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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年8月

2016年8月28日 (日)

表現されない思いやり

 まだ少し噛みあとが残りますが,おかげさまでダニは峠を越したようです。ダニ退治のために初めて布団乾燥機を購入しました。おかげでふとんはふかふかです(笑)

 しばらくまた仕事の方にひとつの山場がきて,そちらに大部分のエネルギーを使っていたので,こちらに何かを書くような気持がわいてきませんでした。それがないときに無理やり書いてもあんまり意味ないような気がしているのでそのままになって,気が付くとだいぶ間が空いていたようです。

 最近,パートナーの気遣いを気遣いとして,なんとなく感じ取る力が育ってきた気がしています。もちろんそんな大げさな表現があるわけではなくて,出張に出るときに見送ってくれる時のほんのかすかな表情とか,ちょっとした一言とか,作ってくれるおかずとか,買ってきてくれるお菓子とか,今まではたぶん見過ごしてきた,ほんとに小さなことたちです。

 このブログをはじめて比較的最初のころに常連さんだった定型の方が,自分のアスペの彼について,かすかな,でもたしかな思いやりを感じる,というようなことをなんども繰り返して書かれていました。

 当時の私はそういわれても,そのことをパートナーに感じ取ることがむつかしくて,その方の彼氏が特別にそういうタイプのひとなのだろうかと,よくわからない思いでいました。そのうちに,ご自分の感じが伝わらないと思われたからかどうかはわかりませんが,発言されなくなっていきました。

 今ならまず頭では理解ができます。アスペの方の気遣いは表現ではなく,行いの中にあります。定型がそこで行いと共に「これはあなたへの気遣いですよ」という表現を含ませることが多いのとはずいぶん違う。

 もちろん定型でも「思いやりの押し付け」はあまりかっこいいこととは考えられず,控えめな表現の方が洗練されたものとして受け止められる,というようなことはあります。でもそういうのではないんですね。たぶん。

 定型は「表現したい(されたい)」というのがベースにあって,それを抑える力が働く。アスペの方はそもそもそこで「表現したい」という欲望があまり結びついてこない(全くかどうかは私にはわかりませんが)。

 だから,定型がその表現を抑えたとしても,実は「あの人はそういう表現を抑えるという,控えめさを持った人だ」と相手か,あるいはその他の誰かに「認めてもらえる」ことが結構大事だったりもするわけです。誰にも認めてもらえないときには「今はわかってもらえなくても,きっといつか誰かが分かってくれる」と考えたり,「人はわからなくても神様はわかってくださっている」とか,そんなことを考えて自分を支えたりもする(私は無信心者なのでそういうのないけど,テレビとか見ているとそうみたい)。

 定型の場合,そうやって「露骨に表現しないけど,相手を思いあっている」という微妙な表現を実はお互いにしていたりする。これもまた「入れ子」の関係と言えるでしょう。そういうのが全くなしに気遣いが成り立つ場合や人はあまり多くなさそうに思います。


 少なくともパートナーについて考える限り,やっぱり彼女の気遣いはそういう質のものとちがうんですね。きっと。だから,鈍感な私はその気遣いが気遣いであることに気づけない。「単なる行為」としてしか感じ取れないわけです。「好意」ではなく「行為」。まあダジャレのようなものですが,結構ぴったりくる感じもします。

 ただ,その「好意」が伝わらないことは決してうれしいことではない。彼女についてはそうです。私にあまりにも伝わらないことで何度もショックを受けていましたし。

 自分の思いが人につたわらない,ということは彼女はほんとに小さいころからずっと感じ続けて来たことです。親にも理解されない。前にも書いたかもしれませんが,「猫は尻尾で気持ちを表せるからうらやましい」と子ども心に思っていたのが彼女でした。

 で,私は頭では「アスペの場合は行為なのだ」という可能性を考えられるようにはなってきていました。でも感覚がついてこなかった。それが,このところ感覚的にもそれを感じ取るようになってきたような,そんな気がします。だからそこで「ほのかな嬉しさ」を感じることもでき始めているようなのです。

 このブログでは「頭では理解できても気持ちがついてこない」ということのむつかしさを書き続けてきましたが,このところ部分的にではあれ,そこに少し変化が感じられるようになってきています。ものすごい時間がかかっていますが。

 まあ,もちろんそう感じること自体が,私の勝手な思い込みである可能性は否定はできないのですが (笑), ただなんとなくそうじゃないような気はします。 

2016年8月19日 (金)

「入れ子」とダニの話2

ということで,引き続き「入れ子」の話だに。(←ここ,笑うところです)

 そのあと,パートナーがダニの原因を草むしりだろうと気づいたんです。私は実家から帰ってくるとき,草むしりした服を着かえずにそのまま車で帰ってきて,それから夜に脱いだんですね。だから草からダニが服についたとしたら,それが家まで運ばれてそして布団にもついた可能性が結構あるわけです。で,寝ている間に布団についたダニにかまれまくったというわけです。「なんですぐに草むしりの後,服を着替えないの。私はいつもすぐ着替えるのに」と怒られ(?)ました。

 さてそうすると,布団のダニを退治するにはどうしたらいいかということが現実的な問題になるのですが,基本的には熱で退治して掃除機で吸い取る,みたいなことみたいですね。で,ちょっと天気が曇り気味だったりして,お日様に当てて退治できるかどうかが怪しい感じでした。それで彼女は「風通しを良くして乾燥させるだけでも違う」というので,布団を敷いた状態で窓をあけて風を通し,天気がどう変わりそうかなどをネットで調べて彼女に話していたんです。

 そしたら「なんで私の言うことを無視してまた天気のことなんか調べたりするの?」と怒った感じで言うんですね。私としては窓も開けたつもりですし,彼女の方法には一応従ったうえで,さらにお日様にあてる可能性を探るつもりで調べていただけなので,何を非難されているのかわかりませんでした。それで,「いや,もし天気が良くなるのなら干したらいいと思うし」というようなことを言ったのですが,「自分の意見は信用しない」という怒りが解けないんですね。

 この,「自分は無視される」という言い方はこれまでも繰り返されたことでした。実際彼女の意見がどうも適切とは思えなくて別の可能性を考えることはありはしましたが,かならずしもそうでなくても「無視される」と非難されることがわりに繰り返された印象があって,なんでなんだろうとずっと困惑し続けて来たんですね。

 今回については,とりあえず私の方は「窓を開けて風を通した」ということで,彼女の意見を受け入れたつもりだったのですが,彼女がそのあと説明するには,部屋用の布団干しの竿のようなものにかけて風を通すべきだと,そういう意味で言っていたとのことでした。で,窓を開けただけでは意味がなく,彼女の意見は無視されたと解釈されたようです。

 みるきさんが自分の欲求は2割しか通らないのが普通で,4割伝わればびっくり,みたいなことを書かれていましたが,きっと彼女にとってもそうなのでしょう。「結局自分は無視され続けるんだ」という思いがとても強いのだろうと想像します。

 ただ,実際には私は彼女の意見に従っていたつもりでしたし,またさらに彼女の意見があればそれを取り入れる可能性は全然否定いていませんでした。私の主観的な思いとしては「無視する」という要素はかけらもなかったわけで,なんでそういう責められ方をするのかが最初まったく謎でした。

 けれども今回も入れ子がらみでふと思ったのですね。それは私が天気を調べてその話をしたときに,彼女の話が(実際そうであったように)私に誤解された可能性とか,あるいは彼女の意見の他にもいくつかの可能性を同時に考えて相談しながらいいやり方を探していく可能性とかを,彼女がその場で想定できていなかったのではないか,ということでした。

 彼女が「これが最善のやりかたに決まっている」と考えると,とくに「なんとかしなければならない」という切羽詰まった感じになって余裕がないときには,それ以外の可能性を相手が考えることは「自分を無視した」ことに感じられてしまい,「一緒にいろいろさぐる」姿勢はとりにくくなるのだと感じられたのです。

 そう考えると,一緒に相談しながら何かを決めていく,というプロセスも,実はたくさんの入れ子を使いながら進めていく共同作業だということに気づきます。

 「『Aがいい』と私は思う。でも『Bがいい』と相手は思うかもしれない。」というようなことがあって,その時【相手は「私が『Aがいい』と思っている」ことを知っていて,それは理解したうえで「『Bがいい』かもしれない」とも考えている(が実際はどっちかを決めていない)】というような「入れ子」にしての「判断保留」と「比較」みたいな作業がそこにはあるわけですが,その入れ子関係がうまく伝わらないと,「私は『Aがいい』と言っているのに,相手は『Bがいい』と言った」したがって「相手は私を無視した」という理解になってしまうと思えるからです。

 そう考えると,アスペの方がしばしば定型の困った性格として指摘される「あいまいではっきりしない」とか,悪くなると「裏がある」というような評価が生まれる理由もそれで説明できるようになります。定型は相談しながらの協力関係を作るためにも「入れ子」を必要としているわけです。クッションと言うだけではなく。

 まあ私の場合は定型の中でも特に入れ子をたくさん何重にも使って考えることもするたちですので,定型同士のやりとりでも誤解されることはあって,そこは定型アスペの問題ではないことになるでしょうが,でも意識すればそういう誤解がないように定型同士のやりとりももちろんしますし,そういうときはわかりやすいと言ってもらえることもよくあります。そして「この言い方はわかりやすいと思ってもらえるはず」と定型的な感覚で考えるところで,パートナーとの間でずれてしまうことがしばしばあるようなのですね。今考えると。だからそこはやっぱり定型アスペの違いになるように思います。

 そのずれは,今回のダニ騒動でもその可能性が感じられるように,特に余裕がないときの入れ子の使い方のズレが効いているのかもしれないと思えたのでした。そう考えるとまた私なりに説明がつくようになる「不思議」が増える気がしています。

 

「入れ子」とダニの話1

 また「入れ子」の話です。

 お盆に実家で伸び放題になった庭の草むしりをして帰って来たのですが,帰ってきてから寝ていてやたらかゆくなりました。パートナーは草にかぶれたのではないか,と言うのですが,かゆい場所にぽつぽつ虫にかまれたようなあとが赤くなっていて,あせもでもかぶれでもありません。どうもダニのようです。

 で,ダニじゃないかな,というのですが,なぜかあせもじゃないのか,とか,なかなか賛成してくれないので,噛みあとと思われるところをいくつも見せて,ようやく話がダニの可能性の方でまとまってきました。

 このあたりで,すでに表情としては険しく,言葉の調子としてはなにか私を責めるように感じられる言い方になっています。以前ならここで私の方は「私はダニにかまれて困って相談しているのに,なんで不愉快な表情で私を責めなければならないのか」ととても心外に思っていたと思うのですが,そこはクリア。

 たぶん彼女は「それは困ったことになった。どう対処したらいいのだろう?一体原因は何なのだろう?まずそれを追求して明らかにしなければならない」と真剣に思って,それで矢継ぎ早にああだろう,こうだろうと彼女の考えを次々にぶつけてくるんですね。それを「責められる」と感じてしまうのは,やりとりの呼吸に違いがあるからのように思います。

 定型の場合,おだやかなやりとりでは,相手が何か言ったとして(たとえばダニじゃないかとか),そのあとそれを聞いた方は「ふーん,相手はそう考えるのか。どうしてそう考えるのかな?私とどこが違うんだろう?」などとなんとなく相手の視点を探ろうとする時間がかかります。入れ子の話でいえば

【〔「『それはAだ』と私は思う。」しかし相手は「『Aだ』と私が思っている」ことをわかっていながら「Bだ」と主張している。〕ということは,〔相手は「私の視点を理解した」うえで私と違う視点で何かを考えている〕のだろう。(それは何か?)】

みたいな,まあかっこの付け方は結構適当で,正確に言うともっと書き方があるんでしょうし,決していちいち意識してそんなことを考えているわけではなく,あえて整理してみればそんな感じと言うことですけれど,とにかく無意識的にそんなことを考え始めるので,整理に時間がかかるんですね。たぶん。それでやりとりに一呼吸を入れながら話が進む形になりやすい。

 定型がそこで一呼吸を入れずに会話を進めるときには,逆に言うと,そういう「相手の視点を考えてみる」みたいなことを省く場合です。自分の方にもう結論があって,ある意味有無を言わさず相手に自分の意見を押し付けるような場合。「あんたの言うことは聞く必要がない。私に従いなさい」みたいなタイプのやりとり,叱責とか攻撃とか,そういう感じになるとそうなるわけです。

 ですから,どういう呼吸でやりとりをするか,一呼吸入るかどうかによって,相手がどういう姿勢で自分に話をしているかを無意識に判断しているのだと思います。呼吸を入れていれば私のことを理解しようとしてくれていると感じるし,呼吸を入れなければなにか決めつけでものごとを進めようとしている(叱責とか攻撃とか無視とか),と判断することになります。もちろん後者の方は普通「敵対的」な姿勢で,前者の方は「友好的」な姿勢を表すことになります。

 パートナーの場合ももちろん相手の視点を考える,というようなことはする人なわけですけれど,たぶんかなり時間をかけて,自分一人で考えるんですね。その場その場のやりとりの中ではそれがむつかしい。特に自分が相手のことを心配して,どうにかしなければという思いが強くなり,真剣になるほど,それが困難になる。もちろん定型でもほんとに切羽詰まってパニック状態になるとそうなりますけど,とてもそうなりやすいというのか。

 ということで,彼女が心配するほど,定型的に見れば「相手を決めつけて責める」かたちのやりとりの仕方になってしまい,彼女が相手を心配して真剣に考えて「友好的」に行動していることが,逆に相手にとっては「攻撃的」に見えてしまうという不幸な事態が生まれるわけです。で,お互いにそのずれに気づかないからさらに傷つく。

 

 ちょっと長くなりそうなので,この続きはまた改めて。

 

2016年8月17日 (水)

時間というクッション

 

定型的「入れ子」とアスペ的「入れ子」を書いて思ったんですが,定型が対人関係の中で直接は言葉にしない「入れ子」をたくさん使うことで調整をしようとする,というやりかた,それって「時間」というクッションを入れようとしているという風にも考えられますね。

 このブログでのやりとりの中で,定型アスペ間のずれによる対立を調整するうえで,「時間」が大事だということは結構共通理解になってきているように感じるのですが,言い換えれば感情的になって理屈も何もわかんなくなって混乱している状態に陥ったとき,「冷却期間」を置いてゆっくり考えることでまた違う可能性が見えてきて,新たな調整ができやすくなる,という話ですよね。

 で,実はこのやり方は何も定型アスペ間に限ったことではないわけでしょう。簡単に言えば「頭を冷やす」みたいな(笑),そういうの定型同士でもいくらでも言われたりするわけです。

 「入れ子」を使ってやりとりすると,ダイレクトに考えをぶつけ合うのに比べると,「相手の真意を読む」時間が余分に必要になりますし,「読み間違い」の可能性もあるので,より慎重にならざるを得ません。そうすると,それがクッションになって,「出会いがしらの正面衝突」になる可能性が減るわけです。

 アスペの方も感情的になると論理が混乱しやすくなる,ということはこのところのやりとりやみなさんの体験談などからもかなりはっきりしてきましたし,その際,クールダウンの時間が大事で効果があるということも,実例も含めてこれもはっきりしてきた気がするし,私の体験からの実感にもあいます。

 でも,それって別にアスペの方に特有の問題ではなくて,定型だって同じであるわけです。定型の方が対人関係に強いので,その面では多少混乱しにくいということがあるのでしょうけれど,まあ程度の差と言うか,五十歩百歩と言うか。

 で,定型の方は「入れ子」をいっぱい使うことで「時間稼ぎ」をし,衝突を減らそうとする方向に技を磨いていく。他方アスペの方はそこはある意味かなりあきらめて,自分の中での安定性を重視する方向に進み,「時間稼ぎ」ではなく,「相手から離れる」,という形で衝突を減らそうとする。そのどちらも「距離を置く」という点では同じです。ただ距離の置き方がそれぞれの特徴を反映する形で違うものになっていくわけですね。

 私は世間的に「障がいの特徴」と言われているものは,そのかなりの部分はそれぞれが持って生まれてきた特性を基に,この世の中でそれにあったかたちで生きる工夫を重ねる中で形作られてきたものだと思っています。それは「生き方の工夫」とか「生きるスタイル」のようなもので,それを単純に「矯正の対象」として見てしまったら,その人がその人の特性を生かしてその人らしく生きる道を閉ざすことになってしまうと思うわけです。

 それは別に「そう考えるべきだ」とか,なんかの理想論を言っているわけではなくて(もちろん理想を探してはいますけど),上のように入れ子の例で考えても,現実にそうなんだと思えるんですね。単に定型とはおかれた状態が違うから,生きる工夫,生きるスタイルが変わってくるというだけのことなんだという。

 そこまで見てくると,定型アスペの関係は単純に「援助と被援助」の固定した上下関係として考えられるのではなく,同じ人間同士だけど「異なる生き方」「異なるスタイル」を作り上げてきた者同士のフラットな関係として,あまり無理することなくとらえなおせるようになるんじゃないでしょうか。





 

2016年8月16日 (火)

定型的「入れ子」とアスペ的「入れ子」

 「入れ子」という考え方を入れてみると,いろんなことが割合理解しやすくなるような気がしているんですが,掲示板の方でblueさんが書かれていた例も,そういう理解でもわかりやすいような気がしました。blueさんがみるきさんとのやりとりで出されている例です。

「私の特徴なのか、定型の特徴なのかわかりませんが、例えば、「私は~が好きなんだ。」とか「私はこう思うんだ。」と伝えた時、その後ろには(それで、あなたはどう思う?とか、あなたのことを教えて。)が含まれているという特徴があります(反応を求めている)。みるきさんには、そこをちゃんと表記して、伝えれば良かったので、私の文章も分かりづらかったんだと思いました。」

 これを入れ子式に書くとこうなります。

 「『私は~が好き』と私は思っている(があなたはどう思うだろうか)」

 定型はごく自然にこの( )の部分まで含むものとして相手に話をするわけですね。ただし,それを言葉に出さないのは,たぶんそれもクッションです。そこまでいちいち意識はしませんが。どういうクッションかというと,「この私の質問に答えるか答えないかは,あなたの気分で決めてもいい」というメッセージをそこに含めるということです。

 このクッションがあることで,相手は「どうこたえるか」について,ある程度自由に決めることができますし,その答え方によって今の自分の気分を相手に伝えたり,相手とどんなふうな関係を作りたいと思っているかと言う「裏のメッセージ」を伝えることができます。

 たとえば相手が「ふーん。」とだけ答えたとします。その時は「ああ,この話題に相手は関心がないんだ」とか,「何か気分が悪くて話をしたくないんだろうか」とか「この人は私を避けているんだろうか」とか,いくつかの可能性を定型は感じ取ります。そしてそのうちどの可能性が高いかを推測し,分からないときはなんとなく推測するための探りを入れたりします。

 これもたとえば「今日,なんかあったの?(気分が悪そうに見えるけど)」と聞いてみるとか,「このあと何かあるの?(忙しくて私の話を聞くゆとりがないとか?)」と尋ねてみるとか,あるいはなにか険悪なものを感じ取った場合には,「あ,ちょっと用事を思い出した(この話はここまでにしましょう)」と言って去ったり,何も言わずに,さりげなく去ったり。

 そういうやりとりをしながら,直接ぶつからずに,お互いの感情を調整しあうようなやりとりが続くことがよくあります。

 つまり,定型のやりとりでよくあるのは「事実の伝達」ではなく「事実をめぐる感情の調整」になるわけですね。だから「事実についての発言」のうしろに( )がついてくる。


 論理的に考えるときにはどうしても「入れ子」が必要になるわけですけれど,そのことについてはおそらく知的発達で困難を抱えられるケースの他はアスペの方はそこでずれてしまうことはなく,むしろ定型以上に論理的に物事を考えられる方が多いと思います。

 ただ,人間はすべての場合に同じように論理的に考えられるわけではありません。これは定型でも同じで,特に感情的になったときなどは理屈も何もなくなる,ということはだれにでもあることでしょう。そういうときは「冷静になる」時間が定型でも大事になります。

 けれども,定型アスペのズレを考えてみると,たぶんこの論理的な整理の仕方を「どういうところで活用しやすいか」というところで違いがあるのではないかと感じます。

 つまりアスペの方は対人関係,特に感情的な問題や「私とあなた」という対人関係の問題について入れ子を活用することに特有の困難さ(あくまで定型を基準にした言い方です)がある。その点で(  )を活用して人間関係を調整することが困難になり,それを多用して世の中を作っている定型社会にうまく適応できなくなる。

 ただ,それがまったく不可能と言うこともなくて,時間をかけて知的に分析を進められる方はだんだんと(  )の中身を推定する技術を深められ,それができるほど,定型社会に適応しやすくなる。「時間」と「経験」と「推理力」が物を言う世界です。

 私がアスペの方について理解をしようとするときも,ある意味ではその逆バージョンになります。感覚的にはわかりにくい部分を,「時間」をかけ,「経験」を積み重ねて,それを「推理力」で整理してある程度想像可能にしていく。そしてこの方法がある程度は有効であるということはこれまでのこのブログでも確かめられてきました。

 

 同じように「入れ子」の力を持っている場合でも,定型がそれを活用する分野と,アスペの方が活用する分野にずれがある。そこは「感情の調整」に関わる部分で,定型は基本的に「他者との感情調整」に比重が高く,アスペの方は「自分の中での感情調整」がウェイトが大きいという違いがある。それで定型が感情の調整をするときには他者との関係で「入れ子」を多用して調整するが,アスペの方は自分の中での調整なので,そこはあまり使わない。

 そういうスタイルの違いがあるため,対人関係の作り方,調整の仕方にずれが生まれ,お互いにそこで何がずれているのかが分からないために,相手の発言の意味が分からずに振り回されたり,違う意図を読み取って傷ついたり,相手に不信感を抱いたり,自己嫌悪に陥ったり,攻撃的になったりと言うことが起こる。このあたりの仕組みは定型もアスペもたぶんほとんど同じです。

 
 おととい,またパートナーとの関係の変化を感じさせるできごとがあったのですが,また改めて書いてみたいと思います。

2016年8月13日 (土)

「入れ子」とトラブル

 このところ,最近のとてもわかりにくいトラブルが生まれる理由について,いくつかの角度から考えてみているのですが,特に記事 「筒で見る,というたとえ話」 について,定型(ただしADHD),アスペの両方の方から次々に私の理解には基本的に賛成されるということと共に,さらに進んだ問題点について大事なコメントをいただけているように感じます。

 あすなろさんとキキさんから最初にいただいたコメントに対する私のお返事の中で,私は 

「それにしても,これは今後少しずつ考えていきたいと思っているのですが,同じように「部分」に注目しやすいアスペの方でも,私の書いていることを「裏切り」のように感じ取る方もあるし,キキさんが前に書いてくださっていたように,私なりに一生懸命相手に向き合おうと努力している,と言う風に見て,そこで信頼してくださる方もある。一体その違いはどこからくるんだろうか,というのがとても気になっています。」


 と書いたのですが,それについて早速定型サイド(ただしADHD)のあすなろさんからは 「経験の差」という問題点が指摘され, アスペ+ADHDのキキさんからはこちらも) 「距離の取り方と信頼の作り方の差」という問題点が指摘され, またみるきさんからは 「アスペ度の違いによる<傷つき方のレベル>の違い」という可能性が指摘されました。

 詳しくは直接お読みいただければと思いますが,私なりの理解で概要をまとめてみますと,あすなろさんは「周囲からできないことを指摘され,責められ続けるが,本人はなぜそうなるのかが分からない状態で苦しみ続け,また自分がいくら努力をしても改善しない辛さから,そのことに触れられること自体が激しい感情的な反発を引き起こす状態になっている場合」と,「できない原因が障がいという形で自分でも納得でき,さらに周囲の要求や叱責が合理性のないもので,勝手に言っているだけだと突き放してみられる自分ができることで,そういう激しい感情的反発から自由になっている場合」の二つの違いとして理解されています。

 これは私にはとてもわかりやすい,納得のいく話でした。この理解はADHD的な部分でこれまで他の定型からの「迫害」に苦しみ続け,それを乗り越えてこられたあすなろさんご自身の体験に基づいていて,そしてその部分では同じような形で苦しめ続けられているアスペの方の気持ちがよく共有できるということなのだと思います。その結果,アスペの方たちの一部はご本人が改めて否定した後でさえ,あすなろさんを「アスペ」だと理解する方がなくならないという状況が生まれてきました。それだけ「問題を共有している」と感じていたのだろうと思います。

 キキさんはアスペの方の一つの傾向として,他者との距離の取り方に困難があり,拒絶か完全な信頼のどちらかに極端化しやすく,いったん信頼すると自分との区別が困難になり,自分と同じと思い込む形になり,そこから違いが見えてくると大変にショックを受けて「裏切り」と感じるようになる,そういうことが起こりやすいという理解をされました。

 これも私の言葉でいうと「入れ子」や「部分と全体」の話につながってとてもわかりやすく感じました。つまり,人間関係を入れ子的に少し身を引きながら調整するスタイルを持ったり,あるいは部分と全体を区別しながら,部分的な関係を作っていくスタイルを持つ人の場合は,同一の人に対して「部分的に」信頼することが可能になりますし,そのために「入れ子」的な判断の仕方,関係の調整の仕方を行うことが可能です。

 そういうスタイルがあると,「部分的には自分と一致しない(または敵に見える)」という風に見えることがあっても,「全体としては違いを含みながら自分と一致しようとしている(味方である)」という信頼関係が保てることになりますが,そのスタイルがなければ,部分的な対立はすぐにそのまま完全な対立になってしまうということになります。そうなるとあとは相手を理解しようとする調整の問題ではなく,相手を否定しようとする闘いの問題に簡単になってしまうわけです。

 みるきさんはあすなろさんの書かれたことをまた少し違う視点や言葉で語られているような気がしますが,定型社会の中で不合理な要求をされ続けて傷ついてきた,その傷つき方のレベルがアスペ度の違いによって異なり,それが深い方の場合,同じ言葉に対しても致命的なくらいに深い傷を負うことがあるのだ,という指摘です。これもまた今回のトラブルを理解するうえで,私にはとても大事なポイントを強調してくださった感じがしています。


 三人の方の話を私なりにつなげて,これまで私が考えてきたことと合わせてみると,こんなふうな整理の可能性があるかもしれません。

 「定型とは違うことで自分ができないことを責められることの苦しさとそこから生まれる傷」については,当然のことながら定型の方はピンとこないことが多いわけです。定型は定型でもちろんそれぞれの人がいろいろな悩みを持ち,傷を抱えて生きていますが,アスペの方たちがそうなる部分とは,やはり大きな違いがある。だからそう簡単に共感的に理解することは困難です。

 そういうところで,アスペの方を理解しようとする姿勢を持った定型は(実感としてわかりにくい分)頭で理解して対応しようとすることになります。しかしアスペの方はそこで自分の傷が理解されているという実感が得られず(頭での理解なので当然のことですが),なにかのきっかけで「あいつらは全くわかっていない」という思いが生まれると,激しく傷がうずきだし,怒りが噴き出してくることがある。

 この点まではたぶん多くのアスペの方は共通する部分です。さらに言えばADHDで苦労された方も同様の体験をすることになるでしょう。しかしその次に分かれ目が来ます。

 そのような状態に置かれても,部分と全体を区別し,また「入れ子」的に調整を考えるスタイルを持っている方は,傷つき傷つけられる部分を抱えながらも,それを全体として見てしまうことなく,「入れ子」的にちょっと距離を置いて考えてみるという形になりやすくなる。だから自らの傷を表明しながらも,対話的な関係は維持しようと努力されます。

 さらには「入れ子」的なスタイルを持っているために,「事実と解釈」を分けて考えるというコミュニケーションの形もとりやすくなります。そうすると「事実」の共有が相手としやすくなりますから,お互いの誤解にも気が付きやすくなる。

 ところがそのスタイルを持たず,別のスタイルで生きている方の場合には,部分的な違いはそのまま全体の違いとして理解されることになり,ご自分の傷を距離を置いてみることも困難になりますから,激しい憤りが噴き出すことになり,さらに相手との距離の取り方が「一致」か「対立」か「信頼」か「不信」かの二者択一になりやすいことから,いったん「一致」して自分と同じで「信頼」できると考えていた人間に違う面が見えてくると,今度は「不信」と「対立」の方へと激しく移行するということが起こり,その際「裏切られた」感覚が発生するので,その相手に対する怒りは抑えようもなく激しいものになる。

 同じようなポイントで傷つかれた方の中で,そのことへの反応の仕方にその後で起きな違いが生まれた理由は,そう考えると「アスペ度の違い」とも考えられることになります。つまり「傷つく」ことについては定型と非定型(アスペもADHDも含む)の対立関係がそこにあり,しかし対応の仕方については「入れ子」スタイルの有無の違いが効いてくる。そういう形ですね。

 そんなふうに整理してみると,今回の事態についてはかなりの部分,私にも理解可能になってくるような気がしました。

 仮にそうだとすると,ここで二つのことが新しく確認されることになりそうです。まず一つ目は,「入れ子」スタイルの有無という私の話は,定型とアスペの区別に関係するというより,むしろいわゆる「知的発達」に関係するような問題です。論理規則などをまったく理解困難な方については,そういう問題が絡んでいると理解した方が分かりやすくなります。このようなスタイルの違いが存在しているときには,「理屈立てて事実を抑えながら理解を調整していく」という試みは失敗する可能性がたかくなります。大事なのは「私がどう感じたか,私がどれほど傷ついたか,相手がそれを納得し,謝罪するかどうか」という問題に集約されてしまい「相手がどう感じたか,相手はどう傷ついたか」ということは視野に入ってこないからです。そうすると,その時の調整法はとりあえずは「感情のぶつかりあい」のレベルで考えざるを得なくなるのかもしれません。ここはさらに慎重に考えていく必要があることと思えます。

 ただし,こころの理論の話で出てくるように,自閉系の方の多くは「こみいった入れ子の視点」の理解について,困難を感じられる場合が多かったりするわけですが,人間関係がかかわるその部分に苦手さが残っても,抽象的な論理的な力が育たないことはなく,その中では高度な「入れ子」的理解も可能になる方が少なくない。IT関係で活躍されるアスペの方はたくさんいらっしゃいますが,入れ子が理解できない人はそもそもプログラムを理解することもましてや書くことも不可能です。ただアスペの方はたぶんその力を人間関係に応用する点で,何らかの困難があるのでしょう。そういう論理的な「入れ子」の力を獲得されている方については,時間をかけて議論をすれば,「入れ子」的に理解を調整する可能性が高くなります。

 新しく確認されたことの二つ目は,そういう形で事態の意味を理解する,ということを,少なくとも「入れ子」スタイルをとれる方たちとの間では定型アスペに関係なく理解が共有される可能性がある,ということです。少なくともアスペサイドのキキさんとみるきさんは,私の理解の仕方について,ここでかなり納得されたとのことでした。正直なところ,そういう私の理解の仕方自体がかなり定型的な感覚に偏ってしまっている可能性も否定はできませんでしたから,その理解がどこまで共有されるかは大変に気になっていたのですが,そこは可能であることがはっきりしてきました。逆に言えば定型の中でもこういう理解について,共有しにくい方がある可能性もあります。その点でこの違いは定型アスペの違いではない。

 現実的な問題としては,このブログのガイドラインは「入れ子」スタイルを前提にした「対話」を想定して作られており,そうするとこのスタイルを理解されない方は,問題が起こったときにまったく悪気なく,そしてその理解もなく,むしろ義憤に駆られて正義感からガイドラインに違反し続ける可能性がなくならないことになります。この点でどう考えたらいいのかは,また検討すべき重要な課題になるように思いました。

2016年8月11日 (木)

筒で見る,というたとえ話

 昨日久しぶりに,パートナーとちょっと言い争いっぽくなったことがあったのですが,パターンとしては以前から書いてきたことと同じような展開で,ただ,彼女の方もかなり早い段階でちょっと気分を変えようと努力していました。

 その時に,このところずっとここで続いてきた一部のアスペの方とのトラブルとの共通性についてふと感じたんですね。そのトラブルと言うのは,事実を基に説明し,議論しようとする姿勢が希薄で,自分の個人的・主観的な印象で語られ続け,それについていくら説明してもまったくと言っていいほど理解が共有されないし,こちらの説明もまったく理解されないという展開です。

 私の説明について,具体的にその説明では理由にならないとか,理解が間違っているとかそういう形で否定されるのなら話は分かりますし,あるいは「ここは意味が分かりにくいからもう一度説明しろ」と言われるのならいいのですが,それがほぼ皆無。完全にスルーされた状態で,まったく同じ批判が繰り返されますから,どうにも応答のしようがなくなります。

 しかも同じ人とのやりとりでそれが起こるというだけでなく,それを見ているはずの別の人からまったく同じパターンの批判が起こるという,ほとんど「物理的法則」のようにさえ思える展開が何度も何度も繰り返されます。

 一般的にはそういう応答の仕方は悪意に基づく攻撃と理解されることになるはずです。相手の言うことをまったく無視した形になっているわけですから。賛成しないとか反対するのではなく,無視するということですね。ただ,コメントをくださる方の様子をうかがっていると,どうもそういうことではなく,素朴にほんとうにそう思われていそうだということも感じられる。

 で,私のパートナーの場合は「事実に基づいた議論が成り立たない」ということはありません。議論が混乱することはあっても,そこは時間をかけて調整することはかなり可能ですし,また「事実の解釈・受け取り方が全然違うんだね」という共通の理解もそれなりに成り立ちます。そこは全く違うのですが,ただ,特に余裕がないようなときに,ある意味での共通性が感じられるようになるんです。

 それは「自分の個人的・主観的な印象で語られる」という部分に関わるのですが,まず前提として説明したいのは,「自分の個人的・主観的な印象で語る」こと自体は誰でもすべてそうで,神様じゃないんですから,それ以外のことはできません。ただ,人はお互いにその「主観的な印象」を他の人と調整する,ということをやるわけですね。そしれお互いのズレを調整して共通理解を作ろうとする。

 ですからズレを調整しようとする気持ちが強いときほど,自分の感じ方や考え方については「間違っている可能性」を想定して議論をすることになります。それがこのところ繰り返してきた「入れ子」のスタイルと言うことになります。

 パートナーは余裕がなくなると,ここが危うくなって,議論に論理がなくなり,自分でもそのうちになんの議論をしているのかわからなくなるような混乱をはじめる印象がありますが(時間がたつと整理されたりもしますから,本人にとっても混乱なのだと思います),落ち着けばそれほどのことはありません。

 ただ,ここでのやりとりは時間的にはゆとりを作れるわけですから,そういう状態であってもそこが調整困難なタイプの方もある,というふうに考えざるを得ません。

 ただ,そのことが本当に「論理性が身についていない」という理解ですべての方について考えてよいのかどうかについては,どうもそう言い切れない気持ちが残っているんです。その理由の一つは,私のパートナーは明らかに論理性を持っている人だと私は思いますが,(ここでのトラブルについて話しても,それはおかしいと感じられるみたいですし)それでもやはり共通性を感じる部分がある。だとすれば,その共通性の部分については論理性の有無と言う話だけでは理解しきれないものが残るからです。

 以下は,あくまで「私が自分では普通にできると思っていること」について,一部のアスペの方が「できない」と感じられるという「私にとっての印象」を説明し,そこは「できない」という前提に立ってどういう関係の調整ができるのか,というスタンスで考える話です。「できる」=「正しいこと」みたいな価値判断は一切含めたくありません。

 
 今の段階で私がそういう方たちの考え方の特徴について,自分にわかりやすい形で想像力を働かせるとすると,こういう比喩を持ち出すとちょっとわかるかもしれないという気になっています。

 こんなシーンを思い浮かべてみてください。パソコンのスクリーンに大きめの文字で何か文章が書いてあります。視覚に困難がなければその文章を読むことにさほど困難はないでしょうし,知っている言葉で書いてある平易な文章なら,意味を理解することもそれほどむつかしくはないでしょう。

 ではここでみなさんに小さな筒を与えられ,それを片目に当てて,もう片方の目はつぶってパソコン画面上にその筒をくっつけて,同じように文章を読むように要求されたとします。その筒は小さいので,一度にみえるのはせいぜい一単語くらいです。

 先ほどに比べ,読むのにとても苦労されると思います。それでも自分でコントロールして一行一行を順番に時間をかけて読めば,まあなんとか文章の意味は分かるでしょう。それでも「さっきかいてあったこと,どんな意味だっけ?」と途中でわかんなくなると,そこに戻ってもう一度該当の部分を探し,理解しなおすのはこのやりかただと大変です。探しているうちにますますわかんなくなったりもするでしょうし,かなりストレスの大きな作業になります。でもまあ理解は不可能ではない。

 ところがさらに条件を厳しくして,その筒を自分で動かすことができず,ほかの人が勝手にでたらめに動かしてしまったとします。どういう理屈で動かしているのかは見る人にはわからない。そうなると,文章の中の文字や単語がでたらめに次々に現れてくることになります。そしてその文字や単語のつながり方は全然見えない。

 こうなってくると,もはや天才的な記憶力と推理力でもない限り,文章の意味を理解することは不可能になりますよね。今見ている単語の意味が分かっても,それがさっき見た単語の意味とどう関係するのかがまったくわからない。そういう状態でなんとか文章を理解しようとすれば,自分の印象に残った単語から,自分にわかりやすいような筋を想像して組み立てるしかなくなります。

 あくまで比喩ですが,一部のアスペの方の私に対して繰り返されるパターン化された批判を見ていると,こう理解すると分かる気がする部分も出てきます。そしてそういうところでパートナーとの共通性も可能性として考えられそうになります。

 自閉系の方の注意や興味などがとても限定されたものになりがちだ,という話はよく聞く話です。「こだわり」という言葉で言われることもあります。そこから「想像力の欠如」みたいな(私にはかなり間違った偏見に基づく理解と思える)評価が出てきたりすることもある。

 実際は「こだわり」というのは,「興味を他者とすり合わせることをしない」という意味が強いのかなと私は感じるのですが,「注意の範囲が限定される」ということについては,上の比喩によく対応しています。筒で見ているようなものですね。
 その結果,前後のつながりなどで判断することがむつかしくなりますから,限定された注意の範囲の中で判断しようとすると,結果として文脈を無視した形の理解にならざるを得なくなります。その結果,今自分が見ていることや特に自分にとって印象に残った部分だけを取り出して自分の理解を組み立てざるを得なくなる。仮にその前後にその理解に当てはまらないようなことがあったとしても,そこは考慮できなくなるわけです。

 そうするとそれをめぐるやりとりも,文章が全体として何を言っているかについての理解をしながらという形にはなりえませんから,結局自分にとって印象的な自分の理解を相手に投げつける形しか取れなくなります。そして改めてその根拠を尋ねられても,その印象を繰り返して主張するしかほかに方法がない,ということになりますよね。しかも生まれながらにそういう筒の中で見ざるを得ない状態に置かれていたとすれば,それ以外の方法があるということを想像することも困難になりますから,そこで作られた理解の仕方について「おかしいでしょう」といくら指摘されても,そのこと自体意味がまったく分からないということにならざるを得ません。(つまり,私が「事実に基づいて」といくら言っても,その意味が共有されにくい)
 こういう状態になると,お互いにフラストレーションがたまる一方です。筒を通してみている方は,その中で自分の印象に突き刺さった単語を基に,それを「事実」として主張し続け,そのことを認めないパンダを攻撃し続けるでしょうし,私の方は単語の組み合わせという「事実」によってその批判を「事実無根」と説明し続けてもまったく無視されることにいらだちを募らせることになる。


 まあ,これもひとつの解釈の可能性のレベルの話ですので,あまり断定的にいうことはできませんが,私の視点から理解しようとすると,そう考えるとわりと説明できる部分が多くなるかなと,そんな話でした。

 仮にそういうことがある程度言えるのだとすると,そういう両者にはどういう関係の調整の仕方が可能になるのか,また改めて考えてみないといけないということになりますね。 

 
 

2016年8月 9日 (火)

真剣さは伝わる?

 本人はあまりそういわないのですが,パートナーと子どもの関係がここにきてすごくよくなってきている感じがしています。昨日も帰省していた子どもを見送りに行って,乗り物が完全に見えなくなるまでずっと彼女は見送っていました。

 一時関係がすごくシビアになって,お互いにほんとに辛そうだったのですが,まったく変わりました。

 よかったなあと,しみじみ思います。

 こどものことをそこまで深く思っている,その気持ちが私にもなかなか理解できませんでした。前にもなんども書いたように,本当に「共感的なかかわり」とは到底感じられないような接し方でしたし。それでこどももずっと苦しみ続けていました。

 でも,ほんとに子どものことを真剣に心配し続けていた,という点では,実際は私をはるかに超えていたかもしれません。今はそういうことをなんとなく感じられるようになりました。心配が強烈になって,逆に抑圧的に見える,非共感的に見える対応になる。

 こどもは思春期になって母親に対して激しい憤りを示しましたが,それでも母親が最後の最後では好きであり続けたのだと思いますし,今はその気持ちが素直に出てきているように感じます。それもまた,その表現の是非はおいておいて,でもその真剣さについては,やっぱりどこかで子どもに伝わっていたのかなと,そんなことも思います。


  

2016年8月 8日 (月)

管理方法の変更について

みなさま

 いつもいろいろと大事なご議論をありがとうございます。

 タイミングもよくなく,大変に残念なことで,申し訳なく思いますが,ブログ及び掲示板の管理上,やむを得ない事態が発生いたしました。

 ガイドラインの精神に著しく反する投稿については,警告ののち,改善が見られない場合に該当者からの投稿それ自体をご遠慮していただく措置をとってきています。これまではそれで済んでいたのですが,今回そのような措置にもかかわらず,禁止アドレスを次々に変更して投稿をし続けるケースが発生いたしました。

 とりあえず個別の削除等の措置で対処してきましたが,それにも関わらず,当人にその自覚があるかどうかは不明なのですが,事実上の荒らし行為がまったくやむ気配がないため,残念ながら投稿されたコメントについて,いったん保留ののち,管理人の手続きを経て公開に到る設定に変更いたしました。

 このブログは可能な限り自由な議論の場を目指してまいりましたが,たった一人によるこのような妨害的行為によって,他のすべてのみなさんの投稿にまでご不便をかけざるを得なくなったことについて,大変に残念に思います。

 もちろん今後もお寄せいただくコメントについては,ガイドラインに反しない限り,その内容を問わず,公開していきますので,みなさんにはこれまでと同様自由にご発言,ご議論いただきたく思います。その精神には一切変更がありません。

 公開手続きについては可能な限り早く行いたいとは思いますが,とりあえず一日のご猶予は見ておいていただけるとありがたく思います。管理人の都合によってそれ以上間があく可能性がある場合は,できるだけ事前にお知らせするように心がけます。
 以上,事情をご理解いただき,ご協力をよろしくお願いいたします。
 
 

三者の関係と時間

 子どもが間に入ると,パートナーとの関係が柔らかく進みやすくなることがある,という話を昨日書きましたが,考えてみるとこれはかなり興味深いことのように思います。

 というのは,もうだいぶ前にはっきりしてきたことですが,仮に結婚当初,二人の関係の時は結構あつあつで,うまくこなしていた夫婦でも,子どもができるとそれが途端にむつかしくなり始める,ということがありました。これは結構多くのカップルで見られることのようでした。

 それに限らず,二人でいるときはいいけれど,そこに第三の人が絡みだすと混乱がひどくなるという話もありました。

 もともと「一人でいるのが一番楽」と感じるアスペの方も多いわけで,二人の関係もよほど相性が良かったり,恋愛感情が働いてなんとか保とうとされるのかもしれません。そこに第三者が入ると途端に関係がものすごく複雑になるので,しんどくもなるし,いろいろトラブルも起こりやすくなるし,ということがあるのでしょうか。

 ちなみに私の経験では,境界性人格障害の方は三者関係を嫌い,すべてを二者関係に持ち込もうとするという強烈な傾向があるように思います。その傾向によって「相手を縛る」ような関係になることも多いわけです。ただアスペの方はあきらかにそういう意味での二者関係の重視とは異なっていて,もともと一人がいい,という傾向があるのに対し,境界性の方は一人を恐れる(強烈な不安感を持つ)傾向が強いという決定的な違いも感じます。

 という理解の仕方が一方で成り立つような気はするんですが,でもそれをあまり単純に理解すると,子どもが入って関係が柔らかくなる,という話が分かんなくなってしまいます。それって明らかに三者関係ですから。

 これもこのブログのやりとりの中でだんだんはっきりしてきたことの一つですが,定型アスペ間のこじれた関係への工夫の一つは,「時間を置く」ということにありました。物理的に離れる,というのが効果がある場合もあります。まとめていうと,何らかの形で「距離を置く」という形にすると,比較的その後の関係の調整がスムーズに行きやすいという傾向がいろんなところで見られました。

 私の場合は,ショックな言葉を聞いても,すぐに反応しないで一呼吸置くようにするとか,目をつぶって横になって体を楽にして話を聞くようにするとか,書いたものを渡す形にするとか,その時々でいくつかの工夫をやってきました。そしてそれぞれがある程度の効果を持ってきました。

 その延長上に考えてみると,以前は混乱の原因にもなっていた子どもの存在が,今はそういう「距離を置く」という働きをしてくれるものになってきたという考え方もできそうな気がします。

 実際,子ども自身も定型アスペ間のずれに苦しみ続けてきて,なんとか折り合いをつける方法を模索してきたところがあります。その意味で,母親と「距離をとる」部分と「甘える」部分と,その使い分けが私などよりはるかに上手になっている印象もあります。そんなふうに成長したあとで,間に入ってくれる形になったときには,三者関係なのに,以前のように混乱に向かうよりも逆に一種のクッションの働きで関係を柔らかくする力を発揮してくれているのかもしれません。 

 私たちも子どもも,たくさんの葛藤を経て,少しずつうまい距離の取り方を模索してきたのだろうと思いますが,それがある段階まで来ると,はじめは混乱のもとであった三者の関係が逆にプラスに働く可能性を持ち始めるということでしょうか。

 これもまた「時間が大事」ということのひとつなのかもしれません。

2016年8月 7日 (日)

とりあえずの理解

 最近,パートナーとのやりとりが何か微妙に楽しくなってきています。以前ならトラブルのもとになっていたような,微妙に皮肉に聞こえる話は,彼女の方は(たぶん意識的に抑制して)あまりしなくなっていたのが,最近改めて「あなたこういうの嫌いでしょう」みたいな感じでわざと挑発っぽく言ってくる,みたいなことが時々あって,それで私も「あたりまえじゃん!」みたいな返しをする。

 なんていうか,感覚の違いをお互いに遊んでいるような,そんなやりとりがぼちぼちでてきた気がするんです。それで,ずっと理解されずにつらかったあることについても,「あなたって本当に○○な人なんだね,私は完全に△△な人なんだけど」とようやく実感を持って理解されたようなこともありました。

 

 さて,このところ心がかなりすさんでいた中で,直接のメールなどでもいろいろご心配,お気遣いをいただき,どうもありがとうございました。少しずつ気持ちに潤いが戻ってきているようです。

 今回もいろいろなことを学びましたが,今のところ感じている「ポイント」には次のようなことがあります。

 いろんなずれが改めて見えてきている気がしますが,その一つは私の「入れ子」的コミュニケーションへのこだわりの問題です。

 「○○だ」という決めつけではなく,「『○○だ』と私は思っている(が相手はそうではないかもしれない)」と考えることによって,感じ方も考え方も異なる相手との関係を,なんとか調整しなおす道を探る,というのがその趣旨です。

 ですから,私が書いたものはほぼすべて(だと思います),この入れ子の形で書かれていて,あくまでも「私が思うには」という限定つきですし,またそのことは繰り返しいろんな形で説明してきたつもりなので,特に断ることなくそういう形で書いていることも多くあります。

 これは自分自身のことや考え方についてだけではなく,ほかの人の感じ方や考え方を理解しようとする場合にも完全にそのスタイルで貫かれています。つまり

 「 『<○○だ>と私は思っているが,相手は<△△だ>と感じているかもしれない』と私は思っている」という,もうひとつの入れ子の関係で考えることで,アスペの方の感じ方,考え方を想像してみる,ということを繰り返してきました。

 その模索の中で,私が「もしかするとアスペの方は『○○だ』というふうに感じ(考え)ていらっしゃるのではないかと想像してみました」というようなことを書いたことについて,「その通り」というような強い賛成の意見をアスペの方から寄せられるようなことも繰り返されるようになり,ようやく定型的な感覚で良し悪しを判断するのではなく,アスペ的な感覚にもある程度共感的に理解をしたうえで,お互いのずれの調整を考える,という可能性が見えてくることになりました。

 それは大事な進歩だと今も確信していますが,ただここで私が予想しきれなかった違う問題が生じていたようです。それはその私の入れ子のスタイルを省いて「パンダも『○○だ』と考えるようになった」と理解された方がかなりいらしたのではないかということです。

 実際は明らかに違います。私自身は違う感じ方をしているのだけれど,それととりあえず置いておいて,自分の感覚をなんとか工夫しながら拡大する形で想像力をはたらかせて,別の感じ方の可能性を多少なりとも共感的に想像できる部分ができてきた,ということにすぎません。私が別の感じ方をしていること自体は全く変わらないのです。ただそれを無自覚に絶対化しないようになっただけのことです。

 そこが伝わらなかった方には,私が定型として持っている感じ方が別の場所で表明されたり,それがいろんな形で表れることで「ぱんだは○○と言っていながら本当は全然そうでない。嘘つきだ。偽善者だ」というような「裏切られ感」が激しく生まれることがあったようです。常に入れ子的に書いていることを直接間接に書き続けて来たので,それでもさらにそのような誤解が生まれる危険性については私はかなり無防備だったと思います。

 その結果,「ぱんだの本音が分からない」みたいな評価もときどき出てきていたように思います。ただしこの点については定型アスペで別れるというよりも,そのどちらの側の方でもそういうことが起こったように思います。逆に言えば,定型の方にもアスペの方にも,どちらにも私のそういう基本的なスタンスを感じ取っていただけていた方もあるし,そのスタンスの中で可能な限り対話的に向き合おうと努力してきたことについてしっかりと感じ取ってくださっている方は定型アスペの関係なくいらっしゃります。前者の中に「ぱんだは信用できない,裏切り者だ」みたいな感覚を持たれた方がいらっしゃるような気がします。

 二つ目は「事実に基づく議論」ということについての感覚の,かなり恐ろしいくらいの違いがあったということです。

 お互いの感覚や考え方の違いを理解して,それを調整しようとする場合,「○○という事実について,定型はAと感じ(考え),アスペはBと感じる(考える)」ということを理解できたときに,「じゃあなんで同じ○○なのに,定型にはAと見え,アスペにはBと見えるのだろうか?」という次の問題が見えてきて,そのうえで「じゃあ○○をAとみてしまう定型とBとみてしまうアスペの間で,○○についてどういう関係が作れるのだろうか?」という現実的な調整の課題が浮かび上がってくる。そのプロセスを大事にしてきたのがこのブログと言うことになります。

 逆に言うと,そこで「Aだ」VS「いやBだ」という決めつけの議論はしてはならない,ということになります。それを始めると,世の中に蔓延している定型アスペの激しい憎しみあいの構造を単にここで繰り返すだけだからです。意味がありません。それがどうしても必要な方があれば,それはほかの場でやっていただければいいことです。

 ただ,人間は基本的に「Aだ」とか「Bだ」という自分の判断だけで普段は生きていますから,私もそうであるように,ある程度注意をしていても,結果的に自分の発言がそういう個人的な思い込みでなされることは普通にあります。「Aだ」という判断が個人的な思い込みだということに気づけるのは,「いやBだ」と言う人が現れた時だけです。

 そこで初めて対話が始まることになります。その時になにより大事になるのは「○○はAだ(Bだ)」と感じるときの「○○」をはっきりさせることです。そこが対話の基盤になる「共有された事実」の部分です。「同じ○○なのに,どうして人によってAに見えたりBに見えたりするんだろう?」という問いを持つところからようやく真の対話が始まるわけで,「○○」抜きで話をすれば,「Aだ」「いやBだ」という,消耗するだけ,あるいは傷つけあうだけの喧嘩で終わってしまいます。

 ですからガイドラインではこの点を非常に重視していて,対立する主張が出て来た時に,根拠を示さずに(つまり○○だからという部分)相手を否定し続けるようなことがあればそれは違反だとしているわけです。それは対話を否定する行為だからです。

 この点は,このブログでのやりとりの一番基本の「倫理」だと考えてきました。ですから,一部と全体を区別せずに一部で全体を決めつけるような根拠のない主張が繰り返されることは「許しがたい」ことであったわけです。それはこのブログの存在を否定する行為だからです。この違反の重大性についての理解がかなり共有されにくかったように思います。

 ただ,ここで私の理解の不十分さが二つほどあったと思います。ひとつはすでに書きましたように,否定しているのではなく,単に論理規則が分からくて,いくら説明してもまったく理解が共有されない方を想定していなかったことです。もちろん知的に重度の課題を抱えられている場合はそういうことはいくらでもありうることはわかっていますが,一見かなり複雑な議論をされるように見える方の中にも同じような問題を抱えている方がいらっしゃることについて,私の理解がまったく不十分でした。その結果,注意を「無視して繰り返される」「違反」に「怒り」の気持ちを抑えられなくなったという展開もありました。それ自体は私の未熟さの結果です。

 もうひとつは論理規則については共有が可能であっても,「そんなことは本筋の問題ではない」と感じられる方がある程度いらっしゃったらしいということです。「問題はようするに傷ついた人間がいるということで,そのことを認めようとしない(謝罪しようとしない)態度が一番の問題なのだ」という理解の仕方の方のことです。

 この姿勢を維持されていると,「事実はどうであったか」ということは二の次の問題になってきます。それは些末なことであって,「傷つけた」ことが重要なのだという考え方です。この議論をされる方について私が特徴的と思えることは,そこでは「傷つけられる」のはどちらか一方だと考えられる傾向が強いこと,あるいは仮に双方傷つくことがあったとしても「圧倒的に傷つく方」(とその方が理解される方)が大事であって,そちらが絶対になる,という考え方をされるようだということです。

 もちろんそういう考え方も私なりにはわからないではありません。とりわけ力関係がはっきりしていて,一方が権力的に他方を抑圧しているような状況では,そのような権力的な支配に対する闘いとして,そういう議論が重要になることもあります。差別の問題は多かれ少なかれそういうものです。差別との闘いもそういう視点を抜きには成り立ちがたいところがあります。

 定型アスペの間の葛藤は,そういう「政治的な」「権力をめぐる争い」になりやすい問題の一つだということでしょう。この点についても私の理解はかなり不十分でした。なぜかというと,私に「アスペの方は政治を嫌う」という思い込みがあったからです。ここでいう政治とは「事実は置いておいて,感情的な物語を形成して<私達>という仲間と<あいつら>という敵の間の対立関係を作り出そうとする」というくらいの意味です。

 私はここはそういう政治の場ではないと考えてきましたから,基本的には常に一対一の関係の中で対話を成り立たせようとしてきましたし,ですから,私の意見に賛同してくださる方に対して「あいつらに対して一緒に闘いましょう(あるいは否定しましょう)」みたいなことは一度も書いたことがありません(なお,私に反発するコメントの中に,にわとりさんも含め,一部そういう呼びかけを現実に行った方がいらっしゃいましたが,明らかにこのブログのガイドラインの精神を真っ正面から否定される行為で最大級の違反行為でした)。

 逆に自分と異なる意見に対しても,私がどうしてもここで何かを言いたいし,今ならわかってもらえる可能性があるタイミングだ,と思えない限りは特に発言をしないのが普通です。それは「政治的な勢力争い」の関係を生み出さないようにするための,私なりの対処の仕方の一つでした。
 ところがこれも予想外なことに,その姿勢自体が逆に政治的な態度として理解されることが起こりました。つまり,本当は私が完全に賛成しているわけでもない意見が出て来た時に,それに反対しないのはぱんだがその意見を持っていて,組しているからだ,という決めつけが繰り返されたことです。

 あまりにそういう想定外の批判が繰り返されるので,仕方なく,いやそうではなくて,私は別に全面的に賛成していたわけではなく,ただ今行おうとしている一対一のやりとりの枠を崩したくなかったことと,また別のタイミングでその人と議論すればいいことだから言わなかっただけだと説明すると,今度は「後出しじゃんけんだ」「卑怯だ」「せっかく味方をしてくれた方への裏切りだ」という趣旨の批判を受けました。これも全く予想外のことでした。
 ここでも「事実」を私は重視していたので,私が責任を持てるのは,あくまで私が直接書いたことだけだということを「当たり前のこと」として理解していました。私が批判されるような意見を実際に私自身が書いているのだとすれば,それを指摘されれば私もいろいろ考え,反省もするのですが,私が書いていないことについて,「お前はこう考えていた」と決めつけられても,私にはどうしようもありません。だから繰り返し「具体的にどの発言がそういうことだったのでしょう」ということを尋ねることを繰り返したのですが,そこが通じなかったのですね。

 これほどにそこが通じないということは私には大きな誤算でした。

 あすなろさんが指摘してくださったように,世の中はそういうものだ,ということはその通りだと思います。ただ,この場はそういう「世の中」とは違う形での対話の場にしていきたいので,これから大事になることは「よのなかそういうものだ」ということを前提にしながら,そうでない場をどう維持し,発展させていけるのかということなのかもしれません。

 実際,紆余曲折はありながらも,この場がそういう可能性をもった場として皆さんの間で作られてきていることについては,かなりの方がそう感じられていると思います。ただその中で「そういうふりをしているだけでほんとうは嘘だったのだ」という「裏切られ感」で激しく憤られている方もいらっしゃるのは事実ですが,でも明らかにその見方は一面的だと私には思えます。そうでないものが現実に確実に積みあがり,多くの方に共有されてきている。

 この点について,簡単に理解が共有されてハッピーエンドというのはありえなさそうに思いますが,ただ一見賽の河原の石積みに見えるようなことでも,実は崩れた石がその次の石の土台になってより大きな山になっていくのだと信じて,めげながらぼちぼちやっていくしかないのかなと,そんなことを思います。


 明日はしばらくぶりに帰省していた子どもを送って,ちょっとドライブです。パートナーも私とはなかなかドライブしてくれないようになって久しいのですが(もともと車がすきでないので),子どもと一緒だとOKになりますね。子は鎹(かすがい)という言葉そのまんま。今からちょっと楽しみ。……あ,今ちょっとまたこのことで理解が進むことがありました!また改めて考えてみます。

 
  
 

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