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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月21日 (火)

私はアスぺ

 このところ,皆さんからのコメントや掲示板を見ていて,書きたいと思うとても刺激的な話が次々に展開していて,ちょっと追いつかないくらいになってきました。

 あすなろさんが「アスぺと定型に境界はあるのか?」と題して掲示板に書かれた内容も,個人的には本当に深いところに直接響いてくる感覚があって,ここまで議論が深まってきたことにある種感銘を受けるほどでした。

 あすなろさんが書かれているポイントは,私が理解できる範囲で言えば,ひとつにはある人がアスぺか定型かということは結局相対的な問題に過ぎない面がある,ということです。これについては私もこれまで何度か関連することを考えてみました(「アスぺも定型も似たようなもの」「定型もアスぺであるということ」など)。

 定型アスぺ問題を考える時には,まずはお互いの違いをしっかりと理解することがとても大事になることは,多くの方から繰り返し語られていますし,お医者さんなんかはそのことを「診断の必要性」みたいなことで言われます。そこが出発点になるということですね。そのことの重要性は私も一貫して感じます。それがないと,結局単に自分の「常識」を相手に押し付けることにしかならないわけで,それは定型の側もアスぺの側もどちらにも言えます。

 ところがこの定型アスぺの間にはっきりした境界線を引こうとすると,とたんに矛盾が起こってしまいます。それは今やアスペルガーという診断名を飲み込んで消し去りつつある,より大きな「自閉症スペクトラム」という考え方自体が抱え込んでいる矛盾です。

 それはすべての人が自閉と定型の両極端の中のどこかに位置していて,はっきりした境界は引けない連続したものだと考えることです。だから,「AさんはBさんよりも自閉的な性格が強い」とか,「BさんはCさんよりも自閉的である」,あるいは「BさんはCさんより定型的だ,というような相対的な関係はある程度言えたとしても,AさんとBさんの間に定型アスぺの境目がある,というような絶対的な線引きは不可能で,だから同じ一人の人がXさんと比べたらアスぺと言えるし,Yさんと比べると定型と言える,というような一見すると奇妙に見えることが起こることは必然だからです。

 もちろんお医者さんは「診断」という形でその線引きをする役割をこの世の中で持っているわけですし,その線引きによって社会的な保障が得られたり得られなかったりと言ったことも起こるわけですが,実際にはそれが誰の目にも明らかなラインで区切られることはありません。それはある種便宜的なもので,境界は常にあいまいで,診断するお医者さんによって判断が異なったり,「誤診」が繰り返されていることはお医者さん自身がそう述べています(たとえば加藤進昌さんの「大人のアスペルガー症候群」とか)。

 そしてそうなるのはお医者さんの腕が悪いということではなくて(加藤さんなんかはどっちかというとそう考えられているようですが),そもそも定型アスぺ問題それ自体が持っている性格から当然に起こる事態で,避けようもないことであるわけです。「特定不能の広汎性発達障害」とか,ややこしい概念が作られたりするのも,そういう曖昧さがひとつの原因でしょう。

 ですからAS-Pさんがご自分の診断名について「そもそも私の場合、発達障害支援センターに行って「困っていないならASDと診断される必要はないと思いますよ」というようなこと言われたわけで、いまの状況を「困っているかどうか自分で選べる」(不思議な言い回しですが)んですね。」という,ある意味奇妙なことを言われたりするのも,ごく自然で当然なことになります。もともとアスペルガーという概念は,そういうある種の恣意的で便宜的でご都合主義的な部分を持たざるを得ないものと考える方が,実情を理解する上でも分りやすいし,スペクトラムという考え方を導入する以上,それは理屈からいっても必然なのです。

 ではそもそも線引きもあいまいなのだから,定型アスぺ問題もまたあいまいで,そんなものは一種の思い込みにすぎず,本当はないという話になるでしょうか。そうではありません。私たちは確実にそれを経験しています。そのことに苦しんでいます。そして「人間誰でもみんなちょっとずつは違うんだから,あんまり深く気にせず,気の持ち方を変えれば全然問題ないよ」というような気楽な話では決してありません。時に命にかかわるような深刻な悩みに落ち込むのがこの問題です。

 定型アスぺ問題は,「私は完璧な定型」という人と「この人は完璧なアスぺ」という人との間に起こる問題ではありません。あくまでも「私はこの人よりも定型的」という人と,「この人は私よりもアスぺ的」という人との間に起こる問題です。だから,同じ一人の人がある人との間では定型側の悩みを持ち,別の人との間ではアスぺ側の悩みを持つ,というちょっと奇妙に思えることが実際に起こるのも(たとえばコアラさんも言われていたと思います),そう考えれば当然のことなのです。どっちがアスぺでどっちが定型になるかは,比較する相手の人や比較するポイントとの関係ではちゃんと決まるのですから。

 あすなろさんに私がある種の感動を覚えたのは,そういう前提に立ったうえで,こんなことを書かれていることでした。

つまり、どの感覚が対極になるのかは、人それぞれで、そこはアスペ対定型と、決して割り切れないところなのだと思います。私が、全面的に定型の立場で話をすれば、私の中のアスペの部分を否定し、隠して話すことになります。それは、自己分裂になります。

 全ての人がスペクトラムのどこかに位置するのであれば,すべての人が多かれ少なかれ自分の中に定型的要素とアスぺ的要素の両方を持っていることになります。その両者が合わさって,その人なりのバランスを作って今の自分が成り立っているのです。だから,その現実を無視して一方が他方を切り捨て,全面否定するような話は,結局自分自身を殺しているのと同じことになるわけです。これって,画期的な考え方ではないでしょうか。

 人が人を憎むとき,ひとつのパターンとしてあるのは,自分が認められない自分の中の傾向について,それを他の人から見せつけられるような場合です。怒りを持つひとつのパターンは,自分に自分が許していないことを,相手が堂々とやったりする場合です。それは相手を憎み,相手に怒っているようでいて,実は自分自身を憎み,自分自身に怒っている,という部分があります。そして定型アスぺ問題も,そういうことが起こりやすい場面の一つなのでしょう。

 あすなろさんはこんな言葉でも,相手との関係で自分の中にいろんな要素が見えてくることの意味を書かれています。

私が知りたいのは、ある場面を切り取って考えたとき、自分はこうするけど?と投げかけたとき、嫌、そうではないよと解説されれば、ああ、この部分では定型に近い感覚で生きているから、アスペの感覚を意識して接しなくてはいけないんだなと気づくことなんです。定型族、アスペ族と、分断させて攻撃することは不毛どころか、自分否定にも繋がります。(少なくとも私はそうです)

 定型アスぺの違いを知ることは,まずは「私は定型」「私はアスぺ」という新しい見方を知ることでしょう。そういう目を持つことで,それまで訳が分からず混乱してきた問題に,新しい光が差すことになります。新しい工夫がそこから始まります。

 けれども,そのことをさらに突き詰めていくと,その線引きを絶対のものとは考えられなくなり,そこに新たな気づきが始まります。それは「私は定型」と思っていた人が,「私の中のアスぺ」に気づき,逆に「私はアスぺ」と思っていた人が,「私の中の定型」に気づくことです。(後者についてはまだ「たぶん」,というところに私はとどまりますけれど)

 そこまで行くと,今度は定型アスぺ問題は誰かを「アスぺ」として固定的に一面的に見て攻撃したり排斥したり,あるいは「定型」として固定的に一面的に見て攻撃したり,ということはもう不可能になります。意味がなくなってくるのです。まさにあすなろさんがその攻撃が「自分否定につながる」と書かれていることそのままでしょう。そこまで考えてくると,あすなろさんの次のような言葉も,ほんとうに自然なものとして受け止められるはずです。

相手を理解することは、自分を知ることでもありますよね。

 相手を自分の一面的な見方だけで決めつけて理解しているうちは,そんな風にしか見られなくなってしまっている一面的な自分には気づいていません。それはある意味で固まった自分に縛り付けられてしまっている状態です。そこから少しずつ自由になるには,相手を通して,自分を見つめなおすこと,自分をさらに深く知ることがどうしても必要になります。

 定型アスぺ問題を考えることは自分を定型,アスぺと固定的に考えて,そこに変な対立関係の固定化をもちこむ事ではないはずです。そういう行為が私には非生産的にしか感じられないのは,それが結局自分の中のアスぺ的要素,自分の中の定型的要素を自分で否定していることにしかならず,つまりはより深まった自分に気づいていないか,知ることを拒否しているだけのことだからです。それは自分がより柔軟に豊かになることを自分で否定する事につながってしまうからです。

 定型アスぺ問題に突き当たり,相手を理解しようとすることは,結局自分自身を改めて知りなおすことでもある。そこまでいって,初めて定型アスぺ問題は他人ごとではなく,自分自身の問題として,改めて柔軟に考えざるをえない大事な問題になるのでしょう。私はアスぺ(または私は定型)なのです。

 こういう見方がどの範囲の方と共有しやすいのか,どこまでの方に通用するのか,私にはわかりません。たとえば「相手のせいで自分はぼろぼろになった」と今現在実感し,そのことに対する怒りや恨みが骨髄に達しているような状態にある方には,おそらく到底受け入れがたいものでしょう。それも当然だろうと思います。そんなことをすれば,ぎりぎり怒りや恨みでなんとか最後に支えている自分さえも危うくなるかもしれません。

 そんな風にどうしてもそこに捉われて苦しむ状態に置かれている場合は,自分が抱えた負の思いは,ごまかさずに認め,まっすぐ見つめた方がいいこともあるような気がします。無視したり,押し殺すだけでは何も解決しないか,逆にさらにひどい状態を生むかもしれません。そして状況次第では,相手との関係を絶つこともやはり必要になると思います。人間がある状態に耐えられる力にはどうしても限界があるからです。

 でも,それは相手を「殺す」こととは全く違うはずです。そうやってもし相手を「殺して」しまったときには,あすなろさんのおっしゃるように,同時に自分の一部も死ぬのです。

 あすなろさんの書かれたことで,私の中ではこんな整理の仕方がすっとできるようになりました。やはりどこまで通用する話なのかは私には分かりませんが,これからはそういう視点からも,またいろいろ考えてみたいと思います。

(追記:この記事の内容は,今回の「炎上」に関して何人かの方から寄せられた疑問や私個人へのご批判などについて,直接間接に私の考えを述べたものにもなっていると思います。一応私が理解できた範囲では,これでだいたいすべてのコメントへの応答になっているとは思いますが,必要に応じて補足してご説明します。基本的にはここに書かれたことから個別の問題について説明を膨らませる,というような形になると思います。またこれもコメントで求められたことから作ってみたコメントのルールも,同じ視点から作られています)

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コメント

覗いてはいたもののなかなか書き込めずにいました、かずきです。
すみません。

個人的には、ですが、「自閉症スペクトラム」という考え方はあまりしっくり来ません。
おそらく、はっきり線を引きたいという性なんでしょうが・・・

確かに、アスペルガー症候群にはADHDのような多動性や不注意が多く見られるのかもしれませんし、
それこそコテコテの(というと語弊があるかもしれませんが)自閉症の方と
「コミュニケーションでの不都合が多い」というちょっと乱暴な言い方では困り感は共通しているのかもしれませんが、
じゃぁ何に困っているのかと具体的になってきたときに、やっぱり差が出ると思うからです。
コミュニケーションが自発的にとりにくいのか。
自発的には取れるんだけども、手法に問題があるのか。
では、対処の仕方が全然違うと思うんですね。

乱暴な例えですが、手首から先が無い方と、肩から先が無い方への支援の仕方は別、というのと同じだと思っています。
なので、一概に連続体だ!とは考えられない私です。


じゃぁ、定型とアスペに関してはどうか、というと、やっぱり線引きはあると、思っています。

AS-Pさんの仰る、「いまの状況を「困っているかどうか自分で選べる」(不思議な言い回しですが)んですね。」と言う部分、
私も経験がありますが「大抵の人はココは苦労してやってきているんだ」という思い込みから来る感情とも取れると思うんです。
個人的には私にとって「困ると言われれば困るけど、どうにかなる程度」と言う状況は、定型の方を観察していると「全く困らない」状況だったりするわけです。
浅瀬と医者に言われている私ですらその違うを肌で感じますから、やっぱり線引きはあって、
あちら側とこちら側に別れていて、一部の人が橋の上に居るだけ、という感覚です。
付け加えて言うのならば、あちら側にも、こちら側にも、色の濃淡がある。というイメージです。
その間には越えられない谷があるというか。。。

そして、定型側の特殊能力(?)の共感力をアスペ側に発揮してくださっている方は、
定型側に居たとしても、アスペ側の考えを受け入れ自分の物としている部分が少なからずあり、アスペと関わった事のない人よりもよりアスペらしい思考回路を後天的に獲得している場合も多いと思うのです。
そうして来ないと自分を保てなかった方もいらっしゃるでしょうし、
涙ぐましい努力の結果として獲得された方もいらっしゃるでしょうし。
そうして橋の上まで歩いてきた方は、今度はコウモリじゃありませんが、
定型でもない、アスペでもない、という不安定さに悩まされるんじゃないでしょうか。
貴方は定型ですよ、あなたはアスペですよ、と言われる安心感がなくなりますから。


とはいえ、私も夫に「私よりよっぽどアスペっぽい」と冗談でいう事があります。
でも、それはただの好みやこだわりだったりするだけで、変更したらパニックになるほどの事じゃないんです。
そこにはやっぱり、私の好みやコダワリとは別世界のものが広がっているんです。

まとまらなくなってきましたが、私の思う定型アスペの超えられないかもしれない壁でした。

パンダさん

自分のことだと思い、でてきましたm(__)m
父についてですが「殺す」とか書いたのは私くらいしか見当たらなかったので、私へのご指摘であると感じました

掲示板に書き込んだ次の日には、度が過ぎた表現をしたと思い、申し訳なく思ってました
書き込んだ後に、ブログが炎上してたことも知り……そんなタイミングであの内容を書いてしまったことにも、余計に言葉の責任を感じてました
もう誰か読んでるだろうから……消そうか悩んでました

……が、皆さんが私のコメントに煽ることなく、上手い具合にスルーして下さって、気持ち的にすごく助かってしまってました
AS-Pさんのお返事からも、大人の対応を感じ……私の勝手な気持ちですが、皆さんの対応に感謝してました

だからこそ、また自分の書いたコメントに弁解して、皆さんに気を使わせるのはもっと嫌だったので、有り難くこのまま何も言わずにいようと思ってました……

この場を借りてお詫び申し上げます
本当にすみませんでした

あのコメントは、久しぶりに掲示板を見て……AS-Pさんの書き込みを拝見し、沸き上がってしまった私の勝手な感情でした
AS-Pさんに対してではなく『父はどうしたって変わらないのか?』と思うと…激しい怒りが込み上げてきました
私は、今父や子供が幸せならいいんです
でも、また同じことを繰り返すなら「自分は何で傷付かなきゃいけなかったのか?」が、わからなくなるんです
父や子供が幸せなら、自分が傷付いた意味は、父の今ある家族の為だと、許せるんです

この気持ちは、私自身の心の問題なのでこの辺にしておきますm(__)m

だだ本当に、あの書き込みは良くなかったと反省しております……

よくよく考えたら、AS-Pさんは父のようなタイプではないので、余計なコメントだったな…と、自分が恥ずかしくなります

アスぺ父を持つ娘さん

 あ,すみません,私の方はそのことは全く念頭にありませんでした!
 仮にあったとしてもアスぺ父を持つ娘さんを批判するような気持ちは
 まったく生まれなかったと思います。
 殺したいくらいの気持ちになること自体はある意味で自然なことなのでしょう。
 その気持ちを「見ないふり」をしてすませられるのならいいですが,
 でも逆に見つめなければならないときもあると思います
 
 アスぺ父を持つ娘さんの文章は,私にとっては
 その「見つめなければならない」というものだといつも感じるのです。
 
 けれども,炎上で問題になったような「決めつけ」はアスぺ父を持つ娘さんの
 文章にはどこにも感じません。
 憎しみをごまかすのでもなく,でもそれを不当に他の人にぶつけるのでもない,
 という大変なことを,アスぺ父を持つ娘さんはされているのだと思うのですね。
 そこが本当に私はいつも感動するところなのです。
 そうだからこそ,その文章は多くの方にものすごい力を与えてきたと思います。

 だから,ほんとにアスぺ父を持つ娘さん(って,長い (^ ^;)ゞ)のことは
 全然想定せずに書かれた文章でした。
 変に気を回させてしまってごめんなさいね。

かずきさん

 この記事を書きながら,問題点が出てくるとすればそのひとつはかずきさんが指摘してくださったそのあたりになるかもしれないなあと,漠然と感じていたことをすっと言葉にしてくださいました。

 そこ,とても大事な問題だと思います。

 今すぐにそこについて私の考えを書こうとすると,なんだか生硬なへんな文章になりそうで,もう少し自分の中で消化できてから少しずつでも書いてみたいと思います。

 ひとつとりあえずの比喩として思いついたことは,これも大昔に習った話ですけれど,虹は七色なのか,三色なのか,それいがいなのか,という話です。結論的にはどれでもいいし,どれも間違いです。文字通りスペクトラムなわけですから,無限色と言ってもいい。

 にもかかわらず,人はそこに三色を見たり,七色を見たり,線引きをして生きています。境目のないところに境目を作って,それを手掛かりに生きるのは人間という生物の性らしいですね。定型アスぺ問題も,そういう側面があるだろうということ。それがひとつ。

 もうひとつは,じゃあなんで定型アスぺ間にそういう境目を必要としているのか,ということについて,多分世の中の仕組みというものが大きな意味を持っているんだろうという気がするんです。で,そういう仕組みのもとに生きている私たちは,その仕組みに沿った形で定型アスぺを区切り,生活を組み立てている。

 だから私たちがこの世の中で生きていくうえでは,その区切りはものすごく実質的なものに感じられるようになります。でもそれはもともとそれが絶対的な基準でそうなっているからではないだろうと,そういうことを考えています。

 絶対的ではない基準が,どうやって絶対的なものとして現実に通用し,また人々もそれを絶対的なものとして実感するようになるのか,そのあたりのしくみは相当複雑だろうという気がして,ちょっとうまく説明できそうにありません (^ ^;)ゞ

 まあ,なんとなくそんなことを考えているということでお茶を濁して… (笑)

 でも,かずきさんのその視点からの議論,是非今後ともよろしくお願いします。その視点をちゃんと意識しながら問題を考えられるかどうかは,とても大きいと感じています。だからご指摘,すごくありがたいです。

>かずきさん

確かに!
肩から先がない人と、手首から先のない人の話を聞いて、そうだと思いました。
ADHDは、手首から先がないんですよね!
腕は動かせて何かできる気がするのに、結局出来ないという。
けれど、じゃあ、肩から先のない人が全面的に被害者で、迫害を受けているかといえば、手首から先がない人も、かなり苦しい思いはしています。
腕が揃っていても、麻痺で動かせないという人もいますよね。

かずきさんの感覚は、うちの家族の行動を読み解く、大きな鍵になります。
家族よりも、他人のかずきさんの感覚が近いということは、やはりそこにASDとその他の違いが存在するんだろうなとつくづく思います。

理解するのに、線引きは大切ですが、だからと言って、アスペは定型に一方的に迫害されている。その他の障がいよりも被害が大きいという議論はおかしいと思うんですね。
もちろん、肩から先がなくても、その他の機能で補って普通に生活している人もいるのですし。
特性の線引きはあっても、困り感の線引きはできないと思います。


>アスペ父をもつ娘さん

私も、どの書き込みかと、最初首を傾げましたが……
AS-Pさんのスレに、私の父のことを書いたので、何か勘違いされてしまったのでしょうか?
あのタイミングで別視点を書いてしまって、お気にされてしまったのでしたら、すみませんでした!

これまで、娘さんと、夫に共通することが多く、家族の被害が似ていると感じていましたが、ふと、忘れていた自分の父を思い出したんです。
父も、定型とは言い難かったし、周囲の方々には、まあ、色々とご迷惑をお掛けしていました。主に金銭面で。
それでも、嫌いとは、憎むにはならないんですね。周囲の人も「困った人だね」と言いながら、助けてくれるんです。
何が違うかと考えてみたら、人に責任転嫁したり、責め立てたりしないところだなと、気付きました。
夫は、父のことを物凄く嫌っていました。自分とは同じ特性を感じながら、努力しているように思えなかったんでしょうね。今考えると。

アスペ父さんも、娘さんや周りに強い要求を押し付けることが無ければ、少し変わった面白い人と、感じられたかもしれませんね。

この辺りの違いからも、色々と考えられそうな気がしませんか?

かずきさん

私もそんな気がする。
(私は けっこうファジーなところもあると思っているんですけど)
よくぞ わかりやすく 表現してくれました!っていう感じ。

あすなろさん

当人が困っていなければ~という点については、
私は ものすごく個人差があると思うんですよね。
あすなろさんのように 長年ご自分を責めてこられたような方の場合は、自分が困っていなければ
よい と思うぐらいでちょうどいいと思うんです。
(自閉症スペクトラムも)
でも、長年まわりを責めてきた人の場合は、ちょっと待って と言いたい。
当人に困り感が少なくても、そばの人たちの方がものすごく困っている場合もある。
外国では、 本人とそばの人が困っていなければいい じゃなかったでしたっけ。
(今すぐ 裏付けが思い出せないけど。。)

アスペ父を持つ娘さん

私も気になりませんでした。
うちの夫は 根っから穏やかな人なんですが、それでも 何かあると まわりが困った人だと思ってずっと(60年くらい)生きてきたので、アスペ父をもつ娘さんのお父様の事も想像できる気がしてきました。

パンダさん

かずきです。

>境目のないところに境目を作って,それを手掛かりに生きるのは人間という生物の性らしいですね。定型アスぺ問題も,そういう側面があるだろうということ。

線引きをして救われた側の人間の私としては、線引きが曖昧になることへの恐怖感があったりします。

所属意識とでも言うのか、「自分はアスペ側だから、こうすればいいのか」とか
自分を知り律するための手段として線引きを使っているからです。

もちろん、その後のご指摘のように世の中の仕組みを考えると、定型側からしても、
「あの人はアスペだからこう対応すればスムーズに行くんだ」という
いい方向での役立て方も出来るでしょうし、自分が理解できない事への一つの諦め・認識の方法として線引きは役に立つと思うのです。

絶対的な基準というのは、たとえば家族経営の会社、ワンマン社長の会社と考えれば、
そこに複数の人が居ればどこかにひずみが行く事は簡単に考え付きますので
基準というのはとても曖昧だとは思います。

掲示板のほうにも書きましたが、
個性と特性を尊重する教育を受けてきた人が増え、
それでも社会で生きていく為に、「The定型」を演じなければならない人も増えているように感じます。
しかし、社会全体がそういったお手本のような定型から外れる事を受け入れるには、
線引きし、名前をつける事が必要になってくるのでは、と考えています。

スペクトラムで考える事が善とされ、線引きをする事が悪と「線引きされない」
ように今は思っています。

あすなろさん

>理解するのに、線引きは大切ですが、だからと言って、アスペは定型に一方的に迫害されている。その他の障がいよりも被害が大きいという議論はおかしいと思うんですね。

仰るとおりです。
誰が偉いとか、誰が間違っているとかの線引きではない事を念頭に置かねばなりません。
誰かを傷つける為の線引きではなくて、特性の線引きであることを忘れてはいけないと思います。

あすなろさんはいつも真正面からこの問題に向き合ってらっしゃるイメージがあります。
尊敬します。
私は自分の事ながら、対処できてしまった事を掘り下げて考えない癖があるので。
毎日戦ってらっしゃるんですね。
私も周囲に戦わせているのかな…と思うと申し訳ない限りです。
またお話聞かせてください。


ココチさん

ありがとうございます。
個人的には私も結構ファジーだと思っているのですがね^^;

あすなろさん宛てコメントからですが、
確か、子供の場合は日本でも本人と家族が困っていれば、傾向がありますね、というやんわりとした診断は出たような気がします。
裏づけになる本がちょっとすぐ出てはきませんが…

あすなろさん

あすなろさんのコメントも私は全く気にしてないので謝らないで下さいっ!!
むしろ、あまりにもマイナスイメージなコメントをしたことに申し訳なく思っていたので、あすなろさんの前向きなコメントにはとても助けられた気分になりましたm(__)m

あの場で自分のせいで空気が重くなってしまうのは耐え難いので、上手く流れを変えてくれた皆さんのコメントには感謝してましたm(__)m

ココチさんもありがとうございますm(__)m

父についてですが!
私は何でも、悩んだり病んだりする自分が嫌なので、嫌なことはあまり考えない性格で、気持ちの上でも面倒なことは後回しにしてしまうほうなんですよね
だから普段から父が「憎くて仕方ない!」って訳ではないんです
むしろあんな空気の読めない父の存在を、面白く自虐ネタのようにしているのがほとんどですよ
ネットじゃないリアルの世界では……

でも、そうやってある意味誤魔化してる
「自己中」「悩みなさそう」「打たれ強そう」「傷付かなさそう」と言われるくらい、ふざけたキャラクターでいるし、そう言われることに安心してる
そう思われたいから、そう振る舞ってる……みたいな

とにかくリアルでは、自分が「病む」とか悲観に陥ることにアレルギーなんですよ
病んだり泣いたりなんて母や姉を見てるだけで十分だった
父のことで、私まで病んだり泣いたりしたら「救いようのない不幸な家族」を実感してしまいそうで怖い
だから『自分にとって都合の悪いこと』から、思考が逃げるし、出来るだけ何も感じてないように振る舞う

思考が逃げてるだけなんで、本当の自分の気持ちはわかってます

でも!このようなネットの掲示板でストレートな感情をだすようにしてからは、心と思考のバランスがとれてきたような?
最近は思考と心?感情?が会話したりします(笑)

『父は消えたほうがいい、この世から消えていい人間だ!』「確かに…例え自分が苦しいからって、いつまでも人を傷つけることは許されないもんね?」『娘の私が言うんだ、生きてるだけで周りを不幸にさせる人間を生かしておくわけにいかない!』「じゃあ、殺すの?」『娘の私が殺るなら世も許してくれるはず』「殺したら傷付く人はいない?」『奴が生きてるほうが人を傷付ける』「そっか…でも今じゃないもんね?」『今は…やらない、子供を不幸にさせたら殺る』「じゃあ、まだ時間あるね!」『そう!今は仮釈放みたいなもん♪』

こんな感じですねー
殺るしかない気持ちを、思考が「今じゃないよ!」って言い聞かせてます
心には一応、原因と根拠があって『殺る』とか言ってますので、それを覆す理屈を模索中です(笑)

リアルの世界では、私のように強がって生きてる人も少なくないと思います
そういう人間にとって、こうやって吐き出せる場は貴重に思います


パンダさん

もう今更的な感じですが…近々、ハンネ変えます(笑)
名前が話をややこしくさせてるので、タイミングに悩んでました(笑)
よろしくですm(__)m

かずきさん

>自分が理解できない事への一つの諦め・認識の方法として線引きは役に立つと思うのです。

 世の中はいろんな線引きによって成り立っているのだと思いますし,その線引きによって納得したり,諦めたり,いろんなことが可能になるのでしょうね。そこは大事なポイントかなと私も思います。

 「境目がはっきりしない」ことについて,こんな比喩を考えました。
 手首とかの話の応用版です。

 たとえばおなかと胸は明らかに「違う身体の場所」として認められると思うのですが,ではどこからどこまでがおなかで,どこからが胸か,というと,境目ははっきりしない,ということがないでしょうか。仮に目を近づけてみても,どこかに線が引かれているわけではないし,細胞レベルで見ても区別があるわけではない。

 でも胸とおなかという線引きには意味があるし,ちょっと離れてみれば,大雑把には「ここは胸」「ここはおなか」という区別もできます。

 ま,あんまりぴったりの比喩ではなかったですが (^ ^;)ゞ, ちょっとそういう面もあるかなと…… また考えます。

>絶対的な基準というのは、たとえば家族経営の会社、ワンマン社長の会社と考えれば、そこに複数の人が居ればどこかにひずみが行く事は簡単に考え付きますので
基準というのはとても曖昧だとは思います。

 すみません,ここの意味が理解しきれなくて,よろしければもう少し説明して頂けますか?ワンマン社長のもとに複数の社員がいるという話でしょうか?そうすると,ワンマン社長のせいで,社員のだれかにひずみが行くということ?それと絶対的な基準との関係は……, すみません,やっぱりわかりませんでした (^ ^;)ゞ

>しかし、社会全体がそういったお手本のような定型から外れる事を受け入れるには、
線引きし、名前をつける事が必要になってくるのでは、と考えています。

 これは社会全体が一人一人の独自性を認めずに,一色に染めようとしている傾向が強まっているとか,そんな話でしょうか。だから線引きをしてそれぞれの独自の世界を認め合うことをしっかりとすべきだとか。

 そういう理解でいいのでしたら,私も共感します。お互いに個性的であるからこそ,豊かなつながりが生まれる,というような関係が私には理想です。


アスぺ父を持つ娘さん

>もう今更的な感じですが…近々、ハンネ変えます(笑)

 おお,新しいハンネ(って言うんですね?!)発表を楽しみにしています。
 私もいい加減につけた「パンダ」というのが,自分のイメージに合わなくて,
 やや後悔しているのですが,ここまで来ると今更変えるのもむつかしくて…… (^ ^;)ゞ

 私の立てた掲示板のトピックがきっかけで、ここで話が結構ふくらんでいたんですね。気づきませんでした。

 アスペ父を持つ娘さんがはからずも書かれているように、「父はどうしたって変わらないのか?」という怒り、私も自分自身に対して持っています。矛先が自分自身なので、怒りというほど激しい感情ではなく、なまくらな感じで「自分はどうしたって変わらないのか……?」という、あきらめと、少々言いにくいですが安堵感もあります。

 「どんな状況でも変わらずやっていけるもんだな」と「どんな状況になっても結局は変われないんだな」は紙一重で、行ったりきたりしている日々です。

 思えば、妻との結婚自体が、そんな10代・20代の頃から感じていたような閉塞感を打ち破る希望の光みたいな気がして、そこに突き動かされた部分もあるので、いまの状況におちいっているのは、まったく自然なことといえば自然なことなのですが。

 線引きの話はきっと古くから人々が取り組んでいる課題なのでしょうが、結局は「誰が引いた線であろうと、その線が見えているのは自分だけ」という話にもつながる気がします。誰かが引いた線が、他の人にも同じ位置から同じように見えているとは限らない。歴史的にみれば、それで戦争が起きたり、革命が起きたり、人間はそういうことを繰り返しているわけですよね。(ちょっと話が大きくなりすぎましたが)人類が線を引きたがるのは確かに分かり合いたいからなんだけど、それがゆえにぶつかり合うという面もある。それが宿命かなあ……と。

 取り付く島のない結論になってしまった気もしますが、私の率直ないまの感覚です。

パンダさん

説明が足りなくてすみません。かずきです。

家族経営や、社長しか社員?が居ないような零細企業であれば、厳格な基準と言うのはあると思うんです。
そこに家族以外や社員が増えるなどした時に、厳格な基準と言うのは人を縛り付けるものに変わる可能性が高く、なおかつ基準から外れる人を排除する方向に行きがちな気がします。
私が知っている零細企業が悪質なだけかもしれませんが…
なので、人が増えるほど、基準と言うのは曖昧になっていくのではないかと思う、という意味でした。


他はパンダさんの理解力のお陰で伝わったようで安心しました。

アスペだよ、って気軽に言えて、そうなんだ、ってすんなり受け入れられる社会と言うのは、精神的に豊かな社会のような気がしますが
実現するのは難しいでしょうね…。

AS-Pさん

>思えば、妻との結婚自体が、そんな10代・20代の頃から感じていたような閉塞感を打ち破る希望の光みたいな気がして、そこに突き動かされた部分もあるので、いまの状況におちいっているのは、まったく自然なことといえば自然なことなのですが。

 ここ,立場や内容は違いますが,定型がアスぺのパートナーを求める時のことと,同じような形があるんだなと思いました。ここにも「形は一緒で内容が違う」というズレが見出せるかも。

>人類が線を引きたがるのは確かに分かり合いたいからなんだけど、それがゆえにぶつかり合うという面もある。それが宿命かなあ……と。

 そんなふうに二つの面をつなげて考えるというのはとても大事なことなんじゃないかと思うんです。そしてどちらかだけを一面的に見て強調しすぎると,二つのバランスが崩れてひどいことになっていく。

 だから,その「宿命」をちゃんと見つめることで,一面的に暴走することなく,悲劇を拡大しないような工夫はある程度可能になるのではないかと思います。もちろんその二面がいいバランスの中でさらに良いものを生み出すのは理想ですが。

 というふうに思うので,「取り付く島のない結論」というより,そのことこそ,出発点なのではないかという気もします。


かずきさん

 いろんな人がそれぞれに自分の基準を作っていて,そういう違う基準を持った者同士が寄り集まると,当然軋轢が起こる。軋轢が起こった時,理想的なのはお互いの基準をすり合わせて,どちらも納得できる新しい基準を作ることでしょうけれど,お互いの関係の中に上下関係があったり,あるいは調整がものすごくむつかしかったりすると,暴力的に相手を押さえつけたり,あるいは軋轢が解消できずに関係が崩壊したり,というようなことが起こるのでしょうね。かずきさんの例をそんな文脈で理解してみました。

>アスペだよ、って気軽に言えて、そうなんだ、ってすんなり受け入れられる社会と言うのは、精神的に豊かな社会のような気がしますが実現するのは難しいでしょうね…。

 少なくともこの場はそんな感じに育ってきていないでしょうか。もしそうなら,ここも「ミニ社会」ですから,そういうのは不可能ではないのだと思います。それがどこまで広がる可能性があるのかはなんともわかりませんが,でも魅力的なものになれば,そういう「ミニ社会」を必要としている人は少なくないでしょうから,ある程度は広がっていくのではないでしょうか。なんとなくそんな気がします。

パンダさん

かずきです。

たしかに、此処は定型にもアスペにも前向きに関われる場所だとは思います。
ても、それは「アスペと定型」というタイトルの元に集まってくるアスペに興味があることが前提ですよね。自助会なども同じです。
私が理想とするのは、初めて会った何にもアスペに関わりの無い人に対しても、同じような対応ができる社会です。
アスペ、という言葉が一部差別的に使われる以上難しい気がしますけど、
いつか実現できればいいな、と思います。
血液型を言うように、アスペだよ、ADHDだよ、自閉症だよ、定型だよって公言して、
何のリスクもない社会。
要は私が楽な社会(笑)
うーん、今のところ本当に理想でしかないですね…。

かずきさん

> 何のリスクもない社会。要は私が楽な社会(笑)

うーむ、かずきさんはなかなかの野心家でいらっしゃるようで…(笑)

> うーん、今のところ本当に理想でしかないですね…。

まずは自分の生きている場所で、方法を手探りするのが「急がば回れ」で結局は一番効果があるんじゃないでしょうか。

ネット社会ではそういうのがさらには効果的な気がしますけど。

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