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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年12月

2015年12月27日 (日)

サンタの世界

 もうずいぶん前ですが、こんな話を聞いたことがあります。

 小さな子どもはクリスマスにサンタさんがやってきて、プレゼントをくれると信じていたりします。もちろんそれは嘘で、実際は大人があげているわけですし、いつしか子どももその嘘を知るようになります。


 なんでそんな嘘を大人は子どもに信じ込ませようとするのでしょうか。


 生きていると、傷つくこと、つらいこと、憤ること、悲しいことにたくさん出会います。「現実」は容赦のない世界だとも言えます。もし人がそういう目の前の「現実」しか見ることができなければ、人生は苦しみの世界になり、生きる希望を持てなくなる。でも人は今ある「現実」のほかに、まだ見ぬ「未来」を考えることができます。未来はそれがどうなるのかは誰にもわかりません。それは運命のように向こうからやってくるのかもしれないし、自分で切り開けるのかもしれない。そのどちらの可能性もあって、どんな未来を思うのかはその人の生きる姿勢につながることになります。


 目の前の「現実」がつらいものでも、「未だ来ぬ」未来に何かの可能性を見いだせたとしたら、今のつらい「現実」に耐える力が生まれるかもしれない。「夢」を持てるからです。逆に未来に何の可能性も見いだせなくなれば、今のつらい「現実」に耐える力も失われ、「絶望」に至ります。


 未来は「現実」という意味で「本当のもの」ではなく、人の想像の中に生み出されるという意味で「嘘」の世界です。でも人がどんな「嘘」をそこに見出すかによって、今の「現実」を生きる今の自分が支えられたり支えられなかったりするわけです。


 ということは、今の「現実」に絶望するのも、そこで希望を持ち続けるのも、それを分けるのは「未来」の思い描き方という「嘘」によるのですから、その今の「現実」のあり方自体がそういう「嘘」に支えられているということになります。


 サンタさんは「嘘」の世界の話です。でもサンタさんがいて、自分にプレゼントをくれると思えるとき、そこにサンタを待ちわびる子どもの「喜びの今」が生まれます。「嘘」の世界が「今の現実」を豊かにしたり、逆に貧しくしたりする力を持っているわけです。


 だから大人は子どもにその「嘘」の世界を作ってあげる。子どもに「喜びの今」を与えられるように。たとえいつかはそれが嘘であることに子どもが気付くとしても、そういうサンタさんの世界を体験した子どもは、希望をもって生きる力を備えることになる。心の中にサンタさんのような「希望の部屋」を持つことができるようになるというわけです。


 ちょっと私なりに説明を加えていますが、趣旨はそんなような話でした。


 定型はその「嘘」の世界を作ろうとする傾向がすごく強いし、しかもその「嘘」をほかの人と共有しようとする傾向が著しく強いのだと思います。その「嘘」を共有できる関係は「希望」を共にできる人の関係で、それができない関係は「絶望」につながる関係になります。


 だから定型は自分の「嘘」を「そんなの嘘だ」とあからさまに言われることをものすごく嫌います。理屈からいえば根拠のない「嘘」ということになることが頭ではなんとなくわかったとしても、それを「嘘」と言ってしまうと、「今の現実」をよく生きられないくなるからです。今の自分が支えられなくなる。それは恐怖の世界です。


 定型アスペ間では、そういうことがしばしばおこるのだと思います。原因としては持って生まれた傾向もあるでしょうし、子どものころからの経験の積み重ねもあると思いますが、いずれにせよアスペの方は「嘘」に敏感です。そういう定型的な「嘘の世界」についていけないか、警戒心を持たざるを得ない場合が多い。だから素直にその「嘘」を指摘する。これが定型を激しく傷つけることにもなり、そして「反撃」や「排除」を生む原因にもなります。そして今度はアスペの方が激しく傷つけられることになる。
 


 人が生きるということは、なんらかの形で将来を予想し、将来に向けて準備をしていくことでもあります。それなしに人の人生は成り立たない。その点では定型もアスペも変わりはないはずです。ずれは「どんなふうに予想するか」という予想のつくり方と、それからその予想を「ほかの人とどう共有しようとするか(あるいはしようとしないか)」という姿勢に現れやすいのではないでしょうか。
 
 「アスペ的人生観」でも少し問題にし始めたことは、つまりそういうことでもあるのかなと思います。あらゆる「現実」は、ある意味では「嘘」に支えられた「虚構」でもあり、でもそういうものとして同時に「現実」でもあるのだ、という風に考えてみたうえでのことですから、それは定型的虚構のつくり方とアスペ的虚構のつくり方と言い換えることもできますね。でもしつこいようですが、それは単なる「嘘」ではないわけです。だからむつかしいとも言えるし、逆に言えばそこに「未来」が見えてくる可能性もあるのでしょう。

2015年12月26日 (土)

説明の仕方の「相性」

掲示板でのみりさんとのやりとりで、改めて強く感じ始めていることがあります。

私の議論の仕方や説明の仕方にはたぶん私のスタイルとか癖のようなものがあるのだろうと思うのですが、それを分かりやすいと感じてくださる方はそれなりにあって、「目から鱗」という言葉をいただくこともあります。ここでも定型アスペのどちらの側の方からもそんな言葉をいただくことも何度かありました。

けれどもその一方で、私の説明の意図や内容を非常に分かりにくく感じる方もあります。私のパートナーもその一人なのですが、私が何を問題にしようとしているのかがほんとに分かりにくいらしいです。

それはいわゆる「頭の良さ」みたいな話とは全然違って、言ってみれば考え方、議論の仕方、目の付け所あるいは感じ方の、かなり深いレベルでのズレがあるような印象を持ちます。相性という感じかも。

どこがどうずれているのか、まだ中々見えてきませんし、またそのずれ方も、例えばパートナーとのズレ方と、にわとりさんやみりさんとのズレ方とは違いがあるような気もします。ただ、ようやく「ここに考えるべき大事な問題の一つがある」という具体的な手応えのようなものが、少し感じられるようにもなり始めました。

改めてにわとりさんの議論の仕方等から学ばさせていただくことも出てきそうな印象です。

2015年12月24日 (木)

アスペ的人生観

 定型サイドの私が言うのもおこがましい気がしないのでもないのですが、定型には自分の能力や置かれた状況などに応じて、それぞれの人生観が作られていくように、アスペの方にはアスペの方の抱える現実に応じた人生観があって、そして抱えている現実(自分自身や周囲の状況など)が持つアスペ的な特徴に応じて、その人生観にはアスペ的な特徴が出来上がってくる、ということがあるのではないかという気がしてきました。

 たとえば男性と女性ということで考えても、その体のつくりや世の中での立ち位置みたいなものの違いによって、そこで作られていく人生観には「性差」があると思うのですが、そんな感じですね。

 昔は「男らしさ」とか「女らしさ」という基準が今よりも強くあって、よく言えば人々がそれぞれその「理想」に向かって頑張るという生き方をしようとしたし、それが世の中の「性役割」ともマッチして「性差に基づく社会」みたいなものを安定して作っていた。悪く言えば人が一人の人間であるより「男」か「女」であることを強制され、性別によって差別されて、自由な生き方ができないような社会が作られていた。

 そういう性差に基づく役割の「強制」に対する反発が強くなって、「しいたげられた女性」が平等を目指して新たな生き方をしようと模索し始めたとき、最初はある意味で「男性と同等になる」ことが目指されることになり、たとえば男性優位の職場に女性が進出しようとすれば、ある意味男性以上に男性的な生き方を身に着けて、そこで男性にも自分を認めさせる必要がありました。

 でもそのうちにそれはやはりおかしいという見方も出てくる。そういう男性優位の社会というのは、そもそも男性の性質に合うように作られている男性的な社会なのだから、それ自体がすごく偏ったものになっていて、女性がそれに合わせなければならない、ということ自体がある意味女性差別なのだ、とも考えられたわけです。女性が男性優位の社会に縛られているだけではなく、実は男性もまた男性優位の社会に縛られることで、不自由な生き方をしているのだから、女性が自由に生きられる社会というのは、実は男性も自由に生きられる社会なのだという発想になっていきます。

 そうすると改めて女性は「女性らしさ」というものを、差別によって作られたマイナスのイメージとしてではなく、それ自体素晴らしいプラスの価値として考え、改めて模索するようになる。「男らしい」生き方はむしろ「つまらない」生き方に見えてきたりもする。

 人種差別でも同じようなことが起こったと思います。象徴的なのは「ブラック イズ ビューティフル!」というスローガン(?)でしょうか。平等の理想のもとに白人と同じ権利を求めることが、皮肉にも自分が「白人」になることにつながってしまい、結果として黒人としての自分を否定することになってしまう、ということを乗り越えようとする考え方なのでしょう。黒人であるということはそれ自体が価値のあることなのだ、という宣言ですよね。

 そんなふうに考えてみると、「差別を乗り越えよう」と考え、模索を続けていくと、いろんなところで同じようなパターンが現れるのかもしれません。つまり最初は権力を持たない側が、権力を持つ側と同じ権利を獲得しようとして頑張るのだけれど、それは同時に自分が権力を持つ側と同じような人間を目指すことになり、自分らしさを逆に失う意味も持ってしまう。そのために次に今度はむしろ権力を持つ側の生き方自体に対する疑問が生まれ、権力を持たない側がもっていた生き方の価値をとても素晴らしいものとして改めて追求し、主張するようになる。そんな展開です。

 私がアスペ的な人生観というものが気になりだしたのも、似たようなことかもしれません。これまでの「治療」とか「教育」「福祉」の中では、現実問題としてアスペの方が定型優位の社会の中で非常に生きづらく、生活していくことすら困難になることが多いという現実を何とかするように、定型社会で少しでもうまく生きられるように「適応」する力をどう養うか、が大きな課題となり、アスペの方にはそのための努力が求められた。そして定型の側はアスペの方の「障害」に「寛容」になり、そういう適応の努力を行うことに対して「援助」することがよいとされた。言ってみればアスペの方に「より定型的になれ」というような枠組みです。
 
 定型優位の社会の中でまずはアスペの方が現実的に少しでもよい状態で生きられることを目指す、という意味ではこの枠組みは大きな意味を持つと思いますし、決して単純に否定されるものではないでしょう。それは定型的な善意や誠意によって模索されてきた大事な試みであると思います。

 けれどもすべての物事にはよいことも悪いこともあって、定型の側がこの枠組みを無自覚に絶対的なものと考えてしまうと、思いもかけない問題が起こってくることになります。そのひとつの典型的なものが、たとえばにわとりさんが苦しんできたような現実だろうと思えるのです。

 つまり、援助者の側は善意で、誠意をもって、自己犠牲を払いながらアスペの方を援助し、少しでもアスペの方が生きやすくなるようにしようと努力を続けているのに、アスペの方がその誠意を認めず、偉そうに勝手な主張を続けるのは許されない、というような枠の中に
定型もアスペもはまってしまう可能性です。

 この枠組みは、基本的には「アスペ=障害=能力の足りない人」VS「定型=健常=能力の足りた人」というマイナスイメージVSプラスイメージの上に立っていますから、その枠に入るには、そういうイメージを受け入れなければなりません。にわとりさんもものすごくご自分の能力のなさを強調され続けてきましたが、私にはそれが実際のにわとりさんの「能力のなさ」以上に強烈にそう主張されているように感じられました。とにかく自分は価値のない人間なのだ、と激しく主張されることで無理やり自分を納得させようとされているような印象を抱いたのです。

 ところが他方でにわとりさんはご自身の自尊感情が常に傷つけられている現状に激しく憤りを示していらっしゃいました。それは定型に対する強い不信感にもつながっているように見えました。それは私にはこんなふうに見えます。

 にわとりさんは本当はとても誇り高い方なのです。別に傲慢とかなんとかいうことではなくて、人間として自分を大事にしてほしいし、人も大事にしたいと素直に感じられる。でも世の中はそういうにわとりさんの理想を許しません。常ににわとりさんの誇りを傷つける。にわとりさんはそれに耐えがたい思いをされるのですが、けれども現実ににわとりさんには苦手でうまくできない部分があって、それを指摘されるとその部分は否定しようがない。

 だから「なんでこんなに自分が人から否定され、苦しい思いをしなければならないのか」という深刻な疑問を持たざるを得ない状況では、かろうじて「自分は障碍者なのだから(にわとりさんの言葉では「発達だから」)、そういう運命なのだからもうしょうがないことだ」と自分で自分に言い聞かせるしかない。それ自体苦しいことですが、それ以外に自分を納得させられる方法がないからです。「自分が苦しいのは自分が悪いからだ」という納得の仕方です。

 でももし仮にそうだとして、たとえばむつかしい仕事ができないから、たとえ待遇が悪くても簡単な仕事で我慢するしかない、ということは仕方のないこととして受け入れたとしても、でもにわとりさんの人格自体を否定するような周囲の対応にはやはり納得ができないのだと思うんです。「能力の低さ」は「人格の低さ」ではないはずですから。

 しかも昨日も書いたように、実際はにわとりさんは知的な面でとても高い能力をお持ちのように見えます。多分周囲の人たちはにわとりさんを納得させるようなちゃんとした説明ができる人はほとんどいない。そういう人たちがにわとりさんの「人格の低さ」を不条理な形で一方的に言い立てるとすれば、にわとりさんがそれに対して激しい憤りを抱いたとしてもなんの不思議もありません。

 傷ついたにわとりさんの自尊心が、激しい言葉で相手に説明を求める。でもそうすればするほど、周囲はますます「能力がないくせに、こちらの善意の気遣いも無視して、自分のことは棚に上げて偉そうに文句ばかり言う」という見方に陥ってしまう。その悪循環。

 私にはそんなふうに見えるのですが(見当違いならすみません)、そこで大きな問題になっていることの一つが、やはりアスペであることに価値を見出せず、定型的な価値観の中で自分の価値を決めなければならないということのつらさのように思えます。定型的な基準ではどこまでいってもアスペの方は「不完全な人」という評価を離れられないわけですから。

 でも、本当はアスペの方にはアスペの方なりの価値観や人生観があって当然だと思うんですね。男と女では抱える現実の違いに応じてその価値観や人生観に違いが生まれて当然であるように。そこには別に優劣はない。ただその人々が抱えている現実によりうまく対応した人生観が作られているかどうかが問題になるだけです。

 自分にあわない人生観で自分を見なければならないとき(たとえばアスペの方が定型的な人生観でしか自分を見られなくなったとき)、どうしても自分を否定的に見ざるを得なくなります。自分の人生観によって自分が貶められ、傷つき、苦しむわけです。

 定型とアスペが対等な関係を作り上げていくには、ですからお互いの特徴を持った人生観をお互いに認めある関係になることも大事だと思います。異質なもの同士のつながり、たとえば男女の結婚、は異質だからこそ補い合って生きていくわけで、人生観もまたそういうものでしょう。

 「アスペ的な人生観というものがある」という見方で考えてみることが、定型アスペ問題ではかなり重要な意味があるんじゃないかと、そんなことを思います。
 

2015年12月23日 (水)

 内容と表現のずれから

 アスペの方が自分の意見を言うと周囲から「素直さがない」とか「人の意見に耳を傾けない」「自己主張ばかりする」「何か相手が言うたびに言葉を返すから生意気だ」「自分が正しいと思ってる」と非難されるのはどうしてか、という疑問を書かれているみりさんとのやりとりで、あすなろさんのコメントなども見ながら改めて思ったことです。

 ここでもやはりアスペの方の話し方は基本的に「私が思ったことを述べる」ことに焦点があるのに対して、定型のほうは「相手がどう思うか」に焦点を当てるという傾向があるような気がしました。なんとなくの想像ですが、アスペの方が何か意見を言うときには、その意見の「正しさ」に意識が集中して、「相手が受け入れやすい表現の仕方」というところには意識が向きにくくなるのかなとか。そう考えると、なぜ定型との間でトラブルが起きやすいのかがわかる気がします。

 これも要するに「アスペの方は同時に複数の視点から見ることが苦手で、一つの視点で考えているときはほかの視点が見えにくくなる」という「自閉的」な傾向の結果だ、という理解もあるでしょうし、そう言える部分もあるように思います。だから、ある程度時間をかけて、順に別の視点も考えることができれば、定型的なやりとりもそれなりにこなされることになるし、だから面と向かっての「その場での応答」よりもネットなどでの「時間をかけたやりとり」のほうがスムーズになりやすいということも、それである程度は説明がつきそうです。

 定型の方は、相手と話をするときには「私はどう考え、何を主張したいか」という、話の中身のことと、「相手にそれをどう伝えるか」という、話の仕方のことと、その二つを同時に考えることが多いですし、ほとんど無意識にそうしています。だから相手の話を聞くときも、話の中身だけではなく、その話し方にかなり注目をします。

 たとえば「私はこれが嫌いだ」という同じ内容の言葉でも、それを言うことが相手に対する批判や非難にならないかに気遣いますし、基本的には相手を批判したり非難したりしないように言い方や表情を工夫しています。だから逆に言えばそこで相手の言い方にそういう工夫が見られない場合は、「この人はわざと私を攻撃しようとしている」とか、やや好意的に理解しようとすれば「この人はそういう配慮さえできないくらいに精神的にダメージを受けているんだろう」と同情的に判断することになります。

 アスペの方からすれば、「表現の仕方」の問題よりも「表現すべき内容」こそが重要なわけで、そのとき自分がどんな表情で言うかなどは意識されないのかなと思いますし、そうだとすれば、素直に「内容」を表現していることについて、相手から非難されることが分かりにくいことになるでしょう。自分の言っていることは正しいはずで、それを否定される理由はないと自分では思える。そして実際定型の側が非難するのは「内容」の誤りではなく、なにかどうでもいいような、「言い方」の面だったりしますから、それは定型から単に難癖をつけているようにしか感じられないとしても不思議はありません。

 そうすると、アスペの方からすれば、定型の要求は「本当の気持ちや考えについて素直にやりとりをすること」ではなく、「相手に合わせて心にもないことを言うこと」のようにも感じられてくるでしょうから、定型的なやりとりのしかたは本音を隠した建前の不誠実なものにも感じられてくるかもしれません。
 
 そして現実的にも定型的なやり取りの仕方は本当に「相手への気遣い」で言い方を工夫することもあれば、打算的にとか政治的にとか、ひどいときには相手を陥れるために「言い方を工夫する」ことがしばしばあるわけで、アスペの方はそういうやりとりも繰り返し見られるでしょうから、そこで定型的な世界に不信感が募ってもおかしくありません。

 そのあたりの不信感の強さについてはそれぞれの方のそれまでの経験が大きく聞いてくるでしょうし、比較的穏やかな環境ですごされれば、そこまで不信感を持たず、「まあ世の中、そういう言い方が<礼儀>なんだろう」というレベルで、気持ちは乗らなくてもパターン理解で対応できるかもしれませんし、逆に陰湿でひどいいじめなど、厳しい環境の中で生きてこられた場合には定型的なやりとりのすべてが虚構に満ちたおぞましい世界に見えるかもしれません。

 そうやって基本的に「不信感」を持たざるを得ないような状況を生きてこられた方の場合には、誰とやり取りするときにもその感覚がベースにならざるを得ませんから、そういうところは敏感な定型の側は、「この人は最初から自分に不信感や敵対感情を持っている」という理解を直感的にするでしょうし、その結果、そのアスペの方に対して最初から警戒心を持って攻撃的な態度で接することになる可能性が高くなります。にわとりさんが「発達(障碍者)は出会った最初の段階から否定的にみられる」という意味のことを繰り返し訴えられていましたが、こう考えれば説明がつきますね。

 多分、視線の動き、姿勢、体の動き、表情、声のトーンなど、定型的には「相手が自分に対してどういう姿勢(好意的か敵対的か)で接してきているか、を直感的に判断する多くのポイントで、そういう不信感を持たざるをえなかったアスペの方は極度に防衛的な(したがって相手に好意を持っていないように見える)表現になってしまっているのかもしれません。これもまたにわとりさんが繰り返し言われていたこととつながってきます。

 しかもご自分はそこは意識が向きにくいところなので、アスペの方にとってはなんで自分が相手にそうやって否定され、攻撃的に向かってこられるのか、その理由が全くわからないことになります。だとすればそれは全く理不尽な攻撃としてしか見られないのも当然でしょう。

 そこでパワーのあるアスペの方はそういう「理不尽な攻撃」に対して激しく反撃をするようになるかもしれません。自分がそうされていると感じているわけですから、相手に対して激しく無慈悲に攻撃することも許されるはず、という人生観を持つ方も出てもおかしくないでしょう。そうやって相手を暴力的に「支配する」ことで困難を乗り切ろうとされる方もありそうです。

 あんこさんのお父さんなど、そういうタイプではないでしょうか。けれども暴力は暴力を生むか、あるいは深い恨みしか残しませんから、そういう暴力的な支配では人間関係は安定せず、常に不安が残され、あるいは膨らみ、さらなる暴力的支配を生むという悪循環が起こります。

 にわとりさんやみりさんが「生意気だ」としばしば言われる理由もだいたい同じ仕組みで考えられそうです。にわとりさんは自分の知的な能力をとても低く言われますが、実際にコメントで書かれる内容はとても「知的」なもので、多分そういう議論の仕方をして、それにまともに対応して議論ができる定型の人はにわとりさんの周囲にはあんまりないのではないでしょうか。

 そうすると、「表現の仕方」については定型からすればほとんどにわとりさんとは理解が共有されず、自分の方は無視されていると感じる状況で、「内容」についてはものすごく高度な理屈をにわとりさんが一方的に主張し続けられるように感じることになり、しかも相手はにわとりさんを「低く」見ているでしょうから「基本的なことも理解できないくせに、知ったかぶりで理屈をこねて生意気だ」という見方になるとしても、ありうる話と思えます。
 
 こうなるともう悪循環しかありませんよね。

 そういう悲しい展開のもとをたどってみると、その一つのきっかけとして「内容」か「表現」かということについての注目のずれがある。

 定型は「内容も表現も」どちらも注目できるのに対して、アスペの方は「内容」にしか注目しにくい、と単純に考えれば、なにか定型の方が優れているようにも見えますが、実際には限られた能力を内容と表現の両方に分散して使う定型は、「二兎を追うもの」で、人間関係は多少スムーズになったとしてもどちらも中途半端になりがちで、アスペの方は一つに資源を集中するので、個人としては非常に深いものを生み出す可能性を持っている、という見方も可能でしょう(このあたりはKatzさんが何度か言われていたことかも)。
 
 そのずれに対処する方法の一つは、やはり「時間をかけたやりとり」になるような気がします。アスペの方は時間をかけて「内容」と「表現」を順に考えていけばよいし、定型の側は時間をかけることで「内容」をさらに深めることが可能になるとか。

2015年12月19日 (土)

我慢と怒りの不毛なサイクル

かつて、まだ定型アスペ問題に気づかなかった頃、私がおかしいと思うことについて最初は我慢してパートナーが察してくれるのを待ち、けれどもたいていそれはうまくいかないので、苛立ちが溜まってきてもう少し直接的に説明し、普通ならそれで十分理解されるはずの事が伝わらず、結果として無視された印象になり、やがて怒りが爆発する……、というような展開が繰り返されたような気がします。

そうやって怒りが爆発してもほとんど何も解決するわけではなく、段々としんどさが溜まるばかりで逆に状況は悪くなっていきます。

定型アスペ問題に気づいたあとは、我慢と怒りの間に「定型アスペのズレを考慮して、もう少し違う理解を探ってみる」という態度が膨らんできました。このブログがまさにその作業の大事な柱のひとつで、皆さんの貴重な体験や視点、ご意見を教えていただきながらその作業を進めてきました。

そんななかで最近感じたことです。

知り合いの方から今年も牡蠣を沢山送っていただきました。今は二人暮らしなので、とてもすぐに食べられる量ではなく、どんなふうに食べていくか「贅沢な迷い」をもって考えたのですが、そのひとつにふと牡蠣御飯を思いつき、早速ネットで作り方を見てみました。これなら私でも作れそうだと思い、パートナーに「牡蠣御飯作ってみようかと思うんだけど」と言ってみました。

すると彼女の表情は途端に険しくなり、即座に「牡蠣御飯は好きじゃない」と言われました。例によって何かこちらが悪いことを言って、そのことをなじられているような印象を与えられる言い方です。


定型アスペ問題を考えてきた経験から、これは彼女には私をなじる気持ちはなく、自分の気持ちを素直に表現しただけで、定型なら笑顔か、あるいは普通の顔で「牡蠣御飯は好きじゃないんだよね」と言うとか、「悪いけど」や「残念ながら」などのクッションを何かひとつ入れようとするところ(特に日本ではその傾向が親しい間でも著しい)、そういう他人行儀の「飾り」を省いただけなんだ、というふうに理解を切り替えてみる事ができるようになってきています。

それで軽く息を吸ってなじられたように感じて反発する思いをすっと収め、そのまま引き下がりました。

それからしばらくして、特にこちらが何を言ったわけでもないのに、彼女の方から「私は味御飯があまり好きじゃない」とごく簡単な説明を始めました。

最近時々そういうことがあるように思います。即座に(ほとんど反射的に)否定したあと、しばらくしてその言い方を自分で気にして、言葉を足す気持ちになるという印象で、彼女の私への気遣いが感じられます。そういう気遣いが感じられると、それだけでこちらの気持ちもすごく変わりますね。我慢と怒りの不毛なサイクルに違う道がちょっとずつ拓かれていくような、そんな気持ちにもなります。まだ微かな兆しというレベルかもしれませんし、今後どうなるかも予想できませんが。

2015年12月18日 (金)

優しくなるには

前の記事の続きです。

優しくなろうとすると感情がもつれて傷つきあい、距離を取って接すると相手が優しさを感じとる。

優しさって何なのだろうとしみじみ思います。

2015年12月16日 (水)

感情の持ち方の変化

定型アスペ問題を考えていくと、お互いにかなり基本的なところで感じ方や理解の仕方に大きなずれがあり、自分の自然な感覚や判断が相手には全然通用しない、ということが見えてきますよね。そうすると、それまでのように自分の理解だけで相手を批判することが難しくなります。さらに理解が進めば、相手にとっては自分の当たり前のやり方が「ひどい人のひどいやり方」になる場合があることも理解できるようになります。

お互いの理解が進む、という意味ではそれは大事なことですが、でもそこでまた新しい問題が出てきます。それは「頭では相手の人の考え方などがわかるようになっても、気持ちが全然ついて行かない」ということです。相手の望みに合わせると、自分の方はなんだか悪いことをしているような気持ちになってしまったり、あるいは自分が無視されるような気持ちになってしまったりしてつらくなる。「無理をして合わせている」という感じがなくならないと言うことです。

この問題はこれまで何度も「さらに考えていくべきこと」として書いてきましたが、ほんとに難しい問題で、さっぱり進まない状態でした。けれども今回、もしかするとちょっと手がかりになるかもしれないと思える経験があったので、それについて書いてみたいと思います。

といてもその経験は定型アスペ間のことではありません。母親との関係のことです。母親はかなり典型的できついパーソナリティ障害だと思うのですが、いい意味でも悪い意味でも「純真」なところがあり、その時々の自分の思いに正直に動き回る結果、周りが激しく振り回されて大変なことになる、ということが繰り返されてきました。

そこに今は認知症が重なってきて、対応が本当に難しくなってきていました。介護ケアを巡って電話はもちろん、手紙やあるいは直接じっくり話をして確認をしたはずのことが、しばらくすると完全に自分の都合のよい話に変化してしまい、(以前は変化したことはわかっていてただ事情が変わったからと言っていたのが)事実の確認自体ができなくなってきてしまっています。かるく妄想的な世界になってしまうのですね。

問題が家族内部のやりとりのレベルならまだそこで処理できますが、いろんな契約などが絡む話になると問題は深刻になり、対応も大変です。

パートナーは介護関係の仕事をしているので、そういうケースもまたいろいろ経験していて、判断もとても現実的です。

私が聞いていて大事だなと思えるポイントとしては、たとえば現実のチェックが難しくなってきた場合には、相手の言うことは否定せず、とりあえずは聞いておくことがあります。それをしないと自分が否定されたと思ってさらに状態が悪くなることが多いからです。

そうやって即座には否定せずに聞いてあげるので、相手からすると共感的に受容された感覚が生まれやすくなり、実際私のパートナーは母親から自分をちゃんと受け止めて理解してくれる人としてとても頼りにされるようになりました。

けれども聞いてあげることとその言葉をそのまま真に受けてそれに沿って対応することとは違います。そこは冷静に現実を判断して、ごまかしごまかしでも本人にできるだけ納得されやすいやり方で進める工夫をしていきます。

そういうやりかたは、聞けば「頭ではわかる」状態になります。ところが実際に母親とやりとりしていくと、どうしてもいずれ感情が言うことを聞かなくなってしまいます。あまりに身勝手で非現実的な言い方に怒りがわいてくるのですね。実際本人の希望に基づいて苦労して準備したこともすべてパーになり、周りにも迷惑をかけてしまうことも多いわけですし。しかも本人は全くそのことを理解したり反省する気配もないわけで、逆にこちらが責められる場合もある。「もういいかげんにしろ!」という気持ちがどこかでわいてきます。

けれども、そこで怒っても、本人は被害感情をふくらませるだけで、ますます自分の世界に引きこもりがちになり、状態が改善されることがありません。

最近その傾向にさらに一段と「磨き」がかかり(笑)、ちょっといろいろ現実的に心配なことも増えてきました。で、さすがに私もパートナーのサジェスチョンもあって気持ちを切り替えるしかなく、もう開き直って何を言われても否定せず、とりあえず聞いて、本人に関係なく必要な対処を考えていく、というスタイルに徹しました。その結果、やはりかなりスムーズに進む部分が増えてきます。

パーソナリティ障害の場合、第三者の目で物事を理解すると言うことが著しく困難になる場合があります。すべては「私とあなた」の二者の関係でしか考えられなくなり、相手をその世界に巻き込んでいきます。私の場合、物心ついた頃には完全にそのパターンを母親から植え込まれていたので、長男の甚六でそれにまじめにつきあい続けていたんですね。そうすると他の人とのやりとりに問題が起こりやすくなるのでとても苦労しましたが、一種の「洗脳状態」になりますので、それがながくつづきました。

そうすると、たとえば母親に関連することを、第三者と相談をする、ということについても、母親が極端に疑心暗鬼を起こします。それが大きな不安ともつながり、結局二者関係の中で相手を支配しようとする行動にもつながっていきます。第三者の介在を許さなくなるんですね。一種のカルト状態です。(家族の関係は多かれ少なかれそういう傾向を持っていると私は思うのですが、それが極端になります)

今回ある程度母親にうまく対応できたのは、パートナーのサジェスチョンを受けて、ある意味で「他人」になったからではないかという気がするんです。母親の強烈な二者関係支配をもう一段階抜け出て他人として接する構えができてきた。そうすると、相手の「身勝手」な言動に、たとえいらだつことがあっても、ちょっと余裕ができるんですね。その結果、私が対応した後に母親からパートナーにかかってきた電話では、私がとても優しかったという感想になっていました。

親子関係だと、どこか感情のつながりにダイレクトな部分が残り続け、そこが刺激されてしまって冷静になりきれません。よく介護や看護の関係の方が、「自分たちは肉親でないからこういう対応が可能だけれど、家族はそれは無理でしょう」というようなことを言われることの意味も、そういうことに関係しているのだと思います。

パートナーが母親に上手に対応できるのも、そういう距離感をかなり自然にとれるからでしょう。「他人」に対しても、親切にしたいという気持ちは起こりうるわけですから、他人だから見捨てるという話ではないですし。

そこで思ったことなのですが、「頭ではわかるがやるのは感情的に難しい」ということになる理由の一つは、なんかそういう気持ちの距離感の取り方に関係するのかもしれません。パートナーがよく、わたしが求めている夫婦関係のあり方について、「他人であればできる」というようなことを言っていたのも、もしかするとそういうことに関係するかもしれません。

2015年12月11日 (金)

障害という見方について

 ココチさんからボーダーパーソナリティー障害問題のブログを教えていただき、読んでいて改めて「障害」という診断の意味がわかる気がしました。

 だいぶ前ですが、お医者さんからこんな話を聞いたことがあります。内科の非常に有名なお医者さんがあって、お医者さんたちに対して、自分の診断は、あとで病理解剖などをすると、正解率は8割だ、と話されたそうです。それを聞いて他のお医者さんたちは驚いた。

 みなさんは驚かれましたでしょうか。私は話を聞いて驚きました。2割も誤診するのかと。けれどもお医者さんたちがそこで驚いたのは、8割も当たっているのかということだったそうです。それは驚異的な「正確さ」だというわけですよね。そんなに当たるわけがない、というのが常識なのでしょう。

 ところでこの話は病理解剖をしてみて、目に見える原因が特定できるような種類の病気の話なのだと思います。少なくとも死に至るようなはっきりした「異常」が目で見てわかるレベルの違いが見える場合でしょう。

 これに対してパーソナリティー障害でもそうですし、アスペルガーでもそうですが、特に精神科が扱うような領域では、実態として診断するお医者さんが変われば診断名が変わることはそんなに珍しいことではないように思えますが、そういうことがあっても、必ずしもそのどちらかが「誤診」だとも言えないのですね。

 たとえば最新のDMSでは、そもそもアスペルガーという名前さえ消えてしまったわけです。その理由としては定型とアスペの間に明確な境界線はなく、なだらかに続く変化と見た方がいいだろうということもあったりするようで、それについては「スペクトラム」とかいう概念で理解し直しているわけです。いくら脳の解剖をしてみたところでそこに明確な線引きが見いだされるわけでもありません。

 こんな例で説明すると少しわかりやすくなるかもしれません。虹の色のように色合いが連続して変化しているものがあったとして、そのどこからどこまでが赤ですか、と判断してもらうと、その境界線の引き方は人によって違います。便宜的に色の波長で分けることも可能ですが(たとえばウィキで見ると赤は620-750 nm)、そんなのは明らかに便宜的なもので、だから言葉が違うと、色の区別の仕方も変わるので、ある言葉では虹を七色で表現するけれど、別の言葉ではもっと細かく分けたり、場合によっては3色でしか分けなかったりと言うことも起こります。赤の範囲も当然異なる。

 けれども福祉や医療などで行政的に対処するには、どうしても基準が必要になります。どこかで線引きをしないと、「○○だからこういう行政的な対応をする」という判断ができないわけですね。で、その役割をお医者さんが担うことになる。

 スペクトラムの端の方であれば、診断はどのお医者さんがしても(といってもアスペのことを理解している方に限りますけど)そんなに意見が割れることはないでしょうが、そうでなければどこまでの範囲を障害として見るかは、絶対的な基準がないので、判断が人によってとか、場合によって揺れることは自然なことになります。

 で、ここでも何人かの方が書かれていましたが、判断の有力な基準のひとつが「社会生活を送れているかどうか」というあたりに求められたりする。定職を持って仕事ができていれば障害とは診断されず、そこができないと診断がおりるとか、そこも微妙だと思いますけど、そんなことになるわけですね。

 そうすると、「アスペルガーと定型を共に生きる」の伸夫さんもそうでしたが、当事者から見れば明らかに典型的な定型アスペ問題で苦しまれていると思える方であっても、診断がおりない場合もあるわけです。

 たとえばこんな事例もあり得ます。ある人が卒業して就職をした。本人もかなり無理をするところがあり、周囲も困惑するところもあり、その状況は定型アスペ問題の典型例のように見えるが、ぎりぎり仕事を続けられた。

 この場合、お医者さんによってはそれをアスペと診断しない場合があり得ます。ところがそういう無理を続けたけれど、けっきょく本人も周囲も定型アスペ問題に気づかずに、どうやってうまく調整できるかもわからず、数年たって大変さが募って周囲の目も厳しくなり、本人も鬱状態になり、通院し、さらには離職せざるを得ないことになったとしたら、今度はそれでアスペと診断される可能性が出てくるわけです。本人のしんどさは変化しても、別に「アスペが進行したから」というわけではないわけですが。(もちろんそういう基準も絶対的なものではなくて、実際Katzさんは職場で活躍を続けていらっしゃるけれど、診断がおりています。)


 ということは、この例の場合は、たとえば職場がとても柔軟に対応可能なところであれば、その人も仕事を続けられる可能性が高まりますし、そうすると診断もおりないこともある。同じ人でも職場によってアスペとされたりされなかったりの違いが生まれうることになります。


 行政的にはそれでいいんですね。「社会生活が送れないから障害者だ」という基準で「福祉の対象」と判断すればいいわけですから、別に絶対的な基準がなくてもいい。微妙なケースについては診断したお医者さんの基準に任せたらいいわけです。他のお医者さんならどう診断するかと言うことは基本的には問題にならない。

 もし、定型アスペ問題への理解が進み、お互いのずれへの効果的な対処の仕方の工夫も進み、今に比べてそんなに苦労しなくても関係がとりやすい場合が増えたとします。そうすると障害と診断されるケースはぐっとすくなくなっていきます。


 障害という見方はそもそもそういう性格を持っているのでしょう。前にも書きましたが、優れた視力を持ち、高い運動能力や強靱な身体が必要な狩猟民の社会に入れば、どんくさい私はどうしようもない障害者扱いになります。でも、文字も読めない、算数もできない彼らは、今の日本の社会ではとても生きて行かれず、鬱にもなりやすいでしょうし、障害者扱いになっていく。
 
 
 じゃあ曖昧だから障害という見方に意味がないかといえばそうではありません。そのこともなんどか話題になってきました。スペクトラムという理解の仕方で言えば、「境界線付近」はあいまいですが、端と端の間ではすごく違う。その端の方を、典型的な例として取り出してみると、その障害の特徴がすごく浮き立って見えてきます。どこでお互いにずれるのか、そのずれの起こり方の特徴は何かがわかりやすくなり、対処の可能性が広がってくる。


 で、そこで得られた理解を参考にすると、今度は微妙な例でも「ここはその理解でうまく対処が可能」という部分が増えてきたりもします。実際役に立つわけです。

 私が「アスペルガー問題」と言わずに「定型アスペ問題」という言い方にこだわっているのも、当事者という言い方をアスペの方に限定せず、定型アスペ問題の当事者という言い方で、定型側も含めて考えるのも、障害という問題についてここに書いたような理解が重要だと思っていることが一つの理由です。

 それは物理的に線引きできるような絶対的なものではなくて、実際にそういう方のコメントもありましたが、「浅瀬」の方の場合、定型社会の中ではアスペとして苦労され、よりアスペ度の高い(?)パートナーとの関係では今度は定型的な苦労をされる、というようなことが起こる。それが定型アスペ問題なんだと思います。

 だれがアスペでだれが定型だと言うことを固定的に判断する必要はないし、ある人がアスペだと見なされたら頭の先から足の先まですべてアスペだという見方をする必要もない。その人の置かれた状況の中で、その人の周囲の人とのそれぞれの関係の中で、ある部分が定型アスペ問題という形で展開していくし、そういう見方である程度対処の仕方も見えてくるというだけのことです。

 障害の問題を、実際に一人一人の方が生きているそれぞれの具体的な状況の中で見つめて対応しようとしたら、固定的な決めつめの話はどうしても限界が出てきます。見方がどうしても一面的にならざるを得ないので、場合によってはひどい害にさえなる。差別なんかもその典型的な害悪の部分でしょう。そういう一面的な決めつけの話にも陥らず、でもずれを認めずに「みんな一緒」ですませ、けっきょくは多数派のやり方を押しつけるだけにもならず、ひとりひとりの個性的な状況の中での個性的な生き方をベースにこの問題を考え、それに対処していくことが大事だと、やっぱり思うんですね。定型アスペ問題が私たちにつきつけている課題はそういう性質のものだという気がします。

 
 

2015年12月 8日 (火)

ネットの効用

 

Katzさんのコメントにもありましたし、パートナーについても振り返るとそう考えると納得がいくエピソードがいくつもありますが、アスペの方は急な対応を迫られるととても困られて、場合によってちょっとパニック状態になることがあるように思います。


 もちろん定型もパニックになることはあるわけですが、どういうときにそうなるかのポイントが違うのでしょう。定型ならそこはあまりパニックになりそうにないところでアスペの方はそうなるような気がします。

 それで、パートナーとのやりとりで、「あれ?」と思ったときにはちょっと身を引いて、即座に応答せずに、一息入れる感じにすると、比較的スムーズにいく場合があります。(もちろん私の方にもゆとりがある場合のことで、こちらもゆとりがないと難しいですが)

 そのことに関して、ちょっとおもしろい経験をしました。

 すごく頭の切れる人とメールでやりとりをしていて、こちらの質問に対してさっと答えてくれたのを読んで、なんかすごそうなことがさらっと書いてあることはわかるんだけど、何のことなのかよくわからないんですね。で、すぐには応答せず、半日以上おいて二度三度と読み返してみたら、ちょっとずつわかるようになって、「ああなるほど!」と思えたわけです。

 そのとき、この感じってもしかするとアスペの方が定型的な人間関係について定型とやりとりするときにも似たようなことがあるのかもしれないと思ったのでした。

 これまでもアスペの方とのやりとりで何度かそういうことがありましたが、私が「定型が人とやりとりするときには半ば無意識でこういうようなことを考えたりやったりしている」ということについて説明すると、そんなに難しいことをしているのか、という感じで驚かれることがありました。

 定型がほとんど無意識でやることを、アスペの方は一つ一つ意識しながら、頭で理解してやる必要がある訳ですよね。たとえば自転車を乗れる人はどうやってバランスをとるかとかいちいち頭で考えることはありませんが、できない場合はいろいろ考えて試してみるしかないみたいな。それをいちいち理由を考えて乗ろうとしたらめちゃくちゃ大変です。

 そういう大変なことを定型的なやりとりについて、アスペの方は常に要求されていて、膨大なエネルギーをそこに費やさざるを得なくなるとすれば、アスペの方が外から帰るとぐったりするのも無理はないと思えます。

 また、にわとりさんなど、ご自分で知的な理解力が全く欠けていてみんなからも馬鹿にされているようなことをおっしゃる方が、ここで書かれていることを拝見するとものすごく知的でびっくりする、というようなことがしばしば繰り返されます。

 そういうときも思うのですが、本来持っている知的能力を、定型なら無意識でほとんど自動的にやってしまうようなやりとりに費やさざるを得ないので、そのほかのことに使う余力がなくなり、周囲からあたかも「知的能力がない」と思われてしまい、そう言われ続けた結果、ご本人も「自分は知的な面で障がいがある」とまで思われるようになるのではないかと。

 そういうわけで、ネットのやりとりは、そこでゆっくり時間を使えるので、そうするとアスペの方も本来の力を発揮しやすくなるのではないかと思ったわけです。

 もしそうだとすれば、アスペの方がその能力を十分引き出して活躍されるためのひとつの工夫として、定型的なやりとりを即座に行わなければならない環境を作らず、少し時間をおいて対応できるような仕事の仕方を作っていく、ということがあるのではないかと思ったわけです。

2015年12月 5日 (土)

怒りの質問 不安の質問

前にも少し書いたのですがパートナーとのやりとりで私が何か怒られているように感じてしまう場合のひとつに、細かいことをひとつひとつチェックされるということがあります。

今日も、いつも助けてもらっている私の親の介護のことで状況が今色々動きつつあるので、現状を彼女に聞かれて説明していたのですが、関係者と打ち合わせた内容について、あれはどうなっているか、これはどうかと畳み掛けるように細かく聞かれます。

私もかなり大雑把な人間だということもありますが、それだけではなくて、関係者との間でもそういう大雑把な話ですんでいるところがあって、あとの細かいところは適当に調整するだろうし、問題が出てくればその時また連絡して考えればいいという程度の感覚なのですが、それが「許されない」雰囲気を感じてしまいます。なんか切羽詰まって次々に問い詰められる感じがして、答えられないとまたすぐ次が来て、何だか息苦しくなってくるんですね。

でも彼女の方には別に私を叱責している気持ちは無いようなんです。そこが分かりにくかったんですが、何となく彼女の不安な気持ちも伝わってくるような感覚がありました。

それで、最近考えたことから改めてその事の意味を考えてみると、ひとつには定型が何となく曖昧に相手に委ねて任せてしまっているようなことについて、自分として細かいところまで意識して知っておかないと、何をどうしていいかの判断が難しく、そのことに責任をもって対処しようとすればするほど曖昧な部分を残せないという切羽詰まった感じになるのかもと思ったんですね。

タイプもあるかもしれませんが、アスペの方が自分の空間を大事にして、他者との関係も自分の空間のなかに取り込んで作ろうとする傾向が強いとすれば、すべてのことを知識として自分の空間に取り込んでおく必要がありますから、そんな風になるのも無理はないかなあと。

で、介護のこととか、社会のことについては基本的に分かりにくくて気の抜けない世界ですから、一層切羽詰まった感じになって緊迫感も出てくる。その感じを私が何だか「あなたはこんな基本的で大事なことも確認できないのか」と言われ続けているような印象になってしまう。そんなことかも。砂漠さんの体験でも問題になりましたが、定型的世界では「質問すること」自体が相手を叱責する意味を持つこともありますしね。

2015年12月 4日 (金)

「文字通り」のコミュニケーション

 

砂漠さんのコメントなどで改めて思ったのですが、定型は表情や姿勢や身振りなどを、相手からの自分へのメッセージとして読み取る姿勢がすごく強いんでしょうね。それでお互いの関係を調整するということについては、交わされる言葉よりもそういう部分で行っていることがすごく多い。

 Katzさんとやりとりしていて、私はときどき、Katzさんがアスペであることをほとんど忘れてしまうくらいの感じになっていることがあります。人の心の動きを理解するというようなことについても、定型よりもよほど深い読みをされていることも多いですし。

 でも、もし仮に直接お会いしてお話しすることがあったら、その印象がまた変わる可能性もあるのかなあと、そんなことを思いました。お会いすれば表情その他の別のメッセージがいろいろ加わりますし、そういうところでは定型とのずれが大きくなる可能性もあると思うからです。

 逆に言えば、こうやって文字だけで交流していれば、やりとりはスムーズになる場合が増えるのかもしれませんよね。アスペの方は定型から余計な表情などの読み取りをされることがなくなりますし、定型の側はアスペの方の表情などから否定的なメッセージを読み取ってそれに振り回されずにすむ。ただ文字にかかれたことだけ、ゆっくり理解すればいいわけです。

 考えてみれば私がなんとなくこれまでしてきた工夫は、そういうものが結構あったような気がします。たとえばパートナーと話をするとき、横になって目をつぶって話をする、という時期がしばらくありました。それは自分自身の体の力をできるだけ抜いて、そして彼女の表情を見ないようにするためでした。そのことによって余計な感情に振り回されることが少なくなり、話が少ししやすくなったのです。

 最近も彼女の話をできるだけ「淡々と聞く」ということを心がけているような気がします。一瞬自分が責められるように感じてしまうときも、その自分の気持ちはほおっておいて、話の「内容」に集中するとか。

 文字通り「文字通り」のコミュニケーションを心がけるというのか、飾りの部分はとりはらって、表情などのメッセージを読み取ることもやめて、ただ語られた文字通りの中身、かかれた文字通りの意味を理解するように心がけること。
 そんなコミュニケーションの仕方がひとつは手がかりになるのかもと思います。

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