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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月14日 (火)

距離感の問題

 定型アスぺ間に生まれるむつかしさの一つは,「距離の取り方」だと思います。定型の側から見ると,アスぺの方は相手から距離をとることを重視されているように感じられることが多いのですが,かと思うと他方ではほとんど距離ゼロという感じになってつらくなることがある。以前,「定型はクッションを多用する」というような言い方で書いたことがあったと思いますが,ここでも距離の取り方が全か無かになってその中間のクッション部分がないような,そんな印象を受けるのです。

 その中間のクッション部分では定型は「どちらにも取れる」ような発言が多くなるし,しばしば「どちらにも進みうる」ような態度をとります。それは結論を自分で決めてしまうのではなく,その場のやりとりの中でお互いの気持ちや考え方を突き合わせ,そうやってお互いに「調整」をはかるために必要な姿勢なのだろうと思います。

 けれどもアスぺの方から見ると,その中間のクッション部分は,非常にあいまいで,訳の分らないもので,本心を隠し,語っていないように見え,しばしば相手に対する不信感を強めることにもなるような気がします。実際,定型がわざとそこはあいまいにして調整の余地を残していることについて,多分アスぺの方は「自分の気持ちは相手に関係なくあらかじめ自分の中で決まっている」という見方をされるために,そういうあいまいさを「自分の気持ちをごまかしている」とか「隠している」という風に感じてしまうことになるのかなと想像するんです。

 で,今日もパートナーと生活上の問題について話をしながら,この相手との距離の取り方の違いが,相手に対する気遣いとか,心配の仕方の違ズレに結びついているような気がしました。

 彼女が私のことについて心配する時,「このことについてあなたはどうするつもりなの?」という,私から見ると詰問調の問いかけをしてくることがしばしばあります。私はそう言われると,何やら自分が責め立てられているような気分になって,息苦しくなるんですね。で,そのことを伝えると,じゃあどう言ったらいいのかと聞かれるので,ちょっと考えて「僕なら,○○については大丈夫?という形で話を振ってみるだろう」と答えました。

 そこで相手が「うん,大丈夫だよ」と言えばそれ以上はこちらから無理に入り込もうとはしないだろうし,「実はちょっと大変でね」ということになれば出来る限り相談にのったりするだろう。そのどちらがいいのかは相手に選択してもらえるような言い方をする,と説明したわけです。それは相手が相手の気持ちにそって解決策を模索し,こちらはその相手の気持ちに添って必要な手助けをするというスタンスになります。

 ところが彼女の方はそんなのは他人同士の間のやり方だ,というのです。私が驚くと,「あなたが勝手にすればいいことで,私は関わらない,と切り捨てるようなやりかただ」というんですね。それじゃ家族じゃないと感じるのだそうです。

 私にすれば,相手の人の選択の可能性をまずは確保して,その上で必要な援助をするという構えで,より深く相手を大事にし,気遣ったことになると思えることが,彼女にとっては全く逆に感じられる。

 そこで思ったわけです。彼女にとって本当に親身に心配するということは,自分と相手の距離がなくなってしまうような状態のことなのではないかと。そこでは自分の心配と相手の悩みの間に境目がなくなってしまい,結果として自分の心配の気持ちをそのままストレートに相手にぶつけてくることになる。私からすると,それをされるということは,私の側からの選択の余地が残されず,彼女の心配で自分が支配されるような状態に感じられるわけです。自分が自分の感覚をベースに考えることが許されなくなり,彼女の感覚で動くことを強要されるような,そんな追い詰められ方をするように感じてしまうんですね。

 そんなふうに考えてみると,子育ての中で私が彼女の子どもに対する態度にいつもとても息苦しい感じを受け,「どうしてそこまで子どもを支配しなければならないのか」と憤り続けてきたことの意味も改めて見えてくる感じがします。

 私は子どもを心配する時にも,子ども自身の気持ちや選択の余地を確保しながら,子ども自身が解決の道を模索していく手助けをする,ということを大事にしたい感覚がありました。でも彼女は子どもが心配になると,自分が「こうすべきだ」と思ったことを(私から見ると)有無を言わさずに押し付けるような,そんな姿勢に見えて仕方がなかったんです。それは支配であってとても心配していることとは感じられませんでした。

 でも,ようやく今,それが彼女にとっては本当に心配した時の行動なのだと思えるようになってきました。彼女にとっては切り離せない家族だからこそ,そういう形の接し方になるんですね。その時はある意味で自分と他人の区別が消えてしまうのかもしれません。他人だったらそんなことはせず,もっと距離を持つ。だから定型的には「クッションを置く」という,親しい間でもとても大事な距離の取り方が,彼女にとっては他人の関係になってしまうことになります。

 という感じで,たとえば「相手の気持ちなどわかるわけがない」など,一方で自分と他者をものすごく切り分けるような姿勢を示されながら,他方では「なんでそこまでこちらに入り込んで自分の理屈で支配してくるわけ?」と感じられるような「距離ゼロ」の接し方をされるように感じる,その矛盾が,彼女の持っている「家族」と「他人」の独特の切り分け方と深く結びつくものとして,私にはなんとなく感じられるようになってきました。


 
 
 

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コメント

私はまだ自己分析できていないし、頭の中で整理されてないことが沢山あるのですが…
面白いことにパンダさんが奥様を分析される記事を読んで「そうそう!」とアスペ側の感覚で共感し、頭の中が整理できたりすることが度々あります。モヤモヤをうまく整理して説明してくださっているので、モヤモヤの部分を自分でもよくわからなかった場合など大変勉強になり、本当に有難いですm( )m  「ローマは一日にして成らず」ですね(^^)

>定型的には「クッションを置く」という,親しい間でもとても大事な距離の取り方が,彼女にとっては他人の関係になってしまうことになります。

「クッションを置くこと」が親しい間でとても大事だということ、これがまず驚きです。
そういうやり方(つきあい方)を、家族や友人等ごく親しい間柄でされている人を見た時、
「あぁ、本当の意味で心が開けていないんだな。可哀想だな。」と思っていました。遠慮しながら付き合うなんてとても窮屈だし、本当は居心地が悪いのではないか?と思ったり、なにかトラウマがあるのではないか?と心配することもありました。
これだけ感覚が違うのですね~!なんか、面白いような…複雑な気分です(^^;)

私はよく自分より人のことが気になって、相手の病気や障害を疑って心配していたのですが、なんかそれもちょっと手がかりが掴めそうな気がしてきました。定型アスペの「ズレ」がどの部分にあるのかまだまだ把握しきれていないけど、「ズレ」=「違い」を一つずつ認識していくことで、私の場合は自己分析も出来ていくのだろうと思います。

今回の記事で、また違った見方ができるようになりました!
前回、夫の、人との境界が分からず、相手の状態を無視して踏み込んでくる行動を、自己分析ができていないうえに、人格障害的な何かがあるのでは?と疑っていたんですが、パンダさんの奥様のお話から、夫の行動にもアスペ的な観点から説明が付くような気がしてきました。

夫が、相手の状況がわからない部分はASDの特徴といえますが、それなら距離をおけばいいのに、何故相手も強引に自分のやり方に従わせようとするのか?
奥様がおっしゃるように、相手が心配だから静観せずに自分が良かれと思った援助をしていると考えられなくもないです。
しかし、そのやり方は、『彼には有効なものであって、相手に有効なやり方ではない』というところが、相手の状況が分からない状態では考えが及ばないのでしょう。
結果、俺のやり方はみんなにとって有効だ。だからみんなは黙って俺に従っていればいい。という発想になることもあり得ます。
近しい人でない場合は、そこまでしてやる謂れはない=静観するが、近しい人には正しい方向に導いてやりたいと思うのでしょう。

逆に、自分が辛い時には、相手の具合が悪くても世話をさせようとするというのも、自分が余力のあるときに、尽くしてやったのだから、今度は尽くされて当たり前、なのかもしれません。

しかし、これが同じアスペの家族から見ると、お父さんの気持ちは分かるよ、
とはならず、自分の領域に踏み込んでくる父親を敵視するのです。

つまり、彼の価値観は、非常に個人的なものであって、それに同意できる人は、家族であろうと、同じアスペであろうと、いないのです。
そしてやはり、ASDの特性を持っている子どもは、定型よりも強い独特の価値観の中で生きているために、その領域に強引に踏み込んでくる父親に嫌悪するわけです。
逆に、定型の子どものほうは、「はいはい、勝手にやってなさい」という感じで、うまくかわしていますね。

そう考えると、私が職場で「いじめられた」上司の行動も、理解できるような気がします。
私がまだ新人で、何もできない=援助しなくてはというつもりだったのでしょうか?
私がやることを、全てチェックして口出ししてきたのです。どんなに日数が経っても、この口出しは止まらず、さらには、「あすなろさんには任せないで、誰か他の人がやって!」と仕事を取り上げることまでして、私は精神的におかしくなりそうでした。
しかし、私の人格を否定するようなことを言ったことは、振り返ってみれば一度もありません。
この上司の正義感で、私がまだ仕事に慣れていないので、援助していたのだとしたら?
しかし、私が慣れたか慣れないかの判断ができないのだとしたら?
説明がつくような気がしますね。

それでも、この夫の行動も、上司の行動も、やられる側としては、精神を崩すほど負担になります。

自分自身で考える自由を奪われ、その存在意義を否定されるわけですから。

定型の人がASDの人とのズレに気付けないように、ASDの人にとっても、こういう場で定型の価値観を知る機会がなければ、そこまでズレていることには気づかないのでしょうね。

はじめまして、パンダさんのブログを拝見し、最近アスペルガーではないかと思われ始めた主人の思考の仕方がやっとイメージできてきたがします。


最近の出来事で引越しをしたのですが、台所に立たない主人が、台所のもの全てを勝手に荷造りしました。

気持ちはわかるが、あなたにも伝えたように、一日いくつずつ箱詰していけば、引越しに間に合うよう計算しているし、実績もある。


どこに何があるかわからないと向こうで、困るからと伝えましたが、子供二人(四歳、二歳)に振り回されて出来ているようにみえず、前日にはゆっくり過ごしたいからやるとのことで、さらに強くいえば、たいていもう聞きたくないと
いうような私の至らない点を持ち出して説得にかかるので、任せました。

自分が不安で、そのことを解消する方法があり、またベストだと思われることをしない理由がないということなんでしょうね。

ついてから子供のお弁当箱やささいなものを探したり、(もちろん引越してから、しまったのも彼であり、もとにあった場所ということではなく、彼にとって合理的といわれる場所です)こういった様々な私からすると、やりにくいことに疲れてしまっている、私をみて苛立つ(そこにまた何か不安がみえかくれしているようにみえます)に何か方法がないかとパンダさんのブログを参考にさせて頂いけたらと思います。

かぼちゃさん

 はじめまして。宜しくお願いします。
 いろいろな方のコメントがあるので,きっと参考になると思います。
 また何か発見などありましたら教えてください。

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