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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年4月26日 (日)

世の中と一対一関係のズレ

 このところ,ちょっと自分の中でいろいろつながってくることがあって,割に濃い目の話(笑)が連日続いたので,ちょっとひと息と思って書いた「定型アスぺ感覚の部分的逆転体験」だったのですが,アスぺサイドから頂いたコメントがまた刺激的で……

 
 「部分的逆転体験」の記事では,お医者さんが違和感を持って紹介をされたアスぺの方の手記について,私は全然違和感なしで読み進めてしまって,そのギャップが面白かった,という話をご紹介したわけですけど,アスぺサイドの三人の方も,やっぱりあまり違和感なく読み進められて,逆にお医者さんとのギャップを感じられたようでした。

 お医者さんから改めて違和感を指摘されて,私は「そう言われればそうも見える」とは思いましたから,そのお医者さんの感じ方はたぶん「定型的」な感覚なんでしょうね(ただ今見ると定型サイドのココチさんも違和感なかったとされるので,事態はもうちょっと複雑化も)。もともとアスぺとか,自閉症スペクトラムとか,そういう概念は「定型を基準にしてそこから外れるもの」という形で作られるわけですし,もっと言えばお医者さんというのは「健康な状態」をまず想定して,そこから「外れて苦しむ」人,つまり「病人」が来るとその人をできるだけ「健康な状態」に戻すように工夫する役割の人,と言えます。

 ですから,お医者さんがお医者さんとして定型アスぺ問題に向き合うときには,「定型の基準」で,「定型の感覚」から判断することが当然の基本になるのだと思います。ご紹介した本の一節もそういう視点から「定型との違い」に特に敏感に,あるいは違いを強調して書かれていることになります。

 なぜお医者さんはそういう視点が基本になるのか,ということについては,その仕組みは割と簡単だと思います。つまり多数派が少数派に合せるよりも,少数派が多数派に合わせる方が世の中全体としては労力が少なく,「節約」になりますから,どうしても少数派は多数派を基準に,それに合わせて生きることを求められやすくなる。良し悪しは別としてそれはある意味では自然な流れになると思えるからです。

 ただ,そういう流れは,少数派に我慢や努力を一方的に強制することにもつながる可能性を常に持っています。多数派は自分のやりかたをそのまま貫けばいいので,苦労はないですからそうなりやすい。そして少数派は仕方なくそれに従わざるを得ず,一方的に苦労させられる。そうなりやすいわけです。

 実際,ゆかさんはこんなふうに書かれています。

 「少し前までの私なら「定型の先生が言うのだから、男性の文は冷たい感じなんだ。それを大して違和感なく感じた私はやっぱりおかしいんだ」と思い詰めてしまっていたところでした。」

 本当はどちらがおかしいとかおかしくないとかいう話ではなく,ただ感じ方が違うだけなのだと今の私は思うのですが,でも現状ではアスぺとされた方の感じ方は「おかしい」ということにされるし,そしてアスぺの方自身も以前のゆかさんのように「私はおかしい」と思わなければ生きていけない状態に置かれるわけですね。そして辛い思いをされる。

 ゆかさんのこの言葉には,アスぺの方が置かれた状況がすごくはっきりと語られていると思って,ちょっとはっとしました。

 世の中全体としては,そんな風に少数派のひとには我慢してもらって多数派のやり方を優先する,という形で進みやすいわけですが,ところが定型優位の社会の中でも,そういうやり方が簡単にはうまくいかない場があります。それがたとえば夫婦関係とか,恋人関係とか,多数派少数派という関係では割り切れない,「一対一」の関係とかあるいは家族的な関係になるときです。それが今回の記事のタイトルの問題になります。

 一対一の関係の中だけ考えれば,多数派少数派はあり得ませんから,多数派の側が一方的に少数派に我慢や努力を強いる,という形はとれなくなり,激しく混乱する可能性があります。逆に少数派の側は普段我慢を一方的に強いられている分,多数派の側に激しく自分を主張するようになるかもしれません。(その辺りはその方の性格などによってもさまざまでしょう)

 ひとは普通多数派対少数派という世の中的な枠組みをそのまま疑いもなく受け入れて,自分をそれに合わせる形で生きてきています。定型もアスぺも,通常の世の中ではどちらもそれを前提にして生きていて,そこはなかなか動かしがたいでしょう。ところが夫婦や恋人など家族的な関係に入るとそこが変ってきます。定型アスぺ間で世の中的な枠組みが共有されなかったり,あるいは世の中的な枠組みでコントロールできない状況が生まれ,そこで大混乱が起こるわけです。

 ですから,定型アスぺ問題というのは,世の中でなりたつ多数派少数派のバランスと家族的関係の中で成り立つバランスがそもそも違う,というズレを背景に生じている問題として見ることも可能なのだろうと思います。定型アスぺ問題では,世の中的には通用する問題解決の仕方が,カップルの間で全く通用しなくなるという事態が起こるわけです。


 ところで,人の幸せや不幸というのは,地位だとかお金だとか名誉だとか,いわゆる社会的な「出世」に関わるものもありますけれど,でも一番基本になるのはやっぱり親密な身近な人との関係でしょう。家族とか友人とか。

 その二つはうまく折り合うこともあるでしょうし,全然対立してしまうこともある。社会的には出世してうらやまれるような人が,身近な生活では悲惨な状況で不幸になっていたり,逆に社会的にはぜんぜんぱっとしない人が身近な関係の中ではとても幸せに生きられたり,そんなギャップはどこにでも普通に転がっていると思います。

 定型アスぺ問題は,その二つが激しく矛盾しやすい問題のひとつなのだろうと思います。定型同士のカップルであれば,たとえお互いの関係に問題が起きた時にも,世の中の多数派の基準が基本的には共有されたうえで,家族的な関係での矛盾を調整していけます。(それでもむつかしいときはむつかしいわけですけれど)

 それが定型アスぺのカップルの場合には,そもそも多数派の基準が全然共有されないところに問題が生まれ,そして一対一あるいは家族的関係でそれを調整しようとしても,そもそも調整の仕方から共有されないというシビアな現実に直面するわけです。しかも普通はそこにそういう根本的なズレがあることにすら気づきようがありませんから,その混乱は極限にまで進むことになる。

 そういう混乱にどう対処するか。大きく言うと三つくらいの方向があって,その違いが医療や福祉の見方とか,このブログでの見方などの特徴に関わるような気がしています。また,この見方で考えると,なぜ昔は定型アスぺ問題というものはたとえ潜在的にはあっても,それほど表立ってこなかったのか,それが今非常に大きな問題としてクローズアップされるようになったのか,という時代の変化についても,ある程度の説明が可能になるように思えます。

 一つ目は世の中的な基準をそのまま一対一関係の中にも持ち込み,多数派のやりかたで少数派を「支配」することで矛盾を解消する方向です。少数派には一方的な「服従」が求められます。多数派にとってはある意味で楽なやり方ですが,服従を強いられた少数派の側は苦しみが続きますから,お互いの関係が幸せになることはむつかしくなるのでしょう。そうなると家族の中で「幸せの共有」ができなくなりますから,多数派のほうも「幸せな関係」はそこに望めないことになります。

 この枠組みでなおかつ少数派とか支配される側の人にも不満や被害感を減らす「考え方」や「工夫」というのもないではありません。それは「身分」というような,上下,優劣関係を「正しいこと」として前提にする考え方です。支配と服従の関係はそこでは「当然のこと」「運命」として大前提になり,世の中もそういう教育をします。そして支配される側の人も,その関係に従うことに喜びさえ感じさせるようになったりします。

 昔なら「主君のためなら命も惜しくない」とか,そんな話になります。なにしろ明治時代ぐらいまで,「殉死」というのも実際にあったりしたわけですしね。もう家臣が主君に一体感がなければ,そして世の中的にもそれを讃えるような風潮が無ければ,とてもできないことです。家族の中では妻は夫に従うことが幸せだとか,そんな考え方をすることでしょう。夫唱婦随とか。

 実際にはそういう上下関係の中でもいくらでも矛盾や対立が起こるし,いろんな不満や被害感が生まれうるわけですが,そういう「考え方」や「工夫」を積み重ねることで,時にはそれを「喜び」にまでひっくり返してしまう,ちょっとマゾヒスティックな状態まで作り出したりする。不思議と言えば不思議な「工夫」ですが,そういうやり方で成り立たせている世の中は,ちょっと注意してみてみれば,今の世の中でもいろんなところで少なくなさそうです。

 そういう工夫などもされずにこの一つ目のやり方が押し通される場合は,ほんとに単純な暴力的な支配,みたいなことになります。


 二つ目は少数派が「困難」を抱えている,ということを多数派が「理解」し,「配慮」したり「援助」したりする,という方向です。医療とか福祉とか,基本的にはこの枠組みの中で成り立つことのように思います。このとき,少数派にはその「援助」に「感謝」しつつ,多数派の基準に近づけるように「努力」をする姿勢が求められることもある(にわとりさんもそこで感謝や従順を求められて苦労されたのでしょう)。

 多数派の方は少数派への思いやりの気持ちで接することになりますし,少数派にとっては「障がい」といったような優劣関係の中で,自分を「劣った者」として納得しなければならないというハードルがありますが,そこさえ受け入れれば,「理解ある」多数派にはある程度自分のやりかたが認められることにもなりますので,一方的に支配し服従する一つ目の関係に比べれば,おだやかな関係を結べる可能性が高まるでしょう。

 ただ,そのやりかたは多数派優位の世の中で,その枠組みを大前提として福祉や医療などの形で行われる時はよいとして,それを家族的関係の中にそのまま持ち込むと,そこにはまた独特のむつかしさが生まれるように思います。

 というのは,一対一関係では,基本的にはお互いに相手に配慮しあうことが大事になるように思うのですが,この二つ目の枠組みをそこにそのまま持ち込むと,今度は状況次第で「多数派による一方的な配慮」という形になりやすいような気がするからです。それが特にシビアになるのは,定型の方が「障がい」の問題を理解して対処するが,アスぺの側がそういう意識が全くなく,「自分は普通(多数派)」とか「正しい」「合理的」などと一方的に信じ込んでしまっている場合です。

 お互いが「障がい」という問題の理解を共有していれば,そのことを前提に「協力し合う」という姿勢も生まれる可能性がありますが,それが成り立たなければ,今度はアスぺの側が自分をどんどん定型に押し付けてきたり,力関係で上にある場合にはそのやりかたで定型のパートナーや子どもを支配しようとしたりすることが起こり得ます。でもアスぺの側に押し付けている感覚はおそらく全くなく,当然のことをしているだけで,それが分らない相手が悪いと思われるでしょう。そこでは定型が定型的にいくら頑張って配慮しても,それが報われることは少なく,努力すればするほど消耗していくという,本当に地獄のようになっていく可能性があります。

 もしそういう一方的な「配慮」の状態になってしまうと,定型パートナーはほんとに大変です。仕事として医療や福祉に携わる方は「仕事の枠」があり,そこから離れたプライベートな世界や家族関係で気分転換したり,「仕事」と割り切って深入りを避けたりという逃げ道がまだあります。けれども定型パートナーにとってアスぺパートナーとの関係はとにかく生活全体,あるいは人生そのものの場なのですから,どこにも逃げ道がないわけです。ここが「専門家」と「当事者」の決定的な違いの一つでしょう。

 そのように逃げ道のない場で一方的な配慮の関係だけが続くことは,過酷そのものでしょう。ですから自助グループという別の逃げ道を作って,愚痴を言い合ったりすることが特に大事になるのは,そういう場合ではないかと思います。またそういう場も持てない場合は,カサンドラに激しく苦しむことになるのでしょう。

 このように一つ目は少数派が我慢して多数派に合わせることになり,それに対して二つ目は逆に一対一関係の中で多数派が我慢して少数派に合わせる,という形にもなりがちです。当然そこには独特の辛さや苦労が積み重なります。


 三つめはもう世の中的な基準は前提にせず,お互いが持っている基準のどちらもそれぞれに意味のあるものとして認め,対等な関係として調整をはかることです。個人と個人の対等な関係ということを考えると,これが一番理想的なのでしょうが,同時に一番むつかしい関係ということにもなるでしょう。なにしろかなり基本的なところで,お互いが「心地よい」と感じる状態がずれていたり,また矛盾が起こった場合の調整の仕方自体にズレがあったりして,そこをさらに工夫して調整するのは容易ではないからです。

 私がこだわって追求しようとしているのはこの三つめの方向なのですが,それがどれほどむつかしいことなのかということは日々実感させられます。そしてそのむつかしさの原因を理解する上で,今回のように定型アスぺ問題を世の中の枠組みに応じた幸せと,家族的関係の中で求められる幸せのズレという点から考えてみることには,ある程度意味がありそうに感じたのでした。


 なんか,まだうまく整理されていない気もしますが,この視点から考えると,昔は今ほど定型アスぺ問題が表に出てくることが無く,今それがものすごい勢いで出てきていることについて,ひとつの説明が可能になると思えます。どういう説明かというと,昔に比べると,家族というものが他の家族や地域などとは切り離されて,「核家族」とか,孤立した関係になったということが大きな意味を持っているという説明です。

 というのは,家族が他の世界ともっとつながっていれば,外の世界の「多数派VS少数派」の基準が家族の中にも浸透しやすくなるはずです。ところが外の世界とのつながりが薄くなると,一対一で向き合う形が中心になってきて,そこに世の中の基準が浸透しにくくなると思えるからです。そうすると,昔は外の基準によって家族内でも調整された定型アスぺ関係が,今度は定型的基準とアスぺ的基準がある意味対等な形でぶつかり合うことになる。そういうむつかしさがそこに発生し,問題が一挙に噴き出して,今のようになったという可能性です。

 引き続き考えるべきポイントの一つだろうと思います。 
  
 
 
 



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コメント

親として、子どもの療育に長年関わってきた立場でみると、これまでの療育は、本人の力を引き出すというよりも、いかに多数派社会からドロップアウトせずに生きていけるか、多数派社会に理解してもらえるか、が中心でした。
ソーシャルスキルトレーニングというものがまさにそれです。
けれど、現実はそれをしなければ、誤解され排除されてしまうため、本人には重要なトレーニングなのですが。
問題は、幼い頃からあまりトレーニング中心に育ってしまうと、自分自身はどう生きたいのかがわからなくなってしまうところです。
主張の強い積極奇異型の子なら、それでも自己主張が強いので療育者の思い通りにはならない。その反面、二次障害をおうリスクも大きい。
しかし、受動型だと、わけも分からず療育者の言う通りにしていることがある。周囲からの攻撃は避けられるけど、本人の中で混乱が起きている。

医療、療育が、本人たちを救うベストな方法だと、親も信じてすがってきましたが、何か方向性が違うように、このブログを知ることによって思い始めています。

パンダさんも読まれている、ドナ・ウィリアムズさんや、ニキ・リンコさん、東田直樹さんのように、自閉症の感覚を解説してくれる存在が増えて、社会全体がそんな感覚もあり得るんだと理解していくことが、もっとも大切なことじゃないかなと思います。
このブログでASDの方がお話しされることも、とても貴重な情報のひとつですよね。
アスペ、定型、双方の次世代のために、ぜひ、どんどん世に広めてほしいなと思うのですが。

あすなろさん

>医療、療育が、本人たちを救うベストな方法だと、親も信じてすがってきましたが、何か方向性が違うように、このブログを知ることによって思い始めています。

 手探りで考えていることですけれど,あすなろさんとも共有されて励まされます。

 医療とか療育とか福祉とか,そういう形でのアプローチは今この社会で生きていくうえではどうしても必要な大事なことだろうとは思うのですが,その発想だけでは解決できない問題がやっぱりあると思うんです。で,定型アスぺ問題の当事者はそこで苦しんでいるように感じられます。だからそこにこだわって考えてみることにはきっと意味があると思うんですね。

>ドナ・ウィリアムズさんや、ニキ・リンコさん、東田直樹さんのように、自閉症の感覚を解説してくれる存在が増えて、社会全体がそんな感覚もあり得るんだと理解していくことが、もっとも大切なことじゃないかなと思います。

 「健常」VS「障がい」という視点ではなく,「違う生き方」として見ることに意味があるんだと思います。定型だろうがアスぺだろうが,だれもがみんなどうしようもなく限定された自分を抱えて生きていて,そこはどうしようもないわけですよね。でもその自分を抱えてそれでも自分らしく生きようとするわけで,そこをお互いに大事にしつつ,お互いの関係を考える道がないだろうかと思うんです。

 なんか,最近アスぺ当事者の方が積極的に自分を語る感じの本が結構でているようで,定型的な視点で理解された自分ではなくて,自分の感覚で理解した自分が表現され始めているのかなと思います。もちろんそれ自体むつかしいことだと思うけど,でも大事な新しい流れが始まっているのかも。

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