2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 定型アスペ問題の卒業の仕方 | トップページ | 表現のズレ,二題 »

2016年9月11日 (日)

上下のずれと横のずれ

 このところ話題になってきたことのいくつかについてちょっと頭の整理を。

 アスペの方の「障がい」と言われるものを考えるとき,「一次障がい」と「二次障がい」を見分けることが重要だということは,まあ異論がほぼないことだろうと思います。大雑把に言って一次障がいは生まれついての体の仕組みや働き方が,多数派とずれが大きいために,多数派にはない困難を抱えやすいということなのに対して,二次障がいというのはそのずれを理由としてアスペの方を多数派が否定的に見たり,排除したりするという社会的環境によってアスペの方に生み出される困難,ということになります。

 あすなろさんが掲示板で取り上げたトラウマの問題は当然この二次障がいの一つになるわけですよね。社会的な環境によって深く傷つくことによって,自分らしく社会の中で生きようとする気持ちが持てなくなる。周囲への憤りや不信感を持ったり,自分への怒りを持ったり,人への恐怖を持ったり,自分への否定的な気持ちを持ったりすることで,「お互いのずれを調整して自分らしく生きる道を探す」ことが困難になる。

 そして共同幻想の話として取り上げられていたことは,そういう形でアスペの方に二次障がいを生んでいる社会的環境を,「当然のこと」としてまるで疑わない人々の「常識」のことになります。だから,定型アスペ問題の解決は大きく言えば共同幻想を変えること抜きにはあり得ない,という話にもなっていきます。(ただし,共同幻想をなくす,という考え方と,別の共同幻想に移る,という考え方と,二通りがありますが)

 最近はその共同幻想の先に,どういう社会がありうるのか,ということについてのやりとりがたくさん続いてきたように思いますし,そういう新しい社会を一緒に模索するうえで,定型アスペ間に起こりやすいいくつかの困難がまたやり取りの中で出てきているようにも見えます。


 ところでこのブログは定型アスペ問題を「ずれ」という見方で見つめなおしてみる,ということをずっとやってきたわけですが,社会の仕組みのレベルで考えると,そのずれが定型にではなく,アスペの方に不利に働きやすいのは,基本的には多数派と少数派という,一種の権力的な関係がそこに発生するからだといえます。なぜ定型が多数派になり,アスペが少数派になるか,ということについては,かなりややこしい問題が絡んでくると思いますが,いずれにせよ結果としては今の人間社会は多数派である定型が基準で作られていて,そこにアスペの方がからんでくる,という仕組みになっている。

 けれども定型アスペ問題は「多数派が権力的に少数派を苦しめる」というだけの単純な話ではありません。そこしか見ないということでは,たとえばカサンドラの話は十分理解ができなくなるし,世間的に見ればより強い権力を持っていた私と,立場の弱いパートナーの関係で「強い」はずの私がうつ状態になる,というような展開も理解できなくなります。

 その問題を見失うことなく定型アスペ問題を考えるには,「自分が大事にしたい生き方」のずれ,というポイントに注意を向ける必要が出てきます。お互いに,自分がとても大事にしたいと思っていることを相手に認めてもらえない,共有できない,あるいは否定される,というようなことの積み重なりで傷つき,力を失っていく。そこには単純な意味では権力的な立場が上か下かは問題にならない。どちらも傷つくのです。その限りでは「平等なずれ(横のずれ)」です。(ただし,傷ついたときに権力がある側は自分を正当化し,相手を攻撃することで自分を守るということがしやすいという違いはあります。でもそれも絶対ではない)


 トラウマの問題は,同じく「傷つく」という感情の問題ではありますが,そこにあるのは「大事にしたい生き方」のずれのような「平等なずれ(横のずれ)」ではありません。そこにはトラウマを与える方と与えられる方の不平等な関係があって,ただしだいたいの場合トラウマを与える方はそこが理解されていない場合が多い,という「上下関係のずれ」がある。

 このことについて,タユミさんとあすなろさんのやりとりがとても考えさせられるところになります。あすなろさんはアスペではないのですが,ADHDというところでアスペであるタユミさんと同じようなトラウマ状況に置かれたわけですよね。ということは,そこは定型アスペのずれではなく,発達障がい全般に対して社会が生み出す二次障がいの部分ということになるのでしょう。前回の炎上で一部のアスペの方がご本人が否定してさえずっとあすなろさんをアスペと思い込むという不思議なことが起こったのも,この部分の共通感覚が強く働いたと考えることができます。

 つまりあの炎上は,定型アスペ問題はひとつのきっかけではあっても,実は発達障がい全般に絡む「二次障がい」が深くからんだものであり,そこから生まれたトラウマの傷がはげしくうずきだしたことがあの展開を生んだ,と考えられそうです。ただし同じアスペの方でも「入れ子」的な理解の仕方の有無によってそれをめぐるやり取りの仕方に大きな差が生まれ,他の発達障がいの方も同様,という性格のものだったということになりそうです。


 ちょっとまだ整理がごちゃごちゃしていますが,私としてはなんとなく見えてきた感じがします。
   

« 定型アスペ問題の卒業の仕方 | トップページ | 表現のズレ,二題 »

コメント

ぱんださん、この話題に食いついていただいて(←ちょっと言い方が失礼ですが、そう言うのが一番しっくりくるので)、ありがとうございます。

多分、この『トラウマ』というところに、これまで多くの方が過剰反応されていたと思うんです。

なので、ぱんださんが、アスペの方が過去に傷ついているというと、そういうことじゃない!と反論が返ってくる。

傷ついたからそういうことを言っているわけでなく、真実なのだとアスペの方は主張される。

これはどちらも正しいのだと思います。

私は、トラウマというのは、それで傷ついた経験という浅い見方をしていません。

物事の選択全てをコントロールするものと捉えています。
これは、良いようにも、悪いようにもなります。

悪い選択をしたようで、実はラッキーだったこともある。

問題は、良かれと思って選択したものが、悪い結果になったとき。
トラウマが影響したと、本人は気付くのです。

私の例でお話すると……

実は。私が結婚したのはトラウマが要因でした。
今になって、どうしてその選択をしたのか、自分の意思以外の要因がはっきりしてきました。

同じ目で見ると、夫もそうであることが分かりました。

だからと言って、お互いに悪いことではなかった。

家庭を持つことや子どもを育てることを経験するというのは、私の人生を大きく変えました。

夫という人間を選んだのはトラウマが原因だったとしても、それによって新しい人生を作ったのですから、正解だったわけです。

なんか、すごい反論がありそうな話題ですが、私の考えるトラウマとはそういうことなのです。

それで何が分かったかというと、今後私は、トラウマに左右されない選択をしていこうということだったり、子どもにはトラウマに左右されない自分の意見に耳を傾けなさいと教えていくことだと思うのです。

出来れば夫にも気付いて欲しいところですが、彼の選択は、何につけてもトラウマが影響していて、混乱していて、周りは静観するしかありません。
おかしいのは、子どもたちがその夫の混乱ぶりを、一歩引いて見つめていることです。
突き放すわけでもなく、必要以上に入り込まない。自分に利が無ければ関係ないという態度。

これこそ、自分の意思にまっすぐ生きるということかなと、逆に私が勉強しています。

共同幻想は、全てが本人の選択に任されている世界です。
チョイスしたものによって起きたことは、自分が責任を負わなくてはいけない。
間違えても、誰かに責任を取ってもらうことはできない。
その責任をどう果たすか、トラウマが影響していなければ、自分で考えることができる。

だから、責任の果たせるものかどうかを常に自分に問いかけて生きていくのが正しいことなのだと思っていますし、自分はまだまだ、多くの迷いがあるんだなと気付くことが多いです。

あすなろさん

> 夫という人間を選んだのはトラウマが原因だったとしても、それによって新しい人生を作ったのですから、正解だったわけです。

 これは掛け値なしにすごいですね。そこまで言い切れるようになるのはちょっと言葉に尽くせないくらいに大変だっただろうと思ったりしますが,でもそこまで言い切れると違う世界が開けますね。

 あすなろさんの家族というあすなろさんの世界がとてもリアルに,どっしりした存在感をもって感じられました。

> 共同幻想は、全てが本人の選択に任されている世界です。
チョイスしたものによって起きたことは、自分が責任を負わなくてはいけない。

 ここはちょっとわかりませんでした。もともと人が持っている共同幻想というのは,基本的には知らず知らずに身についてしまっているもので,意識的に選択するものではないと理解していたので。あすなろさんのような理解の仕方もあるんですね?

 私は個人的には人間の個人的な意思決定というものが,外部の影響から切り離されて成り立つことはないと思っています。そもそも「意思」と言うこと自体,そのあり方はお互いの影響しあいの中で生まれてくるものだと理解しているからです。何しろ世界は常につながり続けているので,そこに単独者など存在することは不可能だと思っています。

 ただ,「個人としての判断」や「決断」,あるいは「覚悟」の持ち方として,自分としての「責任」の取り方として,そういう世界にどう向き合うか,みたいな態度の話としては,あすなろさんの言われることはわかるようにも思います。そういう姿勢を持つことで,「世界とのつながり方が変わる」のですし。

>個人の意思決定と、外部からの影響

そこなんですね。私が今、見方を大きく変えようとしているところは!

これに気付いたきっかけがありました。
夫を選んだのは自分のトラウマだったと気付いたきっかけでもあります。

私は、夫の両親、伯母の介護を一手に引き受けていました。
結果的に、期間としては短かったのですし、みんなが自宅介護というわけではなかったので、ニュースで騒がれるような多重介護ではなかったのですが、各人の使える介護制度の調整、半身麻痺、内臓疾患、認知症と、全く症状の異なる人たちへの対応、ケアマネや関係機関との話し合い、通院の付き添い、見守り……全部ひとりでやっていました。
両親も夫も、ときどき感謝の言葉は伝えますが、その負担の大きさは嫁の仕事として当然と思っていたのです。

全てが済んで、ネットで通じた80歳の方が、嫁に介護を当然のように押し付ける老人が多いことを批判していらっしゃったので、興味を持ちました。
他にも、有無を言わさず、嫁というだけで介護要員にされて、悪態を吐かれ、当然といわれ、大変な思いをしている人たちの体験を目にしました。

しかし、この80歳の方は、老人にも問題はあるが、そういう考え方の両親がいる人と結婚した本人にも責任はあるとおっしゃいました。

理不尽な思いをして、さらに自己責任とは、随分冷たいなと感じましたが、よくよく考えてみたら、私も分かっていて結婚したのです。

まだ結婚する前に、両親と食事をしたときに、『将来、面倒見てもらうんだからね』とハッキリ言われたんです。
その時の私は、正直いやな気持ちがしました。

なのに、何故結婚したのか。
単に、結婚に憧れていたことと、家庭を持って、家に入って、ゆくゆく親の介護をするということが、どれほど大変なことなのか、こういうことを平然と言い切る人たちに、まともな論理が通用しないということを、まるで想像していなかった。若いとはいえ、あまりにも無知だったわけです。

この老婦人は、若いうちから広い視野を持って、自分の行動に責任を持つことの大切さを言っていたのだなと、気付きました。

それが出来ないうちに、安易に結婚を選んだ責任は大きいということです。

そして、責任を取るということが、私の苦労だったわけだなと思ったのです。
別に自分を責めろと言っているわけではなく、不可逆的に起こってしまったことであっても、自分に選ぶ権利は必ずあり、選んだものは自分の責任なのだから、最後まで果たさなければならない。
共同幻想に流されるか流されないかを選択するのも自分である。

ということなのだなと、思ったのです。

老婦人が生きてこられた時代は、戦中、戦後で、みんなが楽に生きられる共同幻想など存在しなかったし、逆に共同幻想によって命を脅かされたり、ひどい生活を強いられたりしてきた時代でした。

だからこそ、みんながいいと思う価値観など存在せず、常に自分にとって利になるかならないかを考えなくてはならなかった。

非常に厳しい意見ですが、共同幻想を盲目的に信じることの愚かさを言っているのだなと思ったのです。
しかし、それこそ主体的に生きるということなんだと気づかされました。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1449293/67436695

この記事へのトラックバック一覧です: 上下のずれと横のずれ:

« 定型アスペ問題の卒業の仕方 | トップページ | 表現のズレ,二題 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ