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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年5月

2015年5月28日 (木)

ガイドライン順守のお願い

ガイドラインに沿わない投稿が二つほど連続し、残念ながら非公開設定にしてあります。ガイドラインに気づかれないのかも知れず、気づいていただくにはどうしたらいいのかわからないのですが、名無しの投稿など、ないように関わらず機械的に対応せざるを得ませんので、どうぞよろしくお願いいたします。

2015年5月27日 (水)

書きたいことはいろいろあれど……

 この所ちょっと仕事で取り込んでいて,皆さんのコメントや掲示板の記事など,相変わらず刺激を受けて書きたいこともあるのですが,そこまで手が出ず,休業状態で失礼しています。

 またしばらくしたら書き込みをしたいと思いますが,よろしくお願いします。AS-Pさんの抱えている問題をめぐるやりとりも,本当にそこから何かが見えてくるとどんなにいいだろうと思いますし,アスぺの方からの書き込みにも,ほんとにコメントしたいことがあるのですけれど。

 ではこれからお昼ごはんということで (^ ^;)ゞ

2015年5月21日 (木)

定型は冷たいか

 パートナーが定型は本当に冷たいと言います。「共感性を豊かに持つ」はずの定型からすれば意外な言い方ではないでしょうか。自分の気持ちに共感してくれない,共感しようとしても拒否されるアスぺの方が冷たいに決まっている,とか。定型的な関係にとって共感能力は暖かさの象徴なのでしょう。

 なぜ彼女がそういうかというと,定型は親しさで人を差別し,親しくなくなると気遣わなくなる,と言います。微妙ですが,しかし「なるほど」と思わせられるところもあります。

 「アスペルガーと定型を共に生きる」の中で,離婚の為の協議に入った伸夫さんとカレンさんの手紙のやりとりで,アスぺの伸夫さんの手紙が私にはとても不思議でした。

 カレンさんの方はいかにも定型的というべきなのか,自分の心情を切々と訴える内容になっているのに対して,伸夫さんは非常にすっきりと,離婚後の生活について具体的で現実的な提案をしています。不思議なのはその点ではなくて,その内容です。離婚するということは他人になることで,もう関係は終了,ということだと私は思っていたのですが,伸夫さんの提案は,どんなふうに老後の経済的な協力関係を作っていくか,ということでした。

 定型的な関係でも子どもの養育費とか慰謝料とか,そういうものはあり得ますよね。でもそういう感じではないんです。むしろ積極的に協力関係を作ろうとする感じです。

 で,私の素朴な感覚からいえば,そんな協力関係を経済的にも続けていこうというのなら,なんで離婚の話になるんだろう?と不思議なわけです。離婚はそういうことも全部清算することじゃないのか?と。

 そのことを思いだしながらパートナーの言う「定型は冷たい」という話を考えると,ちょっとつながる気がしました。最初から自分が知らない赤の他人であればまた話は違うのでしょうけれど,少なくとも一度は結婚し,家族となった人間に対して,その後他人になればもうどうなろうと知らない,というのは納得できないということではないでしょうか。

 もちろん離婚後は養育費すらまともに払おうとしないような,子どもにさえ無関心に見えるようなアスぺの男性の例もなんどかこのブログや掲示板でも紹介されていますし,「アスぺは暖かくて定型は冷たい」といった単純な話でないことは明らかですが,やっぱりその暖かさや冷たさにもズレを感じます。

 何がどうずれるのか,ちょっとまだむつかしいですが,なんとなくそんな気がします。

    

 
 
 



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2015年5月17日 (日)

わかったつもり

 このところしつこく中間領域とかキャラとかそのあたりにこだわって今まで感じてきたことをつなげてみて,それはそれでまた見えてくるものもありましたが,へたをすると抽象的に「頭で考える」「言葉の遊び」になってしまう危なさも気にはなります。

 やっぱり最終的には自分の生きている日々の生活の中で,何を作っていけるんだろう,ということが問題なわけですから,改めてまたもう少し素朴に具体的なことを考えていった方がいいのかなとも思います。

 もちろん具体的に考えたり,抽象的に整理しなおしてみたり,どっちも意味があるんでしょうし,まあバランスなんでしょうけれど。

 それにしても,世の中というのは本当にいろんな人が集まって生きているんだなあと,そんな当たり前のことをいまさらのように感じています。定型アスぺ問題を考えると,お互いに理解しあうことがどれだけむつかしいかということが分るし,それほどにお互いに「違った世界」に生きているのに,そのことに全然気が付いていなかったことに驚くわけですが,でも定型同士だってほんとうは同じなんですよね。わかったつもりになっているだけで。

 

Keiさんが,定型は「できたような気になっている」だけだというようなことを書かれていて,なるほどなあと思います。「わかったつもり」と同類のことですよね。

 きっと定型というのはこの「わかったつもり」をすごく使うことで,人と「共感」したり,つながりを感じたり,信頼したりしているんじゃないでしょうか。それは一種の賭けなわけで,「本当は違った」みたいなことはいつでも起こりうる。アスぺの方はそこで常に裏切られ続けた経験があるから,簡単に「わかったつもり」にはなれないんでしょうね。で,定型のその「わかったつもり」を,とても素直に疑問に思い,問いかけたりする。

 定型の方はうすうすそれが一種の賭けであることをわかってはいて,でも「それを言っちゃおしまいよ」という感じで人との関係を作っているところがあるから,その部分を「そんなの賭けでしょう」とあからさまに言われてしまうと,困ってしまうのでしょう。見たくない部分を見せつけられちゃうわけで。だから腹を立てる。そこを言いだしたら関係がこわれちゃうでしょう!とも感じる。生きていくうえで大事な「夢」を否定されるような気にもなる。

 おっと,また話が抽象的になっちゃってるかも (笑)

2015年5月16日 (土)

定型アスぺ間のクッション

 定型は中間領域を作りたがるとか,グレーゾーンと表現されたりもしましたが,そういうのをクッションとして人間関係の中で実際よく利用するわけですね。

 それと比べた時に,アスぺの方はすごくストレートで,特に身内の場合はそれがはっきりします。このストレートさは他の文化の方たちと接する時にも驚かされることがあって,親しい間柄ではストレートに言うべきだと考えられたりもするみたいですから,そのこと自体を「アスぺの特徴」というのは無理があると思うんですが,でもやっぱりそのストレートさに違いも感じます。

 何が違うのか,むつかしいですけれど,ひとつ思うのは,他の文化の方も,ストレートで驚かされる部分と,たとえ親しい間でも(あるいは親しい間だから)ストレートに言わない部分があって,だからその方たちにはその方たちなりのやりかたでやっぱり中間領域を作っているように感じます。ただ,その中間領域を作る部分が私なんかとは異なるので,私の方が理解できずに戸惑うとか。(この場合は彼らにとっては私の方がアスぺ的に見えるのかも……)

 

 と,考えてみると,やっぱり定型の人間関係はそういう中間領域をクッションとすることで成り立っている部分が重要になると言えそうです。そこの部分を「思いやり」とか「配慮」とか「遠慮」とか,いろんな言葉で表現することがある。で,アスぺの方はそこを定型から「それがない」といって責められるわけですよね。

 逆にアスぺの方からはそこは「あいまい」で「ごまかし」の「不誠実」な「嘘」の部分にも見えることになる。もちろんアスぺの方もいろいろ学ばされる中で,仕事モード・他人モードではそれに形を合わせるようなことはされるわけだけど,それはあくまで「頭で」やってることで,気持ちは全くついていかないことになる。当然親しい間でそれをやろうとは思えない。


 

 ということで,特に親しい関係ではこのクッションの有無がいろんなトラブルを生むことが多いと思えるわけですが,そこを何とかしようとした場合,一番手っ取り早いのは「もう関わらないようにする」ことです。それを避けようとすれば次に手っ取り早い(?)のは「相手に合せる」やり方になります。つまり定型ならアスぺの方に合わせて「ストレート」に対応するようにする。アスぺの方なら定型に合わせて「クッション」を多用するようにする。

 で,とりあえず定型の方がアスぺの方に合わせてクッションをやめてストレートに,という生き方をしたらどうなるかを考えてみるわけですが,これが結構むつかしい。なぜならこのクッションというのは「相手を傷つけないように」とか,「相手を追い詰めないように」とか,「相手が自分で判断できるように」とか,そういう「思いやり」を含むこととして定型は感じているので,それをやめるということは「思いやりのある人であることをやめなさい」と言われているようなことになる。これ,結構感覚的にきついんですよね。

 (あ,もちろん定型から繰り返し追い詰められているアスぺの方からすれば,「どこが思いやりなんだ」と疑問を持たれたり,憤慨されるかもしれませんが,定型的な感覚ではそこが「相手の為」につながるわけで,ここも感覚の大きなズレのポイントでしょう)


 それともうひとつ,ストレートにすればほんとにそれで関係がよくなるのか,うまく保てるのか,という問題があります。

 ここでやっぱり思い浮かぶのは,ドナウィリアムズさんの恋愛関係とかです。汽車で偶然に出会った運命の男性との間で,初めて本当の自分で接しあうことになるのだけれど,どれほど相手を大事に思い,その気持ちに共感できても,決して関係を維持することはできない。

 アスぺ的なやりかただけで,はたして社会が成り立つだろうかと考えてみると,それを突き詰めれば突き詰めるほど,一人一人がばらばらに生きていく方向にしか動かない感じがするんです。


 だから,考え方,感覚の違う,お互いに理解がむつかしい人びとが,それでもお互いを認めながら一緒に生きていこうとすれば,やっぱりどうしてもクッションは必要になるんじゃないでしょうか。

 私のパートナーのように,アスぺの方の多くは定型から定型的な常識を押し付けられることで苦しみ続けてこられ,その結果「違う相手を認める」ことの大切さを身に染みて感じ,それをしばしば訴えられるわけですよね。そして「異質なもの」を排除しようとするような社会のおかしさを言われる。そのこと自体は全く異論がないですし,とても大事なことだと私も思います。

 問題はそういうことを前提にしたうえで,改めて関係を作りなおそうとする場合,そこで再びクッションの必要性が生まれてこざるを得ないんじゃないだろうか,ということです。

 

 という視点から,これまでのここでのやりとりなどを改めて考えてみると,ネットというのは使い方次第では意味あるクッションになっていると思えます。クッションの重要なポイントは「上手な距離の取り方」にあると思うのですが,ネットでは直接顔が見えない関係という意味で,ワンクッションになる。また自分のペースでやり取りがある程度可能になるということで時間的なクッションも入る。直接利害のある関係ではない人間同士のやりとりになるということで,そういう面でも少しゆとりを持って対応できるというクッションができる。

 そういうネットだから成り立ちやすいかもしれないクッションについて,ネットではない直接の関係の中でもうまく応用できないだろうかということをちょっと考えます。

 一つ,今朝の経験からいうと,これはたしかあすなろさんも書かれていたと思いますが,定型側からは厳しく攻撃されるように感じる場合であっても,すぐに「防衛」や「反撃」に走らずに,一旦受け止める(あるいは「流す」)姿勢を持つのは,定型側からのやり方としてはひとつありのように思います。定型的な感覚からは「そこまでの言い方をするのは,もう完全に宣戦布告なんだろう」と感じてしまうところ「いやそうじゃないのかも」と自分の気持ちにクッションを作ることとも言えます。

で,それで定型の側が一方的に我慢を強いられるだけに終わると,これも長続きしないかもしれませんが,今朝もそうでしたけれど,一旦そこで受け止める姿勢でだまって聞いていると,彼女のほうにも変化が感じられたんです。なんというのか,その言うことにちょっとゆとりが出て来て,私も納得しやすい,受け入れやすい意見が出て来るとか。

 最初にガッと出て来る言葉は攻撃的で否定的に感じられるものだったりしますが(もちろん彼女にはそういう意図はない),それがクッションを置くことで,もっと落ち着いたやり取りになることがあるわけですね。

 

 ということで,定型アスぺ問題では,中間領域がトラブルのもとになりやすい,ということを踏まえたうえで,改めてトラブルになりにくく,定型アスぺの両方があまり無理なく受け入れやすい形の中間領域・クッションの作り方を模索することに,もしかすると意味があるのではないかと,そういうことを考えました。


    

 
 
 



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2015年5月13日 (水)

ピュアとキャラ

 

コクーンさんが,「ピュアすぎる」と言われた経験を書いてくださっていて,これってキーワードのひとつかもと思いました。そしてこの所考えてきた「キャラ」「中間領域」と「ピュア」の視点をつなげてみることで,定型アスぺ間で何がトラぶり,何が傷を生むのか,いわゆる「発達の障がい」という話はそこにどう絡むのか,なぜアスぺの方は定型社会から排除されやすいのか,なぜアスぺに魅かれやすい定型がいるのか,という,これまでもバラバラに考え続けてきた問題を,私的にはかなりわかりやすくつなげて考えることができてきました。それは定型アスぺ問題に限らず,定型の社会を成り立たせているある仕組みにもつながることと感じています。

 そう理解してみると,定型アスぺ問題はそういう社会の仕組みの根幹にも触れる問題で,その社会の中で生きている人の生き方や価値観の中心部分に振れる問題なので,これほどに深刻で,また解決もむつかしいのだと思えてきます。逆に言えば,そういう視点を持って考え直してみることで,少し違った工夫が見えてくる可能性もあることになるでしょう。もちろんそういう私の見方自体がずっこけている可能性もありますし,ポイントを外しているかもしれませんし,ましてやそれに基づく工夫など,取らぬ狸の皮算用にすぎませんけれど,まあそれでも一つの可能性としてです。

 まずはまたアナ雪のアナとエルサの「ピュア」さのことから始めると,だいたいこんなような話です。

 アナ雪で(良し悪しはとりあえず置くとして)孤独なエルサに無謀にも迫ってつながりを取り戻そうとするアナは,一目見た他国の王子様に心を奪われて,その日のうちに申し込まれた結婚にOKを出してしまうような「単純」で「ピュア」な人物です。

 そのピュアさは思い込みで成り立っていて,実際その王子がその日のうちに結婚を申し込んだのは,アナが感じたような王子のピュアさによるものではなく,単に婿入りして王になろうとした計略だったわけです。決してピュアな関係ではない。

 エルサもとてもピュアな人なんだけど,ずっと苦労をさせ続けられてきたためということなのか,おそらく直観的にその王子の危険性を見抜いたのでしょう。アナが結婚しようとすることを,断固として否定します。二つのタイプの異なるピュアさ(アナは夢見るピュアさ,エルサは直視するピュアさ,とか……)が折り合わずにここで対立します。

 次にドナ・ウィリアムズさんのピュアさについて。彼女の本でとても印象的だったことの一つは,本当の彼女は3歳のまま,大人にならずにずっとい続けるという話でした。彼女のピュアさは3歳児のピュアさになります。3歳の自分を守りながら,外の世界に向き合わなければならないときにはキャロルとかウィリーとか,別のキャラを作ってそれを盾にするという「発明」をしたわけです。

 彼女の場合はそれらのキャラは,めちゃくちゃに無理をして作っているもので,キャラを演じている時にも決して3歳の自分は失われません。ただキャラの後ろに隠れているだけです。そのキャラは仕方なく作っているもので,嘘のものだという感覚が常にある。

 そして無理をして作っているものだから,そのキャラはしばしば暴走し,周囲との関係を破たんさせ,相互に大きな傷を残していきます。

 そういう彼女が自分と同じ感覚を持つと直感した相手と結ぶ恋愛関係は,「本当の自分」がむき出しになる場として,恐ろしいほどにピュアなものです。強烈にプラトニックで,裸の心が強く求めあいながら,少しでも触れれば激しく痛み,血が流れ,ただ横にいることが精いっぱいという感じの。決して成就しないその関係は,ドナが他の男性と結婚した後も続きます。二人のピュアさはお互いを一体にする力を持てないままです。

 定型も,おそらく誰もがその幼心をどこかに残しています。宮崎駿さんとか,ああいう人は3歳ではないと思うけれど,幼児や少年少女の心を奇跡のように保ち続けながら,大人の社会の中でそれをアニメの形でリアルに表現できる人なのでしょう。彼のアニメが多くの人の心をとらえるのは,多分誰もが持つその幼心に響いてくるからかもしれません。ナウシカにしても,もののけ姫にしても,トトロにしても,多くの彼の作品の中でいろんな困難を乗り越えようとする力はいずれもそのピュアな幼心になっています。

 人はどうしようもなく残酷な現実にであったり,今の自分の生き方の限界に突き当たった時,少年少女の心に戻ってみる,ということを時々するのでしょう。多くの人の気持ちをとらえたと思える物語で思いつくままに書いてみるだけでも,宮崎さんの他にも,北野武さんの「菊次郎の夏」とか,エンデの「終わりのない物語」とか,最近ではトールキンの「指輪物語」とか,大人の世界の危機に立ち向かったり,救いを与えるのはどれも少年たちです。そのほかにも,凄惨な状況を描いた後,エンディングに子どもの歌を使うことで,かろうじて救いを与えるような映画もいくつか思いつきます。

 定型がアスぺと異なるのは,3歳以降に作り出していくさまざまな外向きのキャラは,ドナが苦しむような形では「本当の自分(ピュアな自分)」と激しく葛藤することが少ないということかもしれません。Keiさんとのやりとりでもちょっと問題になりましたが,本当の自分もキャラも,定型の中ではもう「境目のない遠近両用メガネ」というか,スペクトラムというか,中間領域的というか,はっきりとした境目がなくなっている。その場に合わせて行ったり来たり無意識にやっている。葛藤しにくい仕組みを何か作っているのです。

 ある意味,定型はそこで「融通が利く」し,「うまく立ち回れる」し,あるいは「ずるい」わけです。日和見にもなる。アスぺの方はそこで「純真」で,「嘘がつけ」ず,「うまく立ち回れない」「どんくささ」や「硬直した頑固さ」を発揮することになる。

 私がパートナーに一目ぼれをしたのは,明らかにそういう「ピュアさ」を直感したからでした。アスぺの人に魅かれるタイプの定型は,ひとつにはそういう「ピュアさ」への思い入れが強い人かもしれません。そういうピュアさに触れることで,自分が救われるように感じられる,その思いが特に強いタイプとか。

 コクーンさんが書かれているように,ピュアさは限界を持っています。たとえばあすなろさんが書かれているように,アナのピュアさはエルサの苦しみを理解せず,ある意味暴力的にそこに踏み込んでエルサを引きずり出そうとする。ピュアさは場合によって傍若無人の力も発揮します。エルサのピュアさは人を凍り付かせ,身を守るために刃となって人に突き刺さる。それは自分を貫くことで,自分に向かう他人を貫いてしまう場合もあるわけです。

 ピュアさは結局自分の感覚をベースにしたピュアさになるので,それだけでは異質なものとの関係を調整することがむつかしいわけです。

 だからそのピュアさがおかしな形で追及され,暴走し出すと,恐ろしく破壊的な力を持ち始め,異質な他者を殺し始める。そして他者を殺す自分を自己陶酔的に正当化し始めたりもする。(この点についてはそうなりやすいのはもしかすると定型のほうかもしれません。その手の自己陶酔に対してはアスぺの方はとても「冷静」なようにも思えるからです。そこがまたアスぺの方が「冷たい」と定型から言われる原因の一つかも)

 と,ここまで来ると,問題がもう定型アスぺの枠に留まらなくなって,人の生き方一般の話にもなってきますね。どんな人でも幼心のピュアさは持っているだろうし,それは美しい純真さでもあるし,しかし異質な他者と出会ったときに,状況次第では困ったものにもなる。利害関係が複雑に絡まり合い,異質な者同士がぶつかり合う社会の中で,ピュアさのみでその関係を調整することは至難の業だからです。キャラはそういう他者との付き合い方の工夫でもあるけれど,そういうキャラと「本当の自分」には常に緊張があり得て,さまざまな場面で自分が揺れ動く原因にもなる。

 ドナは3歳の自分に留まり続けながら,一種の天才的な能力でキャラを生み出し,使い分けて異質な他者との関係を取り結ぶ方法を身に着けるけれど,それには大きな犠牲が伴い,自分も周囲も激しく傷つける。アナ雪でピュアさの対極に描かれるウェスタ―ガードやウェーゼルトンは,ピュアさを食い物にして自分の利益を獲得しようとしたりし,都合が悪くなるとそのピュアな人物を抹殺しようともする(この話はにわとりさんが繰り返し訴えられている問題につながりそう)。

 ひとの社会はそういうピュアさと関係調整,対立が複雑に絡まり合って揺れ動きながら展開していくのでしょう。そういう複雑に絡み合う展開の中で,アスぺの方のピュアさが定型的な論理といろんなところでぶつかり,両者の間に激しい葛藤を生んでいく。定型の中にもそういうアスぺ的なピュアさに救いを感じる人も,逆にそれにある種の嫌悪感を感じて遠ざかろうとする人もあって,当然前者の人がアスぺをパートナーとして求めて定型アスぺ問題に深くはまり込む可能性が高くなる。

 アナ雪でウェスタ―ガードやウェーゼルトンが最後には破綻するように,利己的な欲望による他者の利用や抹殺といった生き方もどこかで破たんする。ピュアのみで複雑な世の中は成り立ちえないけど,ピュアというひとつの極がある種の「理想」として存在しないと,これもまた複雑な社会は中心を失って崩壊するし,困難に突き当たった時にそこに立ち戻って自分を再生することができなくなる。

 定型アスぺ問題は,異質な者同士がなんとか折り合いをつけて生きていかなければならない状況の中で,自身の持つピュアさと「現実(さまざまなピュアさや欲望がぶつかり合い,利害調整を必要とする)」の間をどう折り合いをつけていくか,という,人間社会の最難関問題に直接に関わる話になるから,ものすごく深く,むつかしい問題になるし,だから「アスぺを切り捨てれば問題は解決」といった,単純な話には決してなり得ないし,ある意味ではそこに向き合うことが社会の再生につながるひとつのきっかけにもなりうるような,そんな重大な問題でもある。

 そんな風に整理してみると,私としては結構見えてくるものがあるような気がしました。

 


    

 
 
 



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2015年5月12日 (火)

アナ雪に学ぶ定型アスぺ問題

 えっと,勝手にアナ雪は(定型の感覚で見た)「アスぺ問題」だという思い込みでの記事です (^ ^;)ゞ。 ……「アスぺ問題」と書いて,「定型アスぺ問題」と書かないのは,あすなろさんもそのことに触れられていますが,それがあくまでも定型の視点からだけ描かれているように思えたので,「定型アスぺ」にはまだなっていないと感じるからです。

 ということで,私の勝手な思い込みでのタイトルですが,ただ,いずれにせよ優れた物語というのは,広く深く人の「真実」に迫っていきますから,仮にアナ雪の作者が特にアスぺ問題について深い関心を持ってあれを作ったのではないとしても,あそこに描かれている人の心の理解を,「定型アスぺ問題にも」応用できるだけの深い力を備えているんだと考えてみてもいいと思います。

 またそのことは逆に言えば,仮に作者がたとえばドナウィリアムズさんの本を読んでいたり,身近に問題を抱えていたりして,そういう世界のシビアさに強い問題意識を持ってあれを作ったとすれば(その世界にもアスぺの方は多いでしょうし),そこで考えられたことが,実は定型アスぺ問題という「小さな」枠を超えて,多くの人々に伝わるような普遍的なものにつながったのだ,とも言えることになります。だからこれだけ人々に受け入れられたのだという。

 まあ,どちらから考えるにしても,多くの人々の何かに訴える,優れた映画なのでしょう。ということは,言い換えれば定型アスぺ問題は,実は定型とアスぺの間の問題だけではなくて,実に多くの人が抱えている問題にどこかつながっていく,普遍的な問題でもある,ということになりますよね。そこはすごく大事な気がします。

 

 以下,アナ雪に見えて来る定型アスぺ問題の展開を思いつくままに。

(1)子どもの頃に不思議な力を発揮し始める

 エルサは幼いうちから手に触れたものを凍らせたり,足で踏みつけると周囲に氷の世界が広がったり,雪を降らせたりといった不思議な力を持ちます。

(2)その力は人を傷つけるかもしれない

 その力は普通のひとにはないもので,親にとっては驚きですが,それは世界を凍らせたり,人に対して鋭利な刃物のように危険な力でもあります。

(3)本人も親も,その力をコントロールできない
 親は自分がそういう力を持っていませんから,その力をどうコントロールし,対処していいかわかりません。子どもも自分の力の意味が分からないので,親がそれに戸惑う姿を見せつけられて,自分の力を否定的にしか見られなくなります。

(4)唯一可能な対処はその力を押さえつけ,隠すことになる

 わけのわからない危険な力に対して,親が子どもに教えられるのは,その力を隠して人に見られないようにすること,そして可能な限り押さえつけること,さらには人との接触を可能な限りへらすことです。子どもも自分を閉じ込めることになります。

(5)その力の楽しさを,他の子どもが知ることがある

 大人にとって極めて危険なその力の「魅力」を,世間常識を知らない子どもは素朴に見つけて楽しむことが出来たりします。アナはエルサの作る雪と氷の世界でたっぷり遊ぶのです。

(6)本人はその不思議な力を肯定できない

 エルサは親からその力を否定的に見られ,そのように教えられていますから,決してその力を肯定することができません。かろうじてアナはその力を楽しんでくれますが,ところがその大事なアナをその力で傷つけてしまうという,大変にショックな事故も起こり,エルサはますます自分の力を許せなくなります。

(7)力を抑圧しても,ますますその力は強力になる

 ひたすら自分の力を押さえつけようとしても,それがなくなることはなく,コントロールできるようにもなりません。むしろその力は時と共に強くなるばかりで,周囲とはますます折り合いがつかなくなり,悪循環にしかなりません。

(8)相手への心配は伝わらない

 アナが無謀な結婚の意思をエルサに伝えると,(おそらく)その危険性を直観的に察知したエルサは理由も言わずに即座に反対するのですが,そのエルサのアナを思う気持ち(たぶん)はアナには伝わらず,アナは単に自分の気持ちが踏みにじられたと思ってトラブルになります。

(9)不思議な力は身を守るために刃になる

 怒って迫るアナを遠ざけようと,エルサは思わず力を使い,アナとの間に氷のバリアを築きますがそのバリアは氷の剣のように,アナを突き刺しそうになります。アナに対しては本来は氷と雪を楽しむ力だったものが,ここで身を守るための武器になってしまうわけです。しかもアナに対するその剣が初めて作られた場は,戴冠式後のパーティーという,第三者がたくさんいる場でした。

(11)自分の世界をとりもどすための代償は孤独の世界

 エルサは森に一人引きこもることで,初めてそれまで否定し続けてきた自分の力を使うことができ,素直な自分を取り戻します。それは「孤独」という代償によってはじめて得られた世界ですが,その喜びは孤独の寂しさを上回ります。

(12)不思議な力の危険性におののく人々は,その持ち主を殺そうとする

 人びとには受け入れられない自分の力を引きこもって発揮したエルサですが,その力はもはや自分の世界だけにはとどまらず,周囲の人々の世界も凍らせてしまいます。そのことに耐えられなくなった周囲の人々のうち,金銭欲や権力欲にかられた人々は,エルサの世界に踏み込んでエルサを殺そうと企みます。

(14)追い詰められて,身を守る力が相手を殺そうとする力に変化する

 自分を殺そうとする人々から身を守ろうとして,エルサの氷の刃は伸びていって相手を突き刺そうとし,また氷の盾は敵をおしやって突き落とそうとします。そのような力の転換点になったのは,身を守る盾に相手の矢が突き刺さり,自分が殺されようとしていることをリアルに実感したその瞬間です。

(15)愛による愛の拒絶が相手に致命傷を負わせる

 アナはあくまでもエルサを信じ,エルサが世界を凍らせていることを気づかせようとし,そしてアナたちの世界に戻ってくれることを願います。エルサは全く意図せずにアナを傷つけた過去を忘れられず,アナの為にも一人でいることを続けようとして,なおも食い下がるアナを避けようと思わず力を使ってしまうのですが,その力はアナの心を直撃し,死に至る傷を与えてしまいます。



 こんな風に見てみると,ここまでのところで定型アスぺ関係の展開の一つの典型的なパターンが描かれているような気になります。

 定型はアスぺの方の感覚(力)に戸惑い,それを否定し,押さえつけざるを得ず,アスぺの子どもはその現実の中で自分の感覚に戸惑い,自分を閉じ込めることで自分を守り,また周囲の人が傷つくことを避けようとする。お互いに自分の理解できる範囲で「相手の為に」考えてやることで,抑圧と孤独が生まれる。

 親子や姉妹の愛の中でその状態が作られるうちはまだ破滅的な事態にはなりませんが,第三者がからむような状況ではついに破壊的な作用をし始めます。力は身を守るための盾になり,その盾は相手に向けられた氷の刃です。

 さらに愛のない,利己的な欲望にかられた人々がそこに絡んでくると,事態は血も涙もない相手の抹殺,殺し合いにも発展していきます。

 そんな状態でなお自分の愛をもって迫ろうとしても,相手にはその愛はもはや通用しなくなってしまっています。お互いの愛がお互いを脅かし,あるいは傷つけ,時に致命傷を与えるような状態になってしまう。

 映画ではここで「捨て身の愛」がこの状況を救う設定になっていますが,それはやはりまだ問題の核心に届いていない感じがすることは昨日も書いた通りです。「捨て身の愛」が相手には愛として通じず,むしろ孤独な死にも結びつきうるというのが,この定型アスぺ問題のシビアなところだと思えるからです。

 ただ,アナ雪の物語には,このシビアな事態を生み出しているのは「愛のすれ違い(ズレ)」であり,それがさまざまな剣を生み出しているのだという視点,そして「愛」という形で一般化すれば,お互いに思いを共有できる可能性が出てくるという主張が含まれているのだと考えれば,それについては,私はなんとなく納得してしまいます。

 まあ,そういうのは私の「性善説」的な感覚のなせる業で,そんなのはファンタジーにすぎず,「性悪説」で考えなければ事態は打開できない,と思う方もあるでしょう。性悪説の議論には多分どうしようもない自己矛盾が実は含まれてしまう,という点を除けば,ある範囲ではそういう見方もできなくはないと思うので,そこはむつかしいところですけれど。 




    

 
 
 



2015年5月11日 (月)

感情を押さえつける

 定型アスぺ問題が厄介な理由のかなり大きな部分は,お互いに自分の素直な感覚で対応するとまず間違いなくと言っていいほどにトラブる,ということです。

 で,私もパートナーとの関係を考え直そうとすると,どうしても自分の「素直な感じ方」を否定したり,押さえつけたりしないといけなくなるんですね。たとえば「すごく怒って私を責めている」ように感じられる彼女の話し方を,「いやそうではなくて,戸惑って困っていて,場合によっては自分を責めているんだ」と考え直してみるとか。

 でも素朴な感覚としてはやっぱり「責められた」というのが第一印象に来てしまって,傷ついちゃうわけですから,そのあと「いやそうじゃないんだ」と「頭で考える」ことは,その傷ついた自分の感情を抑え込まざるを得ないことになる。

 で,そんなふうに傷つくことを避けようとすると,可能な道は「一切感情的な関わり方をしないようにする」ということでしょう。もうとにかく事務的に対処する。ちょっとかっこつければ「冷静に」「客観的な態度で」「理性的に」対処する。悪く言えば「冷たく」対応する。

 ということをまた考えていて,ふと気づいたんですね。「あれ?これってアスぺの人の世渡りの仕方じゃない?」と。

 定型は多数派ですから,自分の感覚で動いても受け入れられることが多い。だから自分の感情をそんなには否定しなくてもすむ場合が多い。むしろ感情を適切に用いることで人間関係が深まり,うまく世渡りができる。「冷静に」「客観的な態度で」「理性的に」「冷たく」という姿勢も取れないことはないけれど,そうでない部分もたっぷり使える。

 仕事とか,そういう場面では感情むき出しはもちろんアウトで,「冷静に」「客観的な態度で」「理性的に」「冷たく」対処することは「大人」の資質として求められたりもするけれど,そこで満たされない思いは「裏」で愚痴をいいあったり,お酒を飲んで騒いで発散したり,いろんな逃げ道を作って他の人と共有しているし,そういうところで多くの人と意気投合すると,今度は「表」の世界もそれによって変わったりもする。そんな形で「冷静な」大人の世界と,感情的な世界のバランスをとる仕組みも作っているわけです。

 ところが少数派のアスぺの方はそういう形で自分の素直な感覚を発揮できる場が極めて少ない。自分の感覚に共感してもらえることも非常に少なく,常に孤立する危険を感じざるを得ない中で生きている。

 そうすると,「冷静に」「客観的な態度で」「理性的に」振る舞うことがものすごく重要になってきて,そうしなければならない場面の多さは到底定型の比ではないわけです。そして人との関係で自分の感情が共有されたり,理解されたり,そのことで何かが解決されることは少なく,むしろ拒否されたり否定されたり排除されたりということが積み重なるわけですから,「自分の感情には意味がない」とか「感情は訳の分らないものだ」とか「共感などあり得ない」とか果ては「感情というものがわからない」とか,そんな思いになったとしても不思議はありません。

 カップル間で定型アスぺ問題に定型の側から歩み寄ろうとすると,どうしても「素直な感情を(少なくとも一旦は)押さえつける」という,非常に厳しいステップを通らざるを得ないのかもしれませんが,実はそれはアスぺの方にとっては日常生活の中でずっとやらされ続けてきたことなのかもしれないと,そんなことを思ったのでした。



    

 
 
 



2015年5月10日 (日)

アナ雪ふたたび

 ようやく(?)アナ雪を見ました。面白かったです。(以下,ネタバレありますので,未だご覧になっていない方はご注意ください (笑) )

 パートナーはなかなか賛成してくれないのですが,私から見ると,「定型的に理解したアスぺ問題」の典型的なパターンのように感じました。

 とても印象的だったのは,子どもの頃,アナがエルサにねだって魔法を使ってもらい,遊んでいたときに,「事故」でその魔法がアナに当たってしまったところです。それまではエルサと楽しんでいたアナは,一瞬で倒れ,体が冷えて死にそうになります。そのアナを両親が森へ連れていき,トロールたちに救ってもらうのですが,その際,トロールが言ったことが実に印象的でした。

 今回はアナの頭に当たったので,救い出すことができる。でももし心にそれが当たってしまったら,もう自分にはどうすることもできない。というのです。

 実際,物語の後半で,森にこもったエルサを呼び戻そうとやってきたアナに,今度はもっとひどい状況でですが,「事故」で魔法が当たってしまいます。そして今度はまともに胸に当たるのです。

 アナの体は冷たくなっていき,命が失われようとする。そこでアナを愛する変わり者の青年クリストフが再びトロールに救いを求めようとするのですが,トロールはもはや手の施しようがないと言い,ただ唯一「真実の愛」だけが彼女を救うだろうと教えてくれたのでした。

 この展開は,定型の側から「身内」のアスぺの人につながろうとしたときに起こりうる出来事そのもののように思えたのですね。

 つまり,最初はいい関係が取れたと思う。楽しいつながりができる。ところがそうやって心を開いた瞬間に,いきなり気を失い,体温を奪われるような衝撃が訪れる。

 その衝撃が,頭で対処できるレベルにとどまっている限りは,まだアナは救いようがあるわけです。これも比喩として理解すれば,「アスぺ問題(エルサ問題)」に頭で「理性的」に対処しようとすることでしょう。エルサを部屋に閉じ込め,隔離し,物理的に距離をとるようにする。エルサには自分の力を発揮させないようにする。

 アナは繰り返しエルサとの心のつながりを作り直そうとしますが(エルサの部屋に行って,鍵を閉められたドア越しに,遊ぼうと誘い掛けるなど),それは決して許されない。実はそうやってかろうじてアナは守られていたし,先にアナを「傷つけ」てそのことで自分も衝撃を受けたエルサも,それ以上の悲劇を回避しようとするわけです。

 定型が定型的な感覚で身近なアスぺの方と関係を作ろうとして思わぬ傷つき方をし,どうにも対処できずに仕方なく相手との気持ちの関係を封印して距離をとる。援助も感情的な関わりを排した「医療的な対処」とか「テクニカルな対処」に限定していくようになります。そうしなければ自分が危険だからです。

 けれどもそのような「隔離」で問題自体が本当に解決するわけではなく,むしろエルサの中ではますます矛盾がたまっていき,そのパワーが蓄積されていくことになる。

 エルサはかろうじて森に逃げ込み,自らのパワーで氷の城を作ってただ一人そこで生きることで,孤独と引き換えに本来の自分を生きることが可能になるのですが,しかしそれは彼女一人の問題には収まらず,夏だというのに国中が冬になってしまうという深刻な影響を周りにもたらしてしまう。

 向こう見ずのアナは「姉妹なのだから危険なことはないはず」と思い,姉に国の悲惨な状態を知らせて頼め姉はちゃんと理解してこの冬は終わらせてくれるはずだ,と思って果敢にも姉の所へ行くわけですが,結果は死に至る傷を「心」に負い,体が凍っていくわけです。

 定型がなんとかアスぺの方との関係を作りなおそうとして,「頭」ではなく,「心」で自分を捨てて相手に近づいていくと,結果としてはその心が冷えて死んでいくという結果を生んでしまう。深刻なうつ状態やカサンドラに陥るパターンがそういうことなのでしょう。

 なぜそうなるか,といえば,定型的な感覚でアスぺの方のコミュニケーションを理解し,それに自分を合わせようとすれば,自分にとっては「冷たい」態度になってしまう,という定型アスぺ問題の構造がそこにあるからです。近づこうとすれば近づこうとするほど,定型は自分の心を冷たくすることになり,自分の中の熱い思いが凍らせられてしまう。暖かい関係を求めて冷たくなるという,どうしようもない矛盾に,命を蝕まれていくわけです。

 さて,そこでアナ雪では「真実の愛」を処方箋に持ち出しました。真実の愛とは何か,といえば,私よりも相手を大事にすること,私の身を捨てても相手を生かそうとすることでした。

 エルサもアナを傷つけたことに衝撃を受け,二度と傷つけないために自分を閉じ込める,という形でその「愛」を貫こうとしたとも見えるのですが,その気持ちがアナの身を捨てて姉を守ろうとした気持ちにつながっていき,そして凍り付いたアナを融かして生き返らせることになっています。

 ドナ・ウィリアムズさんも「本当の愛」ということを希望として書いています。たぶんアスぺの方も「愛」を求めていることには変わりはないのだろうと思います。

 問題はその愛の形が,お互いに理解しあうことがむつかしく,自分の感覚で理解しようとすれば,それは「愛の否定」に感じられてしまうという構造があることです。だから,自分の感覚で愛を貫こうとすれば,逆に自分の愛を否定し,やがては自分自身を否定するよりなくなってしまうという展開が待っている。

 ではそれは「自分を捨てて相手の為に」なる「本当の愛」の成就と言えるのかといえば,これがそうはならないわけですね。なぜなら相手は自分の幸せを願ってくれているからです(ああ,もちろん定型同士にも個人差があるように,定型アスぺ関係でもそこに個人差は大きくあるでしょうけれど)。だからそうやって「身を捨て」るという最大の自己犠牲を払ったとしても,それは相手の喜びにはつながらない。

 自分を貫けば相手を否定することになり,かといって自分を否定してもどちらにとっても幸せは訪れない。自己中心的な愛も,自己否定的な愛も,どちらも問題を解決できないという,ものすごく大変な状況がそこにあることになります。アナ雪のように,自己否定的な愛が相手の愛を引き出して,愛を共有できる状態になる,という物語は簡単には成立しない。

 

 そう考えることは,もしかすると絶望しか生まないと思われる方もあるかもしれません。どちらに行っても先が見えない。けれども私は個人的には,なにかちょっと道がかすかにでも見えてくる感じもあります。

 パートナーと話をしていて,彼女が持っている定型に対するすごい不信感を聞いていても改めて思ったのですが,アスぺにはアスぺなりの深い愛があって,人に対する温かい心があって,でもそれが定型との間では認められず,むしろ拒絶され,傷つけられるような体験を繰り返されているのですね。その点,定型がアスぺの方からそういう「しうち」を受けているように感じられるのと,全く裏表の感じがします。

 アナ雪ではアナがエルサの愛を理解するようなプロセスは描かれていませんでした。ただ「そうに違いない」という思い込みが最初から貫かれているだけでした。そしてエルサのほうだけがアナの「真実の愛」を知って「改心」するような,一方的な展開です。そこがやっぱり典型的に定型的な,というか,「多数派による」物語なんでしょうね。そのせいで前半に感動しても,その部分にがっかりされた人が少なくないのかなと思います。本当の解決にはなっていないんじゃないか,と直感するんでしょう。

 

 定型の側からすれば,アスぺ的な愛をどこまで実感できるようになるか,アスぺの側からすれば,定型的な愛をどこまで理解できるようになるか,そしてどうやったらそれが少しでもしやすくなるのか,その辺りが改めて問題になっていくのだろうなと,そんなことを感じます。

(追記:とはいうものの,やっぱり面白かったです。 二回見てしまいました (笑)。
 ディズニーが人の夢を生み出す力はすごいですね…って,定型的?
 でも,ウォルトディズニーもアスぺだという人もいますけどね)


「問題」か「努力」か

 掲示板の方であすなろさんがこんなことを書かれています。

「よく言われる『想像力に乏しい』というのも、「いろんなところに想像が及んでしまい、取捨選択ができないとも取れる。『相手の動きが読めない』というのも、あらゆるものの動き、状況が入ってきてしまうために、相手の動きだけに集中できない。とも、考えられるわけで。もし私が、幼い頃から情報過多に翻弄されていて、そこに周囲からの『全否定』も加わって、自分でそれら全てをフリーズさせてしまったのだとしたら、納得できないこともないかなと。」

 つまり,アスぺの方の「特徴」について,しばしば「能力の問題(想像力に<乏しい>とか,相手の動きが<読めない>とか)」だと説明されるわけですけれど,実はそれは結果に過ぎないので,むしろ定型が普通なら無視してしまうような小さなこともみんな拾い上げてしまうという,ある意味では「鋭敏」さと言える「能力」をうまく使いこなせず,逆に周囲から否定されるために,想像力を「働かせなくして自分を守るようにした」のではないか,ということですよね。

 「能力の欠如」 ⇒ 「理解力のなさ」

           VS

 「鋭敏さ」+「他者からの否定」 ⇒ 「能力の遮断」

 というふうに,天地をひっくり返して考えて見られたことになります。もちろん定型基準で考えれば,その「鋭敏さ」を生かし,無視するところは無視する,「適切な情報の処理能力の欠如」という「障がい」として説明しなおすことは不可能ではありませんけれど,これもKatzさんとKeiさんの議論を借りてさらに問い返すことができます。Keiさんは定型の「能力」についてこんなことを書かれています。

<定型>は「定型社会で似たような考えをする多数派」の「おかげ」でそれらを「自分で」克服することができる。

 この話をここの問題に当てはめると,こういう理屈が成り立ちます。

 「定型は自分個人の<能力>で,適切な注意の仕方(情報処理)を行っているのだと勘違いしているが,実際は多数派が自分たちの感覚にあった注意の仕方を代々工夫してきていて,それを無意識に次の世代へも伝え,あるいは前の世代から学んでいるからそれができるにすぎない。これに対してアスぺは少数派で,自分にあったやりかたを作っていこうとしても,それが常に周りから否定され続けるので,それを積み重ねることも人に伝えていくこともできない状態に置かれている。それは個人の<能力>の有無の問題ではなくて,個人の<特性>を活かすような世の中の仕組み,やり方が利用できるかどうかの違いなんだ。それが利用できる定型は<能力>があるように見えるし,利用できないアスぺは<能力>がないように見えるだけのことになる。」

 まあ,この理屈にもまた反論がないではないでしょうけれど,少なくとも単純に「個人の能力」で説明してかたの付くようなシンプルな問題ではないことは明らかでしょうし,何より私が大事なことと感じるのは,定型的な基準では「問題」としてしか見えないアスぺ的特性の部分が,アスぺの方の「努力」として見つめなおすことが可能になることです。

 「問題」であればそれを「抑圧」したり,「矯正」したり,「補強」したり,そんな対処になるのが自然でしょう。この場合アスぺの方はどうしても定型の世界に従う,受け身の生き方になりがちです。

 それに対して「努力」というのは主体的なことですから,それがうまくいかないときには「努力」の仕方を主体的に「調整」する,という姿勢が可能になるし,調整であれば,「お互いに」それをすることになっていきやすいでしょう。

 なんか言葉のお遊びになっちゃうとやばいなと思うんですが,でも「お互い様」ということをベースに,関係を「調整」する道を探るためには,そういう微妙だけれど,実は大きい視点の取り方の違いが重要になるんじゃないかと,そんなことを思ったりするわけです。


    

 
 
 



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2015年5月 9日 (土)

うそんこの世界

 

Keiさんから寄せられたいくつかのコメントを拝見していて,定型的な中間領域の作り方がいかにアスぺの方たちの不信感を生み出すかについて,思いを新たにしていますが (^ ^;)ゞ,ふとこんな話を思い出しました。

 これも大昔に聞いて面白かったのですが,子どもが砂場でおままごとをしていて,砂でご飯を作ったりするわけです。それで「はい,ごはんですよ~」とか言いながら,それを「家族」に差し出したりする。で,差し出された方はたべる「ふり」をして,器から砂を砂場に落として空にして「ごちそうさま」と言ったりします。

 ところが面白い人(?変な人?)がいて,差し出されたその砂のごはんを,ほんとに口に入れて見せたんですって。こどもがどうするかと思って。

 そしたら子どもはめをまんまるにして,「そんなの食べちゃダメなんだよ」と言ったかなんか,詳しくは忘れましたが (^ ^;)ゞ,とにかくびっくりしちゃったというのです。

 この話なら,多分定型だろうがアスぺだろうが理解を結構共有できると思うのですけれど,要するに「うそんこ」の世界を楽しむことがあって,「本当は違う」んだけど,「そういう振りをする」ことでやり取りが成り立ち,その「うそんこ」の世界を遊ぶ,ということをやるわけです。

 人間の世の中,そういう「うそんこ」で成り立っています。遊びだけじゃありません。

 たとえばKatzさんの最近の話題でも出てきている経済の問題にしても,お金なんてそういう「うそんこ」の典型ですよね。2億円の札束だって,物としては結局紙切れにすぎません。銀行に入っていれば,「紙切れ」ですらなく,電子的なデータでしかない。

 でも,もしKatzさんが私に2億円の紙切れをくれたら,私は泣いて感謝するでしょう (笑)。私の人生はそこで変わります。うそんこのくせに,リアルにほんとのものでもあるのです。

 ほんとうはなんでもないものを「一応それは価値あるものにしておきましょう」といううそんこがお互いに認められた時,そこに経済が成り立つわけです。アスぺの方だって,そのうそんこを理解しなければこの世の中では生きていかれません。

 定型の人間関係って,そのうそんこをものすごく使うんですよね。中間領域ってうそんこのかたまりみたいな世界なのでしょう。それは「うそだけどほんと」の世界だから,そこで「そんなのうそでしょう」とか真顔で言われると,「それを言っちゃおしまいよ」という話になって白けてしまう。うそんこで差し出した砂のご飯を,いきなりほんとにたべられちゃった子どもの驚きとか,遊びを崩された白け感にも似ています。 

 あと,人や場合によっては,その「うそんこ」に命を懸けるような人もあるんですね。命を懸けてうそんこをほんとっこにしようとする。ある意味壮絶です。前に書いた例で言えば昔の殉死とか。今の感覚で言えば「なんで~???」となるかもしれないけど,当時の人にとってはめちゃくちゃリアルな感覚だったのでしょう。想像ですけど。

 そういう意味で,定型もアスぺもうそんこの世界の仕組みを基本的なところではたぶん共有しているんだけど,でもなんかその使い方とか,使う場面とか,そのあたりで違いがあるんでしょうね。ひとつ思いつくのは「明確にルール化されたうそんこ」と「ルール自体があいまいでゆれうごくうそんこ」の違いが関係するかも,というあたりでしょうか。

 ああ,2億円欲しい…… いや,その十分の一でも,とりあえず2万でもいいけど (笑)


    

 
 
 



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2015年5月 5日 (火)

相手への注目と生き方のズレ

 定型が無意識のうちに使いまくっている,中間のあいまいな領域の意味と,その部分でアスぺの方と大きなズレが起こって相互に不信感が生まれる理由について,ちょっと考えることがありました。といっても定型アスぺの関係がスペクトラムだとすれば(これについてはまだまだいろいろ考えなければならないようですが),このあたりもいろんなレベルがありそうですし,ここでの話は分かりやすく両極で比較して考えたらどうなるかということに留まります。

 定型的な中間状態の意味については,これまで繰り返し書いてみたことを改めて書けば,お互いに関係を調整する必要ができた時に,自分の判断や行動の基準に,相手のそれを加味する形で変化・調整していって,うまくバランスをとる必要があるので,そのためにあいまいな状態を作って,動きやすくする,ということをほとんど無意識のうちにやっているのだろう,ということでした。

 また人によってその曖昧さの範囲は異なるし,また文化が違うと,日本社会のように曖昧さをベースにする傾向が強いところもあれば,逆に自己主張は明確化してその上でさまざまな妥協を政治的にやっていく社会もあるしという,そんな多様性もありそうです。が,いずれにせよ,そういう調整のプロセスではお互いの「(悪く言えば)腹の探り合い」~「(よく言えば)察しあい」といった「本音と建て前」や「暗黙のおもいやり合戦(?)」みたいなこともまたセットになって行われていくところは定型的なのかなという気がします。

 そしてこのあたりで定型アスぺ間のズレが大きくなっていきそうに思うんですね。中間状態を嫌うアスぺの方にとっては「腹の探り合い」~「察しあい」は「だましあい」に見えたり,正直さに欠けるように感じられたり,不誠実なやりかたに思えてショックを受けられる場合がある。逆に定型からすれば,そのようなプロセスを否定されると,全く融通が利かない,思いやりに欠けた,利己的なことにさえ感じられてしまう場合がある。お互いに容易に不信感が募る場面になり得ます。

 

 ということは,定型にとっての関係づくりにとっては,そういう中間状態を大事にする姿勢が重要になり,そういう姿勢を持てる人に対する評価が高まるでしょうし,安心感も生まれて来る。さらにこの人は自分に不利なことはしない,自分のことを考えてくれる人だと感じられれば,信頼感も出て来るでしょう。それは今どうかということよりも,将来への見通しみたいなもので,勝手な「期待」とも言えなくもありません。で,その「期待」が裏切られないように,たとえば「私はあなたを信じています」とか「あなたは私のかけがえのない友達です」とか,お互いに「期待」を語り合ってお互いに相手に枠をはめようとしたりもする。

 で,そういう形で「期待される」ことを,アスぺの方は結構嫌うことが多いみたいですね。私のパートナーとの間でもここでずれることがよくあるんですが,私は「私はあなたを信頼しています。あなたに価値を感じています。」という意味で褒めたり期待の言葉をかけたりすることがあります。そしてそうすることは相手にとっては「自分はこの人から信頼されている,認められている,受け容れられている」と感じられて嬉しいだろう,という思い込みがあるわけです。ところが彼女からは「そんなことを言われると負担だ」と返されてしまう。

 何度もくりかえされたことなので,いい加減私もそのあたり理解すればいいんですが (^ ^;)ゞ,どうも感覚的にそこがむつかしくて,ついつい「期待」や「信頼」を表明してしまうんですね。

 

Katzさんが「身の丈を超えた期待は重荷なだけですから。出来ない事は期待されない方がいい。」と書かれたのも,あるいはそういうことでしょうか。まあもちろん定型同士の関係でも一方的で過重の期待はかえって負担になったり,期待をかけられた人を損なったりもしますから,その気持ちは分らないわけではないんですが,少なくとも彼女の場合はそこはかなり極端な感じがしてしまいます。(もしかするとここも「二次障がい」にあたるのかもしれませんが)

 

 ですから定型的に相手に対する「期待」を語り合って,信頼関係を深めていき,そうすることで「信頼されていることに喜びを感じ,自分に価値を感じられるようになる」という大事な展開の仕方が,定型アスぺ間ではなかなか通用しないことになります。こちらは相手を力づけようとするつもりが,全然そうもならない。アスぺの方からすれば,そういう「期待」は,自分には関係ない,相手の勝手な思い込みにすぎなくて,そんなものを押し付けられても困る,ということになるのでしょうか。

 
 で,この部分にも,もしかすると昨日の記事「定型的信頼とアスぺ的事実確認」で考え始めたことが関わってきそうな気がします。つまり,定型間では「相手はどういう人で,何をどう感じ,考えているか」ということの判断がものすごく重要で,「相手は事態をどう理解しているか,相手は自分をどう見ているか」ということの理解が,定型的な信頼関係の形成や維持と切り離せない。でも,アスぺの方にとっては自分自身に見えている現実(「事実」)の方が重要で,「相手の理解」はもちろん,「相手の自分に対する理解」というものも,自分が理解できることはないし,理解したと思っても,それは自分の思い込みにすぎないのだから,そんなところで関係を作ることは無理(あるいは無意味),と感じられるのかもしれません。

 ちょっと単純化していえば,定型は「相手にとっての見え方」にかなり注目して関係を作ったり調整したりする生き方が重要なのに対して,アスぺの方は「自分自身の見え方」にもっぱら注目して行動を選ぶ,という生き方を徹底されているのかなと。そこでアスぺの方の世界観としては「相手にとっての見え方とか言っても,結局自分がそう思い込んでいるだけで,確かめようもないでしょう。すべては自分の見え方,判断に過ぎない」という理解になって,そこで安定される。で,相手の期待などは全て不合理な「押しつけ」にも感じられやすくなる。

 
 意識的か無意識的かはさておくにしても,「相手の見方」に注目するかあくまで「自分の見方」に焦点を当てるか,という姿勢の違いによって,人間関係の作り方は相当違ってくることになりますし,そこで「信頼関係」の作り方にも相当のズレが生まれてくるはずです。

 まだちょっと我ながらばたばたした感じの話になってしまいましたが,定型アスぺ問題も,その観点から考えてみることで,「生き方のズレ」の問題について理解が深まる部分がありそうな気がしました。

     
 
 
 



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2015年5月 4日 (月)

定型的信頼とアスぺ的事実確認

 またズレのはなしです。

 実家で母親の今後の介護方針などについて話し合ってきたのですが,有料施設入所が希望なので,その資金調達に,今住んでいる家を売る話になってきて,具体的にそのために動いてみる話になったんですね。

 で,家に帰って「もう家を売る方向で具体的に動くことになったよ」と報告したんです。そうしたら即座に「そんなの,まだ施設も決まっていないのに,売っちゃって住むところがなくなったらどうするの!」と真剣に言われました。

 思い返すとこれまでもこういうやり取りがよくあって,そのたびに私はびっくりしてしまって,「なんでこの人はそこまで私のことが信用できないんだろうか」と思って落ち込むわけです。「そんな馬鹿な売り方をするわけないでしょう。そういうことは考えてやる話なのは言うまでもなく当然じゃない」と思えてしまうわけです。「そこまで私は状況を理解できない人間だと思われているわけ?」と感じてがっくりくるんですね。

 で,今日は,ああ違うんだ,と思いました。

 私の場合は逆の立場に立った時は,「家を売る方向で動く」という話が出て,「施設入所とのタイミングはどうするんだろう?」と仮に疑問を持ったとすれば,その次に「この人はそういうことについてちゃんと考慮して動く人だろうか,それともそういうことに注意できずに突っ走ってしまう人だろうか」ということをほとんど瞬時に判断し,もし前者なら「直接言われていないけれど,当然そこは前提になっているんだろう」ということで安心して話を聞きますし,もし相手の人の評価について後者の可能性があれば,遠回しにそのあたりを確かめてみたりするだろうと思います。

 つまり,明言されていないことについて,「この人だったらどういう動き方をしているだろうか」という,「相手のこと」にまず頭が向く感じがあるんですが,彼女の場合はそこではなく,「自分が聞いた情報」それ自体に頭が向くんじゃないかと思ったわけです。それで,相手に言われたことの中に,自分が知りたい情報が入っていない場合は,そのままストレートに「そこはどうなっているのか」と尋ねる。特に自分が心配するような内容の場合は,そこに切迫感も加わることになります。

 ここも「クッション」の有無の話になるのだと思うのですが,ある内容を相手に尋ねるかどうかの判断について,定型の場合は「この人はそのことをあえて確認する必要のある人かどうか」という評価がほとんど無意識に入るので,そこをあえて意識的に尋ねるということは,相手を低く評価していることになります。逆に言えば尋ねられる方は「そんなことにも気が付かない人間」として見られたと感じ,質問自体で自分がけなされたり,叱責されたように感じるわけです。

 これも「相手に対する気遣い」とか「配慮」の「能力」に関する問題になりますよね。定型的な文脈では。で,アスぺの方はそこで往々にしてまず率直に自分の知らない情報を確かめようとされるので,その「気遣い」の部分が無視されたような感覚を定型が受けるのでしょう。でもそういうところで「なんて気遣いのない人だ」と責められたとしても,アスぺの方からすれば,「は?なんのはなし?」ということになるんじゃないでしょうか。

 クッションとか,中間の問題とか,曖昧さの問題とか,そのことには「相手をどう評価するか」ということについての判断の入り方の違い,ズレが関係しているのかもしれません。

   

 
 
 



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2015年5月 3日 (日)

投稿ガイドライン

先日このガイドラインをトップページにアップしたのですが,スマートフォン表示にはうまく表示させられなかったので,こちらに記事として掲載し,「カテゴリ」を使っていつでもアクセスできるようにしておくこととしました。



<「アスぺと定型」投稿についてのガイドライン>

 問題が深刻であればあるほど,この場は気持ちを楽に,お互いにおおらかな気持ちで,意見の違いも楽しめるくらいの場になってほしく思いますし,またお互いに前向きに「援助しあう」形になることが理想と思います。幸いにこのブログでは基本的にそのような姿勢を皆さんが持って参加してくださっています。

 しかし,ウェブはあらゆる人に公開されていますので,残念ながらそのようなブログの性格や趣旨についてご理解がない方から,唐突で著しく攻撃的なコメントが寄せられ,場が「荒れる」こともありえます。その内容や展開の仕方によっては,どちらの側の人にとっても,無用に傷口を深め,二次障がいと言われる状態や,カサンドラ状態など,傷口をさらに広げてしまう可能性があります。

 定型アスぺ問題は「相手の為によかれと思ってやることで,お互いに傷つく」ということもしばしば起こる厄介な性格があり,コミュニケーションの中でそのような事態を完全になくすことは不可能です。しかし,できる限りそのような事態の発生を回避する姿勢を持つとともに,仮に不幸にしてそのような事態が発生してしまった場合にも,できるだけ早くそのような傷つけあいは収束させ,逆にそこから学んで修復へとつなげるようにできればと思います。

 そこで,無用な「炎上」などを避け,真摯な対話の展開を大事にするために,以下のようなガイドラインを明示し,必要な場合には管理人としての最小限の介入をすることとなりました2015.4.20)。

 今後はコメントなどの投稿に際しては,以下のガイドラインにご注意くださるようにお願いいたします。このような決まりごとは,改めて大げさに書き立てたくはありませんが,大事な議論をのびのびと自由に展開していくための,最小限の工夫としてご理解ください。


Ⅰ 管理者の関わり方の基本姿勢


 管理者はみなさんの自由な意見や情報の交換を最大限に尊重したいと考えています。このため,仮に内容上,批判が起こりうるコメントであっても,


 1. コメントについて削除といったコントロールすることは原則として行わない

 2. コメントの内容についての問題指摘は,投稿者(私を含む)のやりとりにゆだね,管理人としての介入は可能な限り避ける

 といった姿勢で運営してきました。問題が起こっても,その都度参加者間の自由な議論の中で解決していくことを重視したためです。今後もこの基本的な姿勢は維持されますが,以下の点については御留意をお願いいたします。


Ⅱ 投稿時の注意事項


1. 発言者の同一性を大事にし,意図的な匿名による投稿等は避ける


 これは複数のハンドルネームを使って場を混乱させたり,ご自分の都合のよいときだけ匿名で書き込まれるなど,発言の一貫性を失うようなコメントを避け,お互いに責任を持って発言し,相手の疑問には可能な限り応答する姿勢を維持するためです。複数ハンドルネームや意図的匿名などの無責任なコメントは,ちゃんとした議論の積み重ねを不可能にします。


2.個々人が責任を持って発言する姿勢を維持する

 ここで責任ある姿勢というのは
自分の発言にたいする批判には可能な限り誠実に応答する対話的姿勢を意味します。また誠実に,というのは,相手の人の発言を自分の都合のよいようにねじまげて解釈し,非難することをせず,可能な限り相手の発言の趣旨を踏まえ,それに対して応答しようとする姿勢を保つことです。
 「好き勝手に相手を非難し,傷つけておいて,あとは何を言われても無視をしたり,知らないふりをして逃げ去る」という姿勢は,対話的関係を大事にするこのブログでにはもっともふさわしくないものとなります。

 3.投稿者の個人的体験で,関係ない人に八つ当たり的非難をしない


  定型アスぺ問題に関し,投稿者の経験したご自分のつらい体験を語られることは,ご自分の傷を見つめなおして癒す上でも,他の参加者が自分を考える上でも大事だと思いますので,この場でもそのような内容の投稿も大切にしていきたいと思います。
 ただし,そこで傷ついた体験は,あくまでその投稿者本人とその相手の方との間で生じた出来事だということを明確に意識しておく必要があります。そしてその個人的体験に基づいて,それとは直接関係ない他の参加者や「アスぺ全体」「定型全体」などを非難するような,八つ当たり的な投稿は決してなさらないようにお願いいたします。
 もちろん,自分自身の体験と,この場の参加者などの間に共通点を感じ,その共通点について議論をすべき場合はあります。その場合は,何をどうして共通と感じるのかについて,投稿者は可能な限り説明を尽くしてください。また異論があった場合には,それに対して誠実に答える責任を負ってください。その時点では応えきれない場合は,その旨断って,一時保留にさせてもらうという形はあってもよいと思います。
  その責任を放棄して一方的に相手を決めつけるような発言については,これも対話的姿勢を持たない,たんなる誹謗中傷や差別に当たるとみなされることになります

4.批判を行う際は相手に理解を求める姿勢を崩さない

  相手を一方的に非難したり,傷つけたりして自己満足に浸るような発言は問題外ですが,定型アスぺ問題を考える上で必要で大事な批判を行う場合も,あくまで相手に理解してほしいから批判する,という姿勢を最後まで維持してください。それはやはり「誠実な応答」を行うことによって可能になると考えます。
  もちろん,展開によっては一時的に感情的にそれがむつかしくなる場合もあるでしょう。その場合は一旦そう断ってやりとりを中断し,時間を置いて考えるなどの対応も必要になると思います。

Ⅲ 違反投稿への対処


 以上のような内容について,ガイドラインに反すると思われる投稿が見出された場合は,次のような対処が予定されます。

 1. 参加者間での問題点に関する質問


  私を含む参加者が,コメントの内容に疑問を持った場合,そのような疑問を持った参加者自身でその問題点を指摘し,投稿者の投稿意図を確認し,改善を求めることが出発点となります。その対象とすべき内容としては以下が想定されます。

  「相手を傷つけることが目的になっているもの」
  「根拠を示さずに一方的に行われる批判や決めつけ的な評価」
  「提起される疑問を無視して一方的に行われ続ける主張」

 定型アスぺ問題で自分自身がその相手の方によって傷ついた「恨み」を,この場で直接関係のないみなさんに激しくぶつけるような,「八つ当たり」的な書き込みは,上記のような問題を含む典型例になります。


 2. 投稿禁止の措置

 上記1.で他の参加者から指摘された問題について,投稿者から責任ある誠実な応答がなく,かつその後も同様の投稿が続くような場合に限り,私がブログの管理者としての判断に基づき,該当者からのそれ以降の投稿をご遠慮いただくなど,特別の措置をとります。匿名での批判的投稿については責任ある応答を行う対話的な意思がないものと考えられますので,基本的には削除とさせていただきます。必要に応じて名前(ハンドルネーム)をつけて再度投稿してください。

 以上,このブログではごくまれにに起こりうる事態を想定したものです。日常的にはこれまで通り,あまり肩ひじ張ることなく,自由で豊かな交流を続けていければと思います。ご協力をどうぞよろしくお願いいたします。

  
アスペの方向けの説明

 みるきさんから定型的なやりとりの基準,進め方の分かりにくさについて指摘があり,「こういうことだろうか」という問い合わせをいただきました。私の方はだいたいそんなふうなで理解ブログでのやりとりは進めているつもりなので,もしみなさんにも参考になるようでしたら,以下のみるきさんの翻訳版をどうぞご利用ください。

『○基本的には話をしたい本人同士、やりとりをしている当人同士で話しましょう

○アスペと定型はお互いにお互いの文章が分かりにくい、それが分かっているのだから、分かりにくかった場合にはすぐに思い込みで返事をしないで少し時間をゆっくりとってお互いに相手の言っていることがなんなのか考える時間をとりましょう

○時間をとっても何回やり取りをしてもどうもわからないときには、誰か分かる人に手伝ってもらうもよし、手伝ってくれる人が自分からはいってきてくれてもよし、そこで今はまだちょっとお互い理解は難しいですねーといったん離れるのもよしだと思っています

                                 
                              

2015年5月 2日 (土)

憎しみと我慢

 寄せられるコメントについて,ガイドラインに基づいて私がある程度の介入を行う形になりましたが,やはり大きなジレンマを抱えますね。

 定型アスぺ問題は,一旦こじれだすとちょっとやそっとの努力ではどうにも対処できなくなることが多いでしょう。というより,むしろ誠実に努力し出すと,かえってそれが問題を深刻にしていく場合も多いというような,そういうやっかいな問題でもあります。

 ネットで一生懸命この問題についての情報を探している方たちにも,いろんな方がいらっしゃるでしょう。その中にはこじれはじめたところで,今いろいろ考えたり工夫をしようとし始めた時期の方もあるでしょうし,すでにかなりの努力を続け,息切れしそうになりながらもなお希望を失わずに何かを求めている方もあるでしょう。

 自分としては考えられるあらゆる努力を続けた結果,もうぼろぼろになって力尽き,かすかに残った力で気持ちの整理をしようとされている方も,さらにはそのような経過を経て,すでに離婚その他で区切りをつけたあと,それでも残る割り切れない思い(「何で自分はこんな思いをしなければならなかったのか,なんでこんなことになってしまったのか」せめてその理由を知りたいという思い)を抱えてそこを考える手掛かりを探している方もあると思います。

 そういういろんなプロセスの中で,なんとかわかり合いたい,と自分なりに誠実に思って頑張るほど,多分避けられないのが怒りや悲しみといった負の感情の積み重なりで,それはやがては恨みや憎しみ,そして絶望といった厳しい感情にもなっていくだろうと思います。それはもう人間である限りは避けようもなく自然な出来事だとも思えます。

 傷ついて傷ついて,そういう思いを抱えてネットのいろいろな場所を訪れるわけですから,何か小さなきっかけがあれば,その負の感情が激しくあふれ出て来ることがあるのも,当然と言えば当然だと思うんです。

 性格的にそういう負の感情をあまり抱え込まず,普段からストレートに怒りを表現したり,愚痴をいいまくったりできるタイプの方なら,いつもある程度は発散できていますから,比較的まだそんなふうに「激しく溢れ出す」ことにはならないかもしれませんが,ある意味優しかったり生真面目だったりして,そういうことができず,「我慢」を続けるタイプの方は,どうにも処理できないその負の思いが体全体に満ちて,もうパンパンになってしまうはずです。そうなればほんの小さな穴が開くだけで,一気に思いが大噴出するもの当然でしょう。

 そう考えると,コメントで激しく相手を傷つけるようなことを書く方は,少なくともその一部は日常の中ではものすごくまじめで,やさしく,おとなしく,人を傷つけるようなことは決して言わず,たとえ問題が起こっても自分が悪いのではないかと考え,我慢しつづける,ということをやり続けてきた方なのではないかなと想像するんですね。

 そういう状況でどうしようもなく苦しみ続けてきた方にとっては,普段人に語ることもできず,あるいは場合によっては見つめることも,気づくことさえできなかったそれらの負の感情を見つめること,認めることがどうしても必要な出発点になるだろうと思うんです。激しい怒りや憎しみこそが,次を生むための欠かせない手掛かりになるはずだと。


 というようなことをなんとなく思ってしまうので,これまでもこのブログでそういう種類(と思われる)攻撃的なコメントが投げつけられた場合も,頭から批判することになにかためらいを感じ続けました。それは私がそういうコメントに賛成しているわけでも,その内容を容認しているわけでもないんだけど,ある意味ではそこから出発しない限り,その人にとっての解決は生まれないように感じてしまうからです。

 その結果,そういうコメントがあると,そのたびに炎上しましたし,そしてそのたびにアスぺの方の一部からはパンダは普段かっこをつけてアスぺに理解があるようなことを言いながら,実際はアスぺが傷ついても平気で,定型に味方をする人間だ,というような激しい非難の言葉を投げつけられましたし,また逆に一部の定型の側からも,お前はアスぺのひどさを本当に分っているのか,というような非難を受ける形になりました。

 それでもなんとかもう少し広い目で事態を見つめてくださった多くの参加者の方とのつながりがだんだんと深まり,拡がり,最近はほんとうにお互いに信頼関係を持って助け合う雰囲気まで出来てきた段階まできて,その状態を大事にし,いらずらにお互いの傷口を開き合うようなやりとりは避けるべきだろう,という思いになって,今回,ガイドラインのようななものを作って,最小限の「管理的」な介入をすることにしたわけです。


 でも,そうすることで,「怒りや憎しみを認めることこそが出発点」という,ある意味で矛盾したことが変るわけではないですし,「管理的な介入」はむしろ「怒りや憎しみの表現を認めない」ことにもなりうるわけですから,その大事な「出発点」を否定することにもなりかねないわけです。そういうジレンマを抱え込んでしまって,そこはなかなか解決はむつかしいですね。
 その点ではアスぺ父を持つ娘さん(現あんこさん)の掲示板での手記は,私にとってはちょっと奇跡的とも言えるような出来事でした。多分多くの方にとってそういう意味を持っただろうと想像します。それは激しい怒りや憎しみをごまかすことなく表現されながら,でもそれで関係ない人を一方的に傷つけることがなく(たぶん),むしろ様々なことを真剣に考える手掛かりがそこで提供される,という稀有の手記だったように感じられます。

 どうしたらそういうことが可能になるのか,ということを改めて思いますし,それを今,どうしようもない怒りや憎しみを抱えてだれかにそれをぶつけたくて仕方ない方にも意味ある形でどう伝えられるのか,ということも考えます。ほんとにむつかしい問題です。

  
 
 
 



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2015年5月 1日 (金)

アナ雪とアスぺ

 なんだかここにきて,みなさんのコメントが急速にシンクロしはじめたような気がしています。ポイントはやっぱり「キャラ」の問題のように思います。

 あすなろさんが「アナ雪」について紹介してくださいました。私はまだ見ていないので,以下はあくまであすなろさんが紹介してくださったものを私が想像して理解した話でです。

 あすなろさんが「これって,アスぺ定型問題を象徴してるんじゃないかと,今,思いましたね」と書かれていますが,この筋立てだと,まさにそれそのものの感じですね。ボーダーの方も定型的な人間関係に対してはある種破壊的な力を発揮されたりしますが,そちらの方は「炎」のような激しさに思えますから,この「氷」という比喩はまさに「定型から見たアスぺ像」の一種としてぴったりの感じになります。

 しばしば定型からアスぺの方に対して言われる「冷たい」「感情がない」「思いやりがない」「心がない」などの評価がそれになります。(実際は心も感情も思いやりもどれもちゃんとあるのに,その形がアスぺ的だと,定型にはとても理解されにくくなってしまう結果なわけですが)

 それで,エルサが人を避けてこもることでありのままの自分を得るというのも,定型アスぺ問題の中でアスぺの方が辿る典型的な展開そのものです。

 映画では姉妹愛によってエルサの氷の力が変化するという解決を描いているようですが,これは定型的な視点で「これが解決だろう」とイメージするパターンそのものですね。そうならアスぺの方からは「そんなのおとぎ話」だと批判される可能性を感じます。

 実際にわとりさんからは

「(エルサのように)力を抑え込んでいる『自分』が、いつの間にか『ありのままの自分』になれるかはお話を伺うと難しいそうですね…。その前に力を抑えこむ技術がないですが、仮に技術があったとしても、抑えこむのに相当なエネルギーを使い、それだけで頭の容量を使い果たしてしまうと思いますから、自分の精神が持つかは自信ないですね。」
「>エルサが定型だった場合、両親から『その力は良くない』 と言われれば、自分でそれを気にならない程度に抑え込むことができるわけです。
両親からこんなこと言われたら私は今以上に異常者になってしまいそうです。」

 という感想が寄せられています。

 なぜその解決のさせ方が問題になるかといえば,やはりそれは「定型が望むキャラ」になることに逆戻りしてしまうだけだという可能性が感じられるからなのでしょう。あすなろさんが書かれているように,定型の場合はそういう相手が望むキャラがいつの間にかありのままの自分につながってしまう可能性があるわけで,そこで多少無理があったとしても,それは「愛の力」で乗り越えられる(あるいは乗り越えるべき)と考えられたりもする。でも,にわとりさんが書かれるように,それが想像を絶するような困難なことだ,という話です。

 多分同様な問題を(だと私は理解したのですが)Keiさんはこんな風に表現されました

「そしてこの最後の「共依存」一歩手前で、素直な自分を抑圧することなく「ありのままの自分を受け入れてあげてるフリをするキャラ」を演じるのですが、毎日ぐったり疲れます。これを乗り越えるのはやっぱり「人間」には無理ですね!」

 定型にとっては,相手と関係を調整する中で,「演じる」意識も持たなくていいような「自然な振る舞い」として作っていく部分が,アスぺの方にとってはいつまでも意識的に努力して演じ続けなければならない不自然な「キャラ」であり続けるのです。

 もしそうだとすれば,アナ雪のエルザも,アナの愛で定型好みのキャラを演じるようになったとしても,それだけに留まれば新たな苦悩の連続になってしまうでしょう。

 ドナ・ウィリアムズさんの自伝は,まさにそういうキャラづくりによる必死の適応努力と,それがなお生み出す新たな混乱の記録そのものになっています。




 Katzさんはそこで「守破離」という考え方を披露してくださいました。(ただしネットで見てみたら,これは世阿弥というか観阿弥の言葉ではないみたいでした。花伝書にあるのは「序破急」の方で。)

 これは修業のプロセスを表しているようで,いくつかの解釈があるみたいですが,分りやすいのとしてはまず師匠の言うことをしっかりと身につけ,言われた通りの型を身に着けていく(守)。次に他の流派を学んだり,自分独自の工夫を加えたりして,その型を破って新しい境地を探していく(破)。やがてそれらの意識的な努力が極限まで突き詰められていくと,もはやいずれの型も自在にこなせるようになって,意識的な努力を離れて自然体でそのまま自分の世界を作れるようになる(離)。というような解釈でした。

 ここでいう「型」をキャラと読み替えれば,定型アスぺ問題でアスぺの方がシビアに経験される経過(あるいは求められる経過)を表しているのかもしれないわけですね。まずはひたすら定型に合わせたキャラを作らされる。でもそれには耐え切れず,そのキャラを破って自分自身に戻ろうともがく。この二番目の段階で,定型アスぺ間の軋轢はものすごく激しくなることになります。

 自分であろうとすればキャラを否定しなければならず,そうすると定型社会では定型と折り合いがつかなくなるので,争いを避けようとすれば引きこもらざるを得なくなり,あえて定型社会で自分を貫こうとすれば激しく攻撃的になって相手を屈服させることで自分を守らなければならなくなる。

 一部の方はそこで自分の感情とは切り離した定型向けキャラや高度なコミュニケーション技術を修行で身に着けることでその両極端のどちらかに振れることは避けて,ある程度うまく「適応」されるものの,それが自分にとってはかなり無理をした不自然な努力によってかろうじて支えられるものだ,という点は変わりない(そしてその無理の反動がまた家庭内での定型アスぺ問題につながったりもする)。



 Katzさんはその次のステップ,「離」を重視されています。そしてそこに進むために,定型から無理やり押し付けられた「型」を否定する(破)だけではなく,そこでKatzさんは自分自身の常識をも否定してみることの大事さを書かれています。

 定型から強要されてできた「型」(キャラ)が,それ自体変化し,発達していくものであることは,ドナ・ウィリアムズさんの自伝(「自閉症だったわたしへ」の一冊目)にもいろいろ書かれています。3歳以降に作られた,外向きの明るいキャラであるキャロルと,冷静(冷徹?)に事態を分析して対処するキャラのウィリーの関係自体が,定型社会との関係の取り方の変化に対応して,だんだん変わっていくんですね。だから,作られたキャラは決して固定して動かないものではなく,そこにもひとつの変化の可能性がある。

 では「自分自身(の常識)」の方はどうかというと,こちらもまた変化の可能性が実はある。Katzさんは歴史を眺めて「常識を壊す気分を一度味わってみる」という方法を提案されています。そうすることで今まで自分がとらわれていた常識を,違った目で見直すことが可能になると言われている(のだと思います)。



 なぜそんなことが可能になるのか,ということについてはKeiさんの議論が重要だろうと思います。

定型が「スペクトラム」として感じている「<<<<<」をアスペに押し付ける。もしかしたらそれは「善意」や「思いやり」の形をとったかもしれないが、それはアスペにとっては「自我への攻撃」になった。そしてその対抗措置として築いた「防壁」(というより実体のないプラズマみたいな?)が「ありのままの自分」なのではないでしょうか?」

 
 「ありのままの自分」(そしてそれが持っている常識)というのは,もとから確固として自分の中にあったかのように感じられているかもしれないけれど,実はそれ自体が定型からの圧力から自分を守るために作られた「形(防壁)」なのだろう,というわけです。

 ということは,そこでいう「ありのままの自分」もまた,定型との関係が変っていけば,変化していくものだということになります。そしてこの問題については,Katzさんはこんな表現をされています。
 
 「あすなろさんのおっしゃる「ありのままの自分がわからない」というのは、非常に重要だと思います。社会から刷り込まれた常識ではないかと疑い始めたら、ふらっと自分探しの旅に出かけて掴めてしまうような簡単なモノではありませんよね。」


 Keiさんが「対抗措置」と書かれている部分が,Katzさんでは「社会から刷り込まれた常識」という形で表現されていると私には思えるのですが,そうであれば,「ありのままの自分」を見つけることなど最初から困難ですし,さらに突っ込んで考えれば,Keiさんが問題にされるように,そもそも「ありのままの自分」など「実体のないプラズマ」のようなものではないのか,という話になっていくわけです。逆に言えばそこに「変化の可能性」が見えて来る。




 さて,もしみなさんのコメントを,そんなふうにつないで理解してみることがある程度可能だとすれば(味噌くそいっしょにするな!というお叱りもあるかもしれませんが (^ ^;)ゞ),アナ雪で批判を呼んだという結末とはまたひとつ違う展開を考える可能性が出てくるのではないでしょうか。

 具体的にそこで何が可能なのかについては私はまだ見えてきませんが,少なくとも問題を見つめなおし,次のステップに進むための大事な視点の一つが,みなさんの議論の延長上にそのうちもう少しはっきりと見えてくるのではないかと思えます。




 
 



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