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アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年5月 1日 (金)

アナ雪とアスぺ

 なんだかここにきて,みなさんのコメントが急速にシンクロしはじめたような気がしています。ポイントはやっぱり「キャラ」の問題のように思います。

 あすなろさんが「アナ雪」について紹介してくださいました。私はまだ見ていないので,以下はあくまであすなろさんが紹介してくださったものを私が想像して理解した話でです。

 あすなろさんが「これって,アスぺ定型問題を象徴してるんじゃないかと,今,思いましたね」と書かれていますが,この筋立てだと,まさにそれそのものの感じですね。ボーダーの方も定型的な人間関係に対してはある種破壊的な力を発揮されたりしますが,そちらの方は「炎」のような激しさに思えますから,この「氷」という比喩はまさに「定型から見たアスぺ像」の一種としてぴったりの感じになります。

 しばしば定型からアスぺの方に対して言われる「冷たい」「感情がない」「思いやりがない」「心がない」などの評価がそれになります。(実際は心も感情も思いやりもどれもちゃんとあるのに,その形がアスぺ的だと,定型にはとても理解されにくくなってしまう結果なわけですが)

 それで,エルサが人を避けてこもることでありのままの自分を得るというのも,定型アスぺ問題の中でアスぺの方が辿る典型的な展開そのものです。

 映画では姉妹愛によってエルサの氷の力が変化するという解決を描いているようですが,これは定型的な視点で「これが解決だろう」とイメージするパターンそのものですね。そうならアスぺの方からは「そんなのおとぎ話」だと批判される可能性を感じます。

 実際にわとりさんからは

「(エルサのように)力を抑え込んでいる『自分』が、いつの間にか『ありのままの自分』になれるかはお話を伺うと難しいそうですね…。その前に力を抑えこむ技術がないですが、仮に技術があったとしても、抑えこむのに相当なエネルギーを使い、それだけで頭の容量を使い果たしてしまうと思いますから、自分の精神が持つかは自信ないですね。」
「>エルサが定型だった場合、両親から『その力は良くない』 と言われれば、自分でそれを気にならない程度に抑え込むことができるわけです。
両親からこんなこと言われたら私は今以上に異常者になってしまいそうです。」

 という感想が寄せられています。

 なぜその解決のさせ方が問題になるかといえば,やはりそれは「定型が望むキャラ」になることに逆戻りしてしまうだけだという可能性が感じられるからなのでしょう。あすなろさんが書かれているように,定型の場合はそういう相手が望むキャラがいつの間にかありのままの自分につながってしまう可能性があるわけで,そこで多少無理があったとしても,それは「愛の力」で乗り越えられる(あるいは乗り越えるべき)と考えられたりもする。でも,にわとりさんが書かれるように,それが想像を絶するような困難なことだ,という話です。

 多分同様な問題を(だと私は理解したのですが)Keiさんはこんな風に表現されました

「そしてこの最後の「共依存」一歩手前で、素直な自分を抑圧することなく「ありのままの自分を受け入れてあげてるフリをするキャラ」を演じるのですが、毎日ぐったり疲れます。これを乗り越えるのはやっぱり「人間」には無理ですね!」

 定型にとっては,相手と関係を調整する中で,「演じる」意識も持たなくていいような「自然な振る舞い」として作っていく部分が,アスぺの方にとってはいつまでも意識的に努力して演じ続けなければならない不自然な「キャラ」であり続けるのです。

 もしそうだとすれば,アナ雪のエルザも,アナの愛で定型好みのキャラを演じるようになったとしても,それだけに留まれば新たな苦悩の連続になってしまうでしょう。

 ドナ・ウィリアムズさんの自伝は,まさにそういうキャラづくりによる必死の適応努力と,それがなお生み出す新たな混乱の記録そのものになっています。




 Katzさんはそこで「守破離」という考え方を披露してくださいました。(ただしネットで見てみたら,これは世阿弥というか観阿弥の言葉ではないみたいでした。花伝書にあるのは「序破急」の方で。)

 これは修業のプロセスを表しているようで,いくつかの解釈があるみたいですが,分りやすいのとしてはまず師匠の言うことをしっかりと身につけ,言われた通りの型を身に着けていく(守)。次に他の流派を学んだり,自分独自の工夫を加えたりして,その型を破って新しい境地を探していく(破)。やがてそれらの意識的な努力が極限まで突き詰められていくと,もはやいずれの型も自在にこなせるようになって,意識的な努力を離れて自然体でそのまま自分の世界を作れるようになる(離)。というような解釈でした。

 ここでいう「型」をキャラと読み替えれば,定型アスぺ問題でアスぺの方がシビアに経験される経過(あるいは求められる経過)を表しているのかもしれないわけですね。まずはひたすら定型に合わせたキャラを作らされる。でもそれには耐え切れず,そのキャラを破って自分自身に戻ろうともがく。この二番目の段階で,定型アスぺ間の軋轢はものすごく激しくなることになります。

 自分であろうとすればキャラを否定しなければならず,そうすると定型社会では定型と折り合いがつかなくなるので,争いを避けようとすれば引きこもらざるを得なくなり,あえて定型社会で自分を貫こうとすれば激しく攻撃的になって相手を屈服させることで自分を守らなければならなくなる。

 一部の方はそこで自分の感情とは切り離した定型向けキャラや高度なコミュニケーション技術を修行で身に着けることでその両極端のどちらかに振れることは避けて,ある程度うまく「適応」されるものの,それが自分にとってはかなり無理をした不自然な努力によってかろうじて支えられるものだ,という点は変わりない(そしてその無理の反動がまた家庭内での定型アスぺ問題につながったりもする)。



 Katzさんはその次のステップ,「離」を重視されています。そしてそこに進むために,定型から無理やり押し付けられた「型」を否定する(破)だけではなく,そこでKatzさんは自分自身の常識をも否定してみることの大事さを書かれています。

 定型から強要されてできた「型」(キャラ)が,それ自体変化し,発達していくものであることは,ドナ・ウィリアムズさんの自伝(「自閉症だったわたしへ」の一冊目)にもいろいろ書かれています。3歳以降に作られた,外向きの明るいキャラであるキャロルと,冷静(冷徹?)に事態を分析して対処するキャラのウィリーの関係自体が,定型社会との関係の取り方の変化に対応して,だんだん変わっていくんですね。だから,作られたキャラは決して固定して動かないものではなく,そこにもひとつの変化の可能性がある。

 では「自分自身(の常識)」の方はどうかというと,こちらもまた変化の可能性が実はある。Katzさんは歴史を眺めて「常識を壊す気分を一度味わってみる」という方法を提案されています。そうすることで今まで自分がとらわれていた常識を,違った目で見直すことが可能になると言われている(のだと思います)。



 なぜそんなことが可能になるのか,ということについてはKeiさんの議論が重要だろうと思います。

定型が「スペクトラム」として感じている「<<<<<」をアスペに押し付ける。もしかしたらそれは「善意」や「思いやり」の形をとったかもしれないが、それはアスペにとっては「自我への攻撃」になった。そしてその対抗措置として築いた「防壁」(というより実体のないプラズマみたいな?)が「ありのままの自分」なのではないでしょうか?」

 
 「ありのままの自分」(そしてそれが持っている常識)というのは,もとから確固として自分の中にあったかのように感じられているかもしれないけれど,実はそれ自体が定型からの圧力から自分を守るために作られた「形(防壁)」なのだろう,というわけです。

 ということは,そこでいう「ありのままの自分」もまた,定型との関係が変っていけば,変化していくものだということになります。そしてこの問題については,Katzさんはこんな表現をされています。
 
 「あすなろさんのおっしゃる「ありのままの自分がわからない」というのは、非常に重要だと思います。社会から刷り込まれた常識ではないかと疑い始めたら、ふらっと自分探しの旅に出かけて掴めてしまうような簡単なモノではありませんよね。」


 Keiさんが「対抗措置」と書かれている部分が,Katzさんでは「社会から刷り込まれた常識」という形で表現されていると私には思えるのですが,そうであれば,「ありのままの自分」を見つけることなど最初から困難ですし,さらに突っ込んで考えれば,Keiさんが問題にされるように,そもそも「ありのままの自分」など「実体のないプラズマ」のようなものではないのか,という話になっていくわけです。逆に言えばそこに「変化の可能性」が見えて来る。




 さて,もしみなさんのコメントを,そんなふうにつないで理解してみることがある程度可能だとすれば(味噌くそいっしょにするな!というお叱りもあるかもしれませんが (^ ^;)ゞ),アナ雪で批判を呼んだという結末とはまたひとつ違う展開を考える可能性が出てくるのではないでしょうか。

 具体的にそこで何が可能なのかについては私はまだ見えてきませんが,少なくとも問題を見つめなおし,次のステップに進むための大事な視点の一つが,みなさんの議論の延長上にそのうちもう少しはっきりと見えてくるのではないかと思えます。




 
 



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コメント

アナ雪のエルサの悩みはASDの悩みに良く似てる。
 と、思っていたので、
 首を突っ込みにきました…。

 でも、よく読むと、
 皆さんの言う「ありのまま」が、私の考えているものと違って、
 ちょっとよく分からなくなってしまいました。

 私がアナ雪を見た感想は、
 あすなろさんと一緒だと思います。
【>途中まですごく胸に迫るものがあるのに、終わってから「え?そんな結末なの?」と、何かはぐらかされた気分】
 まさにそんな感じです。

 私にとって、エルサの「ありのまま」は、
 「無理な我慢をしない状態」でした。
 自分が本当にはどんな人間かとか、そういう問題は関係なくて、
(それはそれでとても大事な問題なのですが、ここでは関係なく)
 ただ、抑えつけ隠し通すことをやめる。我慢をやめる。
 そう捉えました。
 だから、
 我慢することをやめたエルサは、
 人を傷つけてしまうし、人に嫌われるし、
 それらを避けるためには、独りになるしかない。
 でも、
 我慢せずに自然に任せている事は、
 自分にとってものすごく気持ちいい。
 すごく周りに迷惑かけるけど。そうでなければ、独りぼっちになってしまうけど。
 それでも。

 私は、ですが、
 そこはすごく共感しました。
 まわりが迷惑でも、その方が自分は気持ちいいんだよなー…。ほんとに。
 でも結局、独りは実はさみしいんですよね。
 れりごーは、そういう歌でした。

 あの話が、最後にがっかりで終わるのは、
 パンダさんがこの記事で示されたとおりの理由。つまり、
 結局「悪い部分は我慢しないとダメなんだ」って結論になってるから、ですよね。
 全部は我慢しなくていいんだよ、良いところは出していったらいい、「でも」、悪いところは我慢しようよ、と。
 そりゃ、そうできたら一番いいけど!!
 そんなこと分かってるけど、できないから悩んでるのに!という話ですよね。 

 自分はADHDよりなので、
 「程よく我慢できないとダメ」
 と言われてるのと同じで、
 程よく我慢なんかできるかふざけんな!という気持ちになります。
 アスペの方は、これは想像ですが、
 「(記憶力等の)都合のいいところは受け入れてやってもいい、が、他の迷惑な部分はダメ」
 といわれてる感じでしょうから、
 結局、我慢しろって話になってますよね。

 ありのまま…と言うより、「本当(素)の自分とは何か」という話になると、
 ちょっと、いろいろ、意見の刷り合わせをしないと、話がずれそうだなと思うのですが、
 とにかく、
 まず「自分が何をどれくらい我慢しているのか」、
 それを知ることって、第一歩かな、とは思います。
 それは定型でも、ASDでも。

 自分も、それがまだよく分からないです。

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