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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年10月

2015年10月30日 (金)

「必要」のコミュニケーション

 今朝もまた家事の仕方でやや不機嫌な声で言われたことがありました。まあもうそのことは慣れて来てますから,それほどどうこう言うことではないんですが,「せめて10回に1回くらいは何かほめてくれない?」と言うのがまず実現しません(^ ^;)ゞ

 よほど私は無能なんだろうかとか思いますし(いや,そうなのかもしれませんが(笑)),あるいはどうして彼女は「ほめる」ということをせずに,否定的なことばかり言うのか,ということがずっと謎でした。

 それでふと思ったんです。「会話というのは<必要なこと>を伝え合うことだ」という風にすごく割り切ったらどうなるだろうか?と。

 定型同士のコミュニケーションではお互いにお世辞を言い合ったり,褒め合って,それでお互いに気分がよくなったりして,やる気も出たり,そんなことがよくあります。アスぺの方もたぶんある種の「テクニック」としてはそうされることもあるのかなとも思います。

 でもその「ほめあい」というのは,まあよほど見え透いたものでない限りは,定型同士ではほんとに「嬉しい」という感じになるし,気分を高めあう力があるんですよね。でもアスぺの方には「人間関係で必要だからそうする」とか「礼儀としてそうする」「効果があるからそうする」という傾向がもしかしたら強いのではないか?(Katzさんはどうなのか興味津々ですが)

 だから少なくとも私のパートナーの場合,仕事の場などではそういうことはするけれど,家に帰ってきてまでそんなことを無理やり頑張ってする気にはなれないんじゃないだろうか。

 そう考えると,無理せずに本来の気分で「必要なこと」を言う会話に限定されるとすれば,「褒める」必要なんてないわけで(あるいはわざとらしくて白々しいと思われるかも),自分が困った時や問題を感じた時にそれを相手に伝えることこそが大事になる。

 「褒め合って高めあう」という「気分のコミュニケーション」をやめてしまって,「実質的に必要なコミュニケーション」で生きるのなら,相手に伝えるのは「否定的な部分」に限定されがちなのは,ある意味とても自然なことになるのかもしれません。

 もちろんだからといって,肯定的な部分を「認めていない」というわけではないのだと思うんです(いや思いたいという願望?(笑))。でも「うん,これはいいな」と思っても,それは自分の気持ちの中でそう味わえばいいことであって,それ以上相手に積極的に伝えなければならない「必要」は感じられないのかもしれない。私なんかは別に必要とか何とかとは関係なく,思わず嬉しくなって相手に言いたくなっちゃうんですが。

 田舎の純朴なコミュニケーションでは,「巧言令色」なんて避けられる傾向が強いような気もします。もっと「質実剛健」とか,生きる上でほんとに必要なことを大事にするというか,朴訥な感じというか(まあちょっと単純化しすぎかもしれませんけど (^ ^;)ゞ)。

 ある意味そんな世界を彼女が生きているのだとすれば,私のコミュニケーションのスタイルは浮かれたチャラチャラしたものに感じられたとしても,無理が無いところはあるかなとか,そんな風にも思いました。

 下手に言葉にして誉めない,ということの方が,もしかするともっと深く価値を認めてくれていることになるのかも…… (勝手に都合よく解釈すれば (笑))

2015年10月27日 (火)

人生観のズレ

 辛いとき,私は人に話をしたくなります。話を聞いてもらい,共感してもらい,支えてもらう。そういう「期待」を持ちます。

 彼女は子どものころから,自分の気持ちに共感してもらえない現実に生きてきました。してほしい気持ちはあっても,それはかなわないものでした。そういう期待を持つことはできない,というのが彼女の人間関係についての根っこの感覚になりました。

 自分の思いを私に伝えようとして,私が理解できず,否定的に接した時も,彼女はやはりそういうものなのだと自分に言い聞かせて我慢し,諦めるしかありませんでした。

 私たち定型は共感的に接することをしょうとしない人たちを「おかしい」と決めつけやすいです。「ひどい人」と感じます。そして共感される関係を求め続けます。

 でも,それはアスぺの方から見れば,やはり「甘え」に過ぎないということになるでしょう。人生とは孤立した世界を生き抜くことでしかない,という思いをずっと持ち続けられてきた場合。(もちろんアスぺの方でもその点で違う経験があれば,また見方も変わってくると思います。Katzさんのように)

 定型アスぺのズレが,感情の理解の仕方や動き方の違いを根っこに持っていることは間違いないでしょう。でも私たちの目の前に現実に現れる定型アスぺ問題というのは,そのこと以上に,その後の人生経験の積み重ねの中で「人に何を期待できるのか」ということについての圧倒的な現実の違い,それによる「人」や「世の中」の見え方の違いに一番大きな原因があるのではないかと,そんなことを今感じています。

 それは「生き方の違い」にもなっていくようなものですが,定型アスぺ間では,その違いに気づくことがむつかしく,ただ自分の基準で相手を否定的に見てしまうことが簡単に起こってしまうのではないでしょうか。

2015年10月26日 (月)

孤独はつらい

「孤独はつらい。でもそれに耐える力をつけてきた」

彼女の言葉です。

人の評価に振り回されない

 パートナーと話をしていて,改めてアスぺとして生きるということが,どれほどの覚悟を必要としているのかについて,教えられたことがありました。それに比べて自分はどれほどやわな生き方をしているのだろうかと,そんなことも感じさせられます。

 どんなに頑張ってみても,どんなに誠意を尽くしてみても,人は分ってくれることはない。思いもよらないねじ曲がった見方で受け止められる。そういう経験の積み重ねの中で,彼女は他者が自分をどう評価するか,ということには全く左右されない自分を作ってきたということのようなのです。

 どんなにひどい評価をされようと,全く気にかけない。自分なりに一生懸命やって,分ってくれる人はわかってくれる。分ってくれない人はどうしようもない。それに振り回されることはない。分ってくれる人と関係を持っていけばいい。

 もちろん,「無神経」になろうというわけではないし,自分から人を傷つけたいとも思わない。積極的に人を否定するような「反撃」をするようなことでもなく,ただ自分は自分が大事だと思うことを頑張ってやる。人がどう評価しようと,どんなにひどいことを言おうと,勝手にさせる。それは自分には関係のないことだと割り切る。

 私などはどうしても人の評価に振り回されます。彼女のような肝の据え方には程遠い。そこまでの覚悟で生きられることに,ほんとにすごいと思いました。また,そこまでの覚悟を持たないと自分なりに前向きには生きられない状況の厳しさを思いました。

 付き合い始めて,一緒に暮らすようになって,初めの頃は,彼女は初めて自分と近くにいられる人間に出会ったように感じたようです。初めて彼女の親に会いに行った時,親とは厳しい関係にあった彼女が,そこで私が彼女の横にいると感じてくれていました。

 でも,だんだんと私は彼女に失望感を与えていったのですね。彼女が大事にしていること,一生懸命追求しようとしていることを全く理解してくれない。そのことにショックを受け,悲しむ彼女の姿を何度も見てきました。でも何が彼女にそういうショックを与え,また悲しませるのか,それが私にはほんとにわかりませんでした。説明されてもピンときませんでした。

 今思えばお互い様なのですが,当時は自分の失望感はリアルに感じますが,彼女の失望感はまったくリアルには感じられませんでした。だから結果として無視をすることになる。別にあえて無視をするわけではなく,全くわからないから対応のしようがなく,結果として無視になるのです。

 今も十分に感じ取れるわけではもちろんないのですが,それでも以前に比べれば,だいぶんその失望感の「存在」を,感じられるようになってきました。これからそれがどこまで進められるのかは全くわかりませんけれども。

 そんな深い失望感を抱えながら,それでも日々をしっかりと暮らしていく。そして人の評価に振り回されない。そのことのすごさを感じ取った時,ただただ唸る思いでした。
 

2015年10月22日 (木)

「きっと分ってもらえる」

 みなさま,記事ではお久しぶりです。

 またちょっとずつ,無理せず書いてみようかなという気持ちに
 なり始めました。
 
 今回しばしのお休みを頂いたのは,
 直接にはひとつのコメントがきっかけでしたが,
 それはもちろんきっかけにすぎなくて,なんとなく自分がずっと感じ
 もやもやと気にしてきた問題を,そのコメントが
 分りやすく提示されたように思えたということでした。
 それが何なのか,すぐには言葉になりませんでしたが,
 ちょっとお休みして考えてみたくなったという経緯です。
 もちろん今も十分言葉になるわけではありませんが,
 少し新しく見えてきた感じのこともあって,
 それでまたしゃしゃり出てきたというわけでした (^ ^;)ゞ
 
 簡単に言うと,私は「誠意を尽くせばきっと分ってもらえる」
 という思いが非常に強いタイプの人間なんだろうなということでしょうか。
 だから,自分なりに一生懸命誠意を尽くそうとすることがあって,
 それを無視されたり,馬鹿にされたりするとすごく傷ついたり
 憤ったりする傾向が強いということです。
 別に誠意を尽くそうとすることが問題だとは思いませんし,
 自分に可能な限りは,その姿勢は保ちたいと思いますけれど,
 そうしたから「分ってもらえる」と考えることはできませんし,
 また逆の立場から考えて,自分が相手の誠意をちゃんと受け止められるか
 というと,それもまた大きな限界があるだろうと思います。
 
 この点で,アスぺの方は,そもそも自分の感じ方や思い,
 相手への自分なりの配慮を頭から否定されるような
 とても厳しい状況を生きてこられた方が多いだろう,
 ということを改めて思いました。

 当然のことながら「きっと分ってもらえる」という思いを
 抱けるような状況ではないわけで,
 むしろ「自分の思いは全て否定される」という感覚が優先するはずです。
 世の中に対して「きっと分ってもらえる」という甘い思いを持つことはできず,
 そうだとすれば,自分の「思い」を他者に対して表現することにも
 それを受け止めてもらおうと努力することにも
 ブレーキをかけざるを得ません。
 
 思い返すとパートナーとの関係でも
 彼女が自分の誠実な思いを一生けん命語ろうとしてくれたことは
 何度かあったと思います。
 でも,やっぱり私にはその意味がよく分らなくて
 そのたびに受け止めそこなっています。
 そしてやはり彼女は傷ついている。
 
 
 そういう経験を繰り返して来れば,
 生半可な期待を持つのではなく,冷静に,シビアに世の中を見る
 人を見る,ということはいわば生きる上で不可欠の姿勢になります。
 そうすると,たとえば私のように「きっと分ってもらえる」という
 感覚をどこか強く持ちながら考えたり書いたりするのをご覧になれば
 そこに違和感を感じられる方があったとしても
 不思議はないなと思えました。
 それが,今回のコメントにも表れたのではないか……。

 まあそんなことをちょっと思いました。

 自分の身の丈に合った形で可能な限りでは誠意をもち,
 分ってもらいたいと思うことは大事だと今も思います。
 定型でもアスぺでも個人差が大きいことは当然と思いますが,
 アスぺの方もそういうことを大事に考えられている方も
 それなりにいらっしゃると感じています。

 でもそこで「きっと分ってもらえる」という思いが先行してしまうと,
 いろんな無理が重なって,おかしなことにもなりかねないのでしょう。
 定型の側は比較的そういう思いを先行しやすい傾向があり,
 アスぺの方からそれを否定されて傷つくことが多くなります。
 アスぺの方の発言は,冷や水をかぶせられたような表現
 と定型には感じられることがしばしばあるわけですけれど,
 それは世の中に対する感じ方(経験)のズレにも
 大きな原因のひとつがありそうです。

 定型アスぺ問題が突きつけていることのひとつには
 そんなことがあるのではないかという気がしてきています。
 

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