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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年12月23日 (水)

 内容と表現のずれから

 アスペの方が自分の意見を言うと周囲から「素直さがない」とか「人の意見に耳を傾けない」「自己主張ばかりする」「何か相手が言うたびに言葉を返すから生意気だ」「自分が正しいと思ってる」と非難されるのはどうしてか、という疑問を書かれているみりさんとのやりとりで、あすなろさんのコメントなども見ながら改めて思ったことです。

 ここでもやはりアスペの方の話し方は基本的に「私が思ったことを述べる」ことに焦点があるのに対して、定型のほうは「相手がどう思うか」に焦点を当てるという傾向があるような気がしました。なんとなくの想像ですが、アスペの方が何か意見を言うときには、その意見の「正しさ」に意識が集中して、「相手が受け入れやすい表現の仕方」というところには意識が向きにくくなるのかなとか。そう考えると、なぜ定型との間でトラブルが起きやすいのかがわかる気がします。

 これも要するに「アスペの方は同時に複数の視点から見ることが苦手で、一つの視点で考えているときはほかの視点が見えにくくなる」という「自閉的」な傾向の結果だ、という理解もあるでしょうし、そう言える部分もあるように思います。だから、ある程度時間をかけて、順に別の視点も考えることができれば、定型的なやりとりもそれなりにこなされることになるし、だから面と向かっての「その場での応答」よりもネットなどでの「時間をかけたやりとり」のほうがスムーズになりやすいということも、それである程度は説明がつきそうです。

 定型の方は、相手と話をするときには「私はどう考え、何を主張したいか」という、話の中身のことと、「相手にそれをどう伝えるか」という、話の仕方のことと、その二つを同時に考えることが多いですし、ほとんど無意識にそうしています。だから相手の話を聞くときも、話の中身だけではなく、その話し方にかなり注目をします。

 たとえば「私はこれが嫌いだ」という同じ内容の言葉でも、それを言うことが相手に対する批判や非難にならないかに気遣いますし、基本的には相手を批判したり非難したりしないように言い方や表情を工夫しています。だから逆に言えばそこで相手の言い方にそういう工夫が見られない場合は、「この人はわざと私を攻撃しようとしている」とか、やや好意的に理解しようとすれば「この人はそういう配慮さえできないくらいに精神的にダメージを受けているんだろう」と同情的に判断することになります。

 アスペの方からすれば、「表現の仕方」の問題よりも「表現すべき内容」こそが重要なわけで、そのとき自分がどんな表情で言うかなどは意識されないのかなと思いますし、そうだとすれば、素直に「内容」を表現していることについて、相手から非難されることが分かりにくいことになるでしょう。自分の言っていることは正しいはずで、それを否定される理由はないと自分では思える。そして実際定型の側が非難するのは「内容」の誤りではなく、なにかどうでもいいような、「言い方」の面だったりしますから、それは定型から単に難癖をつけているようにしか感じられないとしても不思議はありません。

 そうすると、アスペの方からすれば、定型の要求は「本当の気持ちや考えについて素直にやりとりをすること」ではなく、「相手に合わせて心にもないことを言うこと」のようにも感じられてくるでしょうから、定型的なやりとりのしかたは本音を隠した建前の不誠実なものにも感じられてくるかもしれません。
 
 そして現実的にも定型的なやり取りの仕方は本当に「相手への気遣い」で言い方を工夫することもあれば、打算的にとか政治的にとか、ひどいときには相手を陥れるために「言い方を工夫する」ことがしばしばあるわけで、アスペの方はそういうやりとりも繰り返し見られるでしょうから、そこで定型的な世界に不信感が募ってもおかしくありません。

 そのあたりの不信感の強さについてはそれぞれの方のそれまでの経験が大きく聞いてくるでしょうし、比較的穏やかな環境ですごされれば、そこまで不信感を持たず、「まあ世の中、そういう言い方が<礼儀>なんだろう」というレベルで、気持ちは乗らなくてもパターン理解で対応できるかもしれませんし、逆に陰湿でひどいいじめなど、厳しい環境の中で生きてこられた場合には定型的なやりとりのすべてが虚構に満ちたおぞましい世界に見えるかもしれません。

 そうやって基本的に「不信感」を持たざるを得ないような状況を生きてこられた方の場合には、誰とやり取りするときにもその感覚がベースにならざるを得ませんから、そういうところは敏感な定型の側は、「この人は最初から自分に不信感や敵対感情を持っている」という理解を直感的にするでしょうし、その結果、そのアスペの方に対して最初から警戒心を持って攻撃的な態度で接することになる可能性が高くなります。にわとりさんが「発達(障碍者)は出会った最初の段階から否定的にみられる」という意味のことを繰り返し訴えられていましたが、こう考えれば説明がつきますね。

 多分、視線の動き、姿勢、体の動き、表情、声のトーンなど、定型的には「相手が自分に対してどういう姿勢(好意的か敵対的か)で接してきているか、を直感的に判断する多くのポイントで、そういう不信感を持たざるをえなかったアスペの方は極度に防衛的な(したがって相手に好意を持っていないように見える)表現になってしまっているのかもしれません。これもまたにわとりさんが繰り返し言われていたこととつながってきます。

 しかもご自分はそこは意識が向きにくいところなので、アスペの方にとってはなんで自分が相手にそうやって否定され、攻撃的に向かってこられるのか、その理由が全くわからないことになります。だとすればそれは全く理不尽な攻撃としてしか見られないのも当然でしょう。

 そこでパワーのあるアスペの方はそういう「理不尽な攻撃」に対して激しく反撃をするようになるかもしれません。自分がそうされていると感じているわけですから、相手に対して激しく無慈悲に攻撃することも許されるはず、という人生観を持つ方も出てもおかしくないでしょう。そうやって相手を暴力的に「支配する」ことで困難を乗り切ろうとされる方もありそうです。

 あんこさんのお父さんなど、そういうタイプではないでしょうか。けれども暴力は暴力を生むか、あるいは深い恨みしか残しませんから、そういう暴力的な支配では人間関係は安定せず、常に不安が残され、あるいは膨らみ、さらなる暴力的支配を生むという悪循環が起こります。

 にわとりさんやみりさんが「生意気だ」としばしば言われる理由もだいたい同じ仕組みで考えられそうです。にわとりさんは自分の知的な能力をとても低く言われますが、実際にコメントで書かれる内容はとても「知的」なもので、多分そういう議論の仕方をして、それにまともに対応して議論ができる定型の人はにわとりさんの周囲にはあんまりないのではないでしょうか。

 そうすると、「表現の仕方」については定型からすればほとんどにわとりさんとは理解が共有されず、自分の方は無視されていると感じる状況で、「内容」についてはものすごく高度な理屈をにわとりさんが一方的に主張し続けられるように感じることになり、しかも相手はにわとりさんを「低く」見ているでしょうから「基本的なことも理解できないくせに、知ったかぶりで理屈をこねて生意気だ」という見方になるとしても、ありうる話と思えます。
 
 こうなるともう悪循環しかありませんよね。

 そういう悲しい展開のもとをたどってみると、その一つのきっかけとして「内容」か「表現」かということについての注目のずれがある。

 定型は「内容も表現も」どちらも注目できるのに対して、アスペの方は「内容」にしか注目しにくい、と単純に考えれば、なにか定型の方が優れているようにも見えますが、実際には限られた能力を内容と表現の両方に分散して使う定型は、「二兎を追うもの」で、人間関係は多少スムーズになったとしてもどちらも中途半端になりがちで、アスペの方は一つに資源を集中するので、個人としては非常に深いものを生み出す可能性を持っている、という見方も可能でしょう(このあたりはKatzさんが何度か言われていたことかも)。
 
 そのずれに対処する方法の一つは、やはり「時間をかけたやりとり」になるような気がします。アスペの方は時間をかけて「内容」と「表現」を順に考えていけばよいし、定型の側は時間をかけることで「内容」をさらに深めることが可能になるとか。

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コメント

確かに、表現の仕方のズレの問題も大きいと思いますが、私はそれ以前に、『真実』の捉え方のズレがあるように思います。

掲示板に書かせていただいた、娘の話で恐縮ですが、

『電気を消し忘れたことを指摘されて、ごちゃごちゃ理屈を述べる』娘にとって、
電気を消し忘れることには、ちゃんとした理由があり、それゆえに、改善することは難しいのが分かっているので、今後も消し忘れることはある。だから口先だけで『気を付けます』とはいえないのです。口先だけで約束して、また同じことを繰り返したら、『何度言ったら分かるの!』と言われるのが分かっているからです。

そして、その理由というのは、娘自身の発言などから察すると(はっきり言って、半日かけて理由を聞いたことはありませんので^^;)
ADHDを持つ娘にとって、習慣的に同じ行動をすることは難しいことと、ほかの刺激が入って来たリ、同時にやらなくてはいけないことがあるときには、忘れてしまう可能性が高いというものがあるのでしょう。
本人が、『だって、忘れちゃうんだもの!』とよく言っているので。

だからといって、それをそのまま放置しておくわけにもいかず、電気に限らず、やりっぱなしのことについては、こちらも深追いしない程度に指摘します。そうしないと、おそらく娘の頭の中から、『それは意識して改善しなくてはいけない事なのだ』という意識すら、抜けてしまうからです。

理屈に思い当たるまでは、私も素直に謝れない娘に、その都度腹を立てていました。今でもやっぱり『だって!』と反論されると、イラッとします。
これが社会に出たら、もっと娘に対する風当たりは強くなるでしょう。
この『ちょっとしたこと』が、信頼を失くす原因にもなりかねません。

なので、娘は『忘れやすい自分をコントロールする方法』を自分で見つけていかなくてはいけないのです。


掲示板で、みりさんが、

>自己主張というのはたとえば電気消し忘れたことを指摘されたら、ごちゃごちゃ言うとか、言葉遣いが明らかに酷いのにそれを指摘されたら怒るとか言い訳するとかではないのですか?

と指摘されているということは、間違った解釈でしたら申し訳ありませんが、

『私は、電気を消し忘れたことを指摘されてごちゃごちゃ言う人とは違う。正当な理由があって、言っている』

という意味に捉えられたので、
同じアスペであっても、ADHDの傾向の強い人の理由を理解することはできないし、そういう人こそ『自己主張』が強くてわがままなのだ、と見ることもあるということです。


これは私の偏見かもしれませんが、

基本的に、アスペだろうが定型だろうが、能力が高かろうが、低かろうが、
人間が人間を指摘することは『目くそ鼻くそを笑う』と同じことをやっているんだと思います。
その中にも、自分に良い刺激を与えてくれる『指摘』もあれば、『傷』にしかならない指摘もあるということ。
それをいかに利用して、良いものだけを取り入れていくことができるのか……。

しかし、『傷』になる指摘ばかりをされてきた人は、深く傷ついてボロボロになってしまっているので、なかなかそんな余裕がないのでしょうが、そういうときは、一切『指摘』をシャットダウンしてしまう方法もありますよね。

スポーツ選手が気合いを入れてもらうために背中を叩いてもらったりしますが、背中に傷があるときに、これをやったら大変です。そういうときは、背中を叩く行為を自粛してもらわないと。傷が癒えたら、力づける行為になるのですから。

はじめまして、くずのはと申します。
アスペか定型かで言うなら、アスペよりの立場です。
断片的にしか読めていませんが、今日は出力できそうなので、書いてみます。
わかりにくかったらすみません。

例えば「えらいね(ポジティブな言葉)」と言われた時、
同じ言葉を使っているのに、心にスッと入ってくるものと、何か黒いものを感じるものの2種類があります。

私がその黒いものについて訴えても、「そんなことはない」と誰も取り合ってはくれません。

別な時、私はその黒いものが嫌いなので、まっすぐに言葉を発します。
すると、相手は私に「ひどい」と言います。さらに第三者は、あいつは人の気持ちがわからない最低なやつだねと、その相手を慰めます。

私に「人の気持ちが分からない」と言う人はたくさんいるのに、私の気持ちをわかってくれる人はいないのです。


私が欲しいのは、ポジティブな言葉ではありません。
私は自分がアスペかどうかわかりませんが、アスペについて相談したことがあります。
その相手は「あなたは頑張っているから大丈夫、(定型のように)できるようになる」と言いました。

『定型が優性、アスペが劣性』ということ自体は私にとっては全く問題ありません。一つの価値観ですから。でも、「あなたは頑張っているから大丈夫」というポジティブな言葉はとても気持ち悪く感じました。

くずのはさん

初めまして、どうぞよろしくお願いします。

> 私に「人の気持ちが分からない」と言う人はたくさんいるのに、私の気持ちをわかってくれる人はいないのです。

そうなんですよね。考えてみれば本当にお互い様なんですが、定型はなかなかそこに気づけないまま、アスペの方だけが相手の気持ちを理解できないと思ってしまうことが多いと思います。私も「ああ、お互い様なんだ!!」ということに気づくのにすごく時間がかかりましたし、気づいても一部分しか気づけなくて、違う場面でもそうなんだということを少しずつしか理解できません。ほんとに難しいです。

> 私が欲しいのは、ポジティブな言葉ではありません。……その相手は「あなたは頑張っているから大丈夫、(定型のように)できるようになる」と言いました。『定型が優性、アスペが劣性』ということ自体は私にとっては全く問題ありません。一つの価値観ですから。でも、「あなたは頑張っているから大丈夫」というポジティブな言葉はとても気持ち悪く感じました。

定型が「善意」でアスペの方を力付けようと励ますと、アスペの方にはとても否定的に受け止められてしまう、ということも定型アスペ間ではほんとによくあることのように思います。

このときくずのはさんが不快に感じられた理由は、励まされたこと自体なのでしょうか?それとも「定型に合わせろ」という形で定型的な基準を押し付けられたと感じられたからでしょうか?あるいはまた別のこと?

>ほんとに難しいです。

そりゃそうだろうな、と感じました。
私は小さい頃から繰り返しいろんな人に「お前はおかしい」というようなことを
言われてきました。(歳を重ねた今となっては、黙って去っていく人がほとんどですが)
だから、自分と違う価値観の人がいることは前提条件として持っているんです。


理由、ですか…

まず、現実は全く大丈夫ではありません。
両親が私に似ている似てないでケンカをしています。
母:あなたはお父さんの家系の子
父:俺はそんなにひどくない、お前がおかしいのは突然変異だ、と
クラスメイトが私の言葉に傷ついて泣いています。
私のミスのせいで、誰かが余分に仕事をしなければいけません。

例えコミュニケーションが改善されたとして、家族はホッとするでしょう。
私に良かったねと言うでしょう。私が過敏やフラッシュバックに悩まされ続けても、です。

私がいることで空気が歪んでしまうことはわかっています。
でも、私は定型にはなりたくありません。
今まで自分がされたこと、人を傷つけたことを忘れたくはありません。
私は私ですから、変わるのではなく成長したいのです。


その「善意」とは相手のためでしょうか、自分のためでしょうか?


ちなみに、私は私生活の悩みとは別に、脳科学や発達障害に興味があります。
その興味の範囲では、自分が傷つくことさえも材料の一つです。
文章を書くことはとても苦手ですが、いつかパンダさんとお話してみたいなと思っていました。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。

くずのはさん

>その「善意」とは相手のためでしょうか、自分のためでしょうか?

 ここは定型アスペ問題でよく問題になるところですよね。

 主観的にはやはり「相手のため」だから「善意」で、
 「自分のため」で「相手のためではない」のなら「悪意」
 ということになるのだと思いますが、
 実際は「相手のため」と思ってやっていることが
 相手の人にとっては迷惑でしかない場合が多いことですよね。

 定型同士でも「小さな親切大きなお世話」は問題になりますが、
 定型アスペ間に比べると、そのずれには気づきやすいことが多く、
 お互いに修正することも比較的やりやすいのだと思います。
 その場合、たとえ実際には迷惑なことであっても、
 「相手に悪意がなかった」あるいは「善意だった」ということなら
 大目に見たり、感謝したりということもしやすくなります。

 ところが定型アスペ間では相当根深い感覚の違いがあるようなので、
 自分の善意が相手に通用しないということを気づくのがむつかしい。
 その結果相手に迷惑な「善意」を押し付け続けるわけでしょう。
 特に多数派の方は「みんなこれで喜ぶんだから」と思うので、
 まさかそれが相手を傷つけたりするとは想像もできなくなります。

 ということで、善意というのは「主観的には相手のため」だけど、
 結果として(客観的には)「自己満足」になってしまうことがある、
 そして定型アスペ間ではそうなることがかなり多い、
 ということなのかなと思います。

> いつかパンダさんとお話してみたいなと思っていました。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします。

 そう思っていただけたとすればとても光栄です。こちらこそどうぞよろしくお願いします。
 

http://communicative.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6707374&parts=1&num=5&width=360&fsize=12

いじめについて書かせて頂きました。
私の解釈が外れてるかもしれませんが、よろしくお願いします。

にわとりさん

 いじめと共同幻想を結び付けての話、ですよね?
 共同幻想についてはいろんな考え方がありそうです。

 私が共同幻想ということを考えるときは、「幻想」ともいえるけど、「幻想」なしに人が生きられるかというとそれは不可能なことだ、というふうに考えます。これはすべての人に言えることで、ある「共同幻想」の「問題」を指摘しようとすれば、それを否定する別の「共同幻想」を模索するしかないというふうに思うわけです。

 これはたとえてみれば、私たちはこうやって自分の考えをまとめたり、人に伝えたりするために「ことば」を使うわけですが、そのように「ことば」で語られたことの問題を指摘するには、別の「ことば」を語るしかないわけで、「ことば」というレベルで問題に向き合うしかないわけです。

 でも、人が生きているうえでは「ことば」ではない世界もあるわけで、仏教の修行なんかでも「ことば」を捨てる、という別のスタイルを模索したりもします。般若心経なんか、ことばを使ってことばを否定するというぎりぎりの模索ですけど、結局人に何かを伝えたり、共有しようとすると、どこかでことばに頼るしかなくなる。全くことばのない世界はありえないわけです。

 ある「共同幻想」の問題を指摘したり考えたりするときに、そうしている自分は「別の共同幻想」を作ろうとしているのだ、という自覚が大事だと私は考えています。そして私たちにできることは「よりましな共同幻想を柔軟に模索していく」こと以外ではないのだと。

パンダさんの仰る幻想は何を刺してるのかわかりませんが、kagewariさんの言葉を使わせてもらえば、現在は共同幻想崩壊過程、単独者化社会に移行していると書いてあります。
しかし共同幻想そのものが崩壊するわけではなく、共同幻想の中でどう折り合いをつけるかだと解釈しています。
私の頭ではうまく説明できないので、申し訳ないですが、詳しくはこのブログを見て解釈していただけますか。
http://kagewari.seesaa.net/article/368596630.html

ここは個人的な見解ですが、軍隊(安全保障)や国を運営する中核など足並みそろえなければ命取りになる場面は定型発達的な感覚が必要になりますが、何もかも共同幻想的な縛りで見られることはなくなるということではないでしょうか。

またkagewariさんの言葉を使わせてもらいますが、単独者化によって晩婚化したり、子供を持たない人が増えたり、結婚の多様化が進んだり、正社員にこだわった働き方をしないなどといった選択肢が増えたりしています。
つまり、枠に捕らわれない生き方
をしない。結果にこだわらない。世間体を気にしない。
枠にしぼった見方や結果で人を見ないということです。
わが子がつきあってる人がAV女優だったとしても驚かないとか。人を枠で見たり、世間体を考えたりしないから。
あとはみんな同じにこだわらない。

逆に結婚の有無、正社員か非正規雇用か、肩書きの有無、結果で人を判断する、世間体にこたわることが共同幻想的な見方になります。
例えばわが子が障害者や元風俗嬢の恋人と結婚したいと言ってきたら反対する人は少なくないですよね。
あとはみんな同じにこだわる。
気が合うもの同士でつるむことはあるかもしれませんが、

kagewariさんいわく、前者の生き方を選択する生き方が増えてくるとおっしゃってるので、共同幻想に依存した見方はなくなってくるのではないかと捉えてます。

http://kagewari.seesaa.net/article/300243970.html
http://kagewari.seesaa.net/article/422468504.html

にわとりさん

にわとりさんが注目されているような「共同幻想」の捉え方も当然あると思いますので、それはそれとして私なりには理解します。そして今はある種の共同幻想の崩壊期で、別の幻想が作られようとしているとも思います。

私が「共同幻想」というようなことに注目するときには、もうちょっと違う視点を重視していて、にわとりさんがここで共同幻想批判をされていることも、またそれ自体が新たな共同幻想の模索であって、人間はそういうことを理屈からいって決して逃れられない、という前提で考えたらどうなるかという問題を気にしています。

サンタさんの話もそういう視点からの話になっています。

まあ、いろいろな見方ができる問題だと思うので、見方はひとつじゃないということが共有できれば、それぞれの視点で問題を考えて深めていくことは大事だと思います。いろんな視点から、柔軟に立体的に考えることが大事だと思うので……

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