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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年5月10日 (日)

アナ雪ふたたび

 ようやく(?)アナ雪を見ました。面白かったです。(以下,ネタバレありますので,未だご覧になっていない方はご注意ください (笑) )

 パートナーはなかなか賛成してくれないのですが,私から見ると,「定型的に理解したアスぺ問題」の典型的なパターンのように感じました。

 とても印象的だったのは,子どもの頃,アナがエルサにねだって魔法を使ってもらい,遊んでいたときに,「事故」でその魔法がアナに当たってしまったところです。それまではエルサと楽しんでいたアナは,一瞬で倒れ,体が冷えて死にそうになります。そのアナを両親が森へ連れていき,トロールたちに救ってもらうのですが,その際,トロールが言ったことが実に印象的でした。

 今回はアナの頭に当たったので,救い出すことができる。でももし心にそれが当たってしまったら,もう自分にはどうすることもできない。というのです。

 実際,物語の後半で,森にこもったエルサを呼び戻そうとやってきたアナに,今度はもっとひどい状況でですが,「事故」で魔法が当たってしまいます。そして今度はまともに胸に当たるのです。

 アナの体は冷たくなっていき,命が失われようとする。そこでアナを愛する変わり者の青年クリストフが再びトロールに救いを求めようとするのですが,トロールはもはや手の施しようがないと言い,ただ唯一「真実の愛」だけが彼女を救うだろうと教えてくれたのでした。

 この展開は,定型の側から「身内」のアスぺの人につながろうとしたときに起こりうる出来事そのもののように思えたのですね。

 つまり,最初はいい関係が取れたと思う。楽しいつながりができる。ところがそうやって心を開いた瞬間に,いきなり気を失い,体温を奪われるような衝撃が訪れる。

 その衝撃が,頭で対処できるレベルにとどまっている限りは,まだアナは救いようがあるわけです。これも比喩として理解すれば,「アスぺ問題(エルサ問題)」に頭で「理性的」に対処しようとすることでしょう。エルサを部屋に閉じ込め,隔離し,物理的に距離をとるようにする。エルサには自分の力を発揮させないようにする。

 アナは繰り返しエルサとの心のつながりを作り直そうとしますが(エルサの部屋に行って,鍵を閉められたドア越しに,遊ぼうと誘い掛けるなど),それは決して許されない。実はそうやってかろうじてアナは守られていたし,先にアナを「傷つけ」てそのことで自分も衝撃を受けたエルサも,それ以上の悲劇を回避しようとするわけです。

 定型が定型的な感覚で身近なアスぺの方と関係を作ろうとして思わぬ傷つき方をし,どうにも対処できずに仕方なく相手との気持ちの関係を封印して距離をとる。援助も感情的な関わりを排した「医療的な対処」とか「テクニカルな対処」に限定していくようになります。そうしなければ自分が危険だからです。

 けれどもそのような「隔離」で問題自体が本当に解決するわけではなく,むしろエルサの中ではますます矛盾がたまっていき,そのパワーが蓄積されていくことになる。

 エルサはかろうじて森に逃げ込み,自らのパワーで氷の城を作ってただ一人そこで生きることで,孤独と引き換えに本来の自分を生きることが可能になるのですが,しかしそれは彼女一人の問題には収まらず,夏だというのに国中が冬になってしまうという深刻な影響を周りにもたらしてしまう。

 向こう見ずのアナは「姉妹なのだから危険なことはないはず」と思い,姉に国の悲惨な状態を知らせて頼め姉はちゃんと理解してこの冬は終わらせてくれるはずだ,と思って果敢にも姉の所へ行くわけですが,結果は死に至る傷を「心」に負い,体が凍っていくわけです。

 定型がなんとかアスぺの方との関係を作りなおそうとして,「頭」ではなく,「心」で自分を捨てて相手に近づいていくと,結果としてはその心が冷えて死んでいくという結果を生んでしまう。深刻なうつ状態やカサンドラに陥るパターンがそういうことなのでしょう。

 なぜそうなるか,といえば,定型的な感覚でアスぺの方のコミュニケーションを理解し,それに自分を合わせようとすれば,自分にとっては「冷たい」態度になってしまう,という定型アスぺ問題の構造がそこにあるからです。近づこうとすれば近づこうとするほど,定型は自分の心を冷たくすることになり,自分の中の熱い思いが凍らせられてしまう。暖かい関係を求めて冷たくなるという,どうしようもない矛盾に,命を蝕まれていくわけです。

 さて,そこでアナ雪では「真実の愛」を処方箋に持ち出しました。真実の愛とは何か,といえば,私よりも相手を大事にすること,私の身を捨てても相手を生かそうとすることでした。

 エルサもアナを傷つけたことに衝撃を受け,二度と傷つけないために自分を閉じ込める,という形でその「愛」を貫こうとしたとも見えるのですが,その気持ちがアナの身を捨てて姉を守ろうとした気持ちにつながっていき,そして凍り付いたアナを融かして生き返らせることになっています。

 ドナ・ウィリアムズさんも「本当の愛」ということを希望として書いています。たぶんアスぺの方も「愛」を求めていることには変わりはないのだろうと思います。

 問題はその愛の形が,お互いに理解しあうことがむつかしく,自分の感覚で理解しようとすれば,それは「愛の否定」に感じられてしまうという構造があることです。だから,自分の感覚で愛を貫こうとすれば,逆に自分の愛を否定し,やがては自分自身を否定するよりなくなってしまうという展開が待っている。

 ではそれは「自分を捨てて相手の為に」なる「本当の愛」の成就と言えるのかといえば,これがそうはならないわけですね。なぜなら相手は自分の幸せを願ってくれているからです(ああ,もちろん定型同士にも個人差があるように,定型アスぺ関係でもそこに個人差は大きくあるでしょうけれど)。だからそうやって「身を捨て」るという最大の自己犠牲を払ったとしても,それは相手の喜びにはつながらない。

 自分を貫けば相手を否定することになり,かといって自分を否定してもどちらにとっても幸せは訪れない。自己中心的な愛も,自己否定的な愛も,どちらも問題を解決できないという,ものすごく大変な状況がそこにあることになります。アナ雪のように,自己否定的な愛が相手の愛を引き出して,愛を共有できる状態になる,という物語は簡単には成立しない。

 

 そう考えることは,もしかすると絶望しか生まないと思われる方もあるかもしれません。どちらに行っても先が見えない。けれども私は個人的には,なにかちょっと道がかすかにでも見えてくる感じもあります。

 パートナーと話をしていて,彼女が持っている定型に対するすごい不信感を聞いていても改めて思ったのですが,アスぺにはアスぺなりの深い愛があって,人に対する温かい心があって,でもそれが定型との間では認められず,むしろ拒絶され,傷つけられるような体験を繰り返されているのですね。その点,定型がアスぺの方からそういう「しうち」を受けているように感じられるのと,全く裏表の感じがします。

 アナ雪ではアナがエルサの愛を理解するようなプロセスは描かれていませんでした。ただ「そうに違いない」という思い込みが最初から貫かれているだけでした。そしてエルサのほうだけがアナの「真実の愛」を知って「改心」するような,一方的な展開です。そこがやっぱり典型的に定型的な,というか,「多数派による」物語なんでしょうね。そのせいで前半に感動しても,その部分にがっかりされた人が少なくないのかなと思います。本当の解決にはなっていないんじゃないか,と直感するんでしょう。

 

 定型の側からすれば,アスぺ的な愛をどこまで実感できるようになるか,アスぺの側からすれば,定型的な愛をどこまで理解できるようになるか,そしてどうやったらそれが少しでもしやすくなるのか,その辺りが改めて問題になっていくのだろうなと,そんなことを感じます。

(追記:とはいうものの,やっぱり面白かったです。 二回見てしまいました (笑)。
 ディズニーが人の夢を生み出す力はすごいですね…って,定型的?
 でも,ウォルトディズニーもアスぺだという人もいますけどね)


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コメント

ディズニーの広報担当、あすなろです(笑)

何気ない連想が、ここまで影響するとは思いませんでしたが、パンダさんもいろいろと共通点を感じられたようですし、ままさんも似たような印象を持たれたようなので、私だけの感じ方ではなかったんだなと、自信(?)が持てました。

ただ、奥様が否定された理由を、是非お聞きしたいですね。そこにも、定型的な感じ方とアスペ的な感じ方の違いがあるとしたら、興味深いことです。

パンダさんも感じられたように、この物語は、エルサが自分でもそうしたくないのにアナや国民を困らせてしまうことに、気遣って悩んで苦しんで、やっとエルサなりの方法で解決を見出すのに、アナは一方的に自分の思いをぶつけるだけで、エルサが何に苦しんでいるのか解ろうともしません。
結局、平穏を見つけたエルサを引きずり出して、強引に『改変』させるような形になってしまっています。
相手の苦しみの本質を理解しなくても、こちらの思いを強引にぶつけていれば、やがてはこちらの思いは届くと言っているような感じに取れてしまいます。

しかも、アナは、いわゆる自業自得で命が危険に晒されてしまうのですが、エルサのために我慢したり苦しんだりすることはなく、エルサを探しに行く過程もどこか能天気。苦しみ抜くエルサに比べて、あまりにも軽々しく感じられます。

この話の原案とされる『雪の女王』では、雪の女王にさらわれたカイを探しに行ったゲルダは、まさに命をかけてカイを救い出しました。
その姿に、少しだけ雪の女王が心を動かされる。
そこまで諦めずに相手を思いやって、真剣に向き合って、ようやく少しだけ解決の糸口が見出せる。
和解とはそういう厳しいものではないかなと思います。

あすなろさん

 またアナ雪関連記事を書いてたら,あすなろさんのこのコメントを発見しました (笑)

>奥様が否定された理由

 ここが,私はまだよく理解できていないんですけど,
 一つは「自分の力が定型を傷つける」なんて,あんなふうに理解できていたら
 アスぺじゃない,というような意味のことを言っていました。
 ここは彼女が全く意に反して子供などを苦しめていた,ということを
 突きつけられた衝撃の体験が大きいのかもしれません。
 
 言われてみれば,そういうところはほんとに定型的な理解で
 「そのやり方では相手が傷つくことを,アスぺだって理解できるでしょう」
 という思い込みで作られている可能性がありますよね。
 「人がどういうところで傷つくか」ということの理解は
 実際は定型アスぺですごくずれる部分の一つであるにもかかわらず,
 アナ雪ではあらかじめその感覚は理解が共通している話になっている。

 ということで,私は「あれは<定型的に理解したアスぺの話>なんだと思う」
 と言うのですが,そのあたりはうまく伝わらないのか,説明が悪いのか,
 賛同してもらえませんでした。
 「あれはアスぺの話じゃない」という彼女の確信は揺らがなかったみたいです。 

>「自分の力が定型を傷つける」なんて,あんなふうに理解できていたらアスぺじゃない

それは貴重な視点ですね!
つまりエルサの氷の力を、そもそも負のものだと思うこと自体、おかしいわけで、それはエルサの一部であり、それがあるからエルサなのだという、ごく当たり前のものだとしたら。

周りから総攻撃を受けること自体、「なんでいけないの?わたしのどこがいけないの?(それが氷の力だという限定すらもできない)」
わけです。

すると、アスペの方が、定型はとにかくアスペというだけで自分たちを排除しようとするという疑心暗鬼に陥りやすくなることも、理解できます。

裏を返せば、もしも定型とアスペの多数派と少数派が逆転したとしたら、エルサは定型となるのではないでしょうか。
つまり、今定型的な感覚で自然にやっていることが、何故かわからないが周りを傷つけ非難を浴びてしまう。そして、自分が自然に振る舞おうとすれば、集団から離れて孤独に生きるしかない。

解決策は、やはりお互いの傾向を知識として知り、当然と思う状態を一つずつなくしていくしかないのではないかなと、思えますね。

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