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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年8月

2015年8月25日 (火)

お休みをいただきます

 今朝,アスぺの方からとても大事だと私には感じられるコメントを頂きました。

 残念ながら匿名でしたので,ルール通りに非公開設定にさせていただきましたが,私自身について,とても大事な視点からその問題点を指摘してくださっています。ある意味で私が一番頂きたかったご意見のようにも感じる,重要なご意見でした。

 あるいは他の方も別の言葉で関連するご指摘を頂いてきたのかとも思いますが,私の理解力では今回の匿名アスぺの方から頂いたご指摘が最もストレートにわかりやすい感じがして,自分自身を考え直してみる大事なきっかけになりそうに思います。

 私がどこまでその指摘を自分の中でちゃんと受け止めて消化し,今後に生かせるのかは全く未知数ですが,じっくりと考えなければならない本当に重要な課題を頂いたという思いは確実にあります。

 ということで,私の中で頂いた課題について考え,整理するためにも,当面記事の投稿はお休みさせていただきたく思います。

 もちろんこの場はすでに私個人の場ではなく,みなさんが大事な経験や意見の交換を続ける場になっていますので,そのみなさんのやりとりには是非ご活用ください。記事に着けるコメントは読みやすさからいっても数があまり多くはなれないでしょうし,掲示板をご利用いただいても結構ですし,あるいはやりとりのためにダミーの記事をその都度設けても構いません。

 また投稿ガイドラインに抵触する投稿については,引き続き気づく限り対処をしていきます。私が不注意その他何らかの理由で見逃しているものがありましたら,お手数ですがお知らせいただければと思います。

 今回ひとつまた確信を深めたことですが,少なくとも私自身の問題に関する限り,これまでのところ私に一番わかりやすい形で,考えるべき問題点を(私にとって)的確に理解し,指摘してくださった方がアスぺの方だったことになりますので,その人間(パンダ? (笑) )理解力について,「アスぺだから人が理解できない」という議論はやはり全く成り立たないのだと思いました。

 定型同様アスぺにもほんとうに様々な方があり,その「理解力」の幅も私などの想像力を大きく超えているのだと,そう思いました。

 

2015年8月24日 (月)

何で伝わらない+幸福論

定型側から見れば、定型アスペ問題の一番の中心問題は「こんな当たり前のことが何で伝わらないんだ?!」という困惑、ショック、悲しみ、苛立ちから果ては怒りや怨み、絶望といったマイナスの感情に定型が支配され、苦しめられることでしょう。

私の浅はかな仏教理解からいえば、その苦しみは「理解されたい」という煩悩、執着の心が生み出すものというふうに説明されることになるのでしょうし、その煩悩が強い人ほど苦しみは深く、 その苦しみを逃れるには煩悩を去るしかない、ということになるのでしょう。そこが悟りにもつながるのでしょうね。

で、そういう悟りには程遠い凡人として、私がこだわっているのは「自分が相手に理解されたいのなら、自分も相手を理解できる自分にならなければならない」という考え方でした。このブログで細々と「アスペの方の考え方や感じ方、喜びや傷つき方って、もしかするとこういうものでしょうか」というような問いかけを続けてきたのもそのためです。

アスペの方を一方的に決めつけて差別し、攻撃するような書き込みについても、いつも思うことは、「じゃああなたの方は一体どれだけアスペの方を理解できているの?」という疑問です。アスペの方が定型を理解できないように、あなたもアスペの方を理解できていないわけでしょう。あなたがあすぺの方に傷つけられる思いを持っているように、アスペの方も定型に傷つけられていると思い、悩んでいる。その事実を無視して、一方的にアスペの方を非難するというのは、それこそあなたが批判する自己中そのものじゃないですか、と思うんですね。 あくまで差別的に攻撃する方についてです。

あくまで理解してほしい欲望は消えない凡人の見方ですが(笑)。

掲示板の方で、アスペの方が転職というタイトルでやりとりをされているのを見て、どうしてアスペの方が運命的に不幸にならなければならないのか、と思います。あすぺの方にもご自分の特性にあった幸せがあるんじゃないかと思いたい。

そう考えてみると、これまでのアスペ理解の議論には、障害の性質の理解や、社会適応を高めるための方法の議論はよくありますが、アスペ的な幸福論って、どの程度あるんでしょうね。

2015年8月23日 (日)

その人に合った正解

 コクーンさんやKatzさんから「定型」vs「アスぺ」というはっきりした線引きで「ある」「ない」「〇」「×」式の整理をすることについて疑問が語られていました

 両者にはっきりした境界を決めることはできない,ということは,アメリカを中心にした最近の精神医学会では定説化してきているようですよね。アスペルガーという診断名もDSMからは消えましたし,自閉症スペクトラムという「境目が無い変化」で見るという考え方が今では主流になってきているようです(もちろん時代が変わるとまたそこも変化する可能性もあります)。

 そういう流れから考えると,コクーンさんやKatzさんの見方はそれに沿ったもので,とても有力な考え方ということになると思いますし,私個人もお二人の言うことはうなづけるものがあります。Katzさんの書かれているように,「定型」という人に「パンダ」という性質がくっついているわけでも,「アスぺ」という人に「Katz」という性質がくっついているわけでもなくて,「パンダ」の性質の一つとして定型ということがあり,Katzという人にアスぺという性質もくっついている,という考え方は特に大事だと私は感じています。私の場合もともとパートナーとの関係でもまずは「彼女」という存在があって,その彼女がアスぺでもあるという感じで,別に「アスぺ」という人と結婚しているわけではないですし (笑)

 個人的にはそう思いますが,他方でそれでも「定型」と「アスぺ」を線引きして考えた方がいい場合もあるような気がしますし,それは一般的にとかいう話ではなくて,「ある人の置かれた状況ではそういう見方をした方がいい場合がある」というような,個別の具体的な状況によってそういえるような話なんだろうと思います。そういう場合は境目をはっきりさせないともっとつらい状況になるようにも思えるからです。

 具体的にどういう場合が境目をはっきりさせたほうがいいのか,ということについては簡単には決めつけられないように思いますが,ひとつ関係がありそうなのは,その人その人がどういう「着地点」を必要としているか,ということのように思います。

 たとえばすでにパートナー関係を終える決断をした方と,いまそちらの方に向けて気持ちを整理しつつある方と,まだどうしたらいいか揺れ動き続けている方と,これからもパートナー関係を続ける気持ちになっている方と,いろんな方向性があって,私は別にそのどれが正解だとか,いいとか悪いとか,そういうことは考えません。

 それぞれの方の抱えている状況やそれぞれの方のご自身の性格や価値観などによって,「その状況,そのカップル」にとって選びうる範囲はある程度決まってくると思いますし,それによって向かうべき気持ちの整理の仕方,「覚悟」の決め方も変わってくるでしょう。どちらにしてもなんらかの気持ちの「踏ん切りの仕方」があると思うので,そこで「境目」を強調するか,逆に「連続性」を強調するかに違いが出てくるのは自然なことだろうと思います。

 ここでも「境目」に注目するか「連続性」に注目するかといことを含めて,「その人にあった正解を探っていく」ということが大事になるように思います。

2015年8月19日 (水)

子どもへの深い思い

 我が家の場合,私とパートナーの関係をむつかしくした決定的な原因の一つが子どもに対する接し方の問題でした。もちろん私も「よい父親」だったとは口が裂けても言えませんけれど (^ ^;)ゞ,ただ,定型的な感覚からすると,「その接し方は子どもに辛い思いをさせる」と感じられる接し方が繰り返され,「子どもを守るために」離婚することも真剣に考えざるを得ない状況ではありました。

 後に彼女が自分のことをアスぺだと考えるようになり,それ以前の子どもの苦しみについても,ものすごい罪悪感を感じるようになりました。彼女としては本当に子どものことを心配して,子どものために必死でやってきたことが,逆に子どもを苦しめていたのだという見方をするようになって,ものすごくショックを受けて,それこそ生きていられないくらいの思いにもなったのですね。

 この深い「傷」を,彼女はそれ以降ずっと抱え続けてきました。そして必死で子どもとの「距離」をとろうとしてきました。それはほんとうに痛々しいものでした。

 結果的にこの「距離をとる」ことが子どもにとっても大事な意味を持ったと思います。彼女の側はかなり努力をして子どもに合わせてきたようですが,それでも子どもの方はだんだんと彼女と打ち解けられるようになり,今ではむしろ私の方がうっとうしがられるような感じにまでなっています (T_T)

 そして先日,子どもがひとつの新しい出発をしたのですが,見ていて本当に深いつながりを子どもの方が感じとっていると思えたのですね。それを見て私はとても嬉しくなって,パートナーに「よかったね」と言ったのですが,この間,かなり親子でいろいろと話ができたのだそうです。

 今も彼女は子どものことをすごく心配しています。ある意味私よりもずっと敏感に子どものつらい思いを感じ取ることもあります。でも,そんなときにも私に何とか対応するように言ってきたりするんですね。自分が心配して何かをすると,必ずおかしなことになるからと彼女は言います。私はここまで関係が変り,子どもの方も親の状況を理解できるようになっていれば,昔のようなことはもうないと思えるのですが,でも彼女はそこはどうしても安心できないようで,そういう話を聞いてもとても痛々しく感じます。

 比較的最近,子どもと話をしていて,「お母さんはほんとうにいい人だ」と子どもは言っていました。私もそう思えます。もちろん,いろいろなズレでどうしてもいらだってしまうようなことはなくならないのですが…… 

2015年8月17日 (月)

ムーミン谷のあらし

 人を傷つけることを目的とするような書き込みを見た後は,どうしても気持ちが殺伐としてしまいますね。

 自分に対する攻撃ならまだ我慢もできますが,一生懸命努力されている他の方たちを傷つけて自分の不満を晴らそうとするような書き込みは,耐え難い感じがします。それも真剣に問題提起をするのではなく,たんなる偏見で一方的に相手を断罪するだけですから,それって単なる暴力とか差別でしょう。しかもそうすることがなにか正義の行動であるような勘違いを堂々と展開されるのですから,なんともやりきれない思いです。

 以前,アスぺの方がこの場を自分にとってムーミン谷のような場所だと書いてくださったことがありました。それぞれに個性的な人がそれぞれに生きていて,それぞれの生き方に何かを感じながら,距離を保って生きている,そんなイメージなのかなと勝手に想像しました。

 私もその感じはいいなあと思って嬉しかったのですが,ネットというオープンな場所ですから,やがてそこが危うくなっていきました。距離を保てずに一方的に激しく人を攻撃するタイプの方が「定期的に」やってこられるわけで,これは避けようがありません。多分そこは定型アスぺに関係なく,どちらの側からも生じる問題のように思います。

 人間って,いろんな人の集まりですから,いろんなタイプの方がいて,それはもう決してなくなることはないし,逆に言えばそういう「多様性」が人間をここまで生きながらえさせてきたという面がありますから,そこを「みんな一緒」にしてしまったら,人間の社会もおしまいになります。

 けれどもムーミン谷を求める方たちの願いが否定されていいとは思わないし,矛盾です。ということで,次の模索としてガイドラインを設定したのですが,それだけではどうしても「対症療法」の枠を超えることはできません。

 世の中には自分が傷つけられた思いを,他の人を傷つけることで解消しようとする人たちが一定数はどうしても存在します。もちろんそういう方がそうなるには環境の問題もあって,状況次第ではそうならずに済むと思うのですが,でもそういう環境を実現すること自体も大変なことですから,どうしても一定数はそうなってしまう方が出るのはもう必然のような気がします。

 そういうタイプの方による「荒らし」を拡大させないようにするところまでは,ガイドラインにある程度の効果があるでしょうし,それ自体大切なことだとは思いますが,ただ,やはりそれによって一時的にせよ激しく傷つけられるひとが出ることは避けられません。

 その矛盾を解消するにはオープンではなく,会員制のようにクローズドな場にするというのは一つの方法ではあります。でもなんかそれもちがうような気がするし……


 うーん,人間の世の中って,そういう同じような問題をずっと抱えてきたんでしょうね。歴史ドラマとか見ると,そんな気がします。そうかあ,歴史の重みってそういうことなのかも。とにかく膨大な人たちの試行錯誤の積み重ねなわけですね。

 そういう目で考えてみると,ネットというのはやっぱりオープンというところがものすごく大きくて,これだけオープンな場というのは,これまで人間が経験したことのないものでしょう。しかも同時に極端にプライベートな場にもなる。なんかそのバランスがむつかしい。その意味ではここは未知の領域で,だからそこでどういう場を作っていけるのか,どういう工夫がそこで必要になるのか,ということは,ひとつひとつがある意味新たな挑戦でもあるわけですね。

 それにしてもこの殺伐とした気分,なんとかならないものでしょうか (^ ^;)ゞ

2015年8月10日 (月)

浮かぶ瀬はある?

 最近公私ともに思うことが多いのですが,人間だれしも自分の視点でしかものを見ることができませんから,どうしても判断が自分の基準からのものにしかなれない。その限界を超えるには,結局違う視点を持った人とやりとりするしかないわけですよね。もちろんその場合だって,相手の視点を理解するのも自分の視点からになりますから,絶対的に自分の限界を超えることなどあり得ないわけですが,それでも「三人寄れば文殊の知恵」というのは本当だと思います。

 定型アスぺ間でやりとりをしていて,本当にそういう視点に深刻な違いがあることをここでも繰り返し実感し,そして自分の持っている価値判断の基準が全く通用しないような世界と出会うことで,その中の一つの基準だけで判断することが,どれほど実態をかけ離れた無理な物語を作り出してしまうのか,ということをしみじみと思うようになりました。

 しかも,たった一人で思い込んだ物語なら,まだその思い込みに気づく機会は増えますけれど,同じような思い込みをする人が複数いたりすれば,その思い込みはお互いに強められますから,簡単には動かなくなります。アスぺの方から見れば定型というのはそういう定型的な思い込みを強烈に持った変な集団に見えるかもしれないし,定型から見れば,アスぺの人びとは奇妙な思い込みを持った人々に見えるかもしれません。

 「だからそれは悪い」というふうにも私は単純には言えなくて,そうなるのにはそうなるだけの理由があるのだから,頭からそれを否定するわけにもいかない気がします。自分だってそういう限界はどうやったって超えられないことを思い知らされていますし。ほんとに自分の「善意」なんて,なかなか人に通じませんものね。むしろ相手の人には迷惑だったりもするし。だからと言ってその善意を頭から否定する気にもなれないわけですが。

 自分にとっての「悪」にも見えるものと,はたしてどうやって一緒に生きていけるのか。あ,もちろん「悪は悪」であって,共存する必要はない,という考え方もありますし,人間はそうやって「悪」をやっつけて生きてきたのだ,という面もありますから,そのことを否定するつもりはないのですが,ただ,もうひとつ,人間のこれまでの歴史というのは,訳の分らない人とつきあいをしていく工夫を重ねてきた歴史だ,という面もあるわけですよね。私としてはその面にこだわって考えてみたいわけです。

 うーんと,その時,もしかすると二つの方向性があるのかもしれません。一つはもう相手は悪だという大前提で,その上で「やっつけあわない」関係をどうするかを考える方向。もうひとつはそれでも共有できる「善」がないかどうかを探り合う方向。

 私がこだわっているのはたぶん後者です。お互いに一見全く正反対のことをやっているように見えることについて,実はもう少し引いてみればそれは「お互い様」だということを発見することにこだわるのも,その「お互い様」の部分で,実は共有されている「善」があるのだということを探しているのでしょう。そしてその「善」から関係を作りなおそうとする。

 自分が素朴に持っている「善」の感覚をいったん否定して,その上で改めてお互いの感覚にムリのない「善」を探していく。そんなプロセスを作ろうとしているのかもしれません。そのためには自分の感覚を相手に押し付けないことが必要になるし,自分の「善」で相手を単純に断罪しないことが必要になるし,でもだからといって「善」自体を放棄するのではなくて,共有できる「善」を模索する姿勢が大事になる。

 で,その時にむつかしいのは,自分の「善」をいったん否定することは,下手をすると自分の存在自体を否定することにもなりかねないことで,また相手の「悪」を悪と見ないということは,下手をすると自分が破壊されることにもつながりかねないことで,だからそこがものすごくむつかしい。

 ある意味「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の世界ですから,危ないんですよね。でもそこを超えないと今の矛盾が繰り返されるだけで,次が生まれないし。その危ないところをどうやってうまく乗り越えていけるのか。……むつかしいです。

2015年8月 9日 (日)

ネットと現実世界

昔、学生時代に発達に遅れのある子どもたちと付き合いがありましたが、面白かったのがつき合う学生の側に「得意なタイプ」というのがなんとなくあったことでした。大雑把なイメージでいうと、人付き合いはよくて、ほんわかした感じで、ただ発達がゆっくりな感じの子が好きな人とか、興味が次々に移って、ひとつのことにじっくり取り組まずにバタバタと動き回る感じの子が性にあっているという人、そして人付き合いが苦手で自分のやり方にこだわって自分の世界を作り続けようとするタイプの子に魅力を感じる人、といった具合です。

で、どのタイプの子に惹かれるかというと、どうもその人自身の生き方や感覚に共通点があるタイプに惹かれる感じがして面白かったんですね。三番目が結局自閉の子になりますが、私の場合はこのタイプの子に気持ちが向きやすく、ある意味「共感」する感じもありました。

なんというか、人付き合いより「自分の納得」が重要で、自分自身が納得する世界を作ってそこに生きようとするという、そんな感じでしょうか。その私自身の感覚が自閉の子の「生き方」と共鳴したのかなあとも思います。同じように他のタイプが好きな人の場合も、その人自身の生き方に共通する感覚を感じたりしました。「波長が合う」とか、そんなことになるのでしょうか。

私がパートナーに惹かれた理由のひとつも、多分そこだったのではないかという気がします。周囲におもねらず、自分の気持ちに正直に生きようとする姿勢でしょうか。

とは言え、私がアスペだったわけではありません。人付き合いも多い方でしたし、周囲にもそう見られていましたけれど、自分の感覚への「こだわり」は親譲りの強さという感じですね。「我が道を行く」タイプですから、そういう生き方をする人に共鳴しやすいところがあるのでしょう。その面で「アスペ的感覚」を共有していたのかも知れません。

ところがパートナーと人生が積み重なっていくにつれて、ズレもまた積み重なっていきますから、今度はその「自分の世界へのこだわり」が、逆に関係を難しくしていきます。そうなると今度は「あばたもエクボ」の世界から「エクボもあばた」の世界にひっくり返ってしまいがちになります。彼女の「得体の知れないこだわり」に苛立つようになるわけですね。

そしてそれが子育てで問題となるように私に見えてくると、私の苛立ちが今度は「正義感」に結び付いたりします。「そんな子どもへの接し方はおかしい」と、批判的に見るようになります。でもその私の感覚や価値観は彼女には全く共有されませんから、関係はどんどんこじれ始める。こうなると以前は魅力の源泉でもあった「こだわり」が逆に対立の原因になってますます事態を混乱させ、硬直させる。そこでは私も自分の世界を捨てられませんから、お互いにこだわりのぶつかり合いのようなものです。

彼女からすれば、そういう状態はきっと全く理不尽に感じられたでしょう。自分は誠心誠意頑張っているのに、私から得体の知れない非難を受け続けるのですから。そして自分の頑張りは全く認めてもらえないように感じる。もちろん私からすれば彼女の方が理不尽に見えるわけですから、彼女から見れば私が理不尽なのだということはなかなか思い至れないし。仮にそういわれたとしても、「この人は何を勘違いしているんだ」と思うか、あるいは少しは自分の問題を感じ取ったとしても、「そんなのあなたが抱えている問題に比べたら些細なものでしょうが。自分のことを棚にあげて何を言っているんだ」とますます苛立つはずです。

距離を持って、冷静に考えられる条件があれば、そこでもう一歩引いて事態を考え直してみる可能性が出てくるでしょう。けれども自分が相手に苦しめられているのだとリアルに感じられたり、ましてや「子どもを守らなければ」と感じてしまう状況ではそれはほとんど不可能に近いですよね。極端に言えばそこで冷静にいられるということは、自分や自分の大事な人たちの幸せや命を諦めることにもなりかねません。

これまで「頭では分かっても、体が受け付けない」というような葛藤が、定型アスペ間で理解を深めようとすると起こりやすい、ということを書いてきましたが、なぜそうなるかということの理由を具体的に考えてみると、たとえばそんな風にも考えられそうです。

相手を理解し受け入れようとすると自分達が否定されてしまい、自分達を守ろうとすれば相手が否定されてしまう。そこをそうならずにどうやったらお互いに自分も相手も否定しないで生きられるのか?

ネットのひとつの可能性は、リアルな世界のなかでは相手を否定せずにはいられないようなことを、この空間の中でだけは少し距離を持って見直してみることができる点でしょう。それはひとつのクッションにはなりうるし、硬直して身動きのとれなくなった現実世界に、少し余裕のあるところから別の視点を持ち込む可能性が出てくる。

そして最近のみなさんのコメントのやりとりで感じることのひとつが、現実世界では信じられなくなった定型アスペ間にも、ここでは改めてまた相手への理解や共感、期待、そしてかすかな(?)信頼感も感じられるようになることでした。これは硬直し煮詰まってしまったリアルな世界ではなかなか回復しがたい部分です。そこにネットという、ある意味現実離れした場だからこそ自分の身を守りつつ別の可能性が生まれる。

そうなると現実世界では「アスペ(定型)というのはこんなひどい奴らだ」とか思わざるを得ない状況にたいして、少なくとも「そんな人ばかりじゃない」とか「そうでない面もある」ことが実感されてきますから、ネットでのやりとりによって、硬直した現実に別の可能性が現実的に提供され始めることになります。

そう考えれば、現実世界だけではどうしようもないし、ネットだけでも意味がない、その両方の世界を行き来することで、新しい可能性が出てくるのだと思います。

2015年8月 4日 (火)

定型は宇宙人

 前にも何度かご紹介しましたが,トマトさんも随分お世話になったという,狸穴猫さんのブログで「アスペルガー者のための定型発達者研究」という画期的な記事がありました。普通は研究対象になるのは「障がい者」であるアスペルガー者であって,なんでアスぺの方は「おかしいのか」ということが「研究」されるわけです。でもこの記事(シリーズ)は,逆に「なんで定型はこんなにおかしいのか?」という,定型の不思議をアスぺ的「常識」の視点から「研究」されるわけです。

 私は個人的にこういう見方の切り替えが結構好きで,すごく刺激を受けました。

 そして今回,ねこさんからいただいたコメントでは,定型のわかりにくい言動について,「宇宙人」のようだと書いてくださっていて,これも「ああ,やっぱりそういうことになるよね!」と納得でした。通常は「火星人」だとか「宇宙人」だとか,「人間じゃない」という扱いを受けるのはアスぺの方の側なわけですが,そんなのお互い様じゃない,という話になります。

 ねこさんもにわとりさんとおなじで周囲から「うざい」とか「きもい」といった言葉を投げつけられてきたとのことですが,「うざい」と言われる場面のひとつとして紹介されているのは「言われても「なんで?」と説明してもらいたくても「うざいわ」となるのでほんと宇宙人でした」という話です。

 ねこさんにとってはほんとに分らないので,素直に聞きたくなるのだと思いますが,定型の相手にとっては「なんで分らないのかが分からない」状態で,聞かれると困ってしまう。「あなたの心臓はなんで,どうやって動かしているんですか?」とか聞かれても,そんなの別に何か考えて動かしているわけではなくて,勝手に動いてくれているわけですし,説明のしようがない,ということになるのと同じでしょう。それをしつこく聞かれたら「うざい」となる。同じように定型なら意識もせずに当たり前にやっていることを改めて聞かれると,誰でも困ってしまうわけですね。で,「うざい」となる。

 ねこさんは定型の相手の方を宇宙人と感じた例について,こんなことも書かれています。

 「トイレのあと水でしか手を洗わないとか、ベッドの上にかばんをのせるとか、歯を磨かないとか、布団の裏表、上下を守らないとか………謎だらけでした。」

 定型でもこのあたりについては人によって習慣の違いもある程度あると思いますし,歯を磨かないといったことは私もちょっと違和感がありますが,でも改めて「謎」と言われるほどのこともない気がして,まあ習慣の違いという程度でしょう。それを「謎」とまで感じるのは,逆に自閉的な「こだわり」という受け止め方になってしまうのだと思います。

 「ここは守らなければならない」という部分は,定型であろうがアスぺであろうがどちらも持っています。でもその中身はずれることが多い。定型が比較的「守らなければならない」と感じていることで,アスぺの方は「なんで???」と訳が分からないものが結構あるし,逆にアスぺの方が「これは当然そうでしょう」と思っていることで定型が「はあ???」となるものもある。

 ただ,定型の方が多数派なので,そのズレた部分について定型の側の「はあ???」は「正しい疑問」となり,アスぺの側の「なんで???」は「こだわり」として理解されることになります。仕組みはどちらも似たようなものなんだけど,そこには結果的には平等な関係は成り立っていません。あくまでも多数派が基準にされます。(あと,定型の基準は比較的多くの人と共有されやすく,アスぺの方の基準はあまりすり合わせがないためにばらばらになりやすく,「少数派がまとまる」ということも少なくなって,さらに極端に少数派になる,ということもその傾向を強める原因になりそう)

 そんなふうに多数派かどうかで「正しい」かどうかが変りますけど,でもどちらを見ても「私が普通にやっていること,私がいいと考えているやり方」と相手のやることがずれていて,なんで相手がそこからずれるのかが分からないし,説明されてもピンとこないこと,逆に言えば相手から質問されても,なんでそんなことわざわざ説明しなければならないのか分らないし,説明の仕方も分らないこと,そういう点では全く同じですよね。
 だからアスぺの方にすれば定型は宇宙人。定型からするとアスぺの方が宇宙人なのと全く理屈は同じということです。 

2015年8月 2日 (日)

ずれながら生きる

 記事「みんな抱えるトートロジー」へ頂いたトマトさんのコメント を拝見していて,なんだろうなあとぼちぼち考えているのですが,まあ,ひとつは私の理解が全然的外れか,あるいは大事なポイントを見逃しているというご指摘だったのだろうと思います。それが特に私がパートナーについて考えていることをにわとりさんに移して(臨床心理学の人なら「投影して」とか言うのかも)見ちゃっているから,いわば虚像と格闘しているようなもので,空回りしてしまうのだ,という感じでしょうか。

 たしかにその可能性は私には完全には否定はできません。いくら私がそうでないと言ってみても,でもその私の判断が思い込みであることはいくらでもありますし,人間自分のことを客観的に見るなんて,結局はどこまで行っても無理ですから,常にそういう危険性は残り続けるのだと思います。

 ということは一応前提にしたうえで,私の感覚に素直に事態を見てみると,昨日書いたことは自分としてはかなり素直に「きっとこんな感じなんだろうなあ」と思える話で,そういう視点で見てみるとにわとりさんのことも,カサンドラのことも,もっと言えばいろんな人間関係のトラブルも,具体的な中身は違うけど,どれも同じようなパターンで起こっているような感じがして,その意味でも私自身には結構説得力がある(???)話ではありました。

 にわとりさんにそれが伝わりにくい理由についても同じ見方からだいたい説明がつきますし,そのことを前提ににわとりさんとどんなやりとりをしていくことがお互いにとって意味あることなのかも改めて考えられますし,ほんとに私としてはひとつのステップになったような感覚がなくなりません。今日頂いたにわとりさんの掲示板への書き込みを拝見しても,ああこれでちょっとまた違うフェーズで次のステップが見え始めるのかなあという気がしましたし。

 もちろんそういう私の感覚自体が全然ずっこけている可能性は常に残るし,にわとりさんを私がひどく誤解し続けているのかもしれないし,私もそこは何とも断言はできないのですけれど。

 いずれにしてもトマトさんと私で,ものすごく見えているものが違うみたいで,そのズレはなんなんだろうなあと,そのことに興味を持っています。

 ひとつ考えられることは,定型アスぺ問題を考える時の目の付け所がかなり違う部分があって,定型アスぺ問題へのアプローチの視点も違って,その意味で違うものを見ているということなのかもしれません。だから私にとってかなりリアリティのあることはトマトさんには「何の話?」という感じになるのかもしれないですよね。

 定型アスぺに限らず,ほんとに人それぞれ,見えている世界,生きている世界にはそれぞれの特色があって,言ってみれば人の数だけその人の小宇宙があるのかもしれません。それが重なる部分もあれば,すごくずれる部分もあって,でもなかなかずれていることには気づきにくい。

 どういうところでずれやすいかに定型アスぺ間と定型定型間,アスぺアスぺ間でそれぞれの特徴があるかもしれないけど,ずれながら生きているというところはみんなおんなじかなあと,そんなことを最近よく思います。ほんとに人それぞれです。

2015年8月 1日 (土)

みんな抱えるトートロジー

 にわとりさんの議論がなかなか他の人とかみ合わなくて,にわとりさんにとってはどうして自分が一生懸命に訴えていることが理解されないのかが全く納得いかず,不当に自分を貶められていて,自分の言うことを無視されているのだと感じてしまい,逆に周囲の人は一生懸命にわとりさんのために話をしているのににわとりさんが全然それを受け止めず,逆に全く不当な形で攻撃的に向かってくるように感じられたりもするのはなぜか。

 今のところ大きな原因の一つとして私が感じているのは,掲示板でも書きましたようにトートロジーの問題です。話の前提に結論がすでに含まれてしまっているような場合,話が始まった段階で「正しい答え」がその中にもう含まれてしまっているので,それ以外の議論が成り立たなくなる。論理学というのである主張が形式的に「正しい」のは,その論理がトートロジーになっているからだということを大昔やりました。ですから,証明というのはそこにちゃんとトートロジーが成り立っていることを示すことだということになります。

 たとえば中学生の数学で因数分解というのがあります。

   X^2-Y^2=(X+Y)(X-Y)

 とか,( ^2 は「二乗」の意味です)いくつかの公式がありますが,足し算引き算の形を掛け算の形に直すやつですね。

 これ,左から右側に変化させることができてそれが「因数分解」になりますが,逆に右の式は「展開(カッコを外す)」ことで左の式に変化させられます。で,どっちもどっちでイコールで結ばれることになります。

 この計算が「正しい」のは,前提(たとえばX^2-Y^2)の中に最初から結論((X+Y)(X-Y))が含まれちゃっているからだということで,その正さは順番に式を変化させていく過程を示すことで証明されます。つまり,式の左側と右側はトートロジーになっているわけですね。同じことを別の言い方で言っただけの話だというわけです。

 もうちょっと普通の話で言えば,

  「一生懸命勉強をしなければ成績は上がらない」①

 という前提を立てたとして,

  「○○君は成績が悪い」②

 という状態があるとすると,その二つを組み合わせると

  「○○君は一生懸命勉強をしていない」③

 という結論が得られます。

 でも,常識的に考えれば,別に成績が上がる上がらないは一生懸命勉強をしたかどうかだけでは決まりません。なにか悩み事があって勉強する気にならないのかもしれないし,教え方が悪いのかもしれないし,何か勘違いしているのかもしれないし,あるいは何かの知的な障がいがあってとくに理解に困難があるのかもしれないし,いろんな原因が可能性としてあって,その結果「成績が悪い」という状態が生み出されるわけです。

 でも,そういう他のことを一切考えずに,一つの前提①だけを絶対のものとして置けば,②があれば絶対③だということになってしまって,この関係はもう鉄壁の物で,疑いようもないものになってしまうわけです。その議論の中では「絶対に正しい」もので,「それ以外はあり得ない」ことになる。

 そうすると,もしそこで「でも○○君は一生懸命勉強しているし,出来ないのは家にいろいろ大変なことがあって集中しきれないからじゃないかな」という意見が出てきても,その意見は①から③の枠の中に入ってきませんから,事実上無視されます。そしてその理由としては「一生懸命勉強しなければ成績は上がらない」からだ,とまた主張される。議論は全くかみ合わず,同じところをぐるぐる回るだけになります。

 ①から③の枠の中に入り込んでしまって,それ以外を考えなかったり,意図的か無意図的か無視し続ける限りは,その①から③の展開は鉄壁の正しさを持っていますから,もう疑いようのない真実で,他の意見は一切意味を持ち得ません。だから他の意見を確信を持って否定することができるし,その「正しい」意見を理解しない周囲が信じられず,そこに悪意すら感じるようになります。

 にわとりさんの議論の仕方は,このパターンにはまり込んでしまっているように私には見えるわけです。


 ところで,もしかするとすでにお気づきになった方もあるかもしれません。実は①から③のパターンで責められ続けたと感じているのは,むしろにわとりさんの方だということです。にわとりさんは自分なりに一生懸命努力を続けてきた。それなのに,結果としては定型が満足するようなものを出すことができない(②’)。そうすると周りからは「お前は一生懸命さが足りない」とか「まじめにやっていない」とか責められる(③’)。何でなのかわからない。というわけです。で,にわとりさんはその原因として「発達障害だから成績が悪くなる」(①’)という前提があるのに,それを定型が理解せず,「できないのは一生懸命やらないからだ」(①)という前提でしかものを見ないからだ,と批判されます。

 このパターン,カサンドラ問題でも,定型アスぺ問題に苦しむ定型が,周囲の人に自分の辛さを訴えても,全然理解されないという状況でも典型的に現れます。定型アスぺ問題に苦しむ定型は,定型的な常識(①の部分)が全く通用しなくて苦しい思いをし,そのこと(②)を訴えるわけですが,ところがその悩みを聞く周囲の人は定型的な常識の①しかわからないので,結局②を①で判断して「あなたの思い過ごし」「考えすぎ」「みんな同じことで苦労しているんだから,少しは我慢しなきゃ」などのおかしな結論(③)しか出てこないことになり,何も理解されないことになってカサンドラ状態に陥るわけです。

 
 そうすると,このトートロジーの問題(つまりある前提を絶対としてそのほかの可能性を排除してしまい,その中で「正しい答え」を出すので,その中で閉じこもっている限り「正しさ」は絶対崩れない状態) を抱えてしまっているのは,実はにわとりさんだけではなく,私たちも含めてみんな普通にやってしまっている失敗だということもわかります。(ちなみに,この「その中に入って議論している限りはその正しさは崩れないが,でもその「正しさ」が「正しい」ことの証明も不可能,ということを証明したのが,前にKatzさんが言われていたゲーデルの「不完全性定理」だ(たぶん (^ ^;)ゞ)ということを,学生時代に私も学ばされたのでした。ほんとにわけわかんなかったけど,今役に立ちます (^ ^;)ゞ )

 
 そうすると,「常識」の部分①が狭く固定されてしまっていると,違う見方が入り込めなくなりますから,他の意見,他の常識を持った人とはうまくやりとりができなくなります。にわとりさんが今落ち込んでしまっているのは,この状態だと私には感じられます。

 ですから,その状態を変えようとしたら,どうしても①のところを見直さざるを得なくなるわけです。

 これは定型アスぺ問題を考える際に,このブログでずっとやろうとし続けてきたことでもあります。定型的な見方の常識で,定型にだけ通用する世界で考えている限りは,どうやったってアスぺの方の考え方は否定的にしか見ることができません。これは完全なトートロジーの世界です。そこをその「常識」のところを柔軟に見直すことで,「定型=できる人」,「アスぺ=劣った人」という枠組みではない,個性的な人間同士の対等な関係として関係を柔軟にしていく道はないのか,ということの模索です。 

 このあたり,人の感情が深くからまる部分ですから,論理学のようにたんに頭で考えてどうこうなるという世界ではありません。いくら理屈で正しいように言われても,感情が付いていかないことはいくらでもあります。そこも含めて何が可能なのかという問題だと私は思っているのですが,その時にやはり①を見直してみることがどこかでどうしても必要になるだろうとは思います。

 ではどうやったら①の部分をお互いに見直せるようになるのか。ひとつは理屈で考えてそこを見直すきっかけを作ることがあります。「あなたの言う①は,こういうことが無視されているでしょう?」とか「ここが矛盾するでしょう?」いうことを指摘することで,①を見直すきっかけを提供するやり方です。けれどもにわとりさんとのやりとりではどうもそのやり方はなかなかうまく伝わらないようでした。そうすると,もうちょっと別のやり方で①の部分を一緒に見直す道を探す必要がありそうです。
 

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