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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月12日 (日)

アスぺの方はどこまで定型に迫れるか?

 最近毎回書いていますが (^ ^;)ゞ ここにきて色々な面で模索がちょっと新しいステップに入ったように感じています。何か新しい視野が拓かれつつある感覚があります。

 昨日今日と思ったことは,お互いに理解しあう試みについてのステップが変りつつあるのではないかということです。

 理解と言ってもいろいろな理解の仕方があります。たとえば自閉的傾向の原因を脳の特徴として理解するやり方。脳という「物」の仕組みから理解をしようとするわけで,それに対して「対策」を考えるとすれば,何らかの形で脳を「改造」することになります。今のところは薬という「物」を投与して,働き方を調整する,という感じでしょうか。

 将来的には遺伝子操作ということが取りざたされる可能性もないではないですね。倫理的にそれが許されるかどうかは別問題として,技術的には遅かれ早かれ可能性が出て来るでしょう。もう少しソフトなやり方としては,アスぺの方に使われていない脳の部分をより活用するように工夫するとか,あるいは神経の「配線」の仕方を変える試みをするとか。(こう書くと,なにやら強制的な人格改造みたいな感じでやはり抵抗感がありますが)

 もうひとつは「心」の仕組みとして理解するやりかたがあります。たとえば自閉的傾向を持つ方は,「相手の感情を読み取ることができない」とか,「共感能力に傷害がある」とか,その人の何らかの「心理的な能力」の「欠陥」の問題として理解をするやり方です。それに対処するには「欠陥」部分を補うような訓練や,環境の調整,といったいろいろな試みが行われることになります。

 私がここで試みているのはそのどちらでもなくて,「生き方のズレ」として理解することです。

 なぜ生き方にズレが生まれるかについては,脳の仕組みの違いや,それに経験が加わっての性格の違い,それらの結果生まれる「心」の働き方の違い,などの説明がある程度は可能です。

 けれどもそういう違いは根本的なところではなくなるわけではありませんし(改造人間を作るとかでもない限りは),そもそも定型アスぺに関わらず,すべての人が異なる脳や異なる経験や,異なる心の働き方,性格をもって生きているわけで,「違い」をなくすということはどこまで行っても不可能です。それにもともと生物はいろんな個性を生み出す方向に進化してきた訳ですから,それを無理やり「同じ」にしてしまうというのは,そもそも生物の歴史に反する大変な無理をすることになってしまいます。

 Katzさんが何度か強調されていたように,アスぺの方は人間の社会の中で,これまで大きな役割を果たしてこられたし,また今もそうなのですね。(あるお医者さんの本ではビルゲイツもスティーブ・ジョブスも,今世界を根本的に変える仕組みを作ってきた人たちはみんなアスぺだということになっていました)仮に誰かが「アスぺ撲滅」みたいな恐ろしいスローガンを考えたとしたら,その人は結果的には「人類撲滅」を叫んでいることになるでしょう。

 人間だれしも持って生まれた自分を根本から変えることは不可能なわけですし,過去の経験を帳消しにすることも不可能です。今持っているものをいろいろ工夫して使い,生きていくしかない。そしてその人その人にあった幸せを探っていくしかないわけです。そこにその人その人が自分の現実を踏まえた「生き方」が成り立つわけで,そこにいろんな「ズレ」も生まれることになります。定型同士だってそうです。文化が違ってもそうです。そして定型アスぺ間でもそうです。

 ということで,私はお互いの違いを認め合ったうえで,その「生き方のズレ」をどう理解して,どう調整することができるのか,という視点にこだわってきました。

 「生き方のズレ」を理解するには,自分の生き方とは違う,相手の生き方を理解する必要があります。あるいは相手の生き方を理解することで,逆にそれまで気づかなかった自分自身の生き方を振り返り,理解しなおすことが必要です。

 そのために私がここでずっと試みてきたことは,まずはアスぺの方の見方とか,感じ方などを,自分の定型的な想像力を使ってなんとか想像してみることでした。その想像がどの程度成功しているかどうかを決めるのは私ではありません。「こういう感じでしょうか?」と想像したことを書いてみて,「まあ,そんな感じ」と感じていただけるかどうかが全てです。いくら定型的には「こう見える」と思ったとしても,アスぺの方から見て「それはなにかズレている」と感じられたとすれば,それは不正解か,あるいは少なくとも不十分です。

 そして幸いに,少しずつ「その通り」と言っていただけることが増えてきました。「完全な正解」に達することなど,絶対に不可能ですが,お互いに理解しあう上で意味あると感じられるいくつかのポイントでそれが少しは可能になってきた。それが「スペクトラム」の中で,どの範囲の方に通用することなのかもわかりませんが,とにかく一部の方には通用し始めていますし,ひとつの足掛かりはできているわけです。

 そういう中で,たとえばKeiさんから定型さんの、「他人との関係の中で感情を安定させる」っていうのはどういう感じなのだろう?できれば1日だけでも定型になってみたい。」というコメントを頂くようになってきました。

 私がなんとかアスぺの方にも通用するような形で「アスぺの方の生き方はこんな感じ」というものを「理解」しようとしてきたのは,最終的にはアスぺの方に(というか結局私のパートナーに (^ ^;)ゞ),定型(私)を理解してほしいという欲望がなくならないからです。定型同士とは違うかもしれないにしても,それでもなんとかお互いにある程度納得できる形で「理解しあう」道を探りたいわけです。

 そういう「欲望」に突き動かされて書いてきたことについて,Keiさんは「定型の方でもここまで真相に近づいて行けるのだなぁと感動しています。」というふうに感じてくださった上で,「できれば1日だけでも定型になって(定型の感覚を理解して)みたい。」と思ってくださったわけですよね。

 
 さて,私がアスぺの方の生き方,感じ方を想像する方法は,お互いの違いをいろいろ探ったうえで,それでも共通している部分を探ること,そして「もし自分がこういう条件を抱えて生きることになったら,どんなふうに振る舞ったり,どんな生き方を模索するだろうか」という風に「相手の身になって」考えてみることでした。その時に「たとえ話」がある程度役に立ったりもしました。

 ではアスぺの方が定型的な感じ方を理解する上で,あるいはアスぺの方に定型からそれを理解してもらうように説明するうえで,同じようなやり方は通用するのでしょうか。そういう問題が今,私の前に新たに立ち現われてきたような気がしています。

 もし仮にアスぺの方の「障がい」という部分を前面に押し出して考えて,しかもその障がいの中身として「他者の感情を感じ取る能力がない」というような極端な(むちゃくちゃ単純化した)理解をしてみたとします。そうすると,感情を感じ取ることで成り立っている世界を,感情を感じ取れない人に説明するという話になりますから,これはものすごくむつかしいことになります。たとえて言えば,視覚に障がいがあって,一度も物を「見る」経験のない方に,色の違いというものを説明するようなそんむつかしさがそこにあることになります。

 もちろん実際には「感情を感じ取れない」という決めつけ自体がおかしなことで,アスぺの方の実態とはぜんぜんずれていますから,そういう部分ももっと丁寧に考えていく必要がありますけれど,いずれにせよ今度は「定型を理解してもらい,定型の側からも「理解してもらえた」と感じられるようになる」ことがどこまで可能なのか,ということを具体的に模索していくという,新しいステップに入り始めたと感じています。また新たな手探りが始まりそうです。
 
 

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コメント

パンダさんの姿勢は、子どもの将来を心配する親の目線からも、とても有意義なものです!
療育といえば、SST=ソーシャルスキルトレーニングというものが主流で、中には定型の感覚や習慣を丸覚えするような訓練もありました。
企業には特例子会社が盛んに作られて発達障害者の受け入れ先は増えたけど、業務は本社の仕事とは隔離されていて、本人の才能を活かすということは考えられていませんでした。
しかし、お互いの人格を尊重しつつ、ズレを認識して交流しようという試みが拡がれば、もっと違うやり方が考えられるはず。
社会で活躍されている当事者の方が率直な意見を言ってくださる貴重な場だと思いますし、特性を自覚しながらも、普通に社会人として活躍できるのだなと、大きな励みになります。

色の認識という例がありましたが、私からアスペの家族を見ていて感じるのは、全く見えているものが違う、または分からないわけではなく、情報が少ないということでしょうか?
色には、色相、明度、彩度という三領域がありますが、例えば明度(明るさ)彩度(鮮やかさ)は分かる、けれど色相が分からない。つまり、赤から感じる強烈な感じとか、青から感じる清々しさなど、イメージが湧かない。
色盲の人の感覚みたいなものですね。

見えてはいる、感じてもいる。
そこからのイメージが違うとなると、全く見えないと前提するより、ズレを判断するのが難しい。そういう微妙さが事を難しくするのかなと思うところです。

あすなろさん

ありがとうございます。

私のこだわっている視点というのは、アスペの方と距離を保ちながら「支援する」あるいは「そんな形で支援できる」専門家の視点というよりは、どうしようもなくアスペの方と「共に生きる」立場にあって、決して簡単には距離を取れない家族などの当事者の視点なのだろうと思います。

定型アスペ問題の外側から支援する立場と、どうしようもなくその内側を共に生きることになる立場の違い、と言ってもいいかもしれません。

もちろん専門家でありながら、同時にご自身や家族に定型アスペ問題を抱える方もあるでしょうし、その場合は両方の視点を持ちながら考えられるでしょうけれど。

そして、専門家が専門家として考えられる問題と、当事者が当事者として抱える問題はやっぱり違いがあって、当事者には当事者自身の模索によってしか見えてこなかったり、解決を探れない問題があるんだと思うんです。

そこは専門家の意見や支援も頂きながら、結局は自分たち自身で道を探していくしかないのだと思います。


色のはなしはおっしゃる通りですね!! 私にはとても分かりやすい例えでした。 そして、おっしゃるようにそのずれにとても気づきにくいから、こうやって定型アスペ間で地道にやりとりすることに意味が出てくるのかなと思います。

かずきです。
私も一度定型になってみたい、と思うことはあります。
生理痛のない男性になってみたいとか、そんな感じで。
そんなに楽なのかな?という疑問もあるので。

私の感じる世界は、やはりアスペ的な世界でしかないので、
アスペの形で定型社会を生きていくために
こころにゴムの膜を厚くはり、定型社会の凸凹に押し付けながら少しずつ形を変えて覚えていくしかない。
ケースバイケースのケースを覚えていくしかない。
定型社会で生きていくにはそれしかないから。
(と思っていました。貫くという方法も有るんですね、孤立しがちですが)

でも、アスペに関わる定型の方は逆にアスペの凸凹に押し付けながら
ひとつひとつ形を覚えていってるんですよね。
本来ならそんな必要無いのに、本当に頭の下がる思いです。

そういう理解しようとしている周りへの感謝と配慮を欠かさないようにしたいのですが
的がズレがちで困ります。
極力細かくありがとうと伝えてるつもりですが、
余計なところでありがとうと言い
肝心なところで言わないそうで。
このズレも、気持ちの行き違いを起こしていそうです。

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