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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年12月11日 (金)

障害という見方について

 ココチさんからボーダーパーソナリティー障害問題のブログを教えていただき、読んでいて改めて「障害」という診断の意味がわかる気がしました。

 だいぶ前ですが、お医者さんからこんな話を聞いたことがあります。内科の非常に有名なお医者さんがあって、お医者さんたちに対して、自分の診断は、あとで病理解剖などをすると、正解率は8割だ、と話されたそうです。それを聞いて他のお医者さんたちは驚いた。

 みなさんは驚かれましたでしょうか。私は話を聞いて驚きました。2割も誤診するのかと。けれどもお医者さんたちがそこで驚いたのは、8割も当たっているのかということだったそうです。それは驚異的な「正確さ」だというわけですよね。そんなに当たるわけがない、というのが常識なのでしょう。

 ところでこの話は病理解剖をしてみて、目に見える原因が特定できるような種類の病気の話なのだと思います。少なくとも死に至るようなはっきりした「異常」が目で見てわかるレベルの違いが見える場合でしょう。

 これに対してパーソナリティー障害でもそうですし、アスペルガーでもそうですが、特に精神科が扱うような領域では、実態として診断するお医者さんが変われば診断名が変わることはそんなに珍しいことではないように思えますが、そういうことがあっても、必ずしもそのどちらかが「誤診」だとも言えないのですね。

 たとえば最新のDMSでは、そもそもアスペルガーという名前さえ消えてしまったわけです。その理由としては定型とアスペの間に明確な境界線はなく、なだらかに続く変化と見た方がいいだろうということもあったりするようで、それについては「スペクトラム」とかいう概念で理解し直しているわけです。いくら脳の解剖をしてみたところでそこに明確な線引きが見いだされるわけでもありません。

 こんな例で説明すると少しわかりやすくなるかもしれません。虹の色のように色合いが連続して変化しているものがあったとして、そのどこからどこまでが赤ですか、と判断してもらうと、その境界線の引き方は人によって違います。便宜的に色の波長で分けることも可能ですが(たとえばウィキで見ると赤は620-750 nm)、そんなのは明らかに便宜的なもので、だから言葉が違うと、色の区別の仕方も変わるので、ある言葉では虹を七色で表現するけれど、別の言葉ではもっと細かく分けたり、場合によっては3色でしか分けなかったりと言うことも起こります。赤の範囲も当然異なる。

 けれども福祉や医療などで行政的に対処するには、どうしても基準が必要になります。どこかで線引きをしないと、「○○だからこういう行政的な対応をする」という判断ができないわけですね。で、その役割をお医者さんが担うことになる。

 スペクトラムの端の方であれば、診断はどのお医者さんがしても(といってもアスペのことを理解している方に限りますけど)そんなに意見が割れることはないでしょうが、そうでなければどこまでの範囲を障害として見るかは、絶対的な基準がないので、判断が人によってとか、場合によって揺れることは自然なことになります。

 で、ここでも何人かの方が書かれていましたが、判断の有力な基準のひとつが「社会生活を送れているかどうか」というあたりに求められたりする。定職を持って仕事ができていれば障害とは診断されず、そこができないと診断がおりるとか、そこも微妙だと思いますけど、そんなことになるわけですね。

 そうすると、「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんもそうでしたが、当事者から見れば明らかに典型的な定型アスペ問題で苦しまれていると思える方であっても、診断がおりない場合もあるわけです。

 たとえばこんな事例もあり得ます。ある人が卒業して就職をした。本人もかなり無理をするところがあり、周囲も困惑するところもあり、その状況は定型アスペ問題の典型例のように見えるが、ぎりぎり仕事を続けられた。

 この場合、お医者さんによってはそれをアスペと診断しない場合があり得ます。ところがそういう無理を続けたけれど、けっきょく本人も周囲も定型アスペ問題に気づかずに、どうやってうまく調整できるかもわからず、数年たって大変さが募って周囲の目も厳しくなり、本人も鬱状態になり、通院し、さらには離職せざるを得ないことになったとしたら、今度はそれでアスペと診断される可能性が出てくるわけです。本人のしんどさは変化しても、別に「アスペが進行したから」というわけではないわけですが。(もちろんそういう基準も絶対的なものではなくて、実際Katzさんは職場で活躍を続けていらっしゃるけれど、診断がおりています。)


 ということは、この例の場合は、たとえば職場がとても柔軟に対応可能なところであれば、その人も仕事を続けられる可能性が高まりますし、そうすると診断もおりないこともある。同じ人でも職場によってアスペとされたりされなかったりの違いが生まれうることになります。


 行政的にはそれでいいんですね。「社会生活が送れないから障害者だ」という基準で「福祉の対象」と判断すればいいわけですから、別に絶対的な基準がなくてもいい。微妙なケースについては診断したお医者さんの基準に任せたらいいわけです。他のお医者さんならどう診断するかと言うことは基本的には問題にならない。

 もし、定型アスペ問題への理解が進み、お互いのずれへの効果的な対処の仕方の工夫も進み、今に比べてそんなに苦労しなくても関係がとりやすい場合が増えたとします。そうすると障害と診断されるケースはぐっとすくなくなっていきます。


 障害という見方はそもそもそういう性格を持っているのでしょう。前にも書きましたが、優れた視力を持ち、高い運動能力や強靱な身体が必要な狩猟民の社会に入れば、どんくさい私はどうしようもない障害者扱いになります。でも、文字も読めない、算数もできない彼らは、今の日本の社会ではとても生きて行かれず、鬱にもなりやすいでしょうし、障害者扱いになっていく。
 
 
 じゃあ曖昧だから障害という見方に意味がないかといえばそうではありません。そのこともなんどか話題になってきました。スペクトラムという理解の仕方で言えば、「境界線付近」はあいまいですが、端と端の間ではすごく違う。その端の方を、典型的な例として取り出してみると、その障害の特徴がすごく浮き立って見えてきます。どこでお互いにずれるのか、そのずれの起こり方の特徴は何かがわかりやすくなり、対処の可能性が広がってくる。


 で、そこで得られた理解を参考にすると、今度は微妙な例でも「ここはその理解でうまく対処が可能」という部分が増えてきたりもします。実際役に立つわけです。

 私が「アスペルガー問題」と言わずに「定型アスペ問題」という言い方にこだわっているのも、当事者という言い方をアスペの方に限定せず、定型アスペ問題の当事者という言い方で、定型側も含めて考えるのも、障害という問題についてここに書いたような理解が重要だと思っていることが一つの理由です。

 それは物理的に線引きできるような絶対的なものではなくて、実際にそういう方のコメントもありましたが、「浅瀬」の方の場合、定型社会の中ではアスペとして苦労され、よりアスペ度の高い(?)パートナーとの関係では今度は定型的な苦労をされる、というようなことが起こる。それが定型アスペ問題なんだと思います。

 だれがアスペでだれが定型だと言うことを固定的に判断する必要はないし、ある人がアスペだと見なされたら頭の先から足の先まですべてアスペだという見方をする必要もない。その人の置かれた状況の中で、その人の周囲の人とのそれぞれの関係の中で、ある部分が定型アスペ問題という形で展開していくし、そういう見方である程度対処の仕方も見えてくるというだけのことです。

 障害の問題を、実際に一人一人の方が生きているそれぞれの具体的な状況の中で見つめて対応しようとしたら、固定的な決めつめの話はどうしても限界が出てきます。見方がどうしても一面的にならざるを得ないので、場合によってはひどい害にさえなる。差別なんかもその典型的な害悪の部分でしょう。そういう一面的な決めつけの話にも陥らず、でもずれを認めずに「みんな一緒」ですませ、けっきょくは多数派のやり方を押しつけるだけにもならず、ひとりひとりの個性的な状況の中での個性的な生き方をベースにこの問題を考え、それに対処していくことが大事だと、やっぱり思うんですね。定型アスペ問題が私たちにつきつけている課題はそういう性質のものだという気がします。

 
 

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コメント

ココチさんの紹介された掲示板を拝見すると、私が勘違いしてしまったボーダーの問題が、はっきり分かります。
BPDも、アスペ、ASDと同じ問題であって、私の勘違いのような偏見が、アスペの方への偏見と通じるものがあるように思います。

この掲示板の『妻』の『症状』がまさに、私がBPDと誤解してしまったものなんですね。
でも、ここでも書かれているように、この『妻』は明らかに問題行動を起こしているのだが、BPDと言い切れる根拠もなく、その問題行動に付ける名前はないということ。

深刻な二次障害で、周囲に迷惑をかけたり、あるいは犯罪行動に走ってしまったアスペの人に対して、世間がアスペという診断名を全面に出したために、アスペの特性であるかのように誤解されてしまった経緯と似ています。

私は、この『問題行動』に名前を付けて注目するべきだと思いますね。これこそ、今行われているアスペの診断の間違った部分を解消することになるのではないかと。

ちなみに、私は息子の行動傾向に慣れていくうちに、カナータイプの重度の方の行動傾向も、何となく予測がつくようになりました。
重度の方も、知的障害やその他の行動障害が被っているだけで、根っこはASDなのだとしみじみ思ったものです。
なので、知的障害の方の中でも、ASDがあるかないかでは、行動の特徴が大きく違いますし、知的レベルには関係なく、定型の職員に理解されない部分が多くて、『問題の大きい人』と見られてしまうことが多いのです。

つまり、ASDは障害ではなく、『人種』なんだと思いました。

あすなろさん

>BPDも、アスペ、ASDと同じ問題であって、私の勘違いのような偏見が、アスペの方への偏見と通じるものがあるように思います。

 BPDについては私自身は母親その他のかなりきついケースで大変さを思い知っているところがあるので、「偏見」を持たざるを得なくなる気持ちもわかると言えばわかるのですが、でもおっしゃるようにある面ではアスペの方の置かれた状況と共通の部分があると私も感じています。

 アスペの方は基本的には距離をとる方向ですから、定型の側で思いを断ち切ればそれはそれでなんとかなる部分もあるかもしれませんが、BPDの場合はどんなに逃げようとしても激しく入り込んできて感情的にかき乱したり、ということが繰り返されることもありますから、定型アスペ問題とはかなり違った形でものすごく深刻になることが多い。

 パートナーがネットの関連する書き込みなどを見て言っていましたが、BPDの人への攻撃はアスペの方への攻撃の比ではなく、ものすごくえぐいようです。私も例を聞いて驚きましたが、自分のBPDの子どもが自殺してせいせいしたとか、そんな書き込みさえあるとのこと。さすがにそこまでいくと、親御さん自身の状態にも疑問を持ちますが。

 母親を見ていても感じますが、本人もそうとう苦しいんですよね。でもそこで共感的に関わっていくことは逆効果だったりということがある。定型アスペ間でも共感的な関わりが逆効果を生むことがしばしばありますが、それとは全く正反対の意味で逆効果になります。

 別に本人も選んで好きでBPDになっているわけではないので、そこはかわいそうという気もあるのですが、激しく振り回され続けると、そういう同情心を持つことも難しくなってきますね。ほんとに割り切って事務的に対処することでしか自分を守れなくなることもある。ほんとに難しいです。

>つまり、ASDは障害ではなく、『人種』なんだと思いました。

 人種というと遺伝子が異なる明確で固定的な線引きがあるような印象も受けるので、もうちょっと違う表現の方がぴったり来そうな気もしますが、いい言葉がまだ思い浮かびません(^ ^;ゞ

>パンダさん

>BPDの人への攻撃はアスペの方への攻撃の比ではなく、ものすごくえぐいようです

アスペは、基本的に自分の中で解決する。他者との関係を持ち込まないという感じなので、こちらから間違ったアプローチや無理やり共感しよう、させようとしなければ、こちらが困ることはない、と私は感じます。

しかし、パーソナリティー障害は、他者との関係を操作しようとしたり、歪んだ見方をしたり、常に他者の動きと関係するので、こちら側は逃げ道がない。

多重人格なども、相手の反応を過剰に意識するからこそ、自分の人格を変えてしまうほどの歪みが出るのでしょう。いや、相手の反応が『全て』と言ってもいいくらい。

すると、常にそれを求められる相手側が精神的な苦痛を覚えるのは当然かもしれません。

私も、夫には、アスペの特性よりも、自己愛性人格障害の特性を意識して接するようになってから、自分が楽になりました。
それはとにかく、意識的に距離を置く、精神的にも、物理的にも、です。
アスペは本来、その逆だと思うのですが、夫の人格障害が、その本来の特性を覆すほどの何かを負担した結果なのか、それとも、もともと並存するものなのか、わかりませんが。

スカイさんのブログにあった、境界の曖昧なアスペという人たちも、何らかの理由で人格障害を併発しているように感じましたし、そうなると、周りの人の対応の難しさは、また違ってくるかもしれないと思います。

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