2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

掲示板最近の話題

フォト

アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

2015年4月

2015年4月30日 (木)

定型アスぺどこまで同じ?

 このブログでは,定型アスぺのズレ,違いを考え続けてきていますが,それは同時にその違いの先に「同じ」ところを探すことでもあると思っています。

 もしも定型アスぺの一方が相手との違いを感じているのに,それを無視して(あるいはそれに気づかず)「同じ」と言うことは,結局自分を相手に押し付けることにしかならず,それでは問題は解決しないばかりでなく,ますます深刻になもなりえます。だから「違い」を見つめる必要はある。ただそこに終わるのではなく,その上で「ここは同じだよね」とお互いに無理なく思えるところを探したい気持ちがあります。

 じゃあどこまで行ったら「同じ」にたどり着くか。極端な話,「生き物だよね」とか言ってしまえば,もちろんそこは「同じ」と言えるのでしょう。「動物だよね」「人類だよね」とかも全然問題なし。ではそのさきどこまで「同じ」と言えて,どこから「違い」が見えて来るのか,ということが気になるところです。


 わかりやすいところでは,たとえば脳の話があるでしょう。脳細胞で脳はできていて,というところは誰でも「同じ」なわけですよね。で,大雑把な形も同じ。ただしその上で働き方に「違い」が見出されたりする。その辺は検査の機械を使えばアスぺが見ようと定型が見ようと,「同じ」と「違う」について共通の結論が得られやすい(お医者さんによれば実際は判断は結構微妙だったりするみたいですが)。

 そしてその働き方の違いは遺伝子という,これもまた誰にでも「見える」わかりやすいものである程度説明できる可能性はあります。さらには神経の働きを左右する物質の作られ方の違いで説明が試みられたりもしています。遺伝子にしても脳内物質についても,基本の仕組みは「同じ」で,その内容とか量とかが定型アスぺ間で「違う」。しかもそうやって定型アスぺどちらも「手に取って見られる」ものから仕組みが説明されれば,そこはお互いに共通の納得を作りやすくなります。

 こういう脳の違いに対する対処法は,「投薬」とか,場合によって「遺伝子操作」が考えられたりもするのでしょうが(そうすべきだと言っているわけでは決してありません。発想としてはそういうのが出てくるだろうと言うだけです),これもやはり定型アスぺの関係なく誰でも可能な(つまり理解を共有できる)やりかたになります。

 そんなふうに脳の話になると,定型だろうがアスぺだろうが,「目に見えて手に取って扱える」レベルの話は,共通の理解の仕方や共通の対処の仕方を共有しやすいわけですね。だから脳の話で説明されると,多くの人がなんとなく納得してしまうのでしょう。そういう「同じ」基盤に立って「違う」を考えることが成り立っています。



 ただ私自身は定型アスぺ問題は,脳の仕組みなどで説明でき,基本的に解決できてしまうような,そんなに一面的な問題にはとどまらないだろうとやはり感じてしまいます。そういう話とはまた違ったレベルで,違った角度で「同じ」とか「違う」とかを見つめなおし,それへの対処の仕方を考えていく必要もあると思うんです。

 そういう違うレベルの話として,今日ふと,「他人とのかかわりを持ちながら生きている」ところも定型アスぺは同じで,「自分にとって心地よい他人とのかかわりを模索して生きている」ことも同じと言えるなあと思いました。ただし,その「心地よいかかわり」とは何なのかの辺りになってくると,違いがいろいろ出てくるのだろうと思うわけです。

 そこが違うと,「他人とのかかわりに求めるもの」の具体的な中身が変ってきますし,そうすると他人との関わり方にも当然違いが出てきます。そしてそれはお互いの「生き方の違い」を生み出していく。そのことはさらにこの世の中でそれぞれがどんな役割を果たして生きるのか,ということにも違いを作っていくのでしょう。世の中での扱われ方もそれによって大きく左右されるわけです。

 定型アスぺ問題はそんな風に,いろんな視点から「同じ」と「違う」を考えていく必要があると思うのですが,その点にも関わって,Keiさんから頂いたコメントは私の問題理解にとってはとても大きなステップになる気がします。

 私がこのところこだわっていて,keiさんも取り上げてくださった「中間状態」とスペクトラムの話ですけれど,その話を突き詰めていくと,「本当の自分」「素直な自分」といった「自分」というものは本当にあるのだろうか,あるとすればどういう意味であると言えるのだろうかという,言ってみれば禅問答みたいな話にもなってしまいます。そうしないと「理屈」としては整理しきれなくなると私は思っています。

 ただ,もともとそこは議論がいろいろあって,定型同士でもともすれば袋小路の話に迷い込んでしまうところだと思うので,下手な素人禅問答で話を抽象的にしてしまうよりも,もっと具体的なところで考えていくことが大事だろうなと,そしてその具体的な話の先に,無理なく自然にそういう議論にもつながっていけばいいなと思っていました。



 けれども,ご自分がアスぺではないかと考えられているKeiさんは,そういう議論にすぱっと切り込んで下さいました。そして「アスぺの方は<自分>というものがまず確固としてあることを確信し,同じように定型が<スペクトラムとしてある自分>を疑いもなく確信している」,というどっちもどっちの関係を想定されて,「そういう関係の中でアスぺ的な<自分>理解が作られていくのだ」,という意味の理解をされました(と,私は理解しました)。

 この理解の仕方は,私にはほんとに親しめるもので,まさに具体的な問題からそのあたりを少しずつ整理してみたいなと考えていた部分でもありました。

 ですから,私が定型的に想像したアスぺ的世界について,アスぺ寄りのkeiさんがパンダさんがアスペの方はこういう理由でこう感じるのではないかな?と予測として色々書いてらっしゃいますが、定型の方でもここまで真相に近づいて行けるのだなぁと感動しています。」と感じてくださる状況ができつつあるだけでなく,今度はKeiさんの定型アスぺ問題の理解の仕方について,私の方が「うん,理屈としてはまさにそこが問題の核心部分になるんだよな」と素直に理解してもらえたことを感じられるようなやりとりが成り立ってきたということになります。

 前に記事「アスぺの方はどこまで定型に迫れるか?」で,アスぺの方が定型的理解にどのくらい迫ってこられるのかということについて書きましたけれど,今回は定型の一人である私の発想に,直球ストライクという感じでkeiさんが迫ってこられたとも言えそうです。

 「自分」というものがほんとうにあるのか,というこの議論は,一見暇人の言葉のお遊びにも見えますが,けれども私が理解(誤解?)した範囲では,たとえば仏教はその疑問をずっと真剣に問い続けてきていると思います。「無我」というような話につながることで,「色即是空,空即是色」の般若心経の世界でもありますね。そしてそれは決してたんに理屈好きのお坊さんが趣味で考えられていたわけではなく,まさに人生の苦悩について考え抜いた先に「悟り」を得るために考えられ続けてきた問題でもあります。

 私自身は仏教的な悟りを目指している気持ちはないのですが,でもそこで考えられてきた問題の大切さはすごく感じていますし,その視点は見失わずに,しかし「悟り」では生きられない現実の問題をしっかり見つめていきたいと考えています。そういう,少なくとも私にとってはかなり重要なポイントで,アスぺサイドのkeiさんとやりとりの共有が可能になったわけです。

 ということは,「人生の苦悩」に関わるような重大な問題について,「脳の仕組み」みたいな,目に見え,手に取って調べられる具体的なものに限らず,かなり抽象的な「理屈」の世界でも,定型アスぺ間にある種の「共通理解」が成り立つ可能性が見えてきたことになります。

 (そう思って仏教のこととかを考えてみると,お坊さんの中にはアスぺの人もボーダーの人もいくらでもいらっしゃるでしょうし,そういう方たちにとっても納得のいくような,まさに人生に関わる議論がそこでは模索されてきたはずなんですね。そう考えれば,素人禅問答の世界で私とkeiさんの間にもし共通理解がある程度成り立ったとしても,ある意味当然のことなのかもしれません。)

 Keiさんは,自分というものについてそういう理解の仕方を書かれたうえで,「これはもう人間が人間を超えられるのか?ぐらいの壮大なテーマですね(笑)。」とか「これ(そういう関係の中をそのまま生きていく大変さ)を乗り越えるのはやっぱり「人間」には無理ですね!」とも書かれていて,そういう理解が果たしてそこから新たな何かを生み出しうるのか,それともある種「絶望的な状況」の確信で終わってしまうのか,そのあたりは微妙なのかもしれません。

 私自身は定型アスぺ間で理解が共有されるところが見出されれば,そこは新たな工夫への出発点,共通の足場になるのではないかと,期待半分に思っています。少なくとも「同じ」と「違う」に関して,こういう側面にまで「同じ」部分を感じられたのは,私にとっては新たな可能性を感じさせられる大きいことでした。登る道はそれぞれ違うかもしれないけれど,頂上はお互いに同じ場所を見つめられ始めたかもしれないと感じるような,そんな気分もあります。

2015年4月29日 (水)

アスぺ的「甘え」?

 ちょっと充電期間に入られたコアラさんが少し前に書かれていた次のコメントが,心に残っています(改行は読みやすさのために私が勝手に挿入しました)。

こちらでも何度も出てきたように、アスペ側が一番心地良い状態は「素の自分」でいることです。「思考」「手段」など、周りからはそれがどんなに奇妙で不効率のように見えても、今の自分の中ではそれが最善だと思っています。
その今現在の「思考」「手段」が、斬新で画期的である場合もあれば、とても稚拙なものである場合もあります。でもそれをひとまず脇に置いて、「素の自分」を一旦そのまま受け入れていただき、それからはそちらの判断で、私をうまく先導するなり、容認するなりしてほしいと思っています。イメージ的には、母親が小さい我が子を見守りながら導いていくような感じです。
人にもよりますが(状態や度合いなど)、決して聞く耳を持っていない訳ではないです。ただ、まだ理解できていないだけだったりします。だから、まず先にこちらのワガママを聞いていただき(ありのままの状態の自分を受け入れていただき)、それからその先どうするかを考えてほしいというのが正直な私の望みであります。その「ワガママ」の部分こそが、ごく親しい相手限定のものなので、そのこと自体を一番信頼している相手から拒絶されるとものすごくショックだし、もうどうして良いのかわからなくなってしまいます。
あと、一人の時間を尊重し見守ってもらえるのは嬉しいけど、決して放置はしないでほしいです(笑)家族である以上、相手とうまく関わりたいと思う気持ちは、定型アスペ関係なく皆同じだと思います。


 この話,私の中では昨日の記事でも引用した,ウィリアムズさんの次のような文章にもつながって感じられます。


「同情も,何にもなりはしない。おとぎ話とは違い,愛は必ず突き返されると思っておいていただきたい。それも,唾をはきかけられて。しかし愛ではなく,いつも心にとめて気遣うことならば大丈夫なのだ。それが,(注:自閉症者が)外へ向かうために,信頼することのできる世界を創り上げるためだという理解に基づいているならば。」

「まずは,やはり,寛大で忍耐強い本物の愛を,試してほしい。」

 定型から受け入れてほしい,という率直な思いがどちらからもとても感じられます。そこで多分大事なのは,「ありのままの自分を」ということなのでしょう。キャラではなくて。

 ウィリアムズさんは,周囲に対して激しく攻撃的・暴力的になったり,物理的にも精神的にもものすごい引きこもりになったり,そういうことを繰り返してこられたのですが,それは決して「他者の拒否」が目的ではない,ということのようなんです。

 「ありのままの自分」を認めてもらえず,逆に常に否定され,その上で定型的な世界を押し付け,自分を混乱させ続ける,そういう状態を拒否し,そういう相手を攻撃したり,引きこもることで自分を守ろうとしているのだ,というのが彼女の説明のようです。

 そして,「ありのままの自分」は拒絶せず,受け入れてほしい。そういう関係を作ってほしい。というメッセージがそこにはあります。

 「ありのままの自分」ということの中身が,定型アスぺ間でかなりずれていたりするので,定型の側から「ありのままの自分」をアスぺのパートナーに受け入れて欲しいと思っても,全然受け止めてもらえず,定型的には「この人は関係を拒否している」とか「関係を絶とうとしている」と感じられてしまったりするのだと思いますし,アスぺの方は「ありのままの(わがままを含んだ)自分」を受け入れてもらうという,「甘え」の関係を否定しているように,定型的には感じられてしまうのだと思います。

 けれども,コアラさんやウィリアムズさんの書かれることを見ると,決してそんなことではないのですね。どちらも「甘えたい」思いには変わりはないように感じられてきます。これまでアスぺの方の「甘え」についてはあまり考えたことが無かったので,改めて気になりだしました。
 

    

2015年4月28日 (火)

愛や共感が恐怖の源

 「自閉症だったわたしへ」は定型アスぺ問題を考える上で基本的な視点を探るには,ほんとに考えさせられることの多い本です。また一部ご紹介です。

 「私自身の場合も,愛や親切や,親愛の情や共感は,いつも最大の恐怖の源だった。それらを感じ,自分にはふさわしくないと思いながらもなんとか人の努力に添おうと頑張っていると,フラストレーションはやがて自分など不適当な人間だという思いに変り,ついには絶望となってしまう。同情も,何にもなりはしない。おとぎ話とは違い,愛は必ず突き返されると思っておいていただきたい。それも,唾をはきかけられて。しかし愛ではなく,いつも心にとめて気遣うことならば大丈夫なのだ。それが,(注:自閉症者が)外へ向かうために,信頼することのできる世界を創り上げるためだという理解に基づいているならば。」(476)

 「長々と書いてきたが,とにかくわたしは,わたしと同じような人たちを助けるために奮闘している人々に向かい,皆さんの努力はむだではない,と言いたかったのだ。間接的,客観的な方法で応えることと,無関心であることは,まったく別のことなのである。」(477)

 パートナーとの関係でいつも突き当たる問題の一つが,共感的にかかわろうとすることを,「そうされるとかえってしんどい」と拒絶されることです。自分が共感してもらえないこともなかなか辛いことではありますが,それでもこちらからは気持ちのつながりを求めて共感的に関わり,そういう形で少しでも彼女のしんどさを軽減できればと思っても,それが逆効果になる。そこがさらに辛いところになります。

 このウィリアムズさんの文章は,まさにその問題を彼女の視点から書いています。この彼女の感じ方,考え方が,アスぺの方たちにどこまで共有されるかはやはり私にはわかりませんが,でもやはりどこか共通する感覚があるのではないかという気はします。

 彼女は愛一般を否定しているのではなさそうです。本の中には彼女が体験した独特の恋愛関係のエピソードもいくつも出てきます(届いたばかりの最新版「毎日が天国」では,まだ読んでいませんが,その後結婚もされているようです)。またこんな表現もあります。

 「まずは,やはり,寛大で忍耐強い本物の愛を,試してほしい。」

 「本物の愛」と「気遣い」や「間接的,客観的な方法で応えること」,そして定型的な「愛」との関係など,私はまだなかなか消化しきれませんけれど,ここを定型の側がどう理解し,受け止めて問題を考えるかは,かなり重要なポイントの一つだろうと思いました。逆に言えば彼女が人を愛するというのはどういうことなのかも。

2015年4月26日 (日)

世の中と一対一関係のズレ

 このところ,ちょっと自分の中でいろいろつながってくることがあって,割に濃い目の話(笑)が連日続いたので,ちょっとひと息と思って書いた「定型アスぺ感覚の部分的逆転体験」だったのですが,アスぺサイドから頂いたコメントがまた刺激的で……

 
 「部分的逆転体験」の記事では,お医者さんが違和感を持って紹介をされたアスぺの方の手記について,私は全然違和感なしで読み進めてしまって,そのギャップが面白かった,という話をご紹介したわけですけど,アスぺサイドの三人の方も,やっぱりあまり違和感なく読み進められて,逆にお医者さんとのギャップを感じられたようでした。

 お医者さんから改めて違和感を指摘されて,私は「そう言われればそうも見える」とは思いましたから,そのお医者さんの感じ方はたぶん「定型的」な感覚なんでしょうね(ただ今見ると定型サイドのココチさんも違和感なかったとされるので,事態はもうちょっと複雑化も)。もともとアスぺとか,自閉症スペクトラムとか,そういう概念は「定型を基準にしてそこから外れるもの」という形で作られるわけですし,もっと言えばお医者さんというのは「健康な状態」をまず想定して,そこから「外れて苦しむ」人,つまり「病人」が来るとその人をできるだけ「健康な状態」に戻すように工夫する役割の人,と言えます。

 ですから,お医者さんがお医者さんとして定型アスぺ問題に向き合うときには,「定型の基準」で,「定型の感覚」から判断することが当然の基本になるのだと思います。ご紹介した本の一節もそういう視点から「定型との違い」に特に敏感に,あるいは違いを強調して書かれていることになります。

 なぜお医者さんはそういう視点が基本になるのか,ということについては,その仕組みは割と簡単だと思います。つまり多数派が少数派に合せるよりも,少数派が多数派に合わせる方が世の中全体としては労力が少なく,「節約」になりますから,どうしても少数派は多数派を基準に,それに合わせて生きることを求められやすくなる。良し悪しは別としてそれはある意味では自然な流れになると思えるからです。

 ただ,そういう流れは,少数派に我慢や努力を一方的に強制することにもつながる可能性を常に持っています。多数派は自分のやりかたをそのまま貫けばいいので,苦労はないですからそうなりやすい。そして少数派は仕方なくそれに従わざるを得ず,一方的に苦労させられる。そうなりやすいわけです。

 実際,ゆかさんはこんなふうに書かれています。

 「少し前までの私なら「定型の先生が言うのだから、男性の文は冷たい感じなんだ。それを大して違和感なく感じた私はやっぱりおかしいんだ」と思い詰めてしまっていたところでした。」

 本当はどちらがおかしいとかおかしくないとかいう話ではなく,ただ感じ方が違うだけなのだと今の私は思うのですが,でも現状ではアスぺとされた方の感じ方は「おかしい」ということにされるし,そしてアスぺの方自身も以前のゆかさんのように「私はおかしい」と思わなければ生きていけない状態に置かれるわけですね。そして辛い思いをされる。

 ゆかさんのこの言葉には,アスぺの方が置かれた状況がすごくはっきりと語られていると思って,ちょっとはっとしました。

 世の中全体としては,そんな風に少数派のひとには我慢してもらって多数派のやり方を優先する,という形で進みやすいわけですが,ところが定型優位の社会の中でも,そういうやり方が簡単にはうまくいかない場があります。それがたとえば夫婦関係とか,恋人関係とか,多数派少数派という関係では割り切れない,「一対一」の関係とかあるいは家族的な関係になるときです。それが今回の記事のタイトルの問題になります。

 一対一の関係の中だけ考えれば,多数派少数派はあり得ませんから,多数派の側が一方的に少数派に我慢や努力を強いる,という形はとれなくなり,激しく混乱する可能性があります。逆に少数派の側は普段我慢を一方的に強いられている分,多数派の側に激しく自分を主張するようになるかもしれません。(その辺りはその方の性格などによってもさまざまでしょう)

 ひとは普通多数派対少数派という世の中的な枠組みをそのまま疑いもなく受け入れて,自分をそれに合わせる形で生きてきています。定型もアスぺも,通常の世の中ではどちらもそれを前提にして生きていて,そこはなかなか動かしがたいでしょう。ところが夫婦や恋人など家族的な関係に入るとそこが変ってきます。定型アスぺ間で世の中的な枠組みが共有されなかったり,あるいは世の中的な枠組みでコントロールできない状況が生まれ,そこで大混乱が起こるわけです。

 ですから,定型アスぺ問題というのは,世の中でなりたつ多数派少数派のバランスと家族的関係の中で成り立つバランスがそもそも違う,というズレを背景に生じている問題として見ることも可能なのだろうと思います。定型アスぺ問題では,世の中的には通用する問題解決の仕方が,カップルの間で全く通用しなくなるという事態が起こるわけです。


 ところで,人の幸せや不幸というのは,地位だとかお金だとか名誉だとか,いわゆる社会的な「出世」に関わるものもありますけれど,でも一番基本になるのはやっぱり親密な身近な人との関係でしょう。家族とか友人とか。

 その二つはうまく折り合うこともあるでしょうし,全然対立してしまうこともある。社会的には出世してうらやまれるような人が,身近な生活では悲惨な状況で不幸になっていたり,逆に社会的にはぜんぜんぱっとしない人が身近な関係の中ではとても幸せに生きられたり,そんなギャップはどこにでも普通に転がっていると思います。

 定型アスぺ問題は,その二つが激しく矛盾しやすい問題のひとつなのだろうと思います。定型同士のカップルであれば,たとえお互いの関係に問題が起きた時にも,世の中の多数派の基準が基本的には共有されたうえで,家族的な関係での矛盾を調整していけます。(それでもむつかしいときはむつかしいわけですけれど)

 それが定型アスぺのカップルの場合には,そもそも多数派の基準が全然共有されないところに問題が生まれ,そして一対一あるいは家族的関係でそれを調整しようとしても,そもそも調整の仕方から共有されないというシビアな現実に直面するわけです。しかも普通はそこにそういう根本的なズレがあることにすら気づきようがありませんから,その混乱は極限にまで進むことになる。

 そういう混乱にどう対処するか。大きく言うと三つくらいの方向があって,その違いが医療や福祉の見方とか,このブログでの見方などの特徴に関わるような気がしています。また,この見方で考えると,なぜ昔は定型アスぺ問題というものはたとえ潜在的にはあっても,それほど表立ってこなかったのか,それが今非常に大きな問題としてクローズアップされるようになったのか,という時代の変化についても,ある程度の説明が可能になるように思えます。

 一つ目は世の中的な基準をそのまま一対一関係の中にも持ち込み,多数派のやりかたで少数派を「支配」することで矛盾を解消する方向です。少数派には一方的な「服従」が求められます。多数派にとってはある意味で楽なやり方ですが,服従を強いられた少数派の側は苦しみが続きますから,お互いの関係が幸せになることはむつかしくなるのでしょう。そうなると家族の中で「幸せの共有」ができなくなりますから,多数派のほうも「幸せな関係」はそこに望めないことになります。

 この枠組みでなおかつ少数派とか支配される側の人にも不満や被害感を減らす「考え方」や「工夫」というのもないではありません。それは「身分」というような,上下,優劣関係を「正しいこと」として前提にする考え方です。支配と服従の関係はそこでは「当然のこと」「運命」として大前提になり,世の中もそういう教育をします。そして支配される側の人も,その関係に従うことに喜びさえ感じさせるようになったりします。

 昔なら「主君のためなら命も惜しくない」とか,そんな話になります。なにしろ明治時代ぐらいまで,「殉死」というのも実際にあったりしたわけですしね。もう家臣が主君に一体感がなければ,そして世の中的にもそれを讃えるような風潮が無ければ,とてもできないことです。家族の中では妻は夫に従うことが幸せだとか,そんな考え方をすることでしょう。夫唱婦随とか。

 実際にはそういう上下関係の中でもいくらでも矛盾や対立が起こるし,いろんな不満や被害感が生まれうるわけですが,そういう「考え方」や「工夫」を積み重ねることで,時にはそれを「喜び」にまでひっくり返してしまう,ちょっとマゾヒスティックな状態まで作り出したりする。不思議と言えば不思議な「工夫」ですが,そういうやり方で成り立たせている世の中は,ちょっと注意してみてみれば,今の世の中でもいろんなところで少なくなさそうです。

 そういう工夫などもされずにこの一つ目のやり方が押し通される場合は,ほんとに単純な暴力的な支配,みたいなことになります。


 二つ目は少数派が「困難」を抱えている,ということを多数派が「理解」し,「配慮」したり「援助」したりする,という方向です。医療とか福祉とか,基本的にはこの枠組みの中で成り立つことのように思います。このとき,少数派にはその「援助」に「感謝」しつつ,多数派の基準に近づけるように「努力」をする姿勢が求められることもある(にわとりさんもそこで感謝や従順を求められて苦労されたのでしょう)。

 多数派の方は少数派への思いやりの気持ちで接することになりますし,少数派にとっては「障がい」といったような優劣関係の中で,自分を「劣った者」として納得しなければならないというハードルがありますが,そこさえ受け入れれば,「理解ある」多数派にはある程度自分のやりかたが認められることにもなりますので,一方的に支配し服従する一つ目の関係に比べれば,おだやかな関係を結べる可能性が高まるでしょう。

 ただ,そのやりかたは多数派優位の世の中で,その枠組みを大前提として福祉や医療などの形で行われる時はよいとして,それを家族的関係の中にそのまま持ち込むと,そこにはまた独特のむつかしさが生まれるように思います。

 というのは,一対一関係では,基本的にはお互いに相手に配慮しあうことが大事になるように思うのですが,この二つ目の枠組みをそこにそのまま持ち込むと,今度は状況次第で「多数派による一方的な配慮」という形になりやすいような気がするからです。それが特にシビアになるのは,定型の方が「障がい」の問題を理解して対処するが,アスぺの側がそういう意識が全くなく,「自分は普通(多数派)」とか「正しい」「合理的」などと一方的に信じ込んでしまっている場合です。

 お互いが「障がい」という問題の理解を共有していれば,そのことを前提に「協力し合う」という姿勢も生まれる可能性がありますが,それが成り立たなければ,今度はアスぺの側が自分をどんどん定型に押し付けてきたり,力関係で上にある場合にはそのやりかたで定型のパートナーや子どもを支配しようとしたりすることが起こり得ます。でもアスぺの側に押し付けている感覚はおそらく全くなく,当然のことをしているだけで,それが分らない相手が悪いと思われるでしょう。そこでは定型が定型的にいくら頑張って配慮しても,それが報われることは少なく,努力すればするほど消耗していくという,本当に地獄のようになっていく可能性があります。

 もしそういう一方的な「配慮」の状態になってしまうと,定型パートナーはほんとに大変です。仕事として医療や福祉に携わる方は「仕事の枠」があり,そこから離れたプライベートな世界や家族関係で気分転換したり,「仕事」と割り切って深入りを避けたりという逃げ道がまだあります。けれども定型パートナーにとってアスぺパートナーとの関係はとにかく生活全体,あるいは人生そのものの場なのですから,どこにも逃げ道がないわけです。ここが「専門家」と「当事者」の決定的な違いの一つでしょう。

 そのように逃げ道のない場で一方的な配慮の関係だけが続くことは,過酷そのものでしょう。ですから自助グループという別の逃げ道を作って,愚痴を言い合ったりすることが特に大事になるのは,そういう場合ではないかと思います。またそういう場も持てない場合は,カサンドラに激しく苦しむことになるのでしょう。

 このように一つ目は少数派が我慢して多数派に合わせることになり,それに対して二つ目は逆に一対一関係の中で多数派が我慢して少数派に合わせる,という形にもなりがちです。当然そこには独特の辛さや苦労が積み重なります。


 三つめはもう世の中的な基準は前提にせず,お互いが持っている基準のどちらもそれぞれに意味のあるものとして認め,対等な関係として調整をはかることです。個人と個人の対等な関係ということを考えると,これが一番理想的なのでしょうが,同時に一番むつかしい関係ということにもなるでしょう。なにしろかなり基本的なところで,お互いが「心地よい」と感じる状態がずれていたり,また矛盾が起こった場合の調整の仕方自体にズレがあったりして,そこをさらに工夫して調整するのは容易ではないからです。

 私がこだわって追求しようとしているのはこの三つめの方向なのですが,それがどれほどむつかしいことなのかということは日々実感させられます。そしてそのむつかしさの原因を理解する上で,今回のように定型アスぺ問題を世の中の枠組みに応じた幸せと,家族的関係の中で求められる幸せのズレという点から考えてみることには,ある程度意味がありそうに感じたのでした。


 なんか,まだうまく整理されていない気もしますが,この視点から考えると,昔は今ほど定型アスぺ問題が表に出てくることが無く,今それがものすごい勢いで出てきていることについて,ひとつの説明が可能になると思えます。どういう説明かというと,昔に比べると,家族というものが他の家族や地域などとは切り離されて,「核家族」とか,孤立した関係になったということが大きな意味を持っているという説明です。

 というのは,家族が他の世界ともっとつながっていれば,外の世界の「多数派VS少数派」の基準が家族の中にも浸透しやすくなるはずです。ところが外の世界とのつながりが薄くなると,一対一で向き合う形が中心になってきて,そこに世の中の基準が浸透しにくくなると思えるからです。そうすると,昔は外の基準によって家族内でも調整された定型アスぺ関係が,今度は定型的基準とアスぺ的基準がある意味対等な形でぶつかり合うことになる。そういうむつかしさがそこに発生し,問題が一挙に噴き出して,今のようになったという可能性です。

 引き続き考えるべきポイントの一つだろうと思います。 
  
 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月25日 (土)

定型アスぺ感覚の部分的逆転体験

 少し前,ちょっと面白い体験がありました。


 精神科医でアスペルガーの専門家の医者さん,加藤進昌さんが書かれた「大人のアスペルガー症候群」という本を読んでいたときのことですが,「アスペルガー症候群がどういう障がいかを理解するのに,当事者の手記はとても役に立ちます。」ということで,ある20代男性のこんな文章を紹介されています。

 「親は心配からすべてについて干渉してきましたが、自分のほうは,自分を否定されるように感じるので幼少期から反発しています。中学生になって切符が大人料金になったのだから子ども扱いはやめてほしいと思ったのですが、親は子離れができていないようです。親は『家』世界の存在で外の世界に出現すると違和感があります」(88)

 私はこれを読んで,「ああ,そうだよね,そう感じるんだよね」とすぐに納得してしまい,ほとんど何の疑問も違和感も持たなかったんです。ところがその直後に加藤さんがこんなことを書かれていました。

 「 と「木で鼻をくくったような」文章をいただいてしまいました。これはこれで特徴的ではあります。私としては、大人になった印が「大人料金の切符」というのはいかがなものかと思ったのですが、Aさんには譲れない一線だったようです。」

 で,その加藤さんのコメントを読んで,私は一瞬頭が混乱してしまいました。 あれ?これって違和感を持たないといけない文章だったんだっけ?とか……(笑)

 で,ふと「頭で考えて」,もう一度定型的な感覚を思い起こしてみて,「ああそうか,定型的に見ればこれはそうしか見えなくなるのか」と「頭で納得」したのですが,何の違和感もなく「そう感じるよね」と思えてしまった気分は消えませんでした。

 外国人の方から,日本に来て何年かはすごく違和感があったのが,数年暮らしているうちに慣れてきて,母国に帰ってみたら逆にそっちのほうに違和感を感じてしまったりした,という話を聞いたことがあります。逆に日本人で海外在住が長かった方から,「あれ?ここは日本ではふつうどう感じるんでしたっけ?」とか尋ねられてしまって,すごく面白かった経験もあります。

 私の場合,分らないながらも,自分の感覚を手掛かりに,それを延長してみて,何かアスぺの方の感覚を想像できないかという作業を続けてきたわけですが,その作業になれてしまって,そういう構えが抜けなくなってくると,上のようなアスぺの方の文章もかなり違和感なくそのまま読めてしまうようです。

 もちろん私の理解はどこまでいっても定型的な感覚の延長でしかないのだとは思いますが,それでも「頭で無理やり理解しようとして見る」という段階を経て,一部のことについては「感覚的にも違和感なくそのまま受け入れられてしまう」状態へと進みうるのだなあと,この体験で思ったのでした。
 
  
 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月23日 (木)

定型アスぺ間でキャラが果たす役割

 定型アスぺ問題の中で「キャラ」を使うということについて,ドナ・ウィリアムズさんの本や,コアラさん他のみなさんのコメントを拝見していて,これまで少しずつとりあげてきた次のようないくつかの問題が私の中でつながってきて,少し整理されてくることがありました。

 ・アスぺの方が定型社会に適応して生きるということは,素直な自分(自分モードなどと表現されてきました)から定型向けに努力して作られた外向きの自分(仕事モードとか世間モードとか,いくつかの表現をしてきたように思います)への切り替えをやり続けることだ。

 ・アスぺの方にとっては,定型向けの外向きの自分はどこまでいっても本当の自分ではなく,仕方なく相手に合わせて作っているもので,それが続くと本当に疲れ切ってしまう。

 ・アスぺの方が定型が好むやり方でつきあうとき,相手をだましているような罪悪感にかられることがある。

 ・アスぺの方が定型的な人間関係を見る時,本音を隠した騙し合いに見え,ショックを受けることがある。

 ・定型アスぺの両方にとって,家庭は素直な自分に戻って安らげる場であってほしいし,そこではお互いに素直な自分を受け入れあえることが必要になるのだが,そこで激しいズレが起こる。

 ・アスぺの方にとって定型のパートナーが求めるような共感的関係は,定型向けの外向けの自分がなんとか作れる関係で,それに応じることは,家族でなくなることにもなる。

 ・定型社会でうまく対処して成果を収められている方の場合,定型のやり方をしっかりと観察して,そこで使われているやりかたを理性的に発見し,それをテクニックとしてうまく使う,という形で成功されている場合がある。

 ・アスぺの方同士では,素直な自分でいられることがある。

 ・アスぺの方同士が素直な自分でいられるとき,逆にその自分に改めて向き合わされるときがあり,今度はそのことが辛くなることがある。

 ・アスぺの方にとって,外向きの自分は素直な自分を守るための手段にもなる。

                            などなど

 ここで,コアラさんがコメントで使われた「キャラ」という言葉を使って,これらのことをつなげて考えてみると,こんな話ができないでしょうか。(キャラを役割と読み替えてもいけると思いますが)

 定型もアスぺも,多かれ少なかれ相手や場面に合せたいろいろな「キャラ」を作って生きており,これも多かれ少なかれそれらの「キャラ」を演じることが疲れる時がある。そういうときは「素直な自分」に戻るために引きこもりたくなることもある。

 しかし,定型とアスぺでは,そのようなある程度は意識的に演じられている「キャラ」と,あまりそういう意識をしないでいるときの「素直な自分」の関係がかなり違う。

 「素直な自分」は周りに振り回されることなく,安心した気持ちで無理せずいられる状態の自分だが,アスぺの方はそういう状態は他者の感情が自分に入り込んで自分を揺らすようなことがない静かな環境で作られやすく,定型の場合は逆に相手と感情を通わせて,その状態を共有できることがとても重要になる場合がある。

 従って,アスぺの方が望むカップルの関係は,お互いにお互いの気持ちを強く揺らしあうことなく,静かに隣にいる,といった状態がひとつの理想になりやすく,定型の場合は時にはお互いの感情を強く揺らし合い,そこでさらに調整しあいながら「気持ちを共有し,支え合う」関係を理想としやすい。

 そうすると,定型が作るキャラと「素直な自分」の関係は,感情的な関わりや感情的な共有関係が大事な役割を果たすという点でつながりがあり,ただその感情的な面をかなり無理しても相手に合せるか(外向きのキャラ),無理なく自然な自分の感情の動きで相手と感情を共有できるか(「波長があう」相手といることで得られる素直な自分)という関係であるのに対して,アスぺの方が作るキャラと素直な自分の関係は,感情的なやりとりを含むか(外向きのキャラ),それを避けて静かに一人でいたり,親しい人とは「場を共有」するなどの姿勢になるか(素直な自分)の違いになる,という風に,かなり違った性格を持つことになり,両者には大きなズレが生まれる。

 定型が外向きのキャラに疲れ,家庭の中で自分を取り戻して安らぎたいときには,波長の合う相手と感情を共有して,それまで外で無理してきた自分を癒す,ということが大事になる。傷ついてきたときなどは,そうやってお互いの感情状態を共有することで癒される。ところがアスぺの方が疲れた心をいやしたり,傷ついた心をいやすためには,他者に感情を揺らされず,一人静かに自分の心の安定を回復していくことが大事になる。

 定型のそのようなパートナーに対する欲望は,アスぺの方からすれば素直な自分でいることを否定されることになり,それに応えようとすれば,再び外向きのキャラを作って対応するしかなくなる。逆にアスぺの方の姿勢は,定型からすれば親しい間柄でこそ成り立つはずの心の通じ合いを拒絶され,素直な自分を取り戻すことを否定された,冷たい関係として感じられてしまう。

 次に外の社会でのキャラについていえば,定型は人間関係の中に敵味方を作って生きる傾向が強い。これはアスぺの方からは「群れて生きる」と感じられやすい性格になる。この「群れを作って,信頼しあえる味方の中で安心して生きたい」という定型に強い欲望に基づく集団は,利益のみで作られることはまれで,相手と価値観を共有したり,感情をかわしあったりすることで作られる「信頼関係」が大事になる。それが成り立つと「よい仲間」ができることになる。自己犠牲の精神は,それを理想化したものともなる。

 この定型的な仲間づくりは,価値観のすり合わせなども含むので,感情的なやり取りが欠かせない(飲み会で騒いだり,愚痴を言い合ったり,井戸端会議を繰り返したりというのもその一環になる)。時にそこでは虚虚実実のやりとりがかわされながら感情関係が調整され,敵味方の関係が作られていく。

 定型がアスぺの人に対して「私の仲間でいてほしい」ということのひとつの表現として感情の共有を求めた場合,感情状態はそれぞれが自分自身で大事にするものだという感覚を強く持つアスぺの方は,無理難題を強要された感覚になりやすい。他方でアスぺの方が「共感」してくれない態度(あるいは困惑の態度)を示した時,定型の側はそれを自分に対する敵対心の表明とうけとることがある。それが場合によってアスぺの方に対する激しいいじめにつながることがある。

 そのようなシビアな環境の中で,アスぺの方はそれを可能な限り上手に受け流して自分を守るために,相手に応じた定型的「キャラ」を作らざるを得なくなるが,それは世の中で生きていくために仕方なく作られる「必要悪」のようなもので,素直な自分とのつながりはほとんど感じられず,無理やり意図的に作った完全な「演技」だと感じられやすい。

 そしてアスぺの方から見た定型的な人間関係は,本音を隠した演技だけの関係として感じられやすいので,この世界で生きるということは,結局みんなそういう演技をするキャラを作って生きることでしかないという理解になりやすく,ますますそのキャラと素直な自分とのギャップが大きくなっていく。

 そのため,アスぺの方がそのような「キャラ」で相手の定型が満足をするときには,何か相手を意図的に操っているような罪悪感が生まれることがある。当然,信頼しあう親しい関係であるはずのパートナーとの間に,そのようなキャラで接することにはとても大きな抵抗感が伴いやすい。

 このキャラづくりについては,同じアスぺの方でも(おそらく「自閉度」の強さや,あとはいわゆる「かしこさ」のレベルを反映して)かなり得意不得意があり,上手な方はそれほど極端に無理をしなくても,一種のテクニックとして使いこなし,定型社会をそれなりにわたりあることも可能になる。定型が感情を含めて行うことも,知的に分析して割り切って対処することができ,この場合,キャラを無理して作る,という感覚も相対的には小さくなる。そのように誰もがお互いにやっている知的で合理的な対処として理解されると,その分罪悪感も比較的小さくて済むか,場合によってはほとんど感じる必要性がなくなる可能性もある。

 逆に不得意な方の場合は,キャラを作ること自体大変な努力の結果になるし,しかも「定型に求められるキャラ」をつかみにくいので,せっかく作ったキャラもなかなか認められないことも多く,ますます困難な状況に追い込まれる。

 しかしいずれの場合でも,そこで演じられたキャラが素直な自分とは全くの別もの,と感じられる傾向が強いことは変らない。

 定型の場合は,もともとは自分の感情とも離れてある程度無理をして作ったキャラであっても,やがて相手との感情的な調整や価値観のすり合わせなどが進む中で,自分にとっても比較的自然に振る舞えるようなキャラに成長していくこともあり,素直な自分とのつながりは比較的作られやすいため,アスぺの方のような絶対的な断絶といった感覚は生まれにくい。

 
 とりあえず,だいたいそんなところでしょうか。もう少しポイントを絞って単純な形に整理できそうな気もしますが。

 さて,そんな風に考えてみると,「キャラ」の問題は,定型アスぺ間の調整を考える時,かなりのキーポイントとして見えてくることになります。

 定型アスぺ間では多かれ少なかれ「キャラ」を作って生きていることはどちらも同じで,「素直な自分」と「キャラ」が別物として意識されたりすることも共通しているのだけれど,その二つの関係が定型アスぺ間でかなり違い,従って「親しい中でそのキャラをどう扱うか」についても大きな違いが生み出されてくる。定型が「素直な自分」でいられるために親しい人に望むことは,アスぺの方には「キャラ」を演じなければならない他人の世界での話になってしまい,逆にアスぺの方が「キャラ」を捨てて「素直な自分」になるために望む関係は,定型にとっては親しさを取り払ったよそよそしい関係に思われてしまう。両方とも「親しい関係」を目指しているのだけれど,そこに悲劇的なズレが隠されている。というわけですね。

 
 そのズレを調整するためには,もう一つ工夫をしてその「キャラ」を改めてうまく使う必要があるのかもしれません。そこは歩み寄りの世界になるのかもしれませんが,どちらにとっても「素直な自分」を全否定しないで済むレベルで「キャラ」を使う道を考えるとか。まだ完全に頭で可能性として考えてみるに過ぎませんが,ちょっと考えてみる価値はありそうに思います。
  
 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月22日 (水)

ドナの恋

 「自閉症だったわたしへ」というのは,ほんとにすごい本だという気がします。このドナ・ウィリアムズという女性の世界が,どのくらいアスぺの方に共有されたものかは私にはわかりませんし,お医者さんの岡田尊司さん(「アスペルガー症候群」)などは,アスぺの方一般には共通しない特徴もいろいろあると感じられているようですが,たとえば彼女の「恋」の世界についての次の一文など,これまで私がパートナーやここでのコメントでいただいたお話から,なんとなくもわっと想像してきた世界を,わかりやすい言葉で表してくれているようにも感じられ,心にしみて来るのです。少し長いですが,ご紹介します。

「ブラインは変わっていた。人々の中にいても一人だけ目立った。孤独を好む静かな人だったが,それ以上の何かが彼にはあった。それ以上の,他の人とははっきりと違う何かが。普通,人はわたしと知り合いになりたいと思えば,まず声をかけてきたものだ。だがブライアンは,何も言わずにただそばに来て,そのままずっとわたしの横にいた。もちろん彼は,口をきくことも話をすることもできたが,そういったごく普通のコミュニケーションの仕方では,どうにもとらえようのない人だった。そしてまた彼のほうも,普通のひととは違う決定的な何かを,わたしに感じていたのだった。私たちの視線が重なったとたん,わたしたちのまわりからは,他のいっさいのものが消えていった。

 ……ブラインとわたしは,二人で一緒にいるだけでよかった。わたしたちはどちらも,自分の感じたことをことばにすることはできなかった。またどちらも,適度に距離を置くことに敬意を払っていた。だからわたしたちは,ほとんど何も口に出さずに,黙ってただ物事を感じ合っていた。

  実際わたしたちの間に,直接的なやりとりはほとんどないに等しかった。わたしたちは,みのまわりの物や自然について,自分の読んだ詩や書いた詩について,観た映画について,話すことで,心の内を語り合った。けれど,お互いに対するそれらのものの意義を,分かち合うようなことは決してなかった。互いに自分のことについて語り合うよりも,そういったものについての話をすることの方がはるかに多かった。そうして相手には,その話を聞くという特権を,ただ静かに授けるのだ。

 そのうちわたしは,ブラインの髪をなでるようになった。ブラインはわたしに,お昼ご飯を買って来てくれるようになった。そうしてわたしたちは,二人の樹と決めた特別の樹の下で,草に座って,昼食を分け合った。だがそれでも,わたしたちは互いの瞳を見つめ合うことができなかった。一度無理に覗き込んだときには,やはり,自分がなくなってしまいそうな恐怖感に襲われた。

 ……一方,ブラインとともに過ごしたその年,わたしは彼に会うたびに,緊張と恐怖とに襲われ続けもしたのだ。会うことが,耐え難いような拷問に思えることさえあった。彼の横で,わたしはよくどもり,震えが止まらなくなった。だが彼もわたしと同じような人間だったから,そんな時にどうすれば一番いいのかよく知っていた。ブラインは宙を見つめ,わたしのぎこちなさには決して気が付かないふりをしてくれた。何より大切だったのは,こうしてわたしたちは,ただ単純に,無条件に,受け容れあうことができたということだ。一緒にいても,それは互いの為にいるのではなく,ただ自分たちが「あるがままにある」のだった。」
(308-)

 彼女はここでブラインの髪に触れています。子どもの頃の体験で,ある友達の髪にみとれて(人ではなく,「髪に」です。だから触れられた友達が急に振り返った時,そこに「顔がくくっついてきた」ことに,ウィリアムズはびっくりしてしまいます),それに触れられるようになったということがあったのです。それは彼女の方から人に触れられた,はじめてに近い体験と考えられたようです。それは彼女にとっては特別の行為なのです。

 といっても,彼女はブラインとの世界を持つ前に,すでに同棲などを経験しています。しかし相手の男性と関係を持つとき,彼女の心は体から離れていたようでした。彼女は子どものころから「本当の自分=ドナ」ではなく,周りの世界から求められて明るく振る舞う「キャロル」という外向きの自分,そして冷徹に周囲を見抜いて厳しく対処しようとする「ウィリー」という外向きの自分を作り上げていき,外の世界に対してはその両極端のキャラクターで接し,2歳の頃の自分のままでいる本当の自分(ドナ)を守ります。激しい葛藤を伴いつつ同棲が可能だったのも,そういう外向きの自分がいたからでした。

 ところが恐らく同じ自閉圏であっただろうブラインとの間で,彼女は「あるがままに」ドナでいられたのでしょう。(この,「本当の」自分とは違う人格が状況に応じて出て来るとか,あるいは使い分けられるという「能力」は,「外の世界に合わせた自分を装って生きざるを得ない」という点ではアスぺの方によく見られることのようにも思えますし,けれどもこれほどに,しかも複数の人格を使い分けられるというのは,定型でもできない人が普通でしょうし,果たしてどこから来る力なのか,ということは気にはなります。)

 ドナに戻れた彼女がブラインと作り上げる,なにか詩を見るような美しさも感じさせる世界ですが,けれどもそれも長く続くことはないのです。

「わたしは,ブラインに対してすでに心を閉ざしていた。しかし他の人たちの時とは違って,彼はいつまでもわたしの心から消えてゆきはしなかった。彼と一緒にいると,いろいろなことがあまりにもリアルに感じられるようになってしまい,これは逃げ出さなければならない,と思ったのだ。」(315)

「そして今回,わたしは再び何も感じないゼロの状態に,激しい勢いで引き戻されてしまった。本当のわたし自身を取り戻し,しっかりとつかんでいようとする闘いに,完全な反動がきたらしい。そうしてわたしは,立ち去るのではなく,猛烈な勢いで逃げ出した。」(317)


 彼女にとっての「あるがまま」を人と共有することが,一体どういうことなのか,そしてそれが生まれて初めて可能になったブライアンとの関係が,どれほど微妙なバランスの上に成り立つのかが,痛みを伴って伝わってきます。かけがえのないように思えるその「あるがまま」の関係が,今度はそれを終わらせる原因にもなってしまうのです。


 誰にとっても人との距離の取り方はむつかしいものでしょう。そして自分に向き合うこともまたほんとうにたいへんなことです。たとえばカウンセリングという場は,そのむつかしいことを,カウンセラーとクライエントの関係の中で行い,クライエントが改めて自分に向き合い,自分を生きなおす,というような作業をするのだろうと思います。優れたカウンセラーは,多分そういう距離感をうまくつかみ,クライエントが安心して自分に向き合える環境を生み出せる人なのでしょう。ドナにとってのメアリーという精神科医もそういう人だったのかもしれません。

 理想的な恋愛関係のひとつも,お互いに相手とは「自分自身でいられる」という状態ではないでしょうか。私がパートナーにのめりこんでいった頃,多分そういうことが起こったのだと思うし,そして彼女もまた,他の人には許せない自分の世界の中に,私が入ってくることを許せるのを不思議に感じていました。

 でも,それがどれほど微妙なバランスの中で,ある種の奇跡のように可能になることなのかということを,その状態の中にいる人間は気づく余地もないのでしょう。そしてそれが崩れ始めた時,その奇跡に初めて気づき始めるのかもしれません。同じ世界に生き,その意味でわかり合えるドナとブラインでさえも,その世界を共に生き続けることができないのです。定型アスぺ問題がどれほどむつかしい問題なのか,このウィリアムズの語る世界を感じ取ることで,改めて実感するようです。
 

2015年4月21日 (火)

私はアスぺ

 このところ,皆さんからのコメントや掲示板を見ていて,書きたいと思うとても刺激的な話が次々に展開していて,ちょっと追いつかないくらいになってきました。

 あすなろさんが「アスぺと定型に境界はあるのか?」と題して掲示板に書かれた内容も,個人的には本当に深いところに直接響いてくる感覚があって,ここまで議論が深まってきたことにある種感銘を受けるほどでした。

 あすなろさんが書かれているポイントは,私が理解できる範囲で言えば,ひとつにはある人がアスぺか定型かということは結局相対的な問題に過ぎない面がある,ということです。これについては私もこれまで何度か関連することを考えてみました(「アスぺも定型も似たようなもの」「定型もアスぺであるということ」など)。

 定型アスぺ問題を考える時には,まずはお互いの違いをしっかりと理解することがとても大事になることは,多くの方から繰り返し語られていますし,お医者さんなんかはそのことを「診断の必要性」みたいなことで言われます。そこが出発点になるということですね。そのことの重要性は私も一貫して感じます。それがないと,結局単に自分の「常識」を相手に押し付けることにしかならないわけで,それは定型の側もアスぺの側もどちらにも言えます。

 ところがこの定型アスぺの間にはっきりした境界線を引こうとすると,とたんに矛盾が起こってしまいます。それは今やアスペルガーという診断名を飲み込んで消し去りつつある,より大きな「自閉症スペクトラム」という考え方自体が抱え込んでいる矛盾です。

 それはすべての人が自閉と定型の両極端の中のどこかに位置していて,はっきりした境界は引けない連続したものだと考えることです。だから,「AさんはBさんよりも自閉的な性格が強い」とか,「BさんはCさんよりも自閉的である」,あるいは「BさんはCさんより定型的だ,というような相対的な関係はある程度言えたとしても,AさんとBさんの間に定型アスぺの境目がある,というような絶対的な線引きは不可能で,だから同じ一人の人がXさんと比べたらアスぺと言えるし,Yさんと比べると定型と言える,というような一見すると奇妙に見えることが起こることは必然だからです。

 もちろんお医者さんは「診断」という形でその線引きをする役割をこの世の中で持っているわけですし,その線引きによって社会的な保障が得られたり得られなかったりと言ったことも起こるわけですが,実際にはそれが誰の目にも明らかなラインで区切られることはありません。それはある種便宜的なもので,境界は常にあいまいで,診断するお医者さんによって判断が異なったり,「誤診」が繰り返されていることはお医者さん自身がそう述べています(たとえば加藤進昌さんの「大人のアスペルガー症候群」とか)。

 そしてそうなるのはお医者さんの腕が悪いということではなくて(加藤さんなんかはどっちかというとそう考えられているようですが),そもそも定型アスぺ問題それ自体が持っている性格から当然に起こる事態で,避けようもないことであるわけです。「特定不能の広汎性発達障害」とか,ややこしい概念が作られたりするのも,そういう曖昧さがひとつの原因でしょう。

 ですからAS-Pさんがご自分の診断名について「そもそも私の場合、発達障害支援センターに行って「困っていないならASDと診断される必要はないと思いますよ」というようなこと言われたわけで、いまの状況を「困っているかどうか自分で選べる」(不思議な言い回しですが)んですね。」という,ある意味奇妙なことを言われたりするのも,ごく自然で当然なことになります。もともとアスペルガーという概念は,そういうある種の恣意的で便宜的でご都合主義的な部分を持たざるを得ないものと考える方が,実情を理解する上でも分りやすいし,スペクトラムという考え方を導入する以上,それは理屈からいっても必然なのです。

 ではそもそも線引きもあいまいなのだから,定型アスぺ問題もまたあいまいで,そんなものは一種の思い込みにすぎず,本当はないという話になるでしょうか。そうではありません。私たちは確実にそれを経験しています。そのことに苦しんでいます。そして「人間誰でもみんなちょっとずつは違うんだから,あんまり深く気にせず,気の持ち方を変えれば全然問題ないよ」というような気楽な話では決してありません。時に命にかかわるような深刻な悩みに落ち込むのがこの問題です。

 定型アスぺ問題は,「私は完璧な定型」という人と「この人は完璧なアスぺ」という人との間に起こる問題ではありません。あくまでも「私はこの人よりも定型的」という人と,「この人は私よりもアスぺ的」という人との間に起こる問題です。だから,同じ一人の人がある人との間では定型側の悩みを持ち,別の人との間ではアスぺ側の悩みを持つ,というちょっと奇妙に思えることが実際に起こるのも(たとえばコアラさんも言われていたと思います),そう考えれば当然のことなのです。どっちがアスぺでどっちが定型になるかは,比較する相手の人や比較するポイントとの関係ではちゃんと決まるのですから。

 あすなろさんに私がある種の感動を覚えたのは,そういう前提に立ったうえで,こんなことを書かれていることでした。

つまり、どの感覚が対極になるのかは、人それぞれで、そこはアスペ対定型と、決して割り切れないところなのだと思います。私が、全面的に定型の立場で話をすれば、私の中のアスペの部分を否定し、隠して話すことになります。それは、自己分裂になります。

 全ての人がスペクトラムのどこかに位置するのであれば,すべての人が多かれ少なかれ自分の中に定型的要素とアスぺ的要素の両方を持っていることになります。その両者が合わさって,その人なりのバランスを作って今の自分が成り立っているのです。だから,その現実を無視して一方が他方を切り捨て,全面否定するような話は,結局自分自身を殺しているのと同じことになるわけです。これって,画期的な考え方ではないでしょうか。

 人が人を憎むとき,ひとつのパターンとしてあるのは,自分が認められない自分の中の傾向について,それを他の人から見せつけられるような場合です。怒りを持つひとつのパターンは,自分に自分が許していないことを,相手が堂々とやったりする場合です。それは相手を憎み,相手に怒っているようでいて,実は自分自身を憎み,自分自身に怒っている,という部分があります。そして定型アスぺ問題も,そういうことが起こりやすい場面の一つなのでしょう。

 あすなろさんはこんな言葉でも,相手との関係で自分の中にいろんな要素が見えてくることの意味を書かれています。

私が知りたいのは、ある場面を切り取って考えたとき、自分はこうするけど?と投げかけたとき、嫌、そうではないよと解説されれば、ああ、この部分では定型に近い感覚で生きているから、アスペの感覚を意識して接しなくてはいけないんだなと気づくことなんです。定型族、アスペ族と、分断させて攻撃することは不毛どころか、自分否定にも繋がります。(少なくとも私はそうです)

 定型アスぺの違いを知ることは,まずは「私は定型」「私はアスぺ」という新しい見方を知ることでしょう。そういう目を持つことで,それまで訳が分からず混乱してきた問題に,新しい光が差すことになります。新しい工夫がそこから始まります。

 けれども,そのことをさらに突き詰めていくと,その線引きを絶対のものとは考えられなくなり,そこに新たな気づきが始まります。それは「私は定型」と思っていた人が,「私の中のアスぺ」に気づき,逆に「私はアスぺ」と思っていた人が,「私の中の定型」に気づくことです。(後者についてはまだ「たぶん」,というところに私はとどまりますけれど)

 そこまで行くと,今度は定型アスぺ問題は誰かを「アスぺ」として固定的に一面的に見て攻撃したり排斥したり,あるいは「定型」として固定的に一面的に見て攻撃したり,ということはもう不可能になります。意味がなくなってくるのです。まさにあすなろさんがその攻撃が「自分否定につながる」と書かれていることそのままでしょう。そこまで考えてくると,あすなろさんの次のような言葉も,ほんとうに自然なものとして受け止められるはずです。

相手を理解することは、自分を知ることでもありますよね。

 相手を自分の一面的な見方だけで決めつけて理解しているうちは,そんな風にしか見られなくなってしまっている一面的な自分には気づいていません。それはある意味で固まった自分に縛り付けられてしまっている状態です。そこから少しずつ自由になるには,相手を通して,自分を見つめなおすこと,自分をさらに深く知ることがどうしても必要になります。

 定型アスぺ問題を考えることは自分を定型,アスぺと固定的に考えて,そこに変な対立関係の固定化をもちこむ事ではないはずです。そういう行為が私には非生産的にしか感じられないのは,それが結局自分の中のアスぺ的要素,自分の中の定型的要素を自分で否定していることにしかならず,つまりはより深まった自分に気づいていないか,知ることを拒否しているだけのことだからです。それは自分がより柔軟に豊かになることを自分で否定する事につながってしまうからです。

 定型アスぺ問題に突き当たり,相手を理解しようとすることは,結局自分自身を改めて知りなおすことでもある。そこまでいって,初めて定型アスぺ問題は他人ごとではなく,自分自身の問題として,改めて柔軟に考えざるをえない大事な問題になるのでしょう。私はアスぺ(または私は定型)なのです。

 こういう見方がどの範囲の方と共有しやすいのか,どこまでの方に通用するのか,私にはわかりません。たとえば「相手のせいで自分はぼろぼろになった」と今現在実感し,そのことに対する怒りや恨みが骨髄に達しているような状態にある方には,おそらく到底受け入れがたいものでしょう。それも当然だろうと思います。そんなことをすれば,ぎりぎり怒りや恨みでなんとか最後に支えている自分さえも危うくなるかもしれません。

 そんな風にどうしてもそこに捉われて苦しむ状態に置かれている場合は,自分が抱えた負の思いは,ごまかさずに認め,まっすぐ見つめた方がいいこともあるような気がします。無視したり,押し殺すだけでは何も解決しないか,逆にさらにひどい状態を生むかもしれません。そして状況次第では,相手との関係を絶つこともやはり必要になると思います。人間がある状態に耐えられる力にはどうしても限界があるからです。

 でも,それは相手を「殺す」こととは全く違うはずです。そうやってもし相手を「殺して」しまったときには,あすなろさんのおっしゃるように,同時に自分の一部も死ぬのです。

 あすなろさんの書かれたことで,私の中ではこんな整理の仕方がすっとできるようになりました。やはりどこまで通用する話なのかは私には分かりませんが,これからはそういう視点からも,またいろいろ考えてみたいと思います。

(追記:この記事の内容は,今回の「炎上」に関して何人かの方から寄せられた疑問や私個人へのご批判などについて,直接間接に私の考えを述べたものにもなっていると思います。一応私が理解できた範囲では,これでだいたいすべてのコメントへの応答になっているとは思いますが,必要に応じて補足してご説明します。基本的にはここに書かれたことから個別の問題について説明を膨らませる,というような形になると思います。またこれもコメントで求められたことから作ってみたコメントのルールも,同じ視点から作られています)

2015年4月20日 (月)

コメントのルールについて

 久しぶりに「炎上」と言える状態になって,こういう場を提供している立場として,どう対応するのが一番いいのだろうかと考えています。

 まず,みなさんのコメントについての,これまでの私のスタンスを改めて書いてみます。


 1. コメントについて削除といったコントロールすることは
    しない

  これまでほぼ唯一の例外は,全く関係ない商業的な宣伝が
  書き込まれた場合と,あと,犯罪予告が書かれていた場合
  です(ブログには無関係な内容でした)。

  前者については私個人の判断で,
  後者については警察に連絡をし,証拠保全の必要性を確認
  した上で削除をしました。

 2. コメントの内容については,基本的に投稿者のやりとりに
    ゆだねる

  コメントの内容については,参加者のひとりとして応答したり,
  あるいは記事を書く際に参考にさせていただく場合がありま
  すが,それ以上の積極的な介入はしないという姿勢で臨んで
  います。私個人の定型アスぺ問題についてのスタンスは,
  記事で書いていますので,それ以上,個別のコメントに対して
  なにか方向づける形で介入的に関わることは極力避け,参加
  者間のやりとりで深めていただくようにしていただいています。

 3. 意図的な匿名は避けていただく

  以上の趣旨から,お互いに責任を持って発言することが求め
  られていますから,複数のハンドルネームを使って場を混乱さ
  せたり,ご自分に都合のよいときだけ匿名で書き込まれるな
  ど,発言の一貫性を失うようなコメントについてはしないことを
  お願いしています。そうしなければ,ちゃんとした議論の積み
  重ねが不可能になるからです。

 まとめると,「この問題についての私個人のスタンスは記事で
 表現し,参加者のみなさんの間で,個人として責任を持って
 行われるやりとりには特別の権限を持った人間として関与する
 ことはせずに,それぞれの方のやりとりを尊重する」
 ということになります。
 
 今回もそうですが,むつかしいのはどちらかが著しく傷つくと
 思われる内容があった時どう対応すべきかということです。
 もちろん,定型アスぺ問題の性格上,相手を全く傷つけない発言
  というのは望んでも不可能であることは明らかで,
 どんなに注意して発言しても,全く意図せずに相手を傷つけること
 はなくなりません。「傷つける発言はやめましょう」というのは
  「何も言ってはならない」ということに等しくなってしまいます。

 ただ,「意図して傷つけるような発言は許されない」ということは
 当然に必要な基準になるでしょうし,意図せずに傷つけてしまい,
 相手からの指摘を受けた場合には,なぜそういうことになったのか
 について,対話する姿勢が求められるでしょう。
 定型アスぺ問題の多くはそういう「意図せず傷つけあうこと」に
  あるのですから,その部分でのやりとりはむしろこのブログが
  あることの意義に関わるかもしれません。

 いずれにせよ,相手を傷つけることが自己目的化されるような
  やりとりについてはそういうブログの趣旨云々以前のレベルの
  「荒らし」の問題ですので,そのような事態の展開を極力避ける
  ために,とりあえず以下のようなガイドラインを設けてはと
  思います。

 私の基本姿勢はあくまで自由なやりとりに介入しない
  ということですので,これはぎりぎりの場合に限定して考えます。

 ① 発言は一貫したひとりの個人の責任で

  ここで責任というのは,ハンドルネームを混乱させる(複数の
  ハンドルネームを使い分ける,意図的に匿名を繰り返すな
  ど)行為を行うことなく,自分の発言にたいする批判には可能
  な限り誠実に応答することを意味します。
  誠実に,というのは,相手の人の発言を自分の都合のよいよ
  うにねじまげて解釈し,非難することをせず,可能な限り相手
  の発言の趣旨を踏まえて,それに対して応答しようとする
  姿勢を保つことです。

 ② 個人的体験で,関係ない人を非難しない

  ご自分のつらい経験を語られることは大事なことですし,
  そこで自分がどれほど傷ついたかということを説明されること
  も相互理解には必要なことだと思います。それがなくなると,
  やりとりは表面的なものになって,何も解決しないでしょう。

  ただし,そこで傷ついた体験は,あくまでその方とその方の
  相手の方との間で生じた出来事だということは明確に意識し,
  その個人的体験で関係ない他の人を非難するような表現は
  絶対に避けなければならないと考えます。

  もちろん,自分自身の体験と,この場の参加者などの間に
  共通点を感じ,その共通点について議論をする必要がある
  場合はありますが,その場合は,何をどうして共通と感じる
  のかについて,説明を尽くす義務を負います。
  その責任を放棄して一方的に相手を決めつけるような発言
  についてはたんなる誹謗中傷や差別に当たるとみなされる
  べきでしょう。

 ③ 相手に理解を求める姿勢を崩さない

  相手に対する非難が自己目的化されるような発言は問題外
  として,大事な批判を行う場合も,あくまで相手に理解して
  ほしいから批判する,という姿勢を最後まで維持すべきと
  考えます。

  もちろん,感情的にそれがむつかしくなる場合も当然ある
  でしょう。その場合は一旦そう断ってやりとりを中断して,
  時間を置いて考えるなどの対応が必要かもしれません。
 


 他にも考えるべきことがあればまたご指摘いただきたく
 思いますが,現実問題としては,あるコメントについて,
 このようなガイドラインに反していないか
 誰がどういう根拠で判断するかということと,違反があった
 場合にどう対処するかということがあるでしょう。

 ①についてはログを見れば,投稿者の同一性についてだけなら
   ある程度は判断が可能です。(それがどこのどなたなのかは
   特定不能です)

 ②については,仮にその方の経験から,第三者を非難している
   ように思われる場合には,いったいそれが誰との経験につい
   ての話なのか,その特定の人との経験に基づいて,第三者の
   人を非難する根拠は何かということを個別にお尋ねすること
   で,かなりの範囲は解決できるでしょう。


   そのような質問は基本的に参加者相互の間で行われるべき
   と考えます。万一,それで個人的体験を不当に拡大して
   第三者を非難しているということが明らかになり,なおそれが
   やまない場合にはその場合に限り,私がブログの管理者と
   して,投稿をご遠慮いただくなどの特別の措置を考えます。 

 ③については,誰が見ても非難が自己目的化されている文章も
   あると思いますが,「姿勢」については微妙なことが多いと
   思います。基本的には相手の発言の趣旨を理解しようとする
   努力がなされているか,相手の疑問に可能な範囲で
   答えようされているか,対話を継続する姿勢を示されている
   か,というようなことについて,やり取りの中で確認していく
   ことはひとつの対応法かと思います。

   それ以上微妙な問題については,ケースバイケースで考える
   しかないでしょうね。

 
 とりあえずこんなふうに考えてみましたが,
 みなさんからのご意見を頂いてさらにしばらく検討した上で,
 ブログの扉に同趣旨の内容を掲示することにします。

「自閉症だったわたしへ」

 積読になっていて,なかなか読み始められなかった「自閉症だったわたしへ」という本を読み始めているのですが,すごい本ですね。

 この場でも手探りで想像してきたことが,すごくリアルに表現されたりしています。たとえば

 「おそらくあの十二歳の頃,とうとうそこで「ルールに従ってゲームをする」よう,追い込まれていったのだろう。生き残るために。生き続けるために。  だが,どんなに母と兄がわたしの独特のふるまいやその場に適応できないことを嘲笑(あざわら)っても,私はやはり,世の中からふっとワープして,自分だけの世界に引きこもるのが好きだった。二人への憎しみと,こんなやり方はひどいという思いとでなんとか戦おうとしながらも,自分自身の感情が揺れ動くことが恐ろしくて,絶えずわたしは自分の殻の中へと呼び戻されていた。外へ出ていって戦おうとする力と,自分のうちにうずくまろうとする力。この逆方向の二つの」力は,私の中で激しく対立し,私本人がつぶれてしあいそうなほどだった。どちらも,わたしが「感じている」本物の感情だった。そしてわたしは,自分に手を差し伸べてくれようとする人たちにも,この矛盾した感情を,そのままぶつけていたのである。」(p.137)

 彼女にとって定型の世界で生きるということが,どれほどに演技を必要とするものであるかということは,私が想像していたレベルをやはり超える部分があって,自分の見方の甘さを感じさせられます。そして,自分の世界,物との世界のなかで,彼女がどれほどの安らぎと,また生きる喜びを感じられるのか,ということについても,とてもリアルに表現されていて,読んでいて痛みを感じるほどです。

 この本はパートナーが自分をアスペルガーだと理解するようになったきっかけの本の一つなのですが,彼女にとって家でくつろぐということが,どれほどの重みを持つことなのかについて,少し私の理解が深まった気もします。その彼女の世界の中に入れてもらえた,ということがどれほど大きな意味を持っていたのか,ということも改めて思いました。

 定型の感覚からすると,彼女が私に対して示してくれる行動は,私を必要としてくれている,となかなか実感しにくい「かすかな」表現であり続けました。でも,彼女が人との関係でそれまで持っていたベースと比較してみれば,それはほんとに特別の特別だったのだろう,という想像力も,前よりリアルに働き始めた気がします。

 「その人にとって自然な世界はどういうものなのだろう」ということを想像し,理解することはほんとに大事なのだと思えます。そしてこういう本は,そのための大事な手がかりを与えてくれるものになるのですね。ここでみなさんからいただくコメントもそうですし。

 「あたまで理解する」のではなく,実感を伴って「気持ちで納得する」ことができるためには,専門的な「解説書」では届かない部分があって,それはこういう当事者の思いをつづった本によって得られたりするのでしょう。定型アスぺ問題を考える際にひとつ大事なポイントかなと思います。

2015年4月19日 (日)

「相手と一緒に考える」こと

 

コアラさんから

「定型の側の感覚を書かれた部分は、わかる部分もあれば、うまく掴めない部分もありまして(^^;) もし差し支えなければ、より具体的に教えていただけると助かります。」ということで,
次のような問いかけを頂きました。

 私は記事「調整の仕方」の中でアスぺの方が自分の中で問題を解決しようとする傾向が強く,「定型は,もう少し「相手と一緒に考える」という姿勢が強い」と書いてみたのですが,そこについて,

 「この部分です。結果、定型の方はどのような行動をされるのでしょうか?」

 というのがコアラさんからの問いかけです。記事「アスぺの方はどこまで定型に迫れるか?」にちょっと書いてみましたが,定型の側から定型的な「共感的理解」でアスぺの方の生き方について想像してみて,その理解を(少なくとも一部の)アスぺの方に「たしかにそんなこと」と感じていただけることが,少しずつはでき始めているように思えます。

 少なくとも定型アスぺはお互いに「宇宙人」で「理解不能」と頭から決めつける必要はないし,さらなる模索への共通の小さな足掛かりが見つかりつつあると感じられるところまでは来ています。

 では逆にアスペの方から定型の生き方について,「なるほどそういうことか」と実感していただき,また定型から見ても「伝わった」と感じられるような理解は,どうやったら,どこまで可能になるのか,ということが,このブログで次に模索する課題のひとつに浮かび上がりつつあるように思ったという話でした。

 コアラさんの問いかけはまさにそういう模索のひとつと思えます。とりあえずその模索の一つとして,私が関連して考えたことを書いてみますが,コアラさんの問いかけのポイントを外してしまっているような気もしますし,かみ合っていないと感じられればどうぞ教えてください。


 この問いかけにさっそくあすなろさんからは次のような説明がされています。

 「私の感覚では、相手に評価を求め、その評価次第でやり方を変える。という感じがします。褒められたり、認められれば、良し。逆に批判されれば、自分が良いと思っていても、そのままではいけない。」

 「相手と一緒に考える」ということの中には,「自分自身の考え方や行動について,相手の人との関係で調整をしていく」ということが含まれてきますから,あすなろさんの書かれていることは私もそうだろうなあと思います。

 その上で,じゃあなんで「相手に評価を求める」とかそれに応じて「やり方を変える」とかする必要があるの,そして相手の評価によっては「自分がよい」と思っていても,それを変える必要があると感じるのかということが次の問題になるかも。

 もしかすると,アスぺの方から見ればそれは人に振り回されていることで,自分を見失うことだと感じられるのかもしれません。自分が感じていること,考えたことは,人が何と言おうが事実で,もちろん人から言われて自分が納得すれば,それは「新しい自分の判断」となって以前の考え方を変えることもありうるけれど,自分が納得もしていないのに相手に合せるのは不誠実でおかしなことだ。と思えるかもしれません。

 私も定型の中では自分の判断にこだわる父親譲りの頑固者ですから(^ ^;)ゞ ,もしアスぺの方がそんな考え方をされているとしても,それはわかる感じもします(その辺は私がアスぺの方に共感しやすい部分かも)。

 ただ,定型の場合,そこにやっぱりもう一つのポイントが加わると思うんですね。それは「一緒にそのことをやっていく仲間を作り,維持していく」こと自体にすごく価値を置き,そのためのいろいろな工夫を続ける,ということです。


 そのことを説明するために,人が具体的に誰かと一緒になにかをする,というためには何が必要かから考えてみます。

 まず「何を一緒にして,何を達成するのか」という「目標」みたいなものがある程度共有される必要があると思います。

 それから,その「目標」を達成するためには,何が必要なのか,という「手段」みたいなものについての理解も共有される必要があります。

 また,何が必要なのかを理解するためにも,今の状態は目標と比べてどうなのか,ということについての「評価」みたいなものが共通認識になっていることも必要でしょう。

 そしてその手段を使って,現状から出発してどう共同して目標を達成していくか,お互いの協力関係を成り立たせるためには,お互いの「役割」分担などを決め,やりとりの「ルール」を定めておく必要もあります。

 目標を設定して,現状を評価し,その間を埋めて目標を達成するための手段を決め,ルールに従いながらお互いに役割を持って実行していく,ということで「一緒に何かを達成する」ということが可能になります。

 こういうプロセスが必要という発想自体は,アスぺの方でもそれほど違和感なく理解可能ではないでしょうか。そして定型アスぺ間で比較的理解が共有できる部分かもしれません。

 けれども定型の場合,ここにもう一つの要素が重要なものとして加わってくるように思います。それはそういう具体的な行動を一緒にやっていくために,「相手との関係を作ったり,維持したり,深めたり」という,「人間関係づくり」に関わる問題です。



 以前Katzさんがこのことについて,「一体感」という言葉を使いながら,こんなことを書かれていました。

「言ってしまえば、「一緒にやっている感覚」が大事なら、それを「目的の一つ」として掲げてしまえばいいのではないかと。裏の目的として隠してしまうから、アスペ側からわかりにくくなるのではないかな、と…。明確にぶちあげるならやり方はあると思います。勿論、何を共有しようとしているかにもよりますが。こんな事を考えるにも理由がありまして、IT技術の方面で、まさにそういう事が議論されています。プロジェクト管理という分野なんですが。その筋の参考書など色々漁ると「達成感を演出する事でチームの一体感を醸し出す」というような話が出てきます。しかもこれが重要な要素として挙げられているんですよね。管理方法にも流派が色々ありまして、違う事を言っている流派もあるんですけども」

 拝見していて,なんか面白いなあと感じたのですが,何を特に面白いと感じたかというと,「一緒にやっている感覚」というのが「裏の目的として隠されている」と感じられる,その感じ方でした。

 定型的にはたぶんそれは裏でもなんでもなくて,「一緒になにかをやる」ときにごく自然についてくるものという感覚があると思います。その一体感の部分をどこまで重視するかは時と場合によって様々なのですが,ちょっと単純化していうと,定型が人と何かをやっていくときには次の二つのことが同時に絡んできていると思います。

 <一緒にやることで「自分の目標を達成する」こと

 <目標を一緒に達成するような,「助け合う仲間を作る」こと>

 自分の目標を達成する,という目標(ややこしい!
)だけだと,一緒にやるのはあくまで自分の目標達成の為ですから,目標が達成すればその関係はおしまいですし,目標が達成できなければその関係は無意味です。それは自分の利益のためにやることですから,それだけが目標になる場合は相手はそれに利用される(あるいはお互いに利用しあう)関係で,「現金」で「冷たい」関係ともみられるでしょう。大事なのは利益の計算になります。ここだけを強調する姿勢は,「非人間的」と理解されることにもつながります。「銭ゲバ」の世界(古い!)ですね。


 他方で仲間づくりだけが目標になるという極端な例を考えてみると,別にその仲間で何か具体的なことを達成する必要はないことになります。もちろん,その仲間関係をベースにして,いつか目標が共有されて,一緒に何かを達成することがあるかもしれませんが,それはおまけのようなもの。仲間を維持するためには,個人的な利益を度外視することも必要になります。極端な場合は自分の命をなげうつことも必要と考えられる。相手に対する「信頼」をベースにした「一体感」のある,「厚い人間関係」の世界,という評価にもなります。

 実際の人間関係でそのどちらかだけ,ということはあまり考えにくく,多かれ少なかれ両方の要素があって,ただその二つの要素がすごく矛盾し,対立してしまうときに,どちらを優先するかというところで違いが出て来るということでしょう。またビジネスの世界は前者が優先されやすい世界でしょうし,家族とか友人とかの関係は後者がかなり重視される世界とも言えます。

 それで,Katzさんのお話は,経営という,前者の論理が強い世界の話に,後者の話が「裏の目的」としてこっそり紛れ込まされている,と感じられたのではないかと想像します。だからそれをもっと「表の目的」にして,前者の世界に入れ込めば話はすっきりするはずだと。



 けれども,定型的な感覚からすると,それだけでは済まされないものが残る気がします。なぜかというと,人が生きていく中でそういう「目標」というのはそんなに明確になることは多くはないと思えるからです。

 それこそ極端なことを言えば「人はなんの為に生まれ,何のために生きているのか」という問いに,万人に通用し,実感される「究極の答え」がないように,人間というのはよく分んないけど,とりあえず生きているし,死にたくないし,生きているならできれば苦痛は避けたいし,喜びを得たいし……。

 じゃあどうすれば苦痛は避けられて,喜びを得られるかというと,それも「これが唯一の正解」みたいなものもなくて,時と場所と人によっていろいろだったり,というような,かなりあいまいなことで日々を送っているんだと思います。

 もちろん長期的な目標を立てたりすることもありますけど,それも常に安定するわけでもないし,じゃあその目標の意味(目標をたてる目標)は何なの?とさらに問い続ければ,結構すぐに答えに詰まってしまうでしょう。「人類の未来のために」とか大仰に考えたとしても,そのうちいつかは人類も滅びるのは絶対に避けようのない生物の必然ですし,さらにはこの宇宙だって有限なのですから,そこに「究極の意味」を探してもむつかしい。まあ人生そんなものだという気がします (笑)



 そういうあいまいな状況の中で,ひとはその時々でなにか目標を見つけることもあるし,それに向かって意識して努力することもある,というのが実情でしょう。経営ではそのもともとあいまいな目標を,可能な限り計算できるものにして,意識的に追及する努力をするのだと思います。もちろん,その経営目標だって,実際は常に世の中の動きや会社内部の状況の変化に晒されていて,いくらでも揺れ動くし,潰れちゃうことだってあるわけです。

 そういう先の読めないあいまいな状況の中で,個人として生きていくのには限界があります。だからどうしても助け合いが必要になる。そうやってここまで何とか生きてきたのが人間の社会なんだろうと思います。

 そうすると,「まず目標があって,そこに人が意識的に集まる」というのではなく,「もともと集まりがあって,そこにその時々で目標が共有されていく」という形がおのずと出来上がっていっているのだと思います。そしてアスぺの方が重視しやすいのは前者で,定型がこだわりを持ちやすいのは,その後者の方なのでしょう。

 
 というふうに考えてみると,定型の方は,場合によって個人的な見方や感じ方,そして利益を犠牲にしてでも,「関係を維持する」ことを優先する場合も出て来るし,お互いにそれをやりあう関係をできるだけ多く作ろうとしたり,あるいは深めようとしたりする傾向が強いのだと思います。それはもう感覚的にそうなので,それができないと不安になる。アスぺの方から見ると,定型は「群れたがる」と感じられることがしばしばあるようですけれど,それはベースにはそういう「不安」があるんだと思います。逆に言えば「群れる」ことに「安心」や「喜び」を感じやすいようにできている,というか。それが生きていく上でとても大事なので。

 そうすると,そもそも目標などもあいまいな状態から「一緒に考え」ること,また一旦共同で何かをすることが始まっても繰り返し「一緒に考え」ることがとても大事になります。定型が「報連相」を重視するのも,「一体感」を重視するのも,そこにつながる問題のはずです。


 というふうに,とりあえず理屈ではある程度説明できるかもしれないのですが,こういう説明の仕方がコアラさんの問いかけに対して,適切な応答になっているかどうかは全然自信がありません。仮にある程度は理解して頂いたとしても,それも「理屈としては頭ではある程度わかる」ということに留まるような気もします。(ま,そもそも理屈としても成り立っていない可能性もあるわけですが (^ ^;)ゞ)

 それに,ここではとりあえず定型の特徴としてつながりの有無が安心感や不安につながると書きましたけれど,じゃあアスぺの方が人とのつながりに安心感を持たないのか,人とつながれないことに不安感を持たないのか,ということについても,もっと考えなければいけないことがたくさんあるような気がしています。 

 そのあたり,また皆さんのご意見や感想などもうかがいながら,ぼちぼち考えていければと思いますので,とりあえずはこんなところで……

 

 

 

 

 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!   

2015年4月17日 (金)

調整の仕方

 引き続きコアラさんのコメントから考えたことです。

 私が「アスぺの方にとっても身内の関係の中でいろいろなトラブルは起こるし,そうなったときのなんらかの対処の仕方も模索されているのだとは思います。それがどういうものなのかはまだ私にはよく分りませんが,きっとあるように思います。」と書いたことについて,コアラさんはこう書かれました。

あります。これも私の場合ですが、トラブルが起こったりしたらその都度考えたり悩んだりします。ただ、その「答え」が見つかるまでにものすごく時間がかかるし、「答え」が見つかる前に諦めたりする事も多いです。私の中での「答え」とは「気づき」であり、悟りのような感覚です。「答え」は、日頃の生活(人付き合い・読書・映画鑑賞etc)の中から生まれるものなので、数ヶ月や数年経ってやっと見つかる場合もあるし、ずっと見つからないこともあります。いつ見つかるかは自分でもわかりません。何につけても「自分が納得する状態」にまで持っていかねばならないので、時間がかかるのでしょう。我ながら面倒臭い思考回路だと思います(^^;)」

 コアラさんのこのコメントにも感じ,改めてパートナーのことを考えても思ったことなのですが,この「対処の仕方」は,基本的には「自分の中で問題を解決する」という傾向が強いのではないか,という気がするのです。そこは定型は,もう少し「相手と一緒に考える」という姿勢が強いように思うんですね。

 すごく単純化した言い方をすれば,定型は「相手と調整しようとする」傾向が強く,アスぺの方は「自分の中で調整しようとする」傾向が強いような気がします。そういう目で思い返してみると,たとえばKatzさんの問題対処法なども,自分自身の気の持ち方や自分自身の工夫についてのお話が多かったような気がします。

 私のパートナーも多くの場合,相談するよりも自分で解決しようとするような気がします。私が定型だけど融通の利かない頑固者という特性(?)を持っているので,もう相談しても無駄だと思われているのかもしれませんが (^ ^;)ゞ, そのことを差し引いて考えたとしても,やっぱり問題は自分の中で解決しようとする姿勢が強いように思えてなりません。

 そうすると,コアラさんが書かれているように,場合によっては自分一人で問題を抱え込んでなかなか解決が付かないことも多そうですし,ひたすら我慢して耐える,というような対処の仕方も結構多くなるのではないかという気がしました。

 「相手に気持ちを支えられる」ということが分りにくい,という話を何度か聞いたように思いますが,そういったことも,どこかつながってきそうな気もします。

  

 

2015年4月16日 (木)

定型アスぺ押しつけの仕組み

 記事「中間的な状態の意味のズレ」にコアラさんから頂いたコメントを読んで,また頭が整理されることがありました。

 これまでアスぺの方が定型から苦しめられるポイントの大きなものとして,自分には理解しにくいことについて尋ねると,まともに説明されることもなく「そんなの当たり前でしょう!」とか「常識でしょう!」とかいう言葉で非難されるといったことがよくあげられていました。またやはり理解しにくい「普通」というのが押し付けられる,とアスぺの方が感じられて苦しむことも同じようなことでしょう。「あの人嫌な性格だよね」とか「ね」を使って同意を強要されるのもアスぺの方には負担になることが結構あるようです。

 要するに定型が勝手に「これは常識,普通」「そう感じるのは当たり前」と思っていることを押し付けられたり,同意や共感を求められるということに,アスぺの方は苦しんでこられていることになります。

 逆に言えば,定型の側は自分が「あたりまえ」と思っていたり,「この人とは当然共感できる」と思っていたことを繰り返し否定されたり,拒否されたりすることで,ショックを受けたり,拒絶されたような気持ちになったりして怒りを持ったり,あるいは傷ついたりすることが多くなります。

 で,この話だけを考えると,定型は共感派で,相手の人に同情した行動もとりやすい一方で,相手との違いに鈍感で,自分の考え方や感じ方をアスぺの方に押し付ける特徴を持っているのに対して,アスぺの方はある意味では自立的で,人は人,私は私という区別をしっかりし,相手の感じ方を尊重すると同時に,共感的な関係については冷たく定型を拒否する,といったシンプルな対比の理解になりそうです。

 ところがそう理解すると,今度は定型から見てアスぺの方が時にものすごく自分を相手に押し付けてくるように見えることの理由が分らなくなる。もし本当に「私は私,あなたはあなた」を最後まで貫くなら,そういうことは起こらないはずだからです。

 逆にそんなふうに定型の側がアスぺの方から「押し付けられる」と感じる時は,今度は定型が「私は私,あなたはあなたでしょう!」と思わざるを得ないので,ここでは定型アスぺの立場が完全に逆転してしまうわけですね。

 それは一体どういうことなのか。私はこういうことではないかと思いました。結論からいうと,「実際はお互いに違いが大きいのに,一方がその違いに気づかないときにこういうトラブルがおこる。定型アスぺのどちらが違いに気づかないかによって,どちらが「おしつけ」になり,どちらがそれに苦しめられるのかが変るけれど,基本的にはどちらも同じ仕組みで起きていることだ。」ということになります。

 コアラさんのコメントから,このことを少し説明してみます。

 まず私が記事の中で「「私は私,あなたはあなた」とはっきり区切ろうとするアスぺの方にも,その区別を感じないような親しい関係は存在するわけです。」と書いたことについて,コアラさんがこんなことを指摘されました。

「私の場合ですが、親しい間柄でもそこははっきり区別していて、「私は私、あなたはあなた」が口癖であったり、都合によってそのセリフを吐いたりしています。」

 これは指摘されれば,ああそうなんだろうなあと素直に思えるものでした。アスぺの方はたぶん定型よりも違いに敏感で(あるいは定型的な「普通」「当たり前」に苦しめられ続けた結果,敏感にならざるを得ない人生を送ってこられて),親しい間柄でも,その信念はゆらぐことはない。たしかにそうなんだろうなと思えます。

 ただし,コアラさんはそこに留まらずに,続けて次のように書かれています。

「でも、実際とる自分の行動は、相手からするととても区別しているようには思えないものなのかもしれません。」


 つまり,コアラさん自身の意識としては,私とあなたを区別する考え方は一貫していて,たとえ親しい間柄でもそれはゆるがないんだけど,でも,実際の行動ではそうなっていないことがあって,それは相手の意識からすると,区別していないことになる(のかもしれない)ということです。ということは,コアラさん(というかアスぺの方)が,そこに相手が感じるズレを意識していない,とか,気づいていない,ということですよね。

 自分と相手が一致している時,一致していない時という二つの状態と,一致していないときにそれに気づいている,気づいていないという二つの状態を組み合わせて考えてみると,コアラさんのこの例は次のように考えられそうです。

 お互いに一致している時,たとえば目の前のリンゴを見て,「このリンゴ食べてもいいのかな?」「うんいいよ」とか話しているときには,話はそんなにずれてはいないでしょうから,自分と他人の区別は問題になりません。ですからそもそも意識もされないのでしょう。もちろんやりとりしていて何の問題も起こりません。

 お互いに一致していないことがはっきりしている時,たとえば一方が「私はミカンよりリンゴが好き」と言い,他方が「私は断然ミカンの方がいいな」と返すようなとき,違いははっきりとしますし,またお互いにそれを認めやすいですから,定型的には「共感できずに悲しい・残念」となるかもしれませんが,それほど深刻なトラブルになるとは言えない(もちろんそのきっかけになることはあり得ますが,それはそのほかのことが絡んでのことでしょう)。「私は私,あなたはあなた」ということが改めてお互いにはっきりと意識されておしまいです。

 押しつけの問題が起こるのは,一方が違いを意識しているのに,他方がそれを意識しない場合です。コアラさんはそういう場合について,ご自分の経験からこんなふうに説明されました。

「「すごく合理的なやり方」や「効率の良い方法」(自分なりの)などは、他人にはあまり教えたくないし教える必要もなく、それを親しいからこそ教えたい(気持ち的には伝授したいというくらい大事なこと)と思い行動に起こします。その時、自分の状態が良ければ言い方も柔らかくなると思うのですが、「なんでこんな簡単な事もわからないんだ!」という気持ちが含まれていたりすると無意識に口調が荒くなりがちです。そんな自分に相手が反応した時や、「教えたい」という気持ちを拒まれた時にパニックが起こるというか。。。「違い」として認識できてないので、相手の反応がとても不愉快で理解できないものになります。相手に絶望することもあります。」


 こういう場合,コアラさんは自分が相手に伝授したいと思っている中身は,「合理的」で「効率が良い」もので,それは相手にとっても「同じ」だという確信を持たれているわけです。そのことを全く疑いもしないような状態でしょう。そう信じ込んでいて,その信念に基づいて「相手の人のために」と特別の好意で伝授しようとしていることを拒絶されて,訳が分からずパニックになり,大変に傷つかれるわけです。

 まさに一方が違いを意識し,他方は違いを意識していない状態でのトラブルです。

 逆にアスぺの方が定型の「普通」に苦しめられるのも,その限りでは全く同じパターンですよね。定型は「そんなこと説明するまでもなく当たり前のことで,相手は当然共有しているはずだし,共有しなければならないことだ」と思ってアスぺの方にそれを強要するわけです。その時は定型の側はズレに全く気付いていませんから,強要している意識はほとんどなくなります。そしてアスぺの方からそれを否定されたりすることで激しく怒ったり,ショックを受けたりする。

 
 定型アスぺ間で違いがあるとすれば,なぜ自分の考え方が相手にも通用すると考えているか,その違いかもしれません。定型の場合,「どうしてそうなの?」と聞かれたとき,いろいろ説明を試みて,うまく説明が出来なくて,それでもしつこく聞かれたときに,「そんなの当たり前でしょう」とか「普通でしょう」と言うしかなくなくなったりしますが,さらにもし「どうしてそれが当たり前なんですか?」と問い詰められたとすれば,出てくる答えはこうなりがちじゃないでしょうか。「他の人にも聞いてごらんよ。みんな同じことを言うから。わかんないのはあんただけだよ」

 つまり,定型がそれを当然と考えるのは,周囲のみんなもそう考えているから,という場合が少なくないと思えます。それに対してアスぺの方は「個人的な信念」とでも言えるのかもしれないと思います。他の人はそれを理解しているかどうかは分らないけれど,自分はそのことを発見していて,繰り返しその考えの正しさを確かめていて,それはもう明らかに間違いのないことで,誰にでも通用することだ,という形でその信念はつくられていく。(補:あすなろさんの質問に答えられたコアラさんのコメントに,すごく分りやすくそのことが書かれていました)

 まあ,もちろん定型でも自分で確かめた結果当然と思うようになる場合もあるでしょうし,アスぺの方でもみんなが言っているからそうなのかなと思う場合もあるでしょうから(たぶん 私の想像です (^ ^;)ゞ),完全にそのような分け方ができるとは言えないでしょうが,けれどもかなりそういう傾向が強いとか,あるいは定型アスぺを比べると,相対的にその傾向が強いとか,そういうことは言えそうに思うのです。


 そういう違いはありながらも,結局一方が違いに気づかず,他方が違いを意識している時に「一方的な押しつけ」が起こるということは,定型アスぺのどちらにも言えることで,そう考えると,アスぺの方が「私は私,あなたはあなた」ということをこれほど強調されながら,実際には定型に対して自分のやり方を押し付けてこられることがある,という,ちょっと分りにくい話も,矛盾することなくすっきりと説明できるようになる気がします。

 そして,そういうズレの仕組みの結果,コアラさんがこう嘆くような事態が繰り返されるのでしょう。

「アスペ側の「大切な相手だからこそ伝授するスペシャルなもの」を、「距離感ゼロのすごく強制的なやり方」と定型側に拒まれる。どっちが正しいとかでなく、感覚の違いによる「ズレ」が、こんな悲劇を生むなんて…」


 ほんとうに心を込めた贈り物を無下に拒否されたとき,傷つく心は定型アスぺどちらも同じということですね。


 もう一点,コアラさんのコメントから大事な問題を感じたのですが,それはまた改めてということで……。

 
 

2015年4月15日 (水)

中間的な状態の意味のズレ

 昨日の記事「距離感の問題」についてはアスぺサイドからコアラさんがご自分の気持ちに整理される部分があると教えて下さり,また定型サイドからはあすなろさんがまたすごく具体的にリアルにご自身の体験をその視点から解説してくださいました。ちょっと感動。で,そこで考えたことを,もう少し別の言い方で考えてみたくなりました。(結局同じじゃん!ということになるかも (^ ^;)ゞ ) 

 昨日の話をまとめると,定型とアスぺの関係の取り方を比べると,こんな違いがあるように思えます。

 定型は他人と自分(身内・家族),疎遠な人と親しい人,敵と味方の関係の中間のような状態をよく作る。その中間の状態はそこから身内のような親しい味方同士の関係に行くこともあるし,逆に他人のようなよそよそしい関係や,場合によっては敵同士の関係に行くこともある。また他人から中間の状態を経て親しい関係に行くこともあるし,逆に身内から中間の状態を経て他人のようになってしまうこともある。

 つまり定型は,他人の関係と身内の関係の間を調整する場として,中間的な状態を繰り返し作るんだと思うのです。その部分をこれまで「クッション」というような表現でも表してきました。

 それで,身内同士でも当然問題は起こりますから,そうなったときにはちょっと身を引いて,中間的な状態に戻り,そこで改めて関係を調整しなおして再び身内同士の近い関係を作りなおそうとする。ということをしょっちゅうやっているような気がします。

 中間的な状態というのは,そういう関係調整のために作られている場ですから,相手と関係をすり合わせるために,自分の態度をゆるく持って「どちらの方向にも行ける」状態にしようとするのが自然な成り行きになります。定型の中で対人関係の能力が優れていると思われる人は,多分この緩やかな状態をかなり広く取れる人で,その分いろんな事態に対処できる可能性が広がりますし,問題が起こった時の回復力も強くなるのでしょう。「あの人は度量が大きい」とか言われるのは,このタイプのひとなのかもしれません。

 ところがその中間的な状態は,ある意味ではどっちつかずのあいまいな状態で,お互いの気持ちを探り合ってバランスを考えるための場ですし,そこは中途半端なはっきりしない状態とも言えますから,アスぺの方にはとても居心地が悪い状態になるのではないかと思うのです。

 しばしば聞かれるアスぺの方の人間観は,私は私,あなたはあなたで,私の意見は私個人の意見,あなたの意見はあなた個人の意見で,最初からそれは全く別々のものなのだ,という,とてもはっきりした固い線引きに基づいているように感じます。だから,定型が中間的な状態の中で,「私の意見はあなたの意見を考えながら決まっていく」という態度をとることが,非常にわかりにくく,そんなのは本音を隠したごまかしだ,建前の嘘の世界だと思えるのではないでしょうか。

 けれども,ここは今度は定型の側が分りにくいポイントになるかもしれませんが,「私は私,あなたはあなた」とはっきり区切ろうとするアスぺの方にも,その区別を感じないような親しい関係は存在するわけです。それがたとえば「家族」というような言葉で表現される関係になるのではないかと思います。

 そして,アスぺの方にとってはその「家族」のような関係というのは,一種運命的なもので,定型的に調整しながらでないと危機に瀕する,という感覚が少ないのではないでしょうか。それをしなければならないのは「他人」の関係だと思われるのだと思います。

 だから,アスぺの方が結婚すると,それまで「他人」という立場で「恋人関係」にあったときには一生懸命プレゼントをしたり,相手の喜ぶようなことを努力したりしていたのに,結婚して「家族」になった途端に,そういう努力をする意味を感じなくなって,あまりしなくなる,という「釣った魚に餌をやらない」と定型が感じるようなことも起きやすくなるのだと思えます。そういう「他人行儀」な努力をしなくてもいいのが家族と思われるからです。

 つまり,身内と他人と定型的な中間状態の関係が,定型とアスぺでこんなことになっているのではないでしょうか。

 定型の場合

   <身内   中間状態の調整>
            <中間状態の調整   他人>

 アスぺの場合

   <身内>    <調整が必要な関係=他人>


 繰り返しになりますが,定型の場合は身内同士の関係でも,うまくいかなければ中間状態にいつでも戻って再度調整をしようとする(それでだめなら他人になる)。で,中間状態はまだ身内の中に入ります。あるいは身内であることの一部分になる。

 ところがアスぺの方の場合は調整が必要な関係はもう他人の関係で,ですから中間状態は身内に含まれず,中間状態で調整しようとする姿勢は,もう他人になったことを意味してしまう。

 もちろんアスぺの方にとっても身内の関係の中でいろいろなトラブルは起こるし,そうなったときのなんらかの対処の仕方も模索されているのだとは思います。それがどういうものなのかはまだ私にはよく分りませんが,きっとあるように思います。

 でも上のような定型アスぺのズレがあるとすれば,お互いの調整の努力には大きなズレが生まれてしまうことになり,中間状態を大事と考えている定型からすれば,アスぺの方の努力の仕方は距離感ゼロのすごく強制的なやり方に感じられてしまうし,逆にアスぺの方からすれば,定型的な調整の努力は「他人になること」と同じような意味を持ってしまいがちになる。

 「家族だからこそ,身内だからこそこういう努力をしよう」と考える時の,その努力の中身,方向性に相当大きなズレがあって,ぜんぜんかみ合わないことが起こる。「一緒に努力しよう」という思いは仮に共有されても,具体的にどうするかでまるで対立してしまい,自分のやりかたは「努力」や「家族であること」を否定することになってしまう。そんな悲劇が生じやすい仕組みが,こんな形で成り立っていると考えると,私にはちょっと事態の意味が見えやすくなるように思いました。

 
 
 

2015年4月14日 (火)

距離感の問題

 定型アスぺ間に生まれるむつかしさの一つは,「距離の取り方」だと思います。定型の側から見ると,アスぺの方は相手から距離をとることを重視されているように感じられることが多いのですが,かと思うと他方ではほとんど距離ゼロという感じになってつらくなることがある。以前,「定型はクッションを多用する」というような言い方で書いたことがあったと思いますが,ここでも距離の取り方が全か無かになってその中間のクッション部分がないような,そんな印象を受けるのです。

 その中間のクッション部分では定型は「どちらにも取れる」ような発言が多くなるし,しばしば「どちらにも進みうる」ような態度をとります。それは結論を自分で決めてしまうのではなく,その場のやりとりの中でお互いの気持ちや考え方を突き合わせ,そうやってお互いに「調整」をはかるために必要な姿勢なのだろうと思います。

 けれどもアスぺの方から見ると,その中間のクッション部分は,非常にあいまいで,訳の分らないもので,本心を隠し,語っていないように見え,しばしば相手に対する不信感を強めることにもなるような気がします。実際,定型がわざとそこはあいまいにして調整の余地を残していることについて,多分アスぺの方は「自分の気持ちは相手に関係なくあらかじめ自分の中で決まっている」という見方をされるために,そういうあいまいさを「自分の気持ちをごまかしている」とか「隠している」という風に感じてしまうことになるのかなと想像するんです。

 で,今日もパートナーと生活上の問題について話をしながら,この相手との距離の取り方の違いが,相手に対する気遣いとか,心配の仕方の違ズレに結びついているような気がしました。

 彼女が私のことについて心配する時,「このことについてあなたはどうするつもりなの?」という,私から見ると詰問調の問いかけをしてくることがしばしばあります。私はそう言われると,何やら自分が責め立てられているような気分になって,息苦しくなるんですね。で,そのことを伝えると,じゃあどう言ったらいいのかと聞かれるので,ちょっと考えて「僕なら,○○については大丈夫?という形で話を振ってみるだろう」と答えました。

 そこで相手が「うん,大丈夫だよ」と言えばそれ以上はこちらから無理に入り込もうとはしないだろうし,「実はちょっと大変でね」ということになれば出来る限り相談にのったりするだろう。そのどちらがいいのかは相手に選択してもらえるような言い方をする,と説明したわけです。それは相手が相手の気持ちにそって解決策を模索し,こちらはその相手の気持ちに添って必要な手助けをするというスタンスになります。

 ところが彼女の方はそんなのは他人同士の間のやり方だ,というのです。私が驚くと,「あなたが勝手にすればいいことで,私は関わらない,と切り捨てるようなやりかただ」というんですね。それじゃ家族じゃないと感じるのだそうです。

 私にすれば,相手の人の選択の可能性をまずは確保して,その上で必要な援助をするという構えで,より深く相手を大事にし,気遣ったことになると思えることが,彼女にとっては全く逆に感じられる。

 そこで思ったわけです。彼女にとって本当に親身に心配するということは,自分と相手の距離がなくなってしまうような状態のことなのではないかと。そこでは自分の心配と相手の悩みの間に境目がなくなってしまい,結果として自分の心配の気持ちをそのままストレートに相手にぶつけてくることになる。私からすると,それをされるということは,私の側からの選択の余地が残されず,彼女の心配で自分が支配されるような状態に感じられるわけです。自分が自分の感覚をベースに考えることが許されなくなり,彼女の感覚で動くことを強要されるような,そんな追い詰められ方をするように感じてしまうんですね。

 そんなふうに考えてみると,子育ての中で私が彼女の子どもに対する態度にいつもとても息苦しい感じを受け,「どうしてそこまで子どもを支配しなければならないのか」と憤り続けてきたことの意味も改めて見えてくる感じがします。

 私は子どもを心配する時にも,子ども自身の気持ちや選択の余地を確保しながら,子ども自身が解決の道を模索していく手助けをする,ということを大事にしたい感覚がありました。でも彼女は子どもが心配になると,自分が「こうすべきだ」と思ったことを(私から見ると)有無を言わさずに押し付けるような,そんな姿勢に見えて仕方がなかったんです。それは支配であってとても心配していることとは感じられませんでした。

 でも,ようやく今,それが彼女にとっては本当に心配した時の行動なのだと思えるようになってきました。彼女にとっては切り離せない家族だからこそ,そういう形の接し方になるんですね。その時はある意味で自分と他人の区別が消えてしまうのかもしれません。他人だったらそんなことはせず,もっと距離を持つ。だから定型的には「クッションを置く」という,親しい間でもとても大事な距離の取り方が,彼女にとっては他人の関係になってしまうことになります。

 という感じで,たとえば「相手の気持ちなどわかるわけがない」など,一方で自分と他者をものすごく切り分けるような姿勢を示されながら,他方では「なんでそこまでこちらに入り込んで自分の理屈で支配してくるわけ?」と感じられるような「距離ゼロ」の接し方をされるように感じる,その矛盾が,彼女の持っている「家族」と「他人」の独特の切り分け方と深く結びつくものとして,私にはなんとなく感じられるようになってきました。


 
 
 

匿名コメントについてお願い

 ミスではなく,意図的に匿名で行われていると思われるコメントについてお願いがあります。

 これまで,完全に商業的なものを除き,コメントを私の方でコントロールすることは一切してきませんでした。それは荒らしに対するみなさんの気持ちがこの場を支えていることへの信頼があったからです。そして幸いにも,いろいろな立場の方がここまで誠実にやりとりされる雰囲気が作られてきたと感じています。

 もともとこういう場は個人は特定されない仕組みになっていますが,それだからこそ,たとえ自分には納得のいかないコメントに対してであっても,ハンドルネームレベルでは一貫した個人と個人としてやり取りをしていただきたいと思います。それが失われると,発言に対する責任がなくなってしまい,限りなく荒らしに近くなってしまい,まともな議論を誠実に行う場ではなくなってしまいます。

 このお願いは,内容についてのものではなく,あくまで「他者を批判するときは責任をもって批判する」ということを大事にするためのものです。そしてこの場合の「責任」の意味は,批判への反論を受け止め,それにちゃんと応答することを意味します。匿名は発言者の一貫性が確認できませんので,何人の人から批判されているのか,誰になにを答えてよいかもわからなくなり,そのようなやりとりを壊してしまいます。

 今回の意図的と思われる匿名のコメントは,残念ながらそのような責任ある対話の場を崩してしまうものだと思えます。今後も私の方でなにかをコントロールしなければならないようなことはしたくありませんので,ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2015年4月12日 (日)

アスぺの方はどこまで定型に迫れるか?

 最近毎回書いていますが (^ ^;)ゞ ここにきて色々な面で模索がちょっと新しいステップに入ったように感じています。何か新しい視野が拓かれつつある感覚があります。

 昨日今日と思ったことは,お互いに理解しあう試みについてのステップが変りつつあるのではないかということです。

 理解と言ってもいろいろな理解の仕方があります。たとえば自閉的傾向の原因を脳の特徴として理解するやり方。脳という「物」の仕組みから理解をしようとするわけで,それに対して「対策」を考えるとすれば,何らかの形で脳を「改造」することになります。今のところは薬という「物」を投与して,働き方を調整する,という感じでしょうか。

 将来的には遺伝子操作ということが取りざたされる可能性もないではないですね。倫理的にそれが許されるかどうかは別問題として,技術的には遅かれ早かれ可能性が出て来るでしょう。もう少しソフトなやり方としては,アスぺの方に使われていない脳の部分をより活用するように工夫するとか,あるいは神経の「配線」の仕方を変える試みをするとか。(こう書くと,なにやら強制的な人格改造みたいな感じでやはり抵抗感がありますが)

 もうひとつは「心」の仕組みとして理解するやりかたがあります。たとえば自閉的傾向を持つ方は,「相手の感情を読み取ることができない」とか,「共感能力に傷害がある」とか,その人の何らかの「心理的な能力」の「欠陥」の問題として理解をするやり方です。それに対処するには「欠陥」部分を補うような訓練や,環境の調整,といったいろいろな試みが行われることになります。

 私がここで試みているのはそのどちらでもなくて,「生き方のズレ」として理解することです。

 なぜ生き方にズレが生まれるかについては,脳の仕組みの違いや,それに経験が加わっての性格の違い,それらの結果生まれる「心」の働き方の違い,などの説明がある程度は可能です。

 けれどもそういう違いは根本的なところではなくなるわけではありませんし(改造人間を作るとかでもない限りは),そもそも定型アスぺに関わらず,すべての人が異なる脳や異なる経験や,異なる心の働き方,性格をもって生きているわけで,「違い」をなくすということはどこまで行っても不可能です。それにもともと生物はいろんな個性を生み出す方向に進化してきた訳ですから,それを無理やり「同じ」にしてしまうというのは,そもそも生物の歴史に反する大変な無理をすることになってしまいます。

 Katzさんが何度か強調されていたように,アスぺの方は人間の社会の中で,これまで大きな役割を果たしてこられたし,また今もそうなのですね。(あるお医者さんの本ではビルゲイツもスティーブ・ジョブスも,今世界を根本的に変える仕組みを作ってきた人たちはみんなアスぺだということになっていました)仮に誰かが「アスぺ撲滅」みたいな恐ろしいスローガンを考えたとしたら,その人は結果的には「人類撲滅」を叫んでいることになるでしょう。

 人間だれしも持って生まれた自分を根本から変えることは不可能なわけですし,過去の経験を帳消しにすることも不可能です。今持っているものをいろいろ工夫して使い,生きていくしかない。そしてその人その人にあった幸せを探っていくしかないわけです。そこにその人その人が自分の現実を踏まえた「生き方」が成り立つわけで,そこにいろんな「ズレ」も生まれることになります。定型同士だってそうです。文化が違ってもそうです。そして定型アスぺ間でもそうです。

 ということで,私はお互いの違いを認め合ったうえで,その「生き方のズレ」をどう理解して,どう調整することができるのか,という視点にこだわってきました。

 「生き方のズレ」を理解するには,自分の生き方とは違う,相手の生き方を理解する必要があります。あるいは相手の生き方を理解することで,逆にそれまで気づかなかった自分自身の生き方を振り返り,理解しなおすことが必要です。

 そのために私がここでずっと試みてきたことは,まずはアスぺの方の見方とか,感じ方などを,自分の定型的な想像力を使ってなんとか想像してみることでした。その想像がどの程度成功しているかどうかを決めるのは私ではありません。「こういう感じでしょうか?」と想像したことを書いてみて,「まあ,そんな感じ」と感じていただけるかどうかが全てです。いくら定型的には「こう見える」と思ったとしても,アスぺの方から見て「それはなにかズレている」と感じられたとすれば,それは不正解か,あるいは少なくとも不十分です。

 そして幸いに,少しずつ「その通り」と言っていただけることが増えてきました。「完全な正解」に達することなど,絶対に不可能ですが,お互いに理解しあう上で意味あると感じられるいくつかのポイントでそれが少しは可能になってきた。それが「スペクトラム」の中で,どの範囲の方に通用することなのかもわかりませんが,とにかく一部の方には通用し始めていますし,ひとつの足掛かりはできているわけです。

 そういう中で,たとえばKeiさんから定型さんの、「他人との関係の中で感情を安定させる」っていうのはどういう感じなのだろう?できれば1日だけでも定型になってみたい。」というコメントを頂くようになってきました。

 私がなんとかアスぺの方にも通用するような形で「アスぺの方の生き方はこんな感じ」というものを「理解」しようとしてきたのは,最終的にはアスぺの方に(というか結局私のパートナーに (^ ^;)ゞ),定型(私)を理解してほしいという欲望がなくならないからです。定型同士とは違うかもしれないにしても,それでもなんとかお互いにある程度納得できる形で「理解しあう」道を探りたいわけです。

 そういう「欲望」に突き動かされて書いてきたことについて,Keiさんは「定型の方でもここまで真相に近づいて行けるのだなぁと感動しています。」というふうに感じてくださった上で,「できれば1日だけでも定型になって(定型の感覚を理解して)みたい。」と思ってくださったわけですよね。

 
 さて,私がアスぺの方の生き方,感じ方を想像する方法は,お互いの違いをいろいろ探ったうえで,それでも共通している部分を探ること,そして「もし自分がこういう条件を抱えて生きることになったら,どんなふうに振る舞ったり,どんな生き方を模索するだろうか」という風に「相手の身になって」考えてみることでした。その時に「たとえ話」がある程度役に立ったりもしました。

 ではアスぺの方が定型的な感じ方を理解する上で,あるいはアスぺの方に定型からそれを理解してもらうように説明するうえで,同じようなやり方は通用するのでしょうか。そういう問題が今,私の前に新たに立ち現われてきたような気がしています。

 もし仮にアスぺの方の「障がい」という部分を前面に押し出して考えて,しかもその障がいの中身として「他者の感情を感じ取る能力がない」というような極端な(むちゃくちゃ単純化した)理解をしてみたとします。そうすると,感情を感じ取ることで成り立っている世界を,感情を感じ取れない人に説明するという話になりますから,これはものすごくむつかしいことになります。たとえて言えば,視覚に障がいがあって,一度も物を「見る」経験のない方に,色の違いというものを説明するようなそんむつかしさがそこにあることになります。

 もちろん実際には「感情を感じ取れない」という決めつけ自体がおかしなことで,アスぺの方の実態とはぜんぜんずれていますから,そういう部分ももっと丁寧に考えていく必要がありますけれど,いずれにせよ今度は「定型を理解してもらい,定型の側からも「理解してもらえた」と感じられるようになる」ことがどこまで可能なのか,ということを具体的に模索していくという,新しいステップに入り始めたと感じています。また新たな手探りが始まりそうです。
 
 

2015年4月 9日 (木)

定型アスぺ問題の基本的な形

 ここにきて自分の中で,これまでああでもないこうでもないとうろうろ考えていたことについて,結構いろんなことが結びついて感じられるようになってきています。そのポイントは意外に単純なことのような気がします。改めてそこだけ言うと,つまりこんなことです。

 定型は人とのかかわりの中で自分の感情を安定させようとする傾向が強い。
 アスぺの方は自分個人の中で自分の感情を安定させようとする傾向が強い。

 まあ,言ってみればそれだけのことなのですね。単純と言えば単純だけど,これが結構定型アスぺ問題の基本的なズレの形なのかもしれないと思うんです。基本的,というのは,そこを出発点にして考えてみると,結構わかる感じになることがいろいろ出て来る,ということです。

 どちらも「感情を安定させようとする」というところは同じです。逆に言えば何らかの理由で感情が揺れ動きやすいことも同じ。「安定させる」というところを,「ポジティブな状態に持って行こうとする」と言い換えても構いません。



 仮にそうだとして,なぜそういう違いが生まれるのかについては,いろんな形での説明がありうるだろうと思います。もともと脳の働き方が何かの原因で違うのだ,とか,いや,アスぺの方も最初は人との間で感情を安定させようとすることはあったんだけど,何かの理由でそれがとてもむつかしい状況に置かれ続けたので,そういうのは一切やめて自分の中での安定を心がけるようになったんだとか,まあいろんな可能性が考えられそうです。

 そういう「原因」の問題はさておき,現実の定型アスぺ問題は,上のような「生き方の違い」によっておこるものがすごく多いのではないかと,そんな風に思えたのですね。そのズレは,かなり基本的で重要な生き方の違いのはずですが,定型もアスぺもお互いに自分の生き方のスタイルの方が普通のことだと思い込んでいて,そのズレになかなか気づきにく,お互いに全然ずれた期待を相手に持つ結果,どんどん問題がこじれ,激しい不信感や怒りや絶望感などが生み出されていく。そのプロセスについてちょっと考えてみます。



 定型の場合は自分の感情状態を安定させたり,高めたりするために,相手との感情的な面を含めたやりとりを求めることが多い。「共感的な関係を持とうとする」みたいな話です。そういう「共感的な関係」を作ろうとする姿勢をお互いに持てる人が,自分にとっては大事な人で,信頼できる人になります。そういう「姿勢」自体がとても大きな価値を持っているから,昨日の話で言えば,定型の側はたとえ結果が伴わなくても,相手の「気持ち」だけで嬉しくなったり,とても支えられた気持ちになることがある。

 それに対してアスぺの方は自分の中で感情を安定させようとする傾向が強いので,人との間で感情を積極的に伝えあったり揺らしあうようなことは避けようとする傾向が強まる。そうなるとその後の展開が定型アスぺで全然変わってくることになります。



 どんなふうに変るかについて,アスぺの方の中でも人と積極的にかかわろうとするタイプの方と,それをあまり好まない方でその後の展開に違いが出てくるでしょう。さらにすごく論理的に分析して考えようとするタイプの方と,それをしないかあまり得意でないタイプの方でも差が出て来そうです。
 まず人と積極的にかかわろうとされるタイプの方は,関わりを持つ以上,相手との間でいろいろな調整をする必要が出てきます。しかし「相手と感情的な調整をする」形はとりにくいので,結果的に二つの方向のどちらかに進みやすくなるような気がします。

 ひとつは感情的な問題は極力切り離して,冷静に論理的に事態を分析して,現実的な行動のレベルで関係調整を行う努力をされる方向。もうひとつは相手と感情を調整するのではなく,自分の感情をそのまま相手にぶつけて,それを相手に押し付け,従わせることで問題を解決しようとするような方向。現れ方は随分違いますが,基本的なところで共通点を見ることが出来そうです。

 一方,人との関わりにはもともと(?)あまり気持ちの向かないタイプの方の場合,基本的には問題が起これば人を避ける方向で,相手とは切り離された世界で自分一人で問題を解決しようとされるでしょう。相手と感情を共有する場合にも,おだやかな形での,距離をとった共有の形になりやすい。自分の感情が揺れ動いて困る場合には,他人を避け,それ以上人から感情が揺れ動かされないように,自分一人になって静かにその揺れが収まるのを待つ形になることが多そうです。


 ただし,このタイプの方でも,どうしても他者とのかかわりが避けられなくて,しかも感情的な問題が強く絡む場合には,普段人と関わるときには抑えている感情が激しく爆発するようになることもありそうです。その場合,もともと相手と感情的なやり取りをして自分の感情を調整するようなことはあまりされてきていないわけですから,ほんとに生の感情をぶつけあうようなことになる場合も出て来るでしょう。

 アスぺの方にとって穏やかでいい人間関係が取りやすいのは,相手と適度に距離をとって,お互いの感情を変に揺らしあうことなく,それぞれのひとが自分の状態を大事にできる関係がある時ではないでしょうか。それがお互いにお互いを受け入れあった関係ともなる。もしかすると子どもが生まれる前までは,私とパートナーの関係もそういう形に近かったのかもしれません。

 また二つのタイプのどちらの場合も,「共感的な関係」の中で自分の混乱した感情状態が安定したり高められたりする経験自体が少なくなるので,結果抜きに「共感的関係」の「気持ち」だけを言われても,そこに価値を感じることはむつかしいし,ましてやそれだけで「自分が支えらえる」などということはとても理解しにくいことになるでしょう。ここも定型アスぺで基本的な感覚がシビアにずれるところの一つになります。


 仮にそういうことがある程度言えるとしたばあい,その大きなズレに気づかずに,自分の感覚だけで相手と深く関わろうとすると,そこに大変な問題が起こり続けることになります。何しろ「理想とする関係の取り方」が大きくずれるわけですから,「理想を目指してお互いに努力する」と言っても,その努力が全くかみ合わない。相手の振る舞いは自分の理想を否定するもので,とても「努力している」とは感じられず,むしろ攻撃や拒否としてさえ感じられかねなくなる。

 逆に自分がいくら努力しても,相手にとってはそれはまるでズレた努力で,努力としても実感できないわけですから,相手からは全くその価値を認めてもらえない状態になる。そうやって努力すれば努力するほどに溝が深まり,期待すればするほど傷つき,失望し,不信感が高まり,絶望的な思いにとらわれて,最後に身を守るにはもうすべてを諦めて適当に距離をとって最小限の関わりで生きていくか,あるいは何らかの意味で破たんし,清算するしかなくなっていく。

 初めに書いたような生き方のスタイルの違いによって,そんな展開が生まれると考えてみると,とりあえず私には今までごちゃごちゃしてきた色々なことがつながりをもって,比較的わかりやすくなる感じがします。




 どこまでこの見方が通用するのかはわかりませんが,こういう視点から考えると,定型アスぺのどちらの側についても,なぜ相手によって傷つき続けるのか,ということについて,どちらかを一方的に悪者にする形ではなく,あるいはどちらかの努力不足によるものとしてではなく,ある意味「お互い様」の問題として,ズレが生み出す悲劇として理解することができます。お互いに悪意がなく,努力を続けたとしてさえも,そのことが逆に事態を深刻化させてしまう悲しい仕組みが,そういうところにあるという理解ができるからです。

 そしてたとえば「アスぺ=障害=不完全な定型」VS「成熟した完全な定型」という形で関係を理解するのに比べれば,「生き方のスタイルの違い」として定型アスぺ問題を見るようになるので,問題解決のための模索のスタンスに違いが出てくると思います。

 「不完全な定型」VS「完全な定型」という形で問題を考えた場合,可能な対処は定型の側がアスぺの方の「問題」を理解し,そこに同情をし,仮にアスぺの方から傷つけられたとしてもそこは何とか我慢をして,少しでも相手を「完全な定型」に近づけるように,いろいろ援助の手を差し伸べる,というスタイルが自然になるでしょう。アスぺの方に対しては基本的には「少しでも定型に近づく」ことを求めることが基本になる。定型優位の社会の中で現実にアスぺの方がなんとか生きていくうえでは,それは一番現実的な対処法なのかもしれません。

 他方で「生き方のスタイルの違い」として問題を理解する場合,それへの対処は基本的に対等な人間関係の中で,お互いの「理想」を重視し,その上でそのズレから生まれるいろんな困難をお互いに調整する努力を続ける,という方向になるでしょう。定型アスぺ問題を「アスぺの人の問題点にどう対応するか」という形で考えるのではなく,「お互いの生き方(や理想)のズレをどう調整するか」という形で考えるという違いになります。


 
 ここでは「対等な人間関係」とあっさり書きましたけれど,言葉で言うのは簡単ですが,これだけ大きくズレ,また激しく傷つけあうこともある関係の中で,「対等」というのは一体なんなのか,そんなことがどうやって可能なのか,そもそも可能なのか,ということはものすごく重たく深い問題のように感じます。決して表面的なきれいごとでは済まないでしょう。そのあたりはまた具体的な問題を踏まえてちょっとずつ考えていくしかありませんが,とりあえず視点を変えると,模索のポイントも変わってくる,ということまでは言えそうですし,そういうちょっと違った模索もきっと価値があるだろう,という気はします。
 

 

 

 

2015年4月 8日 (水)

報連相の話と気遣いの話

 昨日記事「気遣いが伝わらない理由 」で書いた話と,だいぶ昔に書いた報連相の話がなんかつながりそうに感じました。

 報連相の話というのは,アスぺの方が定型との関係でトラブルを起こしやすいこととして時々言われていることで,一緒に何かをするとき,やったことを報告するとか,状況について連絡をするとか,展開について相談するとか,そういうことがうまくいかない場合が結構ある,という話です(たぶん (^ ^;)ゞ)。

 定型であれば「ここは結果をまず報告したり,経過を連絡するだろう」とか「ここはどうすべきか相談するべきだろう」とか思えるところ,アスぺの方がそれをスルーして,自分で処理してしまい,その結果仕事であればチームワークが取れなくなりますし,個人的な人間関係で言えば「ここはお互いに一緒にやろうとしていたはずなのに,その後は自分が放置され,無視された」というふうに,何か自分を切り捨てられたような印象を定型が持ちやすい場面になります。

 アスぺの方にもいろんなタイプがあると思うので,この話がどこまで一般的に言えるのかは私にはわかりませんが,少なくともそういうことが起こりやすいタイプの方についていえば,その生き方のスタイルはこんなイメージでとらえるとちょっと分りやすいかもと思いました。

 基本的には自分の世界は自分の中で安定させたくて,外から揺り動かされることはできれば避けたいと思う。とはいえ人と関わることは避けられないので,頑張って自分の世界から出て,他のひととも関わるけれど,ほんとに疲れるし,かかわりは最小限にして,はやく自分の世界に戻って安らぎたいと思う。人に嫌われたいとか否定されたいとは思わないが,自分の価値が人によって決まるともあまり感じない。

 それに対して定型の方は人との関係の中で自分を安定させようとする傾向が強い。感情的な関わりで相手に影響を与えたり,与えられたり,ということがその過程では不可欠になるので,いつもそういうことをどこかで気にして,そこで安定した関係が成り立つように調整を心がけている(いろんな「気遣い」とかもそれでしょう)。そしてその他人との関係の中で自分が何かを達成することに大きな価値を感じる。

 そういう生き方のスタイルの違いが定型アスぺ間にあるとすれば,その延長上に報連相問題が起こっても不思議はない感じがします。定型は「今不可欠な情報」ということだけではなく,その周辺の関係あるのかないのかわからないようなあいまいな情報や,ほとんどどうでもいいように思えるような話も含めて共有し,「一緒に考える」という姿勢を取りやすい。定型が井戸端会議や噂話が好きな人が多いのも,そういうあいまいな情報をいつも共有しようとしていることと考えればわかりやすいでしょう。

 それに対して,アスぺの方には「今不可欠な情報」を最低限やりとりして,あとはそれぞれが「自分で考える」というスタイルが自然なのでしょう。そうなるとそれ以上に情報を共有する意味を感じにくいことになります。そうすると,定型にとっては必要と感じられる「周辺的な情報」が,アスぺの方にとっては不必要な情報と理解され,そこにズレが生まれてやりとりがうまく進まなくなる。

 それで,この話が昨日の話とどうつながるかというと,こういうことです。

 定型にとって気遣いのやりとりは,「自分の気遣いたい思い」があって,「気遣いの振る舞い」をして,そのことで「相手の役に立つ結果」になって「相手は喜んでくれて」……,というところまででは完結しないのだと思います。そうではなくて,実はそのあとに,「相手の人が自分の気遣いを喜んでくれている,ということを相手の反応から実感できる」ところまで行って,気遣いのやりとりが目的を達成したことになるんだろうと思うんです。

 ちょっとややこしいかもしれませんが,この最後の話は「相手が<よい結果を>喜んでくれた」ということをこちらがわかればいいという話ではありません。「相手が<私の気遣いを>喜んでくれた」ということが大事で,相手の人のその喜びの中に「私から気遣われたことが嬉しい」という内容が入っていて,それが何らかの形で伝えられることが重要になっていると思えるのです。

 それに対してアスぺの方は「相手の役に立つ結果になる」ことまでが大事で,「相手の人が自分の気遣いを喜んでくれているということを(自分が)実感できる」というところは定型ほどには重視されないのではないかと想像するのです。そこはある意味「相手の問題」であって,私の問題ではない,という感覚がありそうな気が……(勝手な想像です)

 で,そういうスタイルの違いがあるとすれば,定型の場合は「(結果ではなく)相手の気遣いを喜ぶ」という形で,お互いに「喜びや感謝を共有しあう」ところまでがないと「気遣い」の関係が完成しにくいわけですから,そこをあまり気にしないアスぺの方の「気遣い」は,定型にとってはなにかドライな事務的やりとりのように感じてしまいになりがちでしょう。ですからそこに「気遣い」があるとは感じにくくなる。そんなことが起こるのではないかと思えたのですね。

 このパターンで考えると,さらにいくつかのことがつながって見えてきます。

 たとえば,これも以前に話題になった「アスぺの方は自分がいいと思ったものを,自分にとって大事な相手に見せてあげるのだけれど,それについて感想を言い合ったりすることはあまりなく,ただ見せてあげて,それをどう感じるかは相手に任せ,そこに踏み込んでいかない」という例も,同じこととしてつなげて理解できるようになります。

 定型はそこで自分の感動を表現したり,感想を言い合ったりして,「共感」を深めることで,大事な人との「つながり」を確かめるわけです。それで,アスぺの方のそういう「途中までで終わってしまう」ように感じられるやり方は,とても不思議感に満ち,何とも物足りない感じになります。ここでも「相手が満足すればそこまででOK」というアスぺの方に対して定型の方は「お互いに満足していることを確認し,実感しあうところまでいかないとやりとりが完結した気分にならない」わけで上の話と同じパターンになります。

 そうすると,アスぺの方がしばしば定型に対して「共感を押し付けて来る」と感じられる理由もわかる気がしてきます。アスぺの方にとっては「相手の為にしてあげた」ことはもうそこで完結しているはずなのに,その後「相手に任せられるべき部分」,「自分が立ち入ってはいけない部分」についてまで,定型が踏み込んできて「合意」を求めるように感じられるからです。

 定型の側からすれば,それは感情の共有とか,共有の為の調整をアスぺの方から拒否されたような感じになって,冷たい関係と見られますし,アスぺの方に対して「つながれない感じ」を常に持ちやすい理由もそこから見えて来るように思えます。


 
 アスペの方にとっては「相手が<よい結果を>喜んでくれた」ということが大事なポイントになるのに対して,定型は「相手が<私の気遣いを>喜んでくれた」ことを大事にする,という風に考えると,これまでも何度か取り上げた次のような定型アスぺのズレもまた分かりやすくなると思えます。

 定型は相手から気遣われたとき,もしその結果がうまくいかなかったとしても,「気遣ってくれた」ということ自体に喜びを感じることがよくあります。もちろん結果が得られなかったのは残念ですし,そこは悲しいのですが,でも結果はどうあれ「気遣う関係をそこで保ってもらえた」ということ自体に大きな価値を感じる。「あなたのその<気持ち>が嬉しいし,その<気持ち>に私は支えられる」というような状態ですね。

 ところが少なくとも私のパートナーとの関係では,やっぱり「結果」が問題になるんです。いくら「気遣い」があっても,「結果」が付いてこなければ相手の人の状態はプラスにならないわけで,そこに「相手への感謝」が生まれるということは彼女には分りにくいことのようなのですね。「そうやって自分の為にしてくれる気持ちが嬉しい」といった私の言い方には,「でも結果は全然だめだったわけでしょう?」という反論(?)が真剣に繰り返されます。なんでそれが嬉しいのかが分からないというわけです。

 つまり私は<気遣ってくれた相手の気遣い>という気持ちの部分を喜びの要素にしているのに対して,彼女は<自分の気遣いで相手が実際によい結果を得られた>という現実の部分に満足を得られる,というズレがあって,そういう彼女の視点からすれば,結果が付いてきていない(だから相手は幸せではないはず)にもかかわらず,それを「喜ぶ」ということがわかりにくいし,そこで「嬉しい」と言われても,なんのことか実感できず,社交辞令か何かのようにしか受け取れない,ということが起こっているような気がします。

 彼女の方はその結果,私の言うことの意味が分からないので,怪訝な顔(分らなくてしんどそうな顔)で「なんでそれが嬉しいのか分らない」と言い,感謝の気持ちを伝えて共感をしたかった私の方は「どうしてあなたの気持ちが嬉しい,という自分の気持ちを共有してもらえないのか」と感じてショックを受け,また関係を絶たれたような気持ちになる。そんなことの繰り返しがたぶんあったのでしょう。

 どの場合でも,どちらも相手のことを考えてはいるわけです。ところがその「相手のことを考える」ということが,どこまでで完結するのか,というポイントがずれる。そしてそのずれは,最初に書いた生き方のスタンスの違いにつながっている。そんな関係が見えてきます。

 という感じで,なんとなくこれまでばらばらに考えてきたいくつかのことが,ちょっとずつ私の中でつながって見えてき始めました。もちろん私の個人的な勝手な想像でのことですので,どこまでアスぺの方に通用するのかは全くわかりません。

 たとえばここでは「気遣い」があるということを前提に考えていますが,でももしかするとそもそも「気遣い」ということが最初から問題になりにくいタイプの方もあるかもしれません。ただ私のパートナーとの関係を思い起こしながら,個人的にはそう考えるとある程度感覚的にも分る部分が増えそうな気がするということに留まります。まただんだんと考えていくべきことでしょう。

 あと,書きながらちょっと思ったことですが,「基本的には自分の世界は自分の中で安定させたくて,外から揺り動かされることはできれば避けたいと思う。」というアスぺの方(の一部?)のスタイルは,定型でもうつ状態になればかなりそれに近くなるだろうと思います。

 そうするとアスぺの方のそういうスタイルは,訳の分らない定型社会のプレッシャーの中で鬱状態になりそうになって,そこから逃れようと結果として選んだスタイルなのか,それともそもそもそういうスタイルを作りやすいのか,そこは私にはまだよく分りません。両方かもしれません。また,それがアスぺの方についても鬱的な状態の一種と考えていいのか,もうちょっと違うことなのかも気になるところです。

 

 

2015年4月 7日 (火)

気遣いが伝わらない理由

 パートナーとの間で,お互いに相手を気遣って頑張っていることが気づかれにくい,ということが繰り返されます。その結果,「自分はこんなに気遣っているのに認めてもらえない」という感覚がどちらにも生まれてしまいます。

 なんでそうなるのか,むつかしいんですが,ひとつには「気遣ってほしい部分」がずれてしまうということがありそうです。これは誰かを気遣うとき,自分自身が人から何をされたら嬉しいか,というところを手掛かりに何をするかを考えるでしょうから,そこがずれやすい定型アスぺ間では,気遣う部分にすれ違いが起こっても不思議はありません。

 それから「気遣い方」もずれるでしょう。繰り返し使っている例で言えば,病気の時にどう対応してほしいかとか。一人にしてほしいか,側にいてほしいかとかなどの感覚の違いですね。これがずれれば自分は相手の為に気遣っていることが,正反対の意味になってしまいます。

 そして今日,もうひとつこんなことも関係するのではないかと思ったことがあります。それは気遣いに対する感謝の求め方のズレです。定型の場合,もちろん「恩着せがましい」ことはよくないと考えられますけれど,でも相手の為に何かをしてあげる時は,やっぱり「感謝を何かの形で表してほしい」と思う気持ちはどこかにあると思います。

 その中身は「嬉しそうな笑顔」でもいいし,「ありがとう」という言葉でもいいし,お返しになにかしてくれることや,場合によっては「金品」もありうるでしょう。もちろん金品になるとちょっと「露骨で下品」とか,「好意を無にされた」と感じる場合もあって,逆効果にもなるから,そこはむつかしいですが。

 いずれにしても定型は何らかの形での「見返り」を求める傾向が強いと思います。ですから逆に言えば「見返りを求めているようになんとなく感じられる」状況と,「自分の為に相手が気遣いをしてくれている」という理解が,どこか暗黙の裡に結びついているのではないかと思ったのですね。露骨に見返りを期待されることはマイナスでしょうけれど,微妙にそういう雰囲気が醸し出されることが結構ありそうです。

 だから,こちらは本当に具体的な見返りを求めず,純粋にあなたの為に何かをしたいんだ,ということを相手に伝えたい場合(ただし,自分のその気持ちを受け取って,そのことを喜んでほしい,という「精神的見返り」は実は期待されていたりする)には,わざわざそのことをはっきりと伝える必要もあったりします。葬儀の際のお香典やお香典返しのやりとりとかでも,そのあたりが,変に微妙な駆け引きのようになったり,お互いの気遣いが混線してかえってややこしくなることもあります。

 そういうことが多かれ少なかれ定型のサガだとして,それに比べるとアスぺの方はそこはかなりすっきりされていて,自分の好意を相手が受け取るかどうかは相手の自由で,自分も相手の為に何かをするのは,自分がそうすべきだと考えるからで,自分の方から見返りを期待するような気持ちはあまり持たない,という傾向が強いのではないかと想像するのです。

 もちろん自分のやったことに感謝されて嬉しくないということではないし,それが励みにならないということでもないと思います。でも相手の為に何かをするときに,精神的なものであれ,具体的なものであれ,何かの見返りを期待しあい,そこで微妙に調整しあうような,そういうやりとりにはなりにくい。場合によってはそういうのは不純なことと感じられるかもしれません。

 そうすると,今度は定型の側から見ると,相手が自分の為にしてくれていることであっても,それは「お互いに感謝しあう」みたいな枠組みには入ってこない,単なる「義務」のようなことで行われている,という印象になってしまうのではないかと思うのです。そうすると,結果的には自分のためになることであっても,それを「私のためにやってくれたのだ」と感じ取ることがむつかしくなる。極端な話,「相手が勝手に好きでやっていることでしょう?」という理解にもなりがちになる。だから感謝の気持ちも起こりにくい。

 アスぺの方は別に見返りを期待しているわけではないけれど,ただ自分が相手の為に頑張っていることを頭から否定されることはやはりショックになるでしょう。特に本当に相手のことを考えて頑張っていると自分で思える時には,そのショックは大きくなるはずです。

 
 ですから,まとめていえば,まず「気遣ってほしいポイントがずれる」ために,相手の気遣いに気づきにくいということがあり,またポイントはずれていないんだけど,望む気遣い方がずれているために,気遣いとしては理解されないことがあり,そしてさらに自分の気遣いに対して相手に何を期待し,どんな態度をとるか,というところでスタイルにかなりの違いがあり,その結果相手が自分を気遣ってやっていることなのか,自分の都合で勝手にやっていることなのかの理解がずれてしまい,結果として相手の気遣いに気づきにくくなる,というようなことがあるのではないかと,そんなことを想像してみたのでした。

 

 

 

 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月 6日 (月)

定型でもアスぺでもあるということ

 

ままさんの自分を当事者の枠に入れてはいけないだろうと最近は思ってる」というコメントから,さらにコアラさんが私もこれを最近考えていて、何故かというと自分が未診断であり、もしアスペでも軽度じゃないかと思うからです。」と同じ問題を感じられていることを書かれています。

 ここで言われている当事者というのは,要するにご自分がアスぺだという意味でしょうね。まあこの問題で当事者と言えば普通はそういう使われ方をしていると思いますけれど。

 その点について私は自分が当事者だと思っています。というのは自分がアスぺだという意味ではありません。私は定型アスぺ間のズレになやんでいる人間という意味で,「定型アスぺ問題の当事者」だと思うのです。そこに定型もアスぺも区別はありません。

 一体定型って何なのか,アスぺって何なのか,とっても複雑です。第一スペクトラムという考え方にもあるように,明確な線引きは最初から困難なわけですよね。アスぺと診断された方でも「より強くアスぺ的」な方も,「比較的弱いアスぺ的」な方もあります。さらに言えば,アスぺと診断されていない方(あるいはアスぺではないと診断された方)が本当に定型アスぺ問題に当てはまらないかというと,それも全然違うと,私は今はほぼ確信を持って言えます。

 いろんな障がいについても言えることですが,お医者さんの診断基準は人によっても違いますし,またかなり恣意的な部分があることは明らかで,恣意的にならないように数値で基準を設けてみたところで,その数値がどれほど安定しているかは疑問ですし,さらに言えばその数値を境目とすること自体が,実は結構恣意的とか便宜的なもので,絶対的な根拠があるわけでもないからです(この辺は昔学生時代にいやいややらされた統計で学んでびっくりしました(^ ^;)ゞ )。今ではアスペルガーという枠組み自体が有力な基準から外れてしまいましたし,それ自体が揺れ動くものであることは確かでしょう。

 ただ,そういう線引きの問題にとらわれずに,お互いの関係に感じるむつかしさ,辛さ,傷,といった面から考える時,「どうしてそういう関係になってしまうのか」「どう考えたらお互いの関係を改善するために糸口がみつかりそうか」という面から問題を見つめていけば,そこには「これは定型アスぺ問題の性格を持っている」と言える関係があると私は考えています。それは診断されているかどうかでは判断しきれない部分です。
 
 自分は定型なのかアスぺなのか,コアラさんはこんなことも書かれています。

私個人の話で恐縮ですが、自分(アスペ?)の事も一部変えてみる挑戦をしつつ、私より重度と思われる彼氏等については定型的な気持ちで様子伺いをしておりまして、なんだかとっても忙しいです()」

 コアラさんは定型でもあるしアスぺでもあるし,そんなややこしい位置にあるわけですよね。それはどういうことかというと,周囲の多くの方に比べると,コアラさんはアスぺとご自分を感じる。でもアスぺ度(?)のもっと高い彼氏と比べると,むしろ定型的な感覚が重要になる。

 そういうことが普通に起こることが,実は定型アスぺ問題の大事な性格なのではないかと私は思います。前にも一度「白と灰色と黒」のたとえ話で少しそのことを考えてみようとしたのですが,改めてもう一度考えつつ書いてみたいと思います。

 今何人かの人が右から順番に並んでいるとします。それぞれ「あさん」「いさん」「うさん」「えさん」……と名付けておきましょう。「あさん」は「いさん」より右ですよね。そして「えさん」は「おさん」より右です。「うさん」は「いさん」より左で,「えさんは」……と,はっきりと答えることが可能です。
 ではここで少し問い方を変えてみます,「たさん」は右のひとでしょうか,左のひとでしょうか。

 今度は答えが出ないはずです。なぜなら比較の対象がないからで,「たさん」は「ささん」や「そさん」よりも左ですし,でも「なさん」や「らさん」より右です。同じ一人の人が「右」でもあるし「左」でもある。

 仮に「自閉症スペクトラム」という考え方が成り立つのだとすれば,これと同じことが必ず起こるわけです。コアラさんの当惑はそういう理由で起こっているとも理解できそうですし,これまでも何人か同じようなことを感じられている方のコメントがあったように思います。

 人は定型もアスぺもみんなそのスペクトラムのどこかに立たされているのだとして,そうすると正確に言えばある人は「誰より定型的か」とか「誰よりアスぺ的か」ということは一応決められ,またその色合いの濃さみたいなものはある程度認められるとして,でも「ここから先が定型」「ここから手前はアスぺ」といった明確な基準を何らかの絶対的な根拠で決めることは不可能です。決める時は「だいたいはこんなものだろう」という感覚で専門家が仮の約束事として決めるしかないのが実情のはずです。統計的な基準というのは実際はそんなものです。それ以上でもないし,それ以下でもない。

 たとえ話の右か左のような関係は,あくまでも相対的なものなので,アスペのことも「スペクトラム」と言ってしまう以上,相対的なものになるのは運命でしょう。そしてまた実際の定型アスぺ問題もそういうお互いの相対的な位置に応じて生まれていると思えます。

 ですから,にわとりさんもより自閉度の高いと思えるお父さんとの間では,定型アスぺ問題で定型が悩むような悩み方もされていると感じますし,逆に周囲の多数派の人との関係ではアスぺの方の悩みを持たれています。コアラさんも多分同じですよね。

 いわゆる定型同士でも,たとえば男性はよりアスぺ的とも言われたりしますが,そこで女性が感じる悩みは,定型アスぺ問題では定型が感じる悩みに共通する部分が多いということも起こる。その女性に対して男性が抱く困惑は,おそらくアスぺの方が定型に対して感じる困惑にも通じるでしょう。

 定型アスぺ問題というものは,そういう相対的な関係でどの位置に入る人にも生み出されうるもの,と考える方が実情に合っているような気がします。誰でも多少なりともアスぺ的で,また定型的でもあるのでしょう。


 ということを一応前提にしたうえで,もちろんいわゆる「自閉度」の重さの違いで,現実に可能なコミュニケーションスタイルに違いが出てくることはたぶん間違いないだろうと思います。そして二人の自閉度の違いがどれほど大きいかということで,定型アスぺ問題の大変さとかその具体的な内容にも違いが出るだろうと思います。コアラさんが次のように書かれるのも,そういう問題のような気がします。

 「同じく未診断の家族や、診断不明の彼氏は私よりずっと「生きづらさ」が強いと思われ アスペの話題に触れる事すら許されないようなオーラが出ています。なのでもしかしたら彼らは「歩み寄り」など不可能なくらい、生きるのに必死ではなかろうか?と。そしたら彼らの本心は、わかりようもない訳で。」

 ここは最近私が定型アスぺ問題のむつかしさや深さを改めて感じさせられているポイントの一つでもありました。

 この場で定型アスぺ間で,ようやくある程度お互いに理解が重なってきて,ときに共感的なやりとりも可能になってきていますが,でもそれが可能なのは,やっぱりその定型アスぺの離れ方の度合いが,それでもまだ近いところで成り立っているのかもしれません。いわゆる「浅瀬」の方との間では,なんとか通じ合える部分も出てきている。でもさらにお互いの距離が遠いと,ここで成り立ち始めたことが通じるかといえば,そこはまたもっとむつかしい問題があるのだろうと思います。

 私にとっては私とパートナーの間の定型アスぺ問題はものすごく重たいものですし,定型同士の夫婦関係で生まれる困難は,それに比べればずいぶん楽なのではないかと正直思えたりしますが,でもみなさんの経験を拝見していると,そういう自分の大変さもまたある意味でまだ「軽い」のかもしれないと,そんなことを思ったりもします。

 だから私が私の抱えている問題で考えたことや,そこで行っている手探りの工夫が,一体他の方にどれほど意味があるのかについては,ほんとになんとも言えません。実際にお役に立つ部分もあるでしょうし,お役に立たないことがあっても,それも当然のように思えます。

 「このカップルの場合は,こういうことが言えて,こういう工夫は役に立つし,こういう工夫は意味がなかった」ということは言えても,それが他のカップルに通用するとは限らないのが当然で,それでもいろんな可能性を少しずつ積み上げていくことで,その中からお互いに役に立つものを見つけられる可能性も増えていく,そんな感じかもしれないですね。

 そんな多様性を持ちながら,でもやっぱり「定型アスぺ問題」と言える問題はあると思うし,そしてそういう問題に悩む以上,定型でもアスぺでも,あるいは時に応じてその両方の立場からの悩みを抱えようと,みんな「定型アスぺ問題の当事者」なんだろうと思います。

 

2015年4月 5日 (日)

自己の成長と工夫

 みなさんの掲示板の記事やここのコメントで考えさせられることがほんとに多いわけですが,あすなろさんとにわとりさんの今のやりとりもまた,私にとっては定型アスぺ問題の自分の見方を根っこに近いところで広げたり深めたりし直さなければならないと感じさせられるものです。

 あまりに重要なことがたくさんやりとりされているように思うので,とてもそのすべてについて何かを書くことはできませんけれど,あすなろさんも大事に考えられたことで,アスペのにわとりさんが書かれた次の言葉にも,本当に大事なことがたくさん詰まっていると思いました。そして私にとってこの問題についての自分の見方の狭さや浅さを改めて実感させられるものでした。

「ちなみに私が気づけるようになったのは25歳を過ぎてからです。仕事が上手くいかない時に当時の職場の人から発達障害扱いをされ、それをきっかけに就労支援センターに相談したら、当時の支援者から発達障害に関する知識を頂きました。それによってやっと「自分以外の世界が存在する」ことに気づきました。」

 定型だって結局自分の感覚でしかものを理解していないわけですし,だからこそ,定型的な見方とは違う,アスぺ的な感覚やそこから見える世界というのがぴんと来ず,定型的な理解をアスぺの方にも押し付けて,アスぺの方を一方的に否定するようなことが繰り返されるわけで,その意味では「自分以外の世界が存在することに気づけない」のはだれでもそうなのでしょう。

 25歳以前のにわとりさんだって,たとえばお店に行ってお買い物をするとき,そこに店員さんがいることは分ったでしょうし,言葉をやりとりしてお買い物ができることは理解できたでしょうし,自分には店員さんの耳が見えるけど,その店員さんは自分の耳を直接は見えない,ということも理解できたでしょうし,逆に自分の顔に汚れたついていたときに,自分はそれを見えないけれど,店員さんは気づくことがある,ということをわかっていたでしょうし,自分が店を出て家に帰ったら,その店員さんが消えてしまうとも思わなかったでしょうし,そういう意味では「自分以外の世界」があるということはきっと理解されていたんだと思います。

 その意味ではにわとりさんがそこで気が付いたことは,ちょっと回りくどい言い方ですが,「自分の世界の理解の仕方とは違う理解の仕方で作られている世界が存在する」ということだったのではないかと想像します。もうちょっと短く言うと「自分とは違う見え方の世界がある」という感じでしょうか。

 定型は定型的な世界の見え方をかなり共有していますし(もちろん個人や文化によるズレも大きいですが),そういう見え方によって定型社会を作っています。だからそういう定型的な見え方をしにくいアスぺの方も,定型社会の中で生きようとすれば,どうしてもその定型的な見え方をなんとか部分的にでも身に着けないといけない。そういう状況に追い込まれたときに,「自分以外の世界が存在する」と考えざるを得なくなるような気がします。

 定型の側だって,多くの場合,定型アスぺ問題に悩まされて悩みぬいて,ほんとにぎりぎりのところまで追い込まれて初めて「定型以外の世界の見え方がある」ということを考えざるを得なくなるので,そこを最初からあっさりと「違い」に気づき,上手に付き合えるひとはまず珍しいと思います。結局今自分が生きている生き方を人は誰でも守りたいでしょうから,その生き方を支えている「世界の見え方」をゆるがせるようなことは誰も好んではしたくないわけです。大変ですし,危なくもありますから。

 だから,多少の摩擦があったとしても,自分の見え方を貫ける条件がある場合には,人は自分の見え方を守ろうとするでしょうね。そこは定型もアスぺも関係なく,だれでも基本的にはそうでしょう。自分の見え方を崩すということは,場合によって自分を失うことにもつながりかねません。

 と,ここまで書いてきて,コメント欄でのコアラさんとKatzさんのやりとりが思い浮かんできました。コアラさんが定型にあわせることは自分を失うことにつながりそうで抵抗感があるとされることについて,Katzさんがそこは考え方一つで,髪形を変えたり,歯並びを矯正したり,自分を魅力的に見せる工夫と考えてはどうかとコメントされ,コアラさんが「「変えてしまう」→「魅力的にする工夫」に捉え方を変えれば良いのですね!」と応じられた後,さらにこんなふうに書かれています

「「ありのままの自分を、定型が望むような風に変える」というと抵抗があり「チャンスに合わせて確実に動けるよう準備を整えておく」というと受け入れられるという。。。(笑) この「あまのじゃく的思考」に自分でも疲れます(^^;)(これは決して歩み寄りの意思がない訳ではありません)こんな感じで、自分が納得のいくような「考え方」や「捉え方」次第で、これまで受け入れ難いと思っていた事にもトライできるかもしれない!と思いました。」


 お互い,自分というものを全くなくして,さらにして書き換えることはもともと不可能なわけで,今の自分をベースに,少しずつそれを柔軟にしたり,キャパシティーを増やしたり,見方を広くしたりということは可能だし,それが人間の「成長」ということなのだとは思いますが,やはり自分をリセットしてのやり直しができるわけではない。

 だから,そういう「成長」と同時に,「今の自分にとってもあまり無理がなく,抵抗感なく受け入れられるような形で「考え方」や「捉え方」をさぐることで,とりあえずの折り合いをつけていく,という「工夫」が大事になってくるのでしょう。

 つまりこんなことでしょうか。

 「お互いい自分とは違う世界に生きていることに気づく」 ⇒ 「自分の見方を柔軟にし,相手の見方も理解し,調整する努力をする」 ⇒ (でもそれには限界。自分を失うことにもなりうる) ⇒ 「自分を否定することにもなりかねない調整の仕方について,自分の気持ちにもあまり無理ない理屈(?意味?理解?)を見つけ,工夫していく」……???

 なんかまだうまく整理できず,大事な問題がぼろぼろ零れ落ちているようにも思えますが,考えていくひとつのステップとして書いてみました。

 

 


 

 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月 2日 (木)

共感可能性の拡がり

 このところ,何度か,パートナーがこのブログに書いていることが彼女には理解できない,と言われていることを書きました。

 ところが昨日,久しぶりに彼女がブログを見てくれたらしく,そしたら「今までどうして見えなかったんだろう」と何度も不思議に思い,驚くほどに,改めて見ると分ると言ってくれました。記事「搾取と接待」なんか,気持ちにしみこんでくる,といった表現をしてくれました。

 私個人は彼女との関係をなんとかしたくて,このブログでいろいろ考え続けてきたのですから,そこで少しずつでもアスぺの方と話が通じ合う部分が増えてきたり,「共感」とも言えそうなことが起こったりしてくる中で,私にとっては出発点でもあり,目的でもある彼女の理解が全く得られない,という状況はとてもつらいものだったので,ほんとに報われた気持ちになりました。

 なんで彼女の見方がそんなに変わったのか,ということなのですが,彼女は彼女で私との関係ですごく傷ついてきたので,知らないうちに理解することを拒否していたんじゃないか,というのが彼女の意見でした。それが,昨日ちょっとシビアなやりとりがあって,そこで彼女がこれまで言葉になりにくかった思いを言葉にしてストレートにぶつけてきたんです。

 そのこと自体は私にはかなり傷つくきついことでしたけれど,でも彼女の中でそのことを通して,自分の気持ちが整理できる部分があったらしく,拒絶せずにブログを読めたということがあったようです。

 そういう説明は私にもわかりやすいものでした。

 そのことからもまた思ったのですが,直接向き合った関係よりも,ネット上でのやりとりの方が,やり方次第では定型アスぺの間に関係が取りやすく,理解しあいやすい,ということがやっぱりあるんじゃないでしょうか。

 なぜそういうことが起こるかというと,前もちょっと書いたような気がしますが,それぞれに自分のペースでやりとりできることがひとつはありますし,さらにもっと大事なこととして,直接ぶつかり合ってはいない間柄でやりとりできるので,感情的にならず,距離を置いて相手のことを見たり感じたり理解したりできやすいのではないかと思うのです。

 リアルな世界では,ほんとに日々の生活を共にする中で,常にシビアなズレを抱え込みながら生活しなければなりませんし,望まないのに傷つくこともお互いに少なくない。どうしたって「冷静」にはなりにくい状況を生きているわけです。

 でも,逆に言えば,リアルな世界であっても,今回のパートナーのように,何かをひとつ乗り越え,自分の中のわだかまりがほどけたりすると,それまで共有できなかったことを,共有できるようにもなるように思えます。

 なんにしても,ブログで何人かのアスぺの方と割合大事なところで共有できるものが少しずつ積み重なってきたにもかかわらず,パートナーとそこがむつかしかったことで,自分の理解の仕方は根本的なところでものすごく欠陥があるのではないかと悩んでいたのですが,その点でちょっと明かりが見えてきた気分です。前よりは少し自信をもって,「定型アスぺ間の共有」の可能性を模索できるかもしれません。


 

 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

2015年4月 1日 (水)

エイプリルフール

 今日はエイプリルフールですね。

 もう四月,早いものです。
 
 ところで,この記事にもしっかり嘘が仕込んであります。
 お気づきの方はありましたでしょうか (笑)


 

 
 
 



楽天ブックスは品揃え200万点以上!  

« 2015年3月 | トップページ | 2015年5月 »

最近のトラックバック

無料ブログはココログ