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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年6月

2015年6月29日 (月)

前門のオオカミ,後門のトラ

 考えてみれば当たり前のことのようにも思うんですが,ここに来られる方の多くは,もうぎりぎりの思いを抱えて来られているわけですよね。右も左もわからないような苦しみの中で,どこにもぶつけようのない怒りや悲しみや絶望の思いを抱えながら,この状況を抜け出す手掛かりがどこかにないものかと探り続けている。定型の方でもアスぺの方でも,多分それは同じでしょう。

 この場は定型アスぺ間でどうやってコミュニケーションを少しでも前向きにしていくことが可能なのかを模索するための場ではありますが,そのこと自体,ある面では自分の抱えている辛さに怒りなどをぶつけることを一旦は抑えなければならないという,もう一段の大変さが加わることでもあります。

 それ自体が大変なことですよね。

 差別的なコメントとか,冷静に理屈で考えたら全くおかしな話で,アスぺの方から指摘されてしまうように,それこそそういう差別的なコメントをされる方の思考に一面的にしかものをみられないという,(通常はアスぺの方がしばしばそうやって非難されるような)著しい偏りがあるわけですけれど,でもまあ,そういうコメントはもともと「理屈」なのではなく,感情そのものの表現なわけでしょう。

 だから,激しく感情をぶつけてこられている方に,理屈で応じても,ぜんぜんすれ違うばっかりでなにも生産的にはならない。唯一の効能はそうやって怒りを吐き出された方は,自分の中にたまったうっぷんを吐き出すことで,一時的にすっきりできるかもしれないというくらいのことです。

 とはいえ,そもそも定型アスぺ問題はそういうネガティヴな感情がお互いにずっと積み重なりやすい問題だろうと思えるので,定型アスぺ問題に向き合うためには,そこをどうしたらいいのか,ということも避けては通れない問題だなあと,改めて感じます。

 定型アスぺ問題に前向きに向き合うためにも,自分が抱え込んでいる負の感情をどこかで吐き出してみる必要があるのでしょう。当事者グループとかもそういう役割も果たしているのだろうと思います。

 そういえば昔からある「夜中に藁人形に五寸釘を打ち付ける」みたいな話とか,相手に呪いをかけるような話もそういうどうしようもない負の感情が怨念になって,それを発散させるための「工夫」なんでしょう。直接相手にぶつけると大変になるから,周辺でなんとかしようとするわけですね。

 ああ,そうするとあの差別的なコメントもそういう話なんですね。匿名でこっそり五寸釘打って去っていくわけです。

 いい悪いは別として,まあ無理もないことかなあとは思えます。それだけ処理しきれないギリギリの思いを抱えているわけですから。

 負の感情をどこかで吐き出すことは,定型アスぺ問題に取り組むうえでたぶん必要なプロセスの一つなのだろうし,でもああいう差別的なコメントの形でそれをすることは認められないし,前門のオオカミ,後門のトラみたいにむつかしい……

 

2015年6月25日 (木)

上から目線を避けること

「やりとりがこじれるパターン」に書いたことについて、このブログや掲示板を皆さんができるだけ安心して活用していただくにはもっと明確にした方がいいだろうと考えました。

改めてその趣旨を簡単に整理しておくと、次のようなことになると思います。

このブログや掲示板の役割は、定型アスペ問題を中心として、「お互いに理解が困難な者同士が今直面している困難を理解し直し、次の一歩を探る」ということを、定型アスペ問題の当事者(定型とアスペの両方をふくみます)が語り合い、情報を交換しあい、共に考えることによって実現していくことにあります。

そのことを実現するためには、投稿時につぎのような配慮が必要になります。ごちゃごちゃ書いていますが、キモは「上から目線」を避けて対等な立場で、ということでしょうか。


* お互いに一当事者として、対等な立場で情報を交換したり、助言しあったり、疑問を提起しあったり、励まし合ったりするという姿勢を崩さない。

* 助言はあくまでもひとつの提案であり、それに納得できるかどうか、取り入れるかどうかは相手本人の選択の問題で、相手に強要することではなく、それを相手が理解しなかったり取り入れなかったりしても、そのことを自体を批判することはできない。

* 疑問の提起には批判的な内容も含みうるが、ガイドラインに抵触する場合を除いて、それはあくまで対等な個人の立場からの問題提起にとどまる。

* 助言を受けたり疑問を提起された場合はそれに自分に可能な範囲で応答しようとする姿勢が求められるが、何かの理由でその時点での応答が難しい場合には、それを留保することができるし、理解しようとしても困難だったり、納得できないものに従う必要はないし、そのことで非難されることもない。


具体的には前回書いたような工夫も考えられそうですが、皆さんからのご意見もうかがいながらもう少し考えて、ガイドラインにくわえてみようかと思います。

2015年6月24日 (水)

二次障がいが生まれる仕組み

 にわとりさんの必死の訴えをどう聞き取ったらいいのか,ずっと気にし続けてきましたが,表現の仕方のズレにできるだけこだわらずに,可能な限りにわとりさんの言おうとされていることに「素直に(あくまで私の理解で)」身を置いてみると,こんな言葉が残りました。

 「自分が定型の基準に合わないことは分っている。だから自分にできること,考えられることはずっと努力し続けているし,仕事や経済的なことなど,どんなに悪い条件を与えられても,それを受け入れようと努力し続けてきた。多くの定型からは本当に差別的な仕打ち,いじめ,蔑視などありとあらゆる迫害を受け続けてきたけれど,なんで自分がそういう目に遭わなければならないのか,本当に自分には理解ができない。どんなに努力して考えても,あるいは定型の言うように自分を変えようとしても,結局定型を納得させられない。なんで自分がこれほど苦しい思いを受け続けなければならないのかを理解しようとしたら,それは自分が頭が悪く,見た目が悪く,能力もないからだ,と自分に納得させるくらいしかできない。そうやって定型社会からプライドもズタズタにされながら,それでもそれを必死で受け入れて,可能な限りの努力をし続けているのに,周りの定型が自分を迫害したり,利用したり,貶めるようなことがなくならない。どうして定型はそこまで人を迫害するのだろうか。」

 どこまでにわとりさんの厳しい思いを受け止められているかは例によってなんとも私には判断できませんが,私の中に印象深く残ったにわとりさんの言葉を私になりの感覚でつないでみると,こんな表現になり,そしてなんとなくにわとりさんが訴え続けてきたことが「ああ,そういうことなのかな」という気になりました。そしてもしそうなら,にわとりさんが定型に対して感じる疑問や不信感も分かる気がしました。ある意味そう思うのは当然と言うか。

 そしてにわとりさんに対して激しく差別的に攻撃をする人が,そうやって差別し,攻撃することで何を守ろうとしているのか,ということも少し感じ取れる部分が増えてきました。

 差別されている人の気持ちは,それを経験した者にしか分らない,というようなことはしばしば言われます。自分は人を差別していないと思っている場合,実は単に差別していることに気づいていないだけだ,ということもありそうです(もちろん私自身を含めてです)。

 もし,上に書いたようなことが大きくは外れていないのだとすれば,にわとりさんがそう感じられることはなんの不自然もないし,別にアスぺだからどうのこうのということではなくて,そういう状況に人がもし置かれたら,誰でもそんな感じ方や考え方をするだろうとも思えます。そして私のパートナーのことや彼女が私に訴え続けてきたことで私が分らないままのことのいくつかも新たに分ってくるように感じます。

 もちろんにわとりさんがそういう「状況」に置かれてしまう理由には,定型アスぺ問題が絡んでいます。にわとりさんの振る舞い方が定型基準に合わないことで,どういう状況に追いやられてしまいやすくなるわけですね。そしてそこから抜け出しにくい。でも,そうやって追いやられた後の,その中でのにわとりさんの感じ方などは,「人として」当然のことだろうと,そんなふうに感じられるのです。

 そんな風に考えてみると,定型アスぺ問題というのは,こういう問題なのかなという気もしてきます。(これはアスぺの方が迫害される側に回るケースです。逆の場合もあります)

 アスぺの方は定型的なやりとりの基準に合わない部分が多い
 → 定型的な社会からははじかれていくケースが多い
 → 定型の主張を取り入れて迫害への必死の対処をしようとする
 → その対処の仕方がアスぺの特徴とみなされ,矯正を求められる

 出発点のところのズレはある意味純粋に定型アスぺのズレの問題でしょう。基本的な感覚の違いとか,そのあたりですね。でもそれ以降の問題は,別に定型アスぺ間でなくてもなにかの条件がそろえば普通に起こりうることのように思います。アスぺという問題が関わるとすれば,定型よりもそういう状況に置かれた後の調整の仕方がより苦手で,状況が悪い方向に行きやすいということでしょうか。あとはかなりの部分同じような気がします。その意味でも二次障がいという言葉の方がすっきりします。

 もちろん,じゃあ定型がアスぺの方のやり方に合せればいいとか,そういう単純な問題でないことは明らかで,もし仮にそうすれば今度は定型が今のアスぺの方が置かれた状況に置かれるだけのことになります。じゃあどうしたらいいのか,ということを考えないといけないのでしょうね。ちょっとそんな見え方がしてきました。

2015年6月23日 (火)

やりとりがこじれるパターン

 コメントなどでのやりとりがこじれるパターンというのがひとつ見えてきたような気がします。お互いに自分の経験を語り合ったり,聞き合ったりしているときは全然問題ないですし,自分がうまくいったりうまくいかなかった方法を伝えることもOKですが,その先です。


 ほんとにシンプルなことなんですが,「私の見方(意見・判断など)は正しい。私はあなたより正しいことを知っている」というスタンスで書き込みを始められると,とたんに問題が起こり始めるように思えるんです。

 人は自分のことを一番よく知っている,とも言えるし,実は自分のことは他人がよく知っているとも言えるし,その両面がどちらもあると思うので,「私にはこの人が気づいていない本当のことを知っている」と感じられる場合があることは確かですし,実際そういうことでいろいろ相手に伝えたら,相手も「ああ,そうだったのか」と「目からうろこ」になる場合もあり得ます。

 でも,相手の人がそれに対して「いや,それは違うんじゃないか」と思ったり,あるいは単純にその見方が理解できなかったりということも当然ありうるわけです。

 その時にどうも人によって,あるいは場合によって二つの方向に分かれる気がするのですが,その一つは「なんでこの人はこんな当たり前の事実を理解できないんだ!」と怒り出す方向です。もうひとつは「どうしてこの人には伝わらないんだろう?」ということを改めて考えてみようとする方向です。

 この後の方の方向の場合は,相手に理解しやすいような表現を工夫したり,あるいは自分の理解が十分ではない可能性を反省してみたり,そんなことをしてお互いのズレを調整しようとする展開になっていきます。

 それに対して前の方の方向の場合には「こんな真理を理解できないのは相手が悪いからだ」ということになって,無視して去ってしまうか,それならまだいいんですが,逆に相手を責め始めるような形になったり,さらに「お前は○○だ」と決めつけるような言い方が始まったりする。この場合はもうズレの調整は完全に放棄されてしまって,単に自分の見方が「正しい」ということの断言を繰り返すだけの,堂々巡りになってしまっておしまいになります。後に残るのは何とも言えない殺伐とした雰囲気だけ。


 私自身どこまでそこがうまくできているかは,これはいつまでたっても修業が必要なことだと思っていますが,それでも相手に伝わらないときに「自分の説明の仕方が相手の人にあっていない可能性」と「自分自身の見方が不十分である可能性」の両方を意識するように努めてはいます。そして基本的には自分の意見はあくまでも私個人の見方,感じ方として表現したいと思うんですね。

 それでもうまくいったりいかなかったり,いろいろですけれど,でもお互いにとってひとつのクッションにはなるだろうと思います。で,具体的にどうしたらいいか。

 
 「あなたは○○だ」という断言とか,「○○はこうである」といった一方的な評価,「あなたはこういうことを理解できない」という切り捨ての表現をやめてみるだけで,もしかするともう少しやりとりが生産的にならないかと思うんですが,どんなものでしょう?

 これ,やってみられるときっと感じられると思いますが,慣れるまでは結構努力がいると思います。でもそうすることで今まで気づかなかった相手の見方のすごいところや,自分自身の考えかたの偏りなど,いろんなことが見えてきたりします。相手に自分の意見を押し付けなくてもよくなりますし,相手が自分の意見を認めてくれなくても,それで自分が否定されるわけでもなくなるし,その意味でも気が楽になります。

 まあ,要するに「自分は別に相手に対して何も偉くない」という単純な現実を自覚して人とかかわるというだけのこととも言えますけれど。誰も神様にはなれないわけですし。

2015年6月22日 (月)

風邪引きの戯言

ちょっと根を詰めた仕事が重なって、一段落したところで風邪を引いてしまい、この土日は寝込んでました(ToT)

この間にトマトさんの久しぶりの登場という嬉しいことがあり、他方では掲示板であすなろさんの投稿内容について厳しいやりとりが展開し(あすなろさんの大変な苦労にも改めて驚きましたし、それに対する厳しいアドバイスにもビックリでしたし、まだまだ自分の甘さを思い知らされます。でも正直言って、あすなろさんが「あれ以上自分には何も出来ることはなかった」と言われることは本当のことと感じてしまいます。その状況を耐え抜いて、お子さんを守ってここまで来られたことに、ほんとに素朴に頭が下がります。)、問答無用の差別的な投稿があり、katzさんの新居お引っ越しというおめでたいことがあり、ま相変わらず波瀾万丈でしょうか。

テーマがテーマであるだけに、厳しいやりとりが繰り返されても仕方がないのでしょうね。皆さん抱えているものがあまりに重すぎるわけですし。それでもどこかホットできる空間もあってほしく思います。ある意味現実がシビアだからこそ、安らげる空間も大事になるように思います。

と言っても私がなにかそういうものを提供できるかと言えばそんな能力もなく ( ´△`)……

隣の家に塀ができたってねえ。
へえ。

向かいの家は囲いを作ったってねえ。
格好いい!

お後がよろしいようで。

2015年6月17日 (水)

個性か正常か

いろんな方のいろんなお話を聞いていて、また周囲の人たちを考えてみて、何か悩みを抱えていない人はいそうにないし、突っ込んで考えていくと誰でも根が深い問題を抱え込んでいる気がするし、そういう意味では誰か「この人は正常!!」とか誰もが納得する人ってあるんだろうか、というふうに思ってしまいました。

わりと上手に立ち回れる人と、下手くそな人との違いはあるかもしれないんだけど……

また差別的な書き込みがあって、削除しましたが、典型的なのはそういう方は自分は正常で正しいという信念が揺るがないことのようです。何とか自分を多数派にしておきたいんでしょうね。ほんとに改めて正常がわかんなくなります。

いっそ、すべては個性と個性のぶつかり合いなんだと考えた方がある意味現実的な面もあるのかなとか、改めて振り出しに戻って考えてみたい気にもなります。ただその個性には比較的共通するパターンもあって、その組み合わせで、発生しやすいトラブルやそれへの対処法に違いが出てくるだけだと。

2015年6月15日 (月)

差別と平等

 辛い体験があったり,そういう状況に置かれ続けたりしたとき,人は当然なんとかそこを脱しようともがくわけですし,苦しみをなんとかしようとします。あらゆる努力をしてもどうしようもないと感じた時,今度は鬱など,自分の中に引きこもることなどで問題を「回避」しようとする。どれも人としては自然の行動ですよね。

 定型アスぺ問題というのは,どっちの立場にとっても,そういう「もがき」の問題なんだなあと感じます。持って生まれて与えられた条件によっても,それまでの経験によっても,その時に置かれた状況によっても,具体的にそこでどう対応しようとするかについてはほんとに様々です。でもこの問題位深刻になってくると,多くの場合,ほんとうにギリギリのところでそれぞれの「もがき」をされることになりますよね。

 良い悪いの話は一旦おいて,差別もまたそういうもがきの一つであることは間違いないなあと改めて感じています。差別的な言動をする人は,差別されている人からすれば大変な加害者ですし,そのことを認めることはできないとしても,その人自身がものすごく追い詰められた結果という面は少なからず存在しているように思います。

 昨日はアスぺの方の話し方などが,ご本人は意図しないのに定型から攻撃的と感じられる場合があることの理由について,それは実は定型から同じような言葉を投げつけられ続けて,それを「定型社会で普通のこと」と勘違いしてしまった,という場合が結構あるのではないか,ということを書きました。もしそうならそこにはとても不幸な理解のズレがあります。

 差別的な言動を「正義」であるかのように堂々と主張され,それが他の人から見たらどれほどおかしなことなのかに全く気付かないように見える方の場合も,一部ですけれど,ある意味で似たようなことが起こっているのかもしれないという気がします。

 つまり,ご本人がものすごい差別的な状況を,差別される側として生きている可能性です。当然その方は深く傷つかれるわけですが,その状態をどうもがいても抜け出せない場合,そのシビアな現実を受け入れざるを得なくなる。そうすると,自分が苦しめられているその差別的な生き方を,今度は自分自身が取り込むことで「やられる側」から「やる側」になり,そうすることでぎりぎり「自分の主体性を守る」ということができるように感じる。

 自分が苦しめられ,それに耐え続け,そしてそれを「受け入れた」わけですから,相手に対してもそれを受け入れることを要求する。「人間の社会というものは,こういうものなのだ。たとえいやだとしても,それを受け入れないのは許せない」と感じるようになる。ある意味で興味深いことに,そんなところでも人は「平等」を求めるのでしょう。自分が苦しんで受け入れたことを,相手が受け入れないことは許せない,という「正義」感が働き始めます。

 そういう方にとって一番許せないことの一つが,差別を受け入れず,それに異議を唱える人になります。そういう生き方を認めてしまったら,差別を受け入れて,自ら差別者として生きる道を選んだ自分が正当化できなくなりますから。苦しんでようやく手に入れたように思われた「主体的な自分」が崩壊してしまいます。

 だからものすごく必死になる。人の言うことなど聞く余裕はどこにもありません。できることは自分の生き方を人に押し付けることだけです。あるいはそれでもその生き方を認めない人々をさらに差別的に切り捨てようとすることです。そこに「お互いの立場を考え合って生き方の調整を考える」という姿勢は生まれようもなくなります。

 人間の「理性」とか「知性」というものは「いろんな視点からものを考えられる」ことだと思うのですが,それをしてしまうと,自分が保てなくなるわけですね。そういう状況に追い込まれると,今度は「違う視点から考えてみる」こと自体が胡散臭く,たてまえだけのきれいごとで許せない,という気分にもなってくる。

 そうすると今度は「自分と同じように苦しむ人々」に目が向いてきて,「私たちは被害者だ。お前たちは加害者だ」という「正義」の話が付け加わってきます。そうすると社会的な弱者の方が加害者で,それを強者が痛めつけることは「正当なことだ」という理屈が生まれて来る。なにしろ自分たちは「純粋な被害者」なのですから。

 定型アスぺ問題がむつかしいのは,私も含めて誰もがそういうぎりぎりのところに追い込まれてしまいやすい性質を持っているからだと思います。普通の状況ならゆとりを持って対処できることでも,どうしようもなく追い詰められて「生きるか死ぬか」のところまで行ってしまい,必死で自分を守るすべを探すほかなくなる。その状況でなお他の人のことを考えるのは不可能とは言いませんが普通はとても困難です。

 定型の側から見て「問題」とされるアスぺの方の「特徴」の,かなりの部分は実は成育歴による「二次障がい」であって,お互いの関係が調整されていれば,もっとそういう「問題」は起こりにくくなるだろうなあという思いがだんだんと強くなっていますが,世の中には相手に二次障がいを与えることで自分を守ろうとするような,そういう仕組みがものすごくたくさんあるのだと思います。

 ほんとに考えるほどに,問題の深さと広がりを思わざるを得ませんが,自分にできることは身近なところで少しずつそこを調整する方法を考えることだけですし,まあそこが自分個人にとっては一番幸せに関係する部分でもありますから,相も変わらずそういうことをうじうじと考え続けることでしょうか。

 
 

2015年6月14日 (日)

悪循環のしくみ

 なんで定型的な感覚からすればアスぺの方の言い方が本人の意図に関係なく攻撃的に感じられることがあり,アスぺの方が定型を冷たく感じるのか,ということについて,あらためてその仕組みが分かったような気がしました。

 私が晩御飯の後の皿洗いをしたときのことです。またパートナーからそのやり方について「文句」を言われたのですが,私の感覚ではまあひとそれぞれだろうなと感じる範囲のことでした。ただ,彼女にとっては問題があるようなので,そのやり方についてOKしたんですね。

 ところがそれで終わらずに,今度は「パンダは飲食店のアルバイトもしたことがあるだろうに,そういうことを習わなかったの?」と聞いてくるんですね。

 たぶん全然悪気のない「事実について聞いただけ」の質問なんだろうと思いましたし,実際彼女もそうだというのですが,こういう言い方を重ねて来るのは,「そういうのは常識でしょうに,そんなことも理解してこなかったの?」と非難する意味を持ち得ます。

 で,彼女の聞いてみると,やっぱり自分はいつもそういう聞かれ方をしてきたというわけです。だから彼女としては「自然な会話の展開」としてそういう言い方をしたのですね。

 結局こういうことです。定型の側が彼女に要求することについて,彼女が定型的な意味を理解できないで対応がずれる場合がしばしば起こるわけです。で,定型としては「そんなの常識でしょう」といういら立ちが発生するので,彼女が「はい,わかりました」と言っても,それに対してさらに「そんなことも習ってこなかったの?」という「皮肉」とか「非難」を付け加えることが多くなるのでしょう。

 そうすると彼女としては,こういうときにはそういうやりとりをするのが「普通」なのだと理解してしまい,その定型の攻撃的な言い方を,そういう意図なしに自分も真似をすることになります。そうすると定型の側は「なんでそんなに皮肉・攻撃的な言い方をされなければならないのか」と傷ついたり憤慨したりする。

 そうだとすれば,アスぺの方はどれほど日常的に否定の言葉を投げかけられ続けてきたのだろう,ということになります。やや極端に言えば,「コミュニケーションとは相手を否定する言葉を投げかけ合うことだ」という理解になってしまうかもしれない,そんな状況に置かれているのだと思えるわけです。

 では定型の側はなんでそんな風にアスぺの方に攻撃的な,否定的な言葉を多く投げかけるようになるのでしょう? 彼女も「定型は冷たい」と言うのですが,たしかに四六時中そんな言葉しか投げかけられないのだとすれば,冷たいと思われても仕方ありません。

 でも「定型は冷たい」と言われると,いや,それはないだろう,と私は思ってしまうわけですね。優しい人はいくらでもいる。そのことを言うと彼女は「それは仲間に対してだけでしょう。アスぺは仲間と見られないからいつも冷たく対応される」と言います。

 たしかにそうですね。自分に対して敵対してくる人に対して優しく対応するのはそう簡単なことではありません。でも,問題はそこではなく,なんでアスぺの方を「敵」とみなしてしまいがちになるのかということです。

 これも定型がわざわざアスぺの方を選んで最初から敵とみなしているとはやはり思えません。定型はもともと「仲間づくり」に敏感ですから,最初から敵対的に対応することはよほど相手からいきなり攻撃されたように感じるのでもない限り,例外で,基本的にはまずは友好的に接しようとするはずです。

 結局そこで思いつくことは,定型がほとんど無意識に使っている「これは仲間になろうとする合図のやりかた」を,アスぺの方は見過ごしやすく,逆に「敵対する合図」の方を使われるために,「この人は私と仲間にはなりたくないんだ」「私に対して敵対的な気持ちを持っているんだ」と理解してしまい,その結果「冷たい対応」を選ばざるを得なくなる,という理由です。

 そんな展開が多いのではないかと思えます。

 で,なんでアスぺの方が「仲間の合図」ではなく「敵対する合図」を使ってしまうかというと,これは最初の話に戻って,定型からそういう対応をされ続けて,それが普通のことと思ってしまうからでしょう。

 悪循環そのものですよね。

 にわとりさんは発達障がい者は定型から一瞬にして見分けられて攻撃的な扱いをされる,ということを繰り返し強調されています。そうなってしまうのは,(あくまで想像でしかありませんが)どこかで「敵対信号」を身に着けさせられてしまったからではないでしょうか。定型同士,「第一印象」というのがすごく大事ですけれど,ほんとに最初の目線の合わせ方や,声の調子,握手の仕方などの表現で,瞬時に友好的か敵対的かを見分ける能力を磨いています。その第一印象のところで,逆のメッセージを送るような癖がどこかで付いてしまっているのではないか。

 以前あんこさんがにわとりさんに熱心に化粧の仕方などについてアドバイスをされていましたが,多分そこに関わるアドバイスだったのではないかと思います。

 定型アスぺのズレが原因で,定型側が苛立ってアスぺの方に攻撃的に接しやすくなる。すると常にそういう応じ方をされているアスぺの方がそれが普通のやり方だと理解してしまい,定型に対して同じようなやりかたで接するようになる。定型の側はそう接しられると「この人は私に敵対してくる意志を示している人だ」と解釈してしまい,警戒心を持ち,冷たく接するようになり,またさらに攻撃的に対応するようになる……

 この悪循環をどうやったら避けたり軽くできたりできるのか。そこが大きな課題なんだろうなと,改めて思ったのでした。Katzさんのように,子どものころからあまり否定されることなく,おおらかに受け止めてこられた方は,そういう悪循環には入らずに済んだのでしょう。Katzさんとのやりとりのしやすさは,そういうところに大きな原因がありそうにも思います。

 だから,そういう悪循環は「アスぺだからそうなるのだ」という話ではなく,やはりお互いの対応の仕方の問題なのだと思います。そういう悪循環に陥らないうちに,よりよい応答の関係を作ることが理想ですが,一旦そういう悪循環パターンを身に着けてしまった場合にも,何かお互いに工夫があるかもしれません。

2015年6月13日 (土)

ウサギとカメの物語

 かぼちゃさん,かずきさん,あすなろさんという三人の方のリレーで作られた次のたとえ話に,なんとも深く納得してしまいました。

カメなのに、ウサギの中で育てられ、なんでそんなにのろいの? なんでそんなことも出来ないの? あんたはウサギでしょ?といわれ続けて、そうか、もっともっと頑張ればウサギになれるんだと信じて頑張り続けて身も心もボロボロ。速く走れてウサギらしいことが出来るウサギたちが恨めしい。お前はダメウサギだ!と非難したウサギたちを恨む。海を知ったらウサギよりもずっと速く泳げたはずなのにね。」

 定型アスぺ問題は,ズレの積み重なりで生み出されたこのどうしようもない「恨み」の問題に目を向けないと,なかなか先に進めないのかもしれませんね。

 恨みは攻撃や差別を生みますし,しかもそれを普遍的な「正義」であるかのような勘違いを生み出します。その人にとっては自分を支えるために必死で作る「正義」であることは間違いないんだと思いますが,それが相手の立場から見ても「正義」だと思ってしまうところにさらなる悲劇が発生するのでしょう。

 「恨みはらさでおくべきか」

 昔から人間が抱え続けてきたやっかいな問題ですね。

 それにしてもほんとに上の例えは分りやすくて,定型アスぺ問題の核心部分を表現しているように感じられました。ここから「じゃあどうしたらいいんだろう?」という次の模索も可能になるのかもしれません。こういう視点を共有できる方が少しずつでも増えていくといいですね。

2015年6月 7日 (日)

雑感

 最近の,私がちょっと追いきれないくらいに活発なみなさんのやりとりを拝見していて,ある意味で私の役割は一段落したのかなという気になっています。

 別に引退とか,そういう話ではありませんが,そもそも定型アスぺのコミュニケーションを考える場として作り始めたわけですし,それも私が考えるというよりも,定型アスぺ間でお互いに考え合う場づくりができたらいいなと思っていたわけですから,幸いに今みなさんの間でそういう展開が安定してきたように感じられ,自分の役割がその意味で終わったのかなという気がするわけです。

 定型アスぺの関係はお互いに本当に相手のことが訳が分からない状態になってしばしば崩壊に向けて進んでいきます。相手を気遣い,相手を理解しようとすればするほど逆効果になって泥沼に落ち込んでいく。そんなことが普通に起こる関係です。対話的な関係づくりは本当にむつかしい。

 けれども,ネット上という限られた空間だからという面もありながら,それでもお互いに理解し,理解されることを模索する対話が成り立つ空間ができてきています。自分自身の実生活の中の大変な状況をそれぞれの皆さんが抱えながら,にも拘わらずこの場では少し違った観点から問題を考え直すことができる。

 きっとみなさんのそれぞれの「必要」がかみ合ってきているのでしょうね。

 なんかそんなことをちょっと思いました。

 

2015年6月 3日 (水)

憎む

 もう一か月も前にあすなろさんが掲示板に書かれたこと(5月3日14:15)が,なにか私の気持ちをとらえて離さないままでいます。
相手が本当にDVをしているのなら、そういう気持ちにはなりませんし、憎しみしかありません。 けれど、相手の苦悩とか、どうしようもない部分があることを感じるからこそ、相手を憎むことができない、だから苦しい、というところから悩むのだと思います。
 ほんとにそうなんです。「常識的」には「なんてひどい!」と思えることでも,相手の深刻な苦悩を知ってしまうと,そして知れば知るほど,相手を憎むことで問題を解決できなくなってしまうんです。

 でも,憎めなくなっても,問題そのものは解決できずに残り続けますから,苦しみもまた続く。ある意味では憎めなくなった分,はけ口がなくなってもっと苦しむ場合も出てきます。

 素朴に憎しみで自分を支えられたら楽だろうなと,そういうことも思います。でもそれで一体何が解決するのだろうという思いも消えません。にわとりさんが定型に受けた仕打ちで拭いがたい深い憎しみを持たれたことをなんどか書かれていました。でもそれで解決しているわけではないし,だからこそいろいろ書き続けたり,問い続けたりせずにはおれないのでしょう。
 憎むということはギリギリ自分を支える手段にもなりますが,でも同時に今度はその憎しみ自体が自分を苦しめ,蝕むことにもなる。宗派にもよるかもしれませんが,お坊さんなら「すべてを捨てなさい」というところでしょう。それも一つの対処の仕方なのかなと思えなくもありません。

 ただ世の中は全てを捨てられない凡人の集まりです。お坊さんはその凡人の悩みを救うという役割を自覚されているのでしょうが,と同時にお坊さん自身も物心両面でその凡人に支えられて生きています。もしそうなら,お坊さんは全てを捨ててはいないわけです。全てを捨てたら,人は生きられなくなる。

 憎しみとどう向き合うか。もはや定型アスぺ問題の枠を超えたことでもありますが,でも考えざるを得ないことのひとつですね。

 

2015年6月 2日 (火)

なんでネットだとうまくいきやすい?

 定型アスぺ関係は,直接の付き合いよりも,ネットでの付き合いの方がうまくいきやすいのかもしれない,ということを何度か書いてきました。その理由としては,「距離を取りやすい」ということがあるだろうとも書いてきました。

 そのことを,もう少しこんな比喩で表現してみることはできないでしょうか。

 私たちは映画とかテレビとか,あるいは小説といった形でいろんな「ドラマ」を見ます。そこには様々な人間模様があって,中には壮絶な葛藤の物語もあります。それを見る私たちは(特に定型の方は?)登場人物の中に自分を見たり,その場に身を置くような感覚になってドラマの世界を自分も生きる,というような状態にもなります。そして見終わると,自分の中の何かが変わっているのです。

 新しい世界についての理解が進みます。人についての理解が進みます。自分についての理解が進みます。「自分が支えられた気持ちになる」とか,「自分が理解されたような気持ちになる」という言葉の方が適切なこともあるでしょう。悩みを抱えた時に映画や小説,テレビドラマを見たくなることがあるのだって,そういうことと関係するはずです。

 それはたんなる暇つぶしではなくて,人はそういうものを求めてやまないのですよね。極端に言えば,そういうものがなければ生きていかれないのです。もしそうでなければ劇なんて存在するわけないし,役者さんはおまんまの食い上げです。テレビ局も映画会社もすぐにつぶれてしまいます。

 そういうドラマの中には,私たちがごく日常で体験するような話もありますし,とても普通には体験できないような話もあります。SFとかファンタジーのように実際にはあり得ないようなお話もあります。ドラマの世界はリアルに私たちに迫ってくるようで,実はやっぱり虚構でもあるんですよね。

 シュワちゃんの面白い映画を今思い出したんですが,映画のヒーローが現実世界にやってきてしまうというストーリーです。映画の中ではパンチで相手をやっつけたり,堅いものを突き破ったり,平気でやります。ところが現実世界の中でシュワちゃんがそれをやると,手は痛いは血は出るは,びっくりしてしまうのです。映画の中のようにかっこよくは決して振る舞えません。

 ネットの世界で他の方の苦労を聞くことで,自分が自分を見直し,理解しなおし,あるいは受け入れられたような気持ちになることがありますが,それはちょうどこのドラマの世界を体験しているのと似ているのではないかと思ったわけです。

 実際にそれを体験し,それについて語っている方は本当に痛みを感じ,血を流してそれを体験されている。でもそれを読む側は,どんなに共感的に読んだとしても,血を流すことはありません。ある意味「ワクチン」のように,そのマイナスの面は薄められた形でそこに書かれたドラマを受け入れられているのです。

 だから,ネット上で分かったように思えたこと,「ああこうすればいいんだ」と思えたことを,いざ現実の世界でそのまま実行できるかというと,多くの場合はそんなに簡単なものではないでしょう。そこではもう一段深刻に「痛み」を受け入れてそれに向き合い,そこを超える工夫が必要になるのですから。

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