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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年7月

2015年7月31日 (金)

「わかる」と「わからない」

 相手のことをわかるかわからないか,むつかしい問題です。「わかったつもり」というのはある意味簡単ですけど,だいたいトラブルはこの「わかったつもり」が原因になることが多いように思います。自分は本当に分っているんだろうかという「疑い」を持つことは,やりとりを柔軟に行うためにもすごく大事なことのように思えます。

 でも,疑ってばかりいたら物事は全く先に進めなくなるのも事実です。食事のたびに「この食べ物は傷んでいないだろうか?なにか毒になるものが入っていないだろうか?」とか疑っていたら,毎回の食事は地獄のようなものになるでしょうね。食事は人生最大の楽しみのひとつ(?(笑))なのに。

 まあ,現実問題としては,ある程度ものごとがスムーズに行っている時はあえてしつこく疑うこともないのだろうし,「わかったつもり」でそれほど問題は起こらないということなのでしょう。実際にはそこには誤解がたくさん含まれていたとしても,まあ許される範囲というか。

 でも一回こじれだすと,そこが問題になってくる。すべてが疑わしくなってきて,ものすごくしんどい状態になります。下手をすれば呼吸をするのも疑わしく思うような,そんな極端な状態にもなるかもしれません。(ここで呼吸をするのが疑わしいってどういうことか,ということを疑ってはいけません。なんとなくフィーリングで理解してください(笑))

 人とのやりとりは,何かが信頼されていないと,そもそもやりとりが成り立ちません。極端な話,「こいつは私を殺そうとしている」と思えば,それはもうやりとりもなにもなくなります。そこまで行かなくても,自分を害そうとしていると感じればもうスムーズなやり取りは困難になります。こじれた関係はその不信感の固まりのようになってしまって,どうやってそこをほぐしたらいいのか見当もつかない状態にもなり得ます。

 でも,そういう状況をなんとか改善しようとすれば,どこかに信頼できるところを見つけるしかないですよね。信頼とまではいかなくても,理解できる部分というか。「ここは共通の足場にできそうだ」と感じられる部分をどう見つけたり,作ったりすることができるか。

 そしてそのような共通の足場を作るには,単に勝手にこちらの期待で信頼してみても意味が無くて,そういう押しつけの期待ではないものを見つけるしかない。逆に言えば疑うべきところは疑わなければならない,ということにもなります。

 昔の人の言葉でこんなのがありました。「信ずべきことを信じるのは信頼だ。疑わしいことを疑うことは,それも信頼だ」というような言葉だったと思います。おお,深いなあと感心したことがあります。

 疑うのも信じられるようになるため。「わからない」と思うのも「わかる」ため。まあ,そんなふうに考えたらいいのかな?

 

2015年7月27日 (月)

心配なのは猫?お金?

 今朝はパートナーの方が早く家を出て,私が起きるとメモがあって,私が仕事に出る時にクーラーをつけっぱなしにしておいてほしいと書いてありました。暑さに参っている猫の為なのですが,その理由が面白くて「電気代より医者代の方が高いから」と言うのです。

 いろんな理解が出来そうな気がしますが,多分定型の方は「何て冷たい書き方なのか」と感じやすいのではないでしょうか。事実としてはそうなのかもしれないけど,「お金の問題じゃないでしょう」というふうに。

 現実問題としてはお金が問題になってお医者さんに連れていけないということもあるかもしれないし,そうでなくても,お金の「節約」にはなるわけですから,その意味では別に何も間違ったことを言っているわけではないのに,でもひっかかるものが残るわけですね。

 何かといえば「猫が心配」という話がなくて,「お金が心配」の話しか書いてないからです。そういう書き方だと「なんだ,猫じゃなくてお金の問題なのか」と感じてしまうので,「猫よりお金を大事にする冷たい考え方」だと思われてしまう,そういうことかなと思います。

 定型受けする書き方であれば「猫が暑さに耐えられそうにないからね」位の理由が書いてあればそれで十分で,わざわざそこにお金のことを書く必要はないし,逆に言えばそこでお金のことを持ち出すことは,「私は猫よりお金の方が心配なんだからね」ということを相手に強調する意味を持ってしまいます。

 で,彼女は実際「猫よりお金が心配」なのかというと,まあもちろん貧乏なので (^ ^;)ゞ お金も心配なのでしょうが,でも猫に対する気遣いは絶対に強いんです。だから基本は「猫が心配」で,それでなんとか対処を考えなければならないんだけど,その際現実問題としてはお金のこともあるから,そこでも理屈が立つように,「電気代より医者代の方が高い」と付け加えたような気がします。

 そうすると「猫が心配」という「当たり前の前提」は書く必要が無くて,「電気代と医者代」という特別の事情については書く必要があって,それで特別の事情についてだけ書くことになる。そうなると定型がそれを読むとその「当たり前の前提」が無視されているような気持ちになるのでしょう。

 同じようなパターンは他人にならできる「愛想」を家族には使わない,ということがかなり徹底しているところにも感じます。それをされると定型は自分が大事にされていないような印象を持ちやすいんだけど,彼女の場合は家族が大事なのは大前提で,そんなことは表現する必要もなく,むしろ表現するのはうそをついていることになる,という感覚が根深くあるようです。

 相手に対して何を表現することが必要で,何は表現しなくてもいい,あるいは表現するのは余計なことでむしろ逆効果になると考えるのか,そこに定型アスぺでかなりズレがあるようです。お互いに「言わなくてもいいことを言い,言うべきことを言わない」ような頓珍漢なやりとりが起こっているのではないでしょうか。

2015年7月26日 (日)

「度量」ということ

 家の猫がだいぶ年で,最近の暑さにもぐったりしています。

 今朝パートナーがうちわで何かをあおいでいました。なんだろうと思ってのぞくと,ぐったりと寝そべっている猫に濡らしたタオルが掛かっていて,それをあおいでいるんです。まあなんという暖かい心遣い,と思わず吹き出しそうになって,そう言ったら彼女も笑っていました。

 うちでは私はなかなかそういう種類の暖かい気遣いをしてもらえませんが(必要な「世話」はしてもらえますけど),猫はしっかり気遣われているんですね (笑) and (T_T)

 

 話は変わって,中国の歴史ドラマに「三国志」というのがありますが,呉の若き天才軍師の陸遜という人物のエピソードがまた面白かったです。

 とにかく変わり者なんですね。十数年も一人籠るように兵法の勉強とかしている。一度は出仕して軍のナンバー2の地位を与えられたりしたんだけど,半年くらいで自分からすぐやめてしまう。

 その内,蜀の劉備玄徳が大軍で呉を責めて来,呉は存亡の危機に立たされるのですが,その時劉備の計略に呉軍がひっかかっておびき出されようとするのを知って,プータローをしていた陸遜は髪をふり乱した格好で兵の出発地に行き,これで呉軍は崩壊すると泣き喚くのです。

 陸遜としてはそれで呉の君主,孫権に会って諫言しようとする策略だったわけですが,願いはかなわず士気をそぐ不吉な行為ということで,つかまって投獄されてしまいます。

 けれどやはり陸遜の言うことは正しく,呉軍は劉備の蜀軍に大敗してしまうんですね。そういう存亡の危機の状態になって,陸遜が孫権に見直され,若くして全軍をまかされることになります。

 全軍の長となった陸遜は,ひたすら守りに入って,呉軍への攻撃を許しません。蜀軍はいらいらして沢山の呉の城にこもる呉軍の挑発作戦を行い,その挑発にある城を任された孫権の親戚の将軍がのっかってしまい,出撃して大敗し,城をとられてしまいます。

 命令違反でしかも結果がひどいわけですから,処刑されてもおかしくない状況ですが,その将軍は孫権の親戚筋であることで,どうせ自分は殺されないと高をくくって,むしろ横柄な態度をとってしまいます。

 これを見て陸遜は,周囲が止めるのも聞かず,断固としてその将軍を処刑してしまうんですね。主君のとても近い親戚なのに。

 呉軍として見れば,全軍を任されている陸遜がただ守りに徹するだけで,なんら有効な対応をしているようには見えません。勝利どころではない。で,陸遜に対して文句も言うんだけれど,陸遜はひたすら守備しろ,違反者は厳罰に処する,というだけで,その後どうやって勝つつもりなのかも一切言わない。

 処刑されたその将軍も,そういう全軍の陸遜への不信感や猜疑の目,いら立ちなどを代表しているところがあるのでしょう。それが命令違反の行為になって出た。それに対しても陸遜は一切の説明もなく,ただ命令違反で殺すだけだったわけです。

 結局このひたすらの持久戦が陸遜の読み通りのある結果を生み,呉軍は蜀軍を大敗に追い込み,失意の中で劉備が病死するに至るのですが,そこに至るまでの陸遜のスタンスがすごく面白く感じられたんですね。

 とにかく人づきあいなんて全然考えない。ただひたすら本を読みながら自分の中で考える。人に理解は求めず,絶対的に服従することだけを求める。相手に納得してもらおうなどとは考えない。(諸葛孔明はこのへん全然違うタイプです) 周囲は当然のように彼のことを理解できず,仕方がないから従っているだけ。

 ある意味,ただ自分の意向に強権的に従わせようとする暴君のようでもあるけれど,でも全然自分個人の利害とか考えていなくて,ただ蜀に勝つにはどうしたらいいかという,それだけを純粋に考えている。徹頭徹尾「合理的」なのです。

 なんかこの陸遜もアスぺということなんだろうなあと,そんな風に感じたんですね。戦争というのは結局殺し合いですから,一般的にはものすごい感情的な興奮状態が必要です。ところが作戦というのは徹底して緻密な計算を必要とする冷静な行動でもあります。ほんとに人間を人間としてではなく,コマのように使うことになる。敵に共感していたら相手を殺せないし,味方に共感していたら味方を死地には追いやれません。

 極端な感情の興奮状態を必要とする戦争状態で,なおかつきわめて冷徹に状況を判断し,行動できる人間が,軍隊には必要になるわけです。天才陸遜はそのひとつの典型例でしょう。

 世の中から弾き飛ばされる人間も,実はいろんな可能性を持っている。世渡りのできない人間も,それだからこそできる何かがある。そういう多様性をどう受け入れあえるか。陸遜の場合はそれを見抜いて受け入れた孫権の度量が大きかったわけですが,定型アスぺ問題はそういう「自分には受け入れがたい人」をそれでもなお受け入れる「度量」の大きさが試される場でもあるのでしょうね。

 指導者に求められる資質の一つに「度量」があると思いますが,それはそれだけいろんな人を受け入れて,それぞれの働きをさせることができる能力,ということでもあるのだと思います。

2015年7月21日 (火)

感情も論理も壁にぶつかる時

 何かの問題についてできるだけ相手の人と理解を深めようとする場合,いろんなことが壁になってそれがうまくいかないことがあるわけですが,かなり基本的な論理の約束事について理解が共有されていない場合はまたむつかしさが増しますね。

 トラブルというのはその多くが同じことを見ていても違う理解をお互いにしてしまって,そのズレた理解にも続いてやりとりするから,どんどん話がすれ違い,結果として相手の意志を無視することになったり,相手のためにと思っても逆に相手を傷つけたりということが積み重なって起こると思うのですが,それを緩和するために話のズレを調整しようとしても,そもそも調整のための論理的な道筋が共有されないということが起こりうる。

 かといって「理屈ではなく,共感的な関係づくりが大事」というふうに感情的な調整を考えようとしても,そもそも感情の動き方にズレがあって,意図とは全くズレて敵対的な受け止め方をされやすい場合にはそれもうまくいかない。

 感情的な共感的調整も理性的な論理的調整も通り一遍のやり方ではむつかしいとなると,次のステップは何を模索することになるでしょう。まあ通り一遍ではないやりかたの模索ということになるんでしょうけれど,具体的にはそれは何になるのか。

 ひとつなんとなく思うことは,共感のポイントにもしかするとズレがあるとか,そういうこともあるかもと。あるいは共感の仕方とか。どこをどんなふうに共感してほしいかの理解がずれてしまい,同じ言葉で表しても中身が実は異なっていたりすると,こちらが共感的に調整しようとしてもなんか上手く行かないという可能性もありますよね。

 まあ,共感というのはお互いにとって感情的なことですから,頭で考えただけでどうにでもなるものでもないし,あとは想像力の働かせ方の工夫なのかな。

 もちろんそもそも共感というやり方がそもそも無理なんだという話はひとつの有力な考え方なんでしょうけれど,私の場合何らかの形で「お互いに納得できる」関係を模索したいので,そこは「共感的理解(ああ,なるほど,そういうことなら感じは分る気がする,とか,まあそいうことなら無理もないかな,みたいな)」にこだわりが残ります。

 なんにしてもやりとりがこじれてしまう原因として,この「基本的な論理の約束事」が共有されるかどうかも大きな問題になるんだなというのが今の実感です。「なんでここまで話が通じないんだろう?」「なんでこんなところで話がこじれてしまうんだろう?」と不思議に思う場合,そういうことも可能性として考える必要があるんだなと結構リアルに思いました。そこが共有されていないことに気づいたら,工夫の仕方を変える必要がありますし。そうでないとどんどん変な方向にエスカレートしてしまいます。

 ネット上のトラブルって,実はそういう種類のズレが隠れているものも少なくないのかも。


 ところでこのところ,ちょっとずっと膠着状態の感じがあったパートナーとの関係に,かすかに次の変化が起き始めていることを感じるようになりました。アスぺとしての自分がこれまでどれほど不当な扱いを受けてきたのか,それをいかに自分が我慢せざるを得ない状況に置かれ続けていたのか,ということを理解し始めると,世の中に対する怒りが収まらなくなってきたようです。それに伴って私に対する批判も改めて強まっていたみたいで (^ ^;)ゞ そういうことについてちょっと話ができるようになり始めました。

 本の紹介コーナーにもちょっと書きましたけど,彼女の方から「これを読んでみて」と言ってくれることがあったり,にわとりさんとのやりとりについてもちょっと実感を伴う話が出来たり。変化に時間がすごく必要だけど,変わるときは変わりそうな気がします。
 
 

2015年7月19日 (日)

理屈っぽくなること

 今日,抱えていた大きめの仕事がひとつ区切りがついて,ちょっとほっとしました。なんだか猛暑続きの感じですが,着実に温暖化が進行しているのですね。日本はもう亜熱帯でしょうか。

 にわとりさんとのやりとりでは,お互いに誤解をなくしてやりとりすることのむつかしさを改めて感じています。どうしても話の受け取り方がずれていくんですね。私の書くこともうまく伝わらない印象だし,にわとりさんの書かれることの意味も,私の方もどうしてもうまくつかみきれず,「???」となってしまうことが繰り返されています。

 こういう感じでにわとりさんがこれまで周囲の方たちとやり取りをされてきたのであれば,それはやっぱり苦労されてきただろうなとも思います。お互いにほんとうに誤解の連続になりそうですし,お互いにいらだち,怒り,攻撃したくなる気持ちもなんとなくわかります。

 そこをなんとかズレを少なくしていきたいと思っていろいろ書いてみますし,それで私の方はなんとなくわかった気になるところも着実に増えて来てはいるのですが,そうするとなんだかどんどん理屈っぽくなってしまいます (^ ^;)ゞ 

 それと気になるのは,私の方はそれでなんとなく分ってくる感じも増えているのですが,それは私の方が一方的にそうなっているだけで,にわとりさんの方は全然そういう気持ちになれず,場合によってはかえって混乱してしまう状態なのではないかということです。私としてはお互いに「こういうふうに考えれば理解を共有できる」というところを探りたいので,私だけが分かったように勝手に一人で思ってもあんまり意味がないのですが……

 こういうふうにどんどん理屈っぽくなっていく展開って,アスぺの方が定型社会で生きようとするときにそうなりがちな展開なのかなという気がします。話がうまく通じにくいので,どうしても「言葉の意味」みたいなことを細かくこだわってできるだけ「正確」に伝えようとし,理屈もきっちりと筋が通るような形にしようとする。「なんとなく気分を伝え合う」というのが無理だと,ひとつひとついちいち言葉で確認することになってしまいますから,どうしてもそうならざるを得ないのでしょう。

 私はまあ理屈っぽい話も嫌いではない方なので,必要なのかなと思えばある程度頑張って努力してやりますが,そういうのが好きでない方もあるし,むしろ理屈の話は「冷たい」と反発を感じられる方もあるだろうと思うのですが,かといって他の方法も思いつかず……

 なんか今の状態を抜ける道がみつからないと,誰にとっても不幸なんだと思うんですが。

 

 

2015年7月15日 (水)

「唯一の正解」がないことの意味

 こういうブログが定型アスぺ問題に果たせる役割は何か,そのためには何に気を付けることが必要かを考えてみているのですが,これまで書いたことも含めて改めてこんなことかなあと思います。

 まず「定型アスぺ問題」と一口に言っても,その人の生まれてきた環境や,育ちかた,その人が持っている癖や現在の環境,そしてカップルの組み合わさり方,子どもの有無やお互いの実家との関係,定型アスぺ問題が生まれてからの時間の経過,どっちが男性か女性か,どっちが親か子かなどなど,とにかくめちゃくちゃにたくさんの要素が絡まり合っていますし,それによって具体的な問題も各人各様です。

 ですからある人にとって有効だったやり方が他の人に通用するとは限らないし,ある時期に有効だった方法がその後も有効であり続ける保証もないし,あるやり方でうまくいったと思ったら今度はそれで別の問題が発生してくることもあるし,とにかく「これが正解!」というものを決めてしまうことは無理でしょう。

 とはいえ,他の人の経験が手掛かりになったり,他の人の頑張っている姿が励みになったりすることも,自分自身について語ることで整理されたり,他の人に共感されることで支えられる思いになったりすることも,定型アスぺのどちらかに関わらず事実です。

 「唯一の答え」は誰も持っていないし,結局それぞれのひとがそれぞれに自分が生きている現実に合わせて,いろんな工夫をしていくしかないわけですが,そうしていくうえで,他の人の意見,経験,励ましなどが大事な意味を持つことが少なくない,ということになるわけですよね?

 だとすれば,次のようなことが大事にならないでしょうか。

 ① 自分の経験を書き込むことで自分自身の整理をしていくこと

 ② 人の経験を読むことで,自分自身をもう一度見直し,理解しなおすきっかけを得ること

 ③ 同じ苦労を抱えている人が交流することで,支え合いが生まれること

 そしてそれらの働きを大事にするために次が大事になるように思います。

 ④ 相手への意見やサジェスチョンは,あくまでも自分の見方に過ぎないことを大前提にし,「これで解決ができる」とか「こうすべきだ」というような押しつけをしないこと

 お互いの経験やお互いの意見は,自分がそれを手掛かりにして自分自身の問題への取り組みの「資源」として大事なので,そこに押しつけのような「支配」の要素が入るべきではないということです。思い返してみると,ここで発生するトラブルの中にはそこがおかしくなって起こっているものが少なくないように感じます。

 押し付ける方は自分の経験などから自分のやり方や意見が絶対と思っているのでしょうし,それを相手が受け入れることが「正しい」とさえ思っているのかもしれません。実際,自分自身のことは自分では見えていないことはよくあることで,他の人が客観的に見ることで大事な解決が得られる場合も少なくないわけですから,そういう「正しさ」を確信する人があったとしても,わからないではないです。

 けれども実際には,その「正しさ」が相手の状況の中で本当に正しいのかどうかはあらかじめは何とも言えないのですよね。あくまでも「可能性が高い」という程度のことで。しかも仮に結果として「正しい」ことだったとしても,その正しさが証明されるには,相手の人がその意見を受け入れて,それに従っていろいろやってみる必要があるわけですから,相手の人が反発したり,拒否したりするようなやり方で押し付けて主張しても結局逆効果にしかなりません。

 そうすると「自分が善意で言ってあげているのに,それを理解しようとしない」という怒りが湧き上がってきたりして,お互いに相手を批判し始め,それがやがては人格攻撃になり,さらには差別的に相手を切り捨てる形になって,手が付けられなくなる。

 そういう展開を防ぐには,やっぱり基本に戻って,相手にサジェスチョンしようとする場合は,あくまでひとつの可能性として提示するだけ,という姿勢を守り,逆にそうされた方も,相手の意見をひとつの可能性として受け止める,という態度が大事になるのだと思います。

 実生活の中ではそういう「距離を持った付き合い」はなかなかむつかしいこともありますが,ネットのやりとりは自分たちの姿勢の持ち方次第でそこがやり易くなるところがいいところではないでしょうか。
 

2015年7月13日 (月)

一面的な見方の乗り越え方

 このところのにわとりさんとのやりとりで,私自身はにわとりさんが周囲の方たちとの間で体験する困難がどうして繰り返し同じような形で引き起こされるのか,その理由の一つがなんとなく見えたような気になっています。

 ただそれはあくまで私のごく限られた経験と,私の偏った見方で考えたものですから,その見方がどこまで他の皆さんと共有可能なものなのか,そしてにわとりさんと共有できるのかどうかはまだ全然わからないわけですし,また今後のやりとりでいろいろとどんでん返しとかもあって,改めて理解を深めなおさなければならなくなるかもしれないのですけれども。

 なんにしても今の段階で思うことは,こういう仕組みですね。

 1.定型アスぺ間ではやりとりの前提に結構深刻なズレがあって,それが気づかれていないから,お互いに相手を誤解して強烈な不信感が生まれる。

 2.その結果不信感に基づいて相手と接し,そしてズレには気づいていないから,そのやり取りの結果自分の基準で相手に対する不信感をさらに拡大させていく。

 3.そうするとお互いに敵対的な気分になっていくから今度は積極的に相手を攻撃するようにもなる。

 4.そうなると今度は誤解ではなくて現実に自分が相手から攻撃されるから不信感は激しい敵愾心になり,相手を破壊したくなる憎悪と復讐の連鎖が始まる。

 まあ,どこの世界でも起こりうることだと思いますけど,定型アスぺ間はそれが他に比べてすごく起こりやすい関係なのかなという気がします。何しろ「辛いときにどう対応してほしいか」とか,「困っている相手にどう対応すべきと思うか」といった,助け合いの基本になるような部分ですごいズレがあるわけですし,そこは人間関係の信頼を作るうえで大事な部分ですから,そこでズレが起こると簡単に不信感に満ちた関係になっていく。

 悲劇とも喜劇とも言えますけど,そうやってお互いに相手に対する不信感を高めていくわけですよね。で,大体の場合は相手の不信感の方には思いが及ばない。どちらも自分を守るのに必死にならざるを得ない状況に追い込まれていますから,とてもじゃないけど,そんな余裕はないわけです。自分が崩壊するかどうかの瀬戸際になっているし。

 ある意味そういう展開になるのは「無理もないなあ」と思えるわけですけれど,まあ,でもそこをどう乗り越えられるのか,ということをやっぱり考えていきたいと思います。そこが乗り越えられて行かなければ,結局今までの不毛な争い,傷つけあいは形を変えていつまでもずっと続き続けますし。そういうのはいやですから。

 人間なんてみんな身勝手で,自分の見方で一面的にしか見られないし,所詮その程度のものなんだから,それでやるしかないじゃない。という見方もあり得ます。そうかもしれないなあという気持ちもないわけではありませんが,でもなんかそういう見方だけでは収まらない部分も人間は持っているようにも感じるんですね。「所詮そんなもの」という見方もまたとても一面的で,人間をリアルに見ていない気がします。人間ってすごく複雑だし,特定の誰かさんのひとつの見方でわかっちゃうような薄っぺらいものじゃない。

 そういう一面的で単純で凝り固まった見方や議論を乗り越えて,もっと人間のリアルな実態に基づいた,厚みのある豊かな見方が実現されるといいなと思うんだけど,「じゃあ,お前やってみろよ」とか言われたって,そんなの私には無理に決まっています。そんなに賢かったら苦労はしません (笑) というか,そんなこと,神様でもない人間には最初から不可能なことでしょう。

 そうすると結局一人の人間にできることは,「一面的で単純な見方しかできない自分の能力の限界」を,「他の人の見方で補う」ことだけじゃないでしょうか。自分の背中は自分では見られないんだから,他の人に見てもらうしかない。

 同じような見方をする人だけが集まってお互いに「これはそうだよね!」と身内で確信を高めあったりすることは,孤立して不安定になっている自分を立て直す上ではとても大きな意味があるし,ある意味必要でもあるとは思います。でもそこに留まってしまっては先が無いとも思うんです。やっぱりそういう自分たちの見方が通用しない人たちとどう前に向いたやりとりができるかが問われるんだと思います。たいへんですけど。

 定型アスぺ問題って,そういう「理解できない者同士がそれでもどうやって一緒に生きていけるのか」という大事な問題を投げかけ続けているんだと思います。それは人がどれだけ多面的にものを見られるか,ちっぽけな自分を乗り越えて,いろんな人とのつながりの中で豊かな見方を可能にできるかの試金石でしょう。

 という私の見方自体が一面的なものかもしれませんが (^ ^;)ゞ

2015年7月 7日 (火)

次の工夫

 しばらく緊張したやりとりが続いていますが,その原因として私が考えているのは,このブログへのみなさんの参加の仕方,私の対応の仕方に,これまでとは少し変化があったからではないかということです。それはこういうことです。

 これまでは基本的には私が記事を書き,その記事をめぐってみなさんがいろいろコメントを下さり,そこからまた私が思いついたことを記事にし,という形で,基本的には私の記事が中心になる形で展開をしてきました。

 このパターンについては,私の記事などが原因になって何度か炎上もありましたけれど,その後比較的落ち着いたやりとりが続くようになり,ある種の安定が生まれてきたように感じました。

 そののち,これは本来の私の希望でもあったのですが,私を介することなく,みなさんの間でまとまった主張が展開されたり,議論のやりとりが活発に行われるようになってきて,「パンダ⇔みなさん」という形から「みなさん⇔みなさん」という形にメインが移行していきました。

 そうすると,当然皆さんの間での様々な思いが直接にぶつかり合い,それが刺激になることも,傷つけあいになることも出てきます。そこで「どうやって適切なやりとりを作り,維持することができるか」ということが,改めて問題になってきます。その方法は私がメインになるやりとりの形とはまた違った工夫が必要な部分だろうと思います。

 現在はそういう新しいステップに入り,新しい工夫が模索されなければならない段階で,そこでいろいろな考え方が交錯して,非常に不安定な状態になっており,それぞれの方が抱えている傷や深い思いがストレートにぶつかり合ってしまう状況が生まれやすくなっているのだと思います。

 そのため,発言される方の顔ぶれもそれに応じて変化をしているように思います。新しい方が活躍されることは大歓迎であると同時に,これまで発言されていた方が発言しにくくなることがあるとすれば,それはなんとかしたいとも思います。

 これは定型アスぺ問題をまともに考えていくには,いずれにせよ乗り越えていかなければならないステップだと思いますので,私の方でも少しずつ手探りで工夫を行っていこうと思いますが,また皆さんのその面でのご協力も宜しくお願いします。

 とりあえず,人を傷つけることを目的とせず,お互いに理解が困難な者同士の対話をめざし,一方的な決めつけにならない誠実な議論を成り立たせていくことを目的として,以下のようにガイドラインにも少し手を入れてみました。まだまだ工夫していかなければならないと思いますが,どうぞよろしくお願いいたします。



<「アスぺと定型」投稿についてのガイドライン>

 問題が深刻であればあるほど,この場は気持ちを楽に,お互いにおおらかな気持ちで,意見の違いも楽しめるくらいの場になってほしく思いますし,またお互いに前向きに「援助しあう」形になることが理想と思います。幸いにこのブログでは基本的にそのような姿勢を皆さんが持って参加してくださっています。

 しかし,ウェブはあらゆる人に公開されていますので,残念ながらそのようなブログの性格や趣旨についてご理解がない方から,唐突で著しく攻撃的なコメントが寄せられ,場が「荒れる」こともありえます。その内容や展開の仕方によっては,どちらの側の人にとっても,無用に傷口を深め,二次障がいと言われる状態や,カサンドラ状態など,傷口をさらに広げてしまう可能性があります。

 定型アスぺ問題は「相手の為によかれと思ってやることで,お互いに傷つく」ということもしばしば起こる厄介な性格があり,コミュニケーションの中でそのような事態を完全になくすことは不可能です。しかし,できる限りそのような事態の発生を回避する姿勢を持つとともに,仮に不幸にしてそのような事態が発生してしまった場合にも,できるだけ早くそのような傷つけあいは収束させ,逆にそこから学んで修復へとつなげるようにできればと思います。

 そこで,無用な「炎上」などを避け,真摯な対話の展開を大事にするために,以下のようなガイドラインを明示し,必要な場合には管理人としての最小限の介入をすることとなりました2015.4..20)。また補足も行いました(2015.6.25)。

 今後はコメントなどの投稿に際しては,以下のガイドラインにご注意くださるようにお願いいたします。このような決まりごとは,改めて大げさに書き立てたくはありませんが,大事な議論をのびのびと自由に展開していくための,最小限の工夫としてご理解ください。


Ⅰ 管理者の関わり方の基本姿勢


 管理者はみなさんの自由な意見や情報の交換を最大限に尊重したいと考えています。このため,仮に内容上,批判が起こりうるコメントであっても,


 1. コメントについて削除といったコントロールすることは原則として行わない

 2. コメントの内容についての問題指摘は,投稿者(私を含む)のやりとりにゆだね,管理人としての介入は可能な限り避ける

 といった姿勢で運営してきました。問題が起こっても,その都度参加者間の自由な議論の中で解決していくことを重視したためです。今後もこの基本的な姿勢は維持されますが,以下の点については御留意をお願いいたします。


Ⅱ 投稿時の注意事項


1. 発言者の同一性を大事にし,意図的な匿名による投稿等は避ける


 これは複数のハンドルネームを使って場を混乱させたり,ご自分の都合のよいときだけ匿名で書き込まれるなど,発言の一貫性を失うようなコメントを避け,お互いに責任を持って発言し,相手の疑問には可能な限り応答する姿勢を維持するためです。複数ハンドルネームや意図的匿名などの無責任なコメントは,ちゃんとした議論の積み重ねを不可能にします。
 さらに,投稿内容を投稿後に変えてしまうことも議論の筋道を分らなくしてしまい,自己の発言に責任を持たない行為となってしまいます。編集される場合は誤字脱字など,本筋を変えないためのものにとどめ,主張内容を変更される場合には新たな投稿でその旨を明示してください。投稿内容が差別的であることに気づくなど,このガイドラインで削除の対象になりうるものと考えられた場合に,自主的に削除する場合はこの限りではありませんが,その場合にも「このような懸念を抱いたので自主的に削除した」旨を表明して頂きたく思います。
2.個々人が責任を持って発言する姿勢を維持する

 ここで責任ある姿勢というのは
自分の発言にたいする批判には可能な限り誠実に応答する対話的姿勢を意味します。また誠実に,というのは,相手の人の発言を自分の都合のよいようにねじまげて解釈し,非難することをせず,可能な限り相手の発言の趣旨を踏まえ,それに対して応答しようとする姿勢を保つことです。

  それを実現するためのひとつの工夫としては,批判すべき対象となる発言に対して,まず「あなたの主張はこういうものですね?」と自分の理解を書いたうえで,それに反論・批判するという方法があります。この方法をとると,相手の主張を捻じ曲げて攻撃するようなことがかなり防げるようになります。

 「好き勝手に相手を非難し,傷つけておいて,あとは何を言われても無視をしたり,知らないふりをして逃げ去る」という姿勢は,対話的関係を大事にするこのブログでにはもっともふさわしくないものとなります。

 3.投稿者の個人的体験で,関係ない人に八つ当たり的非難をしない


  定型アスぺ問題に関し,投稿者の経験したご自分のつらい体験を語られることは,ご自分の傷を見つめなおして癒す上でも,他の参加者が自分を考える上でも大事だと思いますので,この場でもそのような内容の投稿も大切にしていきたいと思います。

 ただし,そこで傷ついた体験は,あくまでその投稿者本人とその相手の方との間で生じた出来事だということを明確に意識しておく必要があります。そしてその個人的体験に基づいて,それとは直接関係ない他の参加者や「アスぺ全体」「定型全体」などを非難するような,八つ当たり的な投稿は決してなさらないようにお願いいたします。

 もちろん,自分自身の体験と,この場の参加者などの間に共通点を感じ,その共通点について議論をすべき場合はあります。その場合は,何をどうして共通と感じるのかについて,投稿者は可能な限り説明を尽くしてください。また異論があった場合には,それに対して誠実に答える責任を負ってください。その時点では応えきれない場合は,その旨断って,一時保留にさせてもらうという形はあってもよいと思います。
  その責任を放棄して一方的に相手を決めつけるような発言については,これも対話的姿勢を持たない,たんなる誹謗中傷や差別に当たるとみなされることになります
4.助言や批判を行う際は相手に理解を求める姿勢を崩さない

  相手を一方的に非難したり,傷つけたりして自己満足に浸るような発言は問題外ですが,定型アスぺ問題を考える上で必要で大事な批判を行う場合も,あくまで相手に理解してほしいから批判する,という姿勢を最後まで維持してくださいそれはやはり「誠実な応答」を行うことによって可能になると考えます。

 助言を試みる場合も,お互いに一当事者として、対等な立場で情報を交換したり、助言しあったり、疑問を提起しあったり、励まし合ったりするという姿勢を崩さないで下さい。また助言はあくまでもひとつの提案であり、それに納得できるかどうか、取り入れるかどうかは相手本人の選択の問題で、相手に強要することではなく、それを相手が理解しなかったり取り入れなかったりしても、そのことを自体を批判することはできないだろうと思います。

 いずれの場合も,要するに「私は真実を知っている」という思い込みに基づき,「私にとっての真実」に「あなたが従わなければならない」という強要にならないように,その点の区別を常に自覚することがポイントだろうと思います。ただしガイドラインに反すると考えられる内容について疑問を提起する場合は「みんなが等しく従わなければならない」ことですので,この限りではありません。
  もちろん,展開によっては一時的に感情的に冷静な対処がむつかしくなる場合もあるでしょう。その場合は一旦そう断ってやりとりを中断し,時間を置いて考えるなどの対応も必要になると思います。

 (補足的注意)投稿頻度

 明確な制限事項とすることは今の段階では控え,皆さんの良識に任せたいと思いますが,議論の流れの中でのやりとりではない,自分独自の新たな話題提供や主張の展開については,概ね一日にひとつか,多くとも二つくらいをめどにしていただければと思います。他のコメントに対する応答にしても,特別の事情がない限りはひとつに対して一回の応答で済ませるようにし,立て続けに書き続けるようなことはご遠慮ください。

 一人の方が一方的に連続して書き連ねる状態というのは,要するにそれに対する他の方からの反応が得られない,あるいはしにくい状況を意味しています。そのようなやりかたは議論を一方的にしてしまう可能性が高く,有意義なやりとりを困難にすると思われるからです。「みんなで意見や情報の交換をする場」であるという理解を大事にしていただければ,おのずと出て来る投稿姿勢であると思います。

Ⅲ 違反投稿への対処
 以上のような内容について,ガイドラインに反すると思われる投稿が見出された場合は,次のような対処が予定されます。

 1. 参加者間での問題点に関する質問
  私を含む参加者が,コメントの内容に疑問を持った場合,そのような疑問を持った参加者自身でその問題点を指摘し,投稿者の投稿意図を確認し,改善を求めることが出発点となります。その対象とすべき内容としては以下が想定されます。

 「相手を傷つけることが目的になっているもの」
 「根拠を示さずに一方的に行われる批判や高圧的で決めつけ的な評価」
 「提起される疑問を無視して一方的に行われ続ける主張」

 定型アスぺ問題で自分自身がその相手の方によって傷ついた「恨み」を,この場で直接関係のないみなさんに激しくぶつけるような,「八つ当たり」的な書き込みは,上記のような問題を含む典型例になります。


 2. 投稿禁止の措置

 上記1.で他の参加者から指摘された問題について,投稿者から責任ある誠実な応答がなく,かつその後も同様の投稿が続くような場合に限り,私がブログの管理者としての判断に基づき,該当者からのそれ以降の投稿をご遠慮いただくなど,特別の措置をとります。 

 以上,このブログではごくまれにに起こりうる事態を想定したものです。日常的にはこれまで通り,あまり肩ひじ張ることなく,自由で豊かな交流を続けていければと思います。ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。

助け合いのむつかしさ

 あるアスぺの方から(当時はアスぺという認識は私の方は全くありませんでしたが,その後このブログなどの経験からまず間違いないと確信するに至りました)ものすごく深刻な悩みを繰り返し訴えられ,それに対して一生懸命話を聞いてあげたり,思いつくサジェスチョンをしたり,「援助」し続けた経験があります。

 一方でとても感謝もされるのですが,他方でなにかちぐはぐで,私も戸惑いを深めながら,何とか力になりたいと私なりの努力を続けたのですが,結局は自分は援助を求めてはいなかった,私が勝手にしただけだという話になって私の方は訳が分からずに大変に傷ついたことがありました。

 この点はもしかすると定型アスぺ間で時として起こりやすいズレなのかもしれないと,にわとりさんとのやりとりで改めて感じました。

 定型的な関係では通常,自分の苦境を相手に語るときは,相手からの何らかの援助を期待しているだろうと思います。とくに問題が深刻であればあるほど,訴えられた側は何とかしなければならないという気持ちになっていきます。

 ところがそうやって一生懸命に対応すると,どこかで話がおかしくなってきて,援助をした側が攻撃をされ,悪い人間にされてしまったりするんですね。しかもその時は相談をした(と定型的には思える)側が応じようとした人に加害を受けた被害者ということになってしまう。

 途中の経過では一応形では感謝はされ続けるんです。だからこちらもたとえ大変でもさらに援助を続けたいと思う。けれども問題が深まっていくほどに,逆に対立が深まっていく。 

 定型同士の関係であれば,深く問題が共有されれば,それだけ信頼関係も深まることが多く,同時に相手の嫌なところも見えてくることはあっても,それも含めて受け入れあうような関係が深まって行ったりいます。そこがなければそもそも深めようとはしないでしょう。

 その関係が,定型アスぺ間では場合によっておかしな展開になるのかもしれません。

 もちろん私が知っているのは上の私が経験したケースと,にわとりさんとのケースの二つだけですので,どこまで定型アスぺ間で普通に起こることなのかは何とも言えません。そういう展開にはならない場合も多そうには思います。しかし定型アスぺ間で起こりうるズレの一つの典型的なパターンがそこにある可能性は感じています。

 通常の定型同士の関係では強い不信感を生み出す展開以外の何物でもありませんが,なにかそこに秘密がある気がします。なにがどうずれてこういう展開になるのか,今のところは「何かありそう」というところに留まりますが,でも何かありそうです。

2015年7月 2日 (木)

ようやく出発点

 にわとりさんをめぐってある意味で定型アスぺ問題の核心の一つにせまるようなやりとりがされているのかなあというのが私の今の印象です。

 お互いに言葉足らずや理解が届かないことはありますけれど,「悪意」はないし,逆に気遣いや思いやりがたくさんあります。

 定型定型関係の場合なら,多くの場合はそれで前向きになる可能性が高まると思うのですが,そこがそう簡単にはいかないところに定型アスぺ問題のむつかしさ,深刻さがありますよね。

 誰も事態を悪くしようと考えているわけではないし,自分なりに可能な努力をしようとされているのに,それがうまくいかない。逆に緊張関係を生んでしまったりもする。そうやってやがてはお互いに疲れ果て,引きこもるしかなくなる。

 定型定型関係なら基本的にはそこでおしまいでしょう。でも,定型アスぺ関係というのは,そこが始まりなんですよね。そう私は思います。一枚腰では決して上手く行かない。二枚腰三枚腰がどうしても必要。こういうとき,時々「こなごなに砕かれた鏡の上にも,新しい景色が映される」という歌詞を思い出したりします。

 にわとりさんや「にわとりトマトさん 横レスすみませんが、発達障害は人への気遣いに欠け、ストレートに感情を表現する人達ばかりではありません。 逆に定型者の中にも私達の好意に感謝ではなく、文句を言う人も少なくないです。 」さん(長い!(笑))のコメントを拝見していて,今回私が新たに確信に近く感じたことは,アスぺの方も励まされたりすることは嫌ではないし,感謝の気持ちもある,ということについて,定型アスぺで違いはないということです。

 ただ,定型的な励ましの内容が通じるか,何が適切な感謝の伝え方なのか,そこに大きなズレが生まれやすい。だからお互いにいらだったり,怒りや悲しみを感じたり,絶望したくもなる。ある意味でたったそれだけのことなんでしょう。もちろんその「たったそれだけのこと」が人をものすごく苦しめ,数多くの悲劇を生むわけですが,でも「たったそれだけのこと」なんです。きっと。

 

 にわとりさんはそもそもここで発言したこと自体が間違いだったとまで書かれていますけれど,私から見ると,彼女のここでの貢献は偉大だと感じられます。もちろん私自身はにわとりさんの書かれていることに納得できないことはたくさんありましたけれど,でもそのことも含めてにわとりさんはアスぺの方たちがどんなに厳しい状況を必死で生きざるを得ないのかを,ものすごくたくさん突きつけて見せてくださいました。

 私は自分が何の苦労もしていないとは思いませんけれど,でもにわとりさんの抱えてこられた現実はやはり私などの生半可な想像力では届かない厳しさを感じさせられます。「息をしていることすら苦しい」とでも言うような?そう考えれば,ここでこうやって書き込みを続けられること自体がある意味で奇跡のようなことなのかもしれません。

 まだ全く未消化ですけれど,にわとりさんから学ばせていただいていることは私にはすごく大きいし,これからもずっと考え続けなければならない課題を頂いていると感じます。ですから,にわとりさんがどう感じられているかは別として,私の方はにわとりさんに発言して頂いて本当によかったし,ありがたいことだと思っています。

 
 たぶん,にわとりさんが全身で提起してくださっている問題は,それをみんながちゃんと受け止めて考えられるようになれば,ものすごく大きな前進が生まれるような,そんな大きな問題なんだろうと思います。残念ながら今はその前進を生み出すまでの力や知識や想像力や経験に乏しいですけれど,でもみなさんのやりとりの中にその潜在力は感じるんですね。いつかどこかで何か次のステップが踏み出せるような,そんな感じがします。あくまで私の勝手な希望的観測ですけれど。

 にわとりさんはにわとりさんの置かれた環境や持って生まれたり作られた性格として,どうしても絶望の方にひっぱられやすいでしょうけれど,私はその必要はないと思います。単に私個人の意見ですけれど。休みたいときは休んで,また書きたいときは書いて,その中で少しずつ自分を発見したり,何かの手掛かりを見つけていかれたらいいと思います。

 もちろん,定型アスぺのズレやにわとりさん独特の表現の癖,応答の仕方の特徴によって,摩擦も繰り返し起こるでしょうけれど,それもお互いにひとつひとつ学んでいけばいいことですよね。にわとりさんが定型を理解しずらいところがあるように,定型もにわとりさんを理解しずらいところがある。お互い様のことです。必要な指摘はしあいながらお互いが調整していけばいいでしょう。

 
 ということで,とりあえずの結論としては「ようやく出発点」ということでしょうか。

 
 

 
 

2015年7月 1日 (水)

悩みどころ

今の自分の理解力や想像力がにわとりさんの抱え込まれている苦労にはなかなか届かないことを感じさせられます。これまでアスペの方の見方や感じ方についていくつかの面では私の想像したことを、アスペの方から肯定的に受け止められたこともあり、少しは自分の想像力が届き始めた部分も出てきたように思ったのですが、にわとりさんが抱えられている問題は、そういう想像力の働かせ方とは何か違う方向のものを大きく含んでいるような、そんな気がするんですね。

ひとつのキーワードとして皆さんからも何度か出てきたのは自己肯定感で、それはかつて自分が受け入れられた感覚、体験の有無とか深さによって左右されると思え、もしそうならその部分は定型アスペ問題そのものというより、二次障がいに当たるものかもしれません。自己肯定感をどの程度持てるかは、定型アスペに関わらず、誰でも受容された経験で左右されるでしょうし。

違いが出るとすれば、自己肯定感を回復する仕方かも知れません。定型はそこで改めて周囲から温かく見守られたり、受け入れられたりすれば、いい方向に向く可能性が高まると思えるし、今回のみなさんの応援の仕方も、そういう感覚で努力される方も少なくなかったですよね。私も基本的にはそんな感覚を抱く方ですし。中にはそこは自分自身で乗り越えるしかない、と感じられている方もあって、そこも考えるべき所と思えますが。

いずれにせよにわとりさんもそういうみなさんの応援には感謝の言葉をのべられつつも、残念ながら少なくとも現時点ではそれがにわとりさんの気持ちに前向きのエネルギーを提供できるところまでは至れていない訳です。

定型アスペ問題で時々感じるアスペ的特徴として、「共感的な関わり方」や「励まし」が定型的なやり方では通用しにくいところを感じるのですが、にわとりさんとの関係でもやはり同じことが起こっている可能性は感じます。

定型アスペに関わらず、誰でも十分に受容された体験があれば自己肯定感の問題はそれほど深刻にならずに済むかも知れませんが、環境から言ってそこに困難を抱えられ、自己肯定感を高めることが課題になった場合、どうやったらそれが可能になるかという面で定型アスペに差が出る可能性も感じます。

にわとりさんに対して一体どういう言葉を伝えることが力になるにのか、ほんとに悩みどころです。

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