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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年11月22日 (日)

生き方のすり合わせ:当事者の論理

 昨日の話は改めて簡単に言うとこういうことでしょうか。

 定型は自分の問題を人とのやり取りの中で解決しようとする傾向が強い。感情の問題もお互いの気持ちのやりとりで調整しようとする強い傾向がある。基本的にそういうことをベースにしながら,「人に迷惑をかけてはいけないから,自分でなんとか頑張って解決する」という姿勢も生まれる。

 アスぺの場合は自分の問題は自分でしか解決できないという感覚が基本になる。感情の問題は特に人との間で調整することがむつかしく,他者の感情は自分にとっては自分をかき乱すものになる可能性が高いから,基本的には避けたいものになる。自分で自分の問題を解決する,ということを大前提として,それでも他者とのかかわりなしには生きられないので,それに対応する工夫については努力を積み重ねようとする。

 他者との関係が基本にあって,その中で自立を目指すのが定型で,自分の中で閉じた世界があって,それをベースに他者との関係を調整しようとするのがアスぺ,というまるで正反対の姿勢があるのではないかということです。そうするとお互いに問題が起こった時にどう調整しようとするかでまるっきり対処の仕方がずれてしまい,相手のことが全く理解できない状態に陥ります。

 ここでしばしば取り上げてきた,「病気の時にどういう対応を望ましいと考えるか」についての定型アスぺ間の極端な姿勢の違いはこれで説明できます。「悲しいときに,大事な相手に配慮して笑顔を見せる」というのが定型的な気遣いの仕方で,アスぺの方には分りにくい(のかもしれない)ということも同じ仕組みで理解できます。相手につらいことがあった時,定型が「辛いよね」と相手に共感的にかかわろうとすると,アスぺの方がかえって辛くなる,というのも同じ理屈で想像可能になってきます。

 定型の側が「共感が得られない」「傷つくようなことを言われる」「気遣おうとしても拒否される」など,アスぺの方から「拒絶され,排除される気持ちになる」ということ,そしてそういうふうな理解をアスぺの方に伝えると,今度はアスぺの方がショックを受け,傷つき,なんで自分の配慮を分ってもらえないのかと絶望的な気持ちにもなることは,定型アスぺ問題の本丸とも言えるような大きなズレだと思うのですが,そういうズレが起こる仕組みは,かなりの部分上のような理解で見えてこないでしょうか。

 なんでそういう姿勢の違いが生まれやすいのか,ということの「原因」としては,たとえば脳の働き方の特徴などが効いている可能性はもちろんあります。でも,私たち当事者にとって大事なのは脳の違いがどうのこうのということよりも,そういう違う条件を抱えて生きている二人が,お互いにどうやって一緒に生きていけるのかという問題です。

 そのことを考えるには,障がいの有無とかいう話ではなくて,「生き方の違い」をどう調整するかということの方が本筋の問題であると私は思います。生き方の違いが生まれる原因の一つに脳の違いがある,ということはあくまでも背景的な問題にすぎません。

 たとえば男と女は体のつくりが違うから,生き方にも自然に違いが出てきます。でも男女が共に生きていくうえで大事なのはその体の違いをどうにかすることではなく,違う生き方を作り上げてきている二人がどう関係を調整しながら生きていくかという問題の筈です。そこを調整するために,体のつくりの違いも理解する必要があるのであって,体のつくりの違いが理解できたからそれでそのまま関係がよくなるわけではない。

 今改めて思います。定型アスぺ問題というのは,違う生き方を育ててきた人間同士が,その結果生まれるさまざまなズレを調整しながら,どうやってお互いの生き方を否定せずに一緒に生きていけるのかという問題なのだと。

 世の中は良し悪しは別として,どうしても多数派の論理を中心に動きますから,少数派がそれに合わせざるを得ないという現実が生まれます。少数派は最初から不利を抱えて無理をして生きざるを得ない。ここはある意味「なんでお月様は2つないの?」といって文句を言う人が仮にいても「そんなのしょうがないじゃん」としか答えようがないのにも似て,もうどうしようもない現実というところがあります。

 医療や福祉は,そのどうしようもない現実を大前提にして,基本的には「多数派」を軸にした「多数派の視点からの少数派への配慮」という論理で成り立つものでしょう。

 ただ,夫婦とか恋人とか友達とか親子とか,身近な小さな関係になると,そういう多数派VS少数派の関係とは話が違います。そこでは強者と弱者の力関係が逆転することもあるし,対等な力関係になることもあるし,単に多数派が自分の理屈をそのまま通して,少数派がそれに合わせる,という形では追いつかない,別の現実が生まれます。

 そこは世の中の「多数派少数派」の理屈とは違った形で,それぞれの当事者の現実に合わせて,それぞれに個性的な形で,お互いの生き方をすり合わせていく工夫が積み重ねられる必要が出てきます。それが医療や福祉の論理では届かない,当事者の論理と当事者としての工夫が必要な世界ということになるのだと思います。

 そこは医療や福祉などの援助をもらいながらも,最終的には定型アスぺ問題の当事者自身が解決していくしかない。結局それが他の誰でもない,自分たちの人生を自分たち自身で生きていくということでもあるのだと思います。
 

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コメント

この記事を永久保存版にしておきたいですね。

医療も福祉も、『対処療法』でしかないから、問題は解決しない。
対処療法は、起きた問題には対処できるけど、根本が理解できていなければ、似たような状況が繰り返されて、またその都度対応を考えることにしかなりません。

定型の行動様式が定型自身で『どうしてそうなるのか』なんて考えないように、
アスペの行動様式がアスペ自身で『どうしてそうなるのか』なんて考えない。

つまり社会は当事者しかいないので、客観視することが本当はできないんですよね。

そこを、ここでは模索できるっていうのは、すごいことです!

男女の例に振り替えてみると、すごくわかりやすいですね!
これを常に意識していると日常にも活かせるような気がします。


女性が男性と同じような体力や感覚が欲しいと思っても難しい。

例えばフィギュアスケートで、浅田真央さんに四回転跳べといっても不可能なわけで。
でも、逆に羽生結弦くんに三回転以上跳んじゃいけないっていうのもおかしい。
それぞれの限界を目指して努力しているということを、誰もが認識しているわけです。

同じく女性が男性の感じ方を理解しようとしても難しいし、女性が男性の感じ方を理解しようとしても難しい。
それが一般的に周知されているからこそ、LGBTの方が苦しむわけですしね。

そこはやっぱり、どうして違うのかを理解するよりも、違うんだな、おそらく理解できないな、相手はそう感じるのかなるほど、で済む問題なんでしょう。

男女の脳の違い、身体の作りの違いを調べてまで、理解しようとする人なんていませんし、それを理解するのは医療の研究とか、スポーツ分野での対策とか、お互いの理解なんてところとは目的がまるで違うものですから。

あすなろさん

 あすなろさんは対人関係の基本的な感覚については定型サイドと理解しているのですが,この見方は定型サイドの当事者の方には比較的理解しやすい考え方なのかもしれませんね。果たしてアスぺサイドの方から見るとどうなのかは気になるところです。

 いずれにしても,私自身はそういう見方をしてみることで,かなり落ち着く部分があるので,ちょっとこの見方についてこだわってみたいと思います。まだいろいろなことがそこから見えてきそうな気もしますし。

無名の投稿がありましたので,お約束通り非公開にしました。
ハンドルネームをお知らせいただければ公開に戻します。

自分と他人は別々の考えを持ち、それを認めるというのは大切だと思います。ただ、その段階の前に自分は自分であるという認識が必要なんだと思います。

発達障害当事者のスカイさんのブログにこんな記事があります。
http://s.ameblo.jp/hattatsu5/entry-11821865071.html
発達障害の方は自分と他人の境界線が曖昧という特性があり、自分の考え、感情は言葉で説明しなくても伝わるはずと無意識に思いがちである。他者が自分を理解してくれない時、自分に対して関心を持ってくれない、とか、自分に対して悪意を持っていると、歪んだ認知で捉えてしまう。しかし実際には、単に本人の言葉が足りていないから伝わらないのだ。また、他者との境界が曖昧ということは、考え、感情が自分のものか他者のものかということも曖昧であり、自分に自信が持てない原因にもなる、というような内容です。

私はこの記事を読んだ時に、私たちがよく「大丈夫?」と確認し合うのは、他者の考えは実際に言葉を聞くまでわからない、つまり他者との境界線をしっかり認識しているからなんだな、と納得できました。そして、アスペ定型問題でよく出てくる「なんでいちいちそんなこと聞くの(言うの)?」という会話も、この理屈で納得できました。

スカイさんの旦那さまは、これに気づき、会話の重要性を理解することで怒りに取り込まれることがなくなり、自分の考えに自信が持てるようになったとのことです。

こんなふうに特性によって生じる勘違い、思い込みを本人が理解し、変えていくことで生きやすくなる例もあるということを考えれば、医療やSSTという介入も意味があると思いますし、当事者の方の実体験に基づく「こうすると楽になるよ」という発信は、定型にとっても非定型の方に対する理解につながるなぁとしみじみ思います。

まるさん

大事なポイントをありがとうございます。

> 発達障害の方は自分と他人の境界線が曖昧という特性があり

どちらの側の当事者から見ても、定型的なラインの引きかたを基準に見ればそういう風な理解になりますよね。そこは私なりにそう思います。

その事は一応前提にした上で、アスペの方がいつも苦しまれることの一つに定型が自分の基準を無自覚に押し付けてくることだ、ということがあって、そこがほんとに深刻な問題だなあといつも思うんです。実際私自身これまでどれ程無自覚に自分の基準でパートナーや他のアスペの方について判断していたか、定型アスペ問題の理解が深まるほどに思い知らされる感じが続いています。

そうするとこれもまた「自分と他人の境界線が曖昧」ということにならないでしょうか。

こういう理解の仕方はもしかすると「みそくそいっしょ」みたいに感じられるかもしれないとは思うんですが、でもアスペの方がおかれた状況を私なりに想像してみると、やっぱりそこがおろそかにはできない大事なポイントと感じてしまいます。

医療的なサポートの現実的な(定型社会で生きていくための)必要性やその役割の大切さについてはおっしゃる通りのように 思います。

そこも一応前提にした上で、それでも当事者自身が自分の抱えた現実のなかで、自分自身で解決していくしかない問題があって、そこは医療や福祉の論理ではどうにも届かない、ということもリアルな現実だと思うんですね。そこはある意味で「役割分担」のようなことがあるんだと思います。

それぞれの立場でそれぞれの役割があって、お互いに相手の役割にとって変わることは多分不可能なことだ、という線引きがあると、それぞれの人が自分のおかれた現実に足を下ろした上で、主体的に努力しあう事ができるのではないか。そんなことを思います。

かずきです。

なんだか、お話の内容にもやっとするんです。
違うよ、って言いたいけど、それがうまく言葉になりません。
でも、もやっとするんです。

なんだろう。

「みんな一緒、共同体」意識は定型の方が強いように感じます。
「自分は自分、個人主義」できている私にとって、
この話の流れは少し違うかなと思います。

不愉快さを顔や態度に出してしまうことは有るので、
(それを相手にぶつけてるわけではない時にも)
それは申し訳ないと思うのです。
が、
極端な例ですが、
イライラしてドラム缶に対して暴言を吐いてぼこぼこにする。
それは見てる人に対してするわけではないですが、
見てていい気持ちはしないですよね。

で、こういうことをするのはアスペだけかと言うとそうではなくて、
定型もする。
じゃあなんでアスペ側だけクローズアップされるのか。
少数派だから?

辛くても相手に対して気遣って笑う事ももやもやしてるままなので、
正直今の展開についていけないです。

すみません、まとまらないうちに送信してしまいました。
散文失礼しました。

かずきさん

ぜひそのモヤモヤを言葉にして教えてくださいね。もちろん言葉になったときにで結構です。

あるいは引っ掛かる部分とか、引っ掛かる表現とかを指摘していただくことでもいいですし。

多分そこに大事な問題が隠れているだろうと思いますし。

かずきさんのもやもやするお話というのは、パンダさんの記事についてでしょうか?
そうなら、ぜひ、かずきさんの捉え方を聞いてみたいという興味があります。

それとも、スカイさんのブログ記事についてでしょうか?
そうなら、私も同じように疑問を感じます。

スカイさんのブログの内容については、当事者の方の意見なので、スカイさんが実感として感じられていることなのでしょうが、それは本当に『ほかのアスペの方にも共通する特性』なのか?と思われるのです。

他人との境界が曖昧であるというのは、『境界性人格障害』の特徴です。
人格障害と発達障害の間には誤診も多いというくらい、発達障害の方でもこういう特徴を持っている人が多いのでしょうが、大元の発達障害の特性は、別のところにあって、それが原因となって人格を侵害され続けてきたために起きた二次障害と考えた方がいいような気がするのです。

実際、この記事を拝見すると、スカイさんは、『他人との境界が曖昧である』という点をすでに克服されていて、ご主人のことを客観的に見てそう思われたと書かれています。
つまり当事者であるはずのスカイさんは、その特性を克服されたということですよね。

発達障害の『特性』というのは、心構えで変えられるものではありません。
その点からも、これは特性ではなく、二次障害として発達障害者が併発しやすい問題だと考えられます。

我が家はまさにそのサンプル(笑)が揃っていますので、分かりやすいです。

例えば、私が疲れてお皿を洗わずにいたとします。

息子(アスペ、特徴的な二次障害なし)がそれを見て、お皿を洗ってくれた。
私がお礼を言うと、「なんであんたがお礼を言うわけ? 洗えるから洗っただけ」と言います。
彼にとってふと目に付いた台所の惨状が許せなかった。あるいは、時間的に余裕があって、これくらいならやってしまおうと思った。それだけのことです。
なので、別の日に同じシチュエーションでも洗わない。私からお願いをすると、不快な顔をします。

一方、夫(アスペ、人格障害かなり強め)は、『皿洗いは妻の仕事』と決めています。
夫が皿を洗うのは、自分の側に何か要求があるときや、私の気を引きたい、または自分の存在を誇示したいという『思惑』があります。
なので、皿洗いを終えて私が反応しないと、必ず『洗ってやったぞ』『大変だった』『そんなに疲れているの?』と声を掛けてきます。こちらがお礼を言わないと、途端に不機嫌になります。後で皿洗いとは関係ない要求をしてくることもあります。

ふたりとも、おそらくアスペの特性で、『相手の事情を理解する、相手の状態を推し量る』というのは難しいのかなと感じます。
しかし、人格障害を持っていると、『相手の事情は分からないが、相手を意識して出方を伺う』という特徴が出てしまうのではないかと。

スカイさんが当事者会で見かけた、お互いを非難し合うような激しいやりとりは、どちらも人格障害が重なっているために起きることではないかと。

そして、かずきさんのおっしゃる

>イライラしてドラム缶に対して暴言を吐いてぼこぼこにする。

という行為は、攻撃的な定型が、相手に恐怖を与えて支配するために行う行為と似ているのです。
ヤ○ザ映画で、殴りかかる前に周りの物を蹴散らすっていうあのシーンのように、『これからお前に殴りかかるぞ!』という警告を促す行為と似ている。
定型側は、それを『恐怖』と受け取って、発作的に自己防衛、その場から逃げる、または反撃に出ると思います。

それが、アスペの人にとっては、

>それは見てる人に対してするわけではない

これは、大きな誤解の元になっているのではないかなと感じます。


定型が『常に相手の行動や反応を意識しながら行動している』というところに、誤解が生じてしまうのでは。

それによって、アスペの方が表面的にでもなんとか定型に合わせようとした結果、乖離が生まれて人格障害に発展してしまうケースもあるのでは?と感じます。

パンダさん、かずきさん、あすなろさん

私の引用が混乱を招いているなら、本当にごめんなさい。
他者との境界線についても、境界性人格障害の特徴なんですね。個人的には、小さい時には割と誰もがそういう認知を持っているけど、経験とともに自分と他人の区別がつきはじめる。そこが自閉症スペクトラムの方は程度の差はあるけれど自己完結している分、自分で気づきにくい傾向があるのかなとスカイさんのブログから解釈してました。不勉強ですみません(ーー;)。定型、非定型はこうであるという枠組みにはめたいとか、決めつけたいとか、多数派に合わせて欲しいとか、そういうつもりはないんです。また、ここは違うよ、というところがあれば教えて下さい(>人<;)

わかりづらいかも知れないけど、例え話をさせて下さい。
翼を持っていて自由に空を飛べる鳥と、翼はないけど自由に地を走る鳥と、翼を持っているけれど自分でそれに気づかずに不器用に地を歩き回る鳥がいるとします。
飛べる鳥が翼のない走る鳥に「飛んでみなよ!」と言うのは押し付けになります。飛ぶ鳥と走る鳥が一緒に生きていくなら、それぞれの特徴を受け入れて一番いい方法を探して生きていくことになるでしょう。
でも、翼を持っているのに気づいていない鳥に対しては、「君には翼があるよ、飛べるよ。」と教えてあげたら、今より楽に生きられるかもしれない。そのアドバイスは、単に飛べる鳥から言われるよりも、「自分も翼があることになかなか気付かなかったけど、ある日気づくことができて飛べるようになったんだ」という鳥から言われた方が受け入れやすいんじゃないかな、と思います。

ここでは目で見える翼を例えに出しましたが、現実には定型・非定型間のズレというのは、目に見えないんですよね。つまり、そのズレが「変えることは不可能で、お互いの違いを受容する方が楽になるタイプのズレ」なのか、「気づきを得て変えることで楽になるタイプのズレ」なのか、という判断がとても難しい。
私は多分定型なので、アスペの方が不機嫌そうな表情を浮かべている時に、「これは私に向けられた感情ではない」と受け入れることで楽にはなるかも知れない。でも、アスペの方がそういう不機嫌さについて「なんでこんなに不機嫌になるのかわからない。後から考えると理不尽な怒りだと理解できるけど、その時は頭が真っ白になって自分を止められない。」というような苦しみを感じているなら、何か良くなる方法があればいいのに、と思います。そこに「かつて自分もそうだったけど、乗り越えて楽になったよ」という体験談があれば、それは変えていくことでより良く生きられるタイプのズレだという判断材料の1つになります。当事者の発信はそのズレを客観的に分析する手掛かりとして、すごく大きな意味があるんじゃないかなと思います。もちろんこのパンダさんのブログのように、いろんな立場の人がいろんな考えを話し合う場もとても大切だなぁと思います。

私も考えがまとまらず、本筋とズレてるかもしれないし、なかなか上手く言えないんですけど、もし私が走る方の鳥で、大事な人が翼に気づかない鳥だったら、多少生き方は違っても、相手には自由に飛んでほしいなぁ、と思うし、私自身が翼に気づかない鳥である可能性も頭に入れておきたいなぁと思います。

かずきです。

前記事からですが、

>そして私の感情を理解するわけですから,当然自分の感情だって理解できるでしょうし,

これは危険な思い込みのように思います。
当然じゃないと思います。
自分の感情を理解することは難しい事の一つですから。
まれに的確にできますけど、少ない体験です。

まさしく、「表現してくれることだってある。」だけだと思いました。

>彼女が何かの葛藤を抱えていたとして,それが自分にとっては不快でしんどい状態なわけですから,それが自然に表情に出る。でも彼女にとってはその表情は別に相手に対する表現ではなくて,ただ自分の中の感情がそこに出ているだけのことなのです。その表情で相手に何かを伝えているつもりは全くなく,表情のやりとりで相手との関係を調整しようなどという発想もない。

ここはその通りだと思うのですが、
定型の方が表情を作るときは全て他人のためなのですか?
コントロールできない表情とかもあると思うのですが…
そのコントロールできない表情の幅が広いだけ、という解釈はできないでしょうか。

前後しますが

>自分の感情を他の人とやりとりしながら調整していく(気持ちを立て直したりとか)こと

と言うのが分かりにくいのですが、具体的にどんなことなんでしょうか。
パッと考えてもそういった経験がでてこないので。

以上が前記事への感想で
それを踏まえて今回の記事にはおおむね同意です。

モヤモヤしていたのは、冒頭の当然、の部分と、スカイさんのblogに対してですね。

ご本人はそうなのかもしれませんが、私は違うなーとぼんやり考えてました。

他者との境界が曖昧なのは共同体意識なのか、
完全に同化という意味なのか。

前者ならば定型の方が強いように思えるし
後者ならば、子供は親のおもちゃじゃない、とかそういう話なのかなぁ、とか。

私は他人と私は違ってていいんだ、という意識の方が強いので。
私も二次障害をしっかり発症していますが、
(一応、診断は気分変調障害のベースに自閉症スペクトラムを有する。です)
幼い頃から、人と違うから苦労するんだ、同じになりたい。と思ってきましたし
診断を受ける前までは本当に定型のなり損ないのような感覚を持っていました。
私がスペクトラムの浅いところにいるからかはわかりませんが
言わなくても伝わるとか、考えたこともなかったので…

どんなに頑張っても仲間にはいれない定型に、合わせようとして、
どんどん自分が置き去りにされていって、自分を認められなくなって、
反動のように、今、定型の方が憎く(?)なってきている私ですが、
多分これがこじれたら人格障害などに繋がるのではないかな。と思います。

ところで、暴力行為を見せる事は相手にも関係してたのですね。
全く想定してなかったです。
鬱憤晴らしてるんだなぁ、位にしか。
威嚇だったんですねー。
私今まで相手を余計怒らせてきたかもしれません(苦笑)

まるさん

おっしゃりたいことは私なりに理解できる気がしています。

自他の境界の問題については、赤ちゃんから大人まで、いろんなレベルやいろんな側面の違いはあれ、すべての人が結局自分の見方に縛られてしまうことは運命なので、線引きが出来ている部分とできない部分はすべての人が持っていると私は思っています。

まるさんがお書きになったようなことも、アスペの方には起こりやすいこととも私は思いますし、人格障害の場合も自他の境界をとることが難しくなる面があるとかんじますが、私の限られた経験では、アスペの方に特徴的なそれと、人格障害(と一口には括れない多様さが実はあると思いますが)のかたに典型的なそれはかなり性質が違うと感じています。まるさんが感じられたことは、私の印象ではアスペ的な性格が強そうな気もします。

私の印象では特にボーダーの方は、ある条件にはまると第三者的な視点が取れなくなり、相手とベッタリした情動的な関係に落ち込んでしまい、激しく相手を巻き込んでいくという傾向がすごくあるように思います。それにたいしてアスペの方が自他の区別で混乱される場合は感情的なものがメインではなく、単に視点の取り方が「自分の見方へのこだわり」が強くなって相手の視点に気づきにくくなる傾向があるような気がします。そこでトラブルが生じれば、結果的に感情的になることはあっても、ボーダーの方のように感情的な巻き込みがベースだというのとは違う、もっとドライなことだと思うんですね。もちろん人によっては両者が重なる場合もあるのかもしれませんが、基本的にはベースは違うように思います。少なくとも私のパートナーと母親はその点で全く対照的です。

定型が持っている強烈な自己中心性は、多数派が割りと共有している(と自分が思い込んでいる)基準を絶対視してしまう傾向が強いことだと思います。共同幻想の話もありましたが、アスペの方は特にそこで異質なものを無理矢理押し付けられることになって、苦しまれることになると思います。そういうことをしてしまっていることに定型は中々気づけないし、気づいても中々そこを抜けられないというのが私自身の実感です。

そういう意味で、定型もアスペもボーダーも、それぞれに強烈な自己中心性を持っていて、お互いに無自覚に傷つけあっていることが多いんだろうなあと、しみじみ思います。その中でもまるさんのような努力で、少しでもお互いに調整しあえればと思います。

>まるさん

いえいえ、まるさんに対して疑問を持ったわけではありません。スカイさんの見方がちょっと独特であって、ご自分も当事者でありながら、同じ問題で悩んでいるというより、他のアスペの方を他人事のように俯瞰している視点が気になったのです。
当事者の方の意見となれば、そうなのかと思われるのは当然でしょうし、私も?と思いながら、かずきさんがモヤモヤされているとおっしゃられなかったら、そういうものかな?と納得しようとしていたかもしれません。

>パンダさん
アスペも定型もボーダーもと同率に挙げていらっしゃいますが、これはどうかと思います。
アスペと定型自体は、ノーマルな部分での感覚の違いですが、人格障害は、ノーマルな人格が破壊された、あるいは歪められたものであり、その人本来の性格ではないからです。
ここを同率に挙げられてしまうと、どうしてもアスペがボーダーと似たような問題を抱えているような誤解を受けることになると思います。
スカイさんのブログが疑問なのは、異常心理になっている人と、本来の特性が、まるで同じ問題であるかのような書き方がされていて、アスペに対して偏見を抱きかねないと感じるからです。
私自身も、非常に境界の曖昧な人間です。他人の非難を自分の問題と捉えてしまう感覚がなかなか抜けません。
パンダさんの接してこられたボーダーという方々は、かなり重度なケースなのかもしれませんが、医学的にそういうケースにのみ名前が付くだけのことであって、コントロールの効かないプレ人格障害というのは、非常にたくさん存在すると思います。要は、本来のその人ではない、歪められた人格であるということです。

かずきさん

>自分の感情を理解することは難しい事の一つですから。

 ここは実は一瞬迷ったのですが,でも「相手の感情が分る」場合にはそれに対応する「自分の感情もわかる」ということはあるだろうと思ってそのまま書いてしまいました。

 ここ,すごく興味があるんですが,相手が「怒っている」ことを感じ取れるのに,自分には怒りの感情があることを理解できないということがあるわけでしょうか?自分の感情に気づかない場合がある,というのは分るんですが。

 相手については分るのに,そもそも自分に「(たとえば)怒りの感情」というものがあることが一切理解できないということが想像できにくくて,もしそういうことがありうるのなら,またすごく考えさせられます。誤解かな。

> 定型の方が表情を作るときは全て他人のためなのですか?

 いえ,基本は自分の感情がそのまま表れると思います。でも大人になるにしたがってそれをストレートに出さずに,場に会った表情を作るようになるんでしょうね。そして,その中に「相手に気遣って」作る表情もある,という感じかな。もちろん完璧にというのはよほどの俳優でもなければ無理でしょう。

 たとえば「笑顔で接しなければならない」のに,その笑顔がひきつり笑顔になるとか(笑),そんなのはあります。

>今、定型の方が憎く(?)なってきている私ですが

 これ,私のパートナーもある意味似たような変化がある気がします。
 これまで「自分が悪いんだ」と納得して我慢してきたことについて,実は定型に我慢させられてきたんだ,とか,かなり理不尽な扱いを受けていたんだ(少なくともお互い様のことなんだ),という理解ができるとともに,やっぱり改めて「なんでこんな扱いを受けなければならないのか」という怒りがわいてくるみたいです。ある意味それも当然のことのような気がします。


あすなろさん

 人格障害(パーソナリティー障がい)については,ちょっとお互いに理解にズレがあるように思います。

>アスペと定型自体は、ノーマルな部分での感覚の違いですが、人格障害は、ノーマルな人格が破壊された、あるいは歪められたものであり、その人本来の性格ではない

 私には現在のDSM等の基準がどこまで適当なのかはわかりませんし,あれもだんだん変わっていくものですけれど,このあすなろさんの理解はそことはかなり違う見方になっているように見えます。

 まず単純なこととして,パーソナリティー障がいは要するにその社会の多数派の論理に外れて苦しんでいる人,ということが基準のようですので,実は奇異型など,アスペルガー障がいと重なったりしているようです。

 それから,あすなろさんの理解では,環境要因で人格が壊れた,という形の理解が中心になっているように読めましたが,ここも逆で,小児期や思春期などの早期から性格の偏りが明確になってその後長期にわたって持続する,というのが一般的で,一部,その後の環境要因などでそうなるケースも想定されている,という感じのように思います。

 その見方自体は私の経験からもうなづけるもので,もう持って生まれた傾向で,年齢と共にやや穏やかになる「こともある」けれども,カウンセリングも薬も効果が薄く,本人も周囲も苦しみ続けるケースがかなり多いと思います。

 他方で感性の鋭さなどで,芸術その他で力を発揮される方も多いと思います。あと政治家とか,カリスマ企業家とか,教祖様タイプとか。いい意味でも悪い意味でも「天賦のもの」というのが私の基本イメージです。

 周囲を見回しても,そういうタイプの方結構いらっしゃいます。決して珍しくはないですね。パートナーも老人福祉関係の仕事をしているので,そういうタイプの人に対応しなければならないことは少なくないみたいです。彼女もすごく「鼻が利く」感じで,すぐにピンとくることが多いようです。

 ま,専門医でもないので,限られた実体験からの理解ですけれど。

かずきさん

>>自分の感情を他の人とやりとりしながら調整していく(気持ちを立て直したりとか)こと
>と言うのが分かりにくいのですが、具体的にどんなことなんでしょうか。

 ここ,書きそこなっていました。

 「分りにくい」というのが分りにくいというくらいに(笑),そこはズレが大きいのでしょうね。

 たとえば落ち込んでるとき,一緒に泣いてくれる人がいると救われた気持ちになるとか,怒りを共有してくれる人に力づけられるとか,「相手の気持ちに寄り添う」というのは定型的にはすごく大事なことだと思います。理屈からいえば「私はあなたの味方だよ」ということを伝える意味があるのかもしれません。別に意識しているわけではなくても。

 相手の為に相手を真剣に怒る,というのも大事な意味があって,その時は相手に反発されるかもしれないけど,時間が経つとじわっと「あの人は自分の為に怒ってくれた」という感謝が沸いてきたりすることもあると思います。これも感情によって調整されることの一つでしょう。

 これはある意味ちょっと高等テクニックかもしれませんが,つらそうにしている相手に対して,逆にさらっと明るく振る舞う,というのも場合によってその人の気持ちを楽にすることがあります。たぶん「大丈夫だよ,あなたの問題もなんとかなるよ。」というような楽観的な可能性をそのことで相手の人が感じられる場合かもしれません。

 考え出すといろいろありそうです。たぶんアスぺの方と共通する部分もきっとあると思うし,ズレの部分もまた大きいでしょうし,そのあたり,整理してみると結構意味があるかも。

>パンダさん

確かに、私の考えている『人格障害』と、パンダさんが認識されているものとは、まったく異なっているようですね。
 
実際にはどのように定義されているのか、改めて探してみました。↓

http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_personality.html

このうち、統合失調型パーソナリティ障害が、アスペルガーと診断されるようですね。
そして、アスペがカテゴライズされているA群と、私が話題にしていたB群とは併発するものではないとされていて、同時に診断するべきではない、とされています。

これについて、私個人としては甚だ疑問ですね。

A群に関しては、パンダさんがおっしゃるように

>年齢と共にやや穏やかになる「こともある」けれども,カウンセリングも薬も効果が薄く,本人も周囲も苦しみ続けるケースがかなり多い

といえるのですが、B群以降に関しては、積極的な治療を必要とするものであって、本人も、周囲も、放置すれば相当な混乱と苦痛を伴うものではないかと思えます。

中でも反社会性パーソナリティは犯罪も辞さないという傾向があり、境界性パーソナリティはリストカットや自殺未遂を繰り返すという傾向もある、非常に混乱の大きい性質のものであると感じます。

私の夫は、自己愛性パーソナリティの傾向を疑って、その方面で調べていったところ、アスペの特徴よりも合致するものが多く、そう思って接した方が適切だと分かりました。
アスペの性質も根底にあるのは確かです。しかし、明らかにアスペの上にパーソナリティ障害が重なっていると感じられますし、前の皿洗いの例でお話したように、同じアスペでも息子とは考え方捉え方が大きく違います。

そして、夫のパーソナリティ障害は、私も、同じアスペの子どもたちにも、大きな影響を及ぼします。
夫のパーソナリティ障害が、常に他者の自分の対する過大評価を要求しているものだからです。

アスペそのものの性質は、本来なら本人が苦しむようなものではなく、周りにも混乱を及ぼすようなものではない。
しかし、社会の基準がアスペを想定していないために、パーソナリティ障害と同じ『症状』が出てしまう。
もちろん、パーソナリティ障害も、同じ理由で症状が顕著になるとも考えられますが、その症状自体、本来の本人の人格が著しく偏ってしまった、コントロール不可能な状態と位置づけられるのではと考えています。

まあ、定義を突き詰めるとよく分からなくなってしまうので、

私が『人格障害』と表現していたのは、本来のその人の性質が極端な方向へ偏ってしまい、コントロール不可能になっている状態であって、治療によってコントロールは可能になるが、当人がそれに気づいていない場合が多く、治療に繋がらないケースが多いのでは?と思われるのです。

スカイさんのご主人が、コミュニケーションが円滑になったというのは、その偏りに気付いて修正できたということで、アスペの特性が無くなったというわけではないのかと。

コントロール不可能な『人格的障害』と、アスペの特性とは、線引きするべきところではないかと思っています。

かずきです。


>相手が「怒っている」ことを感じ取れるのに,自分には怒りの感情があることを理解できないということがあるわけでしょうか?

あります。
気付かないことの方が多くありますが、
そもそもそう感じてるのだと言うこと自体が分からない、理解できないことが結構あります。

小学校のころ、学年全員からいじめられましたが、(小さな学校でした)
発覚した際に、先生が全員の前で
「かずきさんは傷付いて辛く悲しい思いをしてるはずです」
と言って下さったんですね。
その時初めて、(傷付いて辛く悲しい思いをしてるんだ、私は)
と、自分の感情に名前がついたんです。
辛いとか悲しいとか、思ったこともなくて、
ただ、未知の体験をしてるなー、困ることが多いなーと思っていただけなんです。
それまでは、いい感情と悪い感情の2択しかなく、
嬉しいも楽しいも愉快も全部1つの感情で、
辛いも悲しいも悔しいも怒りも全部1つの感情で、
見分けがつかなかったんですよ。

教わらなければそれがなんの感情で、どう対処すればいいのか、
更にはこの感情の時定型はどうするのか
解りません。

今でも状況的に見て、(ここ、怒るところかな)とか
(怒ってると言われて気付いたけどこの不愉快さは怒りなのかな)
とか、感情は自分のものではない感覚が強いです。


>たとえば落ち込んでるとき,一緒に泣いてくれる人がいると救われた気持ちになるとか,怒りを共有してくれる人に力づけられるとか,

面白いくらい綺麗にそういった体験はないです。
落ち込んでいるときは考えを建て直す時間がほしいですし
怒りは共有されたら(なにがわかるの?)と軽く引いてしまいますし…
辛いとき、なにも言わずそばにいる程度なら、親しい関係ならば嬉しいですが
そこで怒ったり泣いたり笑ったり、感情のやり取りが発生すると辛くなりますねー。

浅いところにいるとはいえ、
こう言うところは、違うのだなーと実感しますね。

かずきさん

かずきさんのコメント読んで、色々考えさせられてます。

元夫も、言動から、そんな感じがあったなぁって…。
…となると、
例えば私が 元夫に対して 酷い! と思った出来事なども

もしかしたら
彼は 自分の気持ちはよくわからないけど、そんな中、状況に流されておこってしまった出来事などもあったりするのかも…

とか

いまだに私自身癒えない気持ち、説明してほしいことも

実は 彼には まるでそんな意味もなく(悪気)
そして 私の抱える思いすら 彼からしたら 誤解だらけなのかもしれなくて

そんなことも かなり お互いズレがあるのかもしれないと思えました。

わかりづらいかもしれませんね
スミマセン

かずきさん

 表現に失礼があったら御免なさいなのですが,
 素朴な思いで書くと,感動的に興味深くて,もう少し教えていただければ嬉しいです。

>気付かないことの方が多くありますが、そもそもそう感じてるのだと言うこと自体が分からない、理解できないことが結構あります。

 まずはこのポイントについて。

>その時初めて、(傷付いて辛く悲しい思いをしてるんだ、私は)と、自分の感情に名前がついたんです。辛いとか悲しいとか、思ったこともなくて、ただ、未知の体験をしてるなー、困ることが多いなーと思っていただけなんです。それまでは、いい感情と悪い感情の2択しかなく、嬉しいも楽しいも愉快も全部1つの感情で、辛いも悲しいも悔しいも怒りも全部1つの感情で、見分けがつかなかったんですよ。

 なんか,ヘレンケラーがサリバン先生に水の名前を教わって,初めて物に名前があることを自覚したというエピソードがあったと思うんですが,私にとってはそれとおなじくらい劇的で納得のいく話です。

 実際にはヘレンケラーはその前にすでに言葉についての基本的な理解はできていたみたいなのですが,そこではっきりと自覚したわけです。それで,かずきさんもそれまでに感情ということについてのなんとなくの理解は積み重なってきていたのではないかと想像します。でもそれをはっきりと「名前が付いた」という形でここで自覚されたのかもしれない。

 そういうエピソードをはっきりと記憶されていることにもある種感動しました。定型はそういうところは気が付かないままに当たり前のこととしていつの間にか感情の名前を使えるようになってしまうんですよね。

 あ,でも定型でも「恋」とかは同じようなことがありました。私の場合,小学生の時,基本的には学校嫌いだったのに,あるとき突然,学校に行くことが楽しみになったことがあったんです。最初分んなかったんだけど,しばらくしてある女の子に会えるのが楽しみなんだと気が付きました。その時,初めてその楽しい感情の意味が初めて分かったんですね。

 でも怒りと言ったもっと基本的と感じられる感情についても同じようなことが起こるのだということは,私にとってはやはりとても新鮮なことでした。

>教わらなければそれがなんの感情で、どう対処すればいいのか、更にはこの感情の時定型はどうするのか解りません。今でも状況的に見て、(ここ、怒るところかな)とか(怒ってると言われて気付いたけどこの不愉快さは怒りなのかな)とか、感情は自分のものではない感覚が強いです。

 ここで一つの疑問は,私の感覚では怒りは相手への攻撃に直結する感情と思えて,もちろんそれを意識的に抑えることはいくらでもしますけれど,でもほぼストレートに無意識で怒りと攻撃的な態度は結びつきます。つまり「意識する」のは,「その抑え方」とか「発揮の仕方」に関して起こることで,かずきさんのように「どう対処すべきなのか」を意識しないと分らないというのと一見正反対にも見えます。

 そこでひとつめの質問なのですが,怒りが他の不快な感情と区別できなかったころ,そういう漠然とした不快な状態には,どう対処されていたのでしょう?もしなにか対処のパターンがあるとすれば,それは頭でそういう対処を選ばれたのでしょうか?それともほとんど無意識にそうされていた感じでしょうか?

 二つの目の質問は,一応怒りの感情というものがかずきさんにも区別されるようになる前後で,他の人の「怒り」についての理解や感じ方に,何か変化はあったでしょうか?

>>たとえば落ち込んでるとき,一緒に泣いてくれる人がいると救われた気持ちになるとか,怒りを共有してくれる人に力づけられるとか,
>面白いくらい綺麗にそういった体験はないです。落ち込んでいるときは考えを建て直す時間がほしいですし怒りは共有されたら(なにがわかるの?)と軽く引いてしまいますし…辛いとき、なにも言わずそばにいる程度なら、親しい関係ならば嬉しいですがそこで怒ったり泣いたり笑ったり、感情のやり取りが発生すると辛くなりますねー。

 なんだかあまりに見事にわかりやすく違うので,「そこまではっきりわかりやすくていいんだろうか」とか一瞬ためらってしまうくらいです(笑)
 
 そこでまた質問ですが,たとえば,こういうかずきさんとのやり取りで,私の方は長年の疑問にとてもわかりやすくはっきりした解答が得られた感じで嬉しく思ったり,その喜びをこうやって表現して分かち合いたい気持ちになったりします。そしてもっとやり取りをしながら理解を共有したいという感覚になるんですね。そうやって共有できる世界が広がっていくことは喜びにつながります。

 この感じというのはかずきさんにとってはどうなのでしょうか?やっぱり「引く」感じになるのか,ほとんど意味のないことなのか,あるいはかずきさんなりになにかポジティヴな意味を持つのか。とても興味があります。

 どうぞご無理のないテンポで,教えていただけることがあれば教えてください。

かずきです。

何やら感動していただけて恐縮です。
…とは言え、私はヘレン・ケラーのお話が何で感動的なのか理解してないので温度差はある気がしますが。

先生方の発言のあとで、主にいじめていた児童から
「でもかずきさんは笑っていました、傷付いていないのでは」
と反論がありました。先生の返しは
「人間、辛すぎると笑うしかないだろう、それだけの事をお前たちはしてきたんだ」
と言うものでした。

私の母は、怒りを「それは不愉快です」と言う表現をする人でした。
子育ての中の怒りのコントロール術かも知れませんが、
幼心に「不愉快さ」を与える事を表に出すことは「不愉快なこと」と学んでいたので
学校でも「嫌な感情は表に出さない」ことを徹底していたように思います。
されて嫌なことはしない、と常々教育されていましたし。
それでへらへら笑ってやり過ごしていたのでしょうか。

それが、相手の子には嫌がっていないように見え(あるいは笑っていた事で有責になるのを避けようとしていたのでしょうか)、
先生には辛さを突き抜けたと見えたのでしょう。
物がなくなるとか壊されるとか、困ることが減るなら助かると思い 、先生の言う通りと言うことにしておきましたが
先生方とも温度差を感じたのを覚えています。五年生のことでした。

感情の名付けについては、もっと幼いうちに習得するものだと子育てをしてみて思います。
転んで泣けば「痛かったね」「びっくりしたね」失敗したら「悔しかったね」
何かを頂けば「嬉しいね」美味しければ「美味しいね」
そう言った声掛けから習得するものだと思いますね。
息子にも感情の名付けが不得意な感じを受けますから、意識して声掛けしています。
私の母がそうしなかったとは言いません。
私が受け取れなかったのだと思います。
あるいは、知識止まりだったのだとおもいます。


>私の感覚では怒りは相手への攻撃に直結する感情と思えて,もちろんそれを意識的に抑えることはいくらでもしますけれど,でもほぼストレートに無意識で怒りと攻撃的な態度は結びつきます。つまり「意識する」のは,「その抑え方」とか「発揮の仕方」に関して起こること

私には怒りが攻撃に直結すると言う感覚はありません。
わりと怒りには鈍感な方なのもありますが、
不機嫌さには繋がります。でも、攻撃的な態度をとるかと言うと…
どうなんでしょう。
怒りより不安の方が攻撃的な態度になりやすい私です。

怒りを感じたことと、態度とは切り離すと言う考え方ですかね。
内面と外面と。
内面は内面で処理して(自覚して)、外面は外面で出力方法を変える(対処する)。
これは別のフェーズだと思います。
なので

>怒りが他の不快な感情と区別できなかったころ,そういう漠然とした不快な状態には,どう対処されていたのでしょう?もしなにか対処のパターンがあるとすれば,それは頭でそういう対処を選ばれたのでしょうか?それともほとんど無意識にそうされていた感じでしょうか?

区別できなかった頃は出力しなかった。
その後は頭でそういう対処をしていて、無意識では出来なかった、が答えになると思います。
例えば先の例で、「辛かったら笑う」と言う対処を学んだ、と言うことになります。

怒りに関しては、滅多に感じないのでうまく言えませんが、
もし自覚できるレベルの怒りを感じたら、
それを表現するには絶縁レベルの対応になる
位でしょうか。

私にとって、怒りと言うのが非常に曖昧な感情で、
何を怒りと呼んで良いのか解りません
不愉快なことの度合いが強いことでしょうか。
それとも攻撃されたときの恐怖でしょうか…。

感情を区別できるようになる前は、不愉快なこと、で済まされてきましたから、
今の方がややこしいです(笑)

全てに対して、感情をどう認識してどう対処すればいいのか(相手に見える形にすればいいのか)
分からない所から始まっているように思います。

>私の方は長年の疑問にとてもわかりやすくはっきりした解答が得られた感じで嬉しく思ったり,その喜びをこうやって表現して分かち合いたい気持ちになったりします。そしてもっとやり取りをしながら理解を共有したいという感覚になるんですね。そうやって共有できる世界が広がっていくことは喜びにつながります。

お役にたてることがわかるのは私も嬉しいですよ。
でも、そこで(私も世界が広がるわけですが)、世界が広がる喜びとはまた別次元の話ですね。
「嬉しいね!」って押し付けられると、またちょっと変わってきますが(「そ、そうなんだ」ってなります(汗)。

基本的にI(アイ)メッセージとして発言を受け取ってしまうので、youメッセージには弱いんです。

こうしてみると、内側の世界と外側の世界が、はっきり線引きされて離れているのがわかります。
パンダさんはドア一枚といいますか、ガラス張りと言いますか、すぐに投影できる感じを持ちます。違ったらごめんなさい。
客間と自室のような。

私はそもそも家自体がべつで、内側の世界で発生した感情を、外側の世界の家にもって行く途中で加工して、外側の世界の家に持ち込む。
そんなイメージです。母屋と離れでしょうか。
なので、こう感じるでしょう!と離れまで来られると内側の世界の家にまで踏み込まれたような感覚に陥り、誰も入れないはずなのに!みたいな防衛反応が働きます。
それが、「引く」感じだと思います。

分かりにくい例えでごめんなさい。

どんぐりさん、
かずきです。

感情の対処の誤学習と言うのも往々にしてあると思えます。
怒りは殴って表現するのだという学習をしてしまったら、
それはとても暴力的な人を作り上げてしまいますし、
その学習をひっくり返すのも、年月と共に難しくなりますし。

そういう自覚があれば、育て直しといいますか、
学習し直し、訂正も受け入れられると思いますが、
プライドのできている年齢だと難しいものがありますよね。

かずきさん

>私はヘレン・ケラーのお話が何で感動的なのか理解してないので温度差はある気がしますが。

 このお話は定型的には多分感動しないといけないのです (笑) 私も映画で見た時にはなんか感動したような気もします。ちょっと忘れてしまいましたが…

 定型が感動しやすい物語とアスぺの方の受け止め方はまた違うのかもしれませんね。かずきさんならどんな物語が感動するものでしょう?

>私には怒りが攻撃に直結すると言う感覚はありません。

 こういうところがなんか不思議感があふれるんですね。攻撃的な姿勢に結びつかない怒りというのがありうるというのがぴんと来ない。結びつかないものは怒りとは呼ばない気がするんです。

>私にとって、怒りと言うのが非常に曖昧な感情で、何を怒りと呼んで良いのか解りません 不愉快なことの度合いが強いことでしょうか。それとも攻撃されたときの恐怖でしょうか…。

 自分に害を与える人やものが目の前にあるとき,それから逃げ出したくなる感情の一つが恐怖で,逆にやっつけたくなる(攻撃的な)感情が怒りだと思います。怒りが他者に向くと他者への攻撃になり,自己に向くと自傷行為とか,自殺に結びつきます。

 対象がはっきりせず,どう対処していいかわからない状態は不安ということになるでしょう。

 不愉快は「あの人の態度は不愉快だ」という言い方ができるみたいに,対象がはっきりしている場合も多いと思いますし,「なにかわからないけど不愉快な気分」という言い方もできるように,対象があいまいな場合もあると思います。対象がはっきりしている場合の不愉快は「攻撃」まで直結はしないレベルといえるかもしれません。攻撃一歩前というか。ただ不安よりは対象はぼんやりとではあっても感じ取られているように思います。で,逃げ出すような感じより,立ち向かう方向に向かう感情かな。

 不快というのはその状態を抜け出たいと感じられる状態で,怒りも不愉快も不安も恐怖も含まれると思います。ただし恐怖は不快より強く,逃げ出そうとする方向性が強い感情といえるかもしれません。

 という感じで,不快の原因がはっきりしているかどうか,それに対して立ち向かう姿勢か逃げ出す姿勢かどっちにも行けない状態か,ということで付けられる感情の名前が変わるような気がします。

> パンダさんはドア一枚といいますか、ガラス張りと言いますか、すぐに投影できる感じを持ちます。違ったらごめんなさい。客間と自室のような。

 これはそこまで言っていただければ大変光栄です。ある意味そんな風に受け止めていただけることは,このブログで私自身が目指してきたことの一つのようにも感じます。

>私はそもそも家自体がべつで、内側の世界で発生した感情を、外側の世界の家にもって行く途中で加工して、外側の世界の家に持ち込む。そんなイメージです。母屋と離れでしょうか。なので、こう感じるでしょう!と離れまで来られると内側の世界の家にまで踏み込まれたような感覚に陥り、誰も入れないはずなのに!みたいな防衛反応が働きます。それが、「引く」感じだと思います。分かりにくい例えでごめんなさい。

 いえ,分りにくいどころか,なんとなくアスぺ的(?かずきさん的?)世界を少し疑似体験させていただけるような気になりました。「ああ,そういうかんじなのか」という。

 こんなやりとりが積み重なっていけば,定型にもアスぺ的な世界がかなり実感を持って感じ取れる部分が広がっていくかもしれません。そんな期待を持ちました。

 

かずきさん

パンダさんとかずきさんのやりとりの中に かなり学びがあります。

漠然と、元夫と接するなかで 彼の言動からこんな風に思っているのかな?みたいなものが、 やはりそうなのか… みたいな。

少しちがう感情ですが

元夫は 好き、とか 愛するという感情を、こういうものだ!と実感していないように感じることがありました。
自分の感情を相手に確かめるんです。
こういうときに自分はこう思ったのだけど、これはお前を好きということだよね?

とか

あのとき、お前からこういうことをされたら つらかった。 だから お前を好きということだよね?

とか

逆から考えたらわかるよね? みたいなことを 証明するように 言葉にしてくるのです。

好き、という感情が、彼の場合、感じにくかったのだろうか? と 思い出しては苦しくなることがあります。

逆に こんなことをしてくれたから、相手は俺を好きなんだよね… と
わざと確める行為をすることもありました。

気持ちに関して、彼もわかりづらいものを抱えていたとしたら

別れた理由事態が 私が受け取っている感覚と 彼の感覚では 実はかなりの誤解があるのかもしれないと思えたりします

かずきさん

訂正です

>逆に こんなことをしてくれたから、相手は俺を好きなんだよね… と
わざと確める行為をすることもありました。

×確める行為
○試す行為

あすなろさん

>私が『人格障害』と表現していたのは、本来のその人の性質が極端な方向へ偏ってしまい、コントロール不可能になっている状態であって、治療によってコントロールは可能になるが、当人がそれに気づいていない場合が多く、治療に繋がらないケースが多いのでは?と思われるのです。

やはりここでズレがあったのですね。

カウンセラーの知り合いに聞いたり、精神科医の本を見たりすると、ボーダーはいわゆる治療の効果が非常に得られにくく、苦労するという見方に繰り返し出会いましたし、実際私が接してきたボーダーの方達はみんな正にそうでしたので、あすなろさんのイメージと噛み合いませんでした。

定型アスペのズレが単に経験の違いでは説明できないレベルでの違い(それで脳の違いとかが問題になる訳ですが)に根差していると考えた方がいいように、ボーダーとの違いも生まれついた違いが根底にあって、そこに環境的な要素も加わって出方に違いが出てくると考えた方が私には分かりやすいです。

ただし全く変化がないかというとそれはそうとも言えなくて、年齢と共に穏やかな関係がとりやすくなる部分も増えてくる場合がそれなりにあるようですし、正面切って問題点を指摘すると(これはよほどなれていないと全く逆効果で悲惨な結果になりますので、決して安易に勧められません。自分の存在をかけて立ち向かう位の覚悟は必要で、しかもそれがうまくいかない可能性も十分にあるわけです)少しその人なりには自覚して調整しようとされる場合もあります。ただその場合も根っこの感覚には変化を感じません。

>パンダさん

私も実際に『人格障害』と診断された人と接しているわけではないので、その点ではパンダさんの方が詳しいのでしょうし、成育歴によるダメージが、その人の性格を歪めている状態を『パーソナリティ障害』と表現したことが間違いでした。

他にうまく表現できる言葉が見つからないのですが、

アスペを初めとする発達障害は、本来なら他人を巻き込んだり、迷惑をかける存在ではないのに対し、理解されないで、攻撃的なことをされ続けてきた結果、攻撃性を持ったり、依存的になったり、相手の行動をコントロールしようとしたりするようになってしまう。
そこの違いをはっきりさせたかったのです。

もちろん、こういう傾向に陥ってしまった人の治療も、非常に困難であるのは確かですが、外的要因でそうなっているので、不可能とは言えない。
定型なら定型、アスペならアスペの、本来の自分を取り戻す作業になるかと思います。

ほんの少し前まで、アスペに犯罪者気質があるというデマが信じられていましたが、それは、こういうところの違いを認識せず、アスペ本来の性質に攻撃性があると勘違いされてしまったことの悲劇だと思います。

本来の『パーソナリティ障害』も、パンダさんのおっしゃるような性質であるとすると、一般的な認識はかなり誤解されていますよね。
パーソナリティ障害で検索すると、『治療について』と出てきますし。

後天的な異常気質を指す言葉はあるのでしょうか?

専門機関では、ぜひこういうところを分けて対応してほしいものです。

あすなろさん

私も専門医ではないので限られた経験からの感触ですけれど、でも実態としては同じ人物にたいしても精神病圏の問題と考える専門家もいれば、パーソナリティー障害ととらえる人もいれば、発達障害と見る人もいる、というのが実情ですね。お医者さんの本にもそういうことが書かれていたりします。

さらに診断基準やカテゴリーも時代と共にかなり大きく変化していっていますし、あまり診断名で決定的なことを決めつけて判断するのは危険で、診断は参考にしながら、個々の場合を丁寧に見て考えていくことが大事だと思います。

ココチです
わたしも、この機会に パーソナリティー障害について検索してみました。
ボーダーについては、数年前に、オーストラリアでとても良く回復している、という番組を偶然見たことがあって、それがどうなったか調べてみました。そうしたら、やはり載っていました。もし わたしの娘がボーダーだったら、日本にこのやり方が入って来るまでにできることはないか、と調べると思んです。で、家族会の方によれば、このようにすれば回復して日常生活が送れるようになります、という方法があるようです。ただ、百人いれば百様で、時代によって新しいことがわかって来ています、とおっしゃっています。ここを啓蒙したいと思われているところ、私たちと似ているように思いました。
(このブログの中で どう書いたらいいかわからず迷いましたが、書かせていただきました)

ココチさん

よろしければちょっとご紹介いただけないでしょうか。

私は添付というものができないので。。
オーストラリアの方は、「境界性パーソナリティー障害 オーストラリア 治療」で検索すると出て来ます。
日本の方は、「BPD 奥野栄子」で検索すると家族会の情報につながります。

もう少しわかりやすく
bpd-family.jp/bpd_family/info/
このページから家族会掲示板(ゲストブック)に入って、[00498]Re.新婚の妻が 、 の中で家族会の代表が答えている結論の部分が、非常によく要約されています。
何度もすみません、要領を得なくて。

パンダさんのこの記事は、読むほどに、大事なことがまとめられている事に気づかされる気がします。ことに最後の部分は、世間や情報に振り回されすぎないために、時々立ち戻る必要のある地点でしょうか。

ココチさん

ご紹介いただいてお礼が遅くなってしまい、失礼しましたm(._.)m

最近、認知症についてもかなり前向きな取り組みが行われてきている話を聞きますが、結局基本は人として尊重されるべきことをちゃんと尊重し、認めるべきことを認めることだ、という点はどんな場合でも広く言えることなのかなあとも思います。

そこで傷つけられれば、どこかでそれへの反動が出てくるし、いわゆる障害者の問題行動というもののかなりの部分は、背景にそういう傷の蓄積があるような気もします。いわゆる健常者とは感じ方などにズレが生じやすい分、気づかれずに傷つけられることが多くなるのかも。

認知症が目についてきた母親の介護でも思いますが、難しいのはお互いに傷ついていて、ゆったりと受け止めるとか、そういうことが難しくなる点でしょうか。

ご紹介いただいた掲示板の説明を見ていても、結局障害という概念には客観的で絶対的な基準など作れないということが改めてよくわかります。診断は専門家でも難しいと書かれていましたが、本当は話はあべこべで、そもそも絶対的な基準がないから、場合や人によって判断に幅が出ることが当然なのでしょう。

お互いにどんな関係を作れるのか。そこがうまくいけばわざわざ障害などという言葉を持ち出す必要がなくなるし、そこが見つかりにくければ、お互いに傷つけあい、生きづらさを産み出し続けるので、障害という言葉で対処するしかなくなるのかなあと思います。

パンダさん

今ごろ アドレスを書くなんて、何をやってるんだか。こういうところ、ご面倒をおかけして来てると思います。

なるほど,そういう風にまとめられるのですね。
間を置いて,何回も読み返してみます。

ココチさん

ご紹介いただいた箇所、私も見てみました。BPDについては私は全く知識がありませんので、基本的な定義とか2~3探して眺めてみました。文章の説明を読む限りでは、脳機能の偏りと、精神病理的な何かとの組合せのようにも見えますね。ちょっと眺めた範囲での素人の感触ですし、困っている当事者の方からすればだから何だ!という話で申し訳ありませんが。

パンダさんのおっしゃる通りで、法律家の関心と、医学的な関心と、当事者の関心は、それぞれ違うものになるのでしょう。何らかの行政手続きが絡む場合、そういう所も一つのポイントになりそうな気がします。

Katzさん

ですよね。

それぞれの見方にはそれぞれの都合があるので、当事者本人がズレを感じても簡単には変わらないでしょうね。

ズレの中には単に実情を理解できていないから生じるおかしなズレと、視点が違うから見える面が自然に異なってくるという当然のズレの二種類がありそうに思うのですが、おかしなズレは理解を深めあってなくしていく努力が必要だし、当然のズレの方はむしろお互いの見える部分を活かし合っていくべきと思います。

ただ、今は当事者の視点が置き去りにされて、「専門家」の一面的な見方だけで有無を言わさずに事が進む場合も少なからずある気がしますし、当事者が当事者の視点でちゃんと事態を理解し、説明をしたり必要な主張をしたりがまだまだ出来ていないように思うんです。

だから定型アスペ問題も、「専門家」の視点は参考にしながらも、それだけで問題を理解できるとか解決できるとは考えず、当事者だからこそ気づきやすいポイントを大事にして、そこから見えてくる自分達の見方や対処の仕方を育てて、必要に応じて「専門家」も含めた「非当事者」にも理解し、応用してもらう事が必要ではないでしょうか。

そんな風にお互いの特徴を活かし合った、立体的な理解や対処を模索していく事が大事だと感じています。

Katzさん

>法律家の関心と医学的な関心と当事者の関心は,それぞれ違うものになるでしょう。

なるほど,こういう風に整理できるんですね。

>何らかの行政手続きが絡む場合

その場合には,ここをよくわきまえていることが必要ということですね。

オーストラリアの場合のアドレスも 遅ればせながら載せておきますね。

www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3012.html
行政と医療と当事者の連携がうまくいっているということでしょうか。

大人のアスペルガーについては
autly.exblog.jp/10809242/
(この中で引用されていることばは、2009年出版の本からです。この服巻智子先生は,オーストラリアの専門家の元で学んで来た方です。今はどうなっているでしょうか)

先に紹介したブログのアドレスも 今年の内に・・

ameblo.jp/max8ppy/

ameblo.jp/thanksgod-114/theme-10039812374.thml

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