパートナーが変わるとか変わらないとかで コメントが白熱した時に「家庭の中で距離を置いている うちのようなケースもあります」と わたし書いたんですよね。
うちは、結婚して初めの15年に 夫の仕事を手伝って 四六時中一緒にいたので、多くの夫婦が定年後に気づくようなことを 早めに割り切れたのかもしれないけど。
もともとがわたし 「普通は~」とか「常識は~」とか言ったことなかったし。

学校時代のクラスで、女の子の グループ二つくらいと 二人組が三つくらいあれば、どこにも自由に出入りしてた・・
そういう子って見かけませんでした?
群れるのも割と好きだけど、どうしてトイレまで一緒にいかなきゃなんないのかわからなかった。行かないときもあったりとか。

親しい人と旅行に行ったら、途中 それぞれ好きなところに行って また落ち合うのが好き。

今はツァーも フリーな部分が多くなっていい時代になりましたよね。

老人のデイケアだって いっせいにおんなじことしなくたって、自由参加だったり したいことを選べるようになって来てるようだし。

もともと わたしはそういうのが好きだからうれしい。

こういう定型もいるってことで 何かの参考にしていただければ。


みるきさんへ(^ ^)

みるきさんの親御さんへの気持ちを読んでいたら、ほっこりして温かくてズキッとして泣きたくなりました。ん?なんで「ズキ」って思いましたか?私も思いました 笑そして、発見したんです。自分の両極を許せていない自分を。

みるきさんの気持ちがあまりにキラキラまぶしくてキレイで誇り高くて愛に満ちてて、うらやましくて子供の頃の私が出てきたんです。私が私を心から許せていなかったから、まだ私の中奥深くにその子はきっと隠れていたんです。

私は、私の親を嫌いでした。憎みました。だけど本当は大好きでした。愛して欲しいという気持ちを諦められないのに愛される現実は諦めてました。矛盾だらけで分裂しそうでした。私、親がいなくなればいいって思ったんです。本当に本気で。そんな自分に吐き気がしました。

親に感謝をしようってイベント毎に、世間に逆らって「親なんて嫌い」と本音を言って人間失格みたいな目で見られる勇気もなくて、反論できない度に敗北感と屈辱感でいっぱいでした。
結婚式で親への感謝の手紙を読みながら私が止まらなかったのは、悔し涙でした。

そんな私を私は許せなくて愛してあげられませんでした。自分も親になってからは、だんだん親も仕方なかったんだなって思う事が増えて親への憎しみはもう感じる事がなくなりました。だから忘れてたんでしょうね。親と一緒に昔の自分を許してあげる事を。

今度こそ許そうと思いました。こんな風にまだ奥に取り残されているかもしれない子供の自分をまた見つけたら、その都度許して愛そうと思いました。さっき、掲示板でblueさんへのお返事を読んでて、本当にまぶしかったです(^ ^)

こんな所でいきなり自分の棚卸をしてしまい、皆さんすみません。書き始めたら止まらなくなってしまって 汗 両極にいる残酷な自分も大好きになりたいって、みるきさん見ててすごく思ったんです。

>ココチさん

誤解でしたら、いいのですが、どう読み返しても、『開き直ることが空恐ろしい』『それは、自分と子供に自信を持たせたいためだけだ』『その自信は、社会的ステータスを守ることで保とうとしている』としか読めなくて……。

そこまで開き直ってしまう私が、何か虚しいものを守ろうとしている。
と、読めてしまいます。

ごめんなさい。私の読解力では、その様にしか読めませんでした。

最後の方向性は、確かに同じなのに、ココチさんが誰に向けてそこまで強く問い掛けているのかが、全く分かりませんでした。

>パフォーマンスに騙されたくない。

ならば、ココチさんは高畑親子の何を知っているというのでしょうか?
調べた、注目していたと言っても、結局、マスコミを通じての情報でしかなく、これまで縁もゆかりもない人を、テレビ向けに編集された情報で知るしかないわけです。

仮に高畑親子が長年親しい間柄であったとしても、真相を知ることは出来ないし、ましてやご本人の心理まで推し量ることはできません。

万人向けに、パフォーマンスをすることは、高度な社交術だと思いますし、それに騙されたつもりで納得するのも、社交術だと思います。

近しい間柄の人であってもそうですよね。
ココチさんがご主人との関係を割り切っているように。
私は、個人的に、割り切った上で、接点を保とうとするのと、割り切って一切の関係を切る場合があります。
前者は、相手のことにただひたすら耳を傾けて想像するが、それを信じ切ってしまわずに、常にどういうことなのか知ろうという姿勢を持つこと。それが信頼なのだと思います。
後者は、どうしても信頼の置けない人であり、知ろうという姿勢も持たないことです。

それは、自分の側の都合なので、相手に全て問題があるわけではない。
けれど、どうやっても嫌いなものは嫌い。歩み寄る気持ちにはなれないわけです。

そういった関係においても、パフォーマンスは有効です。
仕事上で接しなくてはいけない人に、嫌いだから近づかない、話をしないということは出来ないので。

高畑淳子さんも、そういう割り切りで記者会見を開いたのだと思います。
家族が犯罪者になる。本当なら、あんな場に顔を出すことすら出来ない。素人なら、カーテンを閉じて家に引きこもりますね。

石田衣良さんの小説に、家族が犯罪を犯して崩壊していく家庭の様子を描いたものがありますが、それほど世間は容赦ないものですから。

あのパフォーマンスは、息子と家族を守るために非常に有効であり、役目は果たしている、これ以上詮索するなという強いメッセージだったと思います。それで家族を守ろうとしたのですから、赤の他人が、それに騙されたくない、真相を知りたいと思うのは、野暮な話ではないでしょうか。

『人を理解することは出来ない』という割り切りから、関係を構築する。これも信頼関係だと思います。

>noaさん

水を差すようで悪いかもしれませんが。
みるきさんは、ご両親に恵まれた方なんですね。
どうりで、皆さん一人一人のことを丁寧に考えられる方なのだなあと分かりました。

親との関係は、運です。
本来なら、みるきさんのご両親のような愛情の基礎があって、人格が安定するのだと思います。

私はその逆でしたので、不安定です。
親はもちろん意図的に私を追い詰めようとしたわけではないことは分かっています。

だから理解は出来ますが、感謝はしません。
親だから感謝しなくてはいけないという思いも、共同幻想だと思っています。

みるきさんは、ご両親の愛情に、自然と感謝の気持ちが湧いている。
どんな人間関係でも、与えてもらったものが多ければ感謝の念は生まれます。

親子だからといって、与えてもらえるのが当然、感謝するのが当然は、あり得ないと思っていますし、そう思ってからすごく自分が安定しました。

そんな私のような例もありますよ、ということで。

パンダさんへ。
こんばんはガーディナーです。

今日の記事を読ませていただき、ちょっと驚いたというか、いろいろ考えたことがあります。これは、多分私がこのブログに出会ってから、自分とパンダさんとの感覚の隔たりを一番大きく感じた記事だったと思います。
では、まず何に驚いたかと言うと・・・。

>(カナータイプの自閉症児の)その子が(公共の乗り物の中で)
>喜んだりなにかでいらだったりして大きな声を上げることがあって,
>そうすると「恥ずかしい」という感覚が湧いてきてしまった話を思い出しました。
>比較的最近までその「恥ずかしい」と感じることは
>「普通のこと」としか思わなかったのですね。

という部分です。障がいをもった方と一緒に外出すると恥ずかしいと感じられる方たちが一部にいるということは、私も知っていました。でもそれはうんと遠い話で、私はそういう人とは真面目に話し合うとか、楽しくお付き合いするとか、そういう関係にはならないだろうな、と漠然と考えていたのです。私とはかけ離れた感性を持っている人たちだと思っていたのです。

私はついこの間もお話ししましたが、障がいを持った方たちと一緒に音楽をすることを仕事にしています。一番初めに出会ったのは、知的障がい者の親の会の団体でした。

私は子どものころから、知的障がい児さんに対する憧れ、と言ったらおかしければ、羨ましさの様な気持ちを持っていました。私はいつも普通クラス(定型さんがいっぱいの集団)で頑張らなくてはいけない立場、でも、障がい児さんたちは特殊学級で、のんびりと暮らしている、お母さんや先生たちもなんだか優しそう、そんな彼らがとてもうらやましかったのです。

私が初めて知的障がいの青年達と出会った日の感激は忘れられません。満面の笑み、体の奥から踊る歌声、突然のハグ、拍手、明るい歓声、興奮・・・。
私は今の仕事を、そんな幸福一色の一日でスタートさせることができました。
彼らとは時々一緒に外出することがありますが、電車に乗れば、みんな競うようにして私の隣に座りたがり、仲間同士で何か諍いがあれば、足りない言葉で必死に私にその窮状を訴えに来て、別れ際にはいつまでも惜しんで握手を繰り返し・・・、心の底から笑っているときの姿が一番美しい、というのであれば、私は彼らとともにいるときほど美しくなれるときはほかにないでしょう。
電車の乗客たちからどんなに好奇の目で見られていようが、私はみんなに囲まれてこの上なく幸せで、とても誇らしい気分です。

・・・・・という経験を積んでいる私にとって、彼らと一緒にいると恥かしい思いをするということが、どうしても感覚的に掴めないのです。

で、冒頭にも書きましたが、それを恥ずかしいと思われる方たちも一部にはいる、という認識は持っていました。でもそれは私にはあまり係りのない人たちだし、若い頃は(ここからがとても言いづらいのですが)そんなことに恥ずかしがるような人はどこか欠陥があるのだから、私が付き合うに値しない人たちだ、と思い込んでいました。
今ではさすがにそこまでは考えていませんが、それでも、そういう人たちとはできればお付き合いしたくはないと、つい昨日まで感じていたと思います。だから今日のパンダさんの記事を読み、とても驚いたのです。

でも、その驚きは私には良い刺激となりました。
「障がい児さんと一緒にいると恥ずかしいと思う人=付き合いたくない人」という私のある種の決めつけに、ちょっと待って、とブレーキをかけることができたからです。
もしこれが現実の生活の中で、今まで信頼してきた相手が、突然「私、障がい児さんといっしょに歩くと恥ずかしいの」とか言って来たら、ちょっと相当ショックを受けると思うのです。怒りの感情が出たり、場合によっては喧嘩になり、もう二度とお付き合いしたくない、と思ったりするかもしれません。私の大切にしている人たちを「恥ずかしい」と言われるのですから、私が冷静でいられるわけがないのです。でも、幸いここはネットの世界。怒りをぶつけることができないし、ゆっくり考えることも許される世界です。そこで、今まで私が考えていた「障がい児さんと一緒にいると恥ずかしいと思う人=付き合いたくない人」という公式を疑ってみることにしました。
このブログに出会って数か月、パンダさんが間違っても差別意識の強い人だとか(差別心の全くない人はいないと思いますが)、障がい児さんを軽蔑している人だとか、それは考えられません。だからそのパンダさんが、「恥ずかしい」と言われても、不思議と怒りの感情はわいてきませんでした。それよりも私の決めつけを外して、どうしてそう感じるのかを知りたくなったのです。
また、今日の記事の中では「恥ずかしい」と感じられたのはお若い頃だけで、最近では、それを当然の感覚だとも思われなくなっている、という意味のことを仰ってました。
今では、障がい児さんと一緒に電車に乗られても、恥ずかしさを感じられなくなったということでしょうか?
だとしたら、どういうきっかけでそういった変化が生まれたのか?それも気になるところです。
①障がい者に対する見方が変わったのか(例えば、障がい児が電車で大きな声を上げることは恥ずかしいことではないなど)、
②それとも恥の意味が変わったのか(例えば、恥ずかしいのは同じだが、自分と彼を切り離して考えるようになった、とか)。

もちろんこれはパンダさんの心の問題で、私の踏み込むべき場所ではありませんが、もしお時間があれば教えて頂きたいと思います。

最後に一言。反対に私がどういう人と一緒に電車に乗ると恥ずかしいと思うか、ということも考えてみました。「大工さん?」「お巡りさん?」「舞妓さん?」「お殿様?」「リトアニア人?」「エスキモー?」「不動産屋さん?」「お相撲さん?」「ドラえもん?」「・・・・・?」考えても考えても思いつきません。誰と一緒にいるところを見られても、きっと恥ずかしくはないのでしょうね。
あ、そうか。でももし、すっごくハンサムな男性と一緒に電車に乗ることになったら(ならないけど)、なんか「こっちに落ち度はないか」「粗相をしては大変だ」とかいろいろ考えて、オドオドして、そんな姿を公衆にさらすのはきっと恥ずかしいだろうな。だからパンダさんとは絶対に一緒に電車に乗りたくありません。

あすなろさんへ。
こんばんは、ガーディナーです。

あすなろさんの書かれたコメント
>例え、子供が金メダリストになろうとも、
>自分の教育の結果だとは絶対に思わない。
>例え、子供が犯罪者になろうとも、
>自分の教育の失敗だとは決して思わない。
の部分、とても興味深く読ませていただきました。実は私も3人の子供たちを育てる中で、全く同じ考えにたどり着いたからです。

私の長女も、本当に言葉にはしがたい難しい子供でした。どんなに心を尽くしても、決して思い通りにいかない子どもたちとの生活に、母親である私は、どれほど自信を無くしたことでしょう。
今私は「どんなに心を尽くしても」と書きましたが、本当は、そんなに心を尽くしてばかりでもありませんでした。疲れて疲れて、子どもに真正面から向き合う気力もなえ、問題から逃げていたことも多くありました。
私の夫は、いつも私と同じ目線で子どもを見つめようとしてくれていましたが、何かあればまずは「あそこの家のお母さんはどういう人よ?」と言われるわけで、私はその重圧に負けそうな毎日でした。

それでも長女には長女の、私たちには全く知らない世界があり、高校に入ったころから、彼女なりの方法で、世界を歩くようになり、いつからか、安心して見ていられる生活を送るようになりました。
今にして思えば、もう、私たちが、この子にはどう頑張っても仕方ない、なるようにしかならない、精一杯向き合った結果がこうなんだから、仕方ない、という思いを持ったころから、彼女は変わったような気がします。

今は大学やバイト先で、表彰されたり、何かの代表になったりすることも多い長女です。私は、彼女が頑張ったことに対しては素直に称賛します。でも、それについてよそ様からいくら褒められても、決してこれは私の手柄ではない、すべては長女自身の努力と、周りの人たちの支えの中で得られた喜びだと、ごくごく自然に考えています。
また、その逆も考えます。私たち夫婦は、ある時期(長女が高校2年生くらい)までは、彼女が何か大きな事件を起こしても全く不思議ではないと感じていました。そのことを知人にふと漏らしたら、「親が娘を信じられないようでは、子どもは絶対に救われない!」と激怒されました。いえいえ、信じる信じないの問題ではなく、長女は本当に何を持っているのかわからないようなところがあったのです。全力を尽くして育てても、親の力ではどうしようもできないブラックホールは、もしかしたらマスコミを騒がせるセンセーショナルな事件と紙一重のところに存在していたのかもしれません。

今回話題になった女優さん母子のことについて、私はあまり詳しくありませんが、それに限らず世間を騒がせる事件が起きると、必ずマスコミはその容疑者の親を厳しく追及しますよね。
私はそこで親を一斉非難する世論がとても怖く感じられます。こぶしを振り上げている一人ひとりは正義感に満ちた思いで声を上げているのでしょうが、いったいどれだけの人が、その容疑者を育てた親の苦労を想像しているというのでしょうか?自分がどれほど正しいと思って、たった一人のその人を非難するのでしょうか?
多分、世の中には私には理解できない何か大きな社会的感情というものが渦まいていて、それに逆行するような人たちが現れると眉をひそめ、場合によっては一斉に攻撃を仕掛けたくなるのです。そしてマスコミは怖いです。社会にフラストレーションがたまった時に、何かがあると、その渦中の人への攻撃は留まるところを知りません。

あ、ちょっと話がずれてしまいましたね。そんな私たちと長女の関係ですが、私がこの娘を以て本当に救われたと思ったことを最後にお話ししますね。
多分私は長女を育てなければ、「子どもは結局親次第で良くも悪くも育っていく」というような考え方をしていたと思います。親さえしっかりしていればこんな子にはならなかったはずだ、という思い込みが、どれだけ多くの親たちを窮地に追い込んでいるかを考えると、私がそんな考えに染まらなくて本当に良かったと思います。そんな当たり前のことに気づかせてくれた長女には本当に感謝しています。


ココチさんへ。
 いろいろお気遣いありがとうございました。でも、大丈夫ですよ。ほら、ちゃんと、投稿できたでしょ!?

ガーディナーさん

 たぶん,出発点のところでちょっと行き違いがあって,最後の二つのご質問が答えられない形になってるみたいです。

>障がいをもった方と一緒に外出すると恥ずかしいと感じられる方たちが一部にいる

 このあたりのことです。

 私が書いたのは,「障がいを持った方と」でなくて,「たまたま自閉的な特性を持っていた子が,周囲の状況からすると<不適切>と言われるふるまいをしたとき」なんです。別にその子といるのがいやとか,恥ずかしいとか,そういう感覚は全然ありません。楽しく遊ぶ時は楽しく遊びます。(もちろん楽しさに共有に独特のむつかしさはありましたけど)私とその子と一緒によく外出したり遊んだりしていた弟さんは,成人してからもすごくいい思い出として思い出してくださっているみたいです。

 少しわかりにくければ,こういう説明ではどうでしょう?私の子どもがお呼ばれに行って,礼儀に反するふるまいをしてしまったことがありました。そのときも見ていて恥ずかしかったんですね。それと同じ話なんです。

 ということで,最後の二つの疑問が成立する前提がないと思うのですが,どんなものでしょう?

 

>ガーディナーさん

何だか私の経験とすごく似ていて、思わず笑ってしまいました。

私にとって一番理解が難しく、今でも意思疎通が難しいのは、アスペである長男や次女でなく、定型の長女なんです。

彼女とは、幼稚園の頃から『折り合わない!』と感じて、余計なことを言わなくしました。
躾をしようにも、まず反抗してくるので、手に負えませんでした。
私がきちんと躾けられなくて恥ずかしいと言うと、娘の友達のお母さんは口を揃えて『ちゃんと躾られていて、良い子じゃない』と言う。

娘は、家庭の顔と他所の顔を器用に使い分けられる子だったのです。

そんな娘の実態を知っても、やはり私には反抗的なので、良くは思えません。
私だけでなく、弟や妹に対してもキツイ。
弟の障害のことを理解させようとしても、聞く耳を持ちません。ついには喧嘩のついでに『この障害者!』と罵ったこともあって、愕然としました。

しかし、彼女は、弟や妹が学校で目立っていることで、親には言えない被害を被ってきたのです。
だから、世間でいう障害者蔑視ではなく、自分が理不尽な思いを押し付けられてきたどうにもならない怒りを、弟にしかぶつけることが出来なかった。
家族というクッションの上で、世間でうまくやっていこうとする傾向が強いのかもしれません。

なので、私は彼女に一切何も出来なかった。触れないようにしていたら『私の部活の大会のことなんて頭にないでしょ?』と恨みがましく言われたこともあって、構って欲しいのか、放っておいても欲しいのか、全く分からん!と思ったこともあります。

ああ、そうか。聞いてもらいたいときに聞いてあげればいいのかと。

なるべく彼女が話しかけてきたときには耳を傾ける。それだけでいいんだなと思いました。

そうやってノータッチでやってきて、彼女も自力で就職先を決めてきたし。自力でやったからこそ、本物なんだろうな。もし上手くいかなくても自力で考え直すだろうと思い、安心しています。

散々被害を被った弟、妹には、敵視されてますけど。(笑)
妹なんて、『さっさと結婚して出て行ってくれないかなあー!あんな姉貴いらない!』ってストレートに言うのでハラハラ。
最も合わない人間が家族にいるというのも、究極の人間関係の勉強じゃないかと。

そう言いながらも、自分のやりたいことを貫いている姉のことを、弟も妹も、一目置いています。
多くの人と楽に付き合うことができる姉は、アスペの自分たちとは別世界の人だし、それはそれでいいんじゃないかと思っているようです。

親の躾が行き届いていないというのは、子どもを親の所有物と考えるからこそ出てくる言葉ですよね。
子供には子供だけの持って生まれた運命があるんだと、長女を見ていてつくづく思いました。


>パンダさん

『恥ずかしい』という気持ち、私は理解できます。恥ずかしいという表現が適切かどうかですが。

仕事で、障害のある方を、余暇に色々なところへお連れするのですが、例えば高齢の男性が好きな方が、通りすがりの人に抱きついていってしまったりします。
電車の中で足を組んで、隣の人にぶつけてしまったり、肘を隣の人の肩に置いてしまったり。
もちろん奇声なども。

いくら障害があると言っても、守らなくてはいけないルールがあります。
しかし、重度の障害のある方は、そのルールが理解できません。
もちろんそうやって社会に出て行って、経験して覚えていくことなので、そういったトラブルも必要なことなのですが、支援する側としては、周囲に迷惑を掛けて申し訳ないという気持ちにはなります。
もしも危害があったときには、支援者の責任になります。

そういったところをどうやって調節したらいいか悩む。そのことをパンダさんは『恥ずかしい』という気持ちとして表現されたのかなと思いました。

あすなろさん

お忙しいところお時間 取ってしまって。

最初のコメントで 下手な書き方をしてしまったけれど、
こういうわたしなので ある種 信頼してください,というお願いだったんです,次のコメントは。
一つ一つ取り上げて答えて行くより平和的かも と・・


このブログの中で、以前こういう状況でこういうコメントを書きました、と例を幾つか挙げた。
多数派とは違う対応だったことに注目。

世間で起きた事件について[TVでは見ていない] インターネットで どれくらい信頼できる情報源かを確かめながら事実関係を知ろうとした、と書いた。
世間一般と違うところに注目。

クラスでの立ち位置を書いたのも、あすなろさんとも世間とも違う、こんな立ち位置と、イメージしやすいかと。

こういうわたしなので、一種の信頼をしてくださいと。


今 気がついた。どういう書き方が伝わりやすいかと思っていたら。
時間的にも、内容的にも、範囲を絞って書かないと、なんですね。

(わたしも、一般の人が なかなか経験しないような経験をして来たところは皆さんと同じ)
でも、時間的にも 内容的にも 見ている範囲が違う。その点では ここに来ている人たちの中では少数派、マイノリティー。
ここで いろんな人が言って来たんだった。
忘れてしまう、とか 見落としてしまうとか、集中力があるとか、切り替えがいいとか、ネオンのようにまたたいてる(だったっけ)とか、いろんな色に変わっている、とか。
(わたし自身が立てた 「人によって こんなに違う!~」のスレにも通じるかも)

二極化が大きい、ということも含めて、みるきさんを初めとした人たちが、そういう特徴を好き、気に入っている、などということで、感化されて ここで元気になる人が増えてきているということですね。

この例なんかも含め、アスペの人には他の人には見えないものが見えているところがある、だからその能力をもっと認め、生かしたらいいのに、と。

要するに、邪魔するな、と。
わたしも、逆の立場で そう思ったことがある。「もうこれ以上 じゃましないで」て ついに言ったし。実害 大きいですよね、特に年上とか、役職があると面倒。
今の場合は わたしね。

もちろん、別の極端に走っても危険。
その危険を感じたから、最初のコメントを書いたんだけど、このタイミングではまずかったですね。
それに, わたしの書き方では、ここでは伝わりにくい。
このコメも書いていて 伝わらない気がした、でも それがきっかけで整理できたのはよかった。

ガーディナーさん、

余計なこと言ったかも。
読めてうれしい。

>あすなろさん

”親子だからといって、与えてもらえるのが当然、感謝するのが当然は、あり得ないと思っていますし、そう思ってからすごく自分が安定しました。”

私も、そう思ってからは親と衝突する事もなくなりました(^^)親が薄っぺらいコミュニケーションを仕掛けてくるのだから、私も薄っぺらく受け流すことにしたんです 笑
「感謝」は私の場合は、部分部分でしか感謝はできません。それもごく一部です。感謝できるかできないか、そんなものも人それぞれ、環境それぞれですもんね!あすなろさんから言っていただいて、やっぱりそれで大丈夫と再確認というか心強く感じました。

ありがとうございます。私は大丈夫です(^^)もう親を愛そうとはもう思いません。あくまで許すだけです。私は「親を愛せない私」を愛してあげたいと今は本当にそう思うので。
ただ、それで世間に叩かれるのはしんどいし、そんな体力・気力は持ち合わせていないので、パフォーマンスはやはり大事だと私も思うのです。

結婚式での「両親への手紙」は完全にパフォーマンスでした。見事にみんなだまされて、誰もが私の涙を「愛情」からくるものだと信じきっていました。けれど私にとって一番良いカタチの「パフォーマンス」だったと今でも変わらずそう思います。あの時はまだ許せてすらいなかったから悔し涙を流したけれども、今ならもっとつらっと読み上げる事ができると思います。ある種の「割り切り」は私にとっても大きな一歩で、自分の人生を取り戻すために有効だと思っています。

まぁ、確かに何事も割り切っていたら空恐ろしい事にもなるのかもしれませんが^^;

>ココチさん

いえいえ、全然時間取られたとは思っていません。
最初のコメント、ココチさんはどちらの立場で話されているのか分からなかったので。
もしも、ココチさんが、割り切ることには反対。そういう人とは反対の位置にあると言われたら、別の議論になりますし、ココチさんが同じ立場から同じように言っているのだとしたら、私も同じ思いですよ、となるので、何度も読み返したのですが、流れと強い口調から、反対の位置にいらっしゃるのだと思えてしまったのです。

ただ、割り切り方について、空恐ろしいとか、危険だと言われるのは心外です。
私の場合、その位置が性に合っていたというようなものでなく、そうならざるをえなかった。そこまで極端に考えないと生き残っていかれないくらいの経験をしてきたからです。
はっきり言って、死にかけましたし。

だからこそ、心では割り切ってはいるけれど、それをあからさまにすれば、多くの敵ができるのは目に見えている。そのためにパフォーマンスが必要なのです。

別に誰かをバカにしたり、軽んじたりしているわけではないし、攻撃したいわけではない。
相手のことは、私には想像が及ばない、お手上げだ、とへりくだることにあります。
しかし、へりくだったからといって、自尊心を失うわけではなく、自分の存在は別物として価値があると認められます。
一挙両得なんです。

もちろん、この場でしか、こんな心のうちは話しません。
それを極端だ、危険だ、中庸がいいと言われても、あなたは、私の何を知っているのですか?と言うしかありませんし、それによって、別に誰かを悲しませたり、攻撃したことはないと断言できます。

あすなろさん

> そういったところをどうやって調節したらいいか悩む。

 あんまりそこまで深く考えませんでした (^^ゞ

 素朴に言えば,朝遅れそうになって慌てて家を出て,バス停でふと気づいたら,なんと下が寝巻のズボンのままだった!とか,そんなとき,顔から火が出るほど恥ずかしくなりますよね? やったことないけど,想像するとたぶん。

 同じように子どもを連れて慌てて出たら,こどものズボンをはきかえさせるのをわすれて,寝巻のままだったときも,似たような恥ずかしさを「親(保護者)として」感じてしまうと思うのですが,そんな感じでしょうか。

あすなろさん

いっぱい 勉強になるコメント いつもありがとうございます!

経験値が高いというか ーもっといい表現が見つかればいいんだけどー 貴重な存在です。


ただ こういう件になると、譲れないんですよね。

わたしも同じようなことしてきてる。パフォーマンスにしても。
基本的には近い、似てる。
でも加減が違うというか。

そうは言っても 自分の場合は 生き延びるため、自分を守るためなんだから、と言われるわれるわけですよね。
わたしも 修羅場の数はハンパないから 実感として理解できてると思うんだけどな。
「よく ここまで生き延びてきたと思う」「生き延びるためなんですよ」「それだけの経験をしてきた」て、言わなきゃなんない時もある。

じゃ なんでそんなに修羅場が多いのか、となると、わたしの場合 どうも 自分(や子ども)を守ることに必死になる人のそばにいなきゃなんないから、とはっきりしてきた。(夫と義母と母)
誰かが身を守ろうとする、そのやり方によっては 別の人が被害者になる(悪気なく)

人種差別だって、戦争だって、脅威を感じるものから自分たちを守ろうとすることから始まりやすいのではないかと思うんだけど。そして 小さい子供たちなんかが犠牲になってしまいやすい。

だから 自分を守るため、というのは、諸刃の剣⬅この使い方でよかったんでしたっけ


>パンダさん

なるほど。
『自分が恥ずかしいと感じてしまう』
そうなると、ガーディナーさんのおっしゃることに繋がるかもしれません。

支援している立場だと、パンダさんの例で言う、子供がパジャマで外出してしまったこと自体を恥ずかしいとは感じない。あるいは感じないようにする。
しかし、それを恥ずかしいと思う人の目線をどうするか、そういうことになります。

パジャマで外出しても、人に危害を加えるわけでないのなら、良しとする。
そんな寛容さが求められます。

逆に自分が電車に乗ってパジャマの人を見かけたとき、『あの人も何か事情があったのだな』と察して、意識しないようにする。

同僚には、前出した『高齢の男性に抱きついてしまう行動』も、そういう人がいると知ってもらうために、敢えて静観するなんて意見を言う人もいますが、そこまでは違うかなと思います。

今騒がれているインクルーシブ(共生)社会というのは、定型側の基準を下げることが重要になってきます。

奇声を発する子が隣に住んでいたら、電車でそういう人と乗りあっても、『ああ、お隣の○○ちゃんと似ているな。怒っているのかな?嬉しいのかな?』と自然に受け止められる。

そういった社会を実現させることにあります。

この記事の、パンダさんの心境の変化が、その過程と言えるでしょうね。

ガーディナーさんは、もうすでに、パンダさんがそういうことをクリアされていたのだと思われていたのかな?

だからこそ、定型の感覚というのは、一朝一夕には変わらない難しさを感じられたのかもしれません。

パジャマでバスに乗っている人がいても、『まあ、何か事情があったのでしょう』と想像し、気付いていないようなら教えてあげる。
教えられた方も、『あら? これはうっかりしておりました、ははは』と言えるような、大らかな社会。
インクルーシブとは、そういう社会のことを言うのだと思います。

>ココチさん

大事なポイントだと思うのでお付き合いくださいね。
どうも、ココチさんの認識と、私の認識のズレは、前に起こった『共同幻想論』をめぐって、アスペの方と、定型の方に起きたズレに似ている気がします。

あの時の議題については、ココチさんは、アスペの方と同じ立ち位置にいらしたのでしょうが、問題はそこには無かったと思うのです。

あの議論は、私とにわとりさん、そしてKatzさんが、『今の社会はここが問題。こう変えていったほうがいいと思う』という方向が同じようだったので、盛り上がっていたんですね。

そこに、『その考え方は危険だ! アスペは社会で虐げられてきたから、そんな危険思想に染まるのだ』という指摘が入った。

それによって、他のアスペの方も、『そう捉えることが差別だ』とおもって猛反発したんだと思います。

パンダさんは、にわとりさん個人とのズレを考えていらしたんですが、にわとりさんをなかなか理解できないために、反アスペみたいに思われて、とばっちりを受けてしまったという感じかな?

これは、根本的に『アスペだからこう思った』わけではなく、『少数派の経験からこう思った』ことが強いと思うのです。
だから、ココチさんも、どちらかというと、アスペの意見の方に同意していた。

けれど、そもそも、あの時の共同幻想論がなぜ危険視されなくてはいけなかったのか、そこが問題なんです。

世の中の思想は無数にあります。
その思想が行き過ぎて、悪行になってしまうこともあるでしょう。

けれど、それは特異な例です。
ヒトラーも、元は、超民主主義だったわけですから。

共同幻想論を心の中に持っていたとしても、それは人として当たり前のことなのです。
こういう場だからこそ、出せたのです。

にわとりさんも、他では決して言わないことを、この場に甘えて話したのだと思いますし、実は私も、私も、と案外同じことを考えている人がいたという発見ができました。

そうした思想を直に『危険』と結びつける。
その短絡さこそ、実は危険なのではないでしょうか?

それは、戦前戦中の、思想弾圧にも似たものがあります。
何も事が起こっていないのに、その発言こそが危険だとして、多くの人を処刑しました。

ヒトラーのユダヤ人弾圧もそうですよね。
ユダヤ人という民族は存在しない。ユダヤ教を信じる人たちです。
そのユダヤ教の思想が、キリスト教を中心としたほかの信仰を持つ人々に害になるとして、何もしていない人たちを抹殺していったのです。

ヒトラーがユダヤ人だったら、逆のことが起こっていたかもしれません。

つまり、その思想は危険とすること、そのものが危険なのだと思います。

ココチさんが、私の発言から、何を想像されたのかは知りませんが、おそらく、全く違う、ご自身の経験上で出会われた人と結びつけてしまわれたのではないかと思います。

その人の行動に対して、『譲れない』と言われるのは納得出来ますが、その人と私は何の関係もありませんし、私自身が普段、どのような生活をしているか、ココチさんは何もご存知ないわけです。

私の発言から、何かを連想し、それをご自分の中の価値観に当てはめてしまう。

これこそ、定型の持つ『入れ子』の考え方であって、ときにそれは、事実とは全く違う『妄想』の域にまで発展する危険性もある。

中庸を保つには、アスペの超現実主義を、定型の側も理解する必要があるのではないかと思います。
もちろん、アスペの方も、定型にこういう傾向があると知るのは大切ですが、それはおそらく、多数派の中で散々見せつけられてきて、嫌というほど身に染みている方が多いのではないかと。

その過程で、アスペの方の中には、定型に対して敵意を持っている人がいることも、事実ですが。

ココチの続きです。

諸刃の剣の意味 ちょっと違ってましたね。自分を守ろうとする時に、誰かや自分を害してしまうことがある、に訂正。

修羅場ということばに含まれている争いごと とは限らず、大きな問題 事件 に訂正。

(そういうことが 次々に起こる生活はのぞまないけど、そこをくぐり抜けて来て強くなった 今の自分は好きなんです。
その中で出会えた人たちもね)


うーん、なんて表現したら語弊がないか・・・

わたしも、すごく割りきることを 一つ一つ加えることで ここまで来れたと思う。
ただ、自分を守ろうとする時のやり方って言ったらいいのかな、気をつけないと悪循環になりやすいと確信するようになった。

そのために、今度は誰かが自分を守らなきゃなんなくなる循環・・
そのために、目の前の問題はクリヤーしたけど、新たな問題につながる循環・・

そこをいつも気をつけてる。
守るけど、やり方とか。

そうやってると なんだか 結局自尊心が上がって行くと言うか。

わかったようなわかんないような感じかもしれないけど、下手な説明を加えない方がましかもと思って・・

(*ノv`) (*v.v)。 (*´v゚*)ゞ


あすなろさん

コメント 行き違っちゃいましたね~

わたしも 先のコメントを書いた時、こう受け取られるかもしれないかな、という懸念を感じたんですけど、書いたものがうっかり消えちゃわないうちに送っちゃう方を選んじゃったんです。

だから 次のコメントは書き方を変えてみた・・

うーん,次のコメントで書き直した通りと言うか・・

共同幻想論は危険だって方に行っちゃってたってか・・アスペが社会で虐げられて来たから そんな危険な思想にはまるんだって?そこまで大きな対立になってたとは思ってなかった。
みるきさんが 新しい共同幻想論(でしたっけ)のスレの中で、あすなろさんがコメントした時 定型の人にそう書いてもらえてうれしい と言っていたのを見て、わたし何かを見落としてきているのかなあ と思っていたんですよね。で、養老さんや、村上龍さんの考えを紹介した時 この人はアスペッぽいと書いたことで 何か足を引っ張っちゃってるかな とフと思った。でもまぁ わたしの中にもともと アスペやADHD等の人たちの考えって社会の変わり目に必要、という思いがあったので、彼らがアスペっぽいということは何も悪いことだと思っていなかったから スルッと付け加えただけだったんですよね。
独創性を大切にするスタンフォード大学の例を出したのも、独創的な考え(その時点での社会常識にとらわれないと言うか)が入ると成功に結びつきやすい、とわたしも思って来たからで、そこに定型・非定型は関係ないですよね。

わたしも世の中に変化が必要だと思っている。でもそれ、社会の虐げられた人のため、と言うより大半の人のためでしょ。
あすなろさんが 救急病院に行った時の医師のことで書いたけど、裕福な層の人たちだって大変な人多そう。仕事が忙しすぎたり、私立の学校の教育費 住居費 異常に高いものね。(裕福な人だってギリギリでやってたりする、と常日頃思ってたから ついあそこに書いちゃった。パンダさん、あすなろさん、お邪魔しました)
「貧困大国 アメリカ」のシリーズを見て、日本もその後をすごい早さで追っていると聞くと そうだろうなと思つて来た。(政治的な活動はしてません)
でも 日本は、スタートは遅いけど いいところに着地する傾向があるから 希望は持っている。マスメディアに取り上げられると 騒がれて潰されることがあるから、嗅ぎつけられないようにしながら進展しているプロジェクト?もすでにあると思う。社会起業家の人が そう言ってた。

変化をはばんでいるのは 必ずしも定型だと思っていない。「上下関係やルールがはっきりしたところが合っている 発達障害の1タイプ」というわたしが立てたスレの書いたように、社会の中枢 上層部に発達障害傾向の人たちがいると思う。そういう人たちが 案外反対してる気がする。このブログでも,社会的にどの立ち位置にいるにせよ,発達障害の人たちの中からも いつも出て来ますよね。なんと言ったら語弊が出ないかことばがみつからないけど。

やっぱり こういうわたしだから,ある種の信頼してください,としか言えないです。
ことばの使い方の不備は,書いても書いても出ちゃうと思うから。

(*´v゚*)ゞ (*^-^) o(_ _)oペコッ

パンダさんへ。
こんばんは、ガーディナーです。

ああ、そういえば、初めはそういうことだった、と思い返しました。

実は私もはじめて記事を読ませて頂いたときは、パンダさんの仰る「恥ずかしい」は
どういう人を連れているから、という意味ではなく、連れている人が起こす行動が
恥ずかしかったという意味であるということを、私なりに掴んでいました。

多分その違いは大きいと思います。でも私にとってはどちらにしても、そういうことにパンダさんが恥ずかしさを感じていらっしゃることがとても意外だったのです。そこで私なりの感想、というか、回想をまた書かせて頂いたわけです。
書いていくうちに、パンダさんがおっしゃったことの意味(障がい児さんの存在ではなく行動に恥ずかしさを感じるという)が少しずつズレていき、あたかも、その人と一緒に行動していることが恥ずかしい、とパンダさんがおっしゃっていると私が捉えているような、文の流れになってしまいましたね。内容が自分の愛している世界のことだっただけに、私もカーッとしてきたのでしょうか、何か一人で熱くなってしまいました。
自分がそのようなズレた文章を送ったということについて、送信してからも気が付かないでいました。そしてパンダさんのコメントを読み、そのことに気が付いたといういきさつです。失礼しました。

さて、自分の子どもがパジャマ姿で電車に乗ったとしたら・・・?ということですが。
私は仕事でも、あるいはプライベートでも、同行している障害をお持ちの方たちが、いわゆる不適切な行動をとったとしても、仕事上の責任は感じますが、やっぱり恥ずかしいという感覚は全くありません。奇異なものを見るような目で私たちが見られていることは重々承知の上ですが、それは屈辱体験ではないからです。
では、自分の子供の場合はどうか?私の子供たちも小さいときは本当に手が付けられず、電車でも買い物先でもとにかく一緒にいる間は気持ちが休まるときがありませんでした。発達障害の診断はもらっていましたが、世間一般ではそんな言い訳が通用しません。どこへ行っても「まあ、なんてしつけのなっていないお子さんでしょう!」という目で見られていました。そう見られていると感じた私は、周りの人たちの視線にオタオタしたり、ペコペコしたり、そういう自分の姿は恥ずかしいと感じていました。
 
  ところで、私が送ったコメントで言いたかったことは、実はそんなことがメインではなかったのです。
  私は、先にも書きましたように、どちらにしてもパンダさんがそのたぐいのことで恥ずかしいと感じられたことが意外でした。そして、それまでの私だったら、「そんなことに恥を感じる人=お付き合いしたくない人」と切り捨てていたでしょう。でも、今回、パンダさんに対して、そのような切り捨て感情は一切起こりませんでした。
  こうして文章でのみのお付き合いをしていると、なかなか解りづらいことかもしれませんが、私もアスペの特質とうたわれているように、相手の言葉の中に一つの引っ掛かりが感じられると、それ以降深く考えずにぱっと切り捨ててしまい、それがもとで自分の世界をせまく苦しいものに変えていったということもよくありました。
自分の障害を理解してからは、そうやって切り捨てることが、自分にも相手にも決して良くないことだとわかり、今度は、切り捨てることをやめようと思い、相手の言葉をよく考えずに自分の嫌悪感も抑え込んで、受け入れることだけに気持ちを注ぐようになりました。どちらも思考停止、という点では全く変わらないのです。それでは余計にストレスが溜まります。
できれば自分がなぜ相手のその一言に切り捨てたいほどの嫌悪感を感じたのか、それから、相手はどういう意味でそのことばを使ったのか、を考えたい、と思うようになりました。それがようやくできるようになったのが最近のことです。
だから、この記事を読んで、ある種の違和感を持ちながらも、それを切り捨てることなく受け入れたいと感じられた自分が、何か一つ成長したようで嬉しくて、コメントを送ったという次第です。

>ココチさん

細かく説明してくださって、ありがとうございます。

説明を拝読したうえで、やはり違和感を感じることがあって。

おそらくココチさんは真摯に考えて、いろんな情報も集めていらっしゃるし、社会の問題に対しても、同じような方向に考えていらっしゃるのだということはよく分かります。

ただ、どうも、アスペまたは発達障害者は向こう側の人、ココチさんはこっち側の人という、はっきりした線引きを感じてしまうのです。

ココチさんはそうでは無いとおっしゃいますが、例えば村上龍さんのことを、どうしてアスペ的だと感じられたのでしょうか?

その中に、ココチさんとは違う発想をする人という漠然としたイメージがあったのではないかと。

アスペの定義というのは、複雑です。
本人がどうしても周りとの違和感を感じると思って、生育歴から、日常の生きにくさや、様々な要素を検討して診断が下されるものです。

だから、他人がごく一部を見てアスペかどうかは判断できません。
ずっと一緒に行動していて、違いに気づくことは多いでしょうが。

何か、発達障害というものを、漠然としたイメージで捉えている感じがしてしまうのです。

ココチさんが学校で、集団で行動することに違和感を感じていたお話は、単にご本人の性格だと思います。
発達障害者の中には、性格的には人懐っこく集団で行動したいのに、それが許されない状況にある人もいます。

確かに、アスペは孤独を好む傾向の人も多いと思いますが、我が子たちのような『積極奇異型』の人の中には、孤独を嫌う人もいます。

障害によって、そうならざるを得ない人もいるわけです。

私はADHDなので片付けが苦手です。
でも、一旦スイッチが入ると、とことんまでやらないと気がすみません。一度片付けたところを、しばらく清潔な状態に保たないといられないこともあります。
けれど長続きせず、そのうち放置になる。
やる気の問題は、どうやら脳の機能障害にあるようです。だから、本来の性格は潔癖症なのかもしれません。

そういう私に、『私も片付けなくても平気よ。ADHDの人の気持ち分かるよ』と言われたら、カチンと来ますね。
平気なわけじゃ無いんだよ!やりたくてもできないから、平気なフリしてるんだよ!って。

ココチさんが、同じだよ、とおっしゃるところは、ココチさんのイメージの中の発達障害者像に合わせている。
しかし、その根底に、私はこっち側だけど、あっち側にも行きたいのよ、という線引きがはっきりあるように思えてしまうのです。

うまく伝わらないかもしれませんが。

共同幻想を問題にしているのは、発達障害者だけではないことは、私も散々言ってきました。
同時に、その対局に定型がいて、阻止しているなんてことも思っていません。
発達障害者の中には、共同幻想に染まりきってしまって、逆に変化を頑なに拒んでいる人がいるのも事実です。

これは発達障害の1タイプなどと分類できるものではなく、その人の置かれた環境による、全く個人的なものだと思っています。

ココチさんは、そういうものにも、何か分類を付けて理解されようとしている感じがしてしまいます。

アスペに、時代を変えるような力のある人がいるのではなくて、そうした人がたまたまアスペだったということです。

アスペ定型関係なく、置かれた環境や経験によって、価値観は人それぞれになる。
しかし、アスペの方、私を含む発達障害者は、定型がしないような経験をすることが多いので、定型とは少し異なった価値観を持つ人が多くなる。

そういうことなのだと思います。

ガーディナーさん

 またすごい展開なんですね。

 とても重要なポイントだという気がしているので,もしよろしければ教えていただきたいのですが,ガーディナーさんの場合,仮に慌てて外に出て,上だけ着替えて下が寝巻のままだったとしたら,それをバス停でみんながいるところで気が付いたら,恥ずかしいと感じられるでしょうか?顔から火が出るといわれるような感覚になるでしょうか?

 恥ずかしい話なので,ご無理は申しません (笑)

あすなろさんへ

おはようございます。

何て言ったらいいんだろう。
あすなろさんとわたしは、ほぼ 同じようなことを考えていると思うんですよね。
あすなろさんも、ある部分そう思っていらっしゃる。

今回 あすなろさんが、二人の違い と言うことで取り上げられた点、
ココチさんは こう考えていらっしゃるようだけど⬅そうじゃないけどなあ
わたしはこう思っています⬅わたしも同じ。これまで そう書いて来たつもりなんだけどなあ

ていう感じだから・・・・・今 書きながら思い出したんだけど、これは あすなろさんがキキさんに説明された 表現の仕方の相性 ーもっとわかりやすい言葉遣いだったけど ーから来ているんじゃないですか?

そう言う いわば条件の中で これくらいの量 やり取りしたのだから、この件については一区切りつける時期に来ているのではないかと。


今 気がついたけど、わたしがあすなろさんの気持ちを いったん受け止めてから 話し出す、ていうのが足りなかったかなあ。
今回のわたしのコメントなんかは すぐにわたしの思っていることに入っちゃってますよね。
そこは悪かったかなあ。

また 今気がついちゃったんですけど、あすなろさんは 今回のやり取りでは 発達障害の人と定型の間の齟齬の問題として、あすなろさんが発達障害の方の立場で書いて来られたのかな。
コメントの最後の方で「わたしを含む発達障害者」て言ってらっしゃるし。
すると、定型の人に傷つけられて来た人たちにとって とにかくわかりやすかったんじゃないかと。

そこからの連想。
でも あすなろさんもわたしも、そう簡単に分類できるものじゃないっていう考え方してる点でおんなじなんだよね ~
話の便宜上 わかりやすくするために分類することはあるけど。
だから やっぱりおんなじじゃん。

てとこに戻ってきます。
ですので、よろしくおねがいします。 o(_ _)o

あすなろさん

もしや?と思ったので、蛇足かもしれないけど 付け加えさせてくだい。

気持ちを受け止める、と書いたのは、このやり取りがはじまる時に触れたように、今回 わたしは 一つ一つに答えて行く、という方法を選ばなかったからです。
(うまく伝わるかわかりませんが)そこは違うと思う とか 違和感を感じる と言われた点について 引用した上で、それはこういうことで と説明する方式はしないでみた・・・なんとなく その方がエンドレスにならない気がしたから。

このやり方で、もの足りなく感じさせてしまったところ あったと思うので、せめて 気持ちを受け取る言葉がもっとあったらよかったのかな、と思ったんですよね。こんな説明で余計ややこしくしてるかもしれないけど・・

>ココチさん

すみません。ちょっと書き方がストレート過ぎて、キツイ印象を与えたかもしれません。
でも、書きながら発見したことがありました。

アスペ定型の会話でズレる原因でもあるかも?と思いました。
最初の議論とはズレているんですが^_^;

掲示板の方に書いておきましたので、ご覧ください。
お付き合いいただいて、ありがとうございました!

あすなろさん

みなさん

・・充電がきれちゃってた(あわてる)

「発達障害とトラウマ」のスレの、10/02のあすなろさんのコメントに 今さっき わたしも書いてきました。
もしまだ読まれてなかったら、よかったら見てくださいね。

パンダさん、こんばんは。
ガーディナーです。ご質問にお答えしますよ。

>仮に慌てて外に出て,上だけ着替えて下が寝巻のままだったとしたら,
>それをバス停でみんながいるところで気が付いたら,
>恥ずかしいと感じられるでしょうか?

もちろんです!私にもまだ乙女心の恥じらいは残っているんですよ、ちょっとはね。

ただ、世間の人にとってはパジャマに見えても、私にとっては結構カッコいいトレーニングウエア、ということもあるのです。
逆もありますよ。私にとってはどう見てもあれは下着姿だ、と思っていても、ご本人にとっては最先端の流行服をカッコ良く着こなしているつもりのこととか。
というようなことは、社会に出ればちょくちょくあることですよね。

で、問題はその次なんです。二つのパターンに分けて考えますね。

まずは第1パターン。
『私にとってはトレーニングウエアでも、世間一般ではこれはパジャマだ、ということを私が承知の上で外出した場合』です。
これはある意味確信犯です。世間的には恥ずかしい恰好を敢えてするということですから、私の側に何か主張したいことがあるのかもしれません。そういうときの私には、このウエアがいかに着心地が良くて、機能的であるかというようなことを、教えてあげたいという気持ちがありそうです。
また、本当はみんな、このウエアの良さに気づいていて、内心着たいと思っているのに着ないのは、世間の目の怖さから逃れられないからなのだ、と解釈している場合もあります。
いづれにしても、第1パターンにいるときの私は堂々としています。ちょっとした優越感に浸っている時もありますね(\x{261c}こういうのは後で思い出すと恥ずかしいです)。

さて、次は第2パターン。
『私にとってはトレーニングウエアでも、世間一般ではこれはパジャマだ、ということを私が知らずに出かけてしまい、何かの拍子に誰かからそれを告げられる場合』です。
第2パターンの場合は、私の反応はさらにAとBに分けられます。
Aは、ハッとして、恥ずかしくなるという反応です。今までこんなに恥ずかしいことをしていたのに、全く気が付かなかった自分自身に赤面します。
Bは、誰かからパジャマであることを指摘されても、すぐには納得できないでいる時です。「いや、これはトレーニングウエアなんだ」と主張して、相手を怒らせたり、陰で笑いものにされたり、ということもあるでしょう。
A、Bどちらにしても、私にとっては、自分の基準と世間一般での基準の違いを見せつけられたような、寂しさ、孤独感などもちょっと混じって相当複雑な気分になるのです。これからはこんなパジャマ姿で歩くことはできなくなるんだという、自由を奪われるような理不尽な思いと、世間知らずであった自分を思い、今までそういう目で見られていたんだ、という悲しさも感じます。
反対に、それを褒め言葉というか、今まで自分では気づかなかった独自性を発見してもらえたような気分になり、喜ぶこともあります。
まれには、私の真似をして、同じようにパジャマを着てくれる人もいますね。
そんな風に、私の心からの喜びに通じるときなどは、とてもいいのですが、残念ながらそれはそんなに多くはないです。
本当はとっても恥ずかしいのに、それを恥ずかしがっている自分の姿を見られることはもっと恥ずかしいので、その恥ずかしさを必死で隠して「あら、これは今流行りのトレーニングウエアよ、あなた知らないの?」という態度をとる場合もあります。

以上、恥ずかしい思いというのは書き出せばどんどん恥ずかしくなっていくものですね。もうこの辺で許してくださいますか、パンダさん?

そこまでは基本おんなじ感じがしました。
 で、ここで許しませんと言うと、性格悪いことになるので(笑)、ちょっと話の矛先を変えますね。

 ではガーディナーさんが、ご自分のことではないのに、自分も恥ずかしく感じてしまうことってありますか?あるとすればどんなとき?

  これもご無理のない範囲で教えていただけるとお礼に……ありがとうと言います(笑)

こんばんは、パンダさん。
ガーディナーです。

>ではガーディナーさんが、ご自分のことではないのに、
>自分も恥ずかしく感じてしまうことってありますか?
>あるとすればどんなとき?

多分いくつかあると思うんです。今すぐに思いつくものと言えば、、、、。

まず、なんといっても、自分の子ども達が「まあ、ガーディナーさんの家のしつけは、いったいどうなっているんでしょうねえ!?」とか言われそうな、トンデモないことをしていた時です。私も「あの子達を躾けろって言われても、そりゃ不可能です。私は神様ではないんですから!」と言い返せるほどの修行を積んでいなかったので、ひたすら恥じ入るしかなかったのです。今となっては懐かしい話ですが。

あとは、私がかつて持っていた特質で、これは直した方がいいな、と思って何とか直したもの、あるいは今も直そうと努力していることがあるのですが(例えば、①大勢の中にいる時に、妙に居心地が悪くて、変に気を使い過ぎてしまったり、②人が話している途中で、それを遮るようにして自分が喋り出してしまうこととか、③他人にとっては別にどうというわけでもない小さなことに妙にこだわって、的外れな言い訳をしたり・・・以下延々と続くのですが、恥ずかしいので略)、そういったことって、外から見ているととても滑稽なのですが、本人にとっては、ほとんど気が付かないものですよね。だからよけいに、何かスマートではない、とか、不器用な印相を与えてしまう行動だと思います。だから私も自分のスマートになり切れない不器用さにずいぶん悩んだものです。
上にあげた①②③と同じようなことをしている人を見かけた時には親近感を覚えると同時に、何となく自分の姿を見たような気がして、気恥ずかしくもなるのです。それからその人のことを見ていると、ハラハラすることもあります。「みんなからバカにされるんじゃないか」とか、「みんなを怒らせるんじゃないか」とか、「余計なことを言わない方がいいのにな」とか、いろいろ思います。
でも、気持ちは複雑です。今より若い時、普段もっと気を張っていたのでしょう。だからそういう人と一緒にいる時は、変に緊張しなくてもいいので、ホッとすることも多かったのです。

すみません。今こうして書いていて、急に気が付いたのですが、上記の①②③の人を見て、恥ずかしいと思ったのは、ちょっと前までの私です。今の私は、そういうことで恥ずかしいと感じることはなくなりました。相変わらず親近感は持っていますし、ハラハラするというのも残っていますけどね。

というわけで、ごめんなさい、期待したほどは、出てこなかったですね、今日のお題。
もっとあるはずなんだけどなあ・・・。
パンダさんはどうですか?ほかの皆さんは?
ほかの方の体験談などを聞かせて頂くと、もっと私も思い出すかもしれません。
ぜひ教えてくださいね。(何で私だけに延々と恥ずかしい話をさせるのよ!?)

ガーディナーさん

> まず、なんといっても、自分の子ども達が「まあ、ガーディナーさんの家のしつけは、いったいどうなっているんでしょうねえ!?」とか言われそうな、トンデモないことをしていた時です。

 今は違うということですが,ここに書かれた感覚は私が自閉の子と交通機関で感じたこととほとんど区別ができません。「とんでもない」という範囲がもしかしたら違うところがあるのかもしれませんが,基本的に恥ずかしさを感じる仕組みそのものは同じようですね。

 定型の世界は,この「身内について自分も恥ずかしくなる」というような「一体感」がかなり大きくて,それが人間関係に強烈に影響しているのだと思います。だから「これは自分のことではなくて,この子(またはこの人)のことなんだ」と割り切るのはなかなか修行がいるのだと思います。逆に言えばそういう割り切り方をする人を「冷たい人」と見る目も少なからずあるという気がします。

 このあたりの感覚の違いがパートナーとのやりとりのズレの中で,結構大きいような気がしています。

 ということで,ガーディナーさんにたくさん恥ずかしい思いをさせてしまいましたが(笑), 私の方はおかげさまでまた一歩理解が進んだ気持ちです。ありがとうございました! scissors


…… 公開するの,遅れてすみません。ちょっと手違いがあったみたいです。

パンダさんこんばんは、ガーディナーです。

恥ずかしい話はまだまだ続きます。

>定型の世界は,この「身内について自分も恥ずかしくなる」
>というような「一体感」がかなり大きくて,
>それが人間関係に強烈に影響しているのだと思います。
>だから「これは自分のことではなくて,この子(またはこの人)のことなんだ」
>と割り切るのはなかなか修行がいるのだと思います。

こうなったらもう白状しちゃいますね!
電車の中でとんでもないことをしている子供に、私は間違っても「一体感」など感じませんでした。むしろ理解不能な宇宙人を見るような目で我が子を見ていたのです。私がその時感じた<恥ずかしい>という気持ちは、「普段は偉そうなことを言ってるくせに、自分の子どもの躾ひとつできない親」と見られることに、いたたまれなさを感じるということ、または、いたたまれなさを感じてオロオロする自分の姿を公共の場でさらされている、その恥ずかしさです。
記事<タイミング>のコメントで、私が5歳のころ、小児科で注射を打たれた時、泣いている私の気持ちよりも、周りの看護師さんたちにばかり気を使っていた母親の姿を描写しました。多分あの時の私の母親も、電車の中で恥ずかしくなる私と同じような心境だったのかも知れません。

さて、電車の中で、ヤマザルの様な我が子を叱らなくてはならない恥辱には耐えられなかった私でしたが、いつもいつも恥ずかしがってばかりいたのではありませんよ。たとえば子どもたちが学校のテスト赤点取ってきたとか、運動会で徒競走がビリだったとか、不登校になったとか、そういうことに対しては、私は少しも恥ずかしいという気持ちになりませんでした。それらは、対処しなければならないことではありましたが、恥ずかしいことではありませんよね。子どもはみなそれぞれ見栄っ張りなところもあるので、恥ずかしいという気持ちだったようですが、私まで一緒になって恥ずかしがる、その感覚はよくわかりません。

私のよく知っている子どもさんで、地元の名家と言われている家のお嬢さんがいます。おじいちゃんが政治家さんですから、家の評判を落とすようなことは絶対に許されません。そこで幼稚園に入る前から、塾や習い事をたくさんさせられ、定期テストごとに「おじいちゃんの孫なんだから、恥ずかしい高校へ入るわけには行けない」と熱心な両親に説教され、すべてにやる気を失っています。自分の意思を口にすることができなくなっています。

子どもがそんな状態になってもまだ、恥ずかしいことをさせたくないと頑張り続ける親を間近に見ていると、恥ずかしいという感覚は、つくづく人間を不幸にしているなと、ため息が出ます。そう考えると、子どもがヤマザルの真似をしたくらいで恥ずかしいと嘆いていられる自分は、つくづく幸せだなあ、と思います。

それにしてもパンダさん、コメント欄にピースができるなんてすごいですね。
私のパソコンではできません。

ガーディナーさん こんにちわ(*^^*)

なんか、ガーディナーさんのお話を読んでいる気持ちが落ち着くというか、ずっと聞いていたい気分です(*´∀`)♪


最後の( )の台詞笑ってしまいました(笑)という感想は置いといて、私の恥ずかしいと思うときについてお話したいと思います。

そうですね...恥ずかしい時....

最近だと

※仕事に行く前にソファでうたた寝をしてしまい
慌てて仕事にいき、同僚に「アンブロ、顔に寝てた跡がついてる」と言われたとき。

位かなぁ...

恥ずかしい気持ちよりも、
『やらかした( ̄▽ ̄;)』と思うほうが多いので、あまり『恥ずかしい気持ち』になることは
少ないです。

うーん...やらかしたと思っても、あまり恥ずかしいとは思わないですね...仕方ない。これが私だと
最後は思うので(^_^;)

恥を失ったガーディナーさん

> それにしてもパンダさん、コメント欄にピースができるなんてすごいですね。私のパソコンではできません。

 私のパソコンは超高級品ですので,そのくらいのことは何でもないのです。happy01good


> 電車の中でとんでもないことをしている子供に、私は間違っても「一体感」など感じませんでした。むしろ理解不能な宇宙人を見るような目で我が子を見ていたのです。私がその時感じた<恥ずかしい>という気持ちは、「普段は偉そうなことを言ってるくせに、自分の子どもの躾ひとつできない親」と見られることに、いたたまれなさを感じるということ、または、いたたまれなさを感じてオロオロする自分の姿を公共の場でさらされている、その恥ずかしさです。

 これも私の理解の中では一種の「一体感」になると思います。なぜなら,「子どもは子ども。私は関係ないわ」とは思えないわけですよね。その一体感は「平等」なものではなくて,「子どもは私のもの」というような感覚で,たとえば自分の着ている服を人からけなされたらむかつくか,恥ずかしく思うような,そんな感じなのかも。とにかく「子どもの評価」と「自分の評価」が切り離せなく一体になってしまっている例だと思います。

 そういうところまで一体感の理解を広くとると,違いよりも共通性の方が多いかなと。おっしゃるようなパターンは定型でもたくさんありますしね。その近所のかわいそうなお子さんの例のように。

> 理解不能な宇宙人を見るような目

 という「表現」で思い出したことがあるのですが,カナータイプの自閉の子(例の子)と一緒に散歩していた時に,前日飲みすぎてふらふらしていた私は(汗),汚い話ですが,途中で座り込んで戻してしまったのです~coldsweats01

 その時に,その子が私を「なんだこいつは?」という感じで見ていた,その感じが「理解不能な宇宙人を見るような目」という表現にぴったりな気もします。

 私としてはその時は定型的な感覚で「大丈夫?」とか,心配そうにのぞき込むとか,そういうのを自然に感じていたので,「あ,そうじゃないんだ」という感じですごく印象に残った出来事の一つなんですね。

 あえて違いを探すとすると,そのへんはもしかすると何かがあるのかもしれないし,単に表現の違いだけの問題かもしれないし,よく分かりません。

パンダさんの超高級なパソコンの打ち出す顔が、庶民的で可愛い^ ^

ガーディナーさんへのお返事に、私も一言。

パンダさんの思われる一体感は、ちょっと違うかな?とおもいます。
何故なら、ヤマザルくんは、おそらく周りのことは目に入っていない。だから『恥ずかしい』という気持ちはないのではないかと。
『恥ずかしい』が分かるようになれば、おそらくヤマザルのような行動は取らなくなるわけですよね?

つまり、大人のガーディナーさんは、親として恥ずかしいけれど、お子さんは恥ずかしいとは思っていない。
そこに一体感はないわけではないかと。

これは私の言った、『どうやって調節しようか困惑している状態』と同じなのでは?とおもいます。


二日酔いのパンダさんを見ていた自閉の子のお話で思い出しました。
昔、こんなことがありました。

私は障害児学級を担任していたことがあるんです。
ある子と二人きりでいたとき、私が大きなくしゃみをしました。
その子は驚くでもなく、ポーカーフェイスでした。私の方を振り向いた記憶もないな。とにかく我関せずって感じだったんです。
しばらくして突然机の上にあったティッシュケースを私に持ってきて『たくさん持ってきたからね』と言ったのです。
私は感動で涙が出そうになりました。

その子は自閉という診断はありませんでしたが、中度知的障害でした。もうかなり昔の話なので、今思えば自閉もあったと思いますが。

その瞬間に反応が見えなくても、考えている。
そして解決策を探すのに時間がかかる。
解決策が見つからなくて、無視や放置をしたように見える時がある。
思考能力がゆっくりだと、そういうこともあるのかなと思った出来事です。

>ガーディナーさん

”(何で私だけに延々と恥ずかしい話をさせるのよ!?)”
確かに 笑 ということで恥ずかしいnoaの話も聞いてください(^^)

①「お疲れ様でーす」と元気に職場を去った後、ケータイをとりに戻る…。照れ隠しに苦笑いしながら「お疲れさまです 笑」とまた去る…ところが!!さらに傘も忘れてる!?もはや恥ずかしすぎて職場のドアを開けられない(>_<)もういっかい「お疲れさまです」って言う勇気なんて出ません。結局、傘をあきらめて100均で買ってしまい、noa家の傘はどんどん増えていくのでした 笑

②夢中で考え事をしながら歩くので(しかもせっかちで早歩き)柱に正面衝突!!痛いんだけど、痛すぎるんだけど…そこで苦しんでいるのもまた余計に恥ずかしいので、「私、何も動じてないわよ」みたいな顔で去る私…。でも、それすら見抜かれているのではと、また恥ずかしいのです。

③ママ友の家に遊びに行った時、子供が靴を脱いだその瞬間に気が付いた!くつ下の色ぜんっぜん左右違う^^;私は本人じゃないんだけど、ないけど…。「親の顔が見てみたい」という私の大っきらいな意味不明の日本語が頭をちらつき、そう思われているかもしれないと思うと、やっぱり恥ずかしい…

この他にもまだまだ沢山恥かいて生きてまーす 笑
そうですか、ガーディナーさんは「親の顔が見てみたい」の呪縛から解き放たれたんですかね~。私もそこを目指しまーす(^^)

ココチさんへ

はじめまして。横レス失礼。

私もあすなろさんと同じように解釈しました。
>『開き直ることが空恐ろしい』『それは、自分と子供に自信を持たせたいためだけだ』『その自信は、社会的ステータスを守ることで保とうとしている』としか読めなくて……。
あすなろさんの仰るようにこれ以外の解釈しかできませんよ。

心理学では最初に言った言葉が本音だと言います。後からどんなに言い訳して取り繕っても無駄です。
あすなろさんの言うことは正しいですよ。現実起きていることなんです。
あすなろさんに対して難癖つけ、あすなろさんやね発言の自由や正当性をねじ伏せるのは間違ってますよ。

パンダさん、こんばんは。
花も恥じらうガーディナーです。

せっかくお返事くださったのに、忘れた頃の投稿ですみません。

>「子どもは私のもの」というような感覚で(中略),
>「子どもの評価」と「自分の評価」が切り離せなく一体になってしまっている
という感覚がやっぱり私には、希薄です。
「子どもは私のもの」ではなく、「子どもは私の責任下にある」わけで、
そこに責任能力のない私が露呈されているという、
その事実に恥ずかしさを感じるのです。
このあたりのことはとても説明が難しいのですが、
私の持つ親子の距離感は、とても離れた位置にいると思います。
じゃ、普通のお母さんたちが、
どれほどの距離で自分のお子さんたちと付き合っているのか、
ということもわからないのですが、周りのお母さんたちの会話を聞いていると、
私とは違うな、と感じることが多いですね。
それは単に、周りのお母さんたちが持っている価値観(学校的?)が
私とかけ離れている、というだけのことかもしれませんし、
もっと根源的なところで、小さい時から培った、
他人と自分の距離の取り方のようなものに、原因があるのかも知れません。

さて、少しまとめてみますね。

私が我が子のことを距離を置いてみていることも、
パンダさんが同伴したお子さんの行動に恥ずかしさを覚えたということも、
どちらも独自に持っている感覚だということで、私には違ったものに見えます。
パンダさんが少し前の記事<それぞれの世界の裏>でおっしゃったように、
アスペと定型はなんでも違うこととして見るのではなく、
アスペ定型両者の共通の足場が必要であるのだと、私も思います。
私はあの記事の内容に深く共感できました。
でも感覚レベルの違いは、頑張って共通の足場にはしなくてもいいのかなと思います。

ここ数日間のやり取りの中で、パンダさんが「同じだと思うよ」と仰ったことを、
私はなかなか受け入れられずに「でも、ここが違いますよ」と例を上げましたよね。
定型の方から見れば、些細な違いで、ひとくくりにしてもかまわないものが、
アスペの私には「一緒にしないでください」となってしまう。
それがたまたま今の私たち二人のやり取りのなかで起こったことではなく、
私は何か一つの公式が成り立ちそうな気がします。
まだ頭の中は未整理なので、もう少し言語化できたら、またご報告しますね。

こんばんは、ガーディナーです。

noaさんへ。
いろいろ楽しいエピソードを告白してくださいまして、ありがとうございました。
そういうレベルで考えてみると、恥ずかしいことってたくさんありますよね。
Noaさんのお話を聞いているうちに思い出したことがありました。
これがアスペの特徴かどうかはわかりませんが、
私は昔から人の顔を覚えることが大の苦手です。
だからひと様から突然親しげにあいさつをされても、
ポカン…、としてしまうことがよくあります。
それ自体とても失礼だし、大人の女性としてはとても恥ずかしいことなのですが、
その逆パターンはもっと強烈です。
人ごみの中、「あ!○○さ~ん!」と手を振り駆けて行った先には、
見知らぬ人が不思議そうな顔をして私を見ている時の恥ずかしさときたら、
表現のしようもありません。AH~!

アンブロさんへ。
お返事ありがとうございました。
>なんか、ガーディナーさんのお話を読んでいる気持ちが落ち着くというか、
>ずっと聞いていたい気分です(*´∀`)♪
うれしいですね。でもあまりおだてないで下さいね。
調子付いて止まらなくなりますから。

>うーん...やらかしたと思っても、あまり恥ずかしいとは思わないですね...仕方ない。
>これが私だと最後は思うので(^_^;)
↑これはよくないですね。まだ若いんだから、十分恥じ入らなくてはいけませんよ。
ちなみに顔に残った寝跡は、年々消え難くなっていくものです。

また、<blueさんへ>という掲示板でも
>彼が私を強くしてくれた。じゃあ、彼のために私ができることは・・・
>きっとガーディナーさんのコメントのなかに「答え」がある気がしてます。
と、含みのある(?)アプローチを下さってありがとうございました。
2016/09/29(thu)21:09:08
そのあとすぐにblueさんと大切なお話が始まってしまったので、
お返事していいものかどうか迷っていました。
何か「答え」が見つかったら、教えてくださいね。

あすなろさんへ。
とってもわかりやすい分類のされ方でした。
>つまり、大人のガーディナーさんは、親として恥ずかしいけれど、
>お子さんは恥ずかしいとは思っていない。
>そこに一体感はないわけではないかと
私もそこが言いたくても、上手く伝えられなかったのですが、
もしかしたら、パンダさんの持っている「一体感」と
私の持っている「一体感」は、それぞれの意味が違っているのかな?
と思い、スルーするつもりでいました。
私にとっては、そんなに追求しなくてもいいことでしたから。

学校で勤務なさってたんですか。
そういうエピソード(ティッシュのこと)って心が揺さぶられますよね。
とってもわかります。ああ、もしかしたら、これが共感っていうのかな?
なんて思いながら、私も幸福感に浸っていました。

恥じらいを取り戻したガーディナーさん

> でも感覚レベルの違いは、頑張って共通の足場にはしなくてもいいのかなと思います。

 この整理の仕方はかなりわかりやすく,いろんなことがすっきりする気がしました。
 しなくてもいいというより,してはならないのだろうと思います。

 感覚過敏という言葉がありますが,過敏というわけですから,「過度に敏感」という話ですよね。じゃあ何が過度なのかというと,多くの人が平気な感覚について,その人が敏感だ,ということ以上の意味があるのかどうか。なんかなさそうにも思います。だから,過敏と言われる感じ方も,その人本人にとっては自然な当然の普通のことなわけで,「過敏」と評価されるのは多数派の「いらぬおせっかい」とも考えられます。

 そういう意味でも,感覚の違いは価値観を抜きに,そこをすり合わせようとせず,それぞれの人の感じ方はそういうものとしてお互いに認める必要があるのだと思います。(そうすると,過敏というような言葉遣いそのものがそこを無視した言葉として考え直される必要が出てきそうですね)

 ところで音に「過敏」な方用に耳栓を使うなど,感覚過敏に対処する器具みたいなものもあると思うのですが,そういう器具の作られ方の基本は,多数派の生活スタイルに合わせて感覚を調整するために必要,ということですよね。その意味ではこれも多数派本位の発想ということになります。

 ただ,こちらの方は「おせっかい」と言えるかというと,ここはまた話が変わってきそうな気がしてきました。

 少し本題から外れて暴走気味に関連して思いついたことを書くのですが,つまり,世の中多数派の感覚をベースに作られているという事実があって,いい悪いは別にそうでないと世の中うまく成り立たない可能性がある。で,それを否定した場合,逆に少数派の感覚をベースにしなさいということだと話が裏返しになるだけで,全然解決になっていない。

 そうすると,少数派は,現状で世の中に成り立っている多数派基準の社会の中で生きていく手段として,そういう器具を使うというのは,「多数派による少数派に対する配慮」なのではなく,むしろ少数派から多数派への配慮としてそうすることだ,という理解が必要になってくるのかなと,そんなことを思いました。

 で,元の話に戻ると,感覚の違いはこれは「その人にとって自然な世界」をお互いに否定しない(自分にとっては不自然であっても)という形で,そこは前提にしなければならないのだと私も思います。あとはその違いを前提におたがいの関係をどう調整するかの問題で。

ガーディナーさんへ

>まだ若いんだから、十分恥じ入らなくてはいけませんよ。
ちなみに顔に残った寝跡は、年々消え難くなっていくものです。

は・・・はいっ(;゚Д゚)
たしかに・・・恥じらいはどこかに置いてきたような気もします(笑)

それと、きっと私は「自分の中にいつもプラスとマイナス」をセットに置いていて
どちらかが暴走?するとどちらかがすぐに反応して 均等になるように
バランスをとっているのだということに気づきました。

(でも大体いつも プラスが少し多め)

これもずっと自然にやっていることなので、気づきもしなかったのですが(´・ω・`)


ところで、ガーディナーさんのコメントの中に見つけた答えを伝える前に
お話しを聞いてください(*^^*)

ガーディナーさんが、音楽を通して、相手の気持ちを汲み取ることを習得したお話を読んで、彼がポツリと話していたことがつながりました。

まさに みるきさんが使っている「点と点がつながる」ってこういうことか~と
一人勝手に喜んでいました(笑)

彼と私の共通は、あるスポーツなんですけど
(あぁ言いたい・・・でも我慢して スポーツまでとします)

それを昔ひたすら「1人で」やっていました。と話してくれたことがあったんです。

自分だけのリズム・呼吸ひたすら やっていたのがそういうことか・・・とつながりました。
(思い出話をしてくれていると、その時は思っていたので)

でも、そのスポーツは団体で行うもの。今の彼をみていると
相手に合わせること、相手を動かすこと、よく観察して、相手の気持ちを読みながら
勝ちに行く。ということを習得したのか~・・・と
一人でイメージしてました(笑)

(見てても勝ちに行くときは突進していますけれど・・・でも見ていて爽快です)


で、話を戻しますがずっと突進していた私も、彼を傷つけているのではないか・・・
ずっとプラスな気持ちとセットに持っていました。
(あまり感じないように隠していたともいえる)

たまに猛烈に怖くなる時もありました。そんな時は涙を流すとすっきりするのですけどね
(*^^*)

でも、ガーディナーさんのコメントの中の

「そばで見ていてくれる人がいるかいないかで、彼の苦しみ方や解放への道筋は
大きく変わるような気がします」

これを読んで

わたしの彼へのかかわり方はよかったんだと・・これからも想っていていいんだと
感じることができました。

なので、彼にできることは、「私は私のままで 彼とかかわっていく。」

と、

新たに付け加えるものとして
★彼にも合わせる★

この答えになりました(*^▽^*)

本当にガーディナーさんに感謝しています。

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