昔、学生時代に発達に遅れのある子どもたちと付き合いがありましたが、面白かったのがつき合う学生の側に「得意なタイプ」というのがなんとなくあったことでした。大雑把なイメージでいうと、人付き合いはよくて、ほんわかした感じで、ただ発達がゆっくりな感じの子が好きな人とか、興味が次々に移って、ひとつのことにじっくり取り組まずにバタバタと動き回る感じの子が性にあっているという人、そして人付き合いが苦手で自分のやり方にこだわって自分の世界を作り続けようとするタイプの子に魅力を感じる人、といった具合です。
で、どのタイプの子に惹かれるかというと、どうもその人自身の生き方や感覚に共通点があるタイプに惹かれる感じがして面白かったんですね。三番目が結局自閉の子になりますが、私の場合はこのタイプの子に気持ちが向きやすく、ある意味「共感」する感じもありました。
なんというか、人付き合いより「自分の納得」が重要で、自分自身が納得する世界を作ってそこに生きようとするという、そんな感じでしょうか。その私自身の感覚が自閉の子の「生き方」と共鳴したのかなあとも思います。同じように他のタイプが好きな人の場合も、その人自身の生き方に共通する感覚を感じたりしました。「波長が合う」とか、そんなことになるのでしょうか。
私がパートナーに惹かれた理由のひとつも、多分そこだったのではないかという気がします。周囲におもねらず、自分の気持ちに正直に生きようとする姿勢でしょうか。
とは言え、私がアスペだったわけではありません。人付き合いも多い方でしたし、周囲にもそう見られていましたけれど、自分の感覚への「こだわり」は親譲りの強さという感じですね。「我が道を行く」タイプですから、そういう生き方をする人に共鳴しやすいところがあるのでしょう。その面で「アスペ的感覚」を共有していたのかも知れません。
ところがパートナーと人生が積み重なっていくにつれて、ズレもまた積み重なっていきますから、今度はその「自分の世界へのこだわり」が、逆に関係を難しくしていきます。そうなると今度は「あばたもエクボ」の世界から「エクボもあばた」の世界にひっくり返ってしまいがちになります。彼女の「得体の知れないこだわり」に苛立つようになるわけですね。
そしてそれが子育てで問題となるように私に見えてくると、私の苛立ちが今度は「正義感」に結び付いたりします。「そんな子どもへの接し方はおかしい」と、批判的に見るようになります。でもその私の感覚や価値観は彼女には全く共有されませんから、関係はどんどんこじれ始める。こうなると以前は魅力の源泉でもあった「こだわり」が逆に対立の原因になってますます事態を混乱させ、硬直させる。そこでは私も自分の世界を捨てられませんから、お互いにこだわりのぶつかり合いのようなものです。
彼女からすれば、そういう状態はきっと全く理不尽に感じられたでしょう。自分は誠心誠意頑張っているのに、私から得体の知れない非難を受け続けるのですから。そして自分の頑張りは全く認めてもらえないように感じる。もちろん私からすれば彼女の方が理不尽に見えるわけですから、彼女から見れば私が理不尽なのだということはなかなか思い至れないし。仮にそういわれたとしても、「この人は何を勘違いしているんだ」と思うか、あるいは少しは自分の問題を感じ取ったとしても、「そんなのあなたが抱えている問題に比べたら些細なものでしょうが。自分のことを棚にあげて何を言っているんだ」とますます苛立つはずです。
距離を持って、冷静に考えられる条件があれば、そこでもう一歩引いて事態を考え直してみる可能性が出てくるでしょう。けれども自分が相手に苦しめられているのだとリアルに感じられたり、ましてや「子どもを守らなければ」と感じてしまう状況ではそれはほとんど不可能に近いですよね。極端に言えばそこで冷静にいられるということは、自分や自分の大事な人たちの幸せや命を諦めることにもなりかねません。
これまで「頭では分かっても、体が受け付けない」というような葛藤が、定型アスペ間で理解を深めようとすると起こりやすい、ということを書いてきましたが、なぜそうなるかということの理由を具体的に考えてみると、たとえばそんな風にも考えられそうです。
相手を理解し受け入れようとすると自分達が否定されてしまい、自分達を守ろうとすれば相手が否定されてしまう。そこをそうならずにどうやったらお互いに自分も相手も否定しないで生きられるのか?
ネットのひとつの可能性は、リアルな世界のなかでは相手を否定せずにはいられないようなことを、この空間の中でだけは少し距離を持って見直してみることができる点でしょう。それはひとつのクッションにはなりうるし、硬直して身動きのとれなくなった現実世界に、少し余裕のあるところから別の視点を持ち込む可能性が出てくる。
そして最近のみなさんのコメントのやりとりで感じることのひとつが、現実世界では信じられなくなった定型アスペ間にも、ここでは改めてまた相手への理解や共感、期待、そしてかすかな(?)信頼感も感じられるようになることでした。これは硬直し煮詰まってしまったリアルな世界ではなかなか回復しがたい部分です。そこにネットという、ある意味現実離れした場だからこそ自分の身を守りつつ別の可能性が生まれる。
そうなると現実世界では「アスペ(定型)というのはこんなひどい奴らだ」とか思わざるを得ない状況にたいして、少なくとも「そんな人ばかりじゃない」とか「そうでない面もある」ことが実感されてきますから、ネットでのやりとりによって、硬直した現実に別の可能性が現実的に提供され始めることになります。
そう考えれば、現実世界だけではどうしようもないし、ネットだけでも意味がない、その両方の世界を行き来することで、新しい可能性が出てくるのだと思います。
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