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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年6月

2016年6月29日 (水)

解決と希望と

 ちょっと単純な事実に改めて気づいたんですが,何人かの方が,この場に寄せられた多くの方たちのコメントを読んで救われたと書かれています。それで支えられたという方もあるし,さらに前向きになれたという方もある。その意味ではこの場は少なくとも一部の方には大事な役割を果たしているということになります。

 でも,別に何かが明確に「解決した」ということでもないのでしょうね。「こうやればうまく関係が作れた」「対立が解消した」「理解しあえるようになった」……というようなことではない。その意味では「問題がなくなった」わけではないのでしょう。

 にもかかわらず,「救われる」ということがあるわけですよね。

 ということは,変な言い方ですが「問題が解決する」ということは必ずしも必要ではないのかもしれません。いや,もしかするといつまで行っても「解決」ということはないのかもしれないけれど,でも解決ではないけど何かが変わっていて,前向きになれるということが起こっているわけです。

 もしかするとこれって,結構大事なことかもしれないと思いました。目標は「解決」ではなくて,「支えあって前を向く」ことなのかもしれない。「解決」ということを考えると,ほとんど気の遠くなるような向こうにそれがあるか,あるいはもう不可能に思えるかもしれませんし,それを絶対の目標にすればあきらめた方がいい,ということになるかもしれません。でも「支えあって前を向く」ことが目標ならそれはある意味どうでもよいことになる。

 それと,もう一つ面白いと思うのは,何によって救われた気になるかというと,ひとつは同じ境遇の人の話を聞くことによってだと思いますが,もうひとつは自分が現に苦しめられてきた相手と同じような言動をしてきた人たちの話によってそうなるということです。ちょっと変な言い方ですが,自分を苦しめたものが今度は自分を救う力を持ってくる。

 そう考えると,「一体いつになったら分かりあえるんだろう?」「いつになったら答えにたどり着くんだろう?」という不安な疑問に悩む必要がないのかもしれません。もうこの状態ですでに何かを達成しているのだとすれば。というか,「この状態が達成されている」という言い方の方がいいかも。

 別の言い方をすれば「問題に前向きに向き合おうとする生き方を達成しつつある」ということでしょうか。人が生きている限り,問題がなくなることはない。絶対的なゴールなどない。とりあえずひとつ乗り越えたと思えば,また次の問題が起こる。その繰り返し。でもその都度問題に前向きに取り組む姿勢を保てるかどうかが本当に大事なことなのでしょう。それが「希望」をもって生きるということかもしれません。


 

2016年6月28日 (火)

宝物

 掲示板の方にキキ(アスペ+ADHD)さんがこのブログ+掲示板のことをこんな風に表現されていました。

 「みんなが、誰かのためになるならとご自分の経験や思いを書いている。自分が救われた分、自分も役に立ちたい。そんな思いで出来上がっている」

 管理人としてのやりとりへの私の考え方は昨日書きましたけれど,その中身についての一参加者としての願いはまさにキキ(アスペ+ADHD)さんが書かれたことでした。

 ブログでは何か専門家による第三者の客観的な理屈で考える(たとえば脳による説明とか,細かい分類の話とか,なんとか法みたいな「治療」法のはなしとか),というようなことはできるだけ避け(もともとできませんし (^^ゞ),ひたすら素朴に自分が日々体験していることや,みなさんのコメントから考えたことなどを書き続けてきました。

 それは当事者(私も「定型アスペ問題」の当事者のひとり)として抱える悩みや,そこから当事者として作り上げる工夫を交流することが,今とても大事になっているように思ったからです。

 ただ,そうは言ってもそういう経験の交流,共有というようなことは定型の得意技で,アスペの方はあまり関心を持たれないとか,むしろ否定的に見られるという可能性もないわけではありませんでした。今でこそアスペの方がとても強く他者との共感を求めている場合が多いこと(このあたりは「タイプ」もありそうですが)について,私は全然迷いがありません。でも,そこが確信できるようになるまではほんとに長いことかかりました。

 もしそういう当事者としての交流,共有が定型の側にだけ意味があるのであれば,私の願いは3分の1までしか達成しないことになりました。また幸いにアスペの方にとってもお互いの経験の交流や共有が意味があるとすれば,3分の2までは達成されたことになります。でも私が本当に達成したかったのは,定型の経験がアスペの方に,アスペの方の経験が定型に役立つという状態でした。

 もちろん「すべての」定型,「すべての」アスペの方とそれが可能になることは無理かもしれませんが,でも少なくとも一部の定型アスペ間ではそれが今,実際に可能になってきているわけです。

 さらにそれが「お互いさま」という関係になっていて,そこでキキ(アスペ+ADHD)さんが書かれているように,「自分が救われたから,自分もお礼をしたい」という,プラスの気持ちのやりとりがつながってきていることが,本当にすごいことだと思えるんですね。だれも別にお金をもらえるからやっているわけではない。お互いに必要だからやっていて,そしてそのことでちゃんと得られるものがあるからやれる。そんな関係ができてきている。

 そういうことができてくれば,あとはこのブログ+掲示板への参加者のみなさんが必要とする限り,自然にこの場は続いていくでしょうし,深まっていくだろうと思います。そして今は一部の人間同士で成り立つそういう関係が,そのうちに今は対立関係になりやすい,よりむつかしい問題を抱えた人同士の間にも広がっていく可能性が出てきます。

 前にも書いたような気がしますが,自分の苦労は,自分一人が抱え込むだけでは単なる苦しみという負の財産にしかならないかもしれません。でも,それがほかの人に語られることで,ほかの人にとって大切な財産になる可能性が出てきます。そうなると,今度はその苦労をした人の経験が,その人にとっても大事な宝物になっていくわけです。

 たぶんガーディナーさんがいつも言われることはそこに関係するのかなと思うのですが,そうやってみなさんが当事者として抱えてきた苦労の経験=宝物がこの場にだんだんと積み重なっていっているのでしょう。そういうことは第三者的な「専門家」の立場では決してできないことで,まさに当事者がその思いを持ち寄ることによってのみ可能なことになります。

 問題が問題であるだけに,これからもいろいろむつかしいことが起こるでしょうけれど,でも基本的にはこれでいいんだろうなと,キキ(アスペ+ADHD)さんの書かれたことを読んで思えました。
 

2016年6月26日 (日)

説明

 以下,私がコミュニケーションのずれに向き合うときに大事にしていることです。

 人と人のコミュニケーションは多かれ少なかれ必ず誤解の上に成り立ちます。ただそのずれが大きくてコミュニケーションが不可能になって破たんするか,小さくてなんとかごまかして進めるかの違いがあるだけです。だからこそ,かなり共有できたと感じたときの喜びも大きくなります。決して完全な共有はありえませんけれど。

 だから,誤解が生まれることなどについては,それは仕方のないことだと思っています。どんなに努力しても,誰一人として誤解のないコミュニケーションを行うことなんて無理です。可能なのはどのズレをどこまで小さくしようと努力するかということだけです。小さくできればハッピーだし,できないとつらいことが重なるわけです。

 こういう考え方は私はブログの始まりから一貫していて,一度もぶれたことはありません。

 そういうずれのあるコミュニケーションは当然摩擦を生みます。そして傷も生みます。それがなくなることは理想ですが,理想ということは実現できない「目標」だという意味を含みます。それが現実に完全に実現できると考えるのは単なる幻想です。逆に完全に実現できないから意味がないと考えるのも誤りです。目標があるからこそ,生きられるのですから。

 傷が生まれると人は防衛的になります。これも当たり前のことです。そしてその傷に耐えられなくなると激しく人を攻撃し始めます。これもある面では仕方のないことでしょう。もちろん理想的な状態ではありませんが,現実に起こってしまうことは避けようもない。

 問題はそのあとです。誰も自分の傷には敏感です。人の傷には鈍感です。もちろん私もそういう限界を抱えた人間の一人で,別に神様だと自分を勘違いしたことはありません。

 ただ,そういうときに,それでもずれの調整を図らなければならないとも思っています。むつかしいことであることは言うまでもないことですが,でもやらなければならない。それをしなければどうなるか。

 自分の視点からの相手の決めつけが始まります。相手が何を言おうが関係なくただ自分の主張を繰り返し,相手の言うことは頭から否定するという形になりがちです。しかも人間恐ろしいことに,それを集団で行うようになります。たとえば一人の人が何かの勘違いで言ったことでも,ほかの人が同じように言えばそれは簡単に「事実」としてその方たちの間に共有されていきます。そうすると,お互いに「私の言うことは正しい。なぜならあの人も同じことを言っているからだ」という形で,複数の人がお互いの主張を確かめ合う,というトートロジカルな「正義の空間」が作られてしまいます。

 「あの人のいうことは間違っている。なぜならほかの人も私と同じように見ているからだ」という議論の構図です。冷静に議論を整理していけば,そういう議論が簡単に成立していることはすぐにわかるはずなのですが,それさえできなくなって,「自分たち」の内部に凝り固まってしまう,ということを人間はみんなやります。

 だいたい世の中の集団同士の対立は多かれ少なかれそうやって成り立っています。冷静に事態を見て,論理的に整理してみればそうであることがすぐにわかるはずなのですが,それがどれほどむつかしいことかとしみじみ思います。戦争もまたそうやって起こるものです。特に,自分が傷つけられていると思ったときはそれがどうしようもなく強烈な信念となって人々の間に共有されていくのですね。

 そうなると,その人は「自分が正義だ」と信じ始めますから,相手のことは悪にしか見えなくなります。

 私はもちろん自分のいうことは正しいと思っています。ただ,ちょっと違うのは,それは「私にとっては正しいのだけれど,相手の人の見方では正しいとは限らない」ということを大事にしようとする点です。私は私の正しさを相手に押し付けようという気持ちはありません。(というとどういう反論が来るかもすぐに予想できますが,気にせずに話を続けます)

そうすると,私が考える「対話」というのは,「理解できる者同士が行う」ことではありません。お互いに自分が正しいと思っているもの同士が,それでも「相手のいう正しさも理解しようと努力する」ことが対話です。つまり,相手を絶対的に否定してしまっては,対話は成り立たないのです。

 だから,私は自分と異なる意見に対しても,その方の人格を否定するような反論の仕方は一切しなかったはずです。ただ,議論のおかしさを指摘するだけです。投稿ガイドラインを読んでいただけいてもわかりますが,そのスタンスは一貫しています。

 したがって,たとえ私が人格的に貶められるようなことを書かれても,憤りを示すことはあっても,人格否定の応酬は絶対にしなかったはずです。あきらかにそれを誘うような書き込みも繰り返されましたが,それに応じることは私の考える対話を破壊するものだからです。

 さて,そういう立場から,ずれの調整をしようと心がけるとき,一番大事になることは,同じものを見ても,同じ話を聞いても,解釈がまったくことなることがいくらでもある,という事実です。このとき,いくらお互いの解釈をぶつけ合ってもなんの意味もありません。目隠しをして象に触れた二人の人が,ひとりは尻尾をさわって「これは細長いものだ」と主張し,もう一人は胴体をさわって「これはものすごく太い筒のようなものだ」と主張し,お互いにそれで「私が正しい。相手は間違っている」と主張し続けることの滑稽さは,こういう例ならわかりやすいでしょう。でも現実には人間はそういうことばっかりやっているわけです。

 ですから,そういうばかげた対立を少しでもなくしていくためには,「どうしてそう感じたのか」という「根拠」を示しあうことがどうしても必要なわけです。「象」という同じものについて語っているということは「事実」だとしても,実は象の違う部分を触っているのだ,ということを気づけるには「なぜそう感じたのか」を説明しあうことが必要だからです。

 そして,このブログがそうやってお互いのズレを理解しなおすことを目指している以上,このブログを成り立たせるには,そこは譲れない一線になってしまいます。そこはこのブログを成り立たせるための「正義」とせざるを得ません。そこを崩したら,このブログの意味はないからです。

 私が激しい憤りを示すことがあるのは,その「正義」を公然と否定されたと感じられた時です。もちろん私自身が理解できていないところで,それ以外の憤りが示されたことがまったくないかどうかは私にはなんともわかりませんが,少なくとも私が意識して大事にしているのはそういうことです。これまでそこを踏み外したことがあるとは自分では思っていません。

 今回のことでほんとうにむつかしいと思ったことは,そういう意味での「ブログを成り立たせるため」の憤りが,「重い自閉性の人への攻撃(差別)」という枠組みで理解されていったことでした。そうなると,私が何を書いてもまったく通用しなくなります。反論すればそれは簡単に「攻撃」として理解され,著しくは「差別だ」という決めつけになる。
 
 上に書いたように,そこでは根拠は示されません。ただその人の決めつけの解釈が繰り返されるだけです。そしてそのような解釈が複数の人に共有され始めると,その解釈が独り歩きをし始め,完璧な「共有された信念」となってゆるがなくなっていくわけです。これはものすごく強烈な仕組みです。実は定型はそういう仕組みをいっぱい政治的に使っています。そうやって激しい集団間の争いが作られていきます。しかし今回はアスペの方たちの一部に,そういう同じ仕組みが生み出されてしまっていると私には見えます。だからその場合は「根拠を示さない」ことがどうしても必要になるのです。根拠を丁寧に論じ合ったら,その信念が崩れかねないからです。

 そうやって人は自分を守ろうとするのですね。勝手な物語を作って,その物語の中の相手の「像」を否定し続けることで自分を保つ。悲しいけれど,それが人間の一つの姿です。今回はっきりわかったことは,その点でも定型もアスペも違いはないということでした。どちらも同じようなことをやってしまうのですね。

繰り返します。私は自分が正しいと思ったことを主張します。でも相手の人にとってもそれが正しいとは限らないという大前提を持っています。そしてどんなに気を付けていても,私は人を傷つけます。そうならないような努力が必要だという話と,それが完全にできるという幻想を混同するつもりはありません。自分の正しさは相手を傷つける。相手の正しさが自分を傷つける。それがズレを含んだ人間関係の中で,どうしても起こってしまう現実です。(まさか,だから傷つけることが正しいとパンダが主張しているなどという強烈な誤解が生まれないことを切に願っています)

 世の中は上のような仕組みで起こる殺し合いに満ち満ちています。そしてお互いに簡単にそうなってしまう現実があるからこそ,そこを乗り越える道を探さなければならないのです。異質な者同士が殺し合いを乗り越えて「共生」する道を求めるというのは,そういうことだと私は理解しています。

 

 

 

 

2016年6月23日 (木)

変化

 なにか自分の中で吹っ切れたものがあるのでしょうか,パートナーとの関係がちょっと進んだような気がしています。しばらくできなかった「笑いを共有する」ということがちょっと復活してきたようなんです。

 変化はもちろん私だけではなく,彼女の中にも起こっているのではないかという気がします。

 これも最近のことです。前にも何度か書きましたが,彼女と私の母親は,ほとんど180度と言っていいほどに違う性格です。だからこそ私は彼女を求めたし,彼女にたくさん救われることがあった。ところが皮肉なことに,母親によって結果的に与えられていた部分については,彼女からは得ることができずに苦しんだことにもなります。

 ただ,多かれ少なかれ嫁姑の間ではおこることかもしれませんが,私の母親の場合は,嫁に息子を「盗られた」という感覚が強烈だったように思います。母親はひたすら私を自分の理解者に育て上げようとしてきましたので,その私が別の人間に向くことは許せなかったのでしょう。もちろんそういう自覚はなかったと思いますが。

 その結果,母親が彼女を実質的に攻撃することが繰り返されました。そして私と彼女のつながりを断ち切ろうという言動も繰り返されました(これもたぶん自覚なしに)。その言葉は私が彼女から得られずに苦しんでいた部分を突いてくるものも多かったので,非常にしんどかったのですが,私は直観的に彼女のために防波堤になり,母親の攻撃をそこでとどめる姿勢を保ち続けました。そのことが彼女からまったく理解されていなかったことを後に知ることになり,大きなショックを受けたのですが,いずれにせよ,それとは別に彼女自身が母親について苦労していることもわかりました。

 ただ,彼女は母親のことは嫌いではなく,ちゃんといいところは認めてくれていました。今思うとすごいことだなと思えるのですが,そこは彼女の姿勢としてほんとに一貫していたと思います。そういう姿勢を保ちながら,母親からは認められることがなく,攻撃されることがたびたびあり,でもそのことについて私に愚痴をこぼすこともなく,一人で耐えていたのだろうと思います。

 当然,母親とは距離を取らざるを得ない状況でもありました。母親のパワーに,彼女が正面から太刀打ちすることはあまりに無謀なことでもありました。

 彼女は老人福祉の仕事をしているわけですが,そういう現場には,母親タイプの老人もたくさんいるそうです。結果として家族が崩壊し,親子の関係がずたずたになって,子に捨てられる人も少なくないとのことです。ですから老人福祉の仕事は,そういうタイプの方たちともつきあってうまくケアをできる能力が要求される現場でもあります。

 彼女はそれを「仕事として」こなしてきたのですね。福祉は他人によるものですから,そこは適度な距離を取りながら,「頭で計算して」対応できる部分が大きいわけです。彼女はその力を仕事を通して養ってきたことになります。

 そしてそういうタイプの人も含めて培ってきた彼女の理解力や対処の技術が,私の両親の介護という問題にほんとに最大限に発揮されることになりました。その彼女に私が改めてどれほど救われたかわかりません。

 そして今,彼女は母親から自分の最大の理解者として感謝されるまでになりました。もちろん理解と言っても,ほんとに共感できるわけではありません。ただ適切に距離は保ちつつも,しっかり話を聞いてあげるという一貫した姿勢によって,今は絶大な信頼を得ているのですね。繰り返し彼女に対する感謝の言葉を私に語っています。

 そういう経緯の中で,彼女にとっても母親が大事な人になってきている印象を最近持っています。以前には考えられなかったことです。定型的な言葉を使えば,二人の間に深い心のつながりさえ生まれてきている感じがするのです。

 仕事として老人を支えるという方法を身に着けてきた彼女が,今度はその方法で姑との関係を調整し,しかもそれにとどまらず,人と人との共感的な関係がそこから生まれつつある。
 
 もし私のそういう見方が間違いでなければ,これはすごいことだと思います。彼女はものすごいことをやりとげつつあるのではないでしょうか。私との関係に変化が表れてきたとしても,それは当然なのかもしれません。

 


 

2016年6月22日 (水)

もうひとつの次元

 「アスペルガーと定型を共に生きる」でカレンさんが語っていたことが,ようやく少しわかる気がしてきました。

 伸夫さんのアスペ的な部分とのずれに苦しみ,ぎりぎりのところまで追いやられたカレンさんに転機が訪れる。それは人によってではなくて,自然の中で光を感じたことによってでした。その中で自分というものが改めて確かめられたのでしょうか。

 カレンさんは子どものころはまさに自然の中で遊びまわっていた「野生児」のような方だったようです(笑) もしかするとそのころに生き生きと生きていた自分と,もう一度つながったのかもしれません。

 今朝,出張先で早朝の散歩をしていて,鳥の声を聞きながら,緑を見ながら,私も「ああいいなあ」とすごく心にしみたんですね。

 人と人の間で翻弄されて必死で生きているという日常の中で,すごくべたな言い方でちょっと恥ずかしくもありますが,でもやっぱり人は自然とともに生きてきたという単純な事実に気づくということでしょうか。

 人間関係で二人の間の関係が煮詰まったとき,第三者が入ることで別の可能性が見えてくることがあります。そのことの意味はもちろん大きいと思いますが,でも言ってみればそれもまた人間同士の関係という枠の中のことです。

 そこに「自然」というものが入り込むとき,また違う次元がきっと現れるんでしょうね。その中で改めて自分を感じ直すことも出てくるのでしょう。昔から人はそうやって救われてきたのかもしれません。
 

2016年6月21日 (火)

頑固者の柔軟性

 このところ,ブログ上ではシビアな状況が続きましたが,家では逆にパートナーとの関係がやわらかく,深まってきている感じを受けているという,そのコントラストが不思議と言えば不思議です。

 今朝は出張でしばらく家を留守にするため,出がけに彼女に「寂しいだろうが,がまんするんだよ」と言うという「遊び」をやってました。すると彼女は「ええい,うざいやつだ!」と迷惑そうな顔をして,「暖かく」送り出してくれる(?)わけです。もっともまえは「うざい」という言い方はしなかったかな(笑)

 ここ数年は,親の介護に関連して,ものすごく彼女に助けられ,いろいろアドバイスをもらうことができて,ほんとにありがたく,それまで「わけがわからない」とか「なんと冷たい見方」と思っていた彼女の意見がだんだん私には説得力を持ってくるようになりました。

 それがここにきて,私の仕事に関しても,ポイントポイントで結構大事な指摘をしてくれるようになってきたんですね。というか,私がそれを素直に聞けるようになったこともあるのかもしれません。で,彼女がわりと積極的に話してくれるようになる。

 以前は,なんかその指摘がポイントを外しているような感じがして,しかも言い方が結構叱責調だったりするものだから,まずむっとしてしまって,なにをずれた話をしているんだ!とか思って受け付けにくかったんです。

 今もちょっと聞くと,なんかピントが外れているなあと一瞬思うこともあるんですが,そこを「ああ,そう」とかいったんそのまま聞いてしまうと,そのあと私の方でもう少し考えてその「真意」が分かってくることもあるし,彼女の方がまた少し考えて私に通じやすいように言葉を足して説明しなおすこともあるし,そうすると,結構ありがたい助言であることもあるんですね。

 私は昔から,気分次第でいうことが変わって平気で周囲を振り回すタイプの母親に反発したこともあるのか,理屈(もちろん私が考える理屈ですが)に合わない,筋が通らないことをされることが許せない,ある種の頭の固い「原理主義者」だったので,彼女の主張も理屈が通らないと感じられると,それを柔らかく受け止めることができなかったわけです。

 まあ,さすがに年を経ると,「とりあえず我慢して適当にやりすごす」ことができることも増えてきますけれど,今でも自分が重要と考える問題については絶対にそれができません。そういう頑固さで,これまでどれほど損をしてきたか,もう語りつくせないほどです (^^ ゞ 語りませんけど (笑)

 もちろんそれにはいいこともあって,周りの人がなあなあですませてしまうことを,徹底してこだわるので,ほかの人が気づけない問題に気づいたり,ほかの人ができないことをやりとげたりすることもあります。そういう頑固さがなければ,こういうブログだって続かないでしょうね。きっと。

 長所は短所,短所は長所。どっちかだけということはまあないでしょう。

 でも,そういう頑固者でも,今彼女との関係で少し変化しているように,なんかそれはそれなりに柔軟になる道もあるんでしょうね。時間はかかるけれど。
  

2016年6月17日 (金)

限界を知るとき

次々に書き込みがなされるなかで、全てに応答することは困難ですし、内容的にとても重要な問題提起がありつつ、とても微妙な問題を含むため、今の相当乱暴に思える議論も一部展開する 状況では、単に誤解の積み重ねによるおかしな物語化がさらにひどくなる可能性をリアルに感じるので、応答を控えさせていただくものもあることをご了解ください。

あすなろさんのコメントを読んで、自分でももうひとつ整理しきれなかった問題について、「ああ、こういうことだったんだなあ」と思えることがありました。それはアスペ男さんについての応答が、過去のにわとりさんのバランスでは理解可能な部分があるが、その後のにわとりさんの変化を考えればバランスを欠いた不適切なものだったというご意見です。

事実関係については少し私の理解とそぐわない部分も感じるのですが、そこは今は本筋ではないのでおいておきますけれど、そういうご指摘を受けて、私がいったい何にこだわっていたのかについて、自分の中では整理が進む部分がありました。

わりに素朴なことです。私が我慢できなかったのは、にわとりさんから繰り返される一方的な人格否定の主張でした。今回の書き込みは、皆さんがどう感じられるかはわかりませんが、そこまで相手の人格を激しく貶める表現をするのかという思いを新たにするものでした。これは別に今回に限ったことではなく、一貫して繰り返されてきたことで、前回私が憤りを示したのも、本当に頑張っている定型の方たちを一色単に否定する書き込みにたいしてでしたし、水入り後一旦は新たな理解の微かな可能性がほの見えたこともありましたが、多分みるきさんのご指摘のとおりそれもまた私の幻想であったことがその後の展開で明らかになりました。今回の書き込みでは改めてその認識が単なる言葉の使い方の間違いではなく、ほとんど確信的な理解で、この間は単に他の指摘を受けて、そうでない可能性もちょっと引いて考えたにとどまるのだということがご本人の主張から読み取れます。この点はつまりはにわとりさんの揺るぎ様のない信念であるわけです。

私はその事が不当であることを繰り返しいろいろな方法で説明しようと努力しましたが、残念ながら同じところをいつもぐるぐる回ってしまって、進展がありませんでした。

ということで、私の理解は、にわとりさんはそういう決めつけてきな人格否定を繰り返される、そういうスタンスの方だという印象を、知らず知らずのうちに定着させていたのだと思います。ですからアスペ男さんのかなり激烈な人格否定的主張がにわとりさんに対してなされたときも、事実関係の誤りについてはそのような経緯とは独立に対応の必要性を認めましたが、その他の評価や解釈の問題についての対立については当事者の議論に任せるべきと、自然に感じたのだと思います。つまり一方的な人格否定という点では同じ種類の主張の対立と思えたのですね。それに私が積極的に介入して強権的に一方の主張を消してしまうことは考えられないことでした。それは私の中では公平性を欠くものと感じられたわけです。もしそこでアスペ男さんの書き込みを一方的に削除するのであれば、にわとりさんの過去の不当な主張に対しても、遡って同様の対処が必要になる。それが私の感覚であったのですね。そこがあすなろさんの事態評価と異なるポイントのひとつのように思います。つまりあすなろさんがその時はもう変化していたのだからという認識が私にはなかったということですね。

さて、私はこのblog上で他者の人格を決めつけ的に否定する行為は、もっとも深くこの場の目的を逸脱するものと考えてきました。ですから私の自己理解がおかしくなっていなければ、私の記憶の中では私が対立する見解をしめすかたに対して議論上の否定は行っても、人格を否定するような非難はしなかったと思います。そしてにわとりさんが定型に痛め付けられた過去についても、一部不幸な誤解の積み重ねの可能性は感じることはあっても、そういう厳しい環境について頭から否定する言動を行った記憶がありません。努力不足と決めつけて責めた記憶もありません。それは私にとっては決してしてはならない大事な原則と考えていましたし、そういうことをしないことにこの場の意味を考えていたので、私がそういうことをしていると言われることは、私には最大の公然とした侮辱になります。(その辺りの感覚がどの範囲の方と共有可能かについては私は何とも分からないのですが)

私は不思議です。そこまで相手を信用できず、ひたすらに不信感の表明と人格否定を繰り返すのはいったいなんのためなのでしょうか?たとえ著しく困難であっても、何とか誤解は解いて関係を調整しようとするなら、そういうことはしてはならないはずです。そこまで不信感に凝り固まるなら、議論をしようとすること自体が単なる自分の欲求不満の捌け口になるだけです。本当に不毛なことです。これまでは私はそこは別の可能性を捨てきれなかったので、私なりに必死でこらえて対応を試み、理解が進む可能性を模索してきましたが、さすがにここまで対話の意思を明示的に否定されることになれば、わたしも判断を変えざるを得ません。

何人かの方が、なぜ私がにわとりさんには厳しいのかといぶかっていらっしゃいましたが、その理由は恐らくそういうことです。このblogで私が一番大事にしたことを繰り返し頭から否定され続けたことについて、私が必死で耐えながら、そういう事態になっているということの理解を得ようと無理な努力を続けたからです。その無理の反動がどうしても態度に出てしまったのでしょうね。それが理想的かと言えばもちろん違います。その点で私のいたらなさを責める方があっても私は反論はしません。そういう見方もあるのだろうと思います。私の実感とは齟齬するものであったとしても。

それが私にとってどれ程辛い作業であったかについては、伝わる方もそうでない方もあるだろうなと思います。それもまた仕方のないことです。もちろんこういう事態の私の理解そのものが一面的である可能性も私には否定できません。ただ今現在私には自然にそう見えるということを書いているだけです。あとは皆さんそれぞれのご判断に委ねます。にわとりさんの書き込みがどれ程私の人格を深く侮辱するものであったとしても、私はそれを理由に削除することはしません。現実にこういうことが起こりうるということの大事な資料として残し、判断は皆さんにお任せします。

ということで、私がこのblogでもっとも大事に追求したかった原則については、残念ながら私のこれまでの様々な試みではにわとりさんとは共有が不可能であると考えざるをえない状況に至りました。大変に悔しいことですが、今の私の能力の限界ですね。もちろんにわとりさんタイプの方との対話の可能性を放棄するつもりはありません。実際私がこだわったポイントとは異なる面で、にわとりさんの議論に共鳴する方もあるわけですし、定型アスペ関係を考えようとすれば、その問題はいずれ避けてとおれないと思います。けれども私にはそこに到達できるまでに通らなければならない道、解決しなければならない問題がたくさんあると感じます。それは将来への課題です。ですからにわとりさん個人とのやりとりはこれで終了します。これ以上人格を否定されながらやりとりを我慢して続ける意味を感じません。私が壊れてしまいます。

2016年6月16日 (木)

定型宣言

 アスペの方の考え方をできるだけ理解しようと努力し続けてきたところから誤解が生まれた可能性を感じるので,今更ですが「定型宣言」をさせていただきます。

 といっても,定型の中でも変わり者ですから,別に私が平均的な人間だというわけでは全くありませんが,ただ,定型アスペという軸を置いた時には,感覚的にはやはり定型サイドになるということはたぶん間違いありません。

 ということで,私の議論はすべて定型的な(しかもパンダバージョンの)感覚をベースにしています。それを絶対化していいとは思っていませんが,しかしそれを抜きに私はあり得ません。アスペの方の気持ちを理解する努力はしていますが,もともと不可能なことをやっているわけです。私にアスペの気持ちを理解しないということで非難をされたとしても,それって当然でしょう?ということになります。

 もし,私がその点でみなさんに誤解を与えるようなことがあったとしたらもぅしわけありません。どうぞ誤解を解いてください。私は単に定型のひとりとしてアスペの方を理解しようとしているにすぎないのですから。

 これまで何度か私が書いたことについて,アスペサイドの方(特に「浅瀬」の方)からは,いろいろ賛同をいただいたり,共感のメッセージをいただくことがありました。そのことについては掛け値なしにうれしく思いましたし,ずっとそれは大切にしていきたいと思っています。

 けれどもそれは,あくまで私の定型的な感覚をベースに,自分の想像力をその上に働かせてたどり着いた理解に過ぎません。ちょっとたとえは古いですが,言ってみれば「MacのOSの上でWindowsのOSを走らせて,その上にWindowsのソフトを走らせている」というような状態なのです。めちゃくちゃ無理なことを続けているわけです。

 だから,ぱんだはアスペのことを理解していない,と非難されても,「そんなのあたりまえじゃん」というしかありません。それを非難するのは男性に対して女性になれ,というようなものです。理不尽でしかありません。

 私が深く抱いている定型的な被害感覚を無視してアスペの方の議論に賛同しろというような要求はまったく不当なものです。そういう理不尽な要求をする人には,「じゃああなたは私の何がわかっているというわけ?」と反論するだけです。自分でできもしないことを人に要求するのはおかしいのは当たり前です。(逆に言うと,それがかなりできてしまう,たとえばガーディナーさんから言われたら,私はひたすらかしこまるしかありません (^^ ゞ )

 

 ただ,私は定型が正しいということを主張しているわけではありません。もちろん素朴な感覚としてはごく自然にそうで,それは誰でもそれ以外はありえないはずですが,でもそれに安住していていいとは考えていません。少しでも異質なものを理解する努力を続け,異質さを前提にしながらなお共生できる道を探そうと努力しています。

 それ以上でもそれ以下でもありません。その点について誤解があるとすれば,ぜひ解いてください。

 これからも,私はあくまで定型的な視点から,問題を考え続けていきます。そして折り合いをつけられる道を探り続けます。アスペの方がそれに対してアスペ的な視点から批判することは当然のことです。そしてそれに対して私が定型的な視点から反論することも当然です。その先に何が生まれるかが問題なのですから。

 対話というのは,そういう形でしか成り立たないものだというのが私の理解です。お互いに相手が理解できるのなら,そもそも対話は不要なのです。

 そういう前提での対話に意味を感じない方に,無理にその対話を求めることはしませんし,そんなことはもともと不可能です。でもそこに少しでも何かの可能性や希望を持つ方とは,頑張って対話を続けたいと思います。あくまでへんてこ定型のひとりとして。

 … ああ,ちょっとすっきりしました (笑)

 


 

2016年6月15日 (水)

素直 VS 調整

掲示板のみるきさんの投稿を読んでいて,また少し,理解が進んだように思うことがありました。アスペの方の視線からは一連のやりとりがどう見えるのか,ということについてです。

 ことのさんへの投稿でみるきさんはこんなことを書かれています。

 「なんでいつもいつもアスペが悪かったというところで終わってしまうの?どうして自分たちの問題には目を向けないでいつもいつもこうなるの?と理不尽さを感じながらも悔しさを感じながらもお2人のことを心配していてかばいたくて、代わりに怒って代わりに泣いてくれているように感じられたからです。」

 にわとりさんがずっと訴え続けてこられたことにも,こういう思いがあふれている感じがします。「結局は最後は自分が悪いことにされてしまうんだ」という強い憤りです。

 たしかに,一つの面だけを見れば,そういう見方も成り立つと思いますし,特に定型の側からはそういうふうに見える批判が繰り返されたことも事実としてあるなと思えます。たぶん私の意見もそう理解されたのでしょうね。もしそうなら一連の(私からすると)あまりに的外れな理不尽な「非難」(に見える)もわかる感じがします。

 みるきさんはこんなことも書かれています。

 「 一生懸命でまっすぐで、確かにある面から見た真実を突いてることのさんがほほえましくもあり、私よりもはるかに優しくて真剣に向きあおうとしていることのさんがどうして悪者に見えるのかと謎である」

 なるほど,と思います。ことのさんはほんとに真剣に事態を見て,にわとりさんがまったく理解されずに不当に非難されている(とことのさんには見える)状況に耐えられず,率直にそれを言っただけで,たとえ表現に不十分なところがあったとしても,なぜことのさんがそこで悪者扱いされる(ように見える)のかが理解できない,ということですよね。

 そのことについての,これは私の今の理解ですが,にわとりさんが訴えてこられたことについて,頭から否定される方はこのブログではほとんどなかったように私は感じています。もちろん初回のコメントから激しく非難されている方もありましたが,その非難には「今まで理解しようと努力したが,あまりにひどいことを言われるので,耐えられなくなった」という憤りが裏にあるように感じられるものが多いと思えました。(そのほかに,単に自分自身の日頃の私生活のうっ憤をここで吐き出しただけのような方も一部あったことは間違いないと思います。それはガイドラインに反しますので,その明らかにひどいものについては削除されました)
 

 ちょうど裏表の関係ですが,そういう,まずは理解しようと努力された方の非難は,ことのさんのそれと形の上では同じように思います。ただ何に怒っているのかの中身が異なる。

 何が違うのか。むつかしい問題ですが,私はとりあえずこんなことを考えます。

 にわとりさんやことのさんや,たぶんすずめさんも,お一人ずつもちろん違いはあるものの,「自分たちの苦労が定型には認められない」「一方的に非難される」「その不当さを訴えようとして何かを言っても理解されない」「逆に<いいがかり>のように非難されて終わる」「そして何も変化はせずに,定型はそのままアスペを迫害し続ける」「アスペは最後まで悪者扱いになる」と事態を理解して憤り(あるいは絶望的な思い)を持つことについて,共有されているのではないかと思います。

 この理解の枠組みの中に,定型から発せられる言葉を,文脈から切り離してはめ込んでいけば,確かに事態はそういう展開をしたと確信されても無理はないかなという気がします。だから確信をもって怒られる,あるいは勇気を振り絞って誠実に思いを訴えられる。

 仮にそうだとすると,事態の理解の仕方がほんとにずれてしまっています。たぶん定型の側(特に定型アスペ問題の当事者)の少なからぬ方の感じ方はこういうものです。

 「自分は自分の身近なアスペの方との関係で,日ごろからものすごく苦しい思いを繰り返している」という気持ちが出発点です。あくまで自分の方が「被害者」だという感覚がどこかベースにある。けれどももしかすると自分からすると信じがたいようなひどいことをしたり言ったりするアスペの人も,何か事情があってそうならざるを得ないのかもしれない。もしそうなら一方的に非難することはよくないし,自分の方にもなにか知らず知らずのうちに直すべき問題があったのかもしれない。とも反省してみる。このブログに継続的に来られる方は,単純に自分を「被害者」とだけしか思わない方ではなく,そこを乗り越えようという気持ちを持たれている方がほとんどだと思います。

 
 お互いに「自分は被害者だ」という感覚から出発しているところはたぶん同じです。そこはどちらもうつになったり職を失ったり,死を考えたりせざるを得ないくらいに骨身にしみている部分ですから,消し去ることはほとんど不可能なところでしょう。だからその部分を否定されることはどちらも許しがたく感じてしまう。
 
 それにもかかわらず定型が歩み寄ろうとする場合は,「私は被害者だ」という思いをいったん飲み込んで,「相手も被害者として苦しんできたのかもしれない」という可能性を考え直し,そこを「共感的に受け止める」ことをしようとすることが多いと思います。「自分には納得できない見方,考え方,主張だけれど,この人の状況からすれば無理もないことなのかもしれない」という想像力を働かせることで共感しようとするわけです。

 そのこと自体が定型にとっては大変な努力です。何しろ自分自身がぼろぼろに傷ついたうえで,その原因になっているアスペの方の言動に改めて向き合おうとしているわけですから。ところがやっぱりそこが受け止められずに,「一方的にアスペを悪者扱いしている」という理解で避難されることになります。どうもその構図が一貫して理解されていないように感じられます。


 私が決めつけの議論はやめようと言い続けているのは,これが理由です。お互いに「自分が被害者」だと思い,相手は「加害者」だと思っている。そしてたしかにそれぞれの感覚からいえば間違いなくそうなのです。でも逆に言えば相手の視点から観れば自分が加害者で,相手が被害者だということになります。

 このむつかしい問題に向き合って解決するには,いくつかの方法が考えられます。一つには力関係を使って誰が被害者で誰が加害者かを決めつけてしまうというやりかたです。加害者とされた方は自分では自分を被害者と感じて疑えませんから,納得は絶対できないのですが,でも力関係で押さえつけられて文句が言えません。

 また関係を断つという方法もあります。この場合は「問題以前」にもどるわけですから,本当の解決にはなりませんし,同じことが別のところで繰り返されることになります。

 もうひとつはお互いの思いはそれぞれの思いとして認めたうえで,ただしそれで相手を決めつけることなく,なんとか歩み寄って調整する方法を探すことです。


 このブログが追求してきたのはもちろん三番目の道です。そしてこの三番目の道を進むためにどうしても必要なことが「自分の見方で相手を決めつけない」という原則なのです。そこを否定したとたんに,このブログは意味を失い,崩壊してしまいます。

 アスペの方の中でも何人かの方はその感覚をどこか共有されているように感じます。みるきさんはこう書かれています。

 「断定をしないので、のらりくらりとはっきりと事実を事実として認めないままで話をかわされていく印象がもてるとも言える状況にあります。……言い切らないので、アスペの目には、ぱんださんの立ち位置がはっきりしなくて最後の最後信頼できるのか否かが分からないのです。」

 つまり,「自分の見方で決めつけない」という態度で対応しようと努力していることの一部が,そんな風に見えるのでしょう。けれども,そういいながらみるきさんご自身もこういう風にしようとしてきたと書かれています。

 「それともう1つ、私の思惑としては中立だからこそできることがありできる時がある・・という持論を持っているので、どれほど面倒になろうとも簡単には定型さんを切り捨てないでどうなかこうにかうまくやりたいというのもあります。私がどっちつかずに見えるのはそのためです(笑)。」


 やっぱりアスペサイドの方でも,そういう意味で「どっちつかず」のあいまいな態度に見える姿勢が生まれてくるのですね。ちょっと色合いは異なりますが,ガーディナーさんもこんなことを書かれていました。

 「わたしももう一度、二十歳のころに戻って、パンダさんの奥様のように無邪気に素のままを表現したり、「大っ嫌い!」を復活させようかな?と一瞬思いました。が、ヤッパリやめることにしました。やっぱりそれは本当の私ではないのです。警戒しながら、気を使いながら生きてきた、という私の半生が育てた、今の私のキャラクターがあり、それこそ今、何よりも大切にしたい、本物の私だからです。」


 ガーディナーさんの場合はそういう「素のまま」ではない「気を使った」生き方が,もうすでに「本物の私」として感じられるまでになっていらっしゃるのですね。


 そうすると,たぶんここが「スペクトラム」のことになってきて,いわゆる「浅瀬」の方とそうでない方の違いになってくるのかなと思うのですが,みるきさんのように,にわとりさんたちの「素直な思い」を理解でき,それを「純粋なもの」として大事に感じられると同時に,それだけではやりきれない部分に注目して「どっちつかず」の自分を作られるようなことが出てくるのでしょう。

 ただ,ベースがアスペ的感覚の方にとってはその「素直な思い」の方が大切なものであり,定型が強まると「相手の思い」との「調整(従属ではなく)」の方が「私個人の素直な思い」よりも「お互いに大切」という感覚が強まっていく。

 私は後者の感覚により強く根差しているので,「決めつけない」ということがある意味で「正しいこと」の基準になっていきます。そしてそれ自体が結構むつかしいことですので,それを守ることが自分に課せられた「義務」のように感じるようになるわけですし,相手への「誠実な態度」ということになります。

 この部分で完全にずれてしまうわけですね。その基準からすると,にわとりさんやすずめさんなどは完全にその「誠実な態度」から外れてしまったことになります。でも,その見方はにわとりさんやすずめさんにはなかなか伝わりにくいことで,にわとりさんは「善意から仰っていたのだとしても、どなたの言い分が正しいのか分かりません。皆様の真意も分かりません。疑心暗鬼にしかなれません。誰の言うことも信じられなくなりました。」という混乱状態に落ちてしまわれました。


 ということで,今の段階で私に理解できることとしては,「決めつけない」という原則は,私にとっては非常に大事な,この場を成り立たせるために欠かせないものですが,その原則に賛同できる方もできないかたもあり,賛同できない方の中にはその意味が分かりにくく,単に「不誠実」にしか映らない方もある,という現実があるということでしょうか。

 そうすると「決めつけない」という原則は,このブログの中心的な原則ですので,それを放棄することはできませんが,自分の感覚で(素直に)「決めつける」タイプの方にどう対応したらいいのかということが改めて問題になります。

 これはどちらの側にも起こる問題なので(もう少し丁寧に考えないとそこに本当はあるはずの定型アスペ間の違いはまだよくわかりませんが),かりに一方の側からの決めつけを排除するというのであれば,他方の決めつけも同時に排除する必要が出てきてしまいます。でもそれをやっていると,大事な問題が議論から抜け落ちてしまう。しかし排除しないと他方からは「ひどい議論を容認している」という非難が巻き起こる。

 どうしたらいいかむつかしい問題ですが,とりあえずそういう問題があるのだ,という理解をしてみたところで,また少しずつ考えていきたいと思います。
 

2016年6月14日 (火)

歌でつながる

これ,いいですね。アスペの人が歌を通じて人とつながっていくこと。

2016年6月13日 (月)

対立のしくみ

 ひととコミュニケーションをするとき,相手の態度に違和感や憤りを感じるポイントが人によって結構違うんじゃないかという気がしています。

 たとえば相手の人のいうことが,事実をまったく無視して都合のいいことだけを言い募って都合の悪いことは無視したり,その時々でいうことが全然違って,その時に自分の都合のいいことしか言わなかったり,というようなタイプのやりとりはほんとに苦手で,しばしば強い憤りを感じる人。「身勝手」で「理屈が通っていない」という感じでしょうか。

 こういう風に書くと,「それはだれでもそうでしょう」と思われる方もあるかもしれませんが,実態は全然そうではなく,子どもから大人まで,いわゆる地位の高い人も低い人も,めちゃくちゃ賢い人もそうでないひとも,誰でもこういうことを平気でやる人たちがたくさんいます。

 逆に理屈がどうこうというより,その時の感情を理解して受け入れようとしない人に強い怒りを感じる人もいますね。そういう人にとっては理屈はかなりどうでもよくなることがあって,とにかく感情だけが大事になります。

 もちろん同じ人でも場合によってどっちが強くなるか,ということについては揺れ動いたりもすると思いますが,まあでもだいたいの傾向はその人によって安定していることが多いような気がします。


 私の場合は理屈を自分の都合で捻じ曲げて平気という態度が苦手で,そういうのは相手の勝手な都合でその気分に振り回されることになりますから,すごく憤りを感じるわけです。そういうある種融通が利かないともいえる「理屈っぽさ」のところは,私は自分に自閉的な感性とつながる部分を感じています。

 ただ,私の場合相手の今の感情に向き合わなければならない(できるかどうかは別に,姿勢として)という気持ちも少なからずあって,それがうまく働くときには,ここでもアスペの方から何度か私の理解について共感的に受け止めていただいたようなことも起こります。また日常の人間関係でも,話をまともに聞いてもらえたと喜ばれることもあります。そういうところで「共感的」になることは私もうれしいわけです。

 それで,その二つの面をつなぐような態度として私が作ってきたのが,このブログで大事にしようとしていることなのかもしれない,と思いました。つまり「そのように感じてしまうという事実を大事にしながら(共感的な部分),相手には別の感じ方もある中で,どうしてお互いにそういう感じ方になるのかを理解する(理屈の部分)」ということをやり続けているわけです。

 それが私がこのブログで一番大事にしている態度なので,自分の感じ方を一方的に「正しい」ものとして決めつけるような態度や,矛盾したことを平気で主張するような態度に対して,強い憤りを感じてきたわけですし,ときどきその思いが強くあふれると怒りの反論も行ったわけです。


 憤りをどう表現すべきかということについてはいろいろな課題があるとしても,そういう「お互いの感情を大事にしながら,それを相対化して筋道立てて考え直してみる」という態度については今後も変わることがないと思うのですが,ただ,こんな問題が改めて私の中で大きく浮かび上がりつつあります。

 たとえばバリバナの次のエピソードをご覧ください。(音声が出ますのでご注意ください……って言うまでもないか (^^ゞ )
 この方は目の前に見えている(はずの)カギを見つけることができません。私から見れば,もうどうしようもなくそこにあるのは当たり前で,相手も目が見えるのだから当然それが見えていると思い込みがちですが,実はそうではないわけですね。「鍵」がお互いに「見えている」ということは「共有されている」という前提が,実は成り立たないわけです。

 同じようなことがにわとりさんとのやりとりでも繰り返し起こりました。その一つにものすごくショッキングだったことは,「矛盾している」ということ,あるいは「矛盾があってはならない」ということの理解が共有されなかったことです。

 ここはなぜ共有されなかったのかは私にはまだよく分からなくて,たとえば「この人は男です」という主張と,「この人は女です」という主張が同時には成り立たない(特殊な場合を除いて)ということはたぶんにわとりさんでも納得されると思うんですね。だから矛盾一般が理解されないのではないと思う。(上の例でいえば「目は見えている」)

 ところが私がどうしても話の筋が通っていない(したがって不当な主張を繰り返している)と感じることについて,「その主張はおかしいでしょう?」ということを確認するために,「あなたのはなしは矛盾しているでしょう?」と言って説明したが伝わらなかったわけです。でもにわとりさんがわざとそうしているとか,とぼけているというのではないと感じられたので,そもそも矛盾というのはいけないですよね,という基本を確認しようと説明したら,何を言われているのか理解できない,とにわとりさんに言われたわけでした。

 部分と全体を区別せずに,一部の人について体験したことを,すべての人に当てはまるように主張するのはおかしい,ということも繰り返し問題として指摘したことでしたが,これについてはそういう区別そのものをにわとりさんがもともとほとんど意識されていないようでした。だから別に差別的にそのような言い方をしたわけではなく,ある意味では「不注意」でそういう決めつけの言い方になってしまう,というようなことのように感じられました。

 この点は何度か私から問題として指摘することで,にわとりさんも注意をされるようになり,書き方を工夫されることも出てきたと感じたのですが,でも前回のように,やはり「努力している定型」を無視するような「表現」が繰り返されたわけです。

 これはにわとりさんがそこで主張されようとしている「感情」あるいは「気持ち」の部分である,「不当な決めつけをされ続けて来た」ということとは別の問題です。にわとりさんがそういう扱いを受けてきたことが不当である,ということは私も納得です。もちろんそういう不当な扱いをする側にも,意図してそうしたのではなく,誤解によってそうしている部分が多いと思いますが,いずれにしても結果としてそういう不当な扱いになったという事実は動かない。だから改善すべき問題であることは確かです。

 でも,そのことと「改善のために努力しようとしている人たち」のその努力を十羽一からげに否定する話は全く別物で,私は後者を認めるわけにはいきません。にわとりさんはそれをしてしまっていると思ったし,私がすずめさんの議論がめちゃくちゃ不当な議論だと感じるのも,そこの区別を全然していないように読めるところです。そして定型を十羽一からげに否定しようとしている(と私には感じられる)。


 で,改めてそこで問題になるわけですが,少なくともにわとりさんがそういうことを繰り返されたのは,意図してそうしているわけではないということです。なぜ意図してではないとそう言えるかというと,ここは個人的なやりとりの中での話になってしまいますが,私がある方の発言について,違う解釈の可能性をお話したら,かなりショックを受けて考えようとされていたからです。

 上の鍵を探せない方の話でも,もしほかの人がカギを指さして「ほらここにあるよ」と指摘すれば,たぶんその方は鍵を見つけられると思います。でもいろいろ周囲にあると,ごちゃごちゃしてわからなくなり,視覚的にわからなくなり,手探りの方がわかるようになる(つまり,目で見ると全体が一挙に見えてしまうので,混乱するけど,手探りだと触角は触っている場所だけに限定されますから,ひとつひとつ確認できて混乱しなくなるということでしょう)。

 にわとりさんにも同じようなことが起こっている可能性を感じました。ごちゃごちゃしたいくつかの視点がいっぺんに示されても,混乱してしまってわからなくなる。そしてたまたま目についた一部のことだけで判断するしかなくなり,ほかの人から見たら極端な主張になってしまう,という展開です。

 だから逆に言えば「いや,こういう視点もある」と具体的に指摘されると,そこは気づかれる。ただし,安定してできるわけではないので,掲示板に最近書かれたように「善意から仰っていたのだとしても、どなたの言い分が正しいのか分かりません。皆様の真意も分かりません。疑心暗鬼にしかなれません。誰の言うことも信じられなくなりました。」という状態にならざるを得ないように思えます。


 仮にもしそういうことが理由で,お互いに相手の言うことが理解できず,不当な主張が繰り返されているように感じ,不信感が募り,激しい対立が起こったりするのであれば,その部分をなんとか工夫する必要が出てきます。 

 そこで最初の問題に戻ります。「お互いの感情を大事にしながら,それを相対化して筋道立てて考え直してみる」という私が大事にした態度を保つには,「自分の感情(視点)だけで相手を決めつけない」ということと「自分に都合のよいところだけで矛盾した主張をせず,筋道を通して話をする」ということが不可欠になるわけですが,そもそもその基準を共有することになんらかの困難があるとき,その態度はそれだけでは通用しなくなることがあるわけですね。

 現時点での私の理解では,にわとりさんとの対立は,そういう原因によって生まれたと思えます。

 世の中に蔓延している「差別的な言動」などのかなりの部分は,そういう問題が絡んで起きているのではないか,という気もしますし,そう考えるととても深刻な,大きな問題がここにあると思えます。さて,どうすればよいか,ですね。
 
 

2016年6月11日 (土)

否定から入ることのアスペ型,定型型

 ガーディナーさんから私自身のことについて指摘していただくことについては,「は,そういう見方があるんだ」と思うことがやっぱり多いですね。(感謝)

「作り笑いとか愛想笑いとか(きっと)されない(でしょう)奥様のふるまいからは、パンダさんに対する大きな信頼感を見たような気がしました。」

 というのもその一つです。「不機嫌な顔」=「大きな信頼感」という理解の仕方はほんとに「はあ,なるほど」という感じです。定型的には「不機嫌な顔」=「不信感の表明(警告)」になることが多いわけで,その正反対ですものね。

 いや,もちろん「信頼できるから本当の気持ちをいえる」とか「喧嘩をするほど仲がいい」というのは定型でもあります。でもちょっと違うんですね。何が違うんだろう?

 うーん,やっぱり「不機嫌な顔」というのは「相手に対する警告」という意味がついちゃうんですね。それは単に「機嫌が悪い」というのとはたぶん違う。「機嫌が悪い」ときに不機嫌な顔になるのはまあ当たり前と言えますけれど,定型の場合たぶん「何に対して怒っているのか」ということが相手に伝わることが大事になっているんだと思います。

 だから,だれかが不機嫌な顔をしているとき「なんで相手は不機嫌なんだろう?」ということがすごく気になる。自分のせい?ほかの原因?という迷いがすぐに起こるわけです。もし自分のせいならなんとか調整しなければならないし,ほかの原因なら場合によって手助けをすべきだし,そのあとの対応がそこで問われることになります。

 アスペの方は,たぶんその次への展開の部分には表情がつながりにくいのでしょうね。

 うーん,だから,定型の場合は「そのあと」のことを考えながら,表現(表情も含めて)調整しようとするので,「悲しいのにうれしそうにしている」とか「怒っているのに笑顔」みたいなことがしばしば起こります。そして多分アスペの方にとってはそれが「嘘をついている」と感じられてしまうのかもしれない。

 そう考えると「だから昨日の奥様の一連の出来事は、否定から入るといっても、今日の記事のように、今まで苦しんできた人の成育歴故、というよりは、やっぱりもっとアスペルガー的な感覚がそういわせるのかな?と想像しています。」とガーディナーさんが書かれたのも納得の感じがします。

 ただ,同時に少し違う面がありそうに思うのは,ほんとに最初の頃はここまで「否定」からというのが強くはなかったような気もするんです。やっぱり私は彼女のことを理解できずに責めてきたわけですし,彼女は私に理解されないという思いを深めていったと思うし,その結果いったんはほとんど破たんというところまで進んだわけですよね。

 これまでもいくつかのことで「いったん気持ちが切り替わると,もう修正がほとんどむつかしい」という風に感じることが繰り返されてきました。ある意味「一貫している」と言えなくもないわけですし,逆に言えば私の方が「いい加減」と言えなくもないのですけれど,でも彼女にとってマイナスがあると,そのことで作られた姿勢がその後もずっと固定してしまうような,そんな印象があるんです。

 固定的というところではアスペ的なものが聞いているのかもしれませんが,そういうこれまでの歴史の中でそうなっているという面については「成育歴故」という話になるのかなと,そんな気もします。

 とはいえ,「「味が薄い」とか言われる奥様には、ある種の羨ましさを感じます。文面からの想像だけで言うのですが、本当に無邪気で安心しきった態度のようにも感じられます。」と言っていただけると,なんか別の可能性も感じられてちょっとほっといますね (^^ ゞ

 というわけで,たぶん実際のところは「アスペ的な傾向がそれまでの経験の積み重ねのあり方と相まって,<否定から入る>というパターンを生んでいる」ということなのだろうと思います。だから同じように<否定から入る>という形でも,ガーディナーさんが言われるように,定型がそうなる場合とにはやっぱり現れ方に違いが生まれるわけですよね。

 そして「警戒しながら、気を使いながら生きてきた、という私の半生が育てた、今の私のキャラクターがあり、それこそ今、何よりも大切にしたい、本物の私だからです。」と書かれていること。このところガーディナーさんが真剣に悩まれてきたことに,こんな形でひとつの結論を出されたんだなと,とても納得しました。すごいなと思いました。
 

警戒と信用

 久しぶりに記事 時間をかけてゆっくりと と いいとか悪いとか を書いたのに対して早速かずきさんKatzさんガーディナーさん から丁寧なコメントをいただきました。いつもながらに「なるほど!」と思わせられるご意見で,かずきさんへはいったんお返事をしましたが,全体にコメントでのお返事は無理な感じがしたので,改めて記事で書いてみます。

 Katzさんはここでも「否定から入る」=「常に周囲への警戒心を怠らない」という姿勢を,人間の進化の話に結びつけて論じてくださいました。これ,すごく大事な視点と思いました。

 もともと動物って「食うか食われるか」の世界に生きているわけですから,警戒心のない者は生きていかれないですよね。草食動物など,一方的に食われる立場になれば,常に周囲の状況に気を配り,ある意味おびえて暮らすことになります。

 「同じ種同士」の関係もシビアで,特に雄なんか雌をめぐる争いが厳しく,下手をすると大けがをしてしまいますし,これも昔読んで結構ショックでしたが,チンパンジーなどではほかの群れから迷い込んできた母子の子どもを殺して食べてしまったりすることもあるみたいですね。

 残酷なことをする,という点では人間も決してほかの動物に引けを取らない,というか,ある面でははるかにそれを上回っていることも確かです。

 ただ,チンパンジーの話とかを知った後,見ず知らずの土地を歩いていて,ふと驚いたことがありました。周りはみんなまったく知らない人間で,「違う群れ」の人間たちなのに,自分は平気で歩けているな,ということに気づいたからです。激しく警戒されるわけでもないし,突然襲われて食われるわけでもない。(まあ,そういうことがまったくないわけではないでしょうが,極めて例外的)

 それどころか,道を尋ねたりすれば,快く教えてくれたり,笑顔で応対してくれたりすることもよくある。地域によってはでたらめを教えられる場合があることもありますが,基本的にはそこで教えてもらった道は本当のことだと信頼できます。道端で困っていると見知らぬ人から声をかけられたりすることだってある。行き倒れれば誰かが声をかけて対応してくれる可能性が高いし,逆に言えばそうされないことについては「ショックを受ける」という気分がある。

 人間という動物がここまで地球上でのさばるようになったのは,やっぱり「集団でいろいろなことを成し遂げる」という性質を育ててきたからでしょう。言葉なんてそのための道具ですけれど,それだけじゃなくて,「協力し合おうとする」という気持ちが生まれることがものすごく大きいはずです。

 協力し合うにはどっかで「相手を信頼する」という気持ちが必要になります。約束をするときには,相手が約束を守るだろう,という信頼がある程度ないとやっていかれません。弱肉強食と言われる経済活動だって,その重要な要の役割を担っている銀行は「信用」がなければすぐに崩壊してしまいます。

 人が残酷になるときも,この「協力し合う」という関係が絡んでいることが多いですね。いじめとかは「私達」を守るため,あるいは結束を強めるために誰かをスケープゴートにしてみんなで攻撃する,ということがあるし,「私たち」は仲良く結束して「あなたたち」と戦う,というようなことはよく目にすることです。昔のドラマじゃないけど「てめえら人間じゃねえ!叩っき斬ったる!」というセリフは,相手を殺すことを「正義」として正当化するためのものです。

 人間はやさしさと残酷さの両方を持っているので,人は生きていくうえで,この「信頼」と「警戒」のバランスをどう作っていくのか,ということがすごく重要な問題になるのでしょう。「この人は信頼できるかどうか」ということはいつでもものすごく大きな問題になります。

 人によってレベルは様々ですが,定型はそこで「群れて自分を守る」とか,「群れの中の自分の位置を確かにしようとする」ということを常に考えて生きる,という傾向が強いわけです。アスペの方が定型の行動に違和感を感じられるところの多くは,ここに原因がありそうですね。
 
 じゃあ定型は「群れて生きる」ために「信頼を大事にする」生き物で,アスペは「群れて生きることにあまり興味がない」ために「信頼を大事にせず」「他者を警戒する」生き物なのか,というとそこは全然そうではない。

 アスペの方が定型の行動に傷つくのは,逆に「信頼を裏切られる」という場面が多いですよね。たとえば「陰口を言う」といったこと。本音と建て前を平気で使い分けるということ。それは「相手のいうことをそのまま信用できない」ということで,そのことにアスペの方が傷つくということは,逆に言えば「そこは信頼できるはず」という思いがあったから,という話になります。

 そう考えると,Katzさんが「リスクを承知するのが生き残る為に極めて重要だった」と書かれているのはその通りだと思いますが,同時に「物事の良い所を見るというのは、訓練の必要な後天的な能力らしい。」というところは必ずしもそうではなく,そもそも人間というのはそういう面にも注目するように作られたために,ここまで地球上でのさばるようになったのではないかと思います。

 その点では定型もアスペも基本は同じではないでしょうか。だからこそアスペの方は「傷つきやすく,警戒的になりやすい」ということも起こる。ただ,その信頼関係をどうやって作るかとか,どうやって維持するかとか,あるいはどう修復するかとか,その具体的なやりかたに,お互いに気づきにくい結構深刻なずれがあって,そこで悲劇が起きやすい。

 にわとりさんの言葉に「一方的な攻撃性」を感じた人が(特に定型に)多かったと同時にそこに「誠実な必死の訴え」を感じた人が(特にアスペに)多かったというのは,そういう事情が絡んでいるように思えます。


 Katzさんの問題提起への応答だけで長くなってしまいました (^^ ゞ 
 続きはまた記事を改めて書こうと思います。
 


 

2016年6月 9日 (木)

いいとか悪いとか

 なんでも否定から入りやすいという昨日の話,それが「アスペ本来の特性」とはやっぱり思えません。これも私の想像にすぎませんけれど,アスペの方にとってはそれだけいろいろなことについて安心できず,常に警戒心を持って生きることが必要な状況に生きているから,ごく自然にそうなるのだろうと思います。

 そういうことは,たとえばにわとりさんとのやりとりを続ける中で,私もようやくかなり深刻な問題として感じ取るようになり始めました。

 あ,今あることを思い出しました。海外旅行で貧しい地域に行った時のことです。身体障がいのある幼児が何人か半ば裸で道端に座り込み,乞食をしていました。私は基本的には乞食をしている人にお金をあげるというのがなんか抵抗感があってできないのですが,障がいのある人とかには「援助」みたいな感じでお金を渡すことがあります。

 それで,その時もお金を渡したんですが,それで子どもがにこっとするのかなと(別にそういうことを期待したり考えていたわけではありませんが)思いきや,ものすごい顔で私をにらんでもっとよこせという身振りをしました。それはほとんど「子どもの顔」ではありませんでした。

 なんだかその目は憎しみを含んでいるように,人に対する信頼のかけらもないように感じられてすごくショックだったのですが,でもそこまで厳しい環境で生きているのかなと思いました。噂ですが,そんな風に乞食をやらされる状況が壮絶だったりするという話も聞きました。もし自分がそんなことをされれば,人を信頼できなくても当然と思えるような話でした。

 そこまでのひどい話はそうはないかもしれませんが,でも,にわとりさんの話を聞いていても,「ほんとにそんなことがあるのか」とびっくりするくらいのエピソードも何度も出てきました。もしかしたらその中の一部は誤解に基づくものかもしれないとしても,でもそういうシビアな体験が繰り返されたことは確かなのだと思います。

 もしそうなら,基本的に世の中に対して,他人に対して,常に警戒し,マイナスの可能性を想定しながら生きる,ということはある意味必要不可欠なことになります。

 もちろん定型同士の関係でも,ほんとに命にもかかわるようなレベルでひどいことは起こります。なんでこんなでたらめがまかり通るのか,というようなひどい話はいくらもありますし,私自身もいろいろ苦労させられたこともあります。

 でも,そうでない世界もそれなりに生きてきていますから,全体としては人に対する信頼をまったく失うということはありませんし,まず警戒心から出発する,という形にも(少なくとも今は)まだなっていません。

 それに対してアスペの方が周囲から訳の分からない(だから不当に感じられる)扱いを受け続ける可能性は定型よりはるかに大きいわけですね。

 そう考えると,「常に否定的に」という姿勢になったとしても,「無理はない」というふうには思うんです。いいとかわるいとか,そういうレベルの話じゃないなあと。

 いつものことですけど,ほんと,いいとか悪いとか,むつかしいです。

  

2016年6月 8日 (水)

時間をかけてゆっくりと

 またまた長のご無沙汰をしていました。

 ほんとに仕事で自分でもちょっと驚くほど,余裕がなくなっていました。決してマイナスのことではないのですが,日々力を使い果たす感じで (^^ゞ
 今日は「松茸ご飯もどき」を作って食べました。エリンギと松茸の味お吸い物でつくるやつです。これが結構いけるんです (笑)

 それで,昨日の晩,「明日(つまり今日)作ってみたいけどいいかな」とパートナーに聞きました。いつものように彼女は困ったような不機嫌に見える顔をしましたが,彼女の予定を狂わせる提案ですから,気持ちを整理するのに時間がかかるだろうと思い,私はあまり気にせず,「別にあさってとかでもいいけど」と言ってのんびり返事を待ちました。

 しばらくして,やはり不機嫌に聞こえる声で作ってもいいと言ったうえで,「そのためのおかずも考えなくちゃいけない」,と文句を言っていました(という風に聞こえました。ただしたぶん私に対する文句ではないと思います)。

 今日はそれを食べながら,まずは「味が薄い」と言っていました。私がそれに賛同しながら,「でもまあ味はいいよね」と言ったりしていると,彼女も「このくらいの方がいいかもしれない」といったようなことを言い,基本的にはそれなりに満足して食べたようでした。


 どんなことでもまず「否定」から入る,というパターンにはさすがにここにきて私も慣れて来たようです。その否定が私に向けられた否定ではなさそうだ,ということを理解し始めてからも何年もかかった感じですね。

 今でもまず否定的に言われてうれしいわけではありませんし,気持ちに余裕がないときは時々「なんでそこまで常に否定から入るんだ」とむかっとくることもなくなりませんけど,でも少し時間を置くと,プラスのことも出てきますし,まあ慣れてきたかな (笑)

 やっぱりこういうのって,スパッと「わかった」という気持ちにはなれなくて,時間をかけてゆっくり慣れていくしかない,というところもあるんだろうなと,そんな風に思います。 
 

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