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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月 6日 (月)

定型でもアスぺでもあるということ

 

ままさんの自分を当事者の枠に入れてはいけないだろうと最近は思ってる」というコメントから,さらにコアラさんが私もこれを最近考えていて、何故かというと自分が未診断であり、もしアスペでも軽度じゃないかと思うからです。」と同じ問題を感じられていることを書かれています。

 ここで言われている当事者というのは,要するにご自分がアスぺだという意味でしょうね。まあこの問題で当事者と言えば普通はそういう使われ方をしていると思いますけれど。

 その点について私は自分が当事者だと思っています。というのは自分がアスぺだという意味ではありません。私は定型アスぺ間のズレになやんでいる人間という意味で,「定型アスぺ問題の当事者」だと思うのです。そこに定型もアスぺも区別はありません。

 一体定型って何なのか,アスぺって何なのか,とっても複雑です。第一スペクトラムという考え方にもあるように,明確な線引きは最初から困難なわけですよね。アスぺと診断された方でも「より強くアスぺ的」な方も,「比較的弱いアスぺ的」な方もあります。さらに言えば,アスぺと診断されていない方(あるいはアスぺではないと診断された方)が本当に定型アスぺ問題に当てはまらないかというと,それも全然違うと,私は今はほぼ確信を持って言えます。

 いろんな障がいについても言えることですが,お医者さんの診断基準は人によっても違いますし,またかなり恣意的な部分があることは明らかで,恣意的にならないように数値で基準を設けてみたところで,その数値がどれほど安定しているかは疑問ですし,さらに言えばその数値を境目とすること自体が,実は結構恣意的とか便宜的なもので,絶対的な根拠があるわけでもないからです(この辺は昔学生時代にいやいややらされた統計で学んでびっくりしました(^ ^;)ゞ )。今ではアスペルガーという枠組み自体が有力な基準から外れてしまいましたし,それ自体が揺れ動くものであることは確かでしょう。

 ただ,そういう線引きの問題にとらわれずに,お互いの関係に感じるむつかしさ,辛さ,傷,といった面から考える時,「どうしてそういう関係になってしまうのか」「どう考えたらお互いの関係を改善するために糸口がみつかりそうか」という面から問題を見つめていけば,そこには「これは定型アスぺ問題の性格を持っている」と言える関係があると私は考えています。それは診断されているかどうかでは判断しきれない部分です。
 
 自分は定型なのかアスぺなのか,コアラさんはこんなことも書かれています。

私個人の話で恐縮ですが、自分(アスペ?)の事も一部変えてみる挑戦をしつつ、私より重度と思われる彼氏等については定型的な気持ちで様子伺いをしておりまして、なんだかとっても忙しいです()」

 コアラさんは定型でもあるしアスぺでもあるし,そんなややこしい位置にあるわけですよね。それはどういうことかというと,周囲の多くの方に比べると,コアラさんはアスぺとご自分を感じる。でもアスぺ度(?)のもっと高い彼氏と比べると,むしろ定型的な感覚が重要になる。

 そういうことが普通に起こることが,実は定型アスぺ問題の大事な性格なのではないかと私は思います。前にも一度「白と灰色と黒」のたとえ話で少しそのことを考えてみようとしたのですが,改めてもう一度考えつつ書いてみたいと思います。

 今何人かの人が右から順番に並んでいるとします。それぞれ「あさん」「いさん」「うさん」「えさん」……と名付けておきましょう。「あさん」は「いさん」より右ですよね。そして「えさん」は「おさん」より右です。「うさん」は「いさん」より左で,「えさんは」……と,はっきりと答えることが可能です。
 ではここで少し問い方を変えてみます,「たさん」は右のひとでしょうか,左のひとでしょうか。

 今度は答えが出ないはずです。なぜなら比較の対象がないからで,「たさん」は「ささん」や「そさん」よりも左ですし,でも「なさん」や「らさん」より右です。同じ一人の人が「右」でもあるし「左」でもある。

 仮に「自閉症スペクトラム」という考え方が成り立つのだとすれば,これと同じことが必ず起こるわけです。コアラさんの当惑はそういう理由で起こっているとも理解できそうですし,これまでも何人か同じようなことを感じられている方のコメントがあったように思います。

 人は定型もアスぺもみんなそのスペクトラムのどこかに立たされているのだとして,そうすると正確に言えばある人は「誰より定型的か」とか「誰よりアスぺ的か」ということは一応決められ,またその色合いの濃さみたいなものはある程度認められるとして,でも「ここから先が定型」「ここから手前はアスぺ」といった明確な基準を何らかの絶対的な根拠で決めることは不可能です。決める時は「だいたいはこんなものだろう」という感覚で専門家が仮の約束事として決めるしかないのが実情のはずです。統計的な基準というのは実際はそんなものです。それ以上でもないし,それ以下でもない。

 たとえ話の右か左のような関係は,あくまでも相対的なものなので,アスペのことも「スペクトラム」と言ってしまう以上,相対的なものになるのは運命でしょう。そしてまた実際の定型アスぺ問題もそういうお互いの相対的な位置に応じて生まれていると思えます。

 ですから,にわとりさんもより自閉度の高いと思えるお父さんとの間では,定型アスぺ問題で定型が悩むような悩み方もされていると感じますし,逆に周囲の多数派の人との関係ではアスぺの方の悩みを持たれています。コアラさんも多分同じですよね。

 いわゆる定型同士でも,たとえば男性はよりアスぺ的とも言われたりしますが,そこで女性が感じる悩みは,定型アスぺ問題では定型が感じる悩みに共通する部分が多いということも起こる。その女性に対して男性が抱く困惑は,おそらくアスぺの方が定型に対して感じる困惑にも通じるでしょう。

 定型アスぺ問題というものは,そういう相対的な関係でどの位置に入る人にも生み出されうるもの,と考える方が実情に合っているような気がします。誰でも多少なりともアスぺ的で,また定型的でもあるのでしょう。


 ということを一応前提にしたうえで,もちろんいわゆる「自閉度」の重さの違いで,現実に可能なコミュニケーションスタイルに違いが出てくることはたぶん間違いないだろうと思います。そして二人の自閉度の違いがどれほど大きいかということで,定型アスぺ問題の大変さとかその具体的な内容にも違いが出るだろうと思います。コアラさんが次のように書かれるのも,そういう問題のような気がします。

 「同じく未診断の家族や、診断不明の彼氏は私よりずっと「生きづらさ」が強いと思われ アスペの話題に触れる事すら許されないようなオーラが出ています。なのでもしかしたら彼らは「歩み寄り」など不可能なくらい、生きるのに必死ではなかろうか?と。そしたら彼らの本心は、わかりようもない訳で。」

 ここは最近私が定型アスぺ問題のむつかしさや深さを改めて感じさせられているポイントの一つでもありました。

 この場で定型アスぺ間で,ようやくある程度お互いに理解が重なってきて,ときに共感的なやりとりも可能になってきていますが,でもそれが可能なのは,やっぱりその定型アスぺの離れ方の度合いが,それでもまだ近いところで成り立っているのかもしれません。いわゆる「浅瀬」の方との間では,なんとか通じ合える部分も出てきている。でもさらにお互いの距離が遠いと,ここで成り立ち始めたことが通じるかといえば,そこはまたもっとむつかしい問題があるのだろうと思います。

 私にとっては私とパートナーの間の定型アスぺ問題はものすごく重たいものですし,定型同士の夫婦関係で生まれる困難は,それに比べればずいぶん楽なのではないかと正直思えたりしますが,でもみなさんの経験を拝見していると,そういう自分の大変さもまたある意味でまだ「軽い」のかもしれないと,そんなことを思ったりもします。

 だから私が私の抱えている問題で考えたことや,そこで行っている手探りの工夫が,一体他の方にどれほど意味があるのかについては,ほんとになんとも言えません。実際にお役に立つ部分もあるでしょうし,お役に立たないことがあっても,それも当然のように思えます。

 「このカップルの場合は,こういうことが言えて,こういう工夫は役に立つし,こういう工夫は意味がなかった」ということは言えても,それが他のカップルに通用するとは限らないのが当然で,それでもいろんな可能性を少しずつ積み上げていくことで,その中からお互いに役に立つものを見つけられる可能性も増えていく,そんな感じかもしれないですね。

 そんな多様性を持ちながら,でもやっぱり「定型アスぺ問題」と言える問題はあると思うし,そしてそういう問題に悩む以上,定型でもアスぺでも,あるいは時に応じてその両方の立場からの悩みを抱えようと,みんな「定型アスぺ問題の当事者」なんだろうと思います。

 

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コメント

いつもみんなの意見や考えをうまく整理してまとめてくださって本当に頭が下がります。
夢の中でも考えるほど頭がゴチャゴチャしていたのですがだいぶスッキリしました!

>いわゆる「浅瀬」の方との間では,なんとか通じ合える部分も出てきている。でもさらにお互いの距離が遠いと,ここで成り立ち始めたことが通じるかといえば,そこはまたもっとむつかしい問題があるのだろうと思います。

昨日までは、「距離が遠く離れた人」と距離を縮めるのは不可能なのではなか?という、ちょっと絶望に似たような気持ちになってモヤモヤしていました。でも、パンダさんの記事を読んでいるうちに頭が整理されて、今度はなんか希望が湧いてきました(^^)またうまく説明できるか不安ですが(笑)とりあえず書いてみます。
「歩み寄り」は、定型アスペ問題にしろ別の問題にしろ、とても大事なことだけど…
「歩み寄り」のスタートポジションに立つタイミングは人それぞれで、なにも双方同時である必要はありません。相手が動かなくても、自分が先にスタートすれば少しづつでも距離は縮まっていきます。←相手が逃げていく場合もありますが…(笑)
だから大事なのは、相手を「歩み寄り」のスタートポジションに立たせることではなく、まず相手の位置や状況を把握することが大事なのではないかと思いました。要は、相手がどうこうじゃなく、まず自分がどうするか?

>私が私の抱えている問題で考えたことや,そこで行っている手探りの工夫が,一体他の方にどれほど意味があるのかについては,ほんとになんとも言えません。

それぞれ置かれた状況が違うので、それは仕方のないことだと思います。
ここに集まる方々は既に「歩み寄り」のスタートポジションに立たれた方だと思うので、それぞれ自分の相手(家族やパートナー等)に、パンダさんや他の方々の工夫・議論された内容等を使うも試すもその人次第。そしてまたそこで新たな発見やヒントを得たりしながら、それぞれが手探りで工夫していって、それを発表できる場所がここにある。
だからここ(パンダさんのブログ)は、なんて有り難くて素晴らしい場所なんだ!と改めて思いました。

コアラさん

 こちらこそ,いつも考えさせられるコメントをありがとうございます。
 なんにしても勝手に皆さんのコメントを私の見方で理解してしまっているので,ずれることもいろいろ出てくると思いますし,そういうときもまた教えていただければうれしいです。
 
>だから大事なのは、相手を「歩み寄り」のスタートポジションに立たせることではなく、まず相手の位置や状況を把握することが大事なのではないかと思いました。要は、相手がどうこうじゃなく、まず自分がどうするか?

 これ,なんかとても大事なことなのかなと思いました。一方的に相手に合せて我慢するのではなくて,自分からスタートする,と考えればいいわけですね?
 なんか結構納得してしまう感があります。

>一方的に相手に合せて我慢するのではなくて,自分からスタートする,と考えればいいわけですね?

ん~と、我慢するしないではないです。
私はこれまで、「歩み寄り」には双方がまず向き合うことが前提だと思っていたので、じゃあ如何にして相手をスタートポジションに立たせるか(自己認識等)にこだわっていたのだと思います。それで、距離が遠い相手(生きるのに必死で「歩み寄り」は不可能だと思われる相手)と距離を縮めるのは難しいのではないか?と…。
相手を想い、少しでも理解したいという気持ちから、いろいろと調べたり勉強したりするのは「歩み寄り」の一歩ですよね。その「歩み寄り」をまず自分からスタートしたからこそ、相手が遠い距離にいる事が把握できたわけです。とりあえずはそれで十分ではないかと思ったのです。「相手は今それどころじゃなさそうだから、ではお先にこちらから」という感じで(^^) 双方が向き合うのが理想ですが、片方からでも「歩み寄り」はスタートできるって事に気づきました。

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