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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月19日 (日)

「相手と一緒に考える」こと

 

コアラさんから

「定型の側の感覚を書かれた部分は、わかる部分もあれば、うまく掴めない部分もありまして(^^;) もし差し支えなければ、より具体的に教えていただけると助かります。」ということで,
次のような問いかけを頂きました。

 私は記事「調整の仕方」の中でアスぺの方が自分の中で問題を解決しようとする傾向が強く,「定型は,もう少し「相手と一緒に考える」という姿勢が強い」と書いてみたのですが,そこについて,

 「この部分です。結果、定型の方はどのような行動をされるのでしょうか?」

 というのがコアラさんからの問いかけです。記事「アスぺの方はどこまで定型に迫れるか?」にちょっと書いてみましたが,定型の側から定型的な「共感的理解」でアスぺの方の生き方について想像してみて,その理解を(少なくとも一部の)アスぺの方に「たしかにそんなこと」と感じていただけることが,少しずつはでき始めているように思えます。

 少なくとも定型アスぺはお互いに「宇宙人」で「理解不能」と頭から決めつける必要はないし,さらなる模索への共通の小さな足掛かりが見つかりつつあると感じられるところまでは来ています。

 では逆にアスペの方から定型の生き方について,「なるほどそういうことか」と実感していただき,また定型から見ても「伝わった」と感じられるような理解は,どうやったら,どこまで可能になるのか,ということが,このブログで次に模索する課題のひとつに浮かび上がりつつあるように思ったという話でした。

 コアラさんの問いかけはまさにそういう模索のひとつと思えます。とりあえずその模索の一つとして,私が関連して考えたことを書いてみますが,コアラさんの問いかけのポイントを外してしまっているような気もしますし,かみ合っていないと感じられればどうぞ教えてください。


 この問いかけにさっそくあすなろさんからは次のような説明がされています。

 「私の感覚では、相手に評価を求め、その評価次第でやり方を変える。という感じがします。褒められたり、認められれば、良し。逆に批判されれば、自分が良いと思っていても、そのままではいけない。」

 「相手と一緒に考える」ということの中には,「自分自身の考え方や行動について,相手の人との関係で調整をしていく」ということが含まれてきますから,あすなろさんの書かれていることは私もそうだろうなあと思います。

 その上で,じゃあなんで「相手に評価を求める」とかそれに応じて「やり方を変える」とかする必要があるの,そして相手の評価によっては「自分がよい」と思っていても,それを変える必要があると感じるのかということが次の問題になるかも。

 もしかすると,アスぺの方から見ればそれは人に振り回されていることで,自分を見失うことだと感じられるのかもしれません。自分が感じていること,考えたことは,人が何と言おうが事実で,もちろん人から言われて自分が納得すれば,それは「新しい自分の判断」となって以前の考え方を変えることもありうるけれど,自分が納得もしていないのに相手に合せるのは不誠実でおかしなことだ。と思えるかもしれません。

 私も定型の中では自分の判断にこだわる父親譲りの頑固者ですから(^ ^;)ゞ ,もしアスぺの方がそんな考え方をされているとしても,それはわかる感じもします(その辺は私がアスぺの方に共感しやすい部分かも)。

 ただ,定型の場合,そこにやっぱりもう一つのポイントが加わると思うんですね。それは「一緒にそのことをやっていく仲間を作り,維持していく」こと自体にすごく価値を置き,そのためのいろいろな工夫を続ける,ということです。


 そのことを説明するために,人が具体的に誰かと一緒になにかをする,というためには何が必要かから考えてみます。

 まず「何を一緒にして,何を達成するのか」という「目標」みたいなものがある程度共有される必要があると思います。

 それから,その「目標」を達成するためには,何が必要なのか,という「手段」みたいなものについての理解も共有される必要があります。

 また,何が必要なのかを理解するためにも,今の状態は目標と比べてどうなのか,ということについての「評価」みたいなものが共通認識になっていることも必要でしょう。

 そしてその手段を使って,現状から出発してどう共同して目標を達成していくか,お互いの協力関係を成り立たせるためには,お互いの「役割」分担などを決め,やりとりの「ルール」を定めておく必要もあります。

 目標を設定して,現状を評価し,その間を埋めて目標を達成するための手段を決め,ルールに従いながらお互いに役割を持って実行していく,ということで「一緒に何かを達成する」ということが可能になります。

 こういうプロセスが必要という発想自体は,アスぺの方でもそれほど違和感なく理解可能ではないでしょうか。そして定型アスぺ間で比較的理解が共有できる部分かもしれません。

 けれども定型の場合,ここにもう一つの要素が重要なものとして加わってくるように思います。それはそういう具体的な行動を一緒にやっていくために,「相手との関係を作ったり,維持したり,深めたり」という,「人間関係づくり」に関わる問題です。



 以前Katzさんがこのことについて,「一体感」という言葉を使いながら,こんなことを書かれていました。

「言ってしまえば、「一緒にやっている感覚」が大事なら、それを「目的の一つ」として掲げてしまえばいいのではないかと。裏の目的として隠してしまうから、アスペ側からわかりにくくなるのではないかな、と…。明確にぶちあげるならやり方はあると思います。勿論、何を共有しようとしているかにもよりますが。こんな事を考えるにも理由がありまして、IT技術の方面で、まさにそういう事が議論されています。プロジェクト管理という分野なんですが。その筋の参考書など色々漁ると「達成感を演出する事でチームの一体感を醸し出す」というような話が出てきます。しかもこれが重要な要素として挙げられているんですよね。管理方法にも流派が色々ありまして、違う事を言っている流派もあるんですけども」

 拝見していて,なんか面白いなあと感じたのですが,何を特に面白いと感じたかというと,「一緒にやっている感覚」というのが「裏の目的として隠されている」と感じられる,その感じ方でした。

 定型的にはたぶんそれは裏でもなんでもなくて,「一緒になにかをやる」ときにごく自然についてくるものという感覚があると思います。その一体感の部分をどこまで重視するかは時と場合によって様々なのですが,ちょっと単純化していうと,定型が人と何かをやっていくときには次の二つのことが同時に絡んできていると思います。

 <一緒にやることで「自分の目標を達成する」こと

 <目標を一緒に達成するような,「助け合う仲間を作る」こと>

 自分の目標を達成する,という目標(ややこしい!
)だけだと,一緒にやるのはあくまで自分の目標達成の為ですから,目標が達成すればその関係はおしまいですし,目標が達成できなければその関係は無意味です。それは自分の利益のためにやることですから,それだけが目標になる場合は相手はそれに利用される(あるいはお互いに利用しあう)関係で,「現金」で「冷たい」関係ともみられるでしょう。大事なのは利益の計算になります。ここだけを強調する姿勢は,「非人間的」と理解されることにもつながります。「銭ゲバ」の世界(古い!)ですね。


 他方で仲間づくりだけが目標になるという極端な例を考えてみると,別にその仲間で何か具体的なことを達成する必要はないことになります。もちろん,その仲間関係をベースにして,いつか目標が共有されて,一緒に何かを達成することがあるかもしれませんが,それはおまけのようなもの。仲間を維持するためには,個人的な利益を度外視することも必要になります。極端な場合は自分の命をなげうつことも必要と考えられる。相手に対する「信頼」をベースにした「一体感」のある,「厚い人間関係」の世界,という評価にもなります。

 実際の人間関係でそのどちらかだけ,ということはあまり考えにくく,多かれ少なかれ両方の要素があって,ただその二つの要素がすごく矛盾し,対立してしまうときに,どちらを優先するかというところで違いが出て来るということでしょう。またビジネスの世界は前者が優先されやすい世界でしょうし,家族とか友人とかの関係は後者がかなり重視される世界とも言えます。

 それで,Katzさんのお話は,経営という,前者の論理が強い世界の話に,後者の話が「裏の目的」としてこっそり紛れ込まされている,と感じられたのではないかと想像します。だからそれをもっと「表の目的」にして,前者の世界に入れ込めば話はすっきりするはずだと。



 けれども,定型的な感覚からすると,それだけでは済まされないものが残る気がします。なぜかというと,人が生きていく中でそういう「目標」というのはそんなに明確になることは多くはないと思えるからです。

 それこそ極端なことを言えば「人はなんの為に生まれ,何のために生きているのか」という問いに,万人に通用し,実感される「究極の答え」がないように,人間というのはよく分んないけど,とりあえず生きているし,死にたくないし,生きているならできれば苦痛は避けたいし,喜びを得たいし……。

 じゃあどうすれば苦痛は避けられて,喜びを得られるかというと,それも「これが唯一の正解」みたいなものもなくて,時と場所と人によっていろいろだったり,というような,かなりあいまいなことで日々を送っているんだと思います。

 もちろん長期的な目標を立てたりすることもありますけど,それも常に安定するわけでもないし,じゃあその目標の意味(目標をたてる目標)は何なの?とさらに問い続ければ,結構すぐに答えに詰まってしまうでしょう。「人類の未来のために」とか大仰に考えたとしても,そのうちいつかは人類も滅びるのは絶対に避けようのない生物の必然ですし,さらにはこの宇宙だって有限なのですから,そこに「究極の意味」を探してもむつかしい。まあ人生そんなものだという気がします (笑)



 そういうあいまいな状況の中で,ひとはその時々でなにか目標を見つけることもあるし,それに向かって意識して努力することもある,というのが実情でしょう。経営ではそのもともとあいまいな目標を,可能な限り計算できるものにして,意識的に追及する努力をするのだと思います。もちろん,その経営目標だって,実際は常に世の中の動きや会社内部の状況の変化に晒されていて,いくらでも揺れ動くし,潰れちゃうことだってあるわけです。

 そういう先の読めないあいまいな状況の中で,個人として生きていくのには限界があります。だからどうしても助け合いが必要になる。そうやってここまで何とか生きてきたのが人間の社会なんだろうと思います。

 そうすると,「まず目標があって,そこに人が意識的に集まる」というのではなく,「もともと集まりがあって,そこにその時々で目標が共有されていく」という形がおのずと出来上がっていっているのだと思います。そしてアスぺの方が重視しやすいのは前者で,定型がこだわりを持ちやすいのは,その後者の方なのでしょう。

 
 というふうに考えてみると,定型の方は,場合によって個人的な見方や感じ方,そして利益を犠牲にしてでも,「関係を維持する」ことを優先する場合も出て来るし,お互いにそれをやりあう関係をできるだけ多く作ろうとしたり,あるいは深めようとしたりする傾向が強いのだと思います。それはもう感覚的にそうなので,それができないと不安になる。アスぺの方から見ると,定型は「群れたがる」と感じられることがしばしばあるようですけれど,それはベースにはそういう「不安」があるんだと思います。逆に言えば「群れる」ことに「安心」や「喜び」を感じやすいようにできている,というか。それが生きていく上でとても大事なので。

 そうすると,そもそも目標などもあいまいな状態から「一緒に考え」ること,また一旦共同で何かをすることが始まっても繰り返し「一緒に考え」ることがとても大事になります。定型が「報連相」を重視するのも,「一体感」を重視するのも,そこにつながる問題のはずです。


 というふうに,とりあえず理屈ではある程度説明できるかもしれないのですが,こういう説明の仕方がコアラさんの問いかけに対して,適切な応答になっているかどうかは全然自信がありません。仮にある程度は理解して頂いたとしても,それも「理屈としては頭ではある程度わかる」ということに留まるような気もします。(ま,そもそも理屈としても成り立っていない可能性もあるわけですが (^ ^;)ゞ)

 それに,ここではとりあえず定型の特徴としてつながりの有無が安心感や不安につながると書きましたけれど,じゃあアスぺの方が人とのつながりに安心感を持たないのか,人とつながれないことに不安感を持たないのか,ということについても,もっと考えなければいけないことがたくさんあるような気がしています。 

 そのあたり,また皆さんのご意見や感想などもうかがいながら,ぼちぼち考えていければと思いますので,とりあえずはこんなところで……

 

 

 

 

 
 
 



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コメント

非常に丁寧に説明してくださり、ありがとうございましたm( )m

>アスペの方から定型の生き方について,「なるほどそういうことか」と実感していただき,また定型から見ても「伝わった」と感じられるような理解は,どうやったら,どこまで可能になるのか

質問したものの、お恥ずかしながら↑この発想が自分の中になかったので、読んでいてハッとしました(^^;)いつもパンダさんからは↑をしてもらっているのに、スミマセン!
それで今気づいたのですが、「アスペ側が定型の感覚を分析して「なるほどそういうことか」と実感するという事」の必要性を、私は全く感じていなかったようです。こちら側の感覚を伝えるばっかりで。。。その原因についてはまたゆっくり考えてみます。


記事の途中で何度か、アスペ側の感覚を書かれている箇所がありましたが、まさに図星で笑ってしまいました(笑)
定型の側の感覚に関する部分は、まだ完全には消化できていないので、ゆっくりと繰り返し読んでみようと思います。
私は昔から、距離を縮めてこようとする相手に対して「魂胆」を見抜こうとしてしまう所があり、もし定形の側の感覚を実感できれば、そのような癖もなくなるのかな?とも思いました。

>「一緒にそのことをやっていく仲間を作り,維持していく」

定型側のこのような感じは、なんとなくこれまで見てても感じ取れます。
ただ、何というか…これをするにしても定型側は「人を選んでいる」ような、悪いイメージの見方を自分はしていました。そりゃ誰しも、多少は人を選んで行動しますが…。定型側を否定している訳じゃないんです。うまく説明しきれないので、もう一度考え直してきます。
「違い」から生ずる「誤解」の一つではあると思うのですが。。。

>アスぺの方が人とのつながりに安心感を持たないのか,人とつながれないことに不安感を持たないのか

毎度、私の場合シリーズです(笑)
わざわざそれを噛み締めたりはしないけど、安心感はあります。そして、一人でも安心できる存在があれば(←これがゼロになった事はないので、完全に一人になった場合はわかりません)他とあえて繋がらなくても平気なので、不安感はありません。
  

ふと思ったのですが、よく定型側からアスペ側への気持ち(不満も含む)はよく目にしますが、その逆はあまりないように思います。違う側からの意見や感じ方を聞けるのは、少なくとも私にとってはとても有り難く、参考になるものです。同じように定型側の方も、そう思われるのでしょうか?(アスペ側からの気持ちを聞きたいと)

コアラさんの

>定型側は「人を選んでいる」ような、悪いイメージの見方を自分はしていました。

発達側からの発言をさせていただくと、人を選んでいるというよりは「マウンティングしている」印象があります。
もちろん上下関係によって対応は変わるのは当然ですが、多数派にはやさしいけど少数派にはとことんえばるような行き過ぎた態度をとる人もいるので。
発達だけでなく、アトピーの人とか異民族に対する扱いとか、見た目や肩書きなど。
(コアラさんが仰っている意味とずれていたらすみません)。
もちろんそんな人ばかりではありませんが。


>アスぺの方が人とのつながりに安心感を持たないのか,人とつながれないことに不安感を持たないのか

人とつながれないことに不安感は孤独感はあります。しかし人間関係がうまくいかない以上はつながる方法がありません…。
掲示板の方でpopolpnさんからも言われましたが、発達障害もあまりに重症だと(問題点はアスペと定型間のズレだけではなく、発達ゆえのドン臭さや天然バカも加わるので)わかり合うことは難しいのかもしれません。
(パンダさんたちのことを言ってるのではなく、一般社会で生きていく以上は)


コアラさんの
>定型側からアスペ側への気持ち(不満も含む)はよく目にしますが、その逆はあまりないように思います。違う側からの意見や感じ方を聞けるのは、少なくとも私にとってはとても有り難く、参考になるものです。同じように定型側の方も、そう思われるのでしょうか?(アスペ側からの気持ちを聞きたいと)

発達障害者が不満を言ったら定型者側から総攻撃を受けるから黙っているしかないように感じます。

コアラさん

>ふと思ったのですが、よく定型側からアスペ側への気持ち(不満も含む)はよく目にしますが、その逆はあまりないように思います。違う側からの意見や感じ方を聞けるのは、少なくとも私にとってはとても有り難く、参考になるものです。同じように定型側の方も、そう思われるのでしょうか?(アスペ側からの気持ちを聞きたいと)

 はい,非常にそう思います。このブログがこんな形で成り立っているのも,どちらの側からの感覚も教えていただけるからです。私にとっては驚くような発見の連続ですね。是非出し惜しみせずにいろいろ教えてください (笑)


にわとりさん

>人とつながれないことに不安感は孤独感はあります。しかし人間関係がうまくいかない以上はつながる方法がありません…。

 やはりそんな感じもあるんですね。このあたりはちょっと丁寧に考えてみたいところです。

>掲示板の方でpopolpnさんからも言われましたが、発達障害もあまりに重症だと(問題点はアスペと定型間のズレだけではなく、発達ゆえのドン臭さや天然バカも加わるので)わかり合うことは難しいのかもしれません。
(パンダさんたちのことを言ってるのではなく、一般社会で生きていく以上は)

 障がいの重さとかいうことだけではなくて,どちらの立場でも世の中には分ろうとしない人やわかりたくない人もあるので(そうしないと自分が守れないとか),そこにあまり気持ちをとらわれすぎても,消耗するばかりでしょう。

 とりあえず可能性のあるところから,少しずつ理解の実績を積み重ねていくのが現実的だと思います。そこで今より一歩可能性が広がれば,そこからまたその周囲の人たちにも理解が広がることもあり得ますし。

 焦っても結果は得られませんし,地道に進むしかないでしょうね。

>発達障害者が不満を言ったら定型者側から総攻撃を受けるから黙っているしかないように感じます。

 これも重要なポイントと思います。パートナーからもしばしばそういう趣旨のことを聞かされています。

にわとりさん  

>もちろん上下関係によって対応は変わるのは当然ですが、多数派にはやさしいけど少数派にはとことんえばるような行き過ぎた態度をとる人もいるので。
発達だけでなく、アトピーの人とか異民族に対する扱いとか、見た目や肩書きなど。

はい、そういった意味です(^^)
ひとまずそういう話は抜きにして、定型の側との違いを感じないといけないのはわかっているのですが…。いつも抱いていた思いを正直に言うと、「異質な者に対してとても敏感で、涼しい顔をしながら平気で除け者にする」人が一般的な定型側に多いような気がしていました。なので「一緒に」とかいう言葉にも矛盾を感じてしまって、しっくりこないのかな?と思います。引き続き、考えてみます。

 
パンダさん

そう言っていただきホッとしました!私はどちらかというと、失礼を顧みずに思ったことをすぐ述べるタイプですが、にわとりさんのように「発達障害者が不満を言ったら定型者側から総攻撃を受けるから黙っているしかないように感じます。」と思われる方も多いんじゃないかなぁ?と思っておりましたので。
お互い感覚が「違う」のだから、争っても「戦争」と同じで、無意味だと思います。
建設的な話し合いを前提とした上で、アスペ側からも気兼ねなく、正直に思っていた気持ち等をこちらで話したり出来たらいいなぁと思います。

コアラさん

>建設的な話し合いを前提とした上で、アスペ側からも気兼ねなく、正直に思っていた気持ち等をこちらで話したり出来たらいいなぁと思います。

 ほんとにそう思いますが,それをどうやって実現できるのかが定型アスぺ問題のひとつの山場なんでしょうね,

 なにしろみんな深く傷ついて,ようやく薄いかさぶたで耐えているか,あるいは生々しく血を流している最中か,そんなことだったりしますから,ちょっとした刺激でまた傷口が大きく開いて大出血ということは簡単に起こってしまいます。

 自分の痛みが大きいほど,往々にして人の痛みを感じることがむつかしくなりますし,当然相手の立場にたって,その視点から考えてみることも困難になる。困ったことですけれど,それが弱い人間の現実でもある。

 まあ,でもこの場は幸い,定型の側ではアスぺ父を持つ娘さんとか,アスぺの側ではにわとりさんとかのように,ほとんど息をのむような厳しい人生を送ってこられた方が,それでもなお自分を相対化して,相手の視点から<も>問題を考え直そうとされていますし,他の皆さんも多かれ少なかれ,通常の定型間の関係では想像できないくらいの修羅場をくぐりながら,なお「もう一つの見方」の可能性を求められている。

 そういう思いがしっかりとこの場を支えているように感じますし,そのあたりについての不安感は,基本的には今の私にはあんまりありません。以前に何度か炎上した時はそこの信頼感自体がいつも揺らいでいましたけれど (^ ^;)ゞ コアラさんやみなさんのおかげだと思います。

 なんにせよ,無駄に傷口を開くようなことなく,なおかつごまかすこともなく,気兼ねなく正直にお互いの思いを語り合い,受け止めあえるような,そんなやりとりの仕方が工夫されていくといいですね。たぶん,なんか方法というか,こつというか,そういうものがあるんだろうという気は漠然としますが。

 

コアラさんありがとうございます。

そうなんです。
定型者と発達障害のズレから来る問題だけではなく、少数派に対する排斥が根本にあるような気がしたのです。

実際に疑念が確信に変わったのは、アトピーの知人、お母様が自殺された知人がいたのですが、今まで普通に接して来た人が心ないことで中傷された話を聞いたからでした。


パンダさんありがとうございます。

>障がいの重さとかいうことだけではなくて,どちらの立場でも世の中には分ろうとしない人やわかりたくない人も あるので(そうしないと自分が守れないとか),そこにあまり気持ちをとらわれすぎても,消耗するばかりでしょう。

気持ちをとらわれすぎてるのではなく、気持ちが容量オーバーしてます。
コップの水はいつか溢れます。
私は心ない人をスルーできる程に強くなれないし、優しくなれないです。

>とりあえず可能性のあるところから,少しずつ理解の実績を積み重ねていくのが現実的だと思います。そこで今よ り一歩可能性が広がれば,そこからまたその周囲の人たちにも理解が広がることもあり得ますし。

豆すけさんの発言とpopolonさんの支援を受けろ発言に心が折れました。
アドバイスくださったのにすみません。

パンダさん宛の返事はパンダさんを非難したような形になってしまいましたね。すみません。
パンダさんを非難する意図はないので、そこだけはわかって下さい。

失礼しました。

にわとりさん

>パンダさんを非難する意図はないので、そこだけはわかって下さい。

 あ,全然そういう意図は感じていませんでした。
 むしろそれほどつらい状況を生きてこられたことを改めて感じました。
 コップの水があふれる話,とてもリアルです。

 

 
 

パンダさん

>なにしろみんな深く傷ついて,ようやく薄いかさぶたで耐えているか,あるいは生々しく血を流している最中か,そんなことだったりしますから,ちょっとした刺激でまた傷口が大きく開いて大出血ということは簡単に起こってしまいます。

ここを読んでまたハッとしました。そうですね。人それぞれ今の状態は違うのだから、理想と現実をきちんと理解した上で発言しないといけないなと思いました。ついつい自分の感覚だけで考えてしまう癖があり、こういう部分がKYだと思われているのかもしれません(^^;)ありがとうございます。


にわとりさん

>気持ちが容量オーバーしてます。コップの水はいつか溢れます。

にわとりさんが本当に辛い状態であると痛感しました。
人は誰しも、定型アスペ関係なく弱いから…同じような状況に置かれたら、にわとりさんと同じような苦しみを感じると思います。なので、にわとりさんが弱いとか優しくないとかじゃないです!そんな辛い状況で、お仕事に行かれているだけでも「すごい!」と心底思います。顔は見えなくても、にわとりさんの味方はいっぱいいますので、どうかめげないでください!

パンダさん

>では逆にアスペの方から定型の生き方について,「なるほどそういうことか」と実感していただき,また定型から見ても「伝わった」と感じられるような理解は,どうやったら,どこまで可能になるのか,ということが,このブログで次に模索する課題のひとつに浮かび上がりつつあるように思ったという話でした。コアラさんの問いかけはまさにそういう模索のひとつと思えます。

この部分について、じっくり考えて気付いたことがあります。「歩み寄り」の捉え方にも仕方にも、定型アスペ間で「違い」があるのではないかと思いました。最初は、自分の中にない発想だったのでハッとしました。してもらった事は同じように返さないといけないと…。でも正直、何となく気持ちにしっくりこない部分がありました。その必要性をあまり感じないというか。これがアスペ的思考なのか、個人的な性格によるものなのかは判断しにくいのですが、「少しでも相手の気持ちに近づいて、相手の立場に立って、考えてみる」ということ自体がまず思い浮かばないのです。それでも「歩み寄り」の気持ちはあり、じゃあどうやって歩み寄ろうとしてるかというと…

まず定型側との「違い」をいっぱい知る→定型側の感じ方を知る(相手の感覚を実感しようとは思わない)→定型側の望むような行動に近づけるよう努力してみる

このような感じです。私より重度の相手に対しては、また別の歩み寄り方をすると思います。「歩み寄り」の仕方にも違いがあるのだなぁと改めて思いました。
いつも個人的な感覚の話ですみません。

パンダさん
分かっていただけて安心しました。

コアラさん
励ましてくださってありがとうございます。

コアラさん

ありがとうございます。
コアラさんから指摘していただくことで、長いこと
もしかするとこういうこともあるかなあと想像しつつ
何となく確信が持てなかったことについて、
すっとフックがかかるように分かった「気分」になる経験が何度もあります。
不思議と言えば不思議です。もちろんありがたいです。
お互いの歩み寄りには、そこのズレを理解しておくことが
きっと大事になるのでしょうね。

また記事の方でも考えてみたいです。

にわとりさん

ジェットコースターで激しく振り回されているような状態になられていないか、ちょっと心配しています。

「自閉症だったわたしへ」を読んでいると、やはり壮絶なその世界を見て、
ちょっとにわとりさんの生きてこられた世界にも通じそうなところも感じます。
にわとりさんとコアラさんと、
何か違う個性の部分も大きそうな気がするのですが、
にわとりさんの世界も、一歩ずつでも理解が深まればいいなと思っています。
この本も私にはその一つの手がかりになるのかもしれません。

本当に大変だと思いますが、少しでも安らげますように‥‥
という言い方がまた定型的な「社交辞令」になってしまうのかもしれませんが、
私の願いです。

パンダさんお気遣いありがとうございます。

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