2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

2016年9月

2016年9月30日 (金)

それぞれの世界

 また例によって素朴な「再発見」です。「再」というのは,これまでも同じようなことを感じて書いてきたことなのですが,また改めてもう少し広がったり深まったりしたところでそれを感じるようになったという意味です。

 人はそれぞれみんな自分の世界を生きています。そこには自分だけじゃなくて,ほかの人たちがいっぱいいて,決して自分の思い通りにならなくて苦労もするけれど,でもそこで出会う他の人たちのことも,自分なりの理解でしか理解できてなくて,言ってみれば自分の世界に取り込む形でそこに現れているのでしょう。

 そうやってみんなが自分の世界の中で,人との付き合い方を学んでいます。そして自分の世界の中で自分なりに相手への気遣いの仕方などを身に着けていきます。それは自分の世界の中ではとても大事な気遣いの仕方で,もちろん自分の世界の中ではある程度実際に効果があるし,自分にとってはとてもリアルで大事なものなのです。

 ところがまた違う世界の中で生きている相手の人は,それとは違った気遣いの仕方を身に着け,あるいは作り上げていきます。それもまたその人が生きている世界(その人にとって見えている世界)の中では大事なもので,とてもリアルなものです。

 この二人の世界に共通性が多くて,気遣いの仕方もうまく調整されて共有されている場合,お互いの気遣いはとても力を発揮して,二人の関係を素晴らしいものにしていきます。だからその気遣いの仕方は二人にとって,言ってみれば磐石の「正義」みたいなものにも感じられます。

 ところがもしこの二人の世界がすごくずれていたとします。お互いの気遣いの仕方も全然ずれてしまう。その二人が出会うと何が起こるでしょうか。自分の気遣いがまったく相手に通じません。相手は自分にとって大事な気遣いを全然してくれません。

 お互いに「相手は気遣いができない人間だ」とすごくショックを受けたり傷ついたりするでしょう。そして相手が「これは私の気遣いなんだ」と仮に説明したとしても,そんなのは嘘だとしか思えなかったり,あるいは「偽善だ」と感じて激しい怒りさえ感じるかもしれません。なぜなら自分の世界の中では,そんなものはなんのリアリティもないものだからです。「気遣う良い人」のふりをして,実際にはひどいことをする人間,としか相手が見えなくなるのですね。

 思い返せば私もこれまでそういう形での相手への「猜疑心」や「怒り」を繰り返し感じてきたように思います。そして相手の世界を「偽善」としか思えなくなる。

 相手の世界の中ではそれは実際にほんとに必要な「善意(気遣い)」で,すごく大事にしているものだったりするわけです。どこにも「偽善」はない。もちろん気遣いとかは「こうすべきだ」という種類のものも多いですから,「本当はそうするのはしんどいけど」というような気持も含まれることも少なくありません。

 その意味では「本心から」とは完全には言いにくいところもある。でもやっぱり「人としてそこはそうすべきだ」と思い,本気で大事にしようとしているわけです。それが相手から見ればなんのリアリティもない偽善に見える。そういうずれがあります。

 世の中に蔓延していて,人を殺す理由にもなる「正義」とか,相手を「偽善」として怒りを持つこととかは,基本的にはそういう種類のものなんじゃないでしょうか。お互いに自分の世界を守ろうとして,相手の世界との結びつきを断ち切ってそうなっていく。

 パートナーとのこれまでの葛藤も,そういう部分が多いなあと,なんかしみじみ感じることでした。

2016年9月28日 (水)

「恥ずかしい」はなし

 ガーディナーさんが5歳の時に周囲の大人たちのことも含めて,その時に経験した言葉にならない葛藤をすごくリアルに覚えていらして,それを今言葉にされているのは改めてびっくりですが,その意味を考えられている内容も私には刺激的でした。

 前にもちょっと書いたかもしれませんが,カナータイプの自閉の子と遊ぶ家庭教師のようなことを学生時代にやったときに,一緒に公共交通機関とかに乗ると,その子が喜んだりなにかでいらだったりして大きな声を上げることがあって,そうすると「恥ずかしい」という感覚が湧いてきてしまった話を思い出しました。

 比較的最近までその「恥ずかしい」と感じることは「普通のこと」としか思わなかったのですね。でも,そこに実はものすごく大きな問題が隠れていることに気づかされるわけです。

 みるきさんもここで,他の人がみるきさんの「人に見せていない(あるいは人には見えていないと思っていた)」つもりの自分の性格(?)などについて,みんなが気づいているように感じられたとき,すごい恥ずかしさを感じられたわけです。それは何でしょうか。

 恥ずかしいという感覚は,「人に見られていないと思っている」「人に見せたくない」自分が見られたと感じるときに生まれる感覚なのだと思いますが,誰でも恥ずかしい思いをしたくないわけですから,できるだけ「恥ずかしくないふるまいをしよう」とすることになります。

 逆に言うと「恥ずかしい部分を見せる」というのは,すごく親しい関係になるということですよね。お下品な話,恋人同士になると,相手の前でおならができるようになるとか(笑)。つまり,「恥ずかしさ」をどうやりとりするかで,その人は相手との関係を微妙にというか,劇的にというか,調整していることになります。

 「何に恥ずかしさを感じるか」ということは,だから,その人のふるまいにものすごく影響することになります。「穴があったら入りたい」とか,「顔から火が出るようだ」などの感覚もそこに絡んでくるわけですし,相手に対して「恥を知れ!」と言うことも,おなじ感覚によって成り立つ話と言うことになります。

 そうやって人は「恥」という感覚によって,自分をコントロールするし,人をコントロールしようとするし,その「取引」によって人間関係を調整しようとしているというわけです。

 私が学生時代に感じたあの「恥ずかしさ」には,もう一つのポイントがあります。それはその恥ずかしさは「私自身」のことではなく,私が連れている「その子」のことなはずなのですが,でも感覚的には「私が恥ずかしい」という気持ちになるわけですね。つまり,「その子」と「私」はもう一体になってしまっていることになります。「その子の恥」は「私の恥」という状態になっている。

 その感覚は,めちゃくちゃ「自然」なもので,自分としては「周りはみんなそうだ」と信じ切っているわけです。「周りの人たちの視線が刺すように感じられる」みたいな表現もそういうことですね。周りの人たちも同じような感覚で生きていることを疑わないわけです。

 少なくとも定型の社会はそういう「人の視線」によって,自分がいたたまれないような思いになってしまうという,ある種不思議な仕組みによって成り立っている。そして多分アスペの方も多かれ少なかれそうなのだと思いますが,ただ,その強さとか,あるいは線引きの仕方のようなものがかなり違うのだと思います。そこで深刻にずれる。

 もちろんこの人の視線はマイナスのことだけではなく,プラスのものもある。褒められたらうれしいというのは定型アスペに関係なくそうですが,パートナーとの感覚の違いをよく感じるのは,自分以外の人が褒められた場合のことです。私は自分自身のことだけではなく,自分の子どもが褒められるようなことがあると,あたかも自分が褒められるような感覚を自然に持つのですが,そこがほんとに共有されにくい。

 定型同士の関係だと,「○○(自分たちの子ども)はすごく頑張って,こんなふうに成果をあげられて,ほんとによかったよね」というような会話は,こどもだけのことではなく,また子どもにとってよかったね,というだけのことではなく,「私たちにとってよかったこと」という話を含んでいると思うし,だから「一緒に子どもの成果を喜び合う」ということは,「自分たちにとって」とても大事なことになる。

 落語にも「子ほめ」というのがありますよね。最近こどもが生まれた家に行って,赤ちゃんをほめまくって親からなにかご褒美をもらおうとするような話だったでしょうか。それも同じ気持ちの仕組みがあるから成り立つことです。

 人に褒められるような自分でありたい,という気持ちは,定型社会の場合は「自分につながる人も褒められると自分がレベルアップした感じになる」ということにも広がって,「自分たちが褒められたい」という思いになっていく。世の中には叙勲だの○○賞だの,いろんな「誉める」制度がありますし,誰かがそうなると,「みんなでお祝いする」ということをやったりしますが,あれもまたそういう定型的な(?)感覚を利用したはなしになります。

 私は「虚飾」が嫌いな方だと自分では思っていました。お化粧などもあっさりめが好きだし,宝石とかにもほんとに興味がないし,宝石を身に着けている女性にそれだからと言って魅力を感じることもないし,勲章をもらってうれしい人の気持ちもわからないし,お金持ちにそれだからと言って魅力を感じることも全然ないし(お金は欲しいけど(笑))……。

 でもそれは「誰に何をどういうふうに褒められたいか」の違いであって,だからたとえば「清貧」とかをかっこよく感じたりすることがあるし(自分にできないからですが(笑)),そういう面でもし自分が褒められたりすれば(ないけど),きっとうれしいわけです。逆に「あいつは貪欲で虚飾にまみれたやつだ」とか言われると傷つくでしょう。

 そして上の話です。一緒にいた子の行動で自分が恥ずかしい思いをする。「まわりの刺すような視線を感じる」。で,そのことを「普通のこと」と信じて疑わない。パートナーと「子どもが頑張っている話」を共有しようとして一生懸命語っても彼女からは「だからなんだっていうの?」という態度で切り捨てられた感じになって傷つく。全部同じ話です。

 今まで私が彼女と「自分にとって大事なこと」を共有したいと思って手を変え品を変えて話をし,ことごとく無視され(るように感じ),「だからなんだっていうの?」という姿勢をとられ,「それで私に何と言ってほしいわけ?」と聞かれてショックを受けたのは,そこの基本的な感覚の違いだったということになります。私にとって「自分に関わる大事な問題」と感じられることが,彼女にとってはなんの意味もない空虚な世界の話だったというわけです。

 私が宝石を喜び,褒めあう世界を「虚飾」と感じるように,彼女は私が喜び,彼女と共有しようとする世界のことをほとんど意味のない「虚飾」の世界に感じるということでしょう。定型アスペのコミュニケーションで深刻な対立を生みやすいポイントの一つがここだと思います。定型が後生大事にしている「虚飾」の世界に,アスペの方はほとんど意味を感じない。あるいはそういう世界があって,それによって定型社会が成り立っていることを知らない。

 だからその虚飾を崩すようなことを,まったくその意識がなく素朴に語るわけです。でも定型的には「虚飾」といっても,それで人間関係を成り立たせているわけで,そこにある意味「自分をかける」と言うような世界なわけですから,「虚飾」といいながら実はものすごくリアルな世界です。それを正面から否定されてうろたえ,傷つき,そしてまた激しく怒るわけです。「それを言っちゃおしまいよ」の世界ですね。お金を「たんなる紙切れじゃん」と言ってしまったら,経済が崩壊するようなものです。

 ガーディナーさんが5歳の時に母親の「無理解な行動」で傷ついたのは,つまりそういう定型的な仕組みの中でお母さんがとった行動によって,ということになりますね。

 

2016年9月22日 (木)

タイミング

 何人かで話をしているとき,自分もその話の中に入ろうとすれば,上手なタイミングと言うのがあります。たとえば他の人が話しているときに話し出せば,相手の話を断ち切ることになり,相手を否定したり,自分より「下」として見たことになってしまいますから,雰囲気が悪くなりますし,「強引な人だ」とか「礼儀知らず」とか,悪い評価を与えられることが多いでしょう。

 逆に相手の話が一段落したときに,他の人の様子も見ながら,すっと話しに入ると,とてもスムーズに参加できることがよくあります。それは単に話す中身がどうのこうのというより,ほんとにタイミングのことが大きいんですね。

 定型でもそれがうまい人も下手な人もありますけれど,でも多かれ少なかれそういうタイミングを計ろうとするということはあると思います。下手な人はタイミングを計ろうとするんだけど,ずれちゃうという感じでしょうか。訓練である程度上手になれます。

 たぶん,そこには「息遣い」とか「体の動き」とか,いろんな身体の要素が入って,「場のリズム」みたいのができていて,そのリズムに沿った形で入り込むのがよいタイミングと言うことになるのだと思います。

 そうすると,アスペの方が定型の会話に入りにくいというのもわかります。通常は「場に合わない発言」とか,内容について言われることが多いと思いますが,実際はそれ以前に,無言の「場のリズム」「場の息遣い」のようなものに乗るか乗らないか,そのあたりからすでにずれが発生しているのだろうと,そんな気がするんですね。

 イメージとして言えば,歯車があるスピードで回っている。そこにもうひとつの歯車をかみ合わせたいとしたら,まずは相手の歯車のスピードに合わせてこちらの歯車を回し,凹凸がうまくかみ合うようにすっと歯車を入れる,ということが必要になる,その感じかと思います。

 で,このことを書いたのは,別に「アスペの方がそれができない」と言いたいわけではなくて,私もパートナーに対してこれができないんだなあと思ったからです。

 私は比較的定型間のやりとりのなかではそういうタイミングを感じ取ってそれに沿って話をすることは得意な方だと思います。それはみんなの会話に参加するときもそうですし,一人の人に対してなにかの話を切り出したいときにも,なんかそういう「今ならOKかも」というタイミングを計っています。もちろん成功するときも失敗するときもありますが,まあ下手なほうではない。結果としてそういうタイミングがうまくとれると,その人は話のリーダーシップを取りやすくもなりますから,これもまた定型的な「政治的動き」の一つと言えなくもありません。

 けれども,パートナーに関してはその定型的タイミングとりが通用しないんです。

 けんか腰の時はある意味相手のタイミングを無視していいわけです。あるいはタイミングを外してこちらのペースにしてしまう,というようなことを,けんかではよくやります。でも仲良くしたいときはそれはご法度。お互いにペースを合わせようとする。「息が合う」という,その表現のまんまですね。(だから,そのタイミングをはずして会話しようとすれば「けんか」と理解されてしまうことも起こるわけです)

 そのペース合わせがむつかしい。何か大事な話を切り出したいときに,「あ,今ならうまく切り出せそう」という,そのタイミングが全然つかめない。で,結局言い出せずに終わってしまう。考えてみるとそういうことがずっと続いてきたわけです。で,フラストレーションがたまりまくることになる。そうやって我慢できなくなって話を切り出すときには,ほんとにけんか腰になりやすくなる。こう書けばある意味マンガみたいなものですが,たぶんそういうこともあったのだと思います。

 今までは話の中身をどうパートナーに伝わりやすく切り出したらいいのか,ということを考えることが多かったのですが,たぶん,それ,だめなんですね。いや,全然だめじゃないでしょうけど,「それ以前」の問題がもっと大きいのではないかと思ったわけです。

 彼女とのやりとりでは,時間をかけることが重要だとか,書いて渡すなどの「間接的な方法」が有効だったりする,というのも,そこに原因の一つがあるとも言えそうですよね。当意即妙にタイミングを合わせる必要がないからです。

 彼女は小説も含めて本をよく読みますが,もしかするとそれも「彼女なりのペース」を自由に取れる形で読める世界,ということが大きいのかもしれないと思ったりします。

 アスペの方にとって定型的なリズムに乗るのがむつかしいと言われるように,私にとっては逆に彼女のリズムをつかんでそれに乗るのはとてもむつかしい,ということなのかなと思います。

 
 

2016年9月21日 (水)

共通部分の模索

 パートナーがまず否定から入る,という話はこれまでもずっと繰り返してきましたが,昨日面白いことがありました。

 テレビを見ていて,ある話が私は気にくわなくて,ひとつひとつについて,難癖をつけていたわけです。

 そしたら彼女が「否定的なことばかり言う」と嫌そうに言ってました (笑)

 なんだ,彼女も否定的な表現ばかりだといやになるんじゃん,と改めて確認。別に彼女を否定していないんですけど,それでもそうなんですね。

 ということは,彼女が自分が普段そういう言い方をしているということについても,彼女自身の価値判断で「それはよくない」と考えてもおかしくはないわけですよね。

 もしそうなら,そのあたりを共通の足場にして,なんか作っていくことができないのかなとか,そんなことを思いました。

違いやズレを前提にした共通部分の模索,でしょうか。

2016年9月20日 (火)

感情のバランスのとり方

 もうだいぶ前になりますが,「感情を出せない源氏の人びと―日本人の感情表現の歴史 」という本を読んで,これがめちゃくちゃ面白かったんですね(前にも一度書いたかも(^^ ゞ)。紫の上なんて,感情出せないので最後にはひたすら出家願望になるし,六条御息所はこれも普段は出せないので,生霊になって「無意識」の形で激しい感情を表出して,でもそのことに自己嫌悪するし,そんな話ばっかり(笑)

 そういうのとの対比で私にとってはすごく面白いのが韓ドラの世界なんですが,まあ感情表現が激しい激しい。いや,抑えるところはすごく抑えるんだけど,マイナスの感情も基本的にはばんばん相手にぶつける印象があります。「そこまで言ったらもうおしまいでしょう」と日本的には感じられるところ,全然そうならないところがまた面白い。

 親子でも兄弟姉妹でももちろんそうで,「ちょっと,この姉妹,どんだけわがままを言って相手を否定しているわけ?」とか「もう相手を嫌悪して拒絶してるんじゃない?」とか感じるようなやりとりが続く,そんなドラマもあるわけです。ところがその家族の一人が海外に行くことになると,もうみんな泣いて泣いて大変なのです。そこがまた面白い。

 

 自分の感情をどんなふうにコントロールして,気持ちを収めようとするか,というのが,ほんとに人によっても社会によっても違う。日本でもてはやされるのは,ストレートには出さず,自分の中で処理することを求められ,ただ,それでもどうしても漏れ出てしまう感情を周りが察して,その「我慢している姿」に共感するようなスタイルでしょうし,韓ドラの世界などはむしろお互いにがんがん出し合ってそこでバランスを取ろうとしているように見えます。

 だから一見「お互いに嫌悪している」ようにも見える関係は,実はものすごく「相手を必要としている関係」で,そうやって感情をぶつけ合うことでバランスをとっているから,その相手がいなくなると困っちゃうことになります。ドラマでも「胸にぽっかり穴が開いたみたい」というような表現が出てきたりしますけど,そりゃそうだろうなと思います。

 ストレートに言う,という点では,韓ドラのスタイルは一見アスペ的世界に近いようにもみえるけれど,でも実際はものすごく違いますよね。アスペの方は感情のやりとりによって自分の中のバランスを取ろうとしているようには見えにくい。その点はむしろ源氏物語的です。でもそこで察しあう形でバランスを取ろうというのとも違うのでしょう。

 

 日本でも感情をぶつけ合う形でバランスを取ろうというタイプの方ももちろんあります。日本では少数派で,でもある意味では出せなくてフラストレーションを抱える多数派的生き方には「魅力的」に映ることもあるのでしょう。だから時々そういうタイプの人が映画などに描かれる。ちょっと困った人だけど,心惹かれるものがある,みたいな感じで。

 定型アスペ問題も,その人が「どんなふうに感情のバランスを取ろうとしているか」ということによって,ずいぶん現れ方は異なるのだろうと思います。その人のタイプによって,きっと対処の仕方のポイントに違いが出てくるのではないかという気がします。

2016年9月16日 (金)

そりゃそうだ

 まだすごくはっきりしたことではないかもしれないのですが,昨日「第三者の目」を書いたことで,自分の中でだいぶ大きな変化が起こってきているような感覚があります。それはパートナーのことを「理解したい」という気持ちがより強くなったように感じることです。

 もちろんこれまでもそうは思ってきたわけですが,いつもある種の「いらだち」のようなものがなくなりませんでした。「なんでこういうことが伝わらないのだろう?」という気持ちがどうしても消えないんですね。頭では「違う」と思いながら,体が納得していないというのか。

 違いを理解しようとする,その視点が,どうしてもずれ続けて着地点がない,というのか,何を足場に違いを考えたらいいのかわからないというのか,そんな感じでしょうか。そこが昨日である意味すとんと抜けた。

 感覚的な言い方ですが「ああ,そりゃ通じなくて当然だ」という「ずれの当たり前感」とでもいうようなものが自分の中にできた感じたするわけです。「なんで?なんで?」ではなく「そりゃそうだ」。そういうズレでお互いにいら立ちが起こったとしても「そりゃ無理もない」と思える。

 そうすると,改めて「彼女の世界ってなんなのだろう?」という問いが,これもある意味「落ち着いた問い」として静かに湧き上がってくる感じがするんですね。いろいろ想像してみたくなる。

 その落ち着きと言うのは,理解しあえたからではないわけです。そうではなくて,理解しあえないことについて私なりに納得できたからなわけです。そしてそれは頭で納得したのではなくて,気持ちで納得したのでしょう。

 ようやく私にとっての定型アスペ問題の「本丸」に入ってきた感じがあるわけですが,それは私にとっての本丸で,私のこだわり方を突き詰める中で,そこを突き抜けることで見えたという部分があるのでしょう。だから,ほかの方にとってそこが本丸かどうかは私にはわかりません。それぞれの方がそれぞれの方の状況と,それぞれの方のこだわり方をもって定型アスペ問題を抱えていると思うからです。

 まあ,とりあえず「本丸」と思ったけど,さらに考えたらその先に「奥の丸」とかなんとかがあったとか(笑),そんな話になる可能性もありますけどね。とりあえずはまあ「そりゃそうだ,無理もない」感までたどり着いたということで……

2016年9月15日 (木)

第三者の目

 

みるきさんがまたまた面白いことを書いてくださいました。

 実はこの前ぱんださんやあすなろさん、アンブロさんとズレながら話していたときに急に今更ながら思ったことがあったので書いてみます。なんだかすごく不思議で急に妙に恥ずかしくなったんです。今更・・・なのかもしれませんが、急に私もみんなに見られてるんだ!と気づいてしまいました・・・。あの時、どうして会ったことないのにみんな私の性格を知ってるんだろう~とすごく不思議で、そうしたら、マジックミラーだと思ってたのにただの透明の板だった!みたいな衝撃がありまして急に本気で恥ずかしくなってきちゃいました。結構今も恥ずかしいです。

 この話,私がこのところ「なんかもしかしてそういうこともあるのかなあ」と考え,「もしそうなら定型が傷つき,そのことについてアスペの方がピンとこない原因の一つが分かってくるなあ」と思っていたことそのまんまだったんですね。 ああ,やっぱりそうだったのか!と感動。

 みるきさんがそのあとに書かれているように,定型と言うのは多かれ少なかれ,この「みんなに見られている」という感覚の中で生きています。もちろん,四六時中明確に意識しているわけではないし,またあまりその感覚が強すぎると「自意識過剰」と言われたり,さらに強くなると別の精神障がいとみなされたりもしますけれど,基本的にその感覚の中で生きている。

 だからたとえば私が文章を書く時にも,暗黙の裡に常にそれを読む「いろんな人々」を意識しているわけですし,「どんな人が読んでいるか」の想像によって表現も調整します。さらにたぶん大きなポイントになるのは,だれか特定の人とやりとりをしているときにも,「それを読んでいる第三者がそのやりとりをどう見るか」を意識している。もちろん場合場合によってほとんど意識しないときも強く意識するときもありますが,基本はそうです。

 そのことが少なくとも定型社会にとってはものすごく重大な意味を持っています。つまり,「第三者の目」によって,自分たちの行動が強くコントロールされる,ということがそれで成り立つからです。人によってはその「第三者の目」が「神様」のようなひと(?)になることもあるし,なんとなく「世間の目」みたいに漠然としたものになることもあるけど,とにかくそうです。共同幻想というのもそういう視点から見ることもできる。

 で,「相手にどうみられているか」も重要ですが,さらに「第三者から自分がどうみられるのか」はものすごくその人の精神状態にも影響をしてくる。だから「可能な限り第三者からよく見られたい」とか少なくとも「変に見られたくない」という気持ちが自然に生まれている。

 そういう気持ちの動き方があるから,「人前ではじをかく」ということは,しばしばその人にとって決定的なダメージを与えられることになりますし,場合によっては「恥をかいた」ということで自らの命を絶つこともある。また「人前で恥をかかされた」ということは生半可な身体的攻撃よりもはるかにダメージが大きいことがよくあり,これも場合によっては一生恨まれる結果を生んだり,恐ろしい「復讐」を引き起こすこともある。 

 今回みるきさんが発見されたのは,その(定型的な)恥の感覚ということになります。

 だから,定型の場合相手に対してなにか批判的なことを言う場合には,相当の覚悟が必要になります。よほど深い信頼感があるか,あるいは完全に敵対するという覚悟を持つか,そのどちらかであれば「心置きなく(? (笑))」批判ができますが,中途半端な状況ではそれは危なすぎる。

 だからこそそこでいろんな形の「冗談半分」で言うテクニックが発達するわけです。冗談半分なら相手が怒ってしまっても「冗談だよ」と言いぬけることができますから。もちろん下手な冗談だとドツボにはまって逆効果ですが,そこのテクニックもまた一生磨き続けることになる。

 一昨日の「仕事をしているかどうか」の話もこのポイントからも考えることができます。「仕事をしているかどうか」は,単にその仕事の内容がどうであるかではなく,「第三者からその仕事ぶりをどうみられているか」によっても大きく左右される。私がパートナーの言葉に驚いた理由の一つは,私の「仕事」について,周囲の人たちがそれなりに評価してくれた,という「見られ方」を彼女に伝えているのにもかかわらず(私としてはそれで十分に「仕事をした」ことの証明になる),彼女が「仕事をしているように見えない」と言ったからなのです。

 ここでも私の評価(この場合仕事ぶり)が,第三者の目を含んで行われるという私の理解の仕方と,そこがすっぽりと抜けてしまったかのように見える彼女のそれとで相当大きなずれがあり,それがお互いの混乱を生んでいるとみることができます。

 そう考えると,これまで私が「頑張って仕事をしているんだよ。安心してね」というつもりで繰り返し第三者の評価を伝えていたことが,ほとんどまったくと言っていいほどに効果がなかったことの意味も分かってきます。

 また,「第三者によく評価されたこと」でうれしくなって,それを彼女に伝えても,「だからなんだっていうの?」という感じの対応をされる意味も分かります。「他の人にどう思われようと関係ない」というのは彼女の相当一貫した姿勢ですが,そのことの意味も分かる。定型的にはそれは「人の視線に振り回されないゆるぎない精神の強さ」とか「自立した姿」として理解されますが,必ずしもそういう話ではないということでもあります。(そう考えれば,アスペの方が別の形での他者の視線には激しく動揺される場合がある…ように見える…ことも多分理解可能になっていきます)
 定型がアスペの方の発言に驚き,傷つく場合の一部も,ここから説明が可能になります。定型にとって,批判はたとえその場に第三者がいないときでさえ,第三者の見方を暗黙裡に意識しながら行い(たとえその場では意識していなくても,何かがあれば実際は無意識に意識していたことが明らかになります),その「第三者の目から見たその人の像」を傷つけないように努力する。その配慮がないときには,それは完全に敵対関係に入ったことの宣言になるわけです。(例外は本当に親しく,相手を心配して「言わずにはおれない」という思いを何らかの形で相手に表現しながら厳しく批判する場合)

 アスペの方がその「第三者の目」を抜きに,まっすぐ「事実」だけを見て,「事実」についてだけ語られ,そこでストレートに批判している,と考えると,定型がそれで傷つく理由がはっきりします。

 このことは,私が「定型はクッションをたくさん使う」と表現してきたことにもつながります。定型は「第三者の目」を気にするから,そこで私とあなたの直接的な関係ではない,もうひとつの関係でクッションが作られることになる。クッションはだから「第三者の目」のことになります。

 入れ子の話にもここがつながってきます。私が入れ子と言うのは,「私の視点」「他者の中の『私の視点』」「私の中の『他者の中の【私の視点】』」「他者の中の『私の中の【他者の中の〔私の視点〕】』」……みたいに,視点が入れ子入れ子になっていくことですが,第三者の視点はこういう入れ子の関係の中に取り込まれてくることになるわけですから,話がつながってくるわけです。(つまり「他者」に「相手」だけではなく,さらに「第三者」も含まれる形の場合)

 
 定型はそういう第三者の目を組み込んだ形での「世の中」で,自分の価値を値踏みしたり,他者と価値を共有しようとしたり,それを守ろうとしたり,増やそうとしたりして生きているわけですね。でもこの点でアスペの方はかなり違う。もっとストレートな(?)世界に生き,そのストレートさの中で価値を見て生きているのだと思う。だから,定型的な生き方は嘘くさくも感じられることになる。本音を言わず,ごまかしを重ね,嘘をついて生きている生き方に見える。定型の側はアスペの方の生き方を「人の気持ちを考えない」と理解する。

 この「人の気持ちを考えるかどうか」は常に定型アスペで激しくずれるところです。定型はアスペの方にそれがないように感じることがしばしばある。それに対して,アスペの方もまた「定型は自分たちの気持ちをまったく考えない」と思われている場合がかなりあるわけです。どちらからも「相手は人の気持ちを考えない」という見方で「一致」しているわけです。

 けれども,実際はそこで問題になっている「気持ち」の中身が著しく異なっています。定型は第三者の目を込みにして成り立つ「気持ち」であり,アスペの方はもっとストレートな「気持ち」の世界なのだ,ということになる。このずれは大きく,そしてしばしば悲劇的でもあります。

 
 定型から見て,アスペの方がとても「純真」に感じられることが多いのも,同じ理由でしょう。いわば子どものような純真な心を感じ取ることもあります。私にとってはそれはアスペの方の大きな魅力の源泉でもあります。でも逆にアスペの方に激しく残酷な,情け容赦ない姿を見ることがある(あるいはそういう生き方が身についているように見える人がある)のも実はそのことの裏返しなのだということになります。子どもが時に非常に残酷であることともつながります。どちらもまったくストレートな姿なのであり,そのストレートさが美しく現れる場合と,醜く現れる場合がある,ということになります。

 
 これまで長年この問題を考え続けてきて,「なぜアスペの方の言葉に定型が傷つくことが多いのか(アスペの方にはその意図がまったくないにもかかわらず)」ということがずっと謎であり続けてきました。わかるようでほんとうになかなかわからなかった。かすかな手がかりと感じられることがいくつかはありましたが,そこどまりでした。

 みるきさんの今回のコメントで語られた,みるきさんの体験談によって,私の中ではその大きな疑問を根本的に解く,とても重要な手がかりが得られたように感じています。もやもやしていた視界がすっと晴れてきたような,そんな気持ちです。

 まあ,ずっこけの勘違いでしたらどうぞ笑ってやってください (笑)
 
 
 

 

2016年9月14日 (水)

自分を肯定することと人を否定すること

 たとえば,車を運転していて,前の車がものすごくトロトロと走っていたり,ウィンカーの出し方,タイミングがおかしかったりして「いらっ」と来ることがあります。基本的に「いらち」なのかもしれないのですが(^^ ゞ 「なんでもっとさっさと行かないんだ」と,思ってしまうことがよくあったわけです。

 けれどもここしばらく,そういう場面に出会うと,「もしかしてこの人もなんかの発達障がい?」とか思ってしまうんですね。もしそうなら,本人にとってはいい加減な運転をしているということでもないし,頑張ってないわけでもないし,ただ車の流れが読めなかったり,注意のポイントにずれが起こったり,そういうことで本人もものすごく慎重になってトロトロになっているのかもしれません。

 実際,事故を繰り返した経験とかを書かれているアスペの方もあったと思います。

 安全運転とか,渋滞を生まないスムーズな交通,ということを考えると,ある種の運転の仕方に否定的な判断をしなければならないことは,まあ仕方のないことなのでしょう。親が認知症が出て来た時に,最も心配したことの一つは運転でしたし,どうやったら運転をあきらめてもらえるかについて,パートナーにもいろいろ相談しながらだいぶん考えました。

 そういう運転に出会って腹立たしく思うこと自体はまあ仕方がないか,当然なのか,そういうことなのかもしれないのですが,そのことで当人を責められるかどうか,というのはなんかむつかしい問題だなと。

 認知症の例で言うと,そのひとつのパターンとして,重くなると同じ話を何度も何度も繰り返すという場合があります。本人は毎回初めて話をするつもりなのでしょうし,毎回聞いてほしくて話をするのでしょう。介護関係の仕事をしていると,そういうのは日常茶飯事のことのようですが,そういうことには慣れているパートナーでさえ,耐えがたくなる時はあるようです。

 私の母親の例でいうと,もともとよく言えば天真爛漫と言えなくもないし,そこがある種の魅力や才能として人には映る部分もありますが,生来ものすごく身勝手な人で,周囲を振り回し続け,私たち子どももものすごく苦労をしてきたのですが,それが介護が必要な状態になってますます「磨きがかかる」部分も出てくるわけです。

 タイプとしては完全な巻き込み型で,他者の感情を掻き立て(その技術は大変なものです),不安や怒りを生み出して自分の不安に付き合わせる,ということを繰り返してきた人なので,まともに付き合っていると,こちらの精神が完全に耐えられなくなります。その結果,ごく自然に防御法として心理的に距離を取って巻き込まれないようにする,という態度が身についてくることになります。

 でも,そうやって心理的には防御をしたとしても,「ひどいことをされている」という思いがなくなるわけではないですし,周囲の人を含んでいったん決まったはずのことが勝手に覆されたりも繰り返され,いろんな人に迷惑をかけ,「実害」も生まれるわけです。

 ですから,どうしても愚痴を言いたくなることがなくならないわけですね。頭ではこの人はこういうタイプの人で,もう修正は不可能だし,当人もものすごい不安を抱えながら生きていることはわかるので,もしそこに共感できるなら「かわいそう」ではあるのですが,とにかく「被害」がひどいものですから,感情的には処理しきれないものがあるわけです。

 で,パートナーに愚痴ると,やっぱり「それはもう仕方がない」という割り切りの態度で接するしかないと言われます。この点は彼女はほんとにすごいと思うのですが,実際彼女もこれまでいろいろ「被害」を受けているにもかかわらず,今はちゃんと母親の話を聞けるんですね。過去には繰り返し否定的に見られ,攻撃の対象にもなった彼女が,今では母親に最も頼られ,信頼される「カウンセラー」になっています。

 
 実はこの母親と私との関係で私が感じることや,その中で作らざるを得なかった「距離の取り方」は,私とパートナー,あるいは定型とアスペの関係でアスペの方の側が感じることや取らざるを得ない距離と似ている部分があるのではないかと思っています。つまり自分に対して「過度に感情的に巻き込んで来ようとする人」に対する対応の仕方,ということで私にとっては母親がそうですし,アスペの方にとっては定型がそうなるのかなと,そんな風に感じるのですね。


 そんなふうに考えてみても,世の中,それぞれの人がどうしようもない「自分」というものを抱えて生まれてきて,どうしようもないその人の環境の中で育ち,その人の生き方を作り上げていく。それはある意味選択の余地がないもので,当人の努力がどうのこうのという問題をはるかに超えてしまっています。男性として身体も心も生まれ,周囲からも男性として接してこられ,男性としての生き方を作って今の自分がある,と言うことの中に,私が選択できる部分はものすごく小さいのと同じです。

 でも,そうやってどうしようもなくそうせざるを得なかった中で作られてきた生き方が,他の人にとっては迷惑極まりなかったり,怒りの対象になることが少なくない。

 私はこれまでいろんなことに「怒り」をもって生きてきたのですが,でもそこで怒りの対象になる人もみんな,結局どうしようもなくそういう生き方になっているとも考えられるわけで,逆に私自身が同じようなことで怒りの対象にもなりうるわけです。ということをある程度リアルに感じられるようになると,いったい自分が今まで素朴に抱えてきた怒りや憤りってなんなのだろうと,そういうことを考えてしまうことがあります。

 いや,もちろん究極的にはそのような「怒り」は「自分(たち)」を守る,という,いわば利害の部分につながっているのだとは思いますし,そのことを否定はできないと思うのですが,「自分を守る」ために,自分の論理で「相手を否定する」ということには納得できないものが残り続けることも事実で,そこがむつかしいところです。
 

2016年9月12日 (月)

表現のズレ,二題

 またまた定型アスペ間の「表現のズレ」について,興味深いことがありました。

 このところ,仕事で新しいプロジェクトを行うかなりハードな作業が続き,お盆休みも草引きでダニに襲われながらあとはひたすらその作業を行うような日々でした。その甲斐があってなんとか形になり始め,周囲の人々にはその努力も認められ,できばえもわりあい評価されるような形になってきて,よかったなあと思っていました。

 で,パートナーは私の仕事内容についてはほとんど関心を持ってくれない(ように見える)のですが(彼女の仕事についてもほとんど話はしてくれない),私の方は定型アスペ問題の「後遺症」もあってなかなか仕事が十分にはできない状態に置かれ続けていたのが,ようやく本格的に抜け出したことでもあり,私としては自分が頑張っている内容を知ってほしい気持ちがあるわけです。

 それは私が長いこと「後遺症」状態にあったために彼女にもいろんな意味で負担を与えていたので,「もうだいぶん安心してもらってもいい状態になってきているよ」ということを理解してもらうためでもありました。そんなこんなで「喜びを共有したい」欲望が湧くわけですね。

 ただこれも予想できたことに,そういう「共感」状態が成立することはほぼありません。その理由は,もともと彼女の性格としてそうだからなのか,いろいろ彼女も大変だったのでその後遺症で簡単には安心できないからなのか,その辺はよくわかりませんが,とにかくそうです。

 ただ,いずれにせよ,私の仕事の状態については彼女は不安感を持っていることはわかっていたので,目に見える形では関心を示してくれないか,おざなりにつきあうていどですが,それでもまあ少しでも事実を伝えてそのうちに安心感につながればいいなと思って仕事に何かの進展があるごとに,折に触れてぼちぼち伝えていたんですね。ほんとにぼちぼちですが。

 ところがいくらそれを行っても,安心が増す様子がないどころか,最近は逆に険しい表情になるようにも見え,そういうことを話をすること自体がかえってマイナスなのだろうかと,結構悩んでいたのです。

 ただ,悩むだけではなんの進展もないので,もう一歩踏み込んで私の仕事に対する周囲の評価なども含めて,その順調さを伝え,そして何か不安があるのかどうかを直接聞いたのです。

 いくつかのことが時間をかけてぽつぽつと語られたのですが,その中でとくに「へえ!」と驚いたことがありました。それは「こういう風に言うとまた傷つくかもしれないけれど」みたいな前置きをしてのことなのですが,「(パンダが)仕事をしているように見えない」というのですね。

 これにはほんとにびっくりで,まるで意味がわかんなかったのです。で,以前の私ならここでたぶんプッツンして即座に反論体制に入っていたと思うのですが,まあそこは多少人間ができて来たのか(笑),どうしてそう感じるのかをまたゆっくり聞いてみました。

 すると,私がいろいろな作業をしていることについては理解はしていたのですね。まあ実際にその成果物とかもときどき見てもらっていましたから,当然と言えば当然なのですが。ところがその成果物の内容が,彼女にとっての「パンダの立場ならばこういう仕事をしなければならないはずだ」という理解の枠に入らなかったらしいのです。

 ということが少しずつ整理されてきて,彼女は言葉を変えてこう表現しなおしました。「やっている仕事の意味がわからない」

 このこと以外にも仕事上の対人関係調整のありかたについての不安など,いくつかのことがあったのですが,それはさておき,この

 「仕事をしているように見えない」から,それで「不安になる」

と言うことの意味が,実際は

 「自分のイメージしている仕事の内容と違う」ので,それで「大丈夫なのか不安になる」

ということだったという(少なくとも彼女自身がそういう形に言い換えることが可能だった)事実が,私には特に印象的だったということになります。

 私の言語感覚では「仕事をしているように見えない」というふうにポンと言われた場合,「お前はまじめに仕事をしていない。遊んでいるんじゃないか」という相当に厳しい批判として聞こえます。けれども実際に彼女が表現したかったことは,次のかっこを補った内容だったというわけです。

 「(私がイメージする)仕事をしているような(姿は)見えない」

 そうなら「(私がイメージしない)仕事をしているような(姿は)見えている」ということも可能性としては含んでいる発言と言うことになり,それなら何の問題もない。ただ仕事内容についての理解が違うから,というだけのことになるわけですね。

 彼女は決して不注意でそういう発言になったとは思えません。なぜならあらかじめ「こういう風に言うとまた傷つくかもしれないけれど」というような(ちょっとうろ覚えで不正確かもしれませんが),少なくとも私に対して否定的な意味で伝わる可能性をはっきりと意識しながら,あえてそういう言い方をしたわけです。

 だとすると,彼女の中ではもともとは「仕事をしているように見えない」という言い方と「(私がイメージする)仕事をしているような(姿は)見えない」という言い方の間には区別がないのだということになります。ただ私の反応から,うまく自分の気持ちが伝わっていないと感じて,考えて言い直したという展開だと思えます。

 私はなぜ「仕事をしているように見えない」=「怠けている」という解釈を行い,彼女は全く異なる解釈で同じ言葉を言ったのか,何か結構大事なしくみがここに隠れているように感じます。言葉になりそうで,まだちょっとならないのですが,割と大事なことがありそう。

 
 で,みるきさんの最近の発言でもすごく面白いと言っては申し訳ないですが,興味深いことがありました。みるきさん自身が「出て行く出て行く詐欺」といった面白いネーミングをされているところです。

 みるきさんは掲示板でこれまで何度も「これでお暇します」みたいなことを書かれていて,でも実際にはわりとすぐ戻ってこられることも多くて,面白かったのですが,最近「もう私はここから完全に去ります」みたいな印象の書き方を何度かされて,それもあってあすなろさんと噛み合わない話が展開したところもありました。

 で,私が見てもかなりの決意で「私はここを去る」と言われているように感じて,なんなんだろうなと思ったのですが,他方でかすかに「私はここを」の「ここ」が一体何を指しているんだろうか,ということが気になってきていたんですね。「ここ」ではなくて「この掲示板」と書かれていることもあったような気がしますがそれも含めて。で,もしかすると「ここ」「この掲示板」とは掲示板の中のひとつのスレッドのことではないか,とか考えていたんです。

 そしたら今日の投稿で,みるきさん自身がそのことを書かれていて「ああやっぱりそうだったのか!」とおかしくなりました。

 まあみるきさんの言葉の中にはほんとにこの掲示板やブログ全体からいったん離れる,とうふうに言われていると思えるところもありますし,そこは多少ややこしい感じもしするんですが,しかしみるきさんの言う「ここ(またはこの掲示板)」には「スレッド」の意味もある。

 で,理屈からいえば,「ここ(またはこの掲示板)」というのは,特定のスレッドを指す可能性もないわけではない。でも実際にはあすなろさんも私もそうだったように,そしておそらく多くの定型の人はそうであるだろうように(アスペの方についてはちょっとわかりません),あの文脈では「ここ」は「明らかに」アスペと定型の掲示板とブログ全体を指すと,ごく自然に理解してしまうわけです。

 この違いは何なのか。

 多分,「この表現の仕方では何を意味するのか」ということについて,定型は普段からかなりおたがいの理解がずれないようにすり合わせをやっているのだと思います。それはほとんど無意識にやるようなもので,よくわからないけれど,何かを手掛かりに「どっちの解釈をとるか」について共通理解を作っている。

 私のパートナーもそうだし,この点ではたぶんみるきさんもそうではないかと今考えてみているんですが,その点でアスペの方は「自分なりの理解の仕方」を優先して身に着ける傾向が強く,私のパートナーが私とのやりとりを経て言い換えたり,みるきさんがやはりズレに気づいてあすなろさんに説明しなおしたりしたように,なにかのきっかけがあれば調整は可能なんだけど,その優先順位が低いのか,「自分なりの理解」そのままで進む傾向が強い,ということは言えそうに思うわけです。

 まあそのことは自閉性の方の思考の特徴としてよく言われることにそのままつながる部分でもありそうですが,ただそこでもうひとつ私が興味を持つのは,なぜそういう「自閉的思考パターン」とも言えそうなところからくる「表現」が,定型にとってショックであることが少なくないのか,というその仕組みです。なんかかなり安定した秘密がありそう。

 

2016年9月11日 (日)

上下のずれと横のずれ

 このところ話題になってきたことのいくつかについてちょっと頭の整理を。

 アスペの方の「障がい」と言われるものを考えるとき,「一次障がい」と「二次障がい」を見分けることが重要だということは,まあ異論がほぼないことだろうと思います。大雑把に言って一次障がいは生まれついての体の仕組みや働き方が,多数派とずれが大きいために,多数派にはない困難を抱えやすいということなのに対して,二次障がいというのはそのずれを理由としてアスペの方を多数派が否定的に見たり,排除したりするという社会的環境によってアスペの方に生み出される困難,ということになります。

 あすなろさんが掲示板で取り上げたトラウマの問題は当然この二次障がいの一つになるわけですよね。社会的な環境によって深く傷つくことによって,自分らしく社会の中で生きようとする気持ちが持てなくなる。周囲への憤りや不信感を持ったり,自分への怒りを持ったり,人への恐怖を持ったり,自分への否定的な気持ちを持ったりすることで,「お互いのずれを調整して自分らしく生きる道を探す」ことが困難になる。

 そして共同幻想の話として取り上げられていたことは,そういう形でアスペの方に二次障がいを生んでいる社会的環境を,「当然のこと」としてまるで疑わない人々の「常識」のことになります。だから,定型アスペ問題の解決は大きく言えば共同幻想を変えること抜きにはあり得ない,という話にもなっていきます。(ただし,共同幻想をなくす,という考え方と,別の共同幻想に移る,という考え方と,二通りがありますが)

 最近はその共同幻想の先に,どういう社会がありうるのか,ということについてのやりとりがたくさん続いてきたように思いますし,そういう新しい社会を一緒に模索するうえで,定型アスペ間に起こりやすいいくつかの困難がまたやり取りの中で出てきているようにも見えます。


 ところでこのブログは定型アスペ問題を「ずれ」という見方で見つめなおしてみる,ということをずっとやってきたわけですが,社会の仕組みのレベルで考えると,そのずれが定型にではなく,アスペの方に不利に働きやすいのは,基本的には多数派と少数派という,一種の権力的な関係がそこに発生するからだといえます。なぜ定型が多数派になり,アスペが少数派になるか,ということについては,かなりややこしい問題が絡んでくると思いますが,いずれにせよ結果としては今の人間社会は多数派である定型が基準で作られていて,そこにアスペの方がからんでくる,という仕組みになっている。

 けれども定型アスペ問題は「多数派が権力的に少数派を苦しめる」というだけの単純な話ではありません。そこしか見ないということでは,たとえばカサンドラの話は十分理解ができなくなるし,世間的に見ればより強い権力を持っていた私と,立場の弱いパートナーの関係で「強い」はずの私がうつ状態になる,というような展開も理解できなくなります。

 その問題を見失うことなく定型アスペ問題を考えるには,「自分が大事にしたい生き方」のずれ,というポイントに注意を向ける必要が出てきます。お互いに,自分がとても大事にしたいと思っていることを相手に認めてもらえない,共有できない,あるいは否定される,というようなことの積み重なりで傷つき,力を失っていく。そこには単純な意味では権力的な立場が上か下かは問題にならない。どちらも傷つくのです。その限りでは「平等なずれ(横のずれ)」です。(ただし,傷ついたときに権力がある側は自分を正当化し,相手を攻撃することで自分を守るということがしやすいという違いはあります。でもそれも絶対ではない)


 トラウマの問題は,同じく「傷つく」という感情の問題ではありますが,そこにあるのは「大事にしたい生き方」のずれのような「平等なずれ(横のずれ)」ではありません。そこにはトラウマを与える方と与えられる方の不平等な関係があって,ただしだいたいの場合トラウマを与える方はそこが理解されていない場合が多い,という「上下関係のずれ」がある。

 このことについて,タユミさんとあすなろさんのやりとりがとても考えさせられるところになります。あすなろさんはアスペではないのですが,ADHDというところでアスペであるタユミさんと同じようなトラウマ状況に置かれたわけですよね。ということは,そこは定型アスペのずれではなく,発達障がい全般に対して社会が生み出す二次障がいの部分ということになるのでしょう。前回の炎上で一部のアスペの方がご本人が否定してさえずっとあすなろさんをアスペと思い込むという不思議なことが起こったのも,この部分の共通感覚が強く働いたと考えることができます。

 つまりあの炎上は,定型アスペ問題はひとつのきっかけではあっても,実は発達障がい全般に絡む「二次障がい」が深くからんだものであり,そこから生まれたトラウマの傷がはげしくうずきだしたことがあの展開を生んだ,と考えられそうです。ただし同じアスペの方でも「入れ子」的な理解の仕方の有無によってそれをめぐるやり取りの仕方に大きな差が生まれ,他の発達障がいの方も同様,という性格のものだったということになりそうです。


 ちょっとまだ整理がごちゃごちゃしていますが,私としてはなんとなく見えてきた感じがします。
   

2016年9月10日 (土)

定型アスペ問題の卒業の仕方

 まるさんが掲示板にこんなことを書かれていました

「なんだか最近、自分の中で「アスペ定型問題」は下火になってきてしまって」


 その理由を読ませていただいて,思いつくことがありました。

 定型アスペ問題についてずっと考え続けてきて,まず私に見えてきたことは,物の見え方感じ方のレベルからぜんぜんずれていたりすることがある,ということでした。それは感覚過敏とか,そんな「定型基準」のレベルの話ではなくて,まさに「世界の体験の仕方がまず全然違う」という出発点からお互いの関係を考えなければならない,ということに気づかされる体験でもありました。

 次に,そのレベルまで「ずれ」を想像したうえで考えていくと,部分的には定型的な想像力を働かせることで,アスペ的な世界についても分かる感じが出てくる時がある,ということでした。それは単に私の思い込みではなく,「こういう感じではないか」と書くと何人かのアスペの方にその通りと言っていただく程度には,「共有できる」理解になっていました。

 けれどもそうやって一部で「問題の共有」の感覚が生まれる中で,他方で繰り返される炎上の中で改めて「どうやったって理解できない」部分もかなりはっきりしてきました。もちろんここについてもいずれ何らかの方法で「共有」できる可能性はあると思っていますが,少なくともそんなに簡単にできることではない,そうとう壮絶な葛藤や深いレベルの自分の見直しがあってはじめてできることのような気がしています。

 そういう状態で,とりあえず自分が「定型としてしか物を考えられない」という事実を改めて腹に据えたうえで,そのわからない部分を理解しようとすると,一部のアスペの方に対してはたとえば「入れ子」の話のようにちょっと「上から目線」の理解にならざるを得ないところがありました。なぜ上から目線かというと,「私は入れ子が理解できるが,相手はできない」という,「できるVSできない」という形でのはなしになってしまい,「理解の共有」はそこでは達成しえないからです。なにしろ「相手には理解ができないんだ」ということの理屈付けなわけですしね。

 そうすると,その意味では「対等」な関係ではなくなるとも言えます。なにしろ「できるVSできない」の「上下関係」になってしまうわけですから。

 ただ,少し視点を変えることで,ここも改めて対等な関係での話になる可能性も感じられます。たとえば私たちはだれでも昔赤ちゃんであったわけですが,私の体験でもそうですけれど,赤ん坊が泣いているとき,おなかがすいているのでも,暑すぎたり寒すぎたりしているのでも,のどが渇いているので,なにかにおびえているのでもなく,とにかく想像できるあらゆる可能性を考えてもわからないけど,でも泣き続ける場合があります。そんなとき新米の親は途方にくれたりするのですが,ようするに「わかんない」状態におかれて不安になるわけです。

 赤ちゃんに比べれば自分は明らかに「できる」人間ですし,「ケアをする」立場の人間なのですが,でも「私はわかっているVS相手はわかんない」という関係はここで逆転してしまっています。私は赤ちゃんが泣いている理由が分かんない。でも赤ちゃんの方は頭で理解しているのではないでしょうが,泣きたい気持ちは持っているという意味で分かっている。もちろん赤ちゃんの方だって,親の気持ちは分かんないわけですが。

 つまり,少し見方を変えると,こういう関係も「お互いに理解できない」という意味で「対等」な関係とも考えられることになります。

 「お互いに理解できない」という意味を,そこまで広げて考えた場合,定型アスペ関係のずれは「わかるVSわからない」という要素があろうがなかろうが,すべて「お互いに理解できない」という「対等」な関係として考える可能性が出てくることになります。

ま,このあたりはちょっと理屈に走っている感じがするので,今のところはこの程度にしておきたく思いますが,とにかく改めてものすごく基本的な感覚や考え方のところで「わからない」という部分を抱え込まざるを得ない,ということを性根に据えて向き合うしかない,というところに来るわけです。

 そうやって分かる部分が増える一方でわからない部分もまた見えてくるというところを行きつ戻りつしながら,「どうしたって自分の理屈では届かない世界」をふかく実感せざるを得なくなります。しかも差別的な見方が簡単に陥るように「だからあいつはだめなんだ」という否定的な理解ではなく,「相手には相手の理屈があって,それは私には理解しきれない」という形での理解なので,「お互いさま」の世界がさらに深まっていくわけです。

 そうすると,そうやって「お互いさま」の関係で一緒に生きていかなければならない,ということになれば,「相手を一方的に自分の思い通りに変える」という話にはならず,自分の思い通りにはならない相手をお互いに「受け入れあう」ということが必要になってきます。ところがそれがなかなか容易なことではない。なにしろあまりに異質で,自分が大事に感じていることを大事に感じてくれない,場合によっては否定される,ということがお互いに起こりやすいからです。

 そうすると,ここまで来るともう「相手が悪い」という形で「安易」に解決できなくなりますから,「相手には相手の理屈があってそうしているのに,なんで自分はそれを受け入れられないのだろうか?」という,自分のある種の「度量」の問題が浮かび上がってくることになります。もちろんこれもお互いさまの話なのですが,とにかく「どうしようもなく違う相手を受け入れられない自分」が問題になってくる。

 と,ここまで来ると,問題はもう「定型アスペ問題」というより「私の度量」の問題になってくることになります。「お互いの度量」と言い換えてももちろんOKです。「人格の未熟さ」みたいにも言い換えられるかもしれませんし「個性の問題」という言い方も可能になるかもしれません。とにかく「定型アスペ問題」という枠は外れてくる。

 つまりそれがある種の「定型アスペ問題」の「卒業」の仕方ではないかと,そういうことを思ったのでした。もちろんそれで「定型アスペ問題」がなくなっているわけではなく,お互いのずれを調整しなければならない,という課題は永遠に続きます。ただそれが「定型アスペ」という狭い枠の話ではなく,そのずれを調整するためにも「違う人間同士がお互いを受け入れあって生きる」ための「人としての度量」という,もっと一般的な問題に広がっているわけです。その意味での「卒業」ですね。

 まるさんの話は,私にはそんなふうに見えました。

2016年9月 8日 (木)

体得すること

 このところ自分の中に起こっているのを感じる変化があります。頭ではある意味わかっていたことですし,また何人もの方からここでもそのような意見を聞いてきたことなのですが,ようやくなんとなく腑に落ちる感じになってきたということでしょうか。
 ある意味簡単な話で「相手を理解できるとは考えない」という,ただそれだけのことです。もちろん,だから理解しようとしないということではなく,だからこそ理解の努力は必要という,ちょっと逆説的な感覚でもあるんですが,前と少し違うのは,理解できないことに「罪悪感」のようなものを感じなくなってきたということでしょうか。
 考えてみれば「理解できないのはお互い様だよね」ということでもあります。その意味で「対等」ということでもあるのでしょうか。
 いや,断片的にはほんとうにそういうことは繰り返し考えてきたし,書いても来たと思うのですが,なんか「腑に落ちてきた」感覚があるんですね。「体得」しはじめたかも,という。

 頭で考えることと,体で納得することとは別のもの,ということが改めて感じられます。おなかがすいたとき,「ご飯を食べればおなかが膨れる」と頭で考えることは簡単ですが,実際におなかが膨れるには考えるだけではだめで,それを実行に移さなければならない。

 そうすると,頭で考えるだけなら必要のないたくさんのことが必要になってきます。材料を準備するとか,下ごしらえをするとか,料理の技術を発揮するとか,なければ身に着けるとか,具体的なことがたくさんたくさん。


 そういうことが実際に行動としてできるようになったとき,「体得」したことになるわけでしょうね。そういうレベルで分かった感じが生まれるのが「腑に落ちた」ことなのかもしれません。

 「体得」すること,つまり「修行」の世界になるのかな。

2016年9月 3日 (土)

信頼とコミュニケーション

 今朝,うちの家ネコが家に近づいてきた他の猫を激しく威嚇する様子などを見ていてふと思ったのですが,猫間関係(?)とか,「相手の気持ちを理解してコミュニケーションをする」みたいなこと,まあないですよね。

 どんな動物にだって,少なくとも雄雌があって結婚が必要な動物なら生涯の内一度は他の「仲間」とコミュニケーションをする必要があるわけですけれど,そこで「相手の気持ちを理解して,思いやってやりとりする」みたいなことはちょっと想像しにくい。

 チンパンジーぐらいだと相手の行動の狙いを読んでだましあいをする,みたいなこともやるみたいで,そういうのを見てびっくりしたことがありますけど,逆に言えばやっぱりそういうのって稀なことなんでしょう。

 私の数少ない異文化体験からすると,日本の社会はこの「相手の気持ちを理解して接する」みたいなことを強烈に強調する社会のようで,「言葉に出さずに相手を理解する」ことを結構求められますが,欧米などだと「言葉に出さないことはなかったこと」になったりする。そのあたりが日本の「思いやり」だの「おもてなし」だのがその特徴になる,というところにもつながっているように感じます。

 また定型とアスペの関係でいえば,定型社会は「相手の理解」「裏読み」みたいなことを重視するのに対して,アスペの方はそこは「理解はできない」という割り切りを重視する傾向がある。

 人間が作ったコンピューターの世界は,とにかく言葉にしてなんぼの世界ですよね。プログラムなんて,ほんとにコンマひとつの違いで全然動かなかったりするわけでしょう?「思いやり」なんてとんでもない(笑)

 と考えていくと,コミュニケーションって,もともと「お互いに理解しあう」ということを別に前提には成り立っていないわけですよね。


 でも面白いなあと思うのは,割り切りを重視するアスペの方も,やっぱり人に話す,ということはされるわけです。ご自分が普段考えられていることを自分の中でとどめておくのではなくて,なんか語りたくなる。語りたいという思いは個人差は結構ありそうですけれど,多かれ少なかれそれがある。

 相手にそれが理解されることにどの程度期待するかはたぶん定型アスペ間でだいぶ違いがありそうですし(みるきさんは2割くらいと書かれていたかな),しばしばいわれるタイプの違いにもそこが絡んできそうですけれど,でもたとえば発言しないタイプの方でも「読む」ことはされる。「定型を理解する」ことは求められているんですよね。


 そう考えると,「理解できない」ということを前提にするアスペの方の姿勢は,ある意味コミュニケーションの一番の基本なのかなと思います。と同時に,それでも人間の世の中は「理解しあう」という要素がどうしても欠かせなくて,それがないと成り立たない。そこで「完全に理解できる」と思ってしまうとまたいろいろ問題が起こるんだろうけれど,でも「理解しようとする」姿勢も一緒に生きていくうえでは必要で,「信頼」というのは,その姿勢を保つことなのかなと。

 定型アスペ間で「信頼」に亀裂が入って傷ついたり苦しんだりすることが多いのも,つまりはそういう人のコミュニケーションの姿に基づいているんじゃないでしょうか。「まったく理解できない」と思っていれば,もともと「信頼」など必要ないし,逆に「完全に理解できる」ということならこれもまた「信頼」は不要です。「信頼」はそのどちらでもない,ある意味中途半端な状態で意味が出てくる。

 うーん,ということは,アスペの方が「裏切られる」感覚を強く持たれる場合がある,ということは,実は「信頼」という姿勢を持たれているからだ,ということになりますね。だから「裏切られる」感が生まれる。やっぱりアスペの方も「理解したい」という思いから決して自由ではない,といことがそういうところからも見えてくる気がします。定型よりは割り切っているけど,でも決して悟っているわけではない。 

« 2016年8月 | トップページ | 2016年10月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ