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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年11月

2015年11月30日 (月)

解きたい謎

謎だらけの定型アスペ問題ですが、一部のアスペの方から見たら定型の世界がどんな風に感じられるかについて、ほんの少しですが「ああ、もしかするとこんな感じなのかなあ」ということを予感させるような手がかりを頂けたところで、前からとても不思議に思っていた問題のひとつがまた思い浮かんできています。

それはアスペの方の言葉の使い方に定型がぎょっとさせられることが時々あるということなのですが、かりにそこで定型の側が怒りを示したとしても、アスペの方のほうは何が責められているか分からずに困惑するということがよくあるようです。ほんとに素直に思うこと、感じることを話しているだけなのに、ものすごい悪意のある言葉として受け止められてしまうと、アスペの方は感じられているように思いました。

ひとつのありがちでシンプルな解釈としては、「定型は相手のことを配慮して、相手が気分を害しないように慎重に言葉を選びながら話すのに、アスペは相手の心が読めないからそれができない」というものでしょう。そういう理解で解釈できる場合がないとは言いませんが、なんかスッキリしないんですね。

この理解の仕方だと、定型はそもそも本音ではものすごく相手を傷つけるようなことを考えているんだけど、それを隠して「相手のために」とかいう理屈をつけて建前を言っている、あるいは嘘をついているのにたいして、アスペの方はある意味子どものように純真に本音を語っているのだ、という話にもなりそうです。でも正直言って、ホントにそんな単純な問題なのかなあという気持ちが抜けないんですね。

パートナーからも時に狙いすましたような言葉で私の地雷を踏むようなことがあったのですが、そこで考えたいことのひとつはどうしてあえて(と感じられてしまう)その表現が選ばれるのかということで、それと裏表の問題として、その言葉で爆発してしまう定型の地雷の仕組みとは一体何なのだろうということでしょうか。

この辺は具体的に考えていかないと、またすごく単純化した決めつけの話になってしまって、結局「アスペというのは人間関係に求められる配慮ができない障害なのだ」という、定型的な一面的理解に落ち込むだけのように思えるので、折に触れて具体的な例で考えられるときに少しずつ考えてみたいと思っています。

2015年11月29日 (日)

傷を癒すこと

以前も少し書いたことがある気がしますが、パートナーと一緒に暮らしはじめてまだ1年とか2年の頃だったか、彼女が本を読んでいるときに、横にいると、彼女が不思議がっていたことがありました。というのは、本を読んでいるときに自分のそばに人がいると、本が読めなくなるのが普通だったのに、パンダがいても平気だからというわけです。彼女にとってそれは初めての経験のように語っていました。

昨日の記事の続きで考えると、彼女にとって本の世界に入るということは、自分の部屋に一人で居ることで、そこに他人は入れられなかったのが、私がそこに入ってくることは気にならなかったので驚いたということかもしれません。

その後関係がどんどんこじれて最後は悲惨な状態になっていったので、もう今ではそういう彼女の精神的な場所に寄り添うことはほとんど不可能で、「一緒に暮らしている」ということが特別待遇、という辺りがギリギリなのかなあと想像するのですが、改めて彼女との間にはそんな空間が一時はできていたことを、なにかとても大きな意味のあることとして思い起こします。

あるいはその後の経過は、そういう彼女との空間を無自覚に壊し続けた時間という面もあったのかもしれません。訳の分からないズレの積み重ねで、お互いに傷つきあっていたのでしょう。

その傷跡が消えることはないのでしょうね。できることがあるとすれば、傷跡に注意しながらできるだけ新しい傷は作らないようにすること、まだ癒えていない傷口を不注意に開いたりしないことでしょうか。今はそれ以上のことを自分が追求できる力があるとは思えません。それだけでもある程度できれば大したものだという気がします。

ふと思えば、私の母親は、相手との繋がりを求めて相手の傷口を開き、時にはそこに塩を刷り込むような生き方をする人間だったので、物心つく前からその枠の中に取り込まれて作られた自分の人間観を、改めて作り直す作業なのかもしれません。そう考えると、少し自分の気持ちが安らぐ部分も感じます。

2015年11月28日 (土)

次のステップ

かずきさんとのやり取りでまたひとつ大事なステップを踏みつつある感じがしています。

今までは自分の感覚を手がかりに、「もし自分がこういう条件をもって生まれ、こういう環境で育ち、こんな場面に出会ったら、どう感じ、どう振る舞うだろうか」という想像力をいろいろ働かせ、想像のしかたを工夫することで、「ああ、そういうことなら私でも理解できる気がするなあ」という部分を少しずつ手探りで積み重ねてきた感じでした。

いわば自分を中心において、自分の感覚を広げていくことでアスペ的な感覚とも重なる部分を拡げようとしたわけで、その意味でやっぱり一面的ですし、自己中心的でもあります。もちろんそういう限界はあっても、それでもアスペの方の一部からは理解されたと感じられる部分もあったように思いますし、その事を否定するつもりは全くありませんが、でもそれには大きな限界も感じていました。

今回のかずきさんとのやり取りでは、その「自分を中心において」という部分で大きな変化があったような気がするんです。それは私がどうこうしたということではなくて、かずきさんから見て私やかずきさんの周囲の世界がどう見えるのか、ということを、自分の部屋の内外というような比喩で説明してくださって、その比喩が私には感覚的にもとても分かりやすく感じられ、ほんの少しですが、自分がアスペの方(あるいはかずきさん?)の視点から自分(パンダ)や世界を見られたような気分になれたのですね。

もちろんアスペの方の視点から見たと感じたのはこの私ということになりますから、その意味では自己中心性を逃れることは永遠に不可能ですが、でもその自己中心性がもう一歩柔軟なものにバージョンアップしたというのでしょうか。(私が)私を離れた相手の視線で私を感じるという状態になったのですね。

かずきさんの比喩で感じ取ったことは何かと考えてみると、その独特の相手との距離感でしょうか。そしてその距離感を守ることの大事さ、それが侵されることへの不安、といったことが何となく感覚的にわかるような「気がした」訳です。

そうすると、私がこれまで感覚的に理解できず、「困ったズレ」として否定的にしか感じられなかったその距離感を、むしろ「大切なもの」として感じる気持ちが芽生え始めます。まだ芽生えですが、パートナーとの関係でも改めてその距離感を大切なものと感じるところで向き合うと、またちょっと違った展開が生まれそうな、そんな気もしてきます。

さらにそこから想像力を働かせると、そういう「(アスペ的な?)自分の部屋」を比較的守られる環境で育った場合と、それが常に脅かされたり、あるいは徹底して破壊され続けるような環境で育った場合では、同じアスペの方でも生き方が全く変わるだろうとも思えてきます。後者の場合はその自分の世界を暴力的に破壊する力にたいして、暴力的にでも対抗しなければ生きていかれなくなると思えるからです。

アスペの方の中に、例えばあんこさんのお父さんがもしかしたらその例になるかも知れませんが、驚くほど暴力的に振る舞われる方がある一方で、例えばかずきさんのように本当に繊細に周囲に気遣いながら優しくいきようとされている方がいらっしゃる(私にはそう感じられます)という違いは、そういうところからも生まれるのかもしれないと、そんな理解の仕方の可能性も感じられるようになってきます。

どこからその距離感の定型アスペのズレが生まれるかについては、さらに考えてみるべき事がありそうな気がしますが、私だって私の感覚で作っている私の部屋があるわけで、それを私が望まない形で踏みにじられることは耐えられません。その点は定型もアスペも多分同じです。ただ「何がそれを踏みにじることになるか」というその中身でズレが起こり、定型的な親しみの振る舞いがアスペの方には破壊的にすら感じられる場合がある。

そうすると問題は、お互いに相手の部屋を大事にしつつ、どうやって繋がりを作れるのか、ということかもしれません。

2015年11月22日 (日)

生き方のすり合わせ:当事者の論理

 昨日の話は改めて簡単に言うとこういうことでしょうか。

 定型は自分の問題を人とのやり取りの中で解決しようとする傾向が強い。感情の問題もお互いの気持ちのやりとりで調整しようとする強い傾向がある。基本的にそういうことをベースにしながら,「人に迷惑をかけてはいけないから,自分でなんとか頑張って解決する」という姿勢も生まれる。

 アスぺの場合は自分の問題は自分でしか解決できないという感覚が基本になる。感情の問題は特に人との間で調整することがむつかしく,他者の感情は自分にとっては自分をかき乱すものになる可能性が高いから,基本的には避けたいものになる。自分で自分の問題を解決する,ということを大前提として,それでも他者とのかかわりなしには生きられないので,それに対応する工夫については努力を積み重ねようとする。

 他者との関係が基本にあって,その中で自立を目指すのが定型で,自分の中で閉じた世界があって,それをベースに他者との関係を調整しようとするのがアスぺ,というまるで正反対の姿勢があるのではないかということです。そうするとお互いに問題が起こった時にどう調整しようとするかでまるっきり対処の仕方がずれてしまい,相手のことが全く理解できない状態に陥ります。

 ここでしばしば取り上げてきた,「病気の時にどういう対応を望ましいと考えるか」についての定型アスぺ間の極端な姿勢の違いはこれで説明できます。「悲しいときに,大事な相手に配慮して笑顔を見せる」というのが定型的な気遣いの仕方で,アスぺの方には分りにくい(のかもしれない)ということも同じ仕組みで理解できます。相手につらいことがあった時,定型が「辛いよね」と相手に共感的にかかわろうとすると,アスぺの方がかえって辛くなる,というのも同じ理屈で想像可能になってきます。

 定型の側が「共感が得られない」「傷つくようなことを言われる」「気遣おうとしても拒否される」など,アスぺの方から「拒絶され,排除される気持ちになる」ということ,そしてそういうふうな理解をアスぺの方に伝えると,今度はアスぺの方がショックを受け,傷つき,なんで自分の配慮を分ってもらえないのかと絶望的な気持ちにもなることは,定型アスぺ問題の本丸とも言えるような大きなズレだと思うのですが,そういうズレが起こる仕組みは,かなりの部分上のような理解で見えてこないでしょうか。

 なんでそういう姿勢の違いが生まれやすいのか,ということの「原因」としては,たとえば脳の働き方の特徴などが効いている可能性はもちろんあります。でも,私たち当事者にとって大事なのは脳の違いがどうのこうのということよりも,そういう違う条件を抱えて生きている二人が,お互いにどうやって一緒に生きていけるのかという問題です。

 そのことを考えるには,障がいの有無とかいう話ではなくて,「生き方の違い」をどう調整するかということの方が本筋の問題であると私は思います。生き方の違いが生まれる原因の一つに脳の違いがある,ということはあくまでも背景的な問題にすぎません。

 たとえば男と女は体のつくりが違うから,生き方にも自然に違いが出てきます。でも男女が共に生きていくうえで大事なのはその体の違いをどうにかすることではなく,違う生き方を作り上げてきている二人がどう関係を調整しながら生きていくかという問題の筈です。そこを調整するために,体のつくりの違いも理解する必要があるのであって,体のつくりの違いが理解できたからそれでそのまま関係がよくなるわけではない。

 今改めて思います。定型アスぺ問題というのは,違う生き方を育ててきた人間同士が,その結果生まれるさまざまなズレを調整しながら,どうやってお互いの生き方を否定せずに一緒に生きていけるのかという問題なのだと。

 世の中は良し悪しは別として,どうしても多数派の論理を中心に動きますから,少数派がそれに合わせざるを得ないという現実が生まれます。少数派は最初から不利を抱えて無理をして生きざるを得ない。ここはある意味「なんでお月様は2つないの?」といって文句を言う人が仮にいても「そんなのしょうがないじゃん」としか答えようがないのにも似て,もうどうしようもない現実というところがあります。

 医療や福祉は,そのどうしようもない現実を大前提にして,基本的には「多数派」を軸にした「多数派の視点からの少数派への配慮」という論理で成り立つものでしょう。

 ただ,夫婦とか恋人とか友達とか親子とか,身近な小さな関係になると,そういう多数派VS少数派の関係とは話が違います。そこでは強者と弱者の力関係が逆転することもあるし,対等な力関係になることもあるし,単に多数派が自分の理屈をそのまま通して,少数派がそれに合わせる,という形では追いつかない,別の現実が生まれます。

 そこは世の中の「多数派少数派」の理屈とは違った形で,それぞれの当事者の現実に合わせて,それぞれに個性的な形で,お互いの生き方をすり合わせていく工夫が積み重ねられる必要が出てきます。それが医療や福祉の論理では届かない,当事者の論理と当事者としての工夫が必要な世界ということになるのだと思います。

 そこは医療や福祉などの援助をもらいながらも,最終的には定型アスぺ問題の当事者自身が解決していくしかない。結局それが他の誰でもない,自分たちの人生を自分たち自身で生きていくということでもあるのだと思います。
 

2015年11月21日 (土)

表情理解がずれる理由

 定型アスぺ間のズレで,日常的に一番むつかしいことの一つが表情理解のことだと思います。これはふつうよく言われるように,アスぺの方が定型の表情の読み取りがむつかしいとか,そういうだけの話ではありません。定型から見ても,アスぺの方の表情理解がむつかしいのです。「お互いに分らない」というのがこの表情理解の問題の大事なところだと思います。

 そこで私が今の今までずっと訳の分らない謎であったことの一つが,パートナーが明らかに不快な表情で私に話をしてきているのに,私が「なんで怒るの?」とか「なんで私がそこまで責められなければならないわけ?」と聞いても,「怒っていない」とか「責めていない」等と言われ,逆にこちらが「なんで怒ってもいない自分をそうやって攻撃するのか」と言って責められるという展開です。

 私の頭で考えられる可能性は「彼女が嘘をついている」か「彼女には感情がない」か「感情があるのにそれを感じることがなぜかできない」か,そんなことくらいでしたが,どれもピンとこないんです。

 まず「嘘をついている」というのは,これは彼女の真剣さを見れば,とてもそんな風には見えません。

「彼女には感情が無い」という話も,これは当然のことながら全然問題外でした(でもそういうふうにアスぺの方のことを非難する人もいるわけですけどね)。喜ぶ,悲しむ,怒る,といった姿をずっと見てきましたし,ときどき「え?ここでなんでそういう怒り方をするの?」と全く想像力が働かなくなる場合もありましたけれど,基本的にはなんで喜んでいるのか,悲しんでいるのか,怒っているのかはまあわかる感じもしていました。少なくとも定型的には「感情」と名付けるような気持ちの状態があることは間違いありません。

 そうすると残るのは「定型的には感情といえる状態があるんだけど,それを感情として理解していないのか,あるいは自分の感情を自覚することを抑圧しているのか」というような可能性になりました。

 アスぺの方は子どものころから自分が素直に感じたことを,定型に理解されず,頭から否定される経験を積み重ねて来られています。たとえば上に書いたように,私も彼女の怒り(私に向けられたのではなく,別の人への)の意味が分からなくて困惑したりすることもあるわけで,彼女にとっては「当然」であるはずの怒りが,私には全く理解されないとか,(その時はそういう態度は私はしませんでしたが)場合によっては頭から「そんなふうに感じるのはおかしい」などと否定されるわけです。

 そうすると,自分の方は少数派ですから,「相手(多数派)が間違っている」とはなかなか思えません。「おかしいのは自分だけ」ということになれば,「私がそう感じることはおかしいことなんだ。本当はそうじゃないんだ」とでも理解せざるを得なくなる。その結果「感情というのは訳の分らない世界」になるわけですし,自分の感情を自分で理解することがむつかしくなり,意味もなくなって,感情に注目しなくなる。そんな展開は一応はあるかもしれないと思ったわけです。

 もうひとつの可能性の「抑圧」ですけど,とても便利な考え方で,なんにでも使いやすいですから,私もその可能性をずっと捨てきれずに考えてはいましたが,でもなんか違うんです。まだうまく言葉にできませんが,その理解ではしっくりこないんですね。抑圧が起こるには,内面に意識できない大きな葛藤があるはずですけど,そこが見えてこないというのか。そんなややこしいはなしじゃなくて,もっとほんとに素直なことだという感じがします。

 というわけで,「本当は自分の感情があるんだけど,それを感情として理解することができない状態に置かれてしまっている」というのが,かろうじて残る可能性でした。

 でもこれもすっきりしないんです。なぜかと言うと,例えば彼女は私が怒っている時にそれを感じ取ることができます。もちろんびっくりするような誤解であることもあるんですが,でも時には私が微妙に表には出さないようにした怒りの気持ちを読み取られることもある。そしてそれを彼女は「(パンダは)怒っている」と表現できるんです。

 ということは「感情を感情として理解できない」というわけでもないはずなんです。そして私の感情を理解するわけですから,当然自分の感情だって理解できるでしょうし,実際そういうふうに自分の感情のことについて表現してくれることだってある。

 結局どの考え方で考えても,どれも「帯に短したすきに長し」でしっくりこない。

 で,今朝また私との短い会話で見せた怒ったような彼女の表情を見て,ふと思ったんです。「あ,彼女の感情は自分の中で閉じているんだ」と。そう思ったら長年の謎が一挙に解けるような気になりました。

 定型は自分の感情を他者に伝えます。これは意識してと言うより,基本は無意識でやる。もともと赤ちゃんはそうやって感情を伝えて世話をしてもらい,生きています。で,大人になるにしたがって,その感情の表現の仕方をだんだん工夫するようになり,感情を隠すこともするようになるし,嘘の感情を表すこともあるし(むつかしいですが),ややこしい感情のコミュニケーションの世界を創り上げていきます。

 定型はそういう世界で生きていますから,当然他者の感情にも敏感で,ごく小さな手掛かりでいろんな想像力を働かせてコミュニケーションするようになっている。相手の微妙な表情が私に対する何かのメッセージとして読み取られる。(私の限られた異文化経験からすると,特に日本の社会はこの微妙な読み取りのコミュニケーションが他の多くの文化の人たちからは考えられないくらいに複雑です。)

 これに対してアスぺの方はたぶんそもそも感情の読み取りについて定型とは違うパターンを持っていたり,あるいは定型ほどには細かい読み取りをされなかったりすることで,うまく感情のコミュニケーションができない状態から出発される。当然自分の感情を他の人とやりとりしながら調整していく(気持ちを立て直したりとか)ことも限界が大きくなり,基本的には自分の感情は自分で処理しなければならない,という「自立」した生き方をごく小さいころから選択するようになる。(誰も自分を理解してくれないんですから,自分でなんとかするしかない。甘えてはいられないわけです)

 感情はそうすると,他の人に表現するものではなくて,自分の中で処理しなければならないものということになっていきます。当然,自分の「表情」も相手への表現として理解してコントロールしようとする意識も薄くなっていくし,あまり注意もしなくなる。自分の感情はあくまで自分の中の問題で,他者は関係ないのです。

 そうすると,たとえば彼女が何かの葛藤を抱えていたとして,それが自分にとっては不快でしんどい状態なわけですから,それが自然に表情に出る。でも彼女にとってはその表情は別に相手に対する表現ではなくて,ただ自分の中の感情がそこに出ているだけのことなのです。その表情で相手に何かを伝えているつもりは全くなく,表情のやりとりで相手との関係を調整しようなどという発想もない。

 一方,私の方は会話の中でそういう表情が出てくれば,それはごく自然に(もう何も考えずに)私に対する不快の「表現」として理解してしまいますから,ショックを受けますし,自分が責められているように感じます。だから「なんでそんなに怒るの?」と言いたくなるわけですが,彼女の方は別に私に向けて何かを訴えたわけではなく,彼女の中での問題なわけで,「なんでそんなに怒るの?」と文句をつけられる(と感じるわけでしょう)理由が分からない。

 つまり,アスぺの方が基本的には問題を「自分の内部」のこととして考え,「自分の個人的な努力」で何とかしなければならないことと考えて,相手との関係から切り離して「自立」した生き方をされるようになる,そういうスタイルが,感情のやりとりということについても徹底していることから,そこで問題を他者と共有して,お互いに感情を調整しながら関係をとろうとする定型と激しくずれることになってしまう,という基本的なズレの一部として,そういう「(相手に対して)怒ってる」VS「怒ってない」という理解のズレが起こってしまうのだと考えることができます。

 そんなふうに考えてみて,ようやく私としてはかなりすっきりとした感じがします。なるほどなあ,もしそうならそうなっても不思議はないなあ,という感じです。


 

 

2015年11月19日 (木)

当事者顧問団?

このところこのブログや掲示板ですごいことが起こっているような気がしています。

何かというと、定型アスペ問題の当事者の悩みについて、いろんな立場の当事者(定型サイド、アスペサイド、離婚経験有り無し、子どもの有無など)から次々に意見やアドバイスが寄せられる状態が生まれてきていることです。

そこで行われるアドバイスって、お医者さんとか何とか、いわゆる「専門家」のものじゃなくて、ほんとに同じ問題で悩んできた経験者からのもので、言ってみれば「当事者という専門家」の集団が出来てきている気がしたんです。

それも集団というところが大事で、一人ひとりだとどうしても見方が一面的になるのは運命のようなものですが、いろんな立場の方がそれぞれの経験から語ってくださることで、アドバイスにものすごい厚みが生まれます。

勿論下手をすれば「船頭多くして船山を上る」にもなる危険はあるけど、ここは何かそういう感じにはあんまりなってない気がします。アドバイスのされ方がてすごくいい感じがするし…

これってアドバイスされる方にとってもいいことだし、アドバイスする側もそれまでのご自分の辛い経験が誰かの役に立つ可能性が出てくるわけですから、その自分の苦労に価値が生まれてきますよね。そういうことって定型アスペ問題の当事者だからこそ可能なことです。

いやあ、何かすばらしいなと思ってしまいました。

2015年11月18日 (水)

悲しみの笑顔

 私が好きな俳優の一人にチョ・スンウという人がいます。何が好きかなと思うのですが,ふとあの笑顔が好きなんだということに気づきました。

 彼は「悲しみの笑顔」が上手なんですね。どうしようもない状況に置かれて,何もできない時に,それでも自分にとって大事な相手に笑顔を見せる。それはお客様に向けた作り笑いではありません。自分にとって大事な人だからこそ,そんな状況で笑顔を見せるんです。それを見ていると,逆にその悲しみが静かに伝わってきます。

 そのことを思ったとき,あ,これってとても定型的な感覚なのだろうか?と思いました。

2015年11月12日 (木)

手が届かないことの貴さ

 定型アスぺ問題に本気で向き合うには,自分の人間観とか,そんなレベルまでの見直しがどうしても必要になります。定型の場合,定型世界にそのまま足を置いて,そこで「アスぺの人を定型世界につなぎとめる」というスタンスで「援助する」立場に立つ場合には,そこまでのことは必要がないかもしれません。自分の基本的な考え方,価値観などはそのままにして,ただ少しでもアスぺの方に定型世界への橋渡しのための具体的な方法を考えればいいのですから。

 もちろんそれだけでも大変であることは大変ですけれど,たとえば一緒に暮らすとか,そんなふうに「人生を共にする」レベルの話になると,やはりそれでは追いつかなくなります。自分自身の持っている価値観への相当深いレベルでの見直しが必要になる。定型的な世界で認められていることをいったんは否定しなければならないわけですし。

 でも,そうやって自分自身を見直し続けていても,どうしてもズレがなくなることはありません。少なくとも私と私のパートナーとの関係ではそうですね。お互いに「どうしてこういうことが伝わらないんだろう」ということが残り続ける。

 そうすると,その次のステップとしては,別に自分の価値観を絶対のものとして相手に主張するわけじゃないんだけど,でもやっぱり自分の持っている価値観はどうやっても捨てられないという,ある種の諦めか開き直りか,そういう「現実」を改めて受け入れるしかなくなる,ということが起こるのかもしれません。

 最近,パートナーから「どうして分ってもらえないのか」という風に悩むことはやめた,という話をされましたが,そういうことがとても大事なのかもしれません。お互いに「分ってもらえる」という期待を捨てたところで改めて向き合う。何のために?一緒に生きていくためにでしょうか。何のために一緒に?今まで一緒に生きてきたからでしょうか。

 相手は自分にはどうしても手の届かない存在なんだ,と思うことは,相手を相手のままに,自分の期待に沿ってではなく,相手自身のそのままのあり方で,見つめることにつながるような気がします。そしてその相手を自分が必要としているのかどうか。お互いに必要としているのかどうか。

 こういう感覚は,私よりパートナーの方が先に持っているような気がします。アスぺの場合は相手に甘い期待を持つことができない,厳しい世界を,それが普通のこととしてずっと生きて来られている方が多いので,そうなりやすいのかもしれません。

 「手が届かないからこそ,貴い存在なんだ」という考え方も,そのあたりに関係して出てくるのかもしれません。「自分の物」にできない「貴さ」でしょうか。

2015年11月10日 (火)

手の届かない人

 最近ちょっとずつ気持ちがそういう方向に向かってきているのを感じるのですが,そもそもパートナーに手を届かせようとする姿勢自体に無理があるんじゃないかなと。それって「きっと届く」とか「届かせて見せる」みたいな欲望と一体なわけですし,ある意味では「自分にはそれができる」みたいな一種の思い上がりにもつながるでしょう。

 でも,彼女の世界は彼女の世界。どうやったって究極のところでは私の手は届かない。

 考えてみると,もともと命ってそういうものなのかもしれません。人はいつか死ぬわけですし,死んでしまえばどうやったって手が届かない。全ての人がそういう死を抱えて生きているわけで,そう考えれば相手がだれであれ,自分に手が届くと思うのはあり得ないことになります。

 アスぺの方はもともと周りの世界に手が届きにくいこと常に実感させられて生きてこられたのでしょうし,定型よりはそういう見切り方になれていらっしゃるのかもしれません。

 もちろん,だから理解への努力がいらないということではなくて,逆にそうだからこそ努力が必要なのだと思いますが,でもそこでどこまで「手が届かない」という「現実」をしっかりと腹の底に据えられるかどうか。そういう問題なのかな。

2015年11月 4日 (水)

「違う」をベースに考えるには?

どんぐりさんから頂いたコメントに

こういうちょっとしたところも、ここまで捉え方がちがうことに、予想しつつも毎回驚きます。

というのがあって,それはそうだよなあと感じながら,ふと思ったんですが,

「同じ」だということを前提にして「違い」にショックを受ける,ということではやりきれなくなりますから,逆に「違う」ということを前提にして,でも「同じところもある」ことを発見することに嬉しさを積み重ねていく,というスタンスが現実的なのかも。

アスぺの方は最初から「違い」を前提にしか生きられない生き方をされてきた方が多いんでしょうけれど,定型はどうしても「同じ」をベースに考えようとする傾向が強くて,そこで辛い思いをする。

もちろん定型でも(私もそうですが)変わり者はいて,なかなか「同じ」を多くの人と共有できない場合もありますが,逆にその場合にも少数の人とはより深い「同じ」を共有することで支えられたりする。恋人や夫婦関係などについてはまさにそこを強く求める傾向もある。で,そこで上手く行かないから辛さが倍増する。

だから切り替えは大変ですけど,でも何かの工夫でそこを切り替えていかない限りは「違いにショックを受ける」という負の関係がいつまでも続くことでますます辛くなるかもしれません。

そこをどうやって割り切って切り替えられるかでしょうか。定型の側からすると。

2015年11月 2日 (月)

励まし合いのズレ,なんで?

 褒められて嬉しくなって元気が出るかどうか。励まし合って気持ちが高められたり励まされたりするか。

 定型は基本的にイエスで,アスぺの方はどうもそうでないらしい。

 Katzさんはもしかするとイェスかとも思いましたが,Katzさんでもちょっと違うらしい。

 そこまでは「うーん,やっぱりそうなのかなあ」と思いました。

 で,素朴な疑問なのですが,なんでなんでしょうね。

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