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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« ドナの恋 | トップページ | 定型アスぺ感覚の部分的逆転体験 »

2015年4月23日 (木)

定型アスぺ間でキャラが果たす役割

 定型アスぺ問題の中で「キャラ」を使うということについて,ドナ・ウィリアムズさんの本や,コアラさん他のみなさんのコメントを拝見していて,これまで少しずつとりあげてきた次のようないくつかの問題が私の中でつながってきて,少し整理されてくることがありました。

 ・アスぺの方が定型社会に適応して生きるということは,素直な自分(自分モードなどと表現されてきました)から定型向けに努力して作られた外向きの自分(仕事モードとか世間モードとか,いくつかの表現をしてきたように思います)への切り替えをやり続けることだ。

 ・アスぺの方にとっては,定型向けの外向きの自分はどこまでいっても本当の自分ではなく,仕方なく相手に合わせて作っているもので,それが続くと本当に疲れ切ってしまう。

 ・アスぺの方が定型が好むやり方でつきあうとき,相手をだましているような罪悪感にかられることがある。

 ・アスぺの方が定型的な人間関係を見る時,本音を隠した騙し合いに見え,ショックを受けることがある。

 ・定型アスぺの両方にとって,家庭は素直な自分に戻って安らげる場であってほしいし,そこではお互いに素直な自分を受け入れあえることが必要になるのだが,そこで激しいズレが起こる。

 ・アスぺの方にとって定型のパートナーが求めるような共感的関係は,定型向けの外向けの自分がなんとか作れる関係で,それに応じることは,家族でなくなることにもなる。

 ・定型社会でうまく対処して成果を収められている方の場合,定型のやり方をしっかりと観察して,そこで使われているやりかたを理性的に発見し,それをテクニックとしてうまく使う,という形で成功されている場合がある。

 ・アスぺの方同士では,素直な自分でいられることがある。

 ・アスぺの方同士が素直な自分でいられるとき,逆にその自分に改めて向き合わされるときがあり,今度はそのことが辛くなることがある。

 ・アスぺの方にとって,外向きの自分は素直な自分を守るための手段にもなる。

                            などなど

 ここで,コアラさんがコメントで使われた「キャラ」という言葉を使って,これらのことをつなげて考えてみると,こんな話ができないでしょうか。(キャラを役割と読み替えてもいけると思いますが)

 定型もアスぺも,多かれ少なかれ相手や場面に合せたいろいろな「キャラ」を作って生きており,これも多かれ少なかれそれらの「キャラ」を演じることが疲れる時がある。そういうときは「素直な自分」に戻るために引きこもりたくなることもある。

 しかし,定型とアスぺでは,そのようなある程度は意識的に演じられている「キャラ」と,あまりそういう意識をしないでいるときの「素直な自分」の関係がかなり違う。

 「素直な自分」は周りに振り回されることなく,安心した気持ちで無理せずいられる状態の自分だが,アスぺの方はそういう状態は他者の感情が自分に入り込んで自分を揺らすようなことがない静かな環境で作られやすく,定型の場合は逆に相手と感情を通わせて,その状態を共有できることがとても重要になる場合がある。

 従って,アスぺの方が望むカップルの関係は,お互いにお互いの気持ちを強く揺らしあうことなく,静かに隣にいる,といった状態がひとつの理想になりやすく,定型の場合は時にはお互いの感情を強く揺らし合い,そこでさらに調整しあいながら「気持ちを共有し,支え合う」関係を理想としやすい。

 そうすると,定型が作るキャラと「素直な自分」の関係は,感情的な関わりや感情的な共有関係が大事な役割を果たすという点でつながりがあり,ただその感情的な面をかなり無理しても相手に合せるか(外向きのキャラ),無理なく自然な自分の感情の動きで相手と感情を共有できるか(「波長があう」相手といることで得られる素直な自分)という関係であるのに対して,アスぺの方が作るキャラと素直な自分の関係は,感情的なやりとりを含むか(外向きのキャラ),それを避けて静かに一人でいたり,親しい人とは「場を共有」するなどの姿勢になるか(素直な自分)の違いになる,という風に,かなり違った性格を持つことになり,両者には大きなズレが生まれる。

 定型が外向きのキャラに疲れ,家庭の中で自分を取り戻して安らぎたいときには,波長の合う相手と感情を共有して,それまで外で無理してきた自分を癒す,ということが大事になる。傷ついてきたときなどは,そうやってお互いの感情状態を共有することで癒される。ところがアスぺの方が疲れた心をいやしたり,傷ついた心をいやすためには,他者に感情を揺らされず,一人静かに自分の心の安定を回復していくことが大事になる。

 定型のそのようなパートナーに対する欲望は,アスぺの方からすれば素直な自分でいることを否定されることになり,それに応えようとすれば,再び外向きのキャラを作って対応するしかなくなる。逆にアスぺの方の姿勢は,定型からすれば親しい間柄でこそ成り立つはずの心の通じ合いを拒絶され,素直な自分を取り戻すことを否定された,冷たい関係として感じられてしまう。

 次に外の社会でのキャラについていえば,定型は人間関係の中に敵味方を作って生きる傾向が強い。これはアスぺの方からは「群れて生きる」と感じられやすい性格になる。この「群れを作って,信頼しあえる味方の中で安心して生きたい」という定型に強い欲望に基づく集団は,利益のみで作られることはまれで,相手と価値観を共有したり,感情をかわしあったりすることで作られる「信頼関係」が大事になる。それが成り立つと「よい仲間」ができることになる。自己犠牲の精神は,それを理想化したものともなる。

 この定型的な仲間づくりは,価値観のすり合わせなども含むので,感情的なやり取りが欠かせない(飲み会で騒いだり,愚痴を言い合ったり,井戸端会議を繰り返したりというのもその一環になる)。時にそこでは虚虚実実のやりとりがかわされながら感情関係が調整され,敵味方の関係が作られていく。

 定型がアスぺの人に対して「私の仲間でいてほしい」ということのひとつの表現として感情の共有を求めた場合,感情状態はそれぞれが自分自身で大事にするものだという感覚を強く持つアスぺの方は,無理難題を強要された感覚になりやすい。他方でアスぺの方が「共感」してくれない態度(あるいは困惑の態度)を示した時,定型の側はそれを自分に対する敵対心の表明とうけとることがある。それが場合によってアスぺの方に対する激しいいじめにつながることがある。

 そのようなシビアな環境の中で,アスぺの方はそれを可能な限り上手に受け流して自分を守るために,相手に応じた定型的「キャラ」を作らざるを得なくなるが,それは世の中で生きていくために仕方なく作られる「必要悪」のようなもので,素直な自分とのつながりはほとんど感じられず,無理やり意図的に作った完全な「演技」だと感じられやすい。

 そしてアスぺの方から見た定型的な人間関係は,本音を隠した演技だけの関係として感じられやすいので,この世界で生きるということは,結局みんなそういう演技をするキャラを作って生きることでしかないという理解になりやすく,ますますそのキャラと素直な自分とのギャップが大きくなっていく。

 そのため,アスぺの方がそのような「キャラ」で相手の定型が満足をするときには,何か相手を意図的に操っているような罪悪感が生まれることがある。当然,信頼しあう親しい関係であるはずのパートナーとの間に,そのようなキャラで接することにはとても大きな抵抗感が伴いやすい。

 このキャラづくりについては,同じアスぺの方でも(おそらく「自閉度」の強さや,あとはいわゆる「かしこさ」のレベルを反映して)かなり得意不得意があり,上手な方はそれほど極端に無理をしなくても,一種のテクニックとして使いこなし,定型社会をそれなりにわたりあることも可能になる。定型が感情を含めて行うことも,知的に分析して割り切って対処することができ,この場合,キャラを無理して作る,という感覚も相対的には小さくなる。そのように誰もがお互いにやっている知的で合理的な対処として理解されると,その分罪悪感も比較的小さくて済むか,場合によってはほとんど感じる必要性がなくなる可能性もある。

 逆に不得意な方の場合は,キャラを作ること自体大変な努力の結果になるし,しかも「定型に求められるキャラ」をつかみにくいので,せっかく作ったキャラもなかなか認められないことも多く,ますます困難な状況に追い込まれる。

 しかしいずれの場合でも,そこで演じられたキャラが素直な自分とは全くの別もの,と感じられる傾向が強いことは変らない。

 定型の場合は,もともとは自分の感情とも離れてある程度無理をして作ったキャラであっても,やがて相手との感情的な調整や価値観のすり合わせなどが進む中で,自分にとっても比較的自然に振る舞えるようなキャラに成長していくこともあり,素直な自分とのつながりは比較的作られやすいため,アスぺの方のような絶対的な断絶といった感覚は生まれにくい。

 
 とりあえず,だいたいそんなところでしょうか。もう少しポイントを絞って単純な形に整理できそうな気もしますが。

 さて,そんな風に考えてみると,「キャラ」の問題は,定型アスぺ間の調整を考える時,かなりのキーポイントとして見えてくることになります。

 定型アスぺ間では多かれ少なかれ「キャラ」を作って生きていることはどちらも同じで,「素直な自分」と「キャラ」が別物として意識されたりすることも共通しているのだけれど,その二つの関係が定型アスぺ間でかなり違い,従って「親しい中でそのキャラをどう扱うか」についても大きな違いが生み出されてくる。定型が「素直な自分」でいられるために親しい人に望むことは,アスぺの方には「キャラ」を演じなければならない他人の世界での話になってしまい,逆にアスぺの方が「キャラ」を捨てて「素直な自分」になるために望む関係は,定型にとっては親しさを取り払ったよそよそしい関係に思われてしまう。両方とも「親しい関係」を目指しているのだけれど,そこに悲劇的なズレが隠されている。というわけですね。

 
 そのズレを調整するためには,もう一つ工夫をしてその「キャラ」を改めてうまく使う必要があるのかもしれません。そこは歩み寄りの世界になるのかもしれませんが,どちらにとっても「素直な自分」を全否定しないで済むレベルで「キャラ」を使う道を考えるとか。まだ完全に頭で可能性として考えてみるに過ぎませんが,ちょっと考えてみる価値はありそうに思います。
  
 
 
 



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コメント

> アスぺの方が望むカップルの関係は,お互いにお互いの気持ちを強く揺らしあうことなく,静かに隣にいる,といった状態がひとつの理想になりやすく,定型の場合は時にはお互いの感情を強く揺らし合い,そこでさらに調整しあいながら「気持ちを共有し,支え合う」関係を理想としやすい。

この点について、私もそうだと思っていました。けれど、前記事のコアラさんのコメントで、アスペの方も気持ちを揺らし合う関係を望むこともある、と知って、ハッとしました!
我が家の関係が少し穏やかになるきっかけは、夫が部屋にこもる時間が多くなったからなのですが、時々突然ドカドカと出てきては、何やらわけのわからないことを言ってくるので、嫌なら無理せず、ずっと部屋にいればいいのに!こちらに気遣って出てくることないよ!と思っていました。
コアラさんのお話から、夫が部屋にこもるのも、一方は自分ひとりの空間で自分を癒すため。しかし、一方は、家族に気遣って出たくても耐えている。
イライラして出てくるのは、それに耐えられなくなったときなのかなー?と!
なんか、私にはすごい気付きです!

あすなろさん

しばらくコメント等控え休憩するつもりでしたが、また少しコメントさせていただきます(笑)
あすなろさんのご主人様も「歩み寄り」をしようとしているのか、まずはあすなろさんの方からだけ「歩み寄り」を始めている状態かはわかりませんが。。。
私(アスペ側である自覚があり、「歩み寄り」の気持ちもある)が、ごく親しい定型側に望む、できればこうしてほしい(こうしてくれればありがたい)と思うことを話します。それが良いことなのか、そう望むことが定型側を傷つけるのかは今は判断できないので、ただ正直な気持ちを書きます。
こちらでも何度も出てきたように、アスペ側が一番心地良い状態は「素の自分」でいることです。「思考」「手段」など、周りからはそれがどんなに奇妙で不効率のように見えても、今の自分の中ではそれが最善だと思っています。その今現在の「思考」「手段」が、斬新で画期的である場合もあれば、とても稚拙なものである場合もあります。でもそれをひとまず脇に置いて、「素の自分」を一旦そのまま受け入れていただき、それからはそちらの判断で、私をうまく先導するなり、容認するなりしてほしいと思っています。イメージ的には、母親が小さい我が子を見守りながら導いていくような感じです。人にもよりますが(状態や度合いなど)、決して聞く耳を持っていない訳ではないです。ただ、まだ理解できていないだけだったりします。だから、まず先にこちらのワガママを聞いていただき(ありのままの状態の自分を受け入れていただき)、それからその先どうするかを考えてほしいというのが正直な私の望みであります。その「ワガママ」の部分こそが、ごく親しい相手限定のものなので、そのこと自体を一番信頼している相手から拒絶されるとものすごくショックだし、もうどうして良いのかわからなくなってしまいます。あと、一人の時間を尊重し見守ってもらえるのは嬉しいけど、決して放置はしないでほしいです(笑)家族である以上、相手とうまく関わりたいと思う気持ちは、定型アスペ関係なく皆同じだと思います。
こちら側の要望だけ言って申し訳ないと思いつつ、正直に話すことで何かヒントになればと思ってコメントさせていただきました。

以前コメントさせていただきましたKei(男)です。。

大変面白く読ませていただいたのですが、何か腑に落ちない部分があって、何だろう?と読み返してみました。

いくつか気が付いたのですが、「キャラと素直な自分の関係」のところで、

アスペは

「感情的なやり取りを含む=外向きのキャラ」
「それ(感情的なやり取り)を避けて静かに一人でいたり、親しい人とは『場を共有する』などの姿勢になる=素直な自分」

定型は

「感情的な面をかなり無理しても相手に合わせる=外向きのキャラ」
「自然な感情の動きで相手と感情を共有できる=素直な自分」

のように書いていますが、「静かに場を共有する」という感覚がイコール「感情的なやり取り」でもあるという場合は、定型でもあると思うのですが、いかがでしょうか?

これに繋がる形なのですが、定型は「ある程度無理をして作ったキャラであっても、やがて相手との感情的な調整や価値観のすり合わせなどが進む中で、自分にとっても比較的自然に振る舞えるようなキャラに成長していくこともあり、素直な自分とのつながりは比較的作られやすいため、アスペの方のような絶対的な断絶といった感覚は生まれにくい」とあります。この時「キャラが素直な自分とつながりを持つ」のは、「相手との感情的な調整」がそのカギになっているように思えます。

パンダさんは「感情的」というのを何か「情熱的」とか「喜怒哀楽を直接的にぶつける」とかいう意味合いで使っているのでしょうか?

他にも「定型的な仲間作りは、価値観のすり合わせなども含むので『感情的なやり取り』が欠かせない」とあり、そこに「飲み会で騒いだり、愚痴を言い合ったり」とあって、何か「定型」がずいぶんと騒々しい無粋な連中のように思えて、そんな人間たちに「感情の共有」を「強要」されたら、アスペ定型関係なく「共感できない」気がしました、、、。さらにその「困惑」に対して定型の側が『自分に対する敵対心の表明と受け取る』ことがあり、それが場合によってアスペの方に対する『激しいいじめ』につながることがある」と聞くと、「それ定型じゃなくてただ人間的に問題あるだけじゃないか?」と思ってしまいます。

それから「素直な自分」と「キャラ」は定型もアスペも別物として意識していて、それが親しい関係において、定型が「素直な自分」を相手に要求するとそれはアスペにとって「キャラを演じる」ことになり、アスペが要求する「素直な自分」は定型にとって「「親しさを取り払ったよそよそしい関係になる」というのはよく分かりません。

そこで「悲劇的なズレ」が生じていることには同意しますが、それが「キャラ」と「素直な自分」のズレなのか?と言うとちょっと違うような気がします。

全体として感じるのは、「素直な自分」と「キャラ」が切り分けられてるのはアスペの方で、定型はその二つがほぼ「重なっている」のでは?ということです。そしておそらくパンダさんがここで戯画的に描いている「定型キャラを素の自分で生きている」みたいな「定型」は、アスペに出会えばきっと先ほどの「激しいいじめ」に走るか無視して、ここで問われているような「定型・アスペ問題」で悩んだりしないでしょう。

「定型・アスペ問題」で悩んでいる方のうち「定型寄り」の人は、おそらくあまり「群れる」こともなく、幸いにもごく自然に「素直な自分をキャラにできた人」ではないでしょうか?(おそらくどこかでアスペ側のパートナーの共依存的な助力を借りて) そして「アスペ寄り」の人は「キャラ」を身につけることを親や社会から強要されながらも、必死に「素直な自分」を死守し、それを殻で守るような形で意識下に「内面化」した人ではないでしょうか? 今回の記事の中の「定型キャラ」がその「素直な自分=定型キャラ」をアスペにぶつけたら、それは何か解決しようのないコンフリクトを引き起こすような気がしますし、まずそういったタイプは最初から一緒にいることすらできないかもしれません。しかし、一緒に生活を始め、いろいろぶつかりながらもそこにまだ何か解決法を見出そうと踏みとどまっている人たちは、おそらく簡単には切り捨てられない「絆」をお互いに見出していて、そのカギがアスペが抱える「意識下の素直な自分」なのだと思います。「意識下」と書くとまるで意識できないみたいですが、結局アスペの「意識」というのが「キャラ」あるいは「複数のキャラ」(夫・妻・父・母・社会人、そして自分の両親にとっての『子供』)に支配されているので、「素直な自分」に戻る時は「殻に閉じこもる」ような状態になってしまう。「キャラ」が意識の「主」なら「素直な自分」は「意識下」というより「副意識」みたいに社会生活の中では潜在している。生活することは常に自分を抑圧して場面場面で「キャラを切り替える」作業をずっとやるようなものだから、日々憔悴し切ってしまう。傍目には「鬱状態」にも見えるパートナーを定型側が「社会への橋渡し」の役割を担って救い出そうとしている、、、そんなのが僕の持つイメージです。

さて、ここまで書いてもちろんパンダさんは「アスペからは定型はそれぐらい恐ろしく見える」という「アスペ側の視点」から、あくまで記事として「分かりやすく」書いていらっしゃるのだ、と思い至りました。長文失礼いたしました。

>アスぺの方が作るキャラと素直な自分の関係は,感情的なやりとりを含むか(外向きのキャラ),それを避けて静かに一人でいたり,親しい人とは「場を共有」するなどの姿勢になるか(素直な自分)の違いになる

ここの部分が私にとってはピンと来ませんでした(^^;)私が理解しきれていないだけだったらすみません。私が思う「素の自分」と「キャラの自分」との違いは、こんな感じです。
「素の自分=自分の思考や手段を変えない、ありのままの状態」
「キャラの自分=共感できないが、定型側がそれを良しとするから、それに合わせた状態」

>コアラさん

お休み宣言されたのに、再びお名前を出してしまって、すみません。
ちょっと発見があった、という報告だったんですが。

コアラさんのコメントに、お返事させていただきますが、無理にお返事返さないで結構ですよ。
読むのも、余裕のあるときで結構です。せっかくお休みしたいというときに負担をかけては申し訳ないので。

夫に関して言いますと、『素の自分』というのが、彼のどの部分なのかがわかりません。
おそらく、家族と一緒にいて楽しく過ごしたいという気持ちが本音なのかもしれません。
けれど、親からの刷り込みや、自分の弱さを晒したくないという恐怖心が強いのか、どんな状況であっても、家族には絶対服従してほしいという欲求が強いのです。

コアラさんのおっしゃるように、彼の主張の中には、彼が苦労して獲得した価値観による建設的なものもあれば、全く子供の駄々のような稚拙で非現実的なものもあります。
建設的なもので、頼っていいものなら、その通りに従いますが、稚拙なものでその通りにしてしまうと大変なことになる場合も、俺の言うことに黙って従え!と言います。
一度それを肯定してしまったら、後で変えることは許されません。何故なら一度承諾したものを、やっぱり変えるという方が、彼にとって屈辱だからです。
この駄々をこねているときは、とにかく支離滅裂な理由をくっつけて私を論破しようとします。それができないとなると、部屋にこもってしまいます。

しばらくして、しぶしぶ認めてやった、感謝しろ、という感じで、私の意見をのみます。

私もその時点では深追いしませんが。

つまり、この駄々をこねているときに、それを一度のんでしまうと、大変なことになってしまうのです。
大した話でなければスルーしますが、子どもの進路や、家計のことや、親の介護など、本当に大切な物事でも、時々まるで状況にそぐわないことを通そうとするのです。
そのときは、こちらも、どんなに暴れようが喚こうが、絶対引きません。
衝突して私も嫌な思いをして、渋々承諾させて、けれど後々助かったことはたくさんあるので。
夫はそれでうまくいけば、その時衝突したことをわすれている(のか、自分が間違っていたことに気づいて触れないようにしているのか)ので。

生活するというのは、ただ夫婦間の調整だけでは済まないことがたくさんあります。
早急に決断しなくてはいけないのに、なかなか話し合いというところに持っていけないとき、多少強引であってもどちらかに従う、従わせるということは必要だと感じています。

Keiさん コアラさん

 いろいろありがとうございます。こんな風に問題提起をしていただくと,さらに理解が深まっていきますよね。

> 「静かに場を共有する」という感覚がイコール「感情的なやり取り」でもあるという場合は、定型でもあると思うのですが、いかがでしょうか?

 はい。そう思います。ある意味でそれが定型にとっても一番深い共感の状態と言えるかもしれません。定型について「自然な感情の動きで相手と感情を共有できる=素直な自分」と書いてくださった,そのいろいろある「自然な感情の動き」の一つになると思います。

> 「キャラが素直な自分とつながりを持つ」のは、「相手との感情的な調整」がそのカギになっているように思えます。

 ここは分るような気もしますが,もうひとつはっきりとは理解しきれませんでした。定型にとって感情を相手との関係で調整するというのはとても大事なことで,そうできる関係を作ろうとしますし,維持しようとします。コアラさんが指摘してくださったように,その点では実はアスぺの方も根っこのところでは変わらないということはあると思いますが,「キャラ」もまた自分の感情を調整するためのもの,という面が多分(アスぺの方より)強いので,「素直な自分」との断絶は必ずしもアスぺの方よりもそんなにははっきりしていないのだろうと思います。Keiさんの書かれたことがそんなような意味でしたら,私もそう思います。

>パンダさんは「感情的」というのを何か「情熱的」とか「喜怒哀楽を直接的にぶつける」とかいう意味合いで使っているのでしょうか?

 いえ,上にも書いたように,「静かな情感の共有」みたいなものも含んでとても広く考えてみています。すこし極端に言えば「何も感じない」という状態も,「ゼロの感情状態」という意味では,「感情的」の一種として考えることもできると思います。(常に何も感じない,という方がもしあるとすれば,その人にとってのゼロの感情状態を感情的というのはちょっとどうかなとは思いますが……(^ ^;))

>何か「定型」がずいぶんと騒々しい無粋な連中のように思えて、そんな人間たちに「感情の共有」を「強要」されたら、アスペ定型関係なく「共感できない」気がしました、、、。

 (笑) 定型は無粋なんだと思います……って,私だけかもしれませんが(^ ^;)ゞ。 私はそこまでしませんし,最近はそういうのかなり減ってきてますけど,それこそ昔は飲み会だと「俺の酒をのめないのか!」みたいな「強要」はいくらもありましたし,韓ドラとか見てると,今でも向こうの人間関係ではそういう「篤い」やりとりがすごいみたいですね。やっぱり定型社会ではそういうの,なくならないんだろうと思います。全然ないと孤独になる。お祭りとか,コンサートとか,スポーツ観戦とか,みんなで熱狂するようなものが好きな人が多い(私はどちらかというと苦手ですが)のも,同じことだと思います。

>「それ定型じゃなくてただ人間的に問題あるだけじゃないか?」と思ってしまいます。

 ここは定型のそういう「一体感を求め」て「思いやって」「助け合う」関係を大事にするということが,「敵味方」の問題につながってしまい,しかも変な方向に行くとそういうひどいことにもなる,ということで,「諸刃の剣」なんだろうという気がします。なかなか物事いいことだけではないというか……

>定型が「素直な自分」を相手に要求するとそれはアスペにとって「キャラを演じる」ことになり、アスペが要求する「素直な自分」は定型にとって「「親しさを取り払ったよそよそしい関係になる」というのはよく分かりません。

 ここに関することについてはコアラさんもちょっと分りにくく感じられたようで,もしかするとそこの辺りの理解の仕方について,定型アスぺの微妙なズレがある可能性もありますね。いや,単に私の話が定型アスぺに関係なくむちゃくちゃである可能性もあるわけですが (^ ^;)ゞ

>全体として感じるのは、「素直な自分」と「キャラ」が切り分けられてるのはアスペの方で、定型はその二つがほぼ「重なっている」のでは?ということです。

 はい,私もだいたいそういうイメージで考えてみています。もう少しいうと,定型の場合は「素直な自分」と「キャラ」が言ってみればスペクトラムになっている感じがあって,どちらからどちらの方向へも人間関係が行ったり来たりしうるのかなと。それに比べるとアスぺの方は境目がはっきりしているような。  

>「定型寄り」の人は、おそらくあまり「群れる」こともなく、幸いにもごく自然に「素直な自分をキャラにできた人」ではないでしょうか?……今回の記事の中の「定型キャラ」がその「素直な自分=定型キャラ」をアスペにぶつけたら、それは何か解決しようのないコンフリクトを引き起こすような気がしますし、まずそういったタイプは最初から一緒にいることすらできないかもしれません。

 この点は私の理解は少し違って,定型アスぺカップルを作った定型が「素直な自分をキャラにした」のではなくて,その人がスペクトラムとして持っている「素直な自分~外向きキャラ」のパターンのうち,素直な自分よりの部分について,アスぺのパートナーと感覚が共有されやすい部分が多かったということなのではないかと思います。このところのイメージが,コアラさんの書かれた次のイメージからははみ出る部分でしょう。

>私が思う「素の自分」と「キャラの自分」との違いは、こんな感じです。「素の自分=自分の思考や手段を変えない、ありのままの状態」「キャラの自分=共感できないが、定型側がそれを良しとするから、それに合わせた状態」

 定型の「素直な自分」はいろいろ幅や揺れがあって(だからスペクトラムにもなる),関係が深まったり持続したり,あるいはそこに子どもが新たに加わったりすることで常に新たに調整しながら「素直な自分」を改めて維持しようとするのだけれど,そこでアスぺのパートナーとの間に「再調整」が困難になり,対立関係が生まれやすくなるのではないかと思うのです。そうすると,それまでパートナーとの関係で救われていた「素直な自分」が,新たな状況の中では救われない部分が大きくなり,それを調整しようと頑張ると,ますます溝が深まりという,定型にとっては得体のしれない展開が生まれ,ドツボにはまっていく,という展開が待っているような気がします。

>傍目には「鬱状態」にも見えるパートナーを定型側が「社会への橋渡し」の役割を担って救い出そうとしている、、、

 そこまでの役割をちゃんと果たせればもちろんうれしいですけど,現実問題としてはなかなかそこがむつかしいです。思いはあっても道がなかなか見えてこない……

>パンダさんは「アスペからは定型はそれぐらい恐ろしく見える」という「アスペ側の視点」から、あくまで記事として「分かりやすく」書いていらっしゃる

 完全には無理ですけど,できるだけそれぞれの視点からどう見えるか,ということの想像力を広げていければなと思っています。相手の視点から見た自分たちの像というのは時にとても見にくいものになったりもするわけですが……。まあでもそれもお互い様で……。

丁寧に答えていただいてありがとうございます。勉強になります。

パンダさんが<身内------中間状態の調整>みたいな図をどこかで書いていましたが、それになぞらえると、

定型の場合
<素直な自分>>>>>>>外向きキャラ>
アスぺの場合
<素直な自分><外向きキャラ>
とスペクトラムと二分化みたいになるかと思います。

定型は日常的には「素直な自分とキャラの中間状態」みたいに振る舞っている。アスペは「キャラ」を演じていて、世界のほとんどの人間は「キャラだけ」にしか見えないのだが、その中にふっと「素直な自分」を見せる「アスペ寄りの定型」がいて、この二人が一緒になる(ですよね?)。

この定型はアスペの相手を自分と同じ「中間状態」だと「誤認」している。
このアスペは定型の相手を自分と同じ「素直な自分を隠してキャラを演じている人」と「誤認」している。
勘違いした二人が生活を共にする中で、お互い「素直な自分」を見せ始めると悲劇的なズレが露呈する。
ここでもう一度改めて自分たちの「素直な自分とキャラ」の関係について考えてみる。すると、

定型
<ありのままの自分><(素直な自分>>>>>>>外向きキャラ)=私>
アスぺ
<ありのままの自分=私><外向きキャラ>
となるのではないでしょうか?

定型は「中間状態=スペクトラム=私」であり、「ありのままの自分」はそこからはみ出してしまう。「ありのままの自分なんて他人が理解できるはずないだろう」と思っているし、「私が私であるため」には<素直な自分〜外向きキャラ>のスペクトラムに留まろうとする。

アスペは「ありのままの自分以外のどこに『私』があるのか?そうでなければ『キャラ』を外でも家の中でも演じ続けろとあなたは言うのか?」と言う。

この時定型は「ありのままのアスペ」を受け入れる以外に解決策はないと感じる。すると定型は「中間状態=私」から外れて「ありのままの自分」という不安定さの中に入り込み、日常生活と乖離していく(カサンドラ)。

アスペにとって「ありのままの自分」を受け入れてくれる可能性を持つのは「パートナー」しかいない(親にそうしてもらうことが叶わなかったので)。しかしそうは言ってもそれが「定型を苦しめる」ことも分かっているから、その解決策として、外でも家庭でもパートナーの前でさえも、「外向きキャラ」を演じ続けるのだが、そのことで「私」から乖離していく。反動として「ありのままの自分」に戻る時は「鬱状態」になり社会生活そのものが困難になる。それがまた家族の苦しみになるので八方ふさがりになる。

そこで「ありのままのアスペ」を受け入れ、なおかつ「ありのままの自分」を「演じる」ことによって「スペクトラムの私」に留まる。そんな二転三転のアクロバティックな日常を送ることが果たして「定型」にできるのか?!

これはもう人間が人間を超えられるのか?ぐらいの壮大なテーマですね(笑)。

Keiさん

 中間状態の話につなげてくださって嬉しいです。
 その中間状態の話が,実はかなりいろんな問題をつなげて考える上での
 大事なキーポイントになっているような気がしていますし,
 定型アスぺ問題への対応を考える上で,もしかするとそこが
 一番の足場なのかもしれないとかも思うんですね。

> 定型は「中間状態=スペクトラム=私」であり、「ありのままの自分」はそこからはみ出してしまう。「ありのままの自分なんて他人が理解できるはずないだろう」と思っているし、「私が私であるため」には<素直な自分〜外向きキャラ>のスペクトラムに留まろうとする。

 この点についてはかなりむつかしい問題がいろいろあるような気がしています。たとえば「素直な自分」と「ありのままの自分」は別のものと考えるべきなのか,とか,「ありのままの自分は本当に他人が理解できないか」とか,もうすこし突っ込んで考えればそもそも「ありのままの自分」というものが存在するのだろうかとか……

 定型でもこのあたりはいろんな見方をする人がいるように思いますが,この点でアスぺの方は「素直な自分」=「ありのままの自分」=「他人には決して理解できない自分」=「そういう自分は確実に存在する」という見方をされる方が多いんじゃないか,と勝手に想像しています。

 いろいろと刺激的なコメントで,まだ書きたいこともいろいろありますが,とりあえず……

Katzさんのご意見が、私の発想の転換にも繋がる気がしています。

そこでこれまで感じていたことと繋がりそうな気がしてきました。

アスペ定型問題に収まらないので、長くなると思います。すみません。

おそらく、パンダさんの奥様の方が、肌で感じていらっしゃることではないかと思いますが、今の高齢者の問題から、Katzさんのおっしゃることが見えてくるのです。

うちも、少子高齢化の影響をまともに受けて、複数の身内の介護問題に奔走しています。自分自身も勉強をしました。
今の介護は『自立支援』を重視します。まず、本人の意志を尊重するということを介護職の方は念頭に置いて接しなくてはならないのです。
けれど、実際、高齢者に接すると、本人の意志をはっきり示してくださる方は少ないです。認知症が進んでわがままを通しているように見える人も、実はそれが本当に本人の意志(希望)なのかわからないことが多いです。

身内の面会に施設に行った時、認知症のおじいさんが私に、自分に出されていた介護用のトロミの付いたお茶を、どうぞと出してくれたのです。
私は、認知症になっても気遣いができるってすごいなと、そのとき思ったのですが、今になって、これって異常な状態じゃないか?と思いました。
つまり、認知症になって、自分が何をしたいという希望が無くなっても、気遣いだけは無くならない=気遣いがその人生の大半を占めていた、ということではないかと。

私の親の世代から前はよく、「世間様」という言葉を使います。親世代の生き方を見ていると、まずは「世間様」からどう見られるかというのが重要で、自分がやりたいこと、あるいは嫌なことを主張するのは恥と思っています。
だから躾の中心も「世間様に顔向けができるような」人間を育てることでした。

プライドの高い認知症の身内も介護しましたが、本人の希望が聞き出せなくて苦労しました。何がしたいのかは決して言わないし、暑いとか寒いとか、そんな基本的なことすら訴えてくれない。
認知症によって失禁してしまったりすると、それを隠そうとしてかえって処理が大変になってしまうのです。
自分は世間様に恥ずかしくない存在であろうと、できないことも、無理にやろうとし、それを手伝おうとすれば屈辱を覚えて恨みます。

この人にとって、長い人生の中で、自分がやりたいことを優先するのは罪だったのです。
認知症によるわがままといえば、世間様に恥ずかしくない自分でいたくて取り繕うとして、かえって迷惑をかけてしまうということでした。

つまり、介護用のお茶を差し出したおじいさんと同じですね。

彼らの考える『世間様』には、実体がありません。千と千尋の神隠しに出てくるカオナシのように、漠然としたイメージです。
個人としての相手が喜ぶかどうかは基準ではないのです。

昨日『少年H』という映画をやっていて途中から観たのですが、高齢者がなぜこの『世間様』を恐れるのか、少しわかったような気がしました。
少年Hは妹尾河童さんの自叙伝なんですが、戦時中、Hは自分の素直な気持ちを何でも話してしまう。しかし、それが元で父親が拷問に遭ったり、いじめられたり、教師に折檻されたりしてしまう。
周囲から「余計なことを言うからだよ」と言われても、Hは全く納得がいかない。
そして戦後、価値観がひっくり返って、大人たちがこれまでとまるで違うことを言ったりやったりしているのを見て、怒りを覚えるのです。

Hのように、逆境にめげず、自分を貫き通す強さがあればいいですが、多くの人はコロコロと形を変える『世間様』に合わせなくては生き抜けなかったでしょう。

それが今の高齢者の価値観の元になっているのでは?と感じたのです。

そして、この高齢者がどう影響しているかといえば、私のような中年世代に、親からこの価値観をそのまま受け継いできた、いや、無理矢理受け継がされた人が多いということです。

Katzさんの言われる『ありのままの自分』というものを、自分の中で見つけようとしたとき、私はどれがそうなのかわかりません。
好きなことはあっても、それは親から『世間様に恥ずかしくない』基準で振り分けられて残ったものかもしれないし、その基準に合うようにいつの間にか修正されたものかもしれない。

しかし、この振り分けられた価値観で成功した人は、それが正しいとして次の世代に強制する。

アスペが、少年Hのように、『世間様』を必要以上に恐れない性格をもつものであるとすれば、本当に必要なのは、その意識であって、多くの歪みを修正する力があるのも、そこなのかもしれないと思います。

そうなれば、本来のアスペのもつ『良さ』を無理矢理捻じ曲げて、アスペの人を混乱させ、社会から排除していく傾向は、人間よりも世間様が勝っていくことだと思うし、危機的な状況だと思いますね。

カサンドラは、ねじ曲げられたアスペとねじ曲げられた定型の間に起こっている、当然の歪みをなのかもしれません。

あすなろさん

>Katzさんのご意見

 もしかしてKeiさんでしょうか? (笑)

>アスペが、少年Hのように、『世間様』を必要以上に恐れない性格をもつものであるとすれば、本当に必要なのは、その意識であって、多くの歪みを修正する力があるのも、そこなのかもしれないと思います。

 ここも重要な問題なのでしょうね。

 私の話で言えば,このところどっちにも転びうるような「中間」を定型が多用するということを書いてますけど,日本の社会はこの「中間」をかなり極端に使う社会なのかなという気がします。「誰」が「何」を望んでいるか,ということをあいまいにした状態でお互いの関係を,相手の気持ちを探りながらゆるやかに調整していくやり方です。

 誰かの明確な主張やはっきりした議論から物事が決まっていくのではなくて,お互いの気分のすり合わせ(調整)からバランス(妥協点)を探して「まあ,こんなものかなあ」という「落としどころ」を見つけていく形になりますから,あんまり対立が目立たなくなるし,わりにおだやかな関係の調整が可能になるんだと思います。

 で,そういう関係の調整の仕方を成り立たせるには,お互いに強烈な自己主張は控え,まずは相手の気分を探る姿勢を保たなければならず,そういう場を崩してはならないことになる。その場が「世間様」なのではないでしょうか。

 それははっきりとして「誰」とは言えない,なんとなくみんなの気分が寄り集まってできるその場の「空気」みたいなもので,人はそれをちゃんと読んでその場に合わせて行動できなければならない。その空気に反した自己主張をすることは「世間様」を壊すことだから,「世間様」が許さないことになるのだと考えるとわかりやすい気がします。

 私は定型の中ではこの「世間様」に合わせて行動するのが苦手な方で,自己主張も基本的にははっきりしていると思うので,「世間様」には「ご迷惑」をおかけする方ですが (^ ^;)ゞ,その点ではアスぺの方はさらにそこが大変になるのだと思います。

 お互いに自己主張を控え,相手の気持ちを読んでゆっくりバランスを探していく,というやり方は,自己主張をベースに関係を調整する他の文化の人たちと比べて,おだやかな人間関係を作っていると思いますが,でもその穏やかさを保つために払っている犠牲も実はかなり壮絶で,アスぺの方はそこにずっぽりとはまってしまうような気がします。

 世界中に定型アスぺ問題はあるのだけれど,でもそれがどんな形で問題になるか,どうやって調整を図っていけるのかということを具体的に考えていくには,たとえば「世間様」のような,その社会社会の特徴を踏まえて考えていかないと,現実的な対応がむつかしいこともあるように思うんですね。

パンダさんが「中間状態」を説明するために「虹の色」や「胸と腹の違い」などに例えているのを僕自身は納得しながら見ています。
僕は前コメントでパンダさんの図式を借りて、

定型
<ありのままの自分><(素直な自分>>>>>>>外向きキャラ)=私>
アスぺ
<ありのままの自分=私><外向きキャラ>

こんな風に書きましたが、他の方のコメントを読んで、これもちょっと違うと感じました。以下長くなります(いつもですね、、、すみません)

<素直な自分+キャラ>

という状態を出発点にします。すると定型は成長する中で、

<素直な自分<<<<<キャラ>

というスペクトラムを作り上げる。そして、この辺りが非常に説明が難しいのですが、この「<<<<<<」のスペクトラムは、客観的に存在するものではなく、定型も「場の空気」とか「常識」とか「世間」に合わせて「何となくそうしてる」という状態なのだと思います。つまり「<<<<<<<」(スペクトラム)は本質的には「本人だけが感じることができるもの」なのに、「長いものには巻かれろ」という「群畜本能」としての「鈍感さ」を身につけた定型は、「世間」という「虎の威を借りて」図々しくもそれを「常識でしょう?」と言い張る。

しかしアスペ(というより定型に近いアスペでしょうけど)は、

<素直な自分><キャラ><素直な自分><キャラ><素直な自分><キャラ>

みたいな感じで、素直な自分とキャラが「デジタルに並んでる」みたいな状態を作るのだと思います。「キャラ」はあくまで「外向け」であり、「素直な自分」を簡単に「世間」に切り売りしたりしない。

これはたぶん日常的には「見分けがつかない」と思います。しかし「家庭の中」とか「男と女」とか「親友」とか、極めて親密な関係になると、例えば「一緒にいる時は『素直な自分』になりたい」みたいな「曰く言い難い」ことをお互いが要求し合うようになる。

定型は「私は素直だ」と言いながらスペクトラムのどこかで「素直な自分90%キャラ10%」みたいになる。アスペは「私は素直だ」と言うとデジタルな羅列の中のどこかで「素直な自分」に「切り替わる」。

定型は「君『素直過ぎ』でしょう!」みたいになるし、アスペは「あなたのどこが素直なの?」となる。定型は「私のどこが素直じゃないのか?」みたいに「世の中」や「常識」を盾に言い張る。アスペは「これ以外にどんな素直さがあると言うんだ?」みたいに「本人の感覚」を頼りに抵抗する。

結局普通に生活していれば「世間」「常識」に負けるのでアスペは「妥協」を迫られる。その時アスペは「素直な自分キャラ」を「キャラリスト」に追加する(それができるのはきっと定形寄りの方だけですね)。素直な自分までキャラにしたらますます生きづらくなるから、そこで「ありのままの自分」が蜃気楼のように出てくる。

定型は特に「ありのままの自分」を必要とせず言って見れば「スペクトラム全体=ありのままの自分」なんだと思います。ところがアスペは、素直な自分を否定された「結果」として「ありのままの自分」を「ユートピア」のように作り上げる。ここも説明し難い何かがある。定型からすれば「ありのままの自分???」という感じです。それ何?どこ? しかしこの場合、重要なのはアスペの「ありのままの自分」の真の原因が「定型側」にあるということです。定型が「スペクトラム」として感じている「<<<<<」をアスペに押し付ける。もしかしたらそれは「善意」や「思いやり」の形をとったかもしれないが、それはアスペにとっては「自我への攻撃」になった。そしてその対抗措置として築いた「防壁」(というより実体のないプラズマみたいな?)が「ありのままの自分」なのではないでしょうか? だからきっと、極端に図式化するとこんな感じになるのかもしれない。

<キャラ><ありのままの自分><素直な自分キャラ><ありのままの自分><キャラ><ありのままの自分><キャラ>(以下繰り返し)

きっと心のあらゆる場所に<ありのままの自分>は潜在している。そして一体「どこに」その「ありのままの自分」があるのか?誰にもさっぱり分からない。だけど「アスペ本人」にとっては自我のもっとも核心的なものとして「ある」と感じられる。

僕も考えていて可笑しいしいと思ったのですが、この「本人にとってだけは確実に存在する」という感覚は実は定型が「スペクトラム」として感じているものと同じであろうということです。元々「本人にとってしか存在しないもの」だけど、定型は多数派の「世間」とシンクロしてるから「常識だ」と思い込むことができただけ、のようにも思います。

しかしこんな精神の最果ての地まで行き着いた「親子」や「夫婦」にはさらに地獄が待っている。

「ありのままの自分だって?甘えるな!」とぶち切れる人もいれば、「ありのままの自分って何?それどこ?」と振り回され、自分の「素直さ」も「キャラ」も見失う人もいる(カサンドラ)。「素直な自分」を抑圧し、ひたすらにアスペの「ありのままの自分」に従属する人もいる(共依存)。

僕はこれを定型側から書いています。そしてこの最後の「共依存」一歩手前で、素直な自分を抑圧することなく「ありのままの自分を受け入れてあげてるフリをするキャラ」を演じるのですが、毎日ぐったり疲れます。これを乗り越えるのはやっぱり「人間」には無理ですね!


keiさん。横から失礼します。

>定型は特に「ありのままの自分」を必要とせず言って見れ ば「スペクトラム全体=ありのままの自分」なんだと思います。

一体どういうものなんでしょうか?具体例を出して頂けませんか。
非難ではなく、定型者の感覚がどんなものなのか分からないので、知りたいのです。
質問で申し訳ないですが、お願いします。

私も横から失礼します。
にわとりさんと同じく、もし具体例を出していただけるなら、私も嬉しいです。何と言うか、わかったようなわからないような、何だかモヤモヤした感じがありますので…。

それとは別に。
あすなろさんのおっしゃる「ありのままの自分がわからない」というのは、非常に重要だと思います。社会から刷り込まれた常識ではないかと疑い始めたら、ふらっと自分探しの旅に出かけて掴めてしまうような簡単なモノではありませんよね。
私が思うに、まずは自分に刷り込まれた常識を壊す所から始める事になるのではないかと。常識を壊す気分を一度味わってみるだけならそんなに難しくなくて、日本の歴史を少し眺めてみるだけで十分だと思います。性と結婚観と宗教、それと刑罰をちょっと見てみるだけでも、今の社会常識がいかに恣意的に作られたかがわかります。ファンタジー的な別世界の夢物語としてではなく、そういう世界に自分がいたら…と想像すると、かなりショッキングですよ(^_^;) 何しろ、他でもない私のご先祖様は実際にそういう世界にいたのですから、荒唐無稽な非生産的妄想とは違います。
その辺りを出発点にして、自分の中の常識を一つずつ見直して、他の考え方の可能性を検討していきます。そうやって自分を一度壊してしまう。すると一体どうしたらいいかがわからなくなりますが、最終的には自分がどれを選ぶのかが重要なのだと気付きます。その時には、目の前に選択肢が沢山あって、それぞれのメリットとデメリットがちゃんとわかっているはずなんですよね。
ここまで来れば、本当の意味で「ありのままの自分」を考える事が出来るようになるのでしょう。

能の観阿弥・世阿弥が、その教育論の中で守破離を提唱したそうですが、まさにそれだと思います。

また、この思索の副産物として、非常識な事を冷静に議論する事が出来るようになるんですね。価値観の相違から軋轢が起こるような場合には、こういう下地も大事なのではないかと。多分。

すみません。
前回のコメントの内容、Keiさんのコメントについてです。
パンダさん、訂正ありがとうございました。

ありのままの〜♪
なんて、シャレのように『アナと雪の女王』を口ずさんでいたら、もしかしてアナ雪がKeiさんのおっしゃることの具体例になるかも?なんて思えました。

ご存知ない方のために簡単に説明すると、エルサという、触れるものを何でも凍らせてしまう力を持つお姫様がいて、国王夫妻は、エルサがその力をコントロールできるようになるまで、誰にも知られないように部屋に軟禁するような状態で育てているのだけど、両親の突然の死で、エルサは王位を継がなくてはならなくなる。
戴冠の日に、その力がみんなにバレてしまい、エルサは逃げ出して山奥に自分だけの氷の城を築いて『ありのままの自分』で暮らせるようになる。
しかし、エルサの力が暴走して国中が氷に閉ざされてしまい、妹のアナが姉を説得しようとする

と、いうようなストーリーですが。
エルサの氷の力というのが、アスペの方の『素の自分』とすると、それを隠して何もないように装うというのが、『キャラを作る』ことに当たるのでは?
実際にその力が無くなったわけではないから、定型の前では必死に隠し通さなければならない。

エルサが定型だった場合、両親から『その力は良くない』と言われれば、自分でそれを気にならない程度に抑え込むことができるわけです。
もちろん、全てが無くなるわけではないから、時々ふと出てしまうことがあっても、それは周囲にも気付かれない程度に抑えていられる。
その力を抑え込んでいる『自分』が、いつの間にか『ありのままの自分』になるわけです。

定型側としては、力を抑え込んだ状態を無意識のうちに『不服』と感じていて、自分が意図せずに我慢させられてきた『ありのままの自分』をさらけ出す人がいれば、嫉妬や軽蔑を感じることもあるのかもしれません。

アスペ側にしても、コントロールすることの難しい『ありのままの自分』が、そのまま社会に通用しないことは分かる。非難されれば『抑え込む』しかない。最悪の場合は、エルサのように自分自身の存在を隠して生きなくてはならなくなる。

エルサの力は、アナへの想いから、穏やかな力へと変わって、平和に暮らせるようになるんですが、この結末って、結構批判を受けていたんですよね。
問題の解決になってないって!

これって、アスペ定型問題を象徴してるんじゃないかと、今、思いましたね。

再び横からすみません。
アナ雪は見てないので大まかなあらすじしか知りませんが、あすなろさんの解説はわかりやすかったです。ありがとうございます。

>エルサが定型だった場合、両親から『その力は良くない』 と言われれば、自分でそれを気にならない程度に抑え込む ことができるわけです。
(中略)
>その力を抑え込んでいる『自分』が、いつの間にか『ありのままの自分』になるわけです。

なるほど。定型者はそういった感覚を持ってるんですね。

書籍話になりますが、「女の子ってややこしい」という女の子同士のいじめの背景を探った本があります。
その中には女の子は小さい時から
「女の子は他人には優しく、また下の兄弟や小さな子の面倒を見なさい」
「女の子は物わかりが良く、素直でなければならない」
「女の子は品良く。争いごとや殴り合いをするのは下品でみっともない」
などと親や先生、周りの大人から言われ続け、女の子はドロドロした感情を出すことは許されないためにストレスが溜まっているとの話がありました。
もちろんいい子を演じてると女の子達もストレスが溜まります。
女の子達は表明的にはいい子を装い、ガス抜きとして、裏では標的を作って集団無視をしたり、表では仲良しに見せかけて一人の子をバカにするなど、周りの大人にばれないようないじめ攻撃に出るというものでした。
この部分が

>定型側としては、力を抑え込んだ状態を無意識のうちに 『不服』と感じていて、自分が意図せずに我慢させられて きた『ありのままの自分』をさらけ出す人がいれば、嫉妬や軽蔑を感じることもあるのかもしれません。
というものでしょうか。

そういえばうちの両親はそういった躾には無頓着でした。
周りの他人は「女の子なんだから!」と言ってましたが、聞く耳持ってませんでした。
周りが求める振る舞いをみんなはしてるのに自分は周りがどう思うかなんて概念すら分かりませんでした。
これが周りから攻撃を受けた要因の一つだったんですね。

私のように悪い意味でのありのままは問題ですが…(汗)
(エルサのように)力を抑え込んでいる『自分』が、いつの間にか『ありのままの自分』になれるかはお話を伺うと難しいそうですね…。
その前に力を抑えこむ技術がないですが、仮に技術があったとしても、抑えこむのに相当なエネルギーを使い、それだけで頭の容量を使い果たしてしまうと思いますから、自分の精神が持つかは自信ないですね。


>エルサが定型だった場合、両親から『その力は良くない』 と言われれば、自分でそれを気にならない程度に抑え込むことができるわけです。

両親からこんなこと言われたら私は今以上に異常者になってしまいそうです。

連続ですみません。

私の場合はありのままと我儘をはき違えた事例だったかもしれませんね。

ただ自分を抑えて定型者が求める振る舞いをしたらそれはそれで精神は持たないかもしれません。
発達障害が外向きのキャラを作らなければ生きていけないのだとしたら私はどうしたら耐えられるのかも課題ですね…。

>にわとりさん

>私の場合はありのままと我儘をはき違えた事例だったかもしれませんね。

これ、多くのアスペの方が、思わされていることではないでしょうか?
定型社会では、ありのままの自分を出す人をひとくくりに『我儘』という言葉で表現しようとする。それ以外に表現方法を知らないし、突き詰めれば『ありのままの自分』を出せる人がいるとは信じたくないんです。

にわとりさんの生育歴と私の生育歴は真逆ですね。
私は母親の訳のわからない価値観でがんじがらめでした。だから、今振り返ってみると、自分が本当に何を望んでいたのか全く見当がつかないんですよ。
全く、ではないかな?
私、インディジョーンズみたいな考古学者になりたかったんですよ。
勝手にしろっていう親だったら、今ごろ結婚もせずに女を忘れて泥まみれになって世界中をとび回っていたかな?
もうすでに、伝染病やテロで命を落としていたかも?
なんかそういう人生もあったかな?なんて。
博物館とか行くともう体がウズウズします。本能の部分でなんかあるのだわ(爆)

もしかしたら私がアスペだったら丁度良かったのかな?
けれど親の価値観を植え付けられなかったにわとりさんも、他人がちょっかい出してきて、苦しい状態になっていると考えると、どちらとも言えないですね。

アナ雪のストーリーが酷評を浴びたのは、エルサが自分の城を築く前半までは、それを自分のこととしてリアルに感情移入できる人が多いにも関わらず、結局、大衆に迎合する形のご都合主義で終わってしまったことじゃないかな?と思います。
「Let It Go」がヒットしたのも、そういうジレンマを抱きながら生きている人が多いということでしょうね。

あすなろさん

いいえ。私は単に常識からかなりかけ離れて品に欠けていただけです(-_-;)

>定型社会では、ありのままの自分を出す人をひとくくりに 『我儘』という言葉で表現しようとする。それ以外に表現方法を知らないし、突き詰めれば『ありのままの自分』を出せる人がいるとは信じたくないんです。

そういうことで定型者も無意識に抑圧してることを正当化してるのでしょうか?
自分のことにはまだ自信がありません。
みなさまのお話を伺ってると、定型者は「柔軟に自分を変えられる」。
自分の場合は「自分を変えようとしてもコンピューター(脳)に異常があって、書き換え拒否しているのではないかと感じるのです。
今の自分の常識を壊し、他者や自分を客観視し、柔軟に変えていくことは頭の中ではできたとしても、脳の書き換えができないために感情がついていかないのではないかと。

もし

>親の価値観を植え付けられなかったにわとりさんも、他人がちょっかい出してきて、苦しい状態になっている

親を舐めきっていて、親の価値観をはねのけていたのかもしれません。
かなり行儀が悪く(大変汚い話ですが、子供の頃は平気で鼻くそをほじくってましたから(-_-;))、空気を読むとか一体になるとかチームプレイなどという概念すらなかったです(分かっていたとしてもできない)。
ある意味自由でしたが、嫌われてるのは必然的ですね。

そういえばよく世間で
「自分探しの旅に出る」
「自分というものがわからない」
なんていう意味が全く分かりませんでした。
友達もいて、恋人や家庭にも恵まれて、容姿も良いじゃない。私にはない物を持っていて、自分というものがわからないって…何が不満なの?
と思ってましたが、その人は私とは真逆のパターンだったのかもしれませんね。

> 伝染病やテロで命を落としていたかも? 博物館とか行くともう体がウズウズします。

自由奔放にやったり、世界中を回ってる人には憧れますね。
しかし伝染病やテロのリスクを抱えた上ではスケールが大きいですね。
しかし本当の自由を求めるというのはそういうことなんでしょうね。
私は逆にふつうになって皆と仲良くなりたい気持ちが強かったので、育った環境も影響するのでしょうか?

>もしかしたら私がアスペだったら丁度良かったのかな?

逆に子供はふつうの親には耐えられなくてノイローゼになったり、精神的な虐待に走る恐れもありそうですが…。

>アナ雪のストーリーが酷評を浴びたのは、エルサが自分の城を築く前半までは、それを自分のこととしてリアルに感 情移入できる人が多いにも関わらず、結局、大衆に迎合する形のご都合主義で終わってしまったことじゃないかな? と思います。

潜在的には人は自由を求めつつも、結局は幼少期から身についた価値観に戻ってしまのでしょうか?


修正です。

>もしかしたら私がアスペだったら丁度良かったのかな?

逆に子供はふつうの親には耐えられなくてノイローゼに なったり、精神的な虐待に走る恐れもありそうですが…。

>もしかしたら私がアスペだったら丁度良かったのかな?

逆にアスペの子供はふつうの親が育てると耐えられなくてノイローゼに なったり、精神的な虐待に走る恐れもありそうですが…。

失礼しました。

Kei(男)です。「アナと雪の女王」を僕は見ていなくて、しかもその「エルサの力」というのをそのまま捉えると僕の考えてることには繋がらないので、質問いただいた「ありのままの自分」について設定をちょっと変えて考えてみます。

まずエルサの「超人的な力」を「超人的な力を持ちたいという欲望」に言い換えます。おそらくあすなろさんが言う「ありのままの自分」は、僕が考える場合にはこの「欲望」に近いのでは?と思います。これはアスペでも定型でも子供の時に誰もが持つ「全能感」です。つまり子供時代は誰でも「エルサ」だと考えます。

「アナと雪の女王」の国王はエルサの「超人的な力」を自分たちの城に閉じ込めるが、現実の多くの親はそんな力を「わがまま言うな。世間体を考えろ」とか子供の「欲望の力」を抑圧する。代わりに「常識」や「世間様」が刷り込まれる。

そこで定型は「常識」「普通」「当たり前」を皮膚感覚のように身に付け、それと引き換えに「ありのままの自分」を見失う。それは「素直な自分」と「キャラ」の間のスペクトラムとして現れる。「ありのままの自分はどこへ行ったのか?」と問われれば、その「スペクトラムがそれじゃないのか?」と答えるしかない。(あすなろさんは定型はそれを『抑え込む』『時々ふと出る』と書かれてます。そう考えるとアスペも定型もその『欲望を抑圧する程度が違うだけ』で、どこかで分かり合えるような気がしますが、僕はもっと決定的な断絶を感じます。定型は『ありのままの自分を一回喪失して置き換える』と考えた方が個人的には納得がいきます)

そしてアスペはその「ありのままの自分=欲望の力」が消失しない(あるいは消すことができないのか?これはACにも通じる)。

芸能やスポーツの世界の有名な方のようにその「欲望」を実現する人もいる。これはエルサが自らの力で「自分の城」を築くことに似ている。しかしそれが「超人的な力を持ちたいという欲望」である限りいつまでも焦燥感に駆られ「不完全さ」に苛まされる。

世界に何十万といるであろう「自分の城を持つことのできないエルサ」は「自分は力を封印されただけだ」と親を恨んだり「いやいや自分自身の努力が足りないからだ」と自分を責めたり、あるいは「白馬の王子様」を待ち続けたり、とにかく「自分の城」夢見る。そこに住んで初めて自分は『ありのままの自分』で生きることができるのだと思う。

これは本当に実現可能なものなのか? 僕は「ありのままの自分」を定型は必要としない、と書きましたが、定型というのはこの「全能感」をはるか昔に諦めているのだと思います。それはたしかに子供時代に自分も持っていた。「夢を実現する」とか「大きな仕事を成し遂げる」とかその時必要な力でもあるから否定もしない。だけど、凡庸な(自分のような)人間が本気で夢を実現しようと思った時とか逆にあまり役に立たないようにも思う。それはもっと別な精神の力、例えば「根気」や「地道な努力」に変換されない限りそれ自体では現実に影響力を持てない気がする。

また「ありのままの自分」を僕は「蜃気楼」とか「ユートピア」と表現しました。この「子供時代の全能感」を、定型は思い出したり考えたりすることはできるけど、直接感じたりはできないように思います。それは消えてなくなったわけではないから、今でも自分の感覚のどこかにあるとは思う。それがアスペの方の心にはずっと残っている。なぜそんなに強烈なものとして心に刻まれているのか? それは個人や家族の歴史の中で抱えざるを得なかったある種のトラウマでもあるでしょう。そしてそれが定型社会や定型パートナーが押し付ける「普通」や「中間状態」とのコンフリクトの中で決定的に「ありありと」感じられるようになる(それを『思い出させた原因』は定型側にあります)。「素直な自分<<<<キャラのスペクトラム!!」とかいう訳の分からない「定型の当たり前」に対して「ありのままの自分」という「アスペにとっての当たり前」をぶつける。「中間状態?何それ?じゃああなたにこれが分かって?どう憶えてるでしょう?あなたがとうの昔に捨て去った大切なあれよ!あの『ありのままの自分』よ!」というわけです。これはけっこうグサッと来る。で、実はこの「グサッ」っていうのをアスペの方は四六時中やられてるわけですから、100回斬られたところで1回斬り返したぐらいの気持ちでしょう。ところが定型は不意打ちを食らって戸惑う。目の前に「防壁」が立ちはだかっているようにもの見えるし、説明されても遥か彼方の「ユートピア」を蜃気楼のように眺めているようにも見える。アスペの方にしてみれば「どう分かった?分からないの?どうしてこんなことも分からないの?当たり前のことでしょう?何で分からないかなー?」と追い詰めたくなる。これもちょうど自分がいつもやられていることです。しかも「こんな防壁を築かせたのはだれよ?だれのせいなの?」という感じですから「責任とって『ありのままの自分』を受け入れてくれ!」と要求するぐらい当然にも思えます。この「やられたらやり返せ」の鏡地獄を脱出しなければ救いはありません。

>Keiさん

こちらで勝手な解釈をしてしまって、すみません^^;
しかし、(ご覧になっていないので、仕方ないのですが)エルサの力の意味が根本的に違っていまして。
おそらく超人的な力=憧れのように捉えられたのかと思いますが、エルサにとってはこの力は苦しみでしかないのです。
しかも、全能どころか、この力のお陰で、彼女がどんな人物か性格かも、誰にも知られることなく、引きこもることを強いられているわけです。
最初の時点では、彼女の可能性を潰す、余計な力なのです。

しかし、自分の城を築いて誰とも関わらなくなったとき、その力にも別の可能性が秘められていることを知る。誰かに迷惑をかけなければ、悪いものではないと、自信を持てるようになったという流れで。

私はこれをアスペの人の特性と似ているのではないかなと考えたのですが。

その力自体に変化はない。
ただ、人と関わると、どうしてもマイナスに取られてしまう。
もしも、同じ力を持つ定型がいたとしたら、マイナスに取られた時点で自分の力の質を変化させようとする。
しかし、アスペは、その力の質を変えることはない。

欲望や意志とは逆に、本来持っているけれど、マイナスが大きくて、できれば消し去りたい力なのです。

アニメの世界の超人的な力というのが、ちょっと飛びすぎた設定だったので、分かりにくかったと思いますが、誰もが生まれたときから持っている性質といえばわかると思います。

その性質を活かせるかどうかは、周囲の理解が大きいですよね?
そして、そのままの性質が何事もなく受け入れられることはまず無いと思います。必ず大人からの修正が入る。
定型の子は、大人の期待を感じ取って自ら修正しようともする。
しかし、アスペの子は、大人の期待を感じ取ることは難しい。

大人の期待に添うように変化を遂げてきた定型は、生まれ持った性質とはかなり違った性質となっており、
アスペは、生まれ持った性質を維持しているけれど、大人の期待とはかけ離れているので、違和感が生まれる。

ただ、この大人の期待は、果たして真理かといえば、そうではない。
大人自身の都合が多く含まれていて、間違っていることも多い。

ここで、生育歴による悲劇というのは、性質は違うものの、アスペも定型も、起こるものではないかと思います。

もちろん、定型の考えが多数を占める世の中では、大人の都合に合わせて変化を遂げてきた定型が市民権を得ているような感じに見えますが、行きすぎた変化を遂げてしまった定型もまた、社会から離脱し、さらに自分を見失っているために、悲惨な状況になってしまうこともあり得るのです。

スポーツ選手のお話がありましたが、極端にいえば、周囲の期待などお構いなしに自分が好きだから腕を磨いてきたというアスペ的な選手もいれば、親の期待に添って腕を磨いてきた定型的な選手もいるわけで。
精神的に強いのは、どちらかと言えば、お分かりでしょう。

『ありのままの自分』を維持できることは、排除の対象にもなりやすいけれど、誰にも負けない強さにもなり得るわけで。

ただ、それがどちらに展開されるかは、残念ながら巡り合わせや環境が非常に大きいということではないでしょうか。

すみません。
後半部分の解釈がまだできていないので、また改めて考えてみます。

なるほど、、、それは全く真逆の解釈ですね。お恥ずかしい。販促ビデオか何かでそのエルサが嬉々として「氷の城」を築いているところだけは見ていて(その時はそれがアナという主人公だと思ったのですが)、その姿が何かステージで喝采を浴びるスターみたいに見えたので、そこから「力」を「全能感」とか「承認欲求」みたいに思い込んでしまいました。

エルサの力が「生まれ持った力=定型社会ではマイナスと取られてしまう生得的気質」で王様の城に引きこもることを強いられる。でも、そこで「自身を持てるようになる」時になぜ「自分の城」なんだろう?とはやはり思います。そこしか見てないのでそこだけにやたらこだわりますが(笑)、もう一度考えてみると、僕が言いたかった「ありのままの自分などない」(定型から見ると蜃気楼みたいに見える)というのは、この「城」なんだと思います。

「俺の城すげえ!」「見て私のお城!」

そこで妙に冷めて「いや、気持ち分かるけど、それ幻だから。『ありのままの自分』でいようよ」みたいに定型が語りかける。

たぶん「ありのままの自分」なんて言い出すのも定型から何でしょうね。ところがここで心に浮かんでいるイメージは<素直な自分〜キャラ>なんで、アスペが必死に「ありのままの自分」になろうとすると「いやいや、それ違うから。そんなの存在しないから」とかたしなめる。定型はいかにも言いそうなんです。

あすなろさんのお話の中で、
「(誰もが生まれたときから持っている性質を)定型はマイナスに取られた時点で自分の力の質を変化させようとする」
「アスペは、その力の質を変えることはない」
「定型の子は、大人の期待を感じ取って自ら修正しようとする」
「アスペの子は、大人の期待を感じ取ることは難しい」
とあるのですが、これを参考にすると僕が想定している「アスペの苦悩」は

「私は力の質を変えることができない『だけど』定型社会ではマイナスに取られるからそれを『変えなければいけない』」
「私は大人の期待なんか感じることはできない『だけど』お父さんお母さんに認められるためには期待に『答えなければならない』」

という「ダブルバインドの呪縛」に延々と囚われている人のように思います。「私には城なんて必要ない『だけど』城がなければ生きて行けない」みたいに。また見てもいないに「アナ雪」に立ち戻りますが(見ます!)、その「ラストが批判を浴びた」というのは、この「城なんて必要ないよ」みたいに洗脳されたエルサが定型社会に順応させられる、という意味で「問題の解決になっていない」ということでしょうか? そうだとすると「城なんて幻だ」と言う自分にとってもそれは本当に痛い問題で、エルサにとって「解決」があるとすれば、みんなが「エルサの氷の城すげえ!」みたいにテーマパークでも作ってあげればいいってことでしょうか?(すみません、とりあえず、ビデオ見ます、、、)

Keiさん

 あすなろさんとのやりとりで割り込んですみません。
 Keiさんの大事な議論にとっては脇道の部分で,ひとつだけ,私の説明不足で誤解があるかもしれないので,その点だけちょっと補足です。

> 「ありのままの自分などない」(定型から見ると蜃気楼みたいに見える)というのは、この「城」なんだと

 この「定型から見ると」というところですが,とりあえずは「パンダに言わせると」くらいにイメージして頂いておいた方がいいかなと思いました。

 というのは,定型でも「本当の私」というものは確実に絶対にある(はずだ)という思いで生きている方は少なくない,というか,むしろそちらのほうが多いのだろうと思います。特に現在の社会は,「私」というか「自我」というか,そういうものが絶対にまずあるんだ,ということを絶対的な前提にしていろいろなことを考えたり,ものごとを処理したりする傾向がものすごく強くなった社会だと思います。

 で,それは常識なので,だから逆にたとえば仏教で「無我」ということに思い至る,というある種非常識な特別なことが,日常の世界の苦悩でにっちもさっちもいかなくなった人に対しては,「悟り」への大事なステップになっているのだと思います。

 入り口は「私がとらわれて,それに苦しめられている欲望(煩悩),こだわりを捨てる」というところから始まるのでしょうが,その先に「とらわれている私」というものも実はないのだ,ということへの「気づき」に進むのでしょう。そうすると,「私」と「世界」が対立している形ではなく,「私」が「世界」に溶け込んで一体化するような体験が得られる。「世界」に対する「私」が消えることで,逆に「世界=私」とでもいうような状態になるんでしょうね。

 と,悟っていない私が想像して言うのもおかしなことで,お坊さんには怒られるかもしれませんが(笑),私の場合は「でも<私>というものは実際の世の中で生きていくうえでどうしても消すことができないよなあ」というところにはこだわっていろいろ考えようとしています。ここももしかすると「私と世界の境目のない間柄」みたいな話になって,やっぱりスペクトラムみたいなことになると,「定型的」なのかもしれません (^ ^;)ゞ

 ということで,「蜃気楼」の話は,定型にはみんなそんなふうに見える,という話ではないかもしれないという,ちょっと補足でした。

 

 

>Keiさん

伝わって良かったです。
別に私は、言葉巧みなディズニーの営業マンではありませんが(笑)
これについて、深い議論をしようとすると、まずは観ていただかないと先へは進みませんね。あくまで私の感想と、私の勝手な引用ですので。

事実としては、
子ども向けのアニメでありながら、没頭した大人が多かったということ。
特にヒット曲は、はじめは大人のファンが多かったということ。
話題になった楽曲は、前半部分で使われているものがほとんどだということ。
芸能、芸術関係のプロからの批判が多かったということ。かなりの大御所が「実にくだらないストーリーだ」と一蹴しています。

私は実際に観て、途中まですごく胸に迫るものがあるのに、終わってから「え?そんな結末なの?」と、何かはぐらかされた気分になりました。

それで考えたのが、エルサが城を築く過程は、現代人が抱えている苦悩をリアルに表していて、どうなるんだろう?と引き込まれるにも関わらず、結末は答えが曖昧でがっかりしてしまうのではないかなと。

そうでなければ、『たかが』子ども向けの御伽噺を、大人が真剣に批判するって、変じゃありませんか?

それだけ、非常に大きな問題をテーマにしているんだと。
だから、今現在、誰もが納得できる『結末』は『無い』のだと思います。


>パンダさん

Katzさんの挙げられた『捨』というものを、私はやろうとしています。
これまで私が『常識』としていたものを全て疑問として見ようと試みているのですが、面白いことに、考え出したら全てが『刷り込み』に繋がっていることがわかってきたんです。
例えば、子どもに『遅刻はいけない。早くしなさい』と言う。何故遅刻がいけないのか。学校の決まりだから?友達に迷惑をかけるから?叱られるから?
本人にとって『困る』ことは何かと聞かれたら、答えられません。本人が身をもって知ることです。
けれど、親だから、社会に出て困ると『思う』から、言わなくてはいけないと、思い込んでいる。
私がこれまで親から刷り込まれてきた常識の部分が大きいわけです。

つまり、定型が『ありのままの自分の常識』と信じているもの、そのものが、『ありのまま』でないことが多いが、それに気付くには、徹底的に『捨』をしなくてはならず、心が不安定なままそれをすれば、崩壊につながってしまう恐れがあるので、侵したくない領域なのではないかと感じています。

すみません。かなり極端で刺激的な説だと思います。

keiさん、質問に答えてくださってありがとうございます。

keiさんとあすなろさんのお話を伺うと、定型者はありのままの自分を受け入れてもらっていると思ってましたが、定型者は自ら察して期待に応えているから認められてるんですね。

他にも皆様のやり取りを元に考えさせて頂きます。


パンダさん、横レスすみません。

>定型でも「本当の私」というものは確実に絶対にある(はずだ)という思いで生きている方は少なくない,というか,むしろそちらのほうが多いのだろうと思います。

定型者のいう「本当の私」というのはどんなものを指すのでしょうか?


>入り口は「私がとらわれて,それに苦しめられている欲望(煩悩),こだわりを捨てる」というところから始まるのでしょうが,その先に「とらわれている私」というものも実はないのだ,ということへの「気づき」に進むのでしょう。そうすると,「私」と「世界」が対立している形ではなく,「私」が「世界」に溶け込んで一体化するような体験が得られる。「世界」に対する「私」が消えることで,逆に「世界=私」とでもいうような状態になるんでしょうね
>と,悟っていない私が想像して言うのもおかしなことで,お坊さんには怒られるかもしれませんが(笑),私の場合は「でも<私>というものは実際の世の中で生きていくうえでどうしても消すことができないよなあ」というところにはこだわっていろいろ考えようとしています。ここももしかすると「私と世界の境目のない間柄」みたいな話になって,やっぱりスペクトラムみたいなことになると,「定型的」なのかもしれません (^ ^;)ゞ

もう少し具体的に話していただけますか?
理解力がなくてすみませんが、お願いします。

にわとりさん

>定型者のいう「本当の私」というのはどんなものを指すのでしょうか?

 具体的にはその方その方でいろいろだと思いますが,
 たとえば親とか恋人に期待されている自分があったとして,
 その期待にほとんど無意識で一生懸命応えようとし続けたとします。
 でもそこには実はかなり無理があって,
 あるとき,ふと「本当の自分はそんな期待に応えられる人間じゃない」
 と思えたりすることがあるわけですね。
 「いい子を演じていたけど,ほんとは違うんだ」と思ったり。
 そのとき「ほんとに自分」というものが意識されていくことになります。
 その中身は色々でしょう。

>もう少し具体的に話していただけますか?
理解力がなくてすみませんが、お願いします。

 この点については,いろんな議論があって,しかもいわゆる「日常生活の常識」の枠の中ではとても扱いきれない問題ですので,ここでわかりやすく説明する力は私にはありません。ということで,あまり突っ込むことはこれまで控えて,具体的な問題を考えてきましたし,また定型アスぺ問題を考えていくには,そういう具体的な問題で考えていくことがとても大事なのだろうと思ってきました。

 ただ人によってはそういう抽象的な理屈がとても気になる方もあって,Keiさんなどはこのあたりについて強い関心をお持ちのように感じましたし,私もそこはこだわるタイプですので,とても抽象的になりますが,大雑把なことを書いてみました。中途半端ですみません。

 もしこの問題を本格的に考えてみたいとお考えでしたら,たとえばまずは「私がある」というのはどうして言えるのか,「他人はいる」ということはどうして言えるのか,私の他に「世界」は本当にあるのか,といった禅問答みたいなことを突き詰めて考えて見られるといいと思います。決して簡単に答えの出る問題ではありませんが,そういうことを本気で突き詰めて考えていくと,そのずっと先に上に書いたような問題もいずれ出てくることになります。

 ということで,お答えになりませんが,そこは私の限界で,すみません。
 

パンダさん

>「いい子を演じてる自分」
程度や内容は違えど、自分というものが何なのか考える人は多いということですね。


>私があるというのは何故言えるのか?他人がいるということは何故言えるのか?私の他に世界は存在するのか?
難しそうな問題ですね。


質問に答えてくださってありがとうございます。

本当に刺激的で奥が深くて、しかも目の前の現実に根ざした議論が続いていて、ついていくだけでも大変なKatzです。多分、色々な所で誤解していると思いますので、遠慮なく突っ込んでください。

にわとりさん

パンダさんとのやりとりで私が出張るのも申し訳ありませんが。パンダさんの挙げられているキーワードから察するに、西洋哲学や、仏教あるいは禅の教えなどを調べてみると、何か掴めるかも知れません。興味を持てると実に面白い分野なんですけどね。私には難解過ぎる話が山盛りでしたので、高校の教科書の知識を思い出してお茶を濁してしまっています(^_^;)

あすなろさん

> 私がこれまで親から刷り込まれてきた常識の部分が大きいわけです。
> つまり、定型が『ありのままの自分の常識』と信じているもの、そのものが、『ありのまま』でないことが多いが、それに気付くには、徹底的に『捨』をしなくてはならず、心が不安定なままそれをすれば、崩壊につながってしまう恐れがあるので、侵したくない領域なのではないかと感じています。

まったくおっしゃる通りです。

一つだけ補足すると、刷り込み自体は、決して悪い事だとは私は考えていません。まずは一つ、思想体系を学ばなければ、思考の手掛かりすら無い事になってしまいますから。問題はそれを批判的に再考できない事と、そこから更に次の段階へと進む事を許されない事でしょう。現代社会に病巣があるとすれば、そこの所ではないかと考えています。

Keiさん

子供時代の全能感。私は今も、条件が揃うとこの全能感に浸ります(^_^;) 確か軽躁の特徴の一つでは無かったかな?まぁ、実にいい気分ですよ(^_^;;) しかしこれも悪い事ばかりではなくて、日常の延長では量りきれない大きな決断を迫られた場合には便利です。後先を無視して(=リスクを度外視して)えいやっと飛び込んでいけますから。ここで中途半端にリスクを考慮して縮こまると、安物買いの銭失いの憂き目に遭います。どっちもイヤだと何もしなければ、結局何も出来ません。つまりはこういうのも「道具」の一つとして、使い方次第ではないかと思うんですよね。

> 「私は力の質を変えることができない『だけど』定型社会ではマイナスに取られるからそれを『変えなければいけない』」
> 「私は大人の期待なんか感じることはできない『だけど』お父さんお母さんに認められるためには期待に『答えなければならない』」
> という「ダブルバインドの呪縛」に延々と囚われている人のように思います。

この「ダブルバインドの呪縛」は、あすなろさんのおっしゃる生育歴に根ざした、二次障害に由来する部分が大きいのではないか、と私は考えます。例えば、この2問に対する私の解答は…
「私は力の質を変えることができない『だから』その活かし方を工夫する」
「私は大人の期待なんか感じることはできない『だから』自分の考える形で社会に貢献する」
とか。要するに、やりようはあるはずなんです。問題は二次障害によって選択肢が無くなってしまう事にあり、そしてASDは二次障害を起こし易いのが定型社会の欠点である、と言えるのではないでしょぅか。

Katzさん、ありがとうございます。

>仏教や西洋哲学の本
専門的な本だと理解できずに寝てしまうので(怠けてるわけではなく、本当に頭が疲れてしまうので)、誰かが解説してるような(理解しやすい)本でも大丈夫でしょうか?


kei宛てのコメントに対しての横レス、水をさすようですが。

>私は力の質を変えることができない。だから活かし方を工夫する。
>私の考える形で社会貢献をする。

私は掃除の仕事をしてますが、清掃業をしてる発達障害者は多いと思います。
なので誰でもできる仕事だと言われますが、中には掃除の仕事すらできずに半年でクビになる人もいました。
言い方は悪いですが、活かしようがない人もいるんですね…(私も言われてきましたから言われてきましたが)。

Keiです。
Katzさんは僕やあすなろさんの「刷り込み」「全能感」「ダブルバインド」についてまず「理解できる」とした上で「それら自体は決して悪い事ではない」「やりようがある」と解決策を「自分で」見出しているように思えます。それは定型の心のプロセスも一緒だと思います。

しかしこの「克服の仕方」に「定型的」「アスペ的」があるのではないでしょうか?ちょっと考えてみます。

<定型>は「定型社会で似たような考えをする多数派」の「おかげ」でそれらを「自分で」克服することができる。
<アスペA>は「定型社会で全く異なる考え方をする多数派」の「せい」でそれらに延々と囚われる。
<アスペB>は「定型社会で全く異なる考え方をする多数派」に「頼らず」その「せいにもせず」それらを「自分で」克服する。

極端ですがこういう「克服の仕方」があるとします。自分で書いてみて一番おかしいと思うのは<定型>です。「自分で克服した!」と言って実は「似たような定型仲間にサポートされて」いる。それを「自力で這い上がった」とも「皆さんのお力添えがあってこそ」とも表現するだろうし、しまいには「そのどっちも大切だよね」なんて調子いいこともいいそうです。
<アスペA>は気質+生育歴による二次障害なのかとても「克服」どころではない。
<アスペB>はそれがまだ「マシ」というか「定型寄り」だったので、言葉の本当の意味で「誰にも頼らず自力で地獄から這い上がった」という自負を持つ(と推測します)。

<定型>と<アスペB>はどちらも「自分で変わった」と言う。だけど<定型>は実は多数派に助けられているから言葉の正確な意味で「自分だけの力で変わった」とは言えない。ところがその辺りを漫然と生きることができる定型は「いや自分の実力だ」「でもあの人がいなかったら今の自分はなかった」とかなんとでも言うし、その全てを「縁」とか「運」とか言って「うん、そうだよね」なんて納得し合っている。

<アスペB>は最も苦労しているように見える。その「負担」を強いたのは「定型社会」ですから、心のどこかに「おまえたち定型のせいで、、、」という気持ちがないではない。同時に「人間や社会とはそういうものだ」と達観する気持ちもあるが「いやいやそこまで行ったら俺人間超えちゃうでしょう?」みたいに変なブレーキがかからないでもない(実際どうかは分かりませんが)。

そしてこれが「どっちがより大変か?」みたいな比較しようのない「競争」になると定型・アスペ問題が生じる。

定型社会はまた男性中心社会でもあるので、自己実現を果たそうとする「女性」であればその乗り越えなければならない障害はどれほどのものになるか。しかも家事・育児はどうなっているか? そういった全てを「克服」したとしても、ぬるま湯で生きる定型からは「みんなそうでしょう?それぐらいみんながんばってる」ぐらいにしか言われない。となると、「悟り」を開かなければいけないのはどちらになるのでしょうか?

近々引っ越しする事になりまして。申し訳ありませんが、しばらくはまとまった時間が取れなくなりまして、お返事が小出しになりますがご容赦ください。

にわとりさん

>仏教や西洋哲学の本

こういう分野は、その道のプロが見ても難解な事も多いようです。我々が理解しようとしても、頭フル回転でなお追い付けないのも仕方が無いですね。誰かがわかり易く解説している本や、最近ではインターネットでも解説サイトがあったりしますので、そういうのも参考になると思います。ただ、そういうのは誤解してたりわざわざわかりにくく解説したりしてる事もありますので、色んな所に当たってみて、自分に合った解説を探す必要がありそうです。

とっかかりとしては、学校の教科書が比較的良いと思います。広い範囲を、偏らずに要点だけ紹介してくれますので。私の高校時代…だからもう30年も前なんですけど(^_^;)社会科で倫理という選択科目がありました。大きな書店でなら学校教科書も扱っていると思います。中学生の頃は、哲学やら倫理やら宗教やらを教わったような記憶が無いんで、中学校の教科書には載ってないかもしれませんね。中学では社会の中に公民という科目があったような気がするのですが、その中でやったかな?すみません、記憶が薄れてまして…。

>私は力の質を変えることができない。だから活かし方を工夫する。
>私の考える形で社会貢献をする。

ご意見ありがとうございます。
この文は、あくまで私が私自身に対して与えた回答だと考えてください。こういう問題は、正解はあるのかも知れませんが一つとは限らず、しかも人によって正解が変わります。

例えば、自力で工夫できないのならば、誰かに工夫してもらう、という手もあります。そういう手を差し伸べるのが本当の支援であり、社会の義務ではないか、と私などは考えるんですけども。そういう事を実際にやっている具体例としては、日本理化学工業という会社があります。

その辺から社会を批判しても、にわとりさんの目の前の問題には役に立たないので、何をどう書いたものか私も迷ったのですが…。結局お役に立てず、申し訳ありません。

参考になるかどうかわかりませんが。お釈迦様の弟子で周利槃特という人がいまして、この人は掃除で悟りを開いたという伝説があります。清掃業には、大学で教わるような知識はいらないのでしょう。その意味では誰にでも出来る仕事なのかも知れません。しかし技術と経験が必要で、奥の深い仕事だと私は思います。

Keiさんの分類、面白いですね。
なるほど、と思います。

で、ちょっと自分を振り返って、もしかして定型的な感覚に近いと思っていた自分は、アスペAのクローン進化型かな?なんて思えてきてしまいました。

と、いうのも、ここでのやり取りで、大抵のアスペの人が話される独特の感覚は理解できないんですが、生育歴を振り返ってみると、幼い頃になればなるほど、みんなが自然に受け入れていたことが分からなくて、自分自身で意味付けをしていたんですね。
小学校低学年のとき、ゼロの倍数が何故ゼロになるのか分からなくて、教員をしている親戚にわざわざ電話して説明してもらったり、結局、納得がいかなくて高学年くらいまで悩み続けていたことがありました。高学年になって、ようやく『自分だけが納得できる理屈』を見つけたんですけど。

定型は、どうしてそんなことにこだわるの? そんなの覚えれば済むことだよ。
と言います。

そんな風に、あらゆる場面でいろんな人に言われてきた覚えがあります。

そこで、私のやってることは時間と労力の無駄なんだと、知りたい衝動を抑えてきたことがたくさんあります。

いつの間にか、自分の衝動はさておき、とりあえず、まずは周りの人に倣う…を身につけたような気もします。

幼い頃の親の押さえ込みも凄かったので、そもそもが麻痺していたかもしれませんね。

定型と称する中に、そんなクローンアスペも存在するかもしれないな、と。

すると、ストイックなやり方でクローン化したアスペが、アスペBのような人を嫌悪するというパターンもありかと、考えられますね。

Katzさん

引っ越し準備中だったんですね。お忙しい時に申し訳ありません。そして答えてくださってありがとうございます。

倫理学の教科書が大きな書店でないか探してみますね。
他にも色んな本を読んで自分に合いそうなものを探してみます。

>自分で工夫できないなら誰かに工夫してもらう

仮に作業ができる障害者だとしても、そこにいるだけでペースが乱れて疲れると言う定型者がの話を聞いたことがあります。
以前、今井華が「バイブス(ギャル用語で感覚、ノリ、雰囲気)」という言葉をつかってたのですが、それが全く違う人がいると、一体感を損ねて周りが気力を削ぎ落とされてしまうのかなと思いました。
今の現状ではアスペ側がどこまで一体感を損ねずにやっていけるのか?無理な人は人と関わらない仕事をするか、いじめに耐えるか、いっそ開き直って引きこもり生活を楽しむかのいずれかもしれません。

そして日本理化学工業の動画だけですが、拝見しました。
作業工程に人が合わせるのではなく、人の能力に応じて作業工程を合わせるようにする話に感動しました。
重度の知的障害者にもできる仕事があるとは思いませんでした。
そしてサポートする健常者の社員の方にも頭が下がります。知的障害の方の純粋さと一生懸命さに心を打たれたんですね。
皆の理解とアイデア次第では一つになって結果を出すこともできる事例だと思いますが、積極的にそれをやろうとする人はいないかもしれませんね。
そういう社会になることを願っています。

>お役に立てず、申し訳ありません。

いえいえ。気になさらないでください。
日本理化学工業のお話を紹介してくださったことはとても勉強になります。
もう少し日本理化学工業の話について調べてみますね。


>シュリハンドク

今でいう落ちこぼれで、何年やっても進化がなかった彼が掃除をしながら悟りを開いたという話なんですね。
こちらについてはもっと詳しく調べてみますね。
教えてくださってありがとうございます。

引っ越しの話が出たのは数日前です。本当に突然だったんですよね。仕事が忙しいのにプライベートで色んな話が急展開して、追い付くだけでも大変です…なんて言ってる場合ではないんですけど。

Keiさん

Keiさんの分類はとても興味深いです。人間の本質を突いている気がします。「定型×アスペ」ではなくて、「多数派×少数派」あるいは「最初から有利な人間×不利な人間」の場合に、人間はどう振る舞うか?という観点において、です。

TEDというプレゼンイベントを御存知でしょうか? Eテレでも日本語に翻訳して毎週放映しています。ここで「Does money make you mean?」(日本語訳:お金が人を嫌なヤツにする?)という、心理学の研究結果のプレゼンがありました。TED日本語というサイトで和訳も上げられています。
http://digitalcast.jp/v/19482/

要するに、最初から有利な条件で戦って成果を上げた人というのは、Keiさんの分類で言う<定型>の場合と同じような言動をする、という事なんですね。これはアメリカでの研究なので、日本人の場合はまた異なるという意見もあるのかも知れません。しかしKeiさんが挙げられているのを見ると、全く同じ振る舞いに感じます。

個人的には<アスペB>でありたいと考えています。もちろん私には、進んで苦労を背負い込むような自虐趣味はありません。七難八苦を与えたまえと月に向かって叫ぶなんて、冗談でも出来ません。ただ、<アスペB>なら、いつでもどこでも誰とでも、常に成功へ向けて進んで行けると思うんですね。変化の激しい現代社会においては「常識」が通用する期間が極めて短い(私の実感では数年程度)。最初の有利さなど数年で吹っ飛びますので、<定型>的であってはならないと考えます。<アスペA>のように不利を呪うだけでは、這い上がれるかどうかは運次第となってしまいます。

悟りを開くかどうかは別にして、多少なりとも経済的な成功を目指そうと思ったら<アスペB>を選択せざるを得ないんです。そして経済万能の現代社会では、経済的に余裕がある事は幸せの為の条件の一つになります。

…という実感が、今の私の基本的な認識になっています。どうもこう、経済とかそういう方向からモノを見る癖がついてまして、そのせいで若干、議論が噛み合ってないかも知れません。何か違和感をお感じでしたら突っ込んでください。

Katzさん

お話面白いです。こういう場を作ってくれたパンダさんに感謝します。僕は「定型」「アスペ」という括りで類型化しましたが、Katzさんの言うように「多数派×少数派」「最初から有利な人間×不利な人間」という区分けも入るでしょうし、最後には人の数だけ「分類」が増えてしまいそうです。あすなろさんの「アスペAのクローン進化型」みたいに(ウケました)。

「経済」の話が出てきましたが、僕は定型・アスペ問題にそれは大きく関わっていると思っています。そしてKatzさんはまた「経済的な成功と余裕」を「幸せのための条件の一つ」としてそこにかなり高いプライオリティーを置いているように感じます。

「経済万能の現代社会」というのはまた「変化の激しい現代社会」であるとおっしゃっていますが、僕はこれを「社会とはそういうものである」という意味ではなく「市場経済が変化を要請としている」というように捉えます。

Katzさんはそこで「<アスペB>なら常に成功へ向けて進んで行ける」だから「成功を目指そうと思ったら<アスペB>を『選択』せざるを得ない」と書いています。

ここはKatzさんが何か「アスペBを演じた方が有利だからそれを選ぶ」というように読めますが、だとするとそこに「定型的な余裕」が垣間見えて、ちょっとイラッと来る方もいるように思います(すみません、コメントを全て追い切れていないので、ここで僕はKatzさんを『定型寄りのアスペ』か『アスペ寄りの定型』というように考えています)。

Katzさんはやみくもに「経済至上主義」を言っているわけではなく、あくまで「本当に苦しんでいるアスペはその中でどうなるのか?」「女性や出産はどうなるのか?」「子供にとって『経済』はプライオリティーになるのか?」そういった視点を持った上で、「自分にできる最善策は何か?」という問いを立てている。そしてその答えとして<アスペB>を選択する、という感じなのでしょうか?

そういった逡巡を経て「経済」に立ち戻っているのであれば、それは定型・アスペ問題の解決に向けた大きな可能性を持つと思います。

にわとりさん

> 作業工程に人が合わせるのではなく、人の能力に応じて作業工程を合わせるようにする話に感動しました。

そういう具体例が現実に存在すると言う事が、何よりも大きな説得力になります。
いつかそういう社会になる事を、私も願っています。
病気や怪我や老いでいつかは支援されなければならない側になる、すべての健常者の為にも。

あすなろさん

> 小学校低学年のとき、ゼロの倍数が何故ゼロになるのか分からなくて、教員をしている親戚にわざわざ電話して説明してもらったり、結局、納得がいかなくて高学年くらいまで悩み続けていたことがありました。高学年になって、ようやく『自分だけが納得できる理屈』を見つけたんですけど。

これ、私にも経験があります。それも1つや2つではありませんでした(^_^;)
私の場合は、そのまま「正解」を覚えた上で、疑問は疑問としてずっと持ち続けていました。高校生になってから、ひどい(?)のは大学に入ってからようやく解けた疑問もありましたね。
その結果わかったこと。処世術として正解は記憶しておくとしても、素朴な疑問は、覚えておけばいつかわかる時もある。それは無駄ではないんだ、と。まぁ、大抵は何の役にも立ちませんがね(^_^;)

Keiさん

興味を持っていただいてありがとうございます。

すみません、私の文章はちょっとわかりにくくなってしまってますね。補足しますと、
<定型> → <多数派であるが故に、本人も気付かない内に最初から有利な立場にいる人>
<アスペA> → <最初から不利な少数派で、不利から来る不条理で押し潰されそうな人>
<アスペB> → <少数派だけど、不利な中でも何とかやってきた自負を持つ人>
と置き換えた上で、それぞれ(矢印の右側の立場)を表す記号として<定型><アスペA><アスペB>と書いています。だから<アスペB>と言っても、そのままアスペルガー症候群の人間を意味していた訳では無かったんです。が、その辺の補足が無くてとてもわかりづらくなってしまってます。申し訳ありません。

その上で、経済的な問題は社会にとっても個人にとっても非常に大きな部分を占めている、と私は考えています。これはKeiさんのご指摘通りです。ただ、お金と言うものはあくまで道具であり、拝金主義に走るのは本末転倒である、との認識です。ではお金を使って何をするのか?という所が人生の問題ですね。

極論すれば、人生の値段は2億円です。…と断言すると猛反発する人が沢山出てくると思うんですけども。私が言いたいのは、現金で2億円を手に出来れば、生活を背負った仕事から私は解放されるのだ、という事です。もちろん、残りの人生は放蕩三昧なんて言う気はありません。生活を背負わない仕事に邁進できる、という意味です。
誤解を招かないように補足しますと、2億円を資本金にして会社を設立して…なんて話ではありません。人間一生の生活費は、2億円で事足りるのです。だから2億円を生活費に充ててやれば、給料をもらわなくても一生を送れる事になります。つまり生活費を稼ぐ為の仕事からは解放される。毎日8時間以上が自由時間となって現れてくる事になりますが、あなたはこれをどう使いますか? と、そういうワケです。

しかし残念ながら、一小市民の身では、黙って消費できる2億円があろうはずもありません。となれば、どこまでここに近付いていけるかが問題だろうと思うのです。少なくとも私は、一歩でも二歩でも近付きたい。なんて偉そうな事を言いながら、努力を惜しんで休んでばかりいるので全然進んでいかないワケですけど(^_^;)

> 「市場経済が変化を要請としている」

おっしゃる通りだと私も思います。
そして市場経済は、社会の仕組みとしては非常によく出来ているのも事実でしょう。もちろんその前提は自由であり、市場経済に参加しない自由があっても良い。
その上で、市場経済に参加している一市民としては、変化が要請されるのならば、要請に応えられる私でありたい。また自分の子供にもその能力をつけてやりたいと考えます。上述の2億円の話に、近付けないまでもせめて遠ざかる事の無いようにしたいのです。

とかとか。
長文になってしまいましたが、実はここはまだ始まりの部分です。ここから更に、お金を稼ぐ組織のあり方、その中におけるアスペやADHDの役割、それを取り巻く定型の役割、それを実現する為の教育、逆に阻害要因となるのは何か、などなど考えている事は色々あるんですけども。

そう考えると、Keiさんのおっしゃる通り、経済の観点は定型アスペ問題解決の大きな鍵になる可能性はあります。ただ、そんな私の理想など、私の独自世界の内側の話になりますので、実世界との擦り合わせがどこまで出来るのか甚だ疑問である事も事実です、なんて私が言っちゃうのもナンですけど。Keiさんのお考えはいかがでしょうか。

ちなみに私はアスペです(アスペとADHDの併発と言った方が近い)。カミさんに言わせると典型的らしいですね…。アスペの取り扱いマニュアルを身に付けたカミさんですので、だいぶ楽させてもらってます。そんなカミさんもアスペです。

なるほど。でも「例え話」として考えれば大意は変わらないかと思います。

Katzさんは「アスペ」なのですか。文章はとても定型的に見えますが、これも「身に付けた」という感じなのでしょうか? 今回僕は「経済vsマイノリティーの問題を含んだ上で『経済』についてどう思われますか?」というような問いをしたのに対して、Katzさんは「そこはもちろん考えるがそれは『私の理想』で実世界とのすり合わせができるかどうかは疑問」とした上で「2億円の重要性」について語っている。そこでKatzさんは「市場経済は社会の仕組みとしてはよく出来ている。だからいろいろ考えることはあるけどぶっちゃけお金大事でしょ?」と言ってる感じがしますが、Katzさんがもしアスペであるならこれは素晴らしいことです。

というのも、定型はそういう「ぶっちゃけ」を応酬し合った後でさえも「でもどっちも大事だよね」とか「答えは出ないよね」とか宙ぶらりんにしてさらに「お金の話は汚いこと」みたいに避けたりする。これはアスペ目線から見ると「さんざんお金の話しておいて何?」という感じでしょう。そういう曖昧さが許されるのも「定型社会」というバックアップを暗黙の了解としているからだと思います。

「経済」「定型社会」に対するKatzさんのスタンスは一貫している。この一貫性あるいは「同一性」を確保することがアスペの方にはなかなかできない。というのも「定型がウダウダ言って振り回す」からです。そこでアスペの方が社会的関係性を「家族の外」に持って、経済活動に参加することはとても重要なことだと思います。(すみません、これ以上やり取りすると終わらなくなりそうなのでこれでいったん失礼します。とても勉強になりました)

私もKeiさんとのやり取りで気分が盛り上がってきてしまい、続けていたら終わらなくなりそうな予感がしてきました。また機会がありましたら是非、絡ませてください。

というわけで、最後にちょっと。

> 文章はとても定型的に見えますが、これも「身に付けた」という感じなのでしょうか? 

定型的と言っていただけると嬉しいです。インターネットで無用な罵り合いに発展する場面を多く見てきたので、角を立てないようにする書き方を少しずつ工夫してきました。ただ、それもこうして落ち着いているから何とか出来ているんで、条件が揃ってしまうとやっぱりどこかヤバイ文章を書いてしまうんですけど。

> この一貫性あるいは「同一性」を確保することがアスペの方にはなかなかできない。というのも「定型がウダウダ言って振り回す」からです。

この点については、私は本当に運が良かった。親の教育方針や、人との出会い、それと自分の特性が、非常に良く噛み合ったのだと思います。

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