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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2016年1月

2016年1月28日 (木)

眼を見なさい!

 アスペ的ふるまいが時に悲劇的に定型にずれた理解をされること、そしてみんなからそういわれることで、アスペの方自身がそういうずれた定型的理解で自分を理解するようになって苦しまれること、そういうことが定型アスペ関係ではしばしば起こると思えます。次の話は典型的ですね。

なぜ僕が眼を見て話を聞かないのか。そのわけは周知のことだと思われていた。みんなにとってその理由は簡単だった--あの子は悪い子だから。

 「眼を見て話を聞かない人間は誰にも信用されないよ」
 「犯罪者みたいだな」
 「何かたくらんでるだろう。わかってるんだぞ」

 ほとんどの場合、僕にたくらみなどなか
た。どうして皆がやっきになるのかわからなかった。眼を見ることにどんな意味があるのかさえわかっていなかった。それでも僕は眼をみるように期待されていると知りながら、できないことを恥ずかしく思っていた。僕のどこが悪いんだろう。

 「ソシオパス(社会病質者)」「サイコ(精神異常)」というのが僕の見かけや表情からついた二大診断名だった。いつもそう言われていた。

 「きみみたいな人間の話を読んだことがあるよ。感情がないから表情もないんだって。歴史上の最もひどい殺人者の何人かはソシオパスなんだよ」

 多くの人たちが同じことを言うので、僕は言われたことを信じるようになっていた。自分に欠陥があると知るのはつらいことだった。僕は一段と内気になり、引きこもるようになった。変質者について書かれたものを読み、自分もある日おかしくなってしまうのではないかと思うようになった。大人になったら殺人者になってしまうのだろうか。殺人者は、こそこそとして他の人たちの眼を見ないとどこかで読んだことがあった。

 僕はそのことをいつまでもいつまでもじっと考えていた。 
 
   ………

 今では相手の眼を見ないで話すことは僕にとって当たり前になっている。アスペルガー症候群の僕たちは眼を見て話すのが、単に心地悪いのだ。相手の眼玉をじっと見ることがなぜ正常だと思われているのか、僕には全然理解できない。

 

 そして次の文章は、私がこのブログで考えてきたことと直接つながる感じがしました。 

 アスペルガー症候群は病気ではない。あり方なのである。病気ではないから治療法はないし、治療の必要もない。しかし、アスペルガー症候群の子どもたち、家族、友だちは症状に関する知識を得て、適応していくことが必要だ。

  ………

 ここに至るまで、つまり自分が誰かを知るまでには長い時間がかかった。部屋のすみに隠れたり、岩の下を這う日々はもう終わりだ。僕はアスペルガー者であることを誇りに思っている。

 

       …ジョン・エルダー・ロビンソン著
                      「眼を見なさい!アスペルガーとともに生きる」

 全く意図していませんでしたが、このブログから生まれた本は、タイトルを「アスペルガーと定型を共に生きる」にしています。そのときの気持ちは、この本のサブタイトルにもつながっていくような気がします。

 アスペの方はアスペとともに生き、定型は定型とともに生き、そしてそのうえでアスペは定型とともに、定型はアスペとともに生きる。そんなことがいつかできたらなあと思いながら、記事を書き続けています。

 

2016年1月26日 (火)

定型アスペ問題を考える「利益」

 ここではアスペの方が社会の中で少数派の立場に置かされているということを前提にしてたびたび書いてきましたが、昨日の記事で書いたように日本でアスペの方が控えめに1%としても120万を超えます。その方と深くかかわっている方も定型アスペ問題の当事者ですので、さらにその数はさらに増えますよね。

 今、日本に住んでいる外国籍の方の数は250万くらいのようですから、少なくともそれに匹敵する問題です。ちなみに日本国籍を持つ少数民族のアイヌの方は全国で20万くらいという推計もあるようですが、それをはるかに超えることになります。
 
 そう考えると、定型アスペ問題の当事者は少数派どころか、ものすごい「一大勢力」になるわけですね。たったひとりでも大きな苦労を抱えているわけですから、その大変さの「総量」はちょっと想像を絶します。逆に言えば、ひとりひとりの抱える定型アスペ問題が少しでも軽減する道が見えてくれば、そこで減らせる苦労の「総量」も膨大なものになるわけですね。もちろんプラスの面が増えてくれば、そのことの影響力もちょっと想像を超えるくらいになります。

 今、ふとKatzさんモードに入り始めた気がしますが(笑)、高齢化社会で、労働人口の減少が日本では大変に大きな問題になっています。子どもをどうやって増やすかとか、よく話がありますけど、別に新たに人を増やすのでなくても、定型アスペ問題に取り組んで、定型アスペの双方がうまく協力して働ける環境が作られていけば、その面でも効果はものすごく大きいということになります。

 そういう「実利計算」で考えても、アスペルガー=障がい者=一方的なケアの対象、という見方は世の中にとって「不利」な考え方だということになります。摩擦が減れば「不利益」が減少し、さらに一緒に協力して何かを生み出せるようになれば、その「生産性」は大きな「利益」になるというわけです。

 そう考えると、定型アスペ問題に向き合うことは、後ろ向きのことではなくて、とても前向きな、生産的なことだと感じられてくるから面白いものです。
(すみません、簡単な算数ができてませんでした ('◇')ゞ 修正しました)
 

2016年1月25日 (月)

ネット社会の可能性

 定型アスペ問題を考えるとき、インターネットの社会というものがどんな可能性があるのかについて、なんとなく大事な問題があるような気がしていました。

 まず、このブログや掲示板についていえば、タユミさんからのご紹介があったように、お互いに顔も名前もしらない人同士が、自分たちの経験やそこで考えたことなどをやりとりすることで、それを読まれた方もそこから新しい見方を模索されて、次のステップを踏み出される、というようなことも起こっています。
 これはいくつかの面で、ネットだから可能になっている部分があると思うんです。ひとつは定型アスペ問題を抱える人は、割合としては人口の1パーセントとか2パーセントか、よくわかりませんが、かなりの少数派であることは間違いなく、身近な周囲のつながりの中でお互いに交流し、支えあう関係がみつけられる可能性はかなり小さくなると思います。でも、割合ではなくて実数で考えれば、日本だけでも100万人以上の方がこの問題で苦労されているわけですよね。そういう方たちに、住む場所などに関係なく、つながる機会がかなり広く提供される可能性が出てくる。

 また、匿名でのやりとりは、ここでも実際に何度かあったように、日ごろ積み重なった恨みをぶつけ合うような、炎上の場にもなりやすく、そこであらたな傷を生み出す危険性もありますが、同時に匿名だからこそプライベートなことについて率直に書けることもあります。これはネットの外の、顔を見合わせた世界ではとてもむつかしいことですよね。ものすごく親密な関係とか、カウンセリングの場とか、守られた小さな空間ではそれが可能な場合もありますが、逆に言えばそれはとても小さな世界になってしまって、この場で可能になっているような、いろんな人のいろんな視点が語り合われるような形にはなりにくい。

 これも考えてみたら面白いことで、ものすごく密度の高い「内緒の話」を公開の場でみんなに対してしているというようなことになっています。そういう不思議な場はネットだからできるというところがある。その結果、このブログのやりとりの中でも、アスペ的なすごくプライベートな感覚の世界を定型がのぞかせていただけるような、そんなことも起こる。

 ネットでのやりとりが、主として文字のやりとりになっている(そういう形でなりたつことができる)点も、定型アスペ関係では特に重要だと思います。アスペの方が定型とのやりとりで苦労されることに、定型は言葉以外の表情などの手がかりを相当使うのに、アスペの方はそこには注意は向きにくく、そこですごいコミュニケーションのずれが生まれる、ということがあります。けれども文字のやりとりの場では、そういうギャップが生まれにくいわけです。「ことば」に集中してやりとりができるので、対等なやりとりになりやすくなる。

 ネットでのやりとりは発言の有無やタイミング、「応答への時間」を自分の感覚でかなりコントロールできる、という点も相当大事な意味があると思います。定型間のやりとりでは感覚的にさっとやってしまうようなことを、アスペの方は頭で考えてやらなければならないことが多くあり、定型的に「適切」な応答ができるのにその分余分に時間がかかることがあるわけですが、面と向かって話をするときにはその場ですぐに対応する必要があり、その猶予がありません。その結果、あわてて応答してやりとりが頓珍漢になり、誤解が生まれることもしばしばある。

 もちろん逆もあります。アスペの方の発想は定型の考え方とは違うパターンで行われることがよくあって、それを定型が理解しようとすればかなりいろいろ考えて、回り道をしなければわからないことが多くあるからです。定型の側からしても、かみあったやりとりになるにはかなりの時間が必要なのです。ネットはそれぞれの人に合った形での時間の調整がしやすい場になる。

 定型アスペ間で大きな問題になるのは、お互いの「距離の取り方」のむつかしさですが、ネットのやりとりではその距離を自分でコントロールしやすいわけでしょうね。もちろんのめり込んでしまって、巻き込まれてしまって、気持ちの上で距離が取れなくなるという場合もあると思いますが、それでも基本的には(特に匿名間の関係では)相手との関係は電源を切れば切れる、という性質のものです。ネット外の生身の付き合いではそれはむつかしい。

 もちろん「顔を見合わせての密な関係」はそこでは不可能なわけですが、でも「顔を見合わせないからこその密な関係」もあるわけで、それが定型アスペ間では特に大事な意味を持つことがあると思えます。

 IT関係で活躍されるアスペの方は多そうですが、すべてが計算可能で明確な論理で作られる点でも、上に書いたようなことを考えても、その空間はアスペの方が生きやすい、活躍しやすい性質をもっているような気がします。そしてよく言われる持ち前の集中力も発揮しやすい。その意味ではネット社会はアスペの方にとってとても有利な社会とも言えるし、もちろんそこには定型も生活しているわけですから、すでに現実にお互いの「協力」関係が次々に新しいものを生み出しているとも言えます。

 今はネットという道具が世界を変える時代、新しいつながりを生み出す時代になっていますが、ある意味で定型アスペ問題は、その中心のところに深く関係する問題になっていて、今後の新しい展開を作り出すひとつの可能性の場になっているのではないでしょうか。 
  

2016年1月24日 (日)

可能性としての定型アスペ関係

 掲示板の「本の紹介コーナー」で紹介しましたが、パートナーに教えてもらって「変わり者でいこう:あるアスペルガー者の冒険」という本を読みました。定型の視点から「これができないのがアスペ」ということに焦点を当てた話ではなく、定型とは異なる特性を持って、いろいろ工夫しながら定型社会でも活躍してこられたその「生き方」の指南書のような感じの本です。

 このところ記事でもひとつの生き方としてアスペを考える(「アスペ的人生観」など)ということの意味を書いてきましたけれど、この本を読んでも定型アスペ問題に向き合うには、やはりこういう視点が大切だと改めて思いました。

 定型アスペ関係は、どちらかがどちらかを一方的に「援助する」関係ではなく、異なる特性を持った人間同士が、お互いの生き方を尊重しながら、それぞれの特長を生かしあって生きる関係として模索されていくことが、本当に必要な「解決」の方向だと感じているからです。

 もちろん、たとえば知的障害を伴うような場合には、「援助=被援助」的な関係はどうしても必要になります。けれどもそれは定型でも知的障害の人がいるように、自閉系の方にも知的障害の方がある、というふうに考えたほうがいいのではないか、ということを最近思うようになりました。アスペルガーだから援助対象になるということではなく。

 実際には知的障害がないアスペの方もこの社会でさまざまな不利益を受けて、「適応」できな状態に追い込まれている場合が多いわけですが、それはたとえば異文化の人が日本で暮らそうとすると「少数者」であるゆえに、日本社会のやりかたになじめず、結果としてさまざまな社会的不利益を受けてしまう、ということと、かなり共通した面があるんじゃないかと思えるんですね。

 社会はどうしても多数派を中心とした仕組みで運営されざるを得ないところがありますから、少数派の人にとって自然な生き方ではその社会でうまく適応できません。その場合、本来はどちらの生き方にも優劣はないはずですが、社会の都合で多数派が優先されることの「見返り」として、その多数派の社会に適応しやすいような特別の配慮を少数派が受けるということは、ある意味で当然のことのようにも思います。

 実際、この本の著者の方など、定型社会で活躍するアスペの方は決して少なくなく、むしろある面で非常に重要な働きをされているという現実があるわけですから、お互いに生き方を調整することで、さらにアスペの方も活躍しやすい社会ができれば、お互いによいところを打ち消しあい、殺しあうような社会に比べてはるかにお互いの利益になるはずですし。

 ましてや世界がますますネット社会化していく状況の中で、アスペ的な特性が今後の展開に持つ潜在的な可能性は相当のものになるとも思えます(というかすでにそうなってきていると思うのですが)。

 そういう見方が単なるきれいごとではなくて、結構げんじつてきなんじゃないかなということを感じさせてくれる本でもありました。

 

2016年1月23日 (土)

バランス

 定型アスペ間のむつかしさを「バランス」ということで考えてみるとわかりやすくなるところがあるような気がしました。

 人はみんないろんな意味でバランスを崩さないように工夫しながら生きているんだと思うんですが、自分の気持ちでもそうですし、人間関係でもそうでしょう。気分が悪くなれば気晴らしをするでしょうし、贈り物をされたらうれしくなって今度はお返しをしたくなるでしょうし、傷つけられたら反撃したくなるでしょう。

 あいさつされたらあいさつをしかえされなければ気分がよくなくなるでしょうし(これ、アスペの方はどうかはちょっと気になりますが)、自分が好きな人に嫌われたらショックでしょう。人間関係でバランスが崩れると、自分の気持ちのバランスも崩れてしまいます。

 定型は自分の気持ちのバランスが崩れた時に、他の人に慰めてもらったり励ましてもらったりすることでそのバランスを取り戻そうとすることを割とよくやりますし、そういうことをしてくれる人を大事な人と考えます。もちろん「人に迷惑をかけないで自分でなんとかする」という姿勢も大事にされますが、それだけでは人と人のつながりがなくなってしまうからよくないとも思われるでしょう。

 相手とよい関係を作りたいときには「贈り物」をすることがよくあります。それは文字通り物であることもあるし、言葉であることもあるし、とにかく相手が喜びそうなものです。そうやって相手からも「お返し」があるとうれしいし、少なくとも自分の好意を認めてもらえればうれしくなります。逆に相手からなにか自分にとって大事なものをもらった気分(実際には物をもらったわけではなくても)になると、お返しをしたい気持ちも出てきます。感謝の言葉とか、お礼の品とか、そんなものだったり、あるいは相手の人が困ったときに助けてあげようとするとか、なんかそんなことをしたくなる。「贈り物」のやりとりでバランスをとっているんですね。

 定型アスペ間ではその「贈り物」のやりとりでつまづくことが多いのではないでしょうか。

 前に書いた例で言えば、パートナーが昔私を小さな池に連れて行って、咲いた蓮の花を見せてくれたのですが、「ほら、きれいでしょう?」とか「どう?」とか何も言わないんです。私はそのきれいな花を見て、それをわざわざ見せてくれたことでうれしくなりましたが、何も言わずにただ見せるだけということに、物足りなさや不思議感も持ったんですね。

 でもこの場でもほかのアスペの方が何度か書かれていましたが、「それをどう感じるかは相手に任せるべきことで、自分がどうこういうことは相手を尊重しないことになる」という感覚があるとのことでした。つまり「何も言わない」で「相手が感じるに任せる」というやりかたが、相手を最も大事にしたことになるというわけです。

 定型がそれでものたりなくなるのは、「喜びを共有していることを確かめ合い、それによってさらに喜びを深める」ということを定型が求める傾向が強いからです。もちろん「相手に任せる」やりかたは、「奥ゆかしさ」を感じさせるもので、それも大事にはされたりすることもありますし、個人差も大きいと思いますが、それだけでは関係が深まっていかない感じも残ります。

 私が想像するイメージですが、こういうとき、アスペの方は花を見る喜びがまず自分の心の中で満たされていき、それで基本的には満足という形になるのかなと思うんです。その喜びがほかの人にも共有されることはうれしくはあっても、それがなければ自分の満足が消えたり小さくなることはない。そんな世界を作り上げていかれているような気がします。

 そうなると、もう少し状況がシビアになって、お互いに関係がうまくいかなくなったとき、なんとか回復しようとしてそれぞれに努力する、その努力の仕方も全然違うことになります。定型の方は自分の中で崩れた気持ちのバランスを、相手との「気持ち」のやりとりで回復しようとして、共感的にかかわろうとしてみたり、何かで感動を共有しようとしてみたり、すねて見せたりしながら気持ちを通い合わせようとするし、自分の感覚で「相手のためになる」と思うことを一生懸命一方的にしてみたり、努力を続ける。

 ところが、それがほとんど効果を持たないわけです。その理由は一つには定型の側が「これは贈り物」と感じることが、アスペの方にはぜんぜんそうでないことが多いからです。贈り物が贈り物になっていない。もうひとつはアスペの方にとってはもし関係が悪くなったら「それぞれが自分の気持ちのバランスを回復する努力をすることで、結果として二人の関係が回復する」というスタイルを考えるのではないかと想像するのですが、定型のやり方がそれに合わないことが多いからです。

 その状況で定型の側が「関係を回復しよう」として必死で努力を続けたとすれば、悲惨なことにそれはむしろ逆効果で、関係をどんどんむつかしくしていくことにもなりかねません。そしてアスペの方の努力の仕方は、基本的に自分の中でバランスを回復することで、相手のと関係を改善しようとするのだとすれば、定型から見ると関係を一緒に回復しようとする意思がなく、関係を拒絶されたと感じやすくなります。(たとえばなんとか問題を解決しようと話し合いをしているのに、急に「もう疲れたから休む」などと言って去ってしまうとか、定型的にはショッキングなことですが、アスペの方が「関係を回復するには自分の気持ちを自分で立て直さなければならない。このままではますます関係が悪くなる」と考えてのことだとすれば、「関係改善のためのスタイルの違い」として理解ができます)当然アスペの方の「努力」は定型には全く理解されず、否定的にみられることになる。

 つまりこういうことですね。
 定型の場合:「二人のバランスが崩れた」→「一緒に考えて共感的な関係をそこで作り直そう」→「そうやって二人のバランスを回復し、自分の気持ちも立て直そう」
 アスペの場合:「二人のバランスが崩れた」→「自分の気持ちのバランスを自分で努力して回復しよう。」→「お互いにそれができれば、二人のバランスも立て直せるだろう」


 別の言い方をすれば、アスペの方は二人の間に問題が起これば、基本的には「距離をとる」形で改善を図ろうとするのに対し、定型の方は「距離を縮める」形で改善を図ろうとする、というふうに対比できるかもしれません。

 そうすると、お互いに改善のためにやっていることが、相手にとっては改善をむつかしくするものになってしまうということになります。


 この状況が続くと、どちらも疲弊してしまいます。「相手のために」自分が自分を犠牲にしてでも頑張っていることが、全く意味を持たず、ひたすら否定されるような状況が生まれるからです。その理由がどちらにもわかりませんから、「自分がこんなに努力しているのに、相手はなぜそれを理解しないのか」と感じるでしょうし、改善への意思がないと思うようになるかもしれません。

 そうすると不幸な展開も起こります。アスペの方についてはよくわかりませんが、少なくとも定型の側は、関係をよくしようとして身を切るような努力という「贈り物」をし続け、それを結果として拒否され続けることが続くと、相手に対する怒りが蓄積してきたり、あるいは恨みが積み重なってくるかもしれません。

 相手が自分を苦しめる(と見える)わけですから、こんどは相手に反撃することでマイナスのバランスをとろうとするわけです。

 「バランスを回復する」という目標は共有されているはずなのに、そのやり方が全然違うことで、お互いの努力はすれ違いを続け、相手が同じ目標を持っているとも思えなくなり、どちらも激しく傷ついて関係が破たんしていく。


 そう考えてみると、私にとってはわかりやすくなる部分が多くあります。ただこのあたり、アスペの方にもタイプがいろいろあるでしょうし、どこまでの方についてそれが当てはまるのかはよくわかりません。また違うタイプのすれ違いもあるかも。

 

2016年1月21日 (木)

頭と心

 ここでなんども引っかかってきた問題の一つに、「頭では理解できるけど気持ちがついていかない」ということがありました。

 相手には自分とは全く違った相手の感じ方、考え方、理屈がありそうだということは頭ではわかってくる。だからたとえ自分が相手から攻撃されているように感じることがあったとしても、実は相手には全然そういう意図はないこともある。

 頭ではそうはわかっても、それで相手に恐れを感じたり、傷ついたりする思いがなくなるわけではありません。相手に対する恐怖とかは、言ってみれば動物的な本能みたいな部分で、身を守るために大事なことですから、そう簡単にその部分が変わらないとしても、不思議はないですし、実際たとえば定型間であるふるまいを相手から示された場合は、実際にそのあと攻撃されたり、ひどい目にあいますから、その意味では「多くの場合は正しい理解」なので、問題がややこしいわけですね。

 掲示板であすなろさんが紹介されている、お子さんについて経験された話が私にはとてもわかりやすかったのですが(2016/01/21 (Thu) 09:55:38)、ほんとに頭ではなくて、感覚的なレベルでお互いにわかりにくさがあり、お互いに相手のふるまいの意味が分からず、その結果「行動の予測ができない」ということになります。

 でも相手がどう振舞うかがわからない状況は不安を引き起こすことが多いですよね。たとえば道を歩いていたら突然知らない人が目の前に立って、顔を近づけてにやにや笑い始めたとしたら、ちょっとパニックにならないでしょうか?

 だからとにかく「これはなんなんだろう?」「次に何が起こるんだろう?」ということを人は常に考えざるを得ません。感覚的になんとなくわかってしまう場合は別に深く考えることもなく、自然に対応するでしょうけれど、それがわからなければ、頭で考えて「こういう時はこうなる」というパターンを身に着けるしかなくなります。

 そういえば学生時代にカナータイプの自閉の子と遊んでいて、その子がパニックになることがあって、対応のしようがなくて困ったこともありました。原因がわからないからどうしようもないんです。けれども、どういうときにそういうパニックを起こしやすいかを頭で考えていくと、こちらとしてはほとんど問題にならないような小さなことでそれが起こっているらしい、ということがわかるときがあります。で、それで少し対応の仕方が工夫できることがありますが、「なんでそうなるんだろう?」ということは感覚的には謎のままです。ただパターンを頭で理解するにとどまります。

 この例は定型の側が自閉的な世界を理解しようとするときに起こることですが、この話をひっくり返して考えてみれば、アスペの方が定型的な世界に対処しようとするときに、それと全く同じことが起こっているのではないでしょうか。

 あすなろさんはアスペの息子さんについてこんなことを書かれています。

 「うちの息子は、人と関わりたい意識はとても強くて、相手の言葉や動きから学んでいることも多かったのですが、それがどうも、その場の状況に合わせた言動に繋がらない、録音した音声を流しているような感じで…」

 この「録音した音声を流しているような感じ」というのは、状況に合わせて自然に気持ちが動いて話されているのではなく、頭で理解して形だけ合わせているので、「気持ちが入っていない」機械的な応答に思えるということなのかなと思います。

 なぜ周囲がそういう動き方をしているのかが感覚的にはわからない。でも観察しているとあるパターンが見えてくるので、それに合わせて行動してみる。でも自分の気持ちがそれについて行っているわけではない。ただ頭で理解して合わせているだけのこと。

 そんなふうに考えてみると、そのやりかたは定型が感覚的に訳の分からない相手の世界に対応するときと全く同じだと思えてきます。感覚的にわからなければ、とりあえず形をまねるしかないわけです。

 自閉の子に「オウム返し」の言葉がよく見られる、といいますが、それも考えたら同じことなのでしょう。感覚的にわからないし、感情もついていかないから、機械的にまねするしかないわけです。ただそうすれば「効果がある」ことはわかりますから。

 定型とアスペで異なるのは、「どういう振舞い方の意味が理解しにくいか」というその具体的な中身の部分です。お互いに感覚的な感じ方の部分からずれがありますから、「なんでここでそういうふるまいになるのか」が理解しにくい場合がある。そしてお互いの世界はお互いに「得体のしれない世界」になるし、相手は訳の分からない人になる。

 定型の場合は周囲に自分の感情の動きを理解してくれる人が多いから、自分の感情世界を疑う必要はありません。それは「当然のこと」として理解するようになる。そしてその「当然のこと」を理解せず、機械的な反応をする相手を「感情を理解できない人」と考えたり、ひどければ「感情がない、機械のようなもの」と決めつけたりし始める。

 アスペの場合は周囲に自分の感情の動きを理解してくれる人に出会うことは少なくなるので、自分の感情を「当然のこと」と思うことがむつかしい(幸いに周囲にそれを受け止めてくれる方があればここはだいぶかわるでしょう)。相手の主張する「感情の世界」は自分の感情の世界では理解できない、訳の分からないものなので、そのうち「自分は感情を理解できない人間なんだ」と思い込まされるか、あるいは「自分には感情はない」と考える人さえ現れる。

 「共感が成り立たない」→「感情が理解できない」→「感情がない」というような推理がアスペの方に対して働くことになるわけです。
  

 でも、実際にはアスペの方にも感情は豊かにあるし、これは「タイプ」にもよるかもしれませんが、あすなろさんの上の例にもあるように、「アスペだから人を求めない」ということはない。ガーディナーさんが書かれていたように、共感的な関係を求め、それに支えられているアスペの方たちもいらっしゃるわけです。ただ、共感が成り立つ感覚に定型アスペ間でずれがあるので、共感が成り立ちにくいということなのでしょう。

 「基本的な感覚でずれる場合がある」→「なぜ相手がそういう反応をするのか、感覚的にわからない」→「共感が成り立たない」→「(相手の)感情が理解できない」

 ここまでは定型もアスペも一緒なのです。ただそのあと、定型は多数派なので「正しい感情の動き方」を知っていることになり、「アスペの人は感情が理解できない」という話になり、それで世の中の評価は落ち着くわけですが、実際にはアスペの人は定型的な感情が理解しにくいわけで、逆に言えば定型もアスペの人の感情を理解しにくいわけですから、その点では全く同じです。

 しかも、そういう「訳の分からない相手」にどう対処するか、という点でも基本パターンは一緒ですよね。「感覚的にわからないから、相手のパターンを頭で理解し、頭で対処する」という形になる。共感的にお互いの関係を調整することができないからです。その結果、対応は機械的にならざるを得ない。

アスペの方は「心がこもっていない」と時に非難されるような「パターン化された機械的ふるまい(オウム返しなどもその一部)」で定型社会に入ろうとすることになるし、定型の方は共感的な理解やかかわりをあきらめて「薬の投与」といった「機械的」な対処で乗り切ろうとしたり、機械的な「パターン学習」を模索することになる。「気持ちがわからないから機械的に頭で対応する」という点で、両者に違いはありません。全く同じです。

 
 そんなふうに考えてみると、また定型アスペ間の「同じ」部分が見えてくるように思います。定型がアスペの方に対応するときのやり方も、アスペの方が定型世界に対応するときのやり方も「気持ち」で理解できないから「頭」で対応する、そういう「頭と心」の食い違いに対する対処の工夫、という点では同じだということですね。その意味ではどちらも同じようなことをしているわけで、別に「わけがわからない」世界ではないわけです。
 



 

2016年1月19日 (火)

「真意」を聞くことの意味

 定型アスペ間で、同じ一つのふるまいでも、そこに感じ取られたり、込められたりする気持ちが全然ずれていることがよくあり、それがお互いの誤解やシビアな対立の大きな原因にもなっている。そういうことがあるなら、そのずれをよく見つめるところから始めましょう、というのがこのブログでこだわってきたことの一つです。

 そのうえで、たとえば病気で寝ているときにそばにいてほしいか、一人にしておいてほしいかといった感覚の違いが、相手が病気になったときの対応にずれを生んでしまい、お互いに「相手のため」にやっていることが相手を傷つけたり、困らせたりする、ということがあるのだけれど、それを「相手のためにそうしている」という点で見れば、結局同じことをやろうとしている(目標は同じ)と考えられるようになる。そういう「違うけど同じ」というポイントを探し出すことが、お互いの関係を改善するうえで足場の一つになるだろうと考えてきました。

 この作業は、当たり前のことですが、お互いに相手との対話がないとできないことです。というのは私が私の「当たり前」で考えている限り、相手のふるまいは「おかしなこと」としてしか考えようがないし、自分のふるまいは相手にとっても「正しいやりかた」だという信念は崩れようがありません。私の「当たり前」が相手には全然「当たり前」ではなく、相手には相手の「当たり前」があって、そしてその相手の「当たり前」に自分が傷ついているのだ、とか、さらには自分の「当たり前」が相手を傷つけているのだ、ということに気づくには、相手に聞くしかないからです。
 
 でもその作業は簡単ではありません。「当たり前」はそれによって自分が支えられている大事な足場ですから、それが相手にとっては「当たり前」ではないということを納得しようとすれば、自分の足場を壊してしまう危険があります。「あちらを立てればこちらが立たず」という状態になりやすいわけです。

 さらにそういう作業をしようとする人は、それまでにもう嫌というほど相手の「当たり前」に傷つけられ、苦しんできた人ですから、自分の中のそういう深い傷や、場合によっては「恨み」を何らかの形で押さえなければ、相手の言うことを理解することができません。でもこれはとても苦しい作業になります。「なんで自分はここまで苦しめられてきたのに、その自分を苦しめる相手の話を、相手の立場に立って<理解>しなければならないのか」という思いが生まれて当然の状況がお互いにあります。

 さらにシビアなのは、そうやって仮に自分の方が「譲歩」して相手を理解したとすると、今度はその相手の理屈からいえば自分が「悪者」に見えてきてしまうこともあります。自分の方が被害者だったはずなのに、逆に自分で自分を加害者として責めなければいけなくなるとすれば、そんな割の悪い話はないはずです。

 しかもそうやって身を切るような思いで相手を「理解」し、自分が意図せず「加害者」だったことをぎりぎり認めたとしても、今度は相手も同じように私にとっては加害者だったということを認めてくれるかどうかがわかりません。下手をすればただ自分だけが悪者にされてしまって、相手は自分が被害者としか思わない可能性もある。もしそういう結果になるとすれば、自分だけがボロボロになって終わり、という理不尽な結果になるかもしれず、なんのために相手を理解しようとしたかがわからなくなってしまいます。

 お互いにさんざん傷つけあってきた関係ですから、相手に対するそういう根の深い「不信感」が先に立っても不思議ではありません。

 そういう困難を乗り越えて、仮に「私の善意は相手には悪意に映る」「相手の善意は自分には悪意に映る」という不幸な関係が見えてきたとして、それで問題が解決するかというと、そう簡単なことではないでしょう。なぜなら「相手のふるまいに悪意はないんだ」ということが「頭で理解できた」としても、その振る舞いによって自分が傷つくという「気持ち」は依然として変わりにくいからです。

 そういうとき、ある程度までは「相手には悪意はないんだから我慢する」ということも可能になるでしょう。でもそれも限度があります。相手によって傷つく痛みはなくなってはいないわけですから。

 
 さて、そういう状況があるときに、定型アスペ間のズレを理解するために、相手のふるまいの「真意」を尋ねることにはどんな意味があるのでしょうか?

 たとえば「私はあなたのこういうふるまい(言葉など)で傷つくんだ」と説明し、「あなたは私を傷つけようとしてそうふるまっているのですか?」とその「真意」を尋ねてみる。そうすると「そんなこと全く考えていません。あなたのためにやっているんです」と答えられるかもしれません。でも、そういわれても、自分が傷つくことは変わらないわけですから、相手が「自分には悪意がないんだから、このまんまでいいんだ」ということになると問題は解決しない。

 さらにうがった見方をすれば、相手は実はこちらを傷つけようとする気持ちが(意図してか無意識でか)ほんとうはあったのに、口先で「あなたのため」とか言っているかもしれない、という「疑い」を完全に消すことは、場合によってはむつかしいかもしれません。もしそうならその「不信感」を抱えながら、我慢が続くことになってしまう。

 そのあたり、どう考えたらいいのか、私は引っかかっていたんですね。

 で、さっきふとこんなことを思いました。

 
 この「真意を尋ねる」話が、どちらか一方だけの一方通行だとうまくいかないことは明らかでしょう。聞くほうが一方的に我慢する結果になる可能性がある。だから、「お互いにそれをする」ということがどうしても必要になるはずです。

 そこでお互いに「自分は相手のためにやっている」ことが語られたとして、けれどもその自分のやりかたは相手には苦痛であることも語り合われたとします。このとき、もし「自分は相手のためにやっている」という言葉に嘘がないとすれば、相手が「苦痛だ」というのにそれを続けることはむつかしくなっていくのではないでしょうか。

 もちろん、「どういう点が相手に苦痛になるのか」ということ自体が分かりにくかったりもしますから、言葉で言われてもすぐに「じゃあ、こういうことはやめよう」とうまく対応できるとは限りません。試行錯誤はどうしても必要になるでしょう。でも少なくとも「私は悪意がなくて、相手のためを思ってやっているんだから」と「居直」って、そのまま放っておくことはむつかしくなるように思います。

 ということは、「自分は相手のためにやっている」という気持ちをどこまで深めていけるかがポイントになるのでしょうか?「相手のため」といいながら、結局自分の基準で自己満足い終わっていないかどうかを考える姿勢が大事になるのかも。

 これもお互いさまにならないとダメでしょうけどね。

2016年1月18日 (月)

稔るほどこうべを垂れる?

  ガーディナーさんとのやりとりへのみるきさんのコメントがとても刺激的でした。

相手の人に意見を求めるときに「反論してください」という表現を使うのと「ご指摘ください」という表現とで何が違うかということについてですがみるきさんはこんなことをかかれています。

> 逆に「指摘」はずーっと見られていて(私はそれが応援や見守りだとしても人から見られていると見張られているようで落ち着かなくなります)、上の人から下の人への指導とか注意のような印象を持ちます。
ですので、「指摘」されると極端なことを言えば、なぜそんなにずっと見てるの?そんなに私は信用がないの?そもそもどうして上目線なの?などと軽くパニックになるか、少し昔だったら怒り出していたかもしれません(笑)今回の例のように「指摘」してくださいといわれたら、‘えっ!指摘?私はあなたに指摘できるような立場じゃないし指摘できるほどあなたの言動をずっと見ているわけじゃないのだからそれは無理よ。’となってしまい焦ります。(笑)

  指摘という言葉に上下関係が含まれるという指摘(笑)は、言われてみればほんとにそうだけど、今まであんまり意識してなかった面白いポイントだなと思ったんですね。

  というのはここでのやりとりでも何度かトラブルが起こったことがありましたし、またアスペのかたの体験談としても何度か語られたことで、アスペの方の表現が定型からとても攻撃的に感じられたり、あるいは傲慢だと理解されたりする場合が結構あるように思います。

  そして例によってアスペの方にはそういう意識も意図もないということのようで、それは定型の誤解だということになるのだと思うのですが、では何でそういう誤解が起こるのか、何で定型がそういう感情を抱きやすいのかがずっと疑問でした。

  みるきさんの指摘がその問題を考えるとても重要なポイントと思えたわけです。

  アスペの方についてはまだまだ分かりませんが、定型の人間関係ではこの「上下関係」というのがほんとにしつこく付きまとっているように思います。子ども同士のいじめもそういうもののひとつだと私には感じられるし、「井戸端会議」だって話題を誰がリードするかで微妙な駆け引きが起こったり、職場の上司と部下、お医者さんと患者さんのような専門家と素人、先生と生徒、親と子ども、お客さんと店員さん、お巡りさんと泥棒(笑)等、もう生活のあらゆるところで「上下関係」が露骨に、あるいは陰に隠れて働いているのを見つけられます。

  でも人間関係では同時に「平等」とか「対等」ということも大事にされています。

  定型の世の中はその二つのことを、半ば無意識に、半ば計算づくでややこしく調整しあってる気がするんです。で、「控えめな態度」とか、「へりくだった姿勢を」「謙虚さ」みたいなのは、一方だけがそうして相手が偉そうにしていれば、それは単純に露骨な上下関係になりますが、お互いにそれをやり合えば、バランスがとれて結果として「平等」な感じになります。

  もちろんそんなややこしい「駆け引き」みたいなものがいらない関係というものが理想と考える人や場合もありますけれど、どうも定型はストレートにそこに行ける人や関係にはなかなかなれない、という厄介な傾向を持っているように思うんですね。私は基本的には「平等」な、「フラット」な関係が好きなんだと思うんですが、でも実際には上下関係を意識させられることが多くて、そういう関係をできるだけ打ち消していきたいという欲求がなんだか湧いてきます(単なる裏返しという可能性もありますが)。

  で、「お互いにへりくだりあう」というのはそういう、上下関係に振り回されやすい人間にとっての工夫のひとつなのかなと、まあそんなことを思ったわけです。そしてそう考えてみると、世の中で「礼儀」と考えられているものには、そういう性質のものがすごく多そうに思えてきました。そしてそれは決して日本だけではなく、具体的な形は違っていても、どこにでもあるような気がしたんです。気がしたレベルですが(^_^ゞ

  それと比べて、みるきさんはそういう「へりくだり」に含まれている上下関係を鋭く見抜かれて、そこに違和感(?)を感じられたことになりそうです。そしてもしアスペの方にそう感じられる方が多いとすれば(私のパートナーなんかもそうかなと思いますが)、そしてその感覚に素直に振る舞われたとすれば、上下関係をややこしく調整しようとしていることが多い定型からは、「偉そうにしている」などのマイナスの評価が陰で言われていたり、場合によって露骨に言われたりすることになるのは、ありそうに思えてきました。

  「稔るほど、こうべを垂れる稲穂かな」とか、謙虚さを賛美する言い方もありますが、もともと上下関係があまり気にならない人なら、稔ろうが稔るまいが自然にすっくり立っていれば良いわけで、わざわざそんな諺なんか必要ないですよね。でもそういうのが必要とされるのがこの主流の世の中で、アスペの方はそこでぶつかって弾かれやすくなるのかなと、そんなことを想像してみました。

2016年1月13日 (水)

アスペ的視点の切り替え?

 ガーディナーさんから記事「難問」に書いたことについて、丁寧にいろいろ考えてご意見をいただきました()。

 ガーディナーさんは10年位前にご自分がアスペであるという自覚を持たれ、それから必死で訓練をし、3年前には診断も受けながら、「周りの人の誰よりも、定型らしく振舞って、その振る舞いはすっかり身についてしまって、この10年間に私と出会った人は誰も、私がアスペだとは理解できないくらいです。」という状態にまでなられた方ということです。

 そのこと自体が私には驚きで、たとえば私が「アスペ社会」に生きたとして、そんなふうに「周りの誰よりも、アスペらしく振舞って、その振る舞いは…」というような境地に達することができるかと考えてみると、ほとんど無理じゃない?と思えます。最近ブログ6年目でようやく自分が想像したアスペ的世界について、アスペの方からかなり納得していただくことが出てきましたけれど、ガーディナーさんの境地はそんなレベルをはるかに超えている印象ですよね。

 私は語学「も」全然だめで、苦手意識の塊ですが(そんなのばっかり (T_T))、世の中にはほんとにすごい人がいて、大人になってから始めた外国語で、まるでネイティヴのように会話ができる人もいるんですね。そういう方にお会いしたことがありますが、ほんとに発音から言葉遣いまで全く違和感ないんです。生粋の日本人という感じ。もう天才としか思えませんでした。

 もしかするとガーディナーさんもそういう方なのでしょうか。全然違う「定型語」をそこまで習得できたということは。そういう能力をお持ちの方は、きっと定型アスペの間でもすごい「通訳」とかになられるかもしれませんよね。期待してしまいます。

 
 さて、お書きくださったことについてですが、私が記事に書いたことの要点は、コメントをくださるアスペの方の中に、ご自分の限られた定型体験を、あたかもすべての定型発達者がそうだという形で書き込まれる方が何人かあって、具体的にそうでないことを指摘したつもりでも全然表現が変わらず、ひたすら「決めつけ」的な書き方を続けられる場合があるが、それはなんでなのか?ということでした。

 見方によっては自分の限られた見方に「こだわり」を持ってしまい、他の見方ができなくなる、という「アスペ的障害」の問題の一部と考えることもできるかもしれませんが、でもここで発言されるアスペの方でも全然そうでない場合が多いですし、逆に言えばアスペでない方でもそういうタイプの人もいるような気がして、それがアスペの問題なのかどうかもよくわからない、ということを書きました。もしかすると「部分と全体」の区別がつきにくいという、別の問題の可能性も考えられるかもしれませんし。
 
 それに対してガーディナーさんは同じようなタイプのAさんと、そのAさんに「好意的」にかかわろうとしている定型のBさんとの関係を例として想定して考えてくださいました。その具体的な内容は、実際のコメントを読んでいただくことが一番いいですが()、私が理解(誤解?)した形で書くと、まずは「Bさんは好意的にかかわろうとしているのだが、Aさんはそれまでに定型から受けた傷があまりに強すぎて、どうしてもBさんのこともその傷に引きずられてそのような理解になってしまう」という可能性を書かれました。頭ではBさんは違うという可能性を考えられたとしても、感情がとてもそれを冷静に考えられるような状態ではない、ということです。

 私にはわかりやすい解釈の仕方でしたけれど、そのあとの二番目のコメント()がすごかったです。最初の解釈は、自分が定型にわかりやすいように説明する癖でそうなってしまったけれど、それとはまったく違う見方がある、というもので、実はAさんはBさんの接し方にものすごく傷つけられていて、それはほかの定型の人と同じことなので、Bさんに同じ感覚で反論をしていたのだというものです。ところがBさんは自分の接し方がそういう傷をAさんに与えるものであることに全く気付けないので、Aさんの説明を聞いても「自分には関係ない人の話を不当に自分に振り向けられた」としか思えず、一方的な決めつけだと感じてしまうというわけです。だからAさんは「あんた(Bさん)のことを言っているんだよ」というつもりなのに、話が全くかみ合わない。

 なんで私がこの話をすごいと思ったかというと、一つにはガーディナーさんがそんな風に「定型的」にわかりやすい解釈の仕方と、それとはまったく違うタイプの「アスペ的」な解釈の仕方と、その両方を切り替えて立体的に理解されていることでした。通常アスペの方は視点の切り替えがむつかしいなどと言われることが多いように思うのですが、とんでもないという感じで、少なくとも私なんかよりはるかに自由に(?)定型アスペ間の視点の切り替えをされています。

 さらにそこで説明されている「アスペ的」な解釈がものすごくリアルに感じられたことです。そこで批判されているBさんの姿を、容易に自分自身に重ねて考えることができるんですね。まるで私自身のことを語られているような気にもなりました。

 三つ目のコメント()では、少数の例を使った差別的な決めつけは政治的な行為として意図的にやられている場合もあって、頭ではそれが理屈に合わないことを実はわかっていてもわからないふりをしている場合もあるし、差別的な言動は実際はそういう確信犯的なタイプのものだから、表面的には差別的と見えるAさんの発言とは区別したほうがいいだろう、というもので、これも納得です。しかもそういう意図的にずらした「本音と建て前」の言動についてもこんな風にちゃんと分析されるのがまたすごいと思いました。私もなんとなくそんな予想はありましたけれど、全然言葉にできてなかった部分ですし、わたしなんかよりガーディナーさんの方がよほど「人間」を理解されている感じがしました。

 三つ目の後半と四つ目のコメント()では、私が記事で「鼓膜がない(部分と全体を区別する理解の枠組みがその人に存在しないことの喩え)から」という可能性はあるかどうか、ということについて書いたのですが、そのことについて、難聴の方の例を喩えに出しながら、感じとり方には人によってかなり強弱があるのではないかということを指摘され、そのうえでそこに過去に受けた傷からくる感情的な反応が加わると、場合によって理性的な判断が困難になりやすいかも、という可能性を書かれています。そうやってまた一番最初の解釈にもつなげられるんですね。そのうえで最後に基本的な視点が違うと、その後のやりとりがまるでちぐはぐになってしまうという可能性を述べられています。

 と、私なりに理解できた範囲でこうやって書いてみても、ほとんど違和感なく納得です。というか、私が考えたいポイントを次々に整理して書いてくださった印象を持ちます。


 ガーディナーさんのコメントが私にとって(いい意味で)衝撃的なのは、私が定型の視点から出発して、自分の視点を相対化しながらアスペの方の視点を探ろうとしている、それと同じことをガーディナーさんがアスペの視点からされているように感じたことです。なぜ衝撃的かというと、私はそういう相対化を試みていますが、そういう相対化は場合によっては定型に特徴的なことかもしれず、それ自体がアスペの方と共有できない可能性も考えていたからです。ガーディナーさんのコメントは、そういう形での視点の相対化自体、定型アスペ間で共有可能であるということを(しかも私から見れば、私よりよほど鋭くそれをされている)実感させていただけたわけです。これは定型アスペ問題を考える上で、今まで想定できなかったような新たな可能性とも感じられます。
 
 これからもまた折に触れていろいろ教えていただければと思いました。

 

 

2016年1月12日 (火)

定型アスペ的共感関係?

 年が明けて以降、ガーディナーさんみるきさんらんさんと三人の方から次々に記事に対してアスペの立場からの「共感」とも言えるコメントをいただきました。こでまでも時々記事について、アスペの方からわかりやすかったとか、参考になるとか、投影しやすいなどのコメントをいただくことはありました。私の印象としては「ドア一枚」「ガラス張り」を隔てての理解、やりとり(かずきさんの表現)という感覚があって、そこがまた「アスペ的」なのかなと思っていたのですが、今回いただいているコメントはなんだかそこを一気に突き抜けてしまって、まるで定型的な「共感」的コメントのようにも感じてしまう内容があって、喜びながらびっくりしています。

 私自身の感覚として、かずきさんとのやりとりがきっかけの一つとなって「アスペ的な見え方」の世界にちょっと足を踏み入れた感覚が生まれ、その世界に生きたとすれば逆に定型はどんなふうに見えるだろうか、ということが感覚的にわかり始めた気がしていました。もちろんそれは定型の勝手な想像力によるものですから、アスペの方とはずれている可能性がいくらでもあるわけで、そういうずれたものである可能性を意識しながらも、記事を書いていました。

 そして「孤独な世界」を書いた時には、なんとなくこれまでやりとりさせていただいたアスペの方やパートナーの声が自分の中に響いてくるような感覚があって、そうやって聞こえてくるアスペの方の声を自然に、自分の声であるかのように書いていった、という感じになったんですね。言ってみれば自分の中にアスペ的な声が宿ったような、そんな錯覚を持つ体験でした。

 そういう感じの理解の仕方は、私はこれまで定型間ではある程度体験することがありました。「あなたの言いたいことはこういうことじゃないんだろうか?」という感じで、その人が考えたり感じたりしていることを私なりに想像して表現してみると、相手の方からまさにその通りと深く納得されたり、喜ばれたりするんですね。そういうのはいわゆる「共感的な理解」なのかなと思って、私もうれしいですし、できるだけは大事にしていました。

 ところがパートナーに対してはそれがほんとに通用しなかったのです。そしてそのことの意味がわかんなくて、どうしてなのかを納得したくて、同じような疑問を手を変え品を変え、まるで堂々巡りのようにこのブログでずっと書き続けてきたようなところがあります。

 その結果、結局定型的な共感は定型アスペ関係では無力なんだ、ということをだんだんと思い知らされ続ける展開があって、そういう自分の求める共感的関係をどこまであきらめられるかが自分の課題なのかな、ということを考えてきました。

 そういうあきらめの中で、逆にそうやってあきらめ続けなければならなかった状況に置かれ続けた人として、アスペの方を想像してみるということが起こったわけです。そうしたら上に書いたように、なんとなく自分の中にこれまで断片的に伺ってきたアスペの方の声がなんだかリアルに響き始め、ばらばらだった言葉がすっとつながって文章になっていったんですね。

 そうしたらアスペの方からこれまでにないような「共感」的コメントをいただくことになりました。共感をあきらめることで逆に共感されるという、「身を捨ててこそ」みたいな話にも見えます。

 前に一度書いたかもしれませんが、こんな話を聞いたことがあります。天災で突然に大切な身内を失い、心に深い傷を抱いた方たちが、お互いにその思いを語り合うことがあって、その時に共感的に支えあう関係ができたというようなことだったと思うのですが、そこで何に共感が成り立ったかというと、「自分のこの苦しみは、決してほかの人には理解されない」という、その思いが共有されたんだというのです。「誰にも理解されない」という「孤独な思い」が理解された、ということでしょうか。もしかするとそれと似たようなことなのかもしれません。

 
 そういう形での定型アスペ間の「共感」は、どこまでの広がりや深さを持ちうるのか、それはやっぱり私にはわかりません。今回コメントをくださった方はスペクトラムの中では定型よりのいわゆる「浅瀬」にいらっしゃる方かもしれず、そこでアスペ的感覚を持ちながら定型的にも共感がしやすかったのかもしれません。あるいはその生い立ちの中で、どこかで一部でも定型的な共感に救われてこられた体験をお持ちで、そういうものに対する拒絶感が相対的に少なくて済んだ方という可能性もあります。

 あるいはアスペの方にもタイプがいろいろあると考えられていますけれど、その中ではほかの人とのかかわりを積極的に求める傾向の強い「積極奇異型(しかしこの命名もひどいですよね。なんとかならないものでしょうか)」の方とだから成り立ちやすかった可能性もあります。もしそうならここで成り立ったように見える「共感的」な関係は、当然大きな限界があることになりますが、そこは私には何ともわかりません。

 このブログのスタンスですが、すべてに適応可能な「正解」があるわけでもないですし、私が体験したり、ここでお話を伺えているアスペの方の数もほんとに限られています。そもそもコメントをくださるタイプの方と、そうでない方との間にも大きな違いがあるのかもしれませんし、当然私が注目できているポイントにも大きな偏りがあるのかもしれません。まあ、でも今回一歩踏み出したように感じられるステップは、たとえ小さなものかもしれませんけれど大事なものであることは間違いないと思います。また少しずついろいろと広げて考えられるといいですよね。

 
  

2016年1月11日 (月)

酸素と水素で水ができる話

 酸素と水素って、全然性質が違います(って中学生レベルの知識ですが ('◇')ゞ)。酸素は物を燃やす働きがあるし、水素は激しく燃やされ、爆発する。ところが面白いことに、酸素と水素がくっつくと、その火を消す「水」ができるわけですよね。

 水があるとそこに生命が生まれる条件のひとつができるわけで、まあめでたしめでたしなわけですが(笑)、酸素同士をいくらくっつけようとしても、水素同士をいくら合体させても、水はできません。水素同士は合体すればヘリウムにはなりますけど、水にはならない。

 酸素と水素と全然違う性質のものだから、水という新しい可能性がそこに生まれてくるわけです。

 で、これも中学校の理科レベルの話ですけど(なにしろ数学も化学もできない文系なので ('◇')ゞ)、じゃあなんで酸素と水素がくっつくのかというと、実は酸素も水素も、電子とか陽子とかそれを作っている部品は同じで、ただその部品の数や組み合わせ方が違うだけ、というところでどちらも「同じ」だから、そのことを足場にして電子を共有しちゃったりして、新しい組み合わせを作ってくっつく。

 たとえ話にすぎませんけど、定型アスペの関係もそんなイメージでとらえることはできないだろうかと思います。

 今、普通の(?)アスペ観というのは、「障害」としてみる見方ですし、それはそれで社会的には大事な見方だと思いますが、ただ、それだけだとどうしても「不完全な定型=アスペ」という見方を抜けられなくなります。たとえば「健常者の社会」はお互いに相手のことを理解し、共感的な関係を結んで成り立つのだけれど、アスペの方は「他者の心を理解する力がかけている」からそれに適応できない。という見方です。DSMの基準とか(今ではアスペではなく自閉症スペクトラムになってますが)、結局そういうタイプのものですよね。

 それって、たとえてみれば、水素って不完全な酸素なんだ、みたいな話のような気がします。だって、水素って、酸素より電子も陽子も数が少ないわけじゃないですか。部品が不足してるから水素は酸素になりそこなっている、という見方もできなくはない。

 でも(これもあくまでたとえ話ですが)、水素は水素で安定しているわけで、別に酸素になりそこなったわけではないし、酸素も酸素で安定している。そこにはどっちができそこないでどっちが完全とかいう区別はないわけです。ただ性質が違うだけ。しかもその性質の違いは共通の仕組み(電子とか陽子とか)によって作られている。

 それと似たようなことで、みるきさんが私は自分があすぺであることも私だけのあすぺ的な世界も大好きでとても美しいなと思っているので」 と書かれているように、アスペは別に「劣った定型」なのではなくて、それ自体でひとつの生き方で、定型と比べて序列をつけるような性格のものではない、という見方も可能だと思うんです。だから定型アスペがそれぞれに自分の特性を保ちながら、それがうまく組み合わさると面白いものができる可能性が生まれる(ただし下手をすると爆発する)。

 実際、例えばIT関係の仕事はアスペの方が定型以上の能力を発揮しやすい場で、ほんとかどうかは私にはわかりませんが、ビルゲイツとか、ザッカーバーグとか、ITで世界を変えている人たちがアスペだという話もありますし、昔で言えば「職人気質」と言われるものの中にはアスペ的な性格が見えるようにも思いますし、Katzさんが言われるように、社会を全体としてみれば、アスペの方が活躍されるからこそその社会が成り立ったり、発展したりしている、という面があると思えるんですね。摩擦も生むけど。

 で、なんでそれが組み合わせ可能になっているかというと、やっぱり根っこのところでは同じ仕組みを共有しているからだと思うんです。極端な話、「同じ言葉を話せる」というのもそういうことの一つですよね。その言葉を使って表している具体的な内容は結構ずれがあるので、理解が困難だったり、トラブルを起こしたりすることはあるけど、それも含めて言葉である程度調整可能なところはある。

 アスペの方は「共感」を求めない、という見方もあるけど、でも実際は「定型的な共感」は求めていないけれど、でもこのブログのやりとりでも時々確かめられるように、定型アスペ間で定型的に見ても「共感的」と見えるやりとりが成り立つこともあるし、「理解したい」「理解されたい」という思い(定型的には多分「共感への欲求」といえそうなもの)はアスペの方にもしばしば感じられます。

 定型からすれば「悪意」にも見えるアスペの方の言動が、実はアスペの方にとっては「善意」であったり、少なくとも中性的なものであったりということがよくある、というのは記事でも繰り返し書いてきたことですし、逆に定型の「善意」がアスペの方には「悪意」に映る、ということも同様です。でもどちらも「お互いによい関係」を目指す「善意」を持っている、という意味では同じ「善意」ということもできるでしょう。

 ときどき「宇宙人」にたとえられたりすることもあるアスペの方ですが、逆に言えばアスペの方からすれば定型が「宇宙人」なはずですし、そうすると「宇宙人」というところでお互いが共通しているとも言える。宇宙人同士だけどちゃんと子どももできるわけですし(笑)


 というわけで、お互いすごく異質なんだけど、それを「完全な定型」と「不完全なアスペ」みたいに、一つの価値観で序列づけてみるのではなくて、違う可能性を持った違う個性と考え、その組み合わせ方で新しい何かを生み出せる可能性があること、そしてその可能性の足場に、「違いつつも共通しているもの」を見ることができること、そのあたりのことが、この間の展開の中でわりとクリアになってきたような、そんな印象を私は持ちます。

 お互いの違いを知ることは、それぞれの個性を知り、その長所を大切に関係を考える上で重要ですし、また自分の価値観を無自覚に相手に押し付けることで必要以上の摩擦を生み出すことを避ける上でも大事になるのだと思います。違いを知ることは、自分を保ち、守りながら関係を作るために必要ということでしょうね。相手を切り捨てるためではなくて。

 

 
 

2016年1月 6日 (水)

孤独な世界

 

たくさんの世界に書いた体験から、さらにこんなことを今朝思いました。

 私はそこで自分の世界が自分のものでしかなくて、自分が見ている世界はほかの人が見ている世界ではないという感覚を持ったわけです。これまでも「理屈」としてはそういう見方「も」できることは知ってはいましたし、逆にその「理屈」の限界も「理屈」としては理解し、感覚的にも知っているつもりだったのですが、でも今回は「理屈」としてではなく、感覚として「この世界は私だけの世界」という「気分」を味わったわけです。

 そして今朝ふと思ったことは、これってもしかするとアスペの方が子どものころから味わい続けた感覚なのではないか?ということでした。

 自分の体験している世界について、当然相手の人も同じように見て、同じように感じていると思って相手の人とやりとりすると、それがことごとく通じないことが繰り返される。テレビの音がすごくうるさいと思い、小さくすると、家族から「なんでそんなに小さくするの!聞こえないじゃない!」と怒られ、また耳障りな大きな音にさせられる。何かのにおいが強く感じられてたまらないのでそういうと、「別に大したにおいじゃないじゃない。神経質すぎるよ。気にしないようにしなさい」と言われて我慢させられる。

 相手に質問されて、どう答えてよいか答えがなかなか見つからなくて、困って困った顔をしていると、突然相手が怒りだして「なんでそんな風に私を責めるわけ?」と言い出され、ただ自分が困惑して困っているだけなのに、なぜそんな風に怒られるのか訳が分からなくなる。

 人へのあいさつとか、接し方とか、なんだか自分の感覚では何の意味があるのかわからなかったり、無理をしなければできないようなことを、なかなかできないと愚痴をこぼすと、「そんなことみんなやっていることでしょう。どうしてあなたができないの?努力が足りないからでしょう!」と言われ、実際周りの人たちがやっているので、「みんなすごく努力してそれをやっているんだろうなあ」と思って仕方ないから自分もすごく無理をしてそれをするのだけれど、相手に言われたとおりにやったはずなのに、「そうじゃないでしょう!」とまた怒られ、「まじめにやりなさい」と非難される。でも自分ではほんとに同じようにやっているようにしか思えないことを、相手は「違う」という。

 自分が自分の体験している世界について、その体験に素直にほかの人とその世界を共有しようとすると、ことごとくそれが切り捨てられ、「あなたの言っていることはおかしい!」「あなたの感じ方が変だ!」「あなたは努力が足りない!」「あなたは人を攻撃ばかりする!」「あなたの動き方がなってない!」「あなたは人のことを考えてない!」……、と、ことごとく理解不能な、とんでもない評価を投げつけられ続ける。相手に合わせようと必死に努力してもその努力も意味がない。

 誰も私の感じていることを「そうだ」と言ってくれないし、自分の努力を認めてくれないし、自分が正しいと思うことも否定される。もし私がずっとそういう状況を生きなければならないとしたら、私は私が見て感じているこの世界が、相手の人とは全然違った世界なんだと思わずにはいられなくなるのではないでしょうか。自分はほかの人とは違った世界に生きていて、ほかの人の世界は訳の分からない世界で、人を自分は理解できないし、相手も自分を理解してくれない。そう思うしかなくなりそうです。

 もしそうだとすれば、人との世界はこんな風に感じられるようにならないでしょうか?

 私は私、あなたはあなた。理解することなんてできない。かろうじて目に見える行動は理解できることがあるし、その「形」をまねることはできることがあるから、そのパターンを学ぶことでなんとかやりとりができることが増えては来るけど、でもそれはあくまで形を学んでいるだけで、別にそこに込められた気持ちが共有されているわけではない。

 それなのに、相手は私に「どうして私の言うことを理解してくれないの?」「どうしていちいち私の言うことを否定するの?」「なんで共感してくれないの?」「こういうときはこう感じるのが当たり前でしょう?」「あなたは私のことを拒否しているの?」「あなたには思いやりの気持ちがないの?」と責め立ててくる。でもそういうあなた自身、私のことを全然理解してくれないし、私のいうことをすべて否定するし、共感してくれないし、私が普通に感じる当たり前のことを感じないし、私を拒否するし、私を思いやってくれないじゃない!と思えてくる。

 私とあなたは全然違うのに、私の感じていることは全然認めてくれないのに、ただ自分の感じていることだけ「共感」しろと押し付けてくる。そして「人間同士の関係には共感が必要でしょう!」と言われる。自分からすれば全然私のことを理解してくれないし、共感もできない人なのに。一体共感ってなに?感情って何?あなたの言う感情は私には理解できない。じゃあ私には感情がないのだろうか?いや、そもそも感情なんてあるの?

 自分とほかの人の世界は、どうやったって通じ合えない、「別の世界」なのです。同じものを見ていたって、感じていること、考えていることは全然通じないのです。私の世界には誰も入ってこれない。私の世界をかき乱す人はいるけれど、私はそれには耐えられない。それをされれば私は私でいられなくなってしまい、私の世界は失われてしまう。

 世界は最初から孤独な世界になります。その孤独な世界で自分の力で努力することがつまりは生きるということです。

 

 そんな風に想像力を働かせてみると、これまでアスペの方から語られて、断片的に「そういうみかたもあるのかなあ?」と半信半疑に思っていたことが、なんとなくつながって少しリアルに感じられてきます。もちろんこれも定型の勝手な空想で、アスペの方からすれば全然ずれた話と感じられるかもしれませんし、そこは私には何ともわかりません。とりあえず私が私の視点で想像すると、こんな風に考えると比較的わかった感じが広がる、ということですね。

 私がそんな想像力を働かせるようになったのは、私自身がアスペの方の世界をなんとか理解しようとして、そのあまりの「異質さ」にずっとショックを受け続けたからでしょう。ここまで世界が共有されないということの驚き。自分の「善意」も通用しない衝撃。私が当然と思っていた世界がどうにも共有されない体験。それを裏返したら、上のような理解が生まれるわけです。

 アスペ的世界と向き合って定型が感じる孤独の世界、それは定型的な共感の世界が力尽きるところです。それは定型にとっては生きることの否定にさえ感じられる。でもアスペの方は、そういう共感が力尽きる世界が、生きることの出発点なのかもしれません。定型アスペ問題に向き合うことで、少なくとも定型は「もう一つの出発点」を与えられることになるのでしょうか?


 

 

2016年1月 5日 (火)

たくさんの世界

今日、車を運転しながら景色を見ていて、ふと今自分が見ているこの世界は、他の人にはすごく違うように見えているのかなあ、と思いました。定型アスペ間でのやりとりが進んでくると、ほんとに自分のこれまでの常識が通用しない世界に出会い続けますし、ほんとに同じことでも全然違う印象や意味をそこに見たり感じたりしているのだなあと考えざるを得ませんし、そういうことを知ってくるともう人の数だけ世界があって、それぞれの人が自分に見えている世界で生きているんだろうなあと、そんなことをしみじみ思うんですね。

私の場合、比較的文化の違う方とやりとりする機会がありましたので、日本で通用する常識が全く通用しない世界があることは何となく感覚的にも分かっていましたが、定型アスペ間で体験されるそのずれは、それを大きく上回るような広さと深さを持っているように感じます。異文化の人の世界を想像することも結構大変ですが、アスペの方がいきる世界を想像することは、私にとってはそれとは次元の異なる難しさを感じさせられるものです。

人間って、お互いにこんなにも違う世界を生きているんだとしみじみ思い、それと同時に、でもその事って本当は定型アスペ間に限らず、誰との間でも元々そういうもんなのだろうという気がしてくるのです。

ちょっと面白いなあと感じることは、そんな風に「違う世界」と感じられるようになることと、そのなかでも何か共有できる部分を感じられ始めることと、その二つが同時に体験されることです。改めて「違い」を感じることと、「共通性」を感じることはコインの裏表のようなところがあるんだろうなあと思います。

そんな風にたくさんの「違う世界」を実感し始めると、今まで自分が見て聞いて触れて感じてきた世界が何ともちっぽけなもののように思えてきます。井の中の蛙という言葉がありますが、ほんとにそんな感じです。これまで自分が生きてきた世界はほんとに薄っぺらいもので、その多様な豊かさを全然見られていない。小さなことにこだわって、大事なことを見逃している。そんな気分になります。

定型アスペ問題に向き合うということは、そんな風に世界の大きさと豊かさを知り、自分の小ささを知ることとも繋がることなのかも。なんかそんな気がしました。

2016年1月 4日 (月)

あるある、という共感

あるお医者さんでわりと人気の開業医の方があって、風邪の治りが悪いときに一度かかってみたのですが、まあ、人当たりはわりとソフトなのと、患者の訴えに合わせてやたらにいろんな薬を出したり検査したりする感じの人でした。

私の好みではなかったので、それ以降は行きませんが、もしかすると「相手の言う症状ひとつひとつに全部バシバシと薬を出す」というスタイルが受けるのでしょうか?

また別の時、耳鼻科にかかる必要があって、これも人気のお医者さんに行ってみたのですが、ものすごく判断が早くて、しかも説明がはっきりしていて、自分の見立てや対処法、今後の見通しなどを淀みなく断言するように語られますし、しかも自分の対処可能な専門範囲を明確に決めていて、それ以外は自分が扱えないから他の医者に見てもらうべきとはっきり勧める、というところもとてもメリハリが効いていました。

いずれにせよ患者さんがお医者さんにもとめるのは「この苦しみの原因は何か」ということを明らかにしてくれ、それへの対処法を明示し、見通しを与えてくれることなのでしょう。病気の時は気も弱くなっていますから、人に頼りたい気持ちも(特に定形は)強まりますし、極端に言えばそういうときは嘘でもいいからはっきり言われたり具体的処方箋をすぐに与えてくれるお医者さんの方が安心感があるかもしれません。

逆に目の前で首を捻って考えられたらすごく不安が大きくなりますよね(笑) 例えまだ判断できずに迷っている場合でも、それは表に出さない方が受けがいいかもしれない。あるいは疑問点を分かりやすくハッキリと説明してくれるのも受けがいいでしょう。

で、ふと思うと、このブログはそういうハッキリした「処方箋」を全然提供しません。それは単にそんな能力が無いから、ただ正直にそうなっているにすぎないのですが、 とにかく上であげたような「人気のお医者さん」のスタイルとは正反対でしょう。ただ私の迷いを書き続けたり、皆さんから学んだことを書いてみたり、普通とはちょっと違う別の理解の可能性を書いてみているだけですし、どこにも断固とした結論みたいなものはありません。

そういう唯一の結論はいつまでたっても出てこないだろうなあ、例え一時はクリアに見えてきたように感じられることはあったとしても、それもただひとつの通過点にすぎなくて、分かったように思える分、あるいはそれ以上の大きさの新しい疑問が次に見えてくる。その繰り返しなんだろうなと思います。あえて言えばそういう頼りない見通しがわりと安定した「結論」かも(笑)

ただ、そういう「頼りない」記事でも皆さんのお役にたっている部分がるとすれば、その一つは「あるある」なのかなと、皆さんからのコメントを拝見していて感じます。自分が体験した具体的なことからごちゃごちゃ考えようとしますから、そこでそれを読まれた方が「あるある」を感じられて、何かの糧に利用される時がある。

それでふと思ったのですが、この「あるある」って、一種の共感状態ですよね?「私も!!」の世界ですし。そしてふと気づくと、その「あるある」は定形の方とだけではなくて、アスペの方との間でも成り立つことが出てきているみたいです。しかも例えばガーディナーさんのコメントを 拝見していても、かなり大事な大きなところでそれが生まれる場合もあるようです。

つまり「共感が難しい」と言われる定型アスペの間でも、実際には「あるある」はなりたつことはあるし、そこが問題を一緒に考えていくための大事な共通の足場になる可能性もあるということだと思うのです。もしかすると定型間で成り立ちやすい共感とはどこか違う部分もあるのかもしれませんが、そうだとしても、広い意味ではそこに共感に基づく新たな関係の可能性が見え始めているのかもしれません。

「あるある」の共感は、しばしばアスペの方が定型から求められて苦しむような、「押し付け」的な共感にはなりません。それよりもむしろアスペの方が時々するような、「相手がそれをどう受け止めるかは相手に任せ、ただ自分がいいと思ったものを静かに相手の人にも見せてあげるだけ」という共有スタイルにも繋がりやすいもののようにも思います。

これまで定型の方からもアスペの方からも、定型アスペ間に共感的な関係を求めることはすべきではない、というコメントを何度か頂きましたし、確かにそれも一理あると感じつつ、でも共感的関係へのこだわりを捨てることができないできていますが、多分私はこんな可能性を模索していてそのこだわりを捨てられなかったんだと思います。

難問

ここでやりとりしていて、まれにですが、ほんとに不思議に思い、どう理解していいのかいまだに手がかりがないことがあります。まれにということの意味は、人によってすごく違いがあるように感じるということで、誰にでもそうだというわけではないからです。

それは「一部の人に言えることを全ての人に当てはまることとして議論され、そのことがおかしいと指摘してもほとんど理解が共有されないかのように、同じ議論が何度でも繰り返される」という場合のことです。このパターンに入り込むと、比較的簡単に炎上モードに入ってしまいがちです。

勿論定型アスペに関係なく、誰でも追い詰められて余裕がなかったり、状況をまだよく理解できていないときには、自分が経験した少数の例が全てに当てはまるように勘違いしてしまうことはいくらも起こりうることです。けれども他の人からそれを指摘されたり、少し時間をかけて冷静になれば、そういう事実に反する「決めつけ」は 修正されていくと思うのですが、そこがどうしてもそうなりにくい人がいる。

世の中にいくらでもあるいろんな形の「差別」というのもそういうものですよね。一部の例で他の人たちを決めつけてしまい、いくら指摘されても全く変わらずに同じことを主張し続けられる。そういう方の議論の仕方は部分と全体の区別がないように感じられますし、自分の矛盾に気がつかないようにも見える。

そうなってしまうと、相手が何を言おうと、どう説明しようと、もう自分の見方は変わりようがないですから、ほんとに意味ある議論が成り立たなくなってしまうんですよね。残るのは罵詈雑言の投げ掛けあいだけになる。

筋の通ったやりとりをするには、相手に人の言うことをある程度理解しながらそれにたいして自分の意見を言う必要がありますが、その時に大事になることのひとつに話が矛盾しないようにするという暗黙の約束ごとがあるでしょう。勿論自分では矛盾に気づけないこともありますが、それを指摘されたら考え直してみようとすると思いますが、そこがとても成り立ちにくいタイプの方がどうもあるらしい。

何らかの理由でそういうやりとりの仕方がそもそも不可能なのか(鼓膜のない方に音を聴けというのが無理難題であるように)、それとも工夫次第でそこも何かのかたちで補って行けるのか、そこもまだ全くわからないのですが、今のところはちょっとお手上げの感じがしています。

この問題、今までこのblogで考え続け、ある程度アスペの方(の少なくとも一部)と理解が共有され始めてきたこととはまたかなり質の違う問題のようですね。それも定型アスペ問題のひとつと考えるべきなのか、また全く違う問題なのか、そこもよくわかりません。

2016年1月 3日 (日)

善意=悪意という関係の調整の仕方

 正月に帰ってきた子どもと、この場で考えてきたような定型アスペ問題についても話をしたのですが、体験が共有されている部分が大きいですし、もともと考え方も似ているところがあって、かなりツーカーで通じ合う感じがしました。そうやって話している中で新たに見えてくることもありますね。

 子どもとそこですんなり共有されたイメージの一つはこんなものです。すでに記事で書いていることの焼き直しですけど。

 定型同士の会話なんかでも、実際は相手の言うことをちゃんと理解していることなんて少なくて、お互いに適当に思い込みで「分かり合った」気になっているところがあります。それでもとりあえずその場で話が通じればいいわけで。

 ですから一度は分かり合った気持になっていたことについても、ずいぶん後になってから相手の人との理解のずれに気づかされることもありますし、それは自分の誤解とか、相手の誤解として感じられることも、あるいは相手からの「裏切り」として感じられることもあるでしょう。

 ただ、多くの場合はたとえずれがあっても気にせずにやり取りできることも多いですし、大きなずれは修正しあいながら、小さなずれは気にせずに生きているのが実態のような気がします。
 時にはずれていることをはっきりと意識しながら、でもあえてそこは調整しようとはせずに、一致したことにしてしまう場合もありますね。政治的な駆け引きなんかではよくやられることでしょう。「玉虫色の解決」とか言われるものです。

 寅さんのよく言うセリフに「それを言っちゃあおしまいよ」というのがありますが、これなんかも「理屈を言えばそうもなるかもしれないけど、そんなことを言い立てて対立するより<一致している>という思いで関係をつないでいくべき」なのに、「あえて問題を暴いて対立関係にしてしまう」ことに文句を言っているともとれます。

 そして「それを言っちゃあおしまいよ」という言葉で、「そんなことを言い出すと、もう関係が続かなくなるよ。だからそこは蓋をしておかなきゃ。そうじゃなければ関係はもう絶たれるからね」という警告を発しているのだとも言えます。

 そんなふうに定型的な関係では、「たとえずれがあってもそれを言い立てることはせず、そこはあいまいにしておいて<だいたいは一致している>という思いを優先する」傾向が強いんだと思います。だから言葉の使い方なんかでも、ストレートに言わずに間接的に話をしたり、「相手に察してもらう」形をとろうとする。

 日本ではその「察してもらう」という形がものすごく強くて、逆に言えば徹底して「相手を察する」能力を求められますし、そういう能力が鍛えられる分、いわゆる相手への配慮を徹底した「おもてなし」が日本人のお家芸のように言われることもある。

 それに比べるとアメリカでも中国でも、「はっきりと言葉でいう」ことが求められるし、「察してくれない」という文句の言い方はほとんど通用しないように思います。主張しないことでたとえば不利益が生じたとしても、主張しない人が悪いのだと受け止められてしまう傾向が強いと思います。

 でも海外ドラマとか見ていても、たとえばアメリカはアメリカなりの、中国は中国なりのあいまいさみたいなものはやっぱりあって、「小異を残して大同につく」とか、ルールだけは公平なものとしてはっきりさせて、あとは個々人が勝手に動いていいとか、政治的な妥協とか、そんなことがたくさん行われている気がします。

 そしてわざと「あいまい」な部分を作って、直接的なぶつかり合いを避けて関係を維持したりゆるやかに調整したりしようとする、という工夫が、そのやり方にそれぞれの社会の特徴を持ちながらいろんなところでされているように思えます。そこは日本の定型社会との違いはない。

 そしてまさにその部分で、定型アスペ間の摩擦が起こりやすいのだと思うのです。アスペの方が定型の社会から排除されやすいのは、そういう「あいまいさ」に基づく定型的な人間関係の維持というやり方が共有されにくく、「それを言っちゃあおしまいよ」という事態が頻発してしまうことになる。

 まあそんな理解の仕方ですね。そのあたり、子どもとかなりスムーズに理解が共有されました。


 それで、定型からアスペの方が非難されるときに、「相手への配慮がない」「こだわりが強くて自分の主張をまげようとしない」「自己中心的」「相手を傷つける言葉を平気で言う」といったような決めつけ的な見方がしばしば繰り返されますが、そうなる理由は結局どれも上のようなことでしょう。

 つまり定型的な関係ではしばしば「あいまいさ」を大事にして対立を避け、「つながり」を維持しようとする。それに対してアスペの方は逆に関係を維持しようとして「あいまいさ」を避け、問題をはっきりさせようとする。「関係を維持する」ために何をしようとするかが全く逆方向だったりするわけです。

 アスペ的なやり方は、「問題を論理的に分析して対処法をはっきりさせる」という、理系的な仕事には向いているのでしょうが、定型的な対人関係の調整には向いておらず、そうすると定型的な組織が維持されにくくなってしまうので、警告の意味も含めて軽く非難されたり、さらに事態が深刻化すれば「困った人」として攻撃や排除をされやるくなるのだと思います。

 定型がそこでアスペの方を攻撃したり排除したりする場合には、なんかかんか定型側にはそれを「正当化」する理屈が付きます。要するにアスペの方が悪いからそうなるんだという話になるわけですが、その理由づけの一つとしては「人を傷つける言い方をする」など、「悪意ある言動」が取り上げられることがしばしばあるように思います。でも、アスペの方からすれば、それはとんでもない言いがかりと感じられるのでしょう。

 アスペの方の行為に定型が「悪意」を感じてしまう場合がしばしばあるのは、定型側の「善意」が無視され続けると、定型が感じてしまうというのも大きな原因のように思います。

そこで定型側が無視されると感じる「善意」というのは、結局定型的な人間関係の調節のしかた、関係修復の仕方を頑張ってやろうとする努力になるわけですが、アスペの方の人間関係の調節の仕方はそういう形にはなりにくいし、そういう定型的な努力が意味を持ちにくく、それを「善意の努力」として感じ取ることもむつかしいのでしょう。だからそれに反応せずに自分のやり方での関係調整をしようとし続けることになる。

 その結果、定型の側からすれば「好意を示して関係を調整してあげようとしたのに、裏切られた」感が募り、そしてそんなふうに自分の好意を「無視」し、善意を「踏みにじり続ける」相手に「悪意」を感じるようになるわけです。そして相手にそんなふうに「悪意」を感じられるようになれば、攻撃や排除は正当化されていくことになります。

 実際、定型的な感覚ではそれはアスペの方を思いやり、自己犠牲を伴う「善意」のふるまいだったりしますし、定型間ではそういうふうに通用するので、アスペの方によってそれが無残に「踏みにじられた」という感覚はほかの定型と共有されやすく、自分の「善意」を疑うことはとても困難になります。だから「悪いのはあいつだ」という形で納得せざるを得なくなる。

 そう考えるとほんとにどちらが悪い、ということを単純に決めつけられないことになっていきますし、相手を攻撃したり排除して済むものではないということにもなる。でもどちらもそのずれによって深刻に傷つくわけですから、その状態をただ我慢することでは何も解決しないどころか、ますます事態が深刻化していく可能性も高い。定型アスペ問題のむつかしさです。「自分を守るには相手を切り捨てるしかない」というぎりぎりのところに容易に追い込まれていく可能性が高い。

 ひとつ考えることは、定型アスペ問題にちゃんと向き合うためには、一方では自分の「善意」を本当に相手にとって「善意」になっているかを考えなおしたり、相手の「悪意」をほんとうに「悪意」なのかをもう一度考えてみる必要があるでしょう。実際にはお互いに善意でありながら、それが相手とずれたものになっているので「悪意」になってしまう場合が多いからです。

 でももう一方で「自分の善意はやはり善意なのだ」ということを確認することも必要ではないかと思えます。たとえ結果として相手には通用しにくいものであったとしても、それは自分が悪意を持っていたことでもないし、善意が嘘だったということでもない。と同時に相手によって自分が「傷つけられた」ことも事実として確認することが必要だと思えます。たとえ相手に悪意がなくても、あるいは善意であっても、結果として自分が傷ついたという事実は消すことができないし、そのことを見ないように仮にしたとしても、それで傷がいえることはないだろうからです。逆に抑圧された傷が自分を苦しみ続けることにもなる。

 自分の「善意」を相対化して「相手にとっての意味」を理解する努力をすることと、同時に自分の「善意」をちゃんと善意として認めることと、一見矛盾しているように思えますが、しかしその両方がともに必要なんだと思います。

 それが矛盾ではなくなるのは、結局「相手には相手の善意があり、自分には自分の善意があり、ただそれがずれるときに自分の善意は相手には悪意として働くことがあり、相手の善意が自分には悪意として働くことがある」という理解を深めていける場合だけではないでしょうか。そこには深刻なずれを持ちながらも、お互いの「善意」が否定されない関係が見えてきます。

 まあ、この考え方が果たしてどこまで通用するのか、アスペの方との間でどうなのか、定型の方にとってはどうなのか、私にはよくわかりませんが、ただ今までここで考えてきたことからすると、私にとってはそんな理解の仕方になっていくように思います。
   

2016年1月 1日 (金)

謹賀新年

 このブログも年末で6年目に突入しました。

 問題のむつかしさのゆえに、いろいろと厳しい対立も時々起こりながら、問題の大切さのゆえに、真剣なやりとりの中で参加者同士の助け合いも珍しくなくなってきました。

 今年も困難を抱えたみなさんがお互いに支えあえる場のひとつとして、このブログや掲示板がさらに育っていってほしいと思います。

 記事の方は相変わらず同じようなところをぐるぐる回りながらしつこく考えていますけれど、それでも一見同じように見えても、少しずつ内容が深まっていっていることを信じたいですね。
 本年がみなさまにとってよりよい年でありますように。

 ことしもまたどうぞよろしくお願いいたします。
 
パンダ

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