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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年2月

2016年2月29日 (月)

バランスと八つ当たり

 定型アスペ関係でむつかしいのはもちろん「コミュニケーション」のとり方で,アスペルガーがコミュニケーションの障害と言われたりするのも,ようするに定型との間でコミュニケーションがとりにくいことが目立つからですよね。

 で,このコミュニケーションがとりにくい,という感じは定型がアスペの方に感じるだけではなく,逆にアスペの方が定型(あるいは場合によってほかのアスペの方とも)に対して感じることでもあります。

 定型にもいろんなタイプがあるように,アスペの方もものすごくいろいろだという気がしますので,一概にいうことはむつかしいですが,少なくともここに来られてコメントをくださるような方についていえば,ずっとコミュニケーションに悩まれていて,その悩みの中には「相手のいうことがうまく理解できない」ことと「自分の気持ちが相手にうまく伝わらない」ということ,そして「相手への期待が裏切られ続けること」といったことが含まれているように思います。

 そういうことの結果として,相手から繰り返し叱責を受け続けたり,迫害されたりということも起こる。そうやって自分を他人から否定された場合,対処として考えられることは,「気にしない(無視する)」か「指摘されたことを参考にうまくできるように努力する」か,そのどちらもむつかしい場合には「うまく相手の期待に応えられない自分を責める」か「無理難題を押し付ける相手を責める」,といったことになっている可能性を感じます。「相手は相手,自分は自分とはっきりと割り切る」というのも「気にしない」というパターンの一つの対処法かもしれません。

 そんな風に考えてみると,これ,定型でも同じような状況に置かれれば,普通にそうなることですよね。ふつうは定型についていわれるカサンドラも典型的にそうでしょうし。

 違いは,定型よりもアスペの方のほうがそういう状況に追い込まれる可能性がすごく高いということです。なぜ可能性が高くなるかといえば,大きな目で見れば,世の中の仕組みが定型優位で作られているので,矛盾は少数派にしわ寄せされやすく,厳しい状況に追い込まれやすいということがあるでしょう(家庭では定型アスペが逆の立場になることもあり得るわけですが)。アスペ的な感覚で自然な振る舞いが,多数派によってみんなから否定されるわけですから,孤立してしまいやすいわけです。

 それに加えて,人によってはキキさんが言われているように,自分の体の中でもバランスがとりにくいことがあって,それが原因の一つになる可能性もあります。(ただし,コミュニケーションの問題から体の問題に行くこともあると思うので,どっちがどっちなのかはすぐにはわかりませんが)

 
 さて,またバランスの話ですが,自分の中でのバランスにしろ,他人とのバランスにしろ,それが崩れた状態というのは人にとってはつらいわけですよね。病気というのは通常の体のバランスが崩れた状態ですし,人とうまくいかないというのもコミュニケーションのバランスが崩れた状態です。逆に言えば「健康的」な状態は,体のバランスがうまくいっている状態ですし,よい人間関係といわれるものもバランスがとれた関係になります。

 そういうバランスが崩れた時に,人はなんとかバランスを回復しようとします。病原菌が原因の病気なら,体はそのバランスを壊す原因となる病原菌を排除しようとしますし,体が疲れた時には休んでバランスを取り戻そうとします。「鬱」なども極度の精神の疲労状態で,体が強制的に自分を完全休業状態にしようとしている,というふうにも見えますよね。

 人間関係ではバランスにはプラスとマイナスの両方がありそうです。相手にお世話になったらお返しをしたくなる,というのは「恩をもらった」というプラスのほうのバランスの崩れで,これには「お返し」によって崩れを回復しようとします。これがマイナスのほうになると「相手にやられた」という崩れ方で,それに対しては「し返し」をする回復法になります。回復の仕方は「お」か「し」の違いでどちらも「返し」です(笑:すごい人はやられたら愛で返す,ということをしますが,これは大変な技ですね)

 ところで,この「仕返し」のほうですが(基本的な理屈はお返しも同じだと思いますが),自分が苦しい目にあったとき,その「原因」を見つけて,それに対して「仕返し」をするわけです。ところがこの「原因」というのが曲者で,同じことでも人によって理解が全然違ったりします。

 たとえばある人がお金がなくて困っていたとします。なんででしょうか?お金をもらえないからですね。なんでお金をもらえないのでしょうか?働いていないからです。じゃあなんでは働いていないんでしょうか?ある人は「その人が怠け者だから」というかもしれません。実際無気力状態に見えます。でも「じゃあなんでその人が無気力になったのか?」ということを問う人があるかもしれません。「もともとそういう性格だよ」と考える人もあるでしょう。「病気なんだよ。」「脳に問題があってね」「ホルモンバランスが悪いんだな」

 「親のしつけが悪いんだね」と言うひともありそうです。「友達に恵まれなかったんだ」「上司に悪いやつがいて,徹底してやられたんだ」「会社の対応が悪かったんだ」「いやそういう困難に耐えられないような人間を作る学校の教育が悪かったんだよ」「政府の政策がなっていないんだよ」「社会が悪いんだ」「時代のせいだね」……といくらでも理由が出てきます。ついには「それが彼の運命なんだ」「神様のお決めになったことだね」といった話にもなるかもしれません。はたまた「家の方角が悪い」「悪霊がたたっている」「前世の報い」「呪いの結果」なんていうのもあります。

 どの理由が「正しい」のか,ということをここで追及するのはむつかしいですが,ひとつほぼ確実に言えることがあります。それはその人が何を原因と考えるかによってその人の対処法が決まるということです。病気と思えばお医者さんに行く。親のせいだと思えば親を責める。上司が悪いと思えば上司を訴える(かあきらめる,会社を辞める)。政策が悪いと思えば政治的に対応する。呪いの結果と感じればお祓いをする……
 
 で,何に原因を求めるか,ということについて,もちろん人によってもいろいろになりうるんですが,でも世の中でだいたい多くの人が同じような理解になることがあります。たとえば病気の原因については,今は病原菌を探したり,ホルモンや神経伝達物質など体が作る物の不調に原因を求めたり,神経の回路に問題を見ようとしたり,何か形のある物,物のように扱えるもので説明して対処しようとするのがはやりで,実際多くの効果を上げています。そういう見方からすればお祓いで病気をどうこうしようなどというのは馬鹿馬鹿しいことにしかなりません。

 でも,漢方とかはまた見方が違うみたいですね。詳しくは知りませんが,気の問題とか,陰陽の理解とか,そういうことに目を向けて「全体としてのバランスの回復」を追求する。「気」という「物」があると考えるとおかしな話になりますが,自然も含めての「気の巡り」みたいなバランスのとり方,状態の崩れの問題としてみれば,とても重要なことを問題にして来ていると私には思えます。

 鍼とか灸とかは体を刺激することで自分の力でバランスを回復するきっかけを与えることなのでしょうし,自然治癒力の考え方に結び付きやすいのも自然なことでしょう。人を物として見て,物理的に対処しようとするより,心を持ったものとして考えて対処しようとしやすいのも同じようなことだと思えます。一見同じような病でも,その人の体質などを見て,対処法を変えていくというのも「その人の自然治癒力を生かす」という発想につながっていそうです。

 実際漢方も数千年にわたる治療の積み重ねの歴史を持ち,今も実際に生きているわけです。「お祓い」というのも,そんな形で気分を変える(気の巡りを変える)みたいな工夫として考えれば,あながち荒唐無稽というわけでもないでしょう。(私はやりたいとは思いませんが)

 つまり,問題が起こったとき,その原因をどこに求めるか,ということにはいろいろな考え方があって,そのうちあるものはその時々の「多数派」に共有されやすく,その場合,その問題に対してどう対処するかはお互いに理解しやすく,納得しやすい。そしてお互いに理解の仕方が同じであれば,一緒に対処しやすいことにもなります。それだとプラスのバランスの回復も早まることが多くなる。

 逆に言えば,その理解の仕方がずれている場合には,お互いに「なんでそういう対処をするのか」が訳が分からなくなるわけです。そうすると,相手のやっていることがめちゃくちゃに見える。コミュニケーションがうまくいかなくなって,傷ついたりすることがあって,「なんでそうなるのか」と考え,その時に思いついた「原因」に対して,マイナスのバランスを回復するために相手を攻撃し始めることがある。

 それはその人にとってはものすごく理屈に合った行動なわけですが,相手からすると理解の仕方が違えば,まったく理屈に合わない。「本当の原因」を見誤って「八つ当たりをしている」というふうにも見えてくるわけです。「この病気の原因はあの一族の怨念が原因だ」とかなれば,その一族を滅ぼそうとするかもしれません。でも,相手が「自業自得だ」とか,違う原因を考えていれば,そんなのめちゃくちゃな話になります(世の中そんな話であふれていますが)。

 定型アスペ関係では,そんなふうに感覚の違いなどでコミュニケーションがうまくいかずにバランスがくずれ,その原因を探ろうとしてその理解の仕方にずれがまた起こり,対処法が食い違うのでさらに問題が深刻になり,さらに崩れたバランスを最後はマイナスの方向で回復しようとする,といった展開が起こりやすいのかなと,そんなことを思うのでした。

 

  

2016年2月27日 (土)

宝の山と正しい答え

 キキさんの次のコメントを読んで「ああ,そうかあ」と深く思ったことがありました。

「 ここでは、色んな役割になっていった方たちのコメントが読めるので、とても楽しい(すみません、ばかにしてるのではなく、自分と同じように感じる方をみつけたり、違う考え方からの発見など、宝の山のように思えるんです)。」

 私はなんとなく無意識のうちに「正しい答え」をやっぱり目指していたところがあるように思いました。もちろん自分が正しい答えを持っているという思いは全然ないので,ほかの皆さんの意見を教えていただきたいし,そこから学び続けています。また逆に「私は正しい答えを知っている」という感じの意見に出会うとげんなりしてしまいます。でも,そうやってみんなでいろんな見方を持ち寄ることで「正しい答えにたどり着こうとしている」という感覚がどっか残っていたんだなと思いました。

 でも,永遠に「正しい答え」になど,たどり着きようがないのです。科学にしたって宗教にしたって,「これですべてが解決」という答えが出されたことは一度もありません。一時期,ある限られた問題について,ある程度の人々にとって説得力がある「解決」が得られることは確かですし,それも人が現実に生きていくうえで大事ですけれど,でもそこまでのことです。それこそ私たちが真剣に悩んでいる「アスペルガー」というものも,せいぜい70年ぐらい前に作られた新しい概念ですし,それももう今はDSMの診断名からは消されています。

 精神科の病名だって,私が学生時代に読みかじった名前や分類は,もうすっかり変わってしまいました。

 鳥だって,昔私が勉強したころは爬虫類で変温動物の恐竜から進化した別のものとか教えられましたけど,今ではもうほぼ恐竜の直接の子孫みたいに考えられるようになってきています。(つまり,鶏肉を食べると,恐竜を食べてることになる? (笑)) そもそも分類の考え方も全然変わっちゃってるみたいだし。

 宗教だって,世界三大宗教の歴史は,最も長い仏教だってたかだか2700年くらい前からにすぎません。そんなの人類の歴史の長さからいえばほんの一瞬といってもいいし,しかもその中身もどんどん変わってきているんですよね。「自分たちこそ正統」みたいな争いも絶えないし。「それはよくない」と考えても,それを現実に解決できる方法も,私は知りません。

 「今より正しい答えを求めようとする」こと自体はおかしなことではないという気がします。それは人が「今より良い状態」を求めて努力する姿ですし,少なくとも「現状維持」を目指すのは自然なことで,「今より悪い状態を望む」ということはあっても例外的なことでしょう。結局生きるってそういうことなのかなと思います。

 でも,そのことと「正しい答えがいつか得られる」という話は別のことです。

 人はひとりひとり生まれながらに持っているものも,生まれた後に経験することも,みんな違います。ひとりとして同じ人はいない。ある人にとっての真実が,別の人にとっても完璧に真実であることなどないわけです。せいぜい大雑把に共通するだけ。

 そういうお互いに違う人間同士が,それでも交わりあって,一体感を感じるときもあり,またずれを感じるときもあり,行ったり来たりしながら生きています。ある時には相手を理解したように感じ,またしばらくするとわからなくなり,その繰り返しです。いろんな違う見方を突き詰めることで共通点が見えてくることもあり,さらに突き詰めていくとまた違いが見えてくることもある。どこまでいっても終わりはありません。

 でも,それが生きているということで,その生きているということについて「今より良い状態」をそれぞれの人が求めているわけですよね。

 そこでキキさんのコメントに戻ります。

 キキさんがこの場のやりとりを「宝の山」のように感じられているのは,そこにキキさんの悩みを一挙に解決してくれる「正しい答え」があるからではありません(と思います (笑))。そうじゃなくって,いろんな見方,自分にとって「そうだよね」と思えるものも,「へえ,そんなふうに見るんだ」と違和感も含めて知るものも,いろいろにある,それらがどれもキキさんにとって刺激になるもので,キキさんが「次」を考える上で糧になるもので,だから「宝の山」なんでしょう(と思います。間違ってたらごめんなさい)。

 だから,「正しい答え」は,ある意味必要ないんです。人によって,その時その時に,役に立つ見方や知識はそれぞれです。何が大事なのかはあらかじめ決まらない。だとすれば,必要なものは「いろんな見方や知識」の積み上げなんでしょう。

 しかも,単にガラクタを集めただけでは宝の山にはなりにくい。誰にとってもどうでもいいようなこともあるからです。でも,ここに寄せられるコメントは,すべてその方がその方の人生を生きる中でどうしても気になったり,こだわったりする問題です。だから,その一つ一つが,言ってみればその方の人生という「ふるい」にかけられて,精選された見方や知識であるわけです。だからほかの方にとっても宝になる可能性が出てくる。しかもそれをお互いに交流する中で,さらに磨きがかかっていく。

 そんなことを感じられるから,キキさんはごく自然にこう思われるんでしょうね。「私も皆さんのヒントになるようなコメントを書けたらいいな、と思っています。」

 自分が宝の山から宝物をもらえたと思ったら,面白いもので人は「タダ取りして終わり」にならないようで,なんか自分も「お返し」したくなるんでしょう。(まあ,ある程度人によってそのあたり差はありそうですが (笑) ) これ,たぶん「バランス」の話にもなるのでしょうね。そういう感じが出てくると,ますます積み上げられる宝物が増えていくことになります。

 いろいろぶつかり合いもありながら,でもそうやって宝の山が積み重なっていくということが,このブログや掲示板の役割なのかなと,そんなことを感じましたし,改めて「正しい答え」を示さなければならないなどという「間違った答え」にこだわる必要がないことを確信しました(←って,これは正しい答え???)。
 

 

2016年2月24日 (水)

バランス

 定型アスペ問題の一番の鍵は,要するにバランスのとり方の違い,そのずれの問題なんだなと思いました。一人の人の心の中のバランスと,そして人との間のバランスと,その両方のバランスのとり方。

 持って生まれた条件の違いで,周りの世界の感じ方が異なり,その結果それぞれの世界に適応して自分のバランスを保つためのやり方も異なっていき,そしてお互いに異なるバランスのとり方をする者同士が接するときに,そのずれによって対立が生まれる。

 だとすれば,私たちの課題はどういう条件の違いが,どういう適応の仕方,バランスのとり方のずれを生み出し,そういう異なったバランスのとり方を持つ人間同士がどうやってそのずれを前提にした新たなバランスを作っていくのか。そこを整理し,考えていくことになるのでしょう。

 いろいろありますが,煎じ詰めていけば,そういう比較的単純な問題であるようにも思えます。

2016年2月23日 (火)

空を切る

 アスペのパートナーをお持ちの定型男性キリンさんが私の記事「子ども心」に寄せてくださったコメントに,キリンさんも私と同じように,パートナーに向けた気持ちがうまく受け取られずに空を漂ってしまう体験について書かれていました。

 「ああ,ほんとにおんなじだ」と私は感じて,なんだか救われた気持ちになったのですね。自分だけがやりとりが「へたくそ」だったり,なにかこちらに原因があるんじゃないと改めて思えたことも大きいのかもしれません。

 で,これも改めてしみじみ思ったのですが,定型アスペ関係で定型が精神的にきついときは,この「気持ちのやりとり」とか「気持ちの交換」が期待通りに進まず,自分が込めた気持ちが行き場を失って宙に浮いてしまう場合が多いんだろうなと思えました。

 ひとのコミュニケーションというのは,物や言葉や気持ちのやりとりなわけですけど,そのやりとりがずれちゃうんですよね。で,定型的な期待からすれば「裏切られた」ことになる。(もちろんお互い様のはず)

 こんなたとえを思い出すんですが,ボクシングで相手にパンチを繰り出すとき,相手にブロックされるにしろ,ヒットするにしろ,そのパンチが相手に受け止められ,届いたときに比べると,空を切ってしまった時の消耗は倍ぐらい大きいという話を聞いたことがあります。

 定型アスペ間では,そういう「空を切る」ことが多くて,それで精神的な疲労,ダメージがきつくなるのかなあという気がします。

 そういうダメージを受けないためには,一番いいのはちゃんと相手に届くやりとりにすることですが,現実問題としてはそれは簡単なことではない。だとすればとりあえず比較的やりやすい現実的な方法は,仮に空を切ってもダメージを最小限にする工夫でしょうか。具体的にはあまり強い気持ちや期待を込めることなく,ボクシングでいえば軽いジャブの応酬のような形で少し腰を引いてやりとりすること。

 もちろんそうするということは,定型本来の期待の持ち方をものすごく薄める形になりますから,ダメージを受けないために払う代価も小さくはありませんけどね。

 

2016年2月21日 (日)

しつけと定型「操縦法」

 昨日の記事「子ども心」で,「一緒に相談しながら問題に取り組んできた」→「アドバイスも効いて,うまく対応できた」→「これを報告して『よかったね』と言ってほしいor一緒に喜んでほしい」という,学習できない私の「子ども心」について書きましたが,それからふと,あ,これって報連相の話につながるな,と思いました。

 アスペの方は報連相,つまり報告,連絡,相談がうまくいかずに職場などで苦労する,という話ですね。それは実際に業務に支障をきたすこともあるんだと思いますが,多分それだけじゃなくて,この「子ども心」を定型が満たされないので,感情面で不満がたまることがあるかもしれないと思いました。そしてたとえばこんな展開があるかも。

 定型の方は必要な報告がされていないように感じるので,「こいつは常識を知らないやつだ」という見方になって注意をする。けれども,アスペの方からすれば最低限の必要な情報伝達はやってるのだから,何も問題ないはずと思って,何を文句を言われているのかよくわからない。よくわからないから対応のしようがない。でも文句を言われるから,とりあえずいつもより「こんなこと余分なことだけどなあ」と思うようなことまで報告してみるけど,今度は逆に「そんなこといちいち言わなくてもいい」とか怒られたりして,ますますわからなくなる。

 そうすると定型の方は自分にとってはあまりに当たり前の,説明する必要もないようなことについてしばしばずれた対応をされて,いくら注意をしても効果がないので,いら立ちが募ってくる。だんだん「こいつはよほど抜けているのか,それとも俺を馬鹿にしているのか」と疑う気分になってきて,いら立ちは怒りになってくる。

 アスペの方は自分が一生懸命頑張ってやってるのに,全然認めてもらえなくて,つらい思いをしているところに,上司は情け容赦なく叱ってきたりするので,ますます委縮してしまい,何かまた怒られると,自分自身にも腹が立ってきたりして,知らず知らずに(自分に対してとか,自分の運命に対してとか)怒った表情になったりする。

 上司の方からすると,相手を怒っているのに,反省する姿勢や態度ではなく,怒りを自分に向けてきていると感じ,「なんとずうずうしい,反抗的な奴だ」とショックを受け,怒りのボルテージは一挙にあがり,激しく怒鳴りつけるか,あるいは「もう,こいつには何を言っても無駄だ」と見切りをつけ,排除の対象にしていく……。
 ま,いつものながら私の勝手な想像ですから,どこまで実際にそうなのか,よくわかりませんが,なんとなくありそうな気もします。で,そうだとすれば,この報連相問題,たんに技術的に何を伝える必要があるか,そいうことだけでは終わらず,定型の「子ども心」が満たされるかどうか,という問題も結構効いている可能性があるわけです。定型の側は「気持ちの共有ができないやつだ」と感じやすくなりますから,そうすると「こいつは自分の仲間にはならない」という判断になりやすい。

 まあすごく有能な人であれば「利用」の対象にはなるでしょうけれど,他の定型と同じような仕事ぶりの場合には,定型は仲間大好きですから,自分と仲間になってくれそうにない部下は当然優先順位も下がります。さらに「態度がふてぶてしい」とか「反抗的だ」「可愛げがない」と感じられたりすれば,「敵対的」と思われるわけですから,優先順位どころではなくなるわけですね。激しい差別待遇にもなりえます。


 さて,それでもうひとつ思ったことです。 

 アスペの方からすれば,定型の気持ちの動き方はなかなか理解しにくいわけですから,「共感的に対応する」ことは当然とてもむつかしい。で,アスペの方が定型社会に適応するには,基本は「パターンを読み解く」という形になります。それ自体もなかなか大変な作業ですし,読み解いてうまくいったと思えば,そのパターンを使って大失敗することもある。そのパターンを使えるところと使えないところの区別がまた定型的なので,そこが読み解きにくいからです。

 そういう苦労を重ねながら,でもさすがに経験値が上がっていきますから,だんだんとできることが増えていくこともある。この辺は同じアスペの方でも得意不得意がありそうで,比較的スムーズにこなす方と,それ自体かなり苦労される方があると思いますが,いずれにせよ少しずつでも適応可能な部分が増えていく傾向はあるでしょう。

 で,いつもそうやって「頭で考えて実行する」という形で定型社会を生きていきますから,これは大変につかれるわけです。常に周りの状況を計算し続けなければならないですから,そこに費やすエネルギーは膨大になる。仕事が終わるころにはもう精根尽き果てて,暗い顔にもなりがち。で,「根暗」とかも言われる。

 なんにせよ,アスペの方にとって定型社会への適応ではこの「パターンの習得」がひとつの有力な武器であるわけです。

ちょっと視点を変えると,この「パターンの習得」をうまくやっておけば,それで定型の子ども心は満たされて「うん,かわいいやつだ」となって満足度が上がるわけですから,アスペの方が定型を「操縦する」武器にもなるわけですよね (笑)

 
 それで,そこから長年の疑問の一つが解けたように思うんですが,その疑問というのは「礼儀」というやつが一体なんなのか,ということです。

 私は型にはまったことが苦手なタイプで,型にはめられるのもいやでしょうがないわがまま人間ですから,「礼儀」なんてわけわかんないわけです。「形」ばかりこだわって,そんなもの「心」がこもってるわけじゃないし,「虚礼」という言葉がありますけど,そのままでしょう,とか思ってしまう。そんなのうわべだけで人を欺いているようなもので……,とこの辺はアスペの方の気持ちがわかるように感じる部分でもあります。

 でも,たとえば定型の子ども心を満たさないとこの定型優位社会では生きていきにくい,ということになると,「定型が満足できる応答のしかたのパターン」を身に着けることが大事なわけですから,そこで「わりと定型が共通して満足しやすいパターン」が「礼儀」として作られていき,それを子どもたちに教え込んでいくようになる。これは定型同士でももちろん効果を持つわけですが,そういうパターンを提示されることはアスペ的な子どもたちにとってもとてもわかりやすく,習得しやすいわけです。

 定型の子ども心がわかりにくくても,この「礼儀」というパターンを習得して活用していけば,アスペの方でもある程度うまく定型を「操縦」することが可能になる。多少ぎこちなく,堅苦しく感じられても「あの人は礼儀正しい人だ」というプラスの評価にもなりやすいですし。

 そうすると,この「礼儀」というもの(これも一種の共同幻想ですが)は,お互いに理解がむつかしい定型とアスペをぎりぎりつなぐひとつの工夫という面も考えられるわけですね。もしかすると○○流とか,礼儀作法を作り上げた人には,ものすごく頭のいいアスペの方たちもいたのかもしれません。自分の経験で苦労して作り上げたパターンを整理して体系化したわけです。

 で,今の世の中,私のように型にはまることが嫌いなわがまま人間や,あるいは人を型にはめたくないやさしい人間が増えましたから,それは自由が増えるということではいいんだけど,逆にアスペの方がそれまで頼りにしていたパターンを失って,「各自自助努力で工夫せよ」という世界になってしまう面がある。世の「自由化」の中でどこでも起こることですが,それは激しい弱肉強食の世界にもなるわけです。

 そう考えると,今の世の中で「定型アスペ問題」がシビアになってきたのは,ひとつにはこれまで何人かの方が言われていたように,「昔は問題を隠してきたが,今は隠さなくなって,ちゃんと取り上げられるようになってきた」という面が一方で確実にあると同時に,昔は「パターンの共有」ということで折り合いをつけてきた部分が失われてきたために,摩擦が起こりやすくなった,という面があるのではないかと思えます。

 

2016年2月20日 (土)

子ども心

 なんか,やっぱり定型はこどもなのかな,とふと思いました。いや,他の定型の皆さんすみません,私が特にそうだということなんだと思いますが,でも傾向としては定型はそういうところがあるような…… ('◇')ゞ

 
 うちも世の習いで介護の問題を抱えているわけですが,そこで問題になりやすいことのひとつに,老人の運転の問題があります。運転できるかどうかで世界の広がりがすごく変わることもあるので,本人にとっては大事なことですよね。でも,実際現実問題としていろんな力が衰えてくるので,危険が増していきます。

 私の母親の場合は,認知症が入り始めていることもあって,突然鍵の扱いがわからなくなってしばらくパニックになったりとか,実際私の目の前でも心配なことが起こるわけです。だから,何しろ本人もそうですし,他の方の命にもかかわる問題ですから,もう運転はあきらめてほしくて,車は手放してほしいと深刻に考えるわけですが,本人には衰えている自覚があんまりなかったりしますから,その説得がむつかしい。

 半年くらい前に一度チャンスが訪れて,ああ,これでうまく手放してくれるか?と思ったところが,これは母親特有の問題があって,コロコロいうことが変わるもんですから,その時も結局ダメでした。で,パートナーにもいろいろ知恵をもらったりしながら次のチャンスをうかがっていたんです。

 それがちょっといろいろあった中で,昨日すっとうまくいったんですね。(というかまだ「いきそう」という段階ですが) 話の持って行き方もかなり気を使って,それがうまくいきました。

 で,パートナーもその問題には心配してくれていたので,私はうれしくなって,今朝,さっそく彼女に伝えたんです。そしたら,「ああ,そう」とやや朝の不機嫌気味(に聞こえる感じ)に言われて,そのあとは関連する具体的な手続きについて指示や注意を与えられておしまいになりました。

 で,そのときに「ああ,やっぱりこういう展開ね」と頭で思いながら,心はまた宙に浮いてしまいました (笑)

 私もほんとに学習しない人間だとつくづく思うのですが,なんとなく無意識にこういう「気分の構え」になっちゃうんです。つまり,「一緒に相談しながら問題に取り組んできた」→「アドバイスも効いて,うまく対応できた」→「これを報告して『よかったね』と言ってほしいor一緒に喜んでほしい」

 そして現実には上のような展開になって,気持ちの受け渡しがそこでぷっつんしてしまうわけです。で,「ああ,渡した私の気持ちが空にただよっている~」みたいな気分になってしまう (笑)

 
 考えてみると,子どもってなんか自分がやってできたことを,よく「見てみて!」とか親に求めてきます。 で「よくできたね!」とか言われると,うれしそうに満足して離れていく。それからまた「ほめてもらいたくて,次を頑張る」みたいなことが起こる。

 今回のこともそれと同じじゃん!とか思いました (笑)

 だとすると,もしかしてアスペ的に見れば,「子どもだなあ」と感じられたとしても,まあそうなのかなとちょっと納得。とは言ってもほめてほしい子ども心はなくならず~ 


  

2016年2月19日 (金)

水入りのご提案

以下の記事,アップした後で,とても傲慢な内容のようにも思えてきました。不快になる方もあるかもしれませんが,いったんアップしたものを,本筋を変えて変更することはルールに反しますので,私の限界を示すものとしてお読みいただければと思います。

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 掲示板での今回のテーマのやり取りについて,いったん水入りを提案させていただきます。


 まだいろいろやりとりすべきことは多く,重要な問題がたくさん提起されていると思っています。それだけ深刻な,解決されていない問題が山積みなわけですし,厳しい対立が起こるのも,ある意味では避けがたいことだと理解しています。
 あとは,ギリギリのところでどこまで相手を大事にできるかでしょうか。


 こんなことがありました。
 もうずいぶん前のことです。パートナーと感情的なやり取りになって,彼女が耐えられなくなって泣くようにして隣の部屋に行ってしまったのです。私はびっくりして,追いかけて「大丈夫?」と手を差し伸べようとしました。そうしたら彼女は恐怖におびえた表情で,「ごめんなさい,たたかないで,たたかないで」と懇願するように言うんです。

 本当にショックでした。もちろんそれまで一度も私はそういう暴力的なことをしたことはありません。それ以降もそんな考えを持ったことは一度もありません。耐えきれずにドアをきつく閉めたとか,そんなくらいです。

 ですから,そんな風に自分が見られていたということに,ものすごくショックだったのです。自分はそんな人間にしか見られていなかったのか。そんなに信用されていなかったのか。半ば人格全体を否定されたような衝撃でした。

 定型アスペの問題にまったく気づかない時期のことでした。
 あれが一体何だったのか,今も私はよくわかりません。以前と違うのは,定型的な感覚でそれを理解してはいけないのだ,というところまでです。それは信用されているかどうかの問題とは多分ちょっと違うのですよね。じゃあなにがどう違うのかまではよくわからないのですが。


 定型アスペ間でほんとにむつかしいことの一つは,この相手に対する「信頼」とか「不信」の合図の送り方に深刻なずれがあることだと思います。そのズレにかすかに気づき始めた方は,そこに少し慎重になりますが,気づかない場合は暴走を始めることも少なくありません。そうなると,もう相手が何を言っているかは見えなくなる。その点で,定型もアスペも変わりはないような気がします。

 厳しい議論は時にどうしても必要だと私は思います。ただ,根本的なところであからさまに相手に不信感をぶつけるような展開になり始めたときには,やはり一度水入りが必要になると思います。これはごまかすためではなく,ちゃんと考える時間をとるためです。


 今回の展開について,私自身は本当に重要な問題,おそらく定型アスペ問題の一番の芯に触れるような部分に近づいたように感じています。だから,みんな余裕がなくなります。自分の一番の痛みが刺激されるところだからです。必死で守ってきたかさぶたがはがされやすくなるからです。

 でも,楽観的過ぎるとお叱りを受けるかもしれませんが,私自身はこれまでの炎上とは質の違いを感じています。ガーディナーさんも書かれていたように,みなさんの言葉の多くに,ほんとにギリギリのところでの,場への信頼のようなもの,あるいは信頼というのは安易に過ぎるとすれば,願いのようなものを感じるからです。

 願いが大きいから,場合によって裏切られた感も大きくなります。お互いの願いがずれてしまうからでしょう。「こんなはずじゃなかった」という思いが激しく渦巻いてくる。それまでのすべてが虚構,ごまかし,うわべのきれいごとにも見えてくるかもしれません。

 でもそういう激しい渦巻の中に,今私は確実に,そうでない芽吹きを感じています。楽観的なお笑い種に感じる方もあるかもしれませんし,まああるいはそうなのかもしれません。神ならぬ身の私に正しく把握できるはずもありませんが,でも私の勝手な思い込みとしてはそうです。

 あとはそんな気持ちを共有できる方がどこまで多いか少ないか,それによって,今後の展開に多少の進み方の違いが出てくると思いますが,まあでもいずれにしても大きく見れば前に進むと感じています。また改めてそのうちに書きたいと思っていますが,この議論の中で私にはほんとに大きな発見もいくつかありました。みなさんのぎりぎりの言葉の中に,大事な手掛かりをいただいています。


 ということで,「臭いものにふた」ではなく(あ,みるきさん,他意は全くないので,単に言葉として使っているだけですよ ),この真剣な対立を寝かせて発酵させてみることができればと思います。手入れが悪いと腐ります。悪臭を放ちます。上手に発酵させれば芳醇な香りになるでしょう。そこはみなさんの腕次第。それぞれの皆さんの腕に期待するばかりです。

 いつまで発酵させたらいいのか,よくわかりませんが,まずは2週間くらい?
 なにかこの件水入りの件についてご意見があれば,またよろしくお願いいたします。
 なお,普段通りのそのときどきに思ったことを綴る記事については,私の方は趣味でぼちぼち書かせていただこうと思っています。よろしければそちらの方もお付き合いください。



 

2016年2月17日 (水)

笑顔

 いつものように先に仕事に行く彼女を玄関に見送って,いつものように向こうを向いたまま聞こえるか聞こえないかの声で「いってきます」と言う彼女に,見られることのない笑顔で「いってらっしゃい」と言って,彼女が出て行ったあとドアの鍵を閉める。

 うけとられることのない,宙に浮いた笑顔のように感じ続けていたのですが,なんとなく彼女の背中がそれを受け止めてくれているのかなと,そんなことを今日は感じました。

 ……って,ほとんど妄想の世界かもしれません ('◇')ゞ

2016年2月16日 (火)

歩く

二人の人が並んで立っていました。

二人は前に進まなければと言い合いました。

そのうちの一人は,右足を一歩前に出しました。

もう一人は左足を一歩前に出しました。

右足を出した人が,もう一人を見て,「お前,右足出してないじゃないか。おれは出してるのに,卑怯だぞ」と言いました。

左足を出した人が相手を見て「お前,左足出していないじゃないか。おれは出してるのに卑怯だぞ」と言いました。

二人は「前に進もう」と約束したのに,相手に裏切られたと思いました。

その二人のけんかをみていた人が,それじゃあいけないと,一度に両足を出そうとしましたが,それができずに転んでしまいました。


右足を出すためには左足を残して支えにしなければならない。左足を出すには右足を残して支えにしなければならない。

片足を出すためにもう一方の足を残さなければいけない悲しさと,そのことでかろうじてもう一方の足を前に出せるうれしさと,その二つを抱えながら生きるのが人間という気がします。


その悲しさとうれしさを共に見つめられることが,人のやさしさなのではないか。最近そんなことを思うようになりました。

2016年2月14日 (日)

潤い

 このブログがきっかけになって生まれた本「アスペルガーと定型を共に生きる」の2刷りが出ることになりました。もともと印刷部数も少ない本で,ほんとに少しずつですが,でも地道に息長く読まれてきました。出版社さんも今後もそんな感じで読まれていくと考えてのことです。

 読者の書評で,定型アスペ夫婦の葛藤をまじかに見てきた娘のはるなさんのあとがきに言及されているものがいくつかあります。


「アスペルガーに関して、本を出すことになるかも。」電話で母にそう伝えられた時、私の頭の中では様々な思いがめぐりました。数年間ずっとお互いを傷つけあっているようにしか見えなかった二人の様子、父がアスペルガーかもしれないと聞いた時の衝撃、上手くいき始めたらしい現在の状況・・・。母や父を責めるつもりは全くありません。しかし、今になって振り返ってみると(自分で言うのは少しおかしいかもしれませんが)、やはり子供から大人へと成長していく思春期の時期に両親の喧嘩が耐えなかったこと、母がいない環境を味わったことは、私の人格のベースとして深いところに残っていると思います。」

 こんな書き出しではじまるそのあとがきです。終わりの方にはこんなことも書かれています。

この本が「アスペルガー」と「アスペルガーでない人」が共にどう生きるか、というよりも、「二人の違う個性をもった人間がどう生きるか」ということを扱ったものとして、多くの人に読まれることを望んでいます。」


 ここには引用しませんが,その中の彼女の言葉を読んで,涙が止まらなかったという方もありました。思春期につらく苦しい思いを体験することになった定型アスペ夫婦の子どもたち,はるなさんもそうですし,私の家も同じです。そんなつらい体験を私も子どもにさせてしまったことに,本当に言葉もないのですが,それでも生き抜いてくれたことにただ感謝の思いです。そしてその苦しみの中で,それでも自分の道を切り開いていってくれたことに尊敬の思いです。なんだか情けなくも親子の立場が逆転していますが……

 なんの傷も抱えずに生きていられる方があるのかどうか,本当のことは私にはわかりません。でも,多かれ少なかれ,だれもが傷を抱えて生きているんでしょうね,きっと。そして定型アスペ関係はその傷がほんとに深刻に深まっていきやすい。定型は知らず知らずに自分の常識でアスペの方を苦しめ,時に深く傷つけ,アスペの方は深く傷つきながら,これもまた知らず知らずに定型を傷つける。

 そんな傷つけあいの連鎖は,何も定型アスペ関係にはとどまりません。周りを見ても,世界を見ても,テレビを見ても,そんな連鎖ばかりが目につきます。そして自分もそういう連鎖からどうにも自由になれない。

 年末に「サンタの世界」でも書きましたけれど,そうだからこそ,私は夢を求めるのでしょう。でも現実から目をそらした夢ではなく,現実を見つめてその現実の先を見透かす形で描く夢であってほしいです。

 苦しみを知っているから,悲しみを知っているからこそやさしくなれる。やさしさにはそういうものもあると思います。はるなさんのあとがきは,そんなやさしさが言葉になっているのかもしれません。引き続き新たに本を手にした方が,はるなさんのあとがきに触れて,傷ついた心に少しの潤いを感じてくださればいいなと思います。

 

 

2016年2月12日 (金)

お化粧問題パート2

 「お化粧に夢見る定型?」を書きながら

「これはものすごく個人差が大きそうには思いますが,おおざっぱな話としては,定型はそこでそのあいまいな世界の「現実」の方により大きく気持ちが動き,アスペの方は「そんなの嘘じゃん」という方に気持ちが動きやすい。」

 と書いたことについて,定型が「現実」の方に,そしてアスペの方が「嘘」の方に目が向きやすいのは,定型やアスペの性格の問題というより,その化粧のしかた(生き方)が自分にあっていてそれに現実味を感じるか,あわなくて嘘っぽく感じるかという,経験の問題が大きいんじゃないかという気もしました。

 そうしたらさっそくコメントであすなろさんからそこにつながる大事なポイントを指摘され,しかもそれがお子さんについてのリアルな体験に裏打ちされていたもので,ああやっぱりそうなのかあ,と感心して(?)しまいました。

 あすなろさんのお話がすごいのは,現に「アスペ的人生観」を育てつつあるお子さんとリアルに付き合い続け,そのプロセスを一緒に体験されてきているからなんだろうと思います。すでにそれまでに定型社会の中でさんざん苦労されて,ある「アスペ的生き方」が固まってしまった状態で,定型から「アスペとはこういうものだ」という烙印を押されるのとは違い,アスペ的な特性を持ちながら,周囲とのやりとりの中で自分なりにその生き方を自ら選択し,作り上げていっている姿がリアルに感じ取れます。

 当然,周囲の人との関係が違うものであれば,その人の「アスペ的生き方」もまた違ったものになるでしょう。アスペの方にも多様な人生がある。多様な価値観がある。だから定型との間にも,いろんなかかわり方がある。もしかすると定型よりもそこが一度決まると変化しにくい,とかいう傾向はあるかもしれませんが,でもそれも絶対ではない。ガーディナーさんのお話など聞いていると,ほんとにいろいろ生き方を模索して変えながら来られているわけですよね。キキさんは中学で変えたとのことですし。あすなろさんのお子さんもまさにそういう模索の過程を過ごされている。

 定型もおかれた環境や経験によっていろんなふうになる可能性があるように,アスペの方も同じだということが,以前に比べて私にはだいぶんリアルに感じられるようになり始めました。ということは,つまり私たちの工夫次第で,定型アスペ関係はいろんな形になる可能性がある,ということでもありますよね。どこまで行っても定型アスペの関係であるという基本線は動かないのでしょうが,でもそれは固定した一種類ではないわけです。

 その可能性をどこまで具体的に見極めることができるか,どこまで知ることができるかによって,悲惨な形での定型アスペ関係ににっちもさっちもいかなくなっている両当事者にも違う可能性が見えてくるかもしれません。そうなるといいですね。

 表題に戻ると,定型アスペの違いは,お化粧をするかどうかの違いというより,どういうお化粧をしようとするかの違いであり,そこで定型的なお化粧に絶望的な思いになったアスペの方の中に,お化粧そのものを否定する方も出てくる,という,そんな解釈の可能性もあるということなのでしょう。そんな視点にこれからも注意してみたいと思います。
 

2016年2月 9日 (火)

お化粧に夢見る定型?

 今日も定型がしばしばアスペの方の発言に傷つくのはなぜか,という話です。定型的な説明のしかたではそれは「アスペが人の気持ちを考えないから。思いやりにかける。人の気持ちをわからない」という説明の仕方になることが多いわけですよね。でもアスペの方にはこれが多分わかりにくくて,定型の会話は正直さに欠けていて嘘っぽく感じたりする。

 以前にこの問題について書いたときは,ひとつは定型が「化粧を大事にする」というたとえ話で考えてみました。整形はもっと激しくそうですけど,化粧というのはある意味「嘘の自分」を作って人に見せることですよね。で,そういう化粧をしている女性(男性も?)に惹かれる側は,もちろんそれは素顔ではないことはわかっているんだけど,でもその化粧をしている相手に引き付けられる。

 そこで「まあ○○さん,きれい!」とみんながほめたたえて本人もうれしい気持ちになっているところに,「それってお化粧だよね。お化粧は上手だね」とコメントしたとしたら,みんな白けて○○さんはショックでしょう。それがもしかすると定型的な世界なのかも。

 これって,少し言葉を変えると,「(化粧している)私ってこういうのが理想なの」という相手に対して「僕はそういう理想は好きだな」と応じて,そこで「理想」が一致すると恋愛関係が成立みたいな,(ちょっと漫画チックな単純化ですが(笑))そんな世界が成り立っていることになります。

 それって,「素顔じゃない」という意味では嘘の世界ですし,「理想を共有している」ことでほんとに夫婦になっちゃうという意味では現実の世界のことです。嘘だけど現実で,現実だけど嘘,みたいな世界ですね(笑)

 これはものすごく個人差が大きそうには思いますが,おおざっぱな話としては,定型はそこでそのあいまいな世界の「現実」の方により大きく気持ちが動き,アスペの方は「そんなの嘘じゃん」という方に気持ちが動きやすい。

 これ,根が深くて,少し視野を広げれば,今の世の中なんてそういう「嘘」の塊でできています(しばらく掲示板などで「共同幻想」という言葉でも議論されていましたけど)。なんか今日も株価がどうのこうのというニュースをやってましたけど,あんなの嘘の塊ですしね。

 だって「実際の物(会社とか製品とか)」が変化するわけじゃなくて,ただそれに対する人気とか期待とか先行きへの不安感とかが激しく揺れ動くだけなわけじゃないですか。売れるとか売れないとか,実際にお金があるかどうかも関係あるけど,それより「お金を使いたい気持ちになるかどうか」みたいなことが大きいし。だからほんとは堅調な会社だって何かのきっかけで株価が暴落して没落することがある。それが一挙に世界規模で起こるのが恐慌ですよね。
 
 そんなふうに嘘で固めた世界によって,世界の経済が動いていて,お金で生きている限りは誰もそこから抜け出られなくて,それで人生が決まってしまったりするのが今の世の中なわけです。その結果戦争だって起こってしまう。

 ばかばかしいといえばこれほどばかばかしいこともないし,でもリアルといえばこれほどリアルな現実もない。人の人生や命がかかってますものね。

 というわけで,ものすごく乱暴な,みそくそ一緒の言い方ですけど(笑),今の定型優位の世の中は「お化粧でできている」と言えなくもないわけです。だからこの問題,すごく根が深い。

 で,みるきさんは定型的なものの扱い方について,こんなことを書かれています。

「あーなるほど、つまり根本的に定型さんはそんな汚い自分は見たくないし、見ないように努力していたわけか。綺麗な部分と綺麗な世界を信じて生きていきたいという人生観なのか。とやっと納得したわけです。」

 これについては先にも書いたように,かなり個人差はありそうですし,私の限られた経験からしても,社会によってもかなり違いそうです。私はみるきさんが指摘されているように「美しい世界」の幻想を見たい方なので,お化粧なしに汚い部分を突き付けられると,「ちょっと,それはないでしょう!」とか思っちゃうことがあるんですね。

 もちろん私も「汚い」現実もたくさん見てきていますし,自分自身の醜さも繰り返し思い知るわけですから,そこから目をそらそうとは思わないわけですし,だからこそ「アスペの方から見る定型のおぞましさ」みたいなことも,可能な限り理解したいと思っているわけですが,でもそれも含めてやっぱりハッピーエンドを夢見るところがあります。

 現実のおぞましさを直視する,という意味では韓ドラとか見てると,そういう人間の部分について容赦なくあからさまに描いているように感じられるものが多いですね。そこがまたリアリティがあって面白いんですが(笑)。見た目「美しい」,やさしさの塊のような「振る舞い」をする女性が,まさにおぞましいという感じの振る舞いを陰で行い,あるいは親しい人にはあからさまにそれを示す。

 でも,やっぱりそういう「おぞましい世界」を描き切った後に,どこかで救いを求めるのが多いんです。必ずしもハッピーエンドではなくて,当人はボロボロになって終わって,その子どもの代で救いが訪れるとか,そんな気の長い展開があったりもしますけれど。 

 最近,「あの野菊の如く」という,韓国ホームドラマの原点みたいに宣伝されているのを見てたんですが,まあとにかくお互い激しく傷つけあってすごいんです。泣きわめくは怒鳴りつけ合うは,自分はこんな世界は耐えられないな,もうプッツンしてこの人をぶっ飛ばしてるに違いない,とか感じることが繰り返されてました (笑)

 でも,それと同時に,その厳しい状況の中で,ものすごく人を思いやって生きている。あの,ぼろぼろに傷つきながらなお,思いやる気持ちのすごさは迫力ものです。そして最後はささやかな子どもの成長を喜ぶ家族が描かれておしまい。うーん,この展開でも最後はそこに落ち着けるか。となんだか不思議なような,少しほっとするような,微妙な気分になりました。

 といってももちろんそういう「ハッピーエンド」を望む気持ちは別に定型アスペに関係ないんだろうと思いますし,違いは望み方に表れやすいのかもしれませんね。まだよくわかりませんが,「理想の共有のしかた」と「醜さとの折り合いの付け方」のあたりに,もしかすると何かポイントがあるのかなあと思ったりもします。ほんと,わかんないですけど。

 

2016年2月 5日 (金)

最近の変化

 このところのブログでの新しい展開とともに、なんとなく自分の中での変化を感じるので、思いつくままに書いてみたいと思います。

 昨日みるきさんのコメントへのお返事の中で

 「最近パートナーの人間理解の方が私より余程的確に見ていると感じられることが増えてきたのですが、もしかするとアスペ的な世界への想像力が少しずつでも身に付き始めたことで、逆に私が定型的見方の限界とか、陰の部分に気づき始めたのかもしれません。以前なら感覚的に受け付けなかった彼女の話が所々納得され始めているんです。」

 ということを書きましたが、なんかそんな感じのことですね。もちろん、ここで「アスペ的な世界」といったところで、私が触れているアスペの方はごく限られているわけですし、私のそういった想像をここでのやり取りの中で手助けしてくださっている方は、アスペの方の中ではより積極的に人との交流を求めらる傾向が強い方かもわかりませんし、そこで想像されていることがどこまで多くの方に当てはまるのかもわかりません。場合によってはごく限られた「特別な資質」をお持ちの方との間では成り立つことなのかもしれませんし、それは何とも言えません。

 ただ、そうはいっても、ほんとにまれな方との偶然の一致という風には感じないのも事実です。なんでなのかなと考えてみるのですが、ひとつには記事に共感してコメントを下さるアスペの方が複数いらっしゃったということでしょうか。そしてそれぞれの方がご自分でご自分の「アスペらしさ」と思われている部分に記事の内容がつながっていると感じられている。

 その皆さんは、これまでアスペのこともいろいろ勉強されたり、日常でも接する機会が多かったり、悩みながら深く考え続けてこられたり、そういう経験をお持ちだったりするので、その方たちが共感してくださるということは、そんなにごくまれな偶然の一致ではないだろうなと感じられるのでしょうね。

 それから私個人の問題として言えば、パートナーとの関係が一番大きなテーマなわけですが、これまで理解できなかったり反発したりしていた彼女の言葉や振る舞いの中に、このところの私の想像力の使い方で、「ああそういうことか」となんとなく腑に落ちるものが増えてきたこともあります。

 彼女もアスペのことに関してはいろいろ読んだりして、自分がアスペであることは確信していますし、実際私が彼女の言動について理解できずに不思議に思ってここで記事で書いたりすることについても、これまでも何人ものアスペの方から「あるある」という感想をいただいていますから、「ああ、こういうことって多くのアスペの方に共有された問題なんだな」と感じられてきたわけです。で、そういう彼女のアスペ的に感じられる部分について、なんとなく腑に落ちるものが増えてきた。

 また、これまでつながりが見えてきにくかった、いくつかのタイプのアスペの方の中に、その想像力の使い方でなんとなく共通する世界が感じられるようになってきたことも、意味がありそうです。

 ここでのアスペの方とのやり取りでも、気が付くと「この方はほんとうにアスペなのだろうか?」と思ってしまうくらい(笑)、「通じ合う」感覚が生まれる場合もあります。これはネットの空間だからそうなりやすいということもあるのかもしれませんし、いわゆる「スペクトラム」の問題も関係するのかもしれませんが、いずれにしてもパートナーとなかなか通じ合いにくいところでもスースーと通じてしまう感じがあったり、そういう方たちがいらっしゃいます。

その一方で、その感覚がなかなか生まれないやりとりになる場合もあります。理由はよくわかりませんが、コミュニケーションのスタイルがすごく違う、という印象があります。スースー通じてしまう感が生まれる方との間では「コミュニケーションではこういうやりかたが大事」という「やりとりの暗黙のルール」みたいなものが共有されている感じがするのですが、通じ合いの感覚が私に生まれにくい方たちの場合、その部分でどうも結構大きなずれがありそうな気がするのです。

 ここでも時々紹介されていますけれど、アスペの方の中に(定型でも同じことですが)、激しいDVを引き起こすようなタイプの方もありますよね。多分「二次障害」の部分が大きいのではないかという気はしつつ、原因の理解は私にはむつかしいですが、そういう激しい攻撃的な姿勢などは、たとえば私のパートナーなどとは全然違って、そういう全然違って感じられるタイプの方をひとまとめに「アスペ」という言葉でくくって考えていいのか、ということも謎のままでした。

 そんなふうに同じアスペの方でも「スペクトラム」にも大きな違いがあるし、性格(?)的なところでもものすごくいろいろだし、それを一色単に考えてしまうと、すごく危険なこともあるんじゃないかとかはずっと気になっていました(し、今もそうです)。

 ただ、まだうまく言葉になりませんが、最近私に「腑に落ちる」感覚が生まれ始めたその想像力で、今までバラバラにも感じられてきたそういういくつかのタイプのアスペの方の姿に、なんとなくつながる共通の根っこのようなものが感じられてきています。その共通した世界をベースにして、その人の持って生まれた性格や、あるいは環境の違いの結果として、かなり違ったタイプが生まれていくような、そんな印象です。まだほんとにかすかな印象にとどまりますけれど。

 というようなことで、私がこのところ感じ始めた「アスペ的世界」は、ものすごく特殊な場合に限られずに、ある程度は広がりを持つ可能性をなんとなく私自身は感じているわけです。(もちろん単なる思い過ごしかもしれません ('◇')ゞ)

 そんな風にアスペ的な世界がなんとなく「腑に落ちる(なんかこの言葉便利。感覚的にわかるという感じの意味ですよね)」ものに感じられ始めて、そしてそれは何人かのアスペの方とそういう理解が共有される経験によって支えられて、「ああほんとにこういう別の世界があるんだなあ」ということが私の中で実感として感じられるようになってきた。

 そうなってくると、今度はアスペ的な感覚から見て、定型の世界はどう見えるだろうか、ということにも少しずつですが想像力が働き始めますから、今まで自分では気づけなかった別の「定型的世界の姿」が見え始めてきます。そうすると、なんであんな「偏った」「変な」「皮肉な」見方をするんだろうか、と反発したり拒絶感をもったパートナーの言葉について、「確かにそうも言えるなあ」という気になってくるのです。そして、ほとんどの定型の人はそういう自分の姿(の一面)について、「気が付いていない」だろうなあという感じも生まれます。

 ものごとにはどんなことでも二つの面がある、と私は思っていて、ある人にとってある場面では「よいこと」は、別の人や別の場面では「わるいこと」になることがあるし、長所は同時に短所でもあるし、やさしさと残酷さ、美しさと醜さも隣り合わせのような気もします。ただ人間はできれば「よいこと」を目指したいという気持ちを持っているし、長所を伸ばし、やさしく美しくなりたいという欲望もある(多分その気持ちの裏返しで、それを否定する人もありますが)。だから自分のよいところの裏面は、できるだけなくしたいし、見たくないと思うのだと思います。

 けれども、それは違う視点から見れば、全然違う姿が見えてくる。いわば「裏面」が見えてくるというわけです(裏のない表はありませんし)。アスペの方の言葉が、「思いやりがない」とか「人を傷つける」と定型から激しく非難されることがあるのは、実はそういう定型的世界の「影」の部分を、定型と異なる視点から見て、素直にそれを指摘するからではないでしょうか。そこは定型が見ないように一生懸命頑張っているところで、「それを言っちゃおしまいよ」という部分。

 だから定型的な「思いやり」はアスペの方の視点からは嘘っぽく感じる場合がある。そして定型は「本音と建て前」をものすごく使い分ける、というふうにも見えて、なんとなく不誠実な印象を受けることがある。

 あ、もちろん定型的な思いやりが意味のない嘘だ、と私が考えているわけではありません。それはとても大事なことだと思います。ただ、その同じことでも、視点を変えてみれば、場合によってとても否定的な意味を持つことがあるし、多くのアスペの方はその否定的な面に苦しんでいるのだろう、という気がしてきたという話です。注目するポイント、見方のずれが、気づかれることなく大きな不幸を生み出す「ことがある」、ということですね。

 なんか、そんなふうに私の「アスペ的世界」についての見方の変化と、「定型的世界」についての理解の変化がワンセットになって進んでいる感じがあります。そうすると、これまでアスペの特徴としてものすごく否定的に言われてきたことについて、違う見方が生まれてきますし、逆に定型的世界で素晴らしいとされてきたことについて、否定的な面が感じられるようにもなります。

 私が定型的な感覚から「これはおかしい」と疑いもなく感じてきたパートナーのいくつかの言動が、むしろそう疑いもなく思っていた私のほうの未熟さを表すものに感じられてくることもあります。で、逆に「世の中のことや人の気持ち」について「わからない人」と思い込んでいた彼女について、私よりもよほどその別の面について鋭く理解している人に感じられてくるのですね。

 こういう見方がどこまで広がりや深まりをもてるかわかりませんが、とりあえずはこんな感じでアスペ的世界(と定型的世界)の私の理解が進むような気がします。で、その際、「相手の世界は悪く見える」場合が多いわけですが、それは自分にとって困った面が強く意識されやすいからで、アスペの方からすれば定型的世界に苦しめられているから定型的世界の悪い面が目に付きやすい。そしてそのアスペ的世界を理解しようとすれば、アスペの方にとっての定型的世界のマイナスの面を理解しないといけないことになります。

 けれども、本当はその先に、アスペ的世界からみて定型的世界の良いところと素直に感じられる面もあるはずで(希望的観測 (笑))、そこまで見えてくるとようやく良い面悪い面についてのお互いの理解についてある程度バランスの取れた見方になるのかなという気がします。今はまだマイナスの面への注目を優先せざるを得ませんけど。

  

 
  

2016年2月 3日 (水)

伝え方の問題

 みるきさんがこれと同じようなポイントについてちょうど書かれています。ここでは私の体験と、そこから感じたことを。


 私とパートナーがそれぞれの仕事について話をしていたのですが、彼女の職種が抱える問題点について、彼女がとても憤って話すとき、いつものように私はなんだか私が責められているような印象を与えられ続けました。これまでも不可解でなんどか記事に書いてきた問題です。

 もちろん私自身がその問題点の原因ではないし、別に彼女の意見に反対しているわけではなく、聞いていて十分にありうることと感じるようになりましたから、私の感覚では「ほんとにそうだよね。ひどい話だね」と「共感」しあってハッピーエンド、というパターンが自然に思えるのですが、そっちの方向に進まない感じなんですね。ずっと私が怒られているように感じるか、あるいはけんかを売られているような印象を持ってしまう。

 なんでそうなるんだろう、ということについて、パートナーの側の原因と私の側の原因の両方をこれまでもなんどか考えてみましたが、他の問題ともつながってようやくちょっと腑に落ちる感覚ができ始めました。

 例の基本パターンですが、彼女はその問題について抱いている憤りをそのままストレートに語る。彼女が憤っているのはその問題に対してであって、私に対してでないということはある意味当然の前提で、改めて言うまでもないことだし、意識することすらないと思っているのでしょう。

 それに対して私のほうは彼女の憤りの内容と、その「伝え方」の両方をすごく気にしている。ですからある人がなにかに憤っているとき、それを相手に話す場合には、いろんな意味がありうるのだと私は勝手に思っているわけです。たとえばこんな可能性です。

 「こんなひどいことなんだけど、どう思う?」
    と私の評価を求められている
 「こんなにひどいことなんだよ。そうでしょう?」
    と私に共感を求めている
 「こんなにひどいことと思えるんだけど、どういうことなんだろうか」
    と私に解説を求めている
 「こんなひどいことだから、一緒に対処してくれない?」
    と私に協力を求められている
 「こんなひどいことなのに、どうしてあなたは理解しないの?」
    と私の無理解を責められている
 「こんなひどいことを、どうしてあなたは放置しているの?」
    と私の無責任を責められている
 「こんなひどいことを、あなたも同じようにやってるんでしょう」
    と私の責任を問われている
 ……


 はたまた単に人に憤懣を話して話すことでうっぷんを晴らしたいだという可能性もあります。


 相手の人が自分に求めようとしていることについて、そんないろんな可能性を暗黙の裡に想定しながら話をきき、相手の態度を見ます。そして相手の話の内容やそれについての自分の判断の他に、その話に対して自分はどういう態度をとるべきなのか、相手との間にその話をめぐってどんな関係を作るべきなのか、ということをほぼ無意識に近く、いつも考えているんだと思います。そしてその時に、「相手はそのことについて私に何を求めているのか」の判断が必要になり、その判断のために「伝え方」に注目することが欠かせなくなるわけです。


 定型がなんでそういうことに注目しやすいのかというと、やっぱり定型は問題に対して「仲間と一緒に対処しようとする」という傾向が強いんだと思います。だから、相手が何か問題を投げかけてきたとき、「この人は私に敵対的な気持ちでそれを話しているのか、それとも仲間として何らかの協力を求めているのか、あるいは敵か味方かを判断しようとしているのか」という、相手の態度の評価をほとんど無意識に常にやっている。

 (ちなみに、ロビンソンさんが「相手の眼玉をじっと見ることがなぜ正常だと思われているのか、僕には全然理解できない。と疑問に思われていることの理由の大きな部分は多分ここにあります。目を見ることで、定型は相手の気持ちの動きを推測するし、相手が自分に対してどんな態度で臨んでいるかを判断する大きな手掛かりにするわけです。嘘をつくときは目が揺れ動いたり、動揺することがあるし、その目を「隠す」のはその動揺を隠しやすくすることだからです。だから、相手に目を見せることは「正直さ」の証明にもなる。

 その相手の態度の評価をしながら、自分が相手やその問題に対してどういう態度で臨むべきなのか、けんかか協力か、拒絶か受け入れか、相手のケアか問題それ自体への対処か……、をその場で判断していくわけです。

 その点、アスペの方は問題は基本的に自分で対処すべきだ、というスタンスでいく。相手がかかわる、相手にしかできないことについては相手に求めることはあっても、それ以外は相手に要求することはない。とそんなふうに考えると、私にはわかりやすくなります。

 たまたま相手がそれについて何かを感じて、自分にとってもプラスの方向に動いたとしても、アスペの方にとっては「それはその人の判断であって、私の要求の結果ではない。自分は別に要求していない。」ということにもなりそうです。

 だからアスペの方にとって「伝え方」は基本的には大きな問題ではなく、評価は相手に任せることが礼儀。自分がどうこうすることではない。へんに「伝え方」を考えるのは、相手を操っていることにもなりかねない。それは不誠実。だから自分は自分の素直な気持ちをそのまま表現するだけ。そこにはそれ以上の意味は何もない。……アスペの方の感覚はそういうものなのだと想像すると、私にはわかりやすく感じられます。

 で、もしそういうふうにアスペの方が考えられたとすれば、定型はそういうことを想定していないので、とても混乱することになります。

 定型は大前提として、相手が何かを伝えてきたときには、上の例のようにそれは自分に何かを要求しているという可能性を考えます。もちろん「単にうっぷん晴らしをしたいだけ」という可能性もありますし、その場合は、「ああそう」と単に聞き流すか、共感するか、みたいなことになるかもしれませんが、そうでない可能性も考えて対応します。

 そして定型同士の場合は多分「単なるうっぷんばらし」の時にはなにかそれなりのサインが送られてくる。「ただ聞いてほしいだけなんだよ」みたいなことを言外に伝える何かですね。聞く方は相手の話し方やその展開のしかたから、それを読み取るわけです。わかりにくいときは直接間接に尋ね返すこともあるけれど、基本的には直接聞き返すことも避ける傾向もあります(そこを察することができないのは、こちらの「未熟」さになると定型が考えるのかもしれません)。

 けれどもパートナーとのやりとりでは、そういう「聞いてほしいだけ」というサインが見当たらず、彼女の怒りの表情が向けられ続ける(彼女にその意識はないのだろうと思いますが)。たとえばこんな展開です。


 私が「彼女は共感してほしいのかな」と考えて共感的なコメントをしてみるんだけど、「そう、そうなのよ!ひどいよね!」というような「共感への共感」のコメントや、共感できてうれしいというような表情も返ってこない。それで共感を求められているのでもなさそうだと感じる。

 共感を求めているのではないとすれば、その共感に基づいて、一緒にその問題に対処しようとされているわけではなさそうだと感じる。

 じゃあ「うっぷん晴らし」をしたいだけなのかな、と思うけど、定型ならそういう場合、言うだけ言った後で「聞いてくれてありがとう」とか「もう、腹が立って思わず一方的にしゃべっちゃったけど、ごめんね」とか「おかげさまでちょっとすっきりした」というような感謝とか申し訳なさの気持ちとかを言葉で伝えたり、なんとなく表情で表すことが多いのに、それもないから、うっぷん晴らしとも思えない。

 そんな状態で相手の憤りの言葉は続くので、「これは私を仲間にしたいのではなく、私を責めているのかも」と感じ始める。で、だんだんとしんどくなってくる。そして「なんでそのことで自分が責められなければならないのか。私の責任じゃないでしょう」と思い、「八つ当たりするなよ!」と憤慨したり、場合によって「この人は私を敵と思ってけんかを売っているのか」とか、「なんで私を信頼しないんだ」と腹が立ってくる。



 いや、ほんとに頭でいちいちそんなことを考えていません。ほとんど直感的な話なので。ただ、振り返って考えて言葉に直してみると、だいたいそうなんだろうと思えますし、少なくとも私の心の動きは結構これでだいぶ説明できそうな気がします。

 最近彼女から「あんたは自分のことにしすぎ」というような、自意識過剰みたいな批判のされ方をすることがあって、まあ当たっている部分もあるとは思いますが(笑)、どうも問題はそれだけではなくて、何か困難に出会ったとき、「自分一人で解決する」ことを基本にするか、「一緒に解決する」可能性の模索を優先するか、という定型アスペ間の基本的な姿勢の差がこういうところにも表れているんだろうと考えると、私にはわかりやすく思えるのでした。

 これまでにわとりさんなど、何人かのアスペの方とのやりとりで躓き続けた部分も、この話の応用版で理解できるような気もします。
 

 
 

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