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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年5月 5日 (火)

相手への注目と生き方のズレ

 定型が無意識のうちに使いまくっている,中間のあいまいな領域の意味と,その部分でアスぺの方と大きなズレが起こって相互に不信感が生まれる理由について,ちょっと考えることがありました。といっても定型アスぺの関係がスペクトラムだとすれば(これについてはまだまだいろいろ考えなければならないようですが),このあたりもいろんなレベルがありそうですし,ここでの話は分かりやすく両極で比較して考えたらどうなるかということに留まります。

 定型的な中間状態の意味については,これまで繰り返し書いてみたことを改めて書けば,お互いに関係を調整する必要ができた時に,自分の判断や行動の基準に,相手のそれを加味する形で変化・調整していって,うまくバランスをとる必要があるので,そのためにあいまいな状態を作って,動きやすくする,ということをほとんど無意識のうちにやっているのだろう,ということでした。

 また人によってその曖昧さの範囲は異なるし,また文化が違うと,日本社会のように曖昧さをベースにする傾向が強いところもあれば,逆に自己主張は明確化してその上でさまざまな妥協を政治的にやっていく社会もあるしという,そんな多様性もありそうです。が,いずれにせよ,そういう調整のプロセスではお互いの「(悪く言えば)腹の探り合い」~「(よく言えば)察しあい」といった「本音と建て前」や「暗黙のおもいやり合戦(?)」みたいなこともまたセットになって行われていくところは定型的なのかなという気がします。

 そしてこのあたりで定型アスぺ間のズレが大きくなっていきそうに思うんですね。中間状態を嫌うアスぺの方にとっては「腹の探り合い」~「察しあい」は「だましあい」に見えたり,正直さに欠けるように感じられたり,不誠実なやりかたに思えてショックを受けられる場合がある。逆に定型からすれば,そのようなプロセスを否定されると,全く融通が利かない,思いやりに欠けた,利己的なことにさえ感じられてしまう場合がある。お互いに容易に不信感が募る場面になり得ます。

 

 ということは,定型にとっての関係づくりにとっては,そういう中間状態を大事にする姿勢が重要になり,そういう姿勢を持てる人に対する評価が高まるでしょうし,安心感も生まれて来る。さらにこの人は自分に不利なことはしない,自分のことを考えてくれる人だと感じられれば,信頼感も出て来るでしょう。それは今どうかということよりも,将来への見通しみたいなもので,勝手な「期待」とも言えなくもありません。で,その「期待」が裏切られないように,たとえば「私はあなたを信じています」とか「あなたは私のかけがえのない友達です」とか,お互いに「期待」を語り合ってお互いに相手に枠をはめようとしたりもする。

 で,そういう形で「期待される」ことを,アスぺの方は結構嫌うことが多いみたいですね。私のパートナーとの間でもここでずれることがよくあるんですが,私は「私はあなたを信頼しています。あなたに価値を感じています。」という意味で褒めたり期待の言葉をかけたりすることがあります。そしてそうすることは相手にとっては「自分はこの人から信頼されている,認められている,受け容れられている」と感じられて嬉しいだろう,という思い込みがあるわけです。ところが彼女からは「そんなことを言われると負担だ」と返されてしまう。

 何度もくりかえされたことなので,いい加減私もそのあたり理解すればいいんですが (^ ^;)ゞ,どうも感覚的にそこがむつかしくて,ついつい「期待」や「信頼」を表明してしまうんですね。

 

Katzさんが「身の丈を超えた期待は重荷なだけですから。出来ない事は期待されない方がいい。」と書かれたのも,あるいはそういうことでしょうか。まあもちろん定型同士の関係でも一方的で過重の期待はかえって負担になったり,期待をかけられた人を損なったりもしますから,その気持ちは分らないわけではないんですが,少なくとも彼女の場合はそこはかなり極端な感じがしてしまいます。(もしかするとここも「二次障がい」にあたるのかもしれませんが)

 

 ですから定型的に相手に対する「期待」を語り合って,信頼関係を深めていき,そうすることで「信頼されていることに喜びを感じ,自分に価値を感じられるようになる」という大事な展開の仕方が,定型アスぺ間ではなかなか通用しないことになります。こちらは相手を力づけようとするつもりが,全然そうもならない。アスぺの方からすれば,そういう「期待」は,自分には関係ない,相手の勝手な思い込みにすぎなくて,そんなものを押し付けられても困る,ということになるのでしょうか。

 
 で,この部分にも,もしかすると昨日の記事「定型的信頼とアスぺ的事実確認」で考え始めたことが関わってきそうな気がします。つまり,定型間では「相手はどういう人で,何をどう感じ,考えているか」ということの判断がものすごく重要で,「相手は事態をどう理解しているか,相手は自分をどう見ているか」ということの理解が,定型的な信頼関係の形成や維持と切り離せない。でも,アスぺの方にとっては自分自身に見えている現実(「事実」)の方が重要で,「相手の理解」はもちろん,「相手の自分に対する理解」というものも,自分が理解できることはないし,理解したと思っても,それは自分の思い込みにすぎないのだから,そんなところで関係を作ることは無理(あるいは無意味),と感じられるのかもしれません。

 ちょっと単純化していえば,定型は「相手にとっての見え方」にかなり注目して関係を作ったり調整したりする生き方が重要なのに対して,アスぺの方は「自分自身の見え方」にもっぱら注目して行動を選ぶ,という生き方を徹底されているのかなと。そこでアスぺの方の世界観としては「相手にとっての見え方とか言っても,結局自分がそう思い込んでいるだけで,確かめようもないでしょう。すべては自分の見え方,判断に過ぎない」という理解になって,そこで安定される。で,相手の期待などは全て不合理な「押しつけ」にも感じられやすくなる。

 
 意識的か無意識的かはさておくにしても,「相手の見方」に注目するかあくまで「自分の見方」に焦点を当てるか,という姿勢の違いによって,人間関係の作り方は相当違ってくることになりますし,そこで「信頼関係」の作り方にも相当のズレが生まれてくるはずです。

 まだちょっと我ながらばたばたした感じの話になってしまいましたが,定型アスぺ問題も,その観点から考えてみることで,「生き方のズレ」の問題について理解が深まる部分がありそうな気がしました。

     
 
 
 



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コメント

発達障害者の場合は相手が事態をどう見てるか、理解してるのかが読めない。
定型者側が発達障害の特性や期待に応える限界があると分かろうとせずに押しつけてくる。

発達障害の特性をわかっている人でも、発達障害を下に見下し、発達障害者側の意見や思考は無視。都合の良いように使う、排斥する。
妥協のように見せながら、実は定型者側の有利なように事態を進められていた。
日本とアメリカのようなもので、定型者側の中間というものを感じることはあまりないです。

だから不信感を感じるから定型者との調整をしないのもあります。
中間でのすりあわせというのは同じ力がある者が対等な関係にいと
難しいように感じます。


>期待が負担に感じる

期待が重荷というか応えようがないんですよね。能力を越えた要求になりますから。
そうなると定型者は言い訳、甘えと言われたり、期待より小さいものしかできないと失望されて「何でできないの!」と詰め寄られますから。
かといって他でフォローできる能力もない。

生き方だけではなく、能力のズレによっても引き起こされますね。

連続投稿失礼しました。

にわとりさん

> だから不信感を感じるから定型者との調整をしないのもあります。
中間でのすりあわせというのは同じ力がある者が対等な関係にいと
難しいように感じます。

これは大事なポイントのひとつのように思いました。にわとりさんがずっと自分を力のない者として強調し続けて来られたのも、そこにつながるのでしょうね。

確かにそこには大切な問題があると私も感じますが、同時ににわとりさんの議論のままでは理解しきれずに引っ掛かってくる疑問もあります。それが何なのかを考えるのですが、うまく整理できないままに思いついたところから書くと、力の差って、いろんな種類があって、同じ二人の人の間でも、例えばかけっこだと太郎さんが二郎さんより強いけれど、相撲は次郎さんが強く、お金もうけは次郎さんが強いけれど、人付き合いで慕われることは太郎さんがが多いとか、取り上げるポイントによって、上下が変わることはよくありますよね。

そうすると太郎さんは次郎さんより強いからどうのこうのとか、その逆ということで全部引っくるめて議論するのは難しくて、もう少し具体的にどういう場面でのどういう力関係を問題にするのかを絞って考えないと、うまく議論が噛み合わなくなりそうに思います。

それから例えば相撲の強さに焦点を当てたとして、次郎さんは太郎さんより強いけど、三郎さんより弱いということも普通にありますよね。そうすると次郎さんが強いとか、逆に弱いとか、一般的には言えなくて、誰と比べると、ということを具体的に考えないとまた話が分かりにくくなりそうです。

例えばにわとりさんは掃除のお仕事をされていて、それは自分に能力がないからと言われていたと思うのですが、同時にその掃除の仕事もできない、もっと能力のない人もいるということも何度か書かれていました。

そうするとにわとりさんは弱者でもあるし、強者でもあるということなのだと思います。そういうことを前提に考えたとすると、にわとりさんにとって、理想的な上下関係って、この場合はどういうものになりそうでしょうか?

スマホからずっと見ていたのですが、コメント出来るPC環境に無かった為、以前の書き込みから書き逃げの状態になってしまっていることを先にお詫び致します。

あくまで私の場合なのですが、感情を抜きにして私を機械扱いしてくれることを1番ラクだと感じます。
というのも、その状態では定型も感情を抜いている分、アスペ寄りの私には「して欲しいと思っていることしか言われていない」のと同じで、指示としてはすごく理解しやすいんです。


私は診断がおりていない自称アスペ寄りと自認しているだけに過ぎませんが、行動原理が参考になるとするなら、それを書いてみます。


定型の言う期待は「その願いが叶ったときのみ認める」前提で話していると思います。
つまり、定型の言う期待はある程度の「期待が叶わないこと」を加味しているのですが、全く叶わなかった時のことを考えていません。
叶わなかったとき、定型は「ごく普通の愚痴として」希望を叶えてもらえなかった人間の事を批難したりするのですが、アスペ寄りの私は「やって欲しいと思う事そのものを何故口に出して言わないの?」となるんです。

もっと言えば、あなたには考える頭も口もついているのに、どうしてやって欲しいとこを隠して相手に分かって欲しいと願い、口に出していない癖にどうして叶えてもらえなかった事を人のせいにするの?責任転嫁じゃない?
と、極端に言えば私はこう考えます。

定型の男性だって、察して欲しいと願う女性と付き合った時に必死になってデートプランを考えたり、喜ばそうと考えたりしませんか?
それを褒めてもらえず批難される、それがアスペ(寄りも含む)の日常だと思って頂けたら、私が以前書いた「搾取」という言葉を理解してもらえる様な気がします。

私は搾取されるのがものすごくイヤなので、人にもそうしたくないです。
「今日はつまらなかったけど貴方のやり方で楽しませてくれようとしたのがとても嬉しい」と伝えて来たのが、多分アスペ的な反応だったのでしょうね・・・。
きっと私は定型の彼氏を接待するとしたら「(今日はものすごくつまらなかったけど)楽しかったァ!(次に楽しくなかったら、もう2度と会う必要は無いね)」ということでしょうか。
私はその曖昧さがものすごく怖いです。


なので、アスペ寄りの私でもものすごく付き合いやすい人種や環境が有って、それはいわゆる体育会系の縦社会のそれです。
彼らは「先輩は絶対」という前提のもと、後輩の人権を無視している(と一般的にはそうだと)思いますが、少なくとも前提がハッキリしている以上、指示としてはものすごく解りやすいです。
良い・悪いは別にして、私の場合は軍隊を筆頭にボーイスカウトやガールスカウトなどで学ぶ縦社会の序列制の仕組みの中ではすごく生きやすいと思います。

お返事ありがとうございます。

パンダさん

>お金儲けは太郎さんは得意で、次郎さんはお金儲けが得意だけれど、太郎さんの方が人からは好かれてる

定型的者同士ではそうかもしれません。
何か一つでも取り柄があって生かせてる人なら違うかもしれません。
しかしどこに行っても使い物にならない人は…。
掃除は社会の最底辺の職業として見下されます。
自分達はそうではないと思ったとしても、世間の多数はそう扱いますから対等な関係は難しいですね。

また掃除の仕事をクビになる人はレアケースです。
私達は一定基準の掃除はしてますが、一定基準というだけで(一定基準も曖昧でわかりにくいですが)、定型者レベルよりは落ちてると思います。
また同僚のおばちゃん達は今までにいろんな仕事をしてきた人達です。人付き合いもできます。
しかし私達は人生で失敗続きの人間です。言葉にしなくてもおばちゃんは察知します。


>にわとりさんの理想的な上下関係

パシリや都合良く使われない。
侮辱を受けない。
発達障害者側に一定基準のことができないからと言って攻撃されない。
発達障害者というだけで非難や犯罪者予備軍の扱いを受けない。
発達障害者側の意見をねじ伏せない。
などの理不尽な目に合わないことです。

!!

パンダさんに質問です。

ちょっと単純化していえば,定型は「相手にとっての見え方」にかなり注目して関係を作ったり調整したりする生き方が重要なのに対して,アスぺの方は「自分自身の見え方」にもっぱら注目して行動を選ぶ,という生き方を徹底されているのかなと。


ここはどういう感覚ですか?

「相手にとっての見え方に注目する」を、私は接待として理解しているのですが、相手の話を聞こうとする姿勢ではないと色んな意味で理解できていません。
奥様はその辺が得意かと思いますが・・・
私の場合は定型的に言えばものすごく受け身なのだと思います。
でも介護老人や知的障碍者の方も「話したいと思っているのに聞いてもらえない」「勝手に自分の気持ちを決められる」状態だな、というのは理解できます。

相手が望んでいないことを勝手に押し付けるのは、私にとってすごく苦痛なことです。
でも、きっと私がそう思う事自体、定型の方には「アスペの押し付け」になってしまうんだろうなと考えて、それで的外れに接待を繰り返してしまう・・・。

とっても難しいです。

亜紀子さん

>>ちょっと単純化していえば,定型は「相手にとっての見え方」にかなり注目して関係を作ったり調整したりする生き方が重要なのに対して,アスぺの方は「自分自身の見え方」にもっぱら注目して行動を選ぶ,という生き方を徹底されているのかなと。

>ここはどういう感覚ですか?

 感覚というより『仕組み』のようなイメージで書きました。原因が脳の仕組みにあるのか,むしろアスぺ的な経験から二次的にそうなるのか,そのあたりはいろんな可能性がありそうですが,とにかく注目のポイントに定型アスぺでズレがありそうです。

 それで「相手にとっての見え方」に自然に注意が向きやすい場合と,「自分自身の見え方」のほうに注目が行きやすい場合とを比べれば,その後の生き方にかなり大きな違いが生まれるように思います。もちろんアスぺの方も「相手にとっての見え方」を考えたり理解したりされることはあるし,逆に定型も「自分自身の見え方」にこだわる場合もあるわけですが,どちらが自分にとってより自然に感じられ,やりやすいかという違いはありそうに思うんですね。

 というか,あるいはご質問の趣旨は「相手にとっての見え方」の意味のことでしょうか?


>相手が望んでいないことを勝手に押し付けるのは、私にとってすごく苦痛なことです。

 最近ちょっと考えるんですが,この感覚は「アスぺ的な共感的想像力の結果」とは言えないでしょうか。つまり,「自分がそれを苦痛にするように,相手もそれを苦しむに違いない(からそれはしたくない)」という,相手への共感的な配慮がベースにあるとも言えそうに思うからです。

 もしそういうことがある程度言えるのであれば,またひとつ定型アスぺ間で共有できる足場と,それから出発したズレの関係が見えてきそうです。もしそういう関係が見えてくれば,さらにそのことをどう受け止め,どう対処したらいいかについての工夫のひとつもまた始められそうな気がします。

 亜希子さんのコメントの趣旨でまだよく理解できていないことも多いので,的外れの応答になっていたらすみません。可能であればまたやりとりしながら話を噛み合わせていければと思います。


にわとりさん

 何かまだやりとりがうまくかみ合わない印象があるんですが,どこでどうかみ合ってないのかが私にはよくわかんない (^ ^;)ゞ

> 定型的者同士ではそうかもしれません。何か一つでも取り柄があって生かせてる人なら違うかもしれません。

 にわとりさんはご自分のことを常に頭が悪くて理解力が無く,能力が無くて使い物にならない人間というイメージで書かれる印象があるのですが,コメントなどを拝見していると,勉強熱心な感じとか,一生懸命考え抜こうとする姿勢とか,関心のひろさとか,私がイメージする「頭の悪い」という感じとは全然違うので,そのギャップに戸惑うことが多いです。

 取り柄があるとかないとかいうよりも,それをうまく発揮できる状況に乏しい,ということが大きそうな気もします。体験者でないとなかなか理解しずらい「弱者の気持ち」を切実にわかるにわとりさんの感覚も,貴重な「取り柄」の一つではないでしょうか。それをどう生かせるかが次の問題だとしても,その出発点としては。

お返事頂いてることに気づきませんでした。
どこがどうかみ合ってないのか自信がないですが、言いたいことはこうです。

まず普通に仕事ができず、福祉の力を頼らないと生活できない人が多数派と同じ土俵には立てません。
仮にすもうが得意であってもそれだけでは自力で生きていけません(プロの相撲取りで成功するのは一部だけですから)。
そうなると「察し合い」や「本音と建て前」に求められなくなります。
そうなると「私達が払った税金で食わせてやったり、仕事でフォローしてやってるんだから、逆らうことは許されない」との理由から、「押し付け」「命令」になってきます。
強引な態度ではなかったにせよ、「私達が支援してあげなくちゃ」「助けがないとやっていけないんだから」と自力で取り上げられる。
まず察したり、空気を読む力すらないので応えられません。対等な関係は永遠の夢です。

しかし「察し合い」や「本音と建前」などを求められるアスペルガーは、見方を変えれば、定型者からは対等に見られ、能力も評価されてるということです。
アスペルガーからしたら重圧でしかないですが、無能な人にははじめからそれすら求められません。


>「弱者の気持ち」を切実にわかるにわとりさんの感覚も,貴重な「取り柄」の一つではないでしょうか

昔つきあってた人から言われたのは「健全者に反論できるのは一人前になってから。健全者の助けがないと仕事ができない奴、まして健全者の税金でぬるま湯に浸かってる奴(生活保護や障害年金)は
反論する権利はない。不満を持つことも許されない」ということです。
また「弱者になったこと自体が怠け者、努力不足、人間性の悪さの現れであり、弱者の気持ちが分かる=キチガイを正当化だと言われました。
こう思ってるのは元恋人だけでなく、多数派の大半が思ってることなので、私は強者になりたいです。

お返事頂いてることに気づきませんでした。
どこがどうかみ合ってないのか自信がないですが、言いたいことはこうです。

まず普通に仕事ができず、福祉の力を頼らないと生活できない人が多数派と同じ土俵には立てません。
仮にすもうが得意であってもそれだけでは自力で生きていけません(プロの相撲取りで成功するのは一部だけですから)。
そうなると「察し合い」や「本音と建て前」に求められなくなります。
そうなると「私達が払った税金で食わせてやったり、仕事でフォローしてやってるんだから、逆らうことは許されない」との理由から、「押し付け」「命令」になってきます。
強引な態度ではなかったにせよ、「私達が支援してあげなくちゃ」「助けがないとやっていけないんだから」と自力で取り上げられる。
まず察したり、空気を読む力すらないので応えられません。対等な関係は永遠の夢です。

しかし「察し合い」や「本音と建前」などを求められるアスペルガーは、見方を変えれば、定型者からは対等に見られ、能力も評価されてるということです。
アスペルガーからしたら重圧でしかないですが、無能な人にははじめからそれすら求められません。


>「弱者の気持ち」を切実にわかるにわとりさんの感覚も,貴重な「取り柄」の一つではないでしょうか

昔つきあってた人から言われたのは「健全者に反論できるのは一人前になってから。健全者の助けがないと仕事ができない奴、まして健全者の税金でぬるま湯に浸かってる奴(生活保護や障害年金)は
反論する権利はない。不満を持つことも許されない」ということです。
また「弱者になったこと自体が怠け者、努力不足、人間性の悪さの現れであり、弱者の気持ちが分かる=キチガイを正当化だと言われました。
こう思ってるのは元恋人だけでなく、多数派の大半が思ってることなので、私は強者になりたいです。

古い記事に書き込みしてすみません。
評価はいらないんです、どうしても伝えたいんでしたら、
ただ感謝してもらえるほうが、心に入ってきます。
私ならこんな感じでした。

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