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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年7月

2016年7月29日 (金)

もうひとつの壁

 今週はまたちょっと仕事でハードな日々でした。まあうまくいってよかったですが。


 それはさておき,定型アスペ間のコミュニケーションの工夫について,最近少しずつ気になっていたことが,少しずつまた自分の中ではっきりしてきています。気になっていたというか,危惧していたというか。

 これは価値観を含めずに(どっちがいいとか悪いとかの判断は抜きに)考えたいことなのですが,私が無意識のうちに想定していた定型アスペ間のコミュニケーションの基本に,やはり論理規則はどちらも使える,という条件がありました。だから,定型アスペ間で誤解が生まれたとしても,丁寧に理屈立てて問題を整理していけば,時間はかかってもだいたいのことは誤解であることをお互いに納得できる可能性があるのではないかと,そんな甘い期待を持っていたことになります。

 けれども,すべての人が定型もアスペもスペクトラムの様々な位置にいるわけですけれども,その中には当然論理的な思考は苦手であるか,あるいはそもそも論理的思考の習慣や思考法を身に着けていない方もあるわけですね。場合によってはそれは発達の問題としてそういうこともある。

 そうすると,仮にそういう基本的な論理規則に基づいて議論を整理しようと対話をしようとしても,そもそもそれが成り立たないということは十分にありうることなわけです。また,自閉の問題を考えるときに「心の理論」みたいなことがよく言われるようで,私のパートナーもある部分そこが苦手だと言ったりしますけど,人間の心の理解では「……「「「「私はこう思っている」と相手は思っている」と私は思っている」と相手は思っている」と私は思っている」と相手は思っている」……」というような,入れ子入れ子の関係がとても重要になっていきます。

 でもそういうのがすごく苦手だったりすると,入れ子の形で私が書いたことが,入れ子を省いた形で理解されてしまうこともありうるわけです。さらに苦手と言うレベルなら,時間をかけて話をしていけば何とかなる可能性がありますが,そもそもそういう思考パターンが何らかの理由で身についておらず,異なる思考パターンで生きている方との間にはその可能性がないことになる。

 そう考えると,今まで私にとっては自分がまったく言ってもいないことについておかしな決めつけをされて激しく攻撃をされるということが繰り返されたことについて,なぜそういう不思議なことが起こるのか,またそれについて可能な限り整理して(私から見て)わかりやすく説明したつもりでもまったく理解不能と言われてしまうことがある,その結構多くの部分の仕組みが理屈として割と単純に説明できてしまいます。

 もちろんまだ私にとってはそれはかなりありそうな可能性の一つであって,断定はできませんけれど,もしそういうことが実際に起こっているのだとすると,やはり私の当初の無意識の想定は全く成り立たない場合があるわけですから,そういう姿勢で「定型アスペのコミュニケーションを考える」ということはひとつの大きな限界に突き当たることになるわけですよね。

 いや,もちろん今までのやり方が意味がないとは全く思っていません。今までのやり方でお互いにお互いが見えてくると感じられる経験はたくさんありました。そこでアスペの方からも定型の方からも信頼感が表明されることも繰り返されてきました。そのような信頼感,配慮をベースにした定型アスペ間の協力関係が,今では掲示板の方でも普通になってきていますよね。

 でも,それは万能どころか,すごく大きなもう一つの壁があって,それがいま具体的に見え始めているような気がするわけです。少なくとも最近の炎上は,何かのきっかけで生まれた小さな不信感が,別のところで普段抱え込んで蓄積された怒りに火をつけ,その後その壁にぶつかって訳の分からない暴走を始めることから生み出されるものがとても多いのではないかと思えてきました。

 実際,私の想定していることが事実だとすれば,この記事についても,何を問題にして何を書こうとしているのか,まったく理解できないと感じられる方が一定数いらっしゃることが予想されます。いい悪いの問題ではなく,単に事実というか現実の問題として。

 そこはどうやったら多少なりとも乗り越えられる部分が生まれてくるのか,かなり長期的にじっくり考えていかないとむつかしそうな気がします。少なくとも今の私はその点で相当無力だとかんじますね。別に絶望したりしているわけではまったくありませんけれど。
 
 

2016年7月25日 (月)

褒められた話

 昨日は私が晩御飯を作ったのですが,なぜか思っていたのと違うおかずができてしまって(笑),これはきっとパートナーにいろいろ文句を言われるだろうなと思ったんですね。それでどうせ文句を言われるならあらかじめこっちからアッピールしておこうと思って,「失敗してへんなのができちゃった。」と言いました。

 それで「何を作ったの?」と彼女に聞かれるので,こうこうこうしてこういうものを作ろうとしたらうまくいかなかった,と説明したら,「そういうやりかただとこういう味になって失敗する」と言われました。味見したらそういう味にはなっていなかったように思いましたが,そこはあえて反論せず,失敗失敗と言ってました。

 で,実際に晩御飯になって食べていたら,彼女が「おいしい」と言ってくれました。そういうことを言われたのはなかなか記憶にないくらいの出来事です。

 別にそんなに格別おいしくできたわけではないと思いますが,あらかじめ失敗したといい募ったのがかえって良かったのかもしれません (笑)

 これからは褒めてほしかったら失敗失敗といったほうがいいのかも……
  

2016年7月23日 (土)

語られない思い

 みなさんそうですが,タユミさんから頂くコメントや,掲示板への投稿などを拝見していても,改めて「これまで語られてこなかった思い」の大きさというものを感じています。

 語られてこなかったのには当然理由がありますよね。語っても通じない,語っても否定される,攻撃されるということが重なれば,誰だって語れなくなります。そうやって生み出され続ける「沈黙」の量がどれほどのものになるか。

 語られずに飲み込まれた言葉は時として自分の中でぐるぐる回り始めます。自分の中で回っている限りはある意味で閉じられた空間の中で安定もします。自分が自分であるためには,そういう部分もなくてはならないでしょう。

 ただ,現実問題としては人は自分の中だけで生きることは不可能ですから,どうしてもそれだけではやりきれないものが残り続ける。だからどこかで語らざるを得ないのだけれども,それがむつかしい。

 結局語ると多少なりとも傷つく可能性があるわけですよね。お互いに。傷つかないための社交辞令というのも工夫されてきていますが,でもそれは表面的な話になり,自分にとって大事な話になればなるほど,そういう社交辞令は逆に邪魔にもなる。でも大事な話になればなるほどお互いに傷つきやすくもなる。

 そうやってやっぱり飲み込まれる言葉はどれほど多いかということでしょう。特に定型的社会では,その総量は語られる言葉に比べてどれだけ多いか,ちょっと想像がむつかしいくらいです。そしてその定型的社会と付き合わなければならないアスペの方の多くもまた,語れない状況に追い込まれていくわけですね。
 
 今ふと思ったのですが,語り合うには,多少なりとも傷つく勇気が必要なのかもしれません。あるいは傷つく覚悟でしょうか。

 もちろん傷つくだけに終われば意味がありません。傷を上回って得るものがなければ意味がない。傷つくことや傷つけること自体が目的になってしまってはおしまいです。そうならない工夫が必要ですが,でもそうならないという絶対の保証もむつかしいですね。
 
 傷ついて修復して,また傷ついて修復して,その過程の中にどこか喜びも生まれる。コミュニケーションってもともとそういうものなのかもしれないなあと,そんなことも思ったりするのでした。


 

2016年7月20日 (水)

ひとつの生き方としての定型アスペ問題

 定型アスペ問題は「これで解決!」というのはなんかあんまりなさそうで,言ってみれば「定型アスペ問題」というものに向き合っていくこと自体が「生きる」ことの一部として続くような,そんな気もします。

 アスペの方は定型社会の中で生きていく限り,自分本来の感覚にはなじまない部分と常に向き合いながら,ちょっとでもましな生き方を模索していくことがその人生の一部になるわけだと思うのですが,そういうアスペの相手をパートナーとして選び,一緒に生きていこうとすれば,当然定型の側も同じように模索を続けることが必要になりますし。

 別にそうしなければならないという,何か外側からの制約があるわけではなくて(ま,ある場合もありますが),離れるという選択肢だって常にありうるわけですから,あとはそういう模索を続けることになんらかの価値を見出すかどうかでしょうか。こだわりというのもあるかもしれませんが,「こだわる価値を感じている」くらいに思えばそれも含めてになります。


 ということで,「解決を目指す」のではなくて,「定型アスペ問題を抱えてどう上手に生きるかを模索する」ということが本筋のことになるのかもしれません。だれでもそれぞれの人の課題を抱えて生きているわけですから,それが自分の場合はたまたまいろいろあって定型アスペ問題だったという,ただそれだけのことなのかも。
 

2016年7月14日 (木)

小さな問題の大きさ

 先日ちょっと私に関してお祝い事があり,パートナーから何か晩に食べたいものがあるかどうかと聞かれたんですね。で,すぐに思いつかなかったんですが,ちょっとしてなんとなく刺身が食べたくなって,そう言ったんです。そしたら彼女は「わかった」というので,私がわりにおいしい刺身を売っているところを知っているものですから,そこで買ってくることになりました。

 で,そのあと10分後くらいでしょうか。そのお店はおいしいお寿司も作るので,お刺身だけ買ってあとのおかずを彼女が作るより,いっそのことお寿司にしてしまえば彼女も楽だし,彼女もそのお寿司は好きなので,と思い,そう提案してみました。

 そしたら彼女は「え?」とちょっと戸惑った感じになり,「でも高いじゃん」と言うんですね。もともと私のお祝いにということで彼女が言い出してくれたことについて,定型的に理解すれば私の希望は「高いからだめだ」と言われたことになるわけで,「あなたのお祝い事はその程度の価値しかないんだよ」と言い渡されたのと同じになります。

 私はそれでかなりがっくりきて,ただこれもまた例のずれの問題がどっかに絡んでるんだろうと思ってちょっと答えに詰まったのですが,その時は結局「けっこうショックだったから,さしみでいいわ」と言いました。

 彼女の方は私が言葉に一瞬詰まる様子を見て,「あ,また何かトラブっている」とこれも戸惑って落ち着かない様子になっていましたが,私の言葉を聞いてすぐに理解したみたいで,緊張からか空咳をしたり,何か言うことを探している風があって,そのあと「お刺身のほかになにか(彼女が)作った方がいいんじゃないの?」などと言いました。

 私は「ああ,何か私のために作ろうと考えていたところに別の話が入り込んだので,混乱したんだな」と思い,買ってきてしまうより,私のために何かを作ろうと考えてくれたのならうれしいことだから,そうしようと思って「ああ,なんか作ってくれるんだよね。じゃあおさしみにしよう」と言いましたが,彼女の方も迷いは消えない様子で,それから「お寿司が食べたいんならそれでいいよ。あそこのお寿司おいしいし」と言ってくれました。

 それで,私はここは私の希望を聞いてもらう形にした方がいいのかと思い,「じゃお寿司にしよう」言いました。

 その割とすぐあと,彼女はまたいらだった感じで「あ,ごはん(炊く準備をしてしまってる)」と言い,例のように怒った感じになったので,私が「さしみでもいいよ」と言ったのですが,ちょっとしてから彼女からこんな提案になりました。私が好きなお寿司を少しだけ買ってきて,あとはおかずを彼女が作ってご飯を食べる,という案です。

 「うん,じゃあそうしよう」ということで一件落着でした。


 まったくささいややりとりなわけですけれど,私にとっては(そして彼女にとっても)なかなかいろいろ考えないとできないもので,以前は全然こういう展開にはなりませんでした。「でも高いじゃん」と言われた段階で,私の方がショックを受けてそれでおしまいです。彼女の方もなにがショックを与えたのかはよくわからないまま,いら立ちが残って終わりになったでしょう。

 こんな小さなやりとりと,その中でのお互いの気持ちの調整ができるようになるために,今までどれほどの時間がかかったのか,どれほどの傷つけあいがあったのか,なかなか言葉には尽くせないものがあります。このブログや掲示板でたくさんのみなさんの経験や考え方を教えていただかなければ,私の場合はそういうことをできるようにはならなかったと思います。

 一見ささいなことが,その裏にどれほど複雑なしくみを抱えているのか。あらためてその「小さな問題の大きさ」に感じ入ったことでした。 
 


 

2016年7月12日 (火)

感情の歴史

 前の記事に寄せられたあすなろさんのコメントが,私がもやもやと考えていたことにズバッと答えを出してくださるもののような気がして感動しました。(いや,もちろんいつもながらの早とちりの勘違いかもしれません (笑) )

 定型アスペでトラブル大きな理由の一つに,お互いにうまく感情の表現が伝わりにくい,というのがあります。たとえばアスペの方からしても定型的「笑顔」がわかりにくく,実際定型社会では「おあいその笑顔」とか「営業の笑顔」,「ごまかしの笑顔」など,いろんな「うその笑顔」ともいえるようなものがありますから,そのあたり,背景の文脈を定型的に読むのがむつかしい方には混乱のもとでしょう。

 逆にアスペの方が自分を怒っているのか,と思うと,その方には全然そういう気がなくて,単にちょっと困惑しているだけだったり,場合によってはそういう気もないといわれることもある。面白くもなさそうにやっていることが,実はかなり面白がって続けられているらしいこともある。

 こういうこと,なんでそうなるのかについて,たとえばこんな見方もあるんだろうなと思っていたのは,「自閉圏の人は表情の理解や表出の仕方をコントロールする脳の機能に障害があり,感情状態が表情に反映されるルートが断たれていたり,混線していたりする。その結果,自分自身の感情の理解にも混乱が起こる。当然他人との感情的なやりとりを通した感情の調整は極めて困難になり,社会的な孤立状態に至る」というような理解の仕方です。

 でもなんかそういう見方では釈然としないものが残るんですね。たとえば「表情がない」というのだって,「もともとそういう脳の働きがない」という単純な話じゃなくて,きっと「そうなってしまう歴史」があるに違いない,とかそんなことを思ったりするわけです。そういうその人の歴史みたいな部分を無視すると,言ってみれば二次障がいを「脳の結果だ」とか考えてしまうような乱暴な話が簡単に作られてしまう。

 そこであすなろさんのコメントです。自閉圏のお子さんについて,まさにその「歴史」が語られています。

 息子さんは幼児のころ,とても笑顔の多いお子さんだった。ところが幼稚園で集団生活を始めたころから急速にその笑顔が失われていった。そして他者に対する感情の表現としては小学校中学年くらいまでは「泣き叫ぶ」ことくらいに限定されてしまっていた。それもそれ以降はなくなり,「泣く」ことも「笑う」こともない(少ない)今に至った。

 幼稚園のころに急速に笑顔が消えたのは,笑顔の意味が相手にうまく伝わらなかったからかもしれません。あすなろさんの解説では,もともとその笑顔は「だれかに向けられたもの」というわけではなく,ただ自分が楽しいから自然にそうしているだけなのに,定型的な人間関係ではそこにいろんな意味を読み取って関係を調整するというようなことをやっていくので,変な読み取られ方をして混乱する,というようなことが起こっても不思議ではありません。

 また幼稚園に入る前は大人が適当に状況を見て判断してくれるところ,幼稚園での友達生活になって,笑顔に限らず訳の分かりにくいコミュニケーションが行われ,相手は大人のように自分には合わせてくれないとなれば,「得体のしれない世界」の中で極度に緊張し,警戒しながら生きていくすべを身に着け始めなければならないわけですから,当然個人的に「楽しい」笑顔も出ない状況になる。

 でも「感情を表したコミュニケーション」ができないわけではない。あすなろさんが書かれているように「泣き叫ぶ」ということは「周囲が彼の困り感を『ただごとではないぞ!』と察してくれるので,効果的で有効な唯一の手段だった」のではないかと書かれています。泣き叫ぶのは息子さんにとっては気持ちの正直な表現ですし,それが相手に対して受け止められて一定の効果を持つとなれば,「コミュニケーションに使える感情の表現」としてしっかり残っていく,あるいは発達していくわけです。

 その証拠に,そういう表現の仕方が逆効果になってくると,それもしなくなる。可能性として残されていた唯一の「他者へのはっきりした感情の表現によるコミュニケーション」が,そこで捨てられ,感情はすべて人に向けられることなく,自分の中で処理されるものになっていくことになります。それがとても無理をしてつらいものともなりうることは,別の機会に何度かあすなろさんが息子さんの最近のことを書かれたことからも十分に想像できます。

 だから,少なくともその息子さんの場合,最初から人とのかかわりの中で感情の表現がなかったわけではなく,それに関心がなかったわけでもなく,感情の表現によって関係を調整しようとするようなこともずっとあったわけです。けれどもそれがことごとくうまくいかないという長年の経験の中で,人には理解されない感情を内に向けていく「生き方」が作られていった。

 「最初からできない」のではなく,「作られた生き方」であるわけです。

 そう考えると,私のパートナーについても私には一層わかりやすくなります。昔は今よりももっとやわらかく,感情を表現したり,感情を共有しようとしたりされていたと感じるのですね。それがだんだんと失われていった。

 でも感情がないわけではない,ということは,切実に感じられるわけです。時折ほんとに強い感情表現で訴えられることもありました。

 けれども悲しいかな,多くの場合,それを私のほうがうまく理解できないのです。だから戸惑うか,結果的に無視したり否定したりすることが繰り返される。そしてだんだんと「彼女の世界」が閉ざされていった。それは彼女からするとたぶん「あきらめ」の蓄積だったのでしょう。

 この話がどの範囲の方にまで通用するのかはもちろんなんとも言えませんが,定型アスペ関係の中で「アスペ的生き方」が作られている「歴史」の一つを,そこにすごく読み取れる気がします。そういう「歴史」を見失って「今の状態」にしか目が向けられなければ,単純な決めつけとそれによる乱暴な対応が行われるだけになり, その姿勢はお互いの主体的な「生き方」の調整という課題には程遠くなるのだと思います。
  

2016年7月11日 (月)

せめて気持ちだけでも……

 いろいろ不快なことや困難なことがあったとき,私の場合,せめて表情だけでも明るく接しようとする傾向があります。あえて言葉にすれば「大変だけど頑張ろうね」とか「前向きにいこうよ」というような気持の表明なのでしょう。

 「どうせ大変なんだから,改めて大変大変と言ったってしょうがないじゃない。」という感じもちょっとあるかもしれません。「それより何か可能性を探して前を向くことが大事」みたいな,そんなメッセージであるかもしれません。

 もちろん,自分は関係なくて相手がつらそうにしているときには,そうしたほうがかえっていいような特別の場合を除いては,相手のつらさを理解しようとする姿勢をとることが多いので(まあ,特に気に入らないやつとかなら別ですが (^^ ゞ ),相手の気持ちを無視して明るくふるまうことはしません。かえって相手が落ち込むだけになりることが多いですし。

 でも,改めて考えてみると,こういうのって「人は気持ちの面でも通じ合い,支えあえる」という感覚が強くて,そういう支えあいの関係を強めたり広めたりしたい,という「仲間づくり」の姿勢が強いから意味があることですね。

 「だれが何を言おうが私は私だし,相手は相手だ」という感覚を強く持たれ,そのことを前提として「お互いに人の気持ちに影響力を行使しようなどということはしてはならない」という信念を持つ方があれば,そういうのはアウトです。「大変」なのに「明るくふるまう」のは「嘘をついている」ことにもなるでしょう。

 「明るくふるまう」ことに意味が感じられるのは,「自分はしんどくても,相手の笑顔を見て救われた気持ちになった」という経験が自分自身よくあり,また強くある場合に限られるはずです。逆に「笑顔で接してこられたのに,実は攻撃されていた」というような体験が積み重なり,その「笑顔」と本当に「好意的な笑顔」の区別がつかなければ,「笑顔」ほど信用できないものはなくなるはずです。
 
 パートナーとのコミュニケーションでずれが起こるのは,たぶんそういうことも多いのかなと。そうやって「せめて気持ちだけでも……」という「気持ち」が宙に浮いてしまうのでしょう。

  


 

2016年7月 7日 (木)

猫だけでお留守番

 パートナーと日程を話していたら,たまたま同じ日に,二人とも一晩家を空けなければならないことに気が付きました。で,彼女がすぐに「あら,猫だけでお留守番だね。対応しておかなきゃ」と言いました。

 私は「あ,ほんとだね。」と言って,なんだかおかしくなってちょっと笑いました。

 いや,たんにそれだけの話なんですが (^^ゞ  なんか最近定型アスペ的緊張感が取れてきた感じがするんですね。すこーしずつ,「ふつう」にもどれているような……

 昨日も彼女から当事者本を一冊紹介されて読みました。

2016年7月 4日 (月)

お粗末

 最近いろんなところで感じるんですが,人間って,ほんとに恐怖を抱えて生きていて,人間の行動の動機のかなりの部分はその恐怖への対処のためだったりするのかなと。攻撃も恐怖心の裏返しであることもあるし,逆に笑顔もそういう場合もある。そして怒りや恨み。

 世の中そういうこんがらがった負の感情の連鎖によって突き動かされているところがすごく大きいという,ごく素朴な「事実(?)」に今更感じ入っているというお粗末です。アスペの人が受ける理不尽な仕打ちの多くも,そういう「人間的」な出来事のひとつのようにも思います。

 正直なところ,私はそういう部分が苦手で,でもパートナーは私よりはるかにストレートにそいう人間の姿を見つめてきていますね。そこから出てくる言葉は「そんな言い方身もふたもない」と感じさせられるものが多かったわけだけど,でも確かにリアルな世界の一面をとらえているとも思わせられます。最近特にしみじみとその彼女の視線が見ているものを感じられる部分が増えてきたように思います。

2016年7月 2日 (土)

自分会議

 掲示板の方でみるきさんとあすなろさんの,定型アスペ(または非アスペアスペ)問題の中心に迫るようなすごい対話が続いています。「共同幻想」をめぐるmomokoさんと私のやりとりと重要なところでのつながりも感じますし,ここでの炎上の本丸にも迫るような議論だと感じます。

 そのやりとりからさらに何が表れてくるのか,何をくみ取れるのかは,またゆっくり考えていければと思いますが,ここではひとつだけ,みるきさんの次の文章に,私がなんとなく整理したいと思っていたことがすっと言葉になっていることを感じました。お二人のやりとりにかぼちゃさんがコメントされたことへのお返事の中で書かれたものです。


「それに関しても今はちょうど、揺れ動いているのがベストなんだろうと感じるので別に何かする気もなくもうしばらくはウダウダ言いながらどうするかなーと自分会議をしていると思います(笑)」

 私が「これだ!」と感じたのは,書かれた内容ではなくて,「自分会議」という言葉から私が感じ取った,みるきさんの心の風景のようなもの,その感覚なんですね。

 定型は「他者」と会議をする(あるいは他者と会議をしている気持になる)。その会議がうまくいかないと,時々「自分会議」をする。けれどもアスペの方の少なくとも一部は「自分」と会議をして,そこで成り立っている「自分の世界」から,ガラスの窓越しに「他者」とときどきちょっと会議をする。

 どちらも会議をするのは同じなんです。でも使われる言葉が微妙に変わってくる。定型は基本「他者との会議」用に言葉を作り上げていきます。でもアスペの方(の少なくとも一部)は「自分会議」用に言葉を作り上げ,それを「他者との会議」に応用する。

 どちらも会議の言葉なわけですから,お互いに同じ言葉を話していると思い込んでやりとりをする。でも実際はいろいろなところでかなりその質が異なってくるんです。自分会議で作り上げられた言葉と他者との会議で作られてきた言葉の違いです。だから同じ言葉を使っているようで実は大きなすれ違いが起こる。そしてお互いに相手の意図が理解できず,あるいは自分の意図が伝わらないことが理解できず,やがて爆発することも起こりうる。

 
 どちらも同じ会議の言葉になるのは,言葉を学ぶ過程を考えたら当然のことです。だれも自分一人で言葉を発明する人はいません。どれほど自閉性の強い人でも,言葉を獲得するのはやはり他者から。そして他者とのやりとりに使う。

 ただ,そうやって他者とのやりとり(会議)から身に着けた言葉で,その後どういう世界を作っていくかに差が出てくる。他者とのコミュニケーションのむつかしさに困惑し続けるアスペの方は自分会議で自分の世界を作り上げていく方向に行く。ある種のいい加減さを含みながら他者とのコミュニケーションを持続させていく定型は他者との会議で自分たちの世界を作り上げていく方向に行く。それがお互いの基本的なスタンスの違いになり,人生観の違いになり,世界観の違いを生む。そしてお互いの間でずれたコミュニケーションを行う。

 
 そうするとこの場の面白さと危うさは,その「自分会議」と「他者との会議」の両方が入り混じっているところにある,とも言えそうです。 
 

2016年7月 1日 (金)

一貫した「あいまいさ」

 何人かの方からの指摘で,私の態度があいまいだというものがありました。個人的には最近書いてきたように,スタンスは一貫しているつもりで,どこにもあいまいさはないと思っていましたから,よく分からないところがあったのですが,あるいはこういうことかなと,思うことがありました。

 たとえばAさんとBさんが対立する意見を主張していたとします。それを聞いて私は個人的にはまずAさんの方が納得がいくと感じたとします。仮にBさんの発言がない状態であれば,そのままAさんに共感して,それからさらに私が考えたことを記事に書いたりするでしょう。けれどもBさんがそれに対立する主張をしている場合,私の関心は「どちらが正しいのか」ではなく,「どうしてそういう対立が起こるのか?」というところにすぐに移ります。

 そこで世の中によくあるパターンはやはり「どっちが正しいのか」ということ,あるいはもっと単純に「どっちの方が自分は好きなのか」ということの判断があって,それに基づいてそのまま「自分がよいと感じる方に味方する」というやりかたです。そうやってAさんにはA派が成立し,BさんにはB派が作られ,A派とB派の戦いになる,という展開がよくあります。

 私も日常生活では何かの形で限られた時間の中で自分の選択をしなければならないことが多いので,「どうしてそういう対立が起こるのか?」などと悠長に考えていられないことが多くあります。その場合は「どっちが正しいのか」という判断を優先せざるを得ないこともある。

 そういう形でA派とB派の戦いという形にいったん入り始めると,相手に対して投げかける言葉からは「相手を理解する」とか,「相手に理解を求める」というスタンスが急速に消えていきます。形の上ではそういう言葉を使ったとしても,実際は相手を挑発して自分に都合のよいように否定的な反応を引き出し,「ほらみたことか」と攻撃の材料にしたり,自分の派の中で「あいつらはひどいやつらだ」という確信を共有するための扇動的な言葉が激しく踊りだします。

 そうやってそれぞれの派が自分の味方の結束を固め,相手に対する敵愾心を高め,相手を傷つけ,破壊して「勝利」しようとする,ということを一生懸命にやり始める。

 こういう状態では,先日書いたように「私は正しい。なぜなら<私たち>がそう言うからだ」という,完全にトートロジーの理屈が成り立って,「自分たち」の世界を閉鎖的に作っていくことになります。当然「あいつらは間違っている。なぜなら私たちが正しいからだ」という,これも典型的なトートロジーの理解がそれとワンセットで成り立ちます。これはまともな議論ではないし,ましてや対話ではない。たんなる力関係による政治の世界です。声の大きい者,力の強い者,多数派が勝つという,それだけです。

 ネット上でもそういうのがどこでも見られますよね。

 私は定型アスペ問題について,そういう状態をどう乗り越えられるのかに関心があるので,「どっちが正しいのか」という判断は可能な限り先送りし,「どうしてそういう対立が起こるのか?」を考え続けるという姿勢を保ってきました。

 その際,自分の好みや個人的な判断はありますが,それはとりあえずカッコにくくっておく必要が出てきます。すでにこの場でも十分明らかになってきているように,そもそも感覚の世界から両者に大きなずれがある場合が多く,同じものを見ていても違う受け止め方をすることが普通で,自分の感覚で相手を理解しても,全然的外れになることが多いわけです。だからどうしても自分の感覚での判断はいったんカッコにくくって考えるしかない。(もちろんカッコにくくるだけで,なくなるわけではありません)

 そのうえで,可能な限り自分とは異なる相手の判断を,その人の感じ方にそって理解しようと努力することが必要になります。もちろん人間は誰しも自分の感覚で物を判断することからしか出発できませんから,それは至難の業なのですが,まったく不可能というわけでもない。

 少なくともこのブログでの経験からすれば,私が私の感覚をできるだけ拡大して「もしこういう条件に自分がおかれたら,自分はどう感じるようになるか?どういう見方になるか?」と想像することで,アスペの方から「その通りだ」と言われることも時々出てくるようになりました。私は別にアスペになったわけではないですが,定型的な想像力を拡げていくことで,そんなふうに部分的に重なれる部分も増えていくわけです。

 それは私がどっちかの立場に立つ,どっちかに味方をして,相手を否定する立場に立つ,という話とは全く違います。ただ,自分から見ればどう考えても否定的に見えることなのに,それでも頑張って想像力を働かせてみると,相手の立場からは逆にも見えることが分かり始める,ということにすぎません。

 そうやって少しずつでも,相手からも「そうだ」と言ってもらえるような理解が増えてくれば,そこを足場にして新しい関係が作れる可能性が広がっていくことになります。私がこれまで相手の人を理解できたかどうかの基準として「相手に対して,あなたの言いたいことはこういうことですか?と尋ね,相手がその通りと感じてくれた場合」に限る,ということを書いてきましたが,それもまたそういう関係を実現するための基準ということになります。

 
 ということで,可能な限り,どちらの立場からも理解を試みようとして,どちらが正しいかの判断を即座に行うことは可能な限り避けようとしますから,そこで「態度があいまい」だとか「わかりにくい」という評価がされることになるのかもしれません。さらには,定型アスペのどちらの側からも,私がそういう態度を貫くことで「ぱんだは自分の味方をしていない=相手の味方をしている」という評価まで出てくることになります。

 今後もこのブログの存在する意味は,そういうことで単純に自分の正しさ,相手の過ちを明らかにして,仲間内で救われる環境を作る,ということではない,異質な者が共存できる世界を模索することにあるので,それに必要とされる限りは,同じような姿勢が続いていくことになります。ですから,今後もそういうことについて理解が得られない方からは,似たような形での評価や非難が繰り返される可能性もありますね。まあそれは仕方のないことなのかなと思います。

 最近の掲示板でのみなさんのやりとりを拝見していて,お互いに自分の感覚を否定するわけではなく,それを述べながら,でも相手の感覚を否定することもなく,自分の経験を語り合ってお互いに学びあう,というような展開がとても多い気がします。私の「あいまい」な態度が目指すところです。

 

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