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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年3月 6日 (金)

自立イメージのズレ

Katzさんのコメントにまたすごく考えさせられています。

 特に印象に残った言葉を挙げさせていただくと,まず

「社会に溶け込めない者にとって内面の苦しさや違和感の原因は、自己肯定できない所にその大部分があると私は考えます。だからまずはその解消が第一。そして自分に自信が持てるようになったら、その先は自分で考えるだろう…と思うのですね。」

 これって,人が生きていくことにとってすごい大きなポイントと私も感じるんです。で,Katzさんがこういう考えを持たれているということは,そのポイントの大事さは定型だろうがアスぺだろうが,関係ないということになります。

 私の場合,とにかくアスぺの方は定型とは違うし,定型の常識を前提に考えてはいけない,というところをすごく大事と思っていたので,たとえば定型は人との気持ちのつながりの中で自分を支えようとするのに対して,アスぺの方はあくまで「自分」に限定して,他者の関わりはかえって迷惑になるのかもしれない,とも考えていました。「病気の時は一人でいたい」ということなど,その典型的な例とも思えます。

 で,そこから一歩進んで,定型は人とのかかわりの中で「他者からどう評価されるか」で自分を作る傾向が強いのに対して,アスぺの方はもともとが自分の世界で自分を作り,他者を最初から切り離されるのかもしれない,という可能性まで考えていました。

 けれどもKatzさんのこの説明を見ると,そうではなくて,アスぺの方も他者からの評価に苦しまれていること,そこで「自分」のことを悩まれているのだということがとてもよく分ります。「自信」「自己肯定」ということが,社会の中でうまくやっていけることとつながっていて,そのことがアスぺの方にとってもその「内面の苦しさや違和感」を生み出すもとになっている,というお話ですから。

 ようするに「お互いに認め合うこと」ができるかどうかでしょうか。それが成り立たないことに苦しまれている。そこは定型もアスぺも共通なんです。きっと。だとすれば問題はどうして認め合いにくいのか,でしょう。

ものすご~く失礼を承知で尊大な言い方をすれば、苦しさを除く作業に先生の力が必要だと思われるのは巨大なお世話!ではないかと。苦しさを除く為に必要な下地だけ整えてもらったら、除く作業そのものは自分自身でやらなければならないのです。」

 ここはすごく「自立」した生き方とも感じられるし,ある種「男らしい」覚悟を持った生き方みたいなイメージを持たれる方もあるかもしれません。もしかすればそういうメリハリの効いた断固とした生き方が魅力となって,そこに惹かれる異性もあるんじゃないでしょうか。

 そしてたぶん,そこに隠れた微妙なズレが,その後の定型アスぺ問題の根っこにあるような気もします。そこを言葉にするにはもう少し私の中で整理していかないといけないものがありそうですが,直観的にそう思います。

 あえてすこし言葉で探るとすれば,「自立」のありかた,「自立した後の生き方」に,何か重大なズレが生まれてきて,そこに定型パートナーが苦しむ例が多いような気がします。大事な自立をアスぺ的な形で達成するときに,アスぺの方はそれである程度の安定が得られるわけでしょうが,定型的な感覚では別の大事なものが失われてしまい,相手に自分が求めるものが得られない状態になるのではないでしょうか。

 定型の側は「アスぺ的な自立」が「切り捨て」につながってしまうような感覚を持つのかもしれません。そこの調整がとてもむつかしい。Katzさんの書かれる処方箋は,なるほどアスぺ的にはそういう感じにもなりうるんだろうなと,私なりにわかる感じはするのですけれど,それだけで定型アスぺ問題がうまく調整できるかというと,そこはまだ私には見えてきません。やはりアスぺ的な処方箋という色合いが強く感じられます。

 自立とプライドの問題については,にわとりさんが次のように書かれることも,Katzさんのお話と私の中では響き合うものがあります。

「 支援者は「何もできないんだから支援してもらわないといけないでしょ」との考えなんですが、上から目線で押しつけないでほしいというのはあります。」「軽度知的障害者や私のような発達障害だと定型者と同じプライドはありますから」

 にわとりさんが繰り返し書いていらっしゃることから想像すると,にわとりさんとKatzさんは,社会の中での活躍のされ方,ということでいえば,もしかすると対照的な位置にいらっしゃるのかもしれません。誤解でしたら申し訳ありませんが,Katzさんはいろいろなご苦労を伴いつつも,社会的にはエリートの位置をキープされているような印象がありますし,にわとりさんは「基本的な生活をどう成り立たせるのか」というところで苦労されているようにお見受けするからです。

 けれどもその対照的な位置にいらっしゃるようにも見えるお二人とも,「自分の力で生きる」ことを大事にされているその気持ちは一緒ですし,それを妨げかねない他者からの働きかけは迷惑なわけですよね。

 自分が自分らしく生きたいという気持ちは,定型もアスぺも変わりがないでしょう。そして自分が自分らしく生きるには,人から自分を適切に認めてもらえることが必要になる,というところもたぶん同じ。そこがうまくいかなくなると,悩みも深くなり,場合によってうつ状態にもなるのも定型アスぺ共に言えることなのでしょう。

 そう考えると,アスぺの方が人とのかかわりを「拒絶」しているかのように見えることがあるのは,「そもそも人を嫌っている」からではなく,自分にとって適切な関わりかたが実現できないので,関わりを「避ける」ようになったのだ,と理解できる部分がかなりあるのではないか,そんな気がします。

 昨日,たまたまyagasuriさんのブログを久しぶりに拝見したら,まさにそんなことを書いていらして,とても心に残りました。


 ですから人とのかかわりの中で自己肯定感や自信を獲得し,それが失われたり脅かされることで悩み,自分らしく自立して生きることを求める,というところでは,定型アスぺ間でそんなに大きな違いはないのかもしれません。ただ,自分らしさや自立のイメージが,何かずれるのではないでしょうか。そこで生じる悲劇はかなり多く,また大きいのではないかという気がします。これもまたじっくり考えていくべきポイントのような気がしました。

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コメント

この記事、思わず「うんうん」と頷きながら読んでしまいました!

私の言葉で言い換えますと「アスペの人がアスペ的な自立を果たしてしまうと、多数派(定型)には理解し難い事態が発生する」と感じます

私の場合…アスペというと、まず父の存在が念頭にあるので…父が『自分の道を貫いた』結果、周囲の精神的ダメージは深刻なものでした
家族が不幸になることは、父にとっても決して嬉しいものじゃなかったのに『父が自我を貫くだけで、父が意図せずに、家族が人格障害になるほどに精神的に追い込まれる』というのは、実感としてあるのです

もちろん、にわとりさんが多数派に受けた仕打ちは、とても胸が痛むもので……にわとりさんには、なるべく早い段階で傷が癒えて欲しいと、願うばかりですが……
だからといってアスペの人、全員に向けて「あなたたちは自信を持っていいんだよ!」とは言えません

それは『当たり前に自分を尊重する』のと同じくらい『当たり前に相手のことも尊重して欲しい』と思うからです

父に対しては「おいおい!あんたは何事も断言する前に、まずはちょっと立ち止まって、相手の気持ちを考えなよ!」と言いたくなります……

なんか難しいですね
定型が当たり前に振る舞えば、アスペが生きづらい
アスペがアスペ全開に振る舞えば、定型が生きづらい……


 一連のお話を読んで、率直に感じたことを少し書きます。脱線しながら(あるいは脱線しっぱなし)になるかもしれませんが……。

 私がこれまで生きてきた経験では、自己分析すると『自分は自立したつもりになっているだけ』ということをうすうす感じているんです。私がアスペ父を持つ娘さんのいう「アスペ全開」にならないのは、この「つもり」の自覚がブレーキになっているからです。私が私らしくいられる(多少なりとも自己肯定感がある)のは、周囲の人が大概のことに目をつぶってくれているからだ、という自覚です。

 あるいは、私が少し他の人より得意な部分を持っていて、それを周囲の人に「こいつのこの能力は私たちにも役立つから、多少のヘンなところには目をつぶって放っておいてやろう」という感じで、認めてくれているという自覚がある、と言ってもいいかもしれません。この辺はKatzさんのお話につながりますね。おかしなところは放っておいてもらいつつ、「ここは生かせるよ」という道を示してもらえた、という幸運なケースだと思います。

 一方で、ではなぜそれが「自立したつもり」であり、自分の自立が周囲の一定の配慮のもとに成立している、と自覚したのか、と言えば、やはりそれは「得意なことを認めてもらった」経験と同じくらい、「自分が少し変だから周囲に受け入れられなかった」経験もしているからですね。私の場合、小学校時代に後者をたくさん経験し、中学と高校では前者を経験させてもらいました。それをもとに、大学でようやくそれらを客観視し(大学では両方の経験をしましたが、それもかえってよかったのかもしれません)、「ああ、自分は周囲と比べて何か変な感じだけど、周囲に生かしてもらえれば何とかなるのか」という一応の落としどころに到達した、というような。後ろ向きな表現をすれば、何となく他人と距離を取りながらそれなりにやっていけば、寿命が来るまで何とか逃げ切れるのかな、みたいな感覚もありました。

 実際は私の場合、その後結婚を機にまた感覚がガラッと変わるのですが、そこはまだ整理がつかないので今度にしたいと思います。

アスペ父を持つ娘さん、AS-Pさん

書いてくださってありがとうございます!

AS-Pさんのおっしゃっていることは,私も常々感じてきたことで,それをものすごくわかりやすい表現で書いてくださってありがたいです!
(私の感覚では,放っといてくれるの中にフォローするも含まれます。)

⑴ アスペルガーの夫のパートナーという、AS-Pさんとは裏側の立場からも納得しました。
⑵ 私も,誰しも持っている凸凹を抱えながら生きている一人として,人との関係をこんな風にしていけたら(いい意味で)楽だろう こんな風に生きて生きたいものだ と思っていた観点からも納得しました。

⑵の観点からすると,アスペも定型もないですよね。
支援者にも,支援される側にも言えることですよね。

(伝わりにくい書き方してるかもしれませんが,書かせてもらいました)

アスぺ父を持つ娘さん

>なんか難しいですね 定型が当たり前に振る舞えば、アスペが生きづらい アスペがアスペ全開に振る舞えば、定型が生きづらい……

 そうですね。そこですよね。
 そんなふうに「当たり前」が食い違うときに,
 一体どんなふうに関係をつなぐことができるのか。
 誰にとってもすごい大きなテーマだと思います。
 定型アスぺ問題の枠も超えるような大きな問題ですよね。

>AS-Pさん

 拝見して,「あれ?もしかして私もアスぺ?」と思うくらい,
 「自分のこととしてもよく分る」ところがありました。

 Katzさんとはまたちょっと視点が違うような気がしますけれど,
 お二人の洞察って,定型にもそれぞれに通用する所が多いんですね。
 いい意味でほんとに驚きです。

ココチさん

> ⑵の観点からすると,アスペも定型もないですよね。

 まさに。
 ここにも「アスぺも定型も似たようなもの」がありましたね。

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