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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年12月24日 (木)

アスペ的人生観

 定型サイドの私が言うのもおこがましい気がしないのでもないのですが、定型には自分の能力や置かれた状況などに応じて、それぞれの人生観が作られていくように、アスペの方にはアスペの方の抱える現実に応じた人生観があって、そして抱えている現実(自分自身や周囲の状況など)が持つアスペ的な特徴に応じて、その人生観にはアスペ的な特徴が出来上がってくる、ということがあるのではないかという気がしてきました。

 たとえば男性と女性ということで考えても、その体のつくりや世の中での立ち位置みたいなものの違いによって、そこで作られていく人生観には「性差」があると思うのですが、そんな感じですね。

 昔は「男らしさ」とか「女らしさ」という基準が今よりも強くあって、よく言えば人々がそれぞれその「理想」に向かって頑張るという生き方をしようとしたし、それが世の中の「性役割」ともマッチして「性差に基づく社会」みたいなものを安定して作っていた。悪く言えば人が一人の人間であるより「男」か「女」であることを強制され、性別によって差別されて、自由な生き方ができないような社会が作られていた。

 そういう性差に基づく役割の「強制」に対する反発が強くなって、「しいたげられた女性」が平等を目指して新たな生き方をしようと模索し始めたとき、最初はある意味で「男性と同等になる」ことが目指されることになり、たとえば男性優位の職場に女性が進出しようとすれば、ある意味男性以上に男性的な生き方を身に着けて、そこで男性にも自分を認めさせる必要がありました。

 でもそのうちにそれはやはりおかしいという見方も出てくる。そういう男性優位の社会というのは、そもそも男性の性質に合うように作られている男性的な社会なのだから、それ自体がすごく偏ったものになっていて、女性がそれに合わせなければならない、ということ自体がある意味女性差別なのだ、とも考えられたわけです。女性が男性優位の社会に縛られているだけではなく、実は男性もまた男性優位の社会に縛られることで、不自由な生き方をしているのだから、女性が自由に生きられる社会というのは、実は男性も自由に生きられる社会なのだという発想になっていきます。

 そうすると改めて女性は「女性らしさ」というものを、差別によって作られたマイナスのイメージとしてではなく、それ自体素晴らしいプラスの価値として考え、改めて模索するようになる。「男らしい」生き方はむしろ「つまらない」生き方に見えてきたりもする。

 人種差別でも同じようなことが起こったと思います。象徴的なのは「ブラック イズ ビューティフル!」というスローガン(?)でしょうか。平等の理想のもとに白人と同じ権利を求めることが、皮肉にも自分が「白人」になることにつながってしまい、結果として黒人としての自分を否定することになってしまう、ということを乗り越えようとする考え方なのでしょう。黒人であるということはそれ自体が価値のあることなのだ、という宣言ですよね。

 そんなふうに考えてみると、「差別を乗り越えよう」と考え、模索を続けていくと、いろんなところで同じようなパターンが現れるのかもしれません。つまり最初は権力を持たない側が、権力を持つ側と同じ権利を獲得しようとして頑張るのだけれど、それは同時に自分が権力を持つ側と同じような人間を目指すことになり、自分らしさを逆に失う意味も持ってしまう。そのために次に今度はむしろ権力を持つ側の生き方自体に対する疑問が生まれ、権力を持たない側がもっていた生き方の価値をとても素晴らしいものとして改めて追求し、主張するようになる。そんな展開です。

 私がアスペ的な人生観というものが気になりだしたのも、似たようなことかもしれません。これまでの「治療」とか「教育」「福祉」の中では、現実問題としてアスペの方が定型優位の社会の中で非常に生きづらく、生活していくことすら困難になることが多いという現実を何とかするように、定型社会で少しでもうまく生きられるように「適応」する力をどう養うか、が大きな課題となり、アスペの方にはそのための努力が求められた。そして定型の側はアスペの方の「障害」に「寛容」になり、そういう適応の努力を行うことに対して「援助」することがよいとされた。言ってみればアスペの方に「より定型的になれ」というような枠組みです。
 
 定型優位の社会の中でまずはアスペの方が現実的に少しでもよい状態で生きられることを目指す、という意味ではこの枠組みは大きな意味を持つと思いますし、決して単純に否定されるものではないでしょう。それは定型的な善意や誠意によって模索されてきた大事な試みであると思います。

 けれどもすべての物事にはよいことも悪いこともあって、定型の側がこの枠組みを無自覚に絶対的なものと考えてしまうと、思いもかけない問題が起こってくることになります。そのひとつの典型的なものが、たとえばにわとりさんが苦しんできたような現実だろうと思えるのです。

 つまり、援助者の側は善意で、誠意をもって、自己犠牲を払いながらアスペの方を援助し、少しでもアスペの方が生きやすくなるようにしようと努力を続けているのに、アスペの方がその誠意を認めず、偉そうに勝手な主張を続けるのは許されない、というような枠の中に
定型もアスペもはまってしまう可能性です。

 この枠組みは、基本的には「アスペ=障害=能力の足りない人」VS「定型=健常=能力の足りた人」というマイナスイメージVSプラスイメージの上に立っていますから、その枠に入るには、そういうイメージを受け入れなければなりません。にわとりさんもものすごくご自分の能力のなさを強調され続けてきましたが、私にはそれが実際のにわとりさんの「能力のなさ」以上に強烈にそう主張されているように感じられました。とにかく自分は価値のない人間なのだ、と激しく主張されることで無理やり自分を納得させようとされているような印象を抱いたのです。

 ところが他方でにわとりさんはご自身の自尊感情が常に傷つけられている現状に激しく憤りを示していらっしゃいました。それは定型に対する強い不信感にもつながっているように見えました。それは私にはこんなふうに見えます。

 にわとりさんは本当はとても誇り高い方なのです。別に傲慢とかなんとかいうことではなくて、人間として自分を大事にしてほしいし、人も大事にしたいと素直に感じられる。でも世の中はそういうにわとりさんの理想を許しません。常ににわとりさんの誇りを傷つける。にわとりさんはそれに耐えがたい思いをされるのですが、けれども現実ににわとりさんには苦手でうまくできない部分があって、それを指摘されるとその部分は否定しようがない。

 だから「なんでこんなに自分が人から否定され、苦しい思いをしなければならないのか」という深刻な疑問を持たざるを得ない状況では、かろうじて「自分は障碍者なのだから(にわとりさんの言葉では「発達だから」)、そういう運命なのだからもうしょうがないことだ」と自分で自分に言い聞かせるしかない。それ自体苦しいことですが、それ以外に自分を納得させられる方法がないからです。「自分が苦しいのは自分が悪いからだ」という納得の仕方です。

 でももし仮にそうだとして、たとえばむつかしい仕事ができないから、たとえ待遇が悪くても簡単な仕事で我慢するしかない、ということは仕方のないこととして受け入れたとしても、でもにわとりさんの人格自体を否定するような周囲の対応にはやはり納得ができないのだと思うんです。「能力の低さ」は「人格の低さ」ではないはずですから。

 しかも昨日も書いたように、実際はにわとりさんは知的な面でとても高い能力をお持ちのように見えます。多分周囲の人たちはにわとりさんを納得させるようなちゃんとした説明ができる人はほとんどいない。そういう人たちがにわとりさんの「人格の低さ」を不条理な形で一方的に言い立てるとすれば、にわとりさんがそれに対して激しい憤りを抱いたとしてもなんの不思議もありません。

 傷ついたにわとりさんの自尊心が、激しい言葉で相手に説明を求める。でもそうすればするほど、周囲はますます「能力がないくせに、こちらの善意の気遣いも無視して、自分のことは棚に上げて偉そうに文句ばかり言う」という見方に陥ってしまう。その悪循環。

 私にはそんなふうに見えるのですが(見当違いならすみません)、そこで大きな問題になっていることの一つが、やはりアスペであることに価値を見出せず、定型的な価値観の中で自分の価値を決めなければならないということのつらさのように思えます。定型的な基準ではどこまでいってもアスペの方は「不完全な人」という評価を離れられないわけですから。

 でも、本当はアスペの方にはアスペの方なりの価値観や人生観があって当然だと思うんですね。男と女では抱える現実の違いに応じてその価値観や人生観に違いが生まれて当然であるように。そこには別に優劣はない。ただその人々が抱えている現実によりうまく対応した人生観が作られているかどうかが問題になるだけです。

 自分にあわない人生観で自分を見なければならないとき(たとえばアスペの方が定型的な人生観でしか自分を見られなくなったとき)、どうしても自分を否定的に見ざるを得なくなります。自分の人生観によって自分が貶められ、傷つき、苦しむわけです。

 定型とアスペが対等な関係を作り上げていくには、ですからお互いの特徴を持った人生観をお互いに認めある関係になることも大事だと思います。異質なもの同士のつながり、たとえば男女の結婚、は異質だからこそ補い合って生きていくわけで、人生観もまたそういうものでしょう。

 「アスペ的な人生観というものがある」という見方で考えてみることが、定型アスペ問題ではかなり重要な意味があるんじゃないかと、そんなことを思います。
 

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コメント

こんにちは。3年ほど前に発達の診断を受けたものです。「アスペ的人生観」読んでてなんか辛くなりました。あまりにもわかりすぎるからです。
私が自分で障がいを認識したのは、診断をもらうよりも10年前のことでした。アスペでありながら、独りぼっちはやっぱりつらい。みんなの輪の中に入りたい。できれば快適に暮らしたい・・・、と徹底的に訓練をして障がいを『克服』してきました。お陰で今私の周りには、私を支えてくれる人がたくさんできて、いわゆる『自己実現』を果たしています。周りの人の誰よりも、定型らしく振舞って、その振る舞いはすっかり身についてしまって、この10年間に私と出会った人は誰も、私がアスペだとは理解できないくらいです。少し前までは、この『克服した』10年間こそ私の勲章、誇りであると胸を張って言っていました。
でも、本当にそうなのか・・・。私を受け入れてくれる定型の人の多くは「ガーディナーさんは、アスペじゃないわ。障がい者だなんて見えないもの」「この現代、誰だって生きづらさを抱えているものなのよ。みんな一緒一緒」と言います。誰しもあまり障がいについて深く考えることはめんどくさいというのもあるのでしょう。みんながこだわらないのならば、それはそれでいいのかな・・・、とも思ったり。少なくとも、ほかの人たちの人生観を私がとやかく言うことはできないし。何といっても今私を支えてくれている多くの人が定型なのだから、私も彼らにわざわざナンクセをつけるような真似はしたくない・・・。などなど、いろいろ思っています。
私の障がいを真正面から受け入れてくれる友人もいないわけじゃないんだから、それはそれでいいのかな、とあきらめかけています。
居間、私に与えられた境遇に感謝することを忘れたら、罰が当たる、といつも思いながら生活していますが、時々、無理をしている自分に気づきます。
・・・・・・・・・・・・・
考えが堂々巡りになってきました。今日はこの辺でおしまいにしておきます。

ガーディナーさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 この記事の内容が、アスペの方にどう読まれるかは気になっていました。もちろんアスペの方といってもいろいろですから、読まれ方もいろいろだと思うのですが、それでも少なくとも一部の方には納得していただけるようなものなのかどうかということが気になっていたのですね。単に定型としての私の偏った見方になっていないかどうかです。

 ガーディナーさんにはそこで共有されるものがあったようで、その意味ではよかったです。もちろんガーディナーさんはそれをつらい思いで読まれているわけですから、手放しで喜べるようなものではありませんが、ただそういうつらさを含む現実の理解の仕方として、共有されるものがあったわけですよね。そこが定型アスペ間で問題をかみ合った形で一緒に考えていく手がかりの一つになればと思います。

 また過去のを含むほかの記事などでもお考えのことなどありましたら、お聞かせいただければ嬉しいです。いろいろ学ばせていただきますし。

見当違いな発言でしたらすみません。
心屋仁之助さんのブログで、最近、「前者」「後者」という言い方をし分析されていますが、私の中では「前者」は、定型タイプ、「後者」は発達タイプだなぁと感じました。
またお時間のある時に見てみてください。
どちらかいうと、ADHD傾向の方を指しているようです。

パンダさん、皆さん、今年もどうぞ、よろしくお願いいたします!

なおなおさん、恥ずかしながら、心屋仁之助さん、存じ上げなかったのですが、まさにこういうことですね!

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-12096121444.html


犬、猫のたとえが、もっと分かりやすかったです!

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-12110868306.html


そうそう、私は、死に物狂いでお手を身に付けた猫ちゃんに、とことんいびられました。
私も、猫でいいとは思っていないので、犬になろうとしてきたのですが、その努力と、お手を身に付けた猫ちゃんの努力は違っていたわけです。

だから、私ができる犬のようなふるまいと、お手ができる猫ちゃんができる犬のようなふるまいは、合わないはずですが、私にできる犬のような振る舞いが、相手にはうらやましく、それができるのに、なんでお手ができないのかと、苛々されるわけです。
 
なんとも不毛な争いですわ……。

だって、どちらも猫なのに、猫じゃいけないと思っているわけですから。

世の中には、自分は犬に虐げられている猫だと思っていたら、実は虐げていた方も犬のフリした猫だったなんてこと、たくさんありそうです!

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