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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年3月 7日 (土)

目的の共有

 

掲示板であすなろさんが書かれた「目的だけは共有して,あとは本人のやり方に任せるしかない」という言葉が,なんだかすごく頭に響いてきてしまいました(体全体に響くにはもう少し時間がかかるかもしれませんが)。

 いろいろなことの感じ方がほんとに違って,なかなか折り合いが付きにくい。それへの対処の仕方も当然のように異なって,一緒に調整してというやりかたもとてもむつかしい。そういうシビアな現実を前提にして,何が可能なのかと考えた時に,この言葉はなんだか大きな手掛かりを与えてくれそうな,そんな気もするんです。

 このところ,ある面では定型もアスぺも似たようなものではないか,ということについて印象を深め,そのことを少し書いてきました。たとえばKatzさんとのやり取りの中で考えた,「自分らしく自立して生きることの大事さ」みたいな言葉で表せば,定型アスぺともにそんなに違いはない。そして,そこに「他者に認められること」が大きく関わってくる点も似ている。ただ,その「自立」の具体的な中身にはおそらくズレがあると思いますけれど(「自立のイメージのズレ」)。

 AS-Pさんからの問題提起にあった「変化が不安を引き起こすのは定型もアスぺも同じ」で,ただ長期的な安定についての変化(定型)か,目の前の問題についての変化が問題か(アスぺ),そこが異なるという見方に,さらに定型も状況次第では目の前の問題が重大になって,アスぺの方と似たようなことにもなりうる,ということも考えてみました(「アスぺも定型も似たようなもの」)。……今またAS-Pさんの最新コメントを拝見しましたが,なんでこんなにわかりやすく,心に響いてくるんでしょう。ほんとに「そういうことならよく分る」感じが生まれてしまうんです。そして私の勝手な感じですけれど,「大事なことが伝わりあっている」感覚も。……

 どう対応していいのか,訳の分らない事態に追い込まれたとき,「気持ちで動く」のではなくて,気持ちを抑えて「頭で考え,頭で動く」ことをせざるをえなくなる,ということも定型アスぺともにたぶん同じでしょう,ということも考えてみました(「頭で考える 気持ちで動く」)。

 ものすごく違う定型とアスぺですが,「こういうことが生きる上で大事だよね」ということについて,定型の私の想像力でもある程度は及ぶ範囲で,意外に共有されている部分が多そうだし,また広そうだと感じられてきているわけです。

 そこが「目的だけは共有」という話につながりそうな感じがするんですね。「目的だけは共有」という言い方は,「やり方はそれぞれで,一緒にはできない」ということを含んでいるわけですけれど,でも裏返して言えば「目的は共有可能」ということになる。で,その可能性がなんとなくありそうな気がしてきているのだと思います。

 定型としてアスぺの父から激しく苦しめられてきたアスぺ父を持つ娘さんと,アスぺとして周囲の定型に激しく苦しめられてきたにわとりさんという,立場的には激しく対立してもおかしくないようなお二人の間に,真摯なやりとりが成り立っている,という,ものすごい(と私には思える)ことが実際に起きているのも,そんな「目的の共有」に関わることだと感じます。

 他方でこの「目的の共有」のためには,少なくとも定型の側は手放してあきらめざるをえなくなることもありそうです。それは「一緒にやる」という「一体感」につながるような定型的感覚です。これもそこで問題になる一体感はあくまで「定型的な一体感」で,アスぺの方はアスぺの方でまた少し違った「アスぺ的一体感」を持たれることもあるような気もしますけれど,少なくとも「定型的な一体感」についてはあきらめざるを得ないのでしょう。

 もし仮にそうなのだとすれば,そこをあきらめることでもっと大きなものが得られれば,それで幸福感が増すのでしょうし,そこが無理だと,「目的を共有する」意味自体もなくなるのかもしれません。そこは誰にとっても同じ正解がある,ということではないのかもしれません。それぞれの方が抱えた現実の中で決まっていくことかも。

 いずれにせよ,定型アスぺが一緒に生きていくうえでは,この「目的だけは共有して,あとは本人のやり方に任せる」という言葉が,何か大きなキーワードのひとつになりそうな,そんな気がしたのでした。

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コメント

いつもいつも上から偉そうな事を書いてばかりで申し訳ありません。

なるほどそういう事か、と私の中で腑に落ちる所も色々あり、私ももっと考えてみます。
で、ちょっと気になった点を2〜3、書かせてください。「私もそう思う」を排して、相違点だけ端的に書いてしまいますので、ちょっとキツい内容になってしまうかも知れませんが、他意はありませんので…。

> ただ,その「自立」の具体的な中身にはおそらくズレがあると思いますけれど

アスペが定型社会で生きていく為のテクニックというのが、そのズレによって引き起こされる悲劇を食い止める事になるのかな、と思ってます。

> そこが「目的だけは共有」という話につながりそうな感じがするんですね。「目的だけは共有」という言い方は,「やり方はそれぞれで,一緒にはできない」ということを含んでいるわけですけれど,

自分らしく生きるとか、相手を尊重するとか、個性を大事にするとか、そういうのの具体的方法論として「目的だけ共有」が挙げられるのではないかと。というか、私には他のやり方を思い付けませんでした…。
だから
>  他方でこの「目的の共有」のためには,少なくとも定型の側は手放してあきらめざるをえなくなることもありそうです。それは「一緒にやる」という「一体感」につながるような定型的感覚です。
とつながってくると、ん?という気がちょっとします。

何気なく感じたことですが、取り上げていただいて、ありがとうございます。

Katzさんのおっしゃることと同じく、やり方はそれぞれというのは、特に何かを諦めるわけでも、我慢するわけでもないと、私はおもいます。
掲示板に書かせていただいたエピソードに、にわとりさんからお返事いただいて、あれ?私は息子に、わたしの考えた事細かなやり方を、何も考えずに言ったとおりにやればいいじゃないかと、傲慢な押し付けをしていたなと反省したんです。
これをやりましょうとなったとき、定型は、(私が特にお節介なんでしょうが)その方法まで決めつけていることがよくあります。そこで相手、特にアスペの家族が予想外の行動をすると、戸惑い、苛立つことが儘あります。
落ち着いてよく考えれば、わたしの想像以外のやり方でも十分結果は得られるし、意外な結果を生むこともあります。
もちろんその逆も。
ここでそうなったとき、相手にも同じように責任があり、それぞれで反省すればいいのですが、そこまでも共有しなくてはいけないような強迫観念に陥ることもあります。
本当は何を目指すのか。何を結果とするのか。その視点を極々シンプルにする作業の過程で、定型的には諦めとか、我慢が必要になるのでしょうが、実は慣れてくれば、意外に簡単なことじゃないかと思うのです。

AS-Pさん、Katzさんのコメントを拝見し、あすなろさんの「目的だけは共有して、あとは本人のやり方に任せるしかない」という言葉の『関わり方』を想像したところ……確かにそれならうちの家族は悲劇を生まなかったな……と、思います

そもそも、父は自分がアスペという自覚がないので、自覚がないアスペの感覚で、家族と接してきます
そして、アスペの感覚の自分のやり方や価値観を家族に『共感することを強要』し、巻き込んできます

例えば、父が子供に何度も言い聞かせた「世界で一番、大事なものは自分」という話……定型の感覚だと『何をもって世界で一番、自分が大事なのか』が、わかりません
本当に理解に悩みます
意味不明です

しかし、父は自分がアスペだとの自覚がないので、それで通じると思っている
父からすれば『それ以上それ以下の言葉はない』という感覚なんでしょう
『自分の言葉の表現は、的を得ている』と信じて疑ってない

そして、いつも「世界で一番、大事なものは何だ?」という質問で始まるのに、こちらが「自分」以外の返答であれば、キレる!!
これが一番、家族が病んだ原因です

「自分」以外の返答では『到底容認できない』のであれば、何故質問をするのか?意味がわかりません

しかし、父は何度も繰り返し「世界で一番、大事なものは何だ?」と質問をします
もう何年もかけて同じ質問をされれば、こちらは『何と答えれば良いか』が、わかっています
こちらにすれば『わかりきったパターン』なのに、父だけは「いいか?一番だぞ!?いっちばんっっ大事なものを言うんだぞ!」と……まるで初めて質問するかのように、答えを期待して嬉しそうなんです……(汗)

それだけでも疲弊します
『強要されている』という感覚だけでもストレスなのに、何年にもかけて繰り返されるというのは、こちらの頭が混乱し精神が崩壊します
姉がいい例です

「目的だけは共有して、あとは本人のやり方に任せる」というのは、理解はできますが、父のような『周りを巻き込むタイプ』だと、まずはアスペという自覚が持てないことには、そのスタート地点には立てないんじゃないか?……と感じました

それとも、うちの父はアスペじゃなく宇宙人なのか?(笑)
……と、本気で考えてしまいそうです(笑)


Katzさん

>ちょっとキツい内容になってしまうかも知れませんが、

 わ,どんな厳しい批判が待っているのだろう?とちょっと緊張して読みましたけど
 優しい文章で大丈夫でした……って,私が鈍感なだけ? (笑)
 「理解しあうための」真剣な批判は絶対に必要だと私は思っているので,
 これからもどうぞよろしくお願いします。
 というか,こんなふうにアスぺの方とちゃんとやりとりできるというのは
 ほんとにありがたいことだと思います。

>> ただ,その「自立」の具体的な中身にはおそらくズレがあると思いますけれど

>アスペが定型社会で生きていく為のテクニックというのが、そのズレによって
>引き起こされる悲劇を食い止める事になるのかな、と思ってます。

 現状の力関係では,「アスぺが定型社会で生きていくためのテクニック」と
 書かれているように,どうしてもアスぺの方が定型社会に合わせるテクニックを
 学ばされる,という形になりやすいですけれど,
 少しでも「お互いに学び合う」形ができないのかなと思います。
 もちろん言うは易し,西川きよし ですけど。

>> そこが「目的だけは共有」という話につながりそうな感じがするんですね。
>>「目的だけは共有」という言い方は,「やり方はそれぞれで,一緒にはでき
>>ない」ということを含んでいるわけですけれど,

>自分らしく生きるとか、相手を尊重するとか、個性を大事にするとか、そういう
>のの具体的方法論として「目的だけ共有」が挙げられるのではないかと。とい
>うか、私には他のやり方を思い付けませんでした…。
>だから

>>  他方でこの「目的の共有」のためには,少なくとも定型の側は手放してあ
>>きらめざるをえなくなることもありそうです。それは「一緒にやる」という「一体
>>感」につながるような定型的感覚です。

>とつながってくると、ん?という気がちょっとします。

 まだKatzさんの言おうとされていることがうまく理解できていない気がしますが,
 定型は「目的の共有」だけではなくて,「一緒にやっているという感覚」に
 結構大きな価値を感じていて,場合によってはその感覚を得ること自体が
 「目的」にもなるんだと思います。
 で,そこを諦めるということはある意味でアスぺ的な自立のやり方に合わせた結果
 と言える部分がありそうな気がします。
 ここについてはあすなろさんの別のご意見もありますし,
 いろいろ考える余地がありそうですが。


あすなろさん

>定型的には諦めとか、我慢が必要になるのでしょうが、実は慣れてくれば、意外に簡単なことじゃないかと思うのです。

 ここ,「修行」でしょうか……
 早く私もその境地に達して楽になりたい気もします。
 なんか,煩悩が多すぎるのかも…… (^ ^;)ゞ


アスぺ父を持つ娘さん

 なんか,娘さんの説明を読んでいると,不思議なことに(?)
 自分とお父さんが重なって見える部分があって,ちょっとびっくりです。
 私もいいかげん我が強くて,「我が道を行く」タイプなので,
 そんなふうに周囲に迷惑をかけているんだろうなと思っちゃうんですね……
 それは「アスぺ」の問題なのか,「男」の問題なのか,「性格」の問題なのか,
 なんか,いろんな要素が入り混じっていそうです。
 
>父のような『周りを巻き込むタイプ』だと、まずはアスペという自覚が
>持てないことには、そのスタート地点には立てないんじゃないか?
>……と感じました

 やっぱりここに行きつきますね。
 結局「対等」な関係にならないと,「弱者」が虐げられておしまいになる。
 アスぺも定型も,どちらも「弱者」の立場に置かれる可能性はあって,
 どちらの側にも悲劇が起こる。

 「対等」になったからといって,それで問題が解決してしまうわけではないけれど,
 ようやく「出発点」には立てるのだろうと思います。
 
 じゃあどうやってその出発点に立てるのか。
 そこがとてもむつかしい……

パンダさん

私はパンダさんの印象がジェントルマンなんで…(笑)
父と重なるなんて、驚いてしまいました!(>_<)

ただ、今気付いたことですが…私を含めた定型だって『他の言葉では到底容認できないのに質問すること』あるなぁ〜と……

例えば、彼氏に聞く「私のこと好き?」っていう質問だって「好き」以外の言葉では『到底容認できない』のに聞くわけですよ(笑)

それを「好きじゃない」とか「いや…」とか、曖昧な態度を取られると不安になって、ぶっ飛ばしたくもなる…(ぶっ飛ばすのは私だけ?笑)

アスペの人も『気持ちの確認』だったり、または『関係の確認』としての目的があって「それ以外の言葉では到底容認できない質問」をするのであれば、そのコミュニケーションはアスペ的でもないのかな?と思ってしまいました


いつも遅ればせながら、お邪魔いたします。

夫は定年退職後ジム通いと犬の散歩を日課とし、時々掃除洗濯の生活で、私はまだフルタイムで働き、帰宅途中に買い物し急いで家事をします。

年金はまだ満額は出ていないので私の扶養家族になっていて、夫は性格的?に貯蓄できていないので(家計は別にしています)、ですから現在は私が実質世帯主ということになります。

情けないことにここまできてやっと、対等という立場に立てたよう感じています。

ここまで遅れた一番の理由は、私自身がいつでも逃げ出すつもりでいたからだと思います。
夫が怖いという感覚はなかったのですが、話し合いにはならず、罵り合い(笑)で終わることに疲れ、「なるようになれ」 というヤケクソぎみでしたが・・・いつでも出て行ってやるわい・・・みたいな^^;

どうもそのヤケクソが功をなした感があり、言いたいことを言う習慣が私についた、とも申しましょうか・・・^^;
その間にも人格についての本とかは読み漁っていて、自分を研究し?(笑) 続けてはいましたが・・・終わりの見えない状態で・・・

前も書きましたがそこへ息子の問題、30も過ぎた息子に対峙するには私一人では無理で、頼りない(-_-;)夫でも心強くはありました。当然夫は逃げの体制でしたが、私が強制的ともいえるほど巻き込んでいきました。

この出来事で私が離婚はしない、と覚悟が出来上がり夫が何を言おうが家族にとっては、今の状態が一番良い、とブレがなくなり、私自身も安定したようです。

相変わらず夫は勝手な事言いたい放題でありますが、こちらが言葉を呑み込む必要はないはず、とばかりにこちらも遠慮することなく返します。
嫌な気持ちになれば、嫌な気持ちにするような言葉をその時に返す、時間がたったら自覚できないようで、その場で短い言葉で返す。

自分が嫌な性格になりそうで、意地悪になりたくなくて、最初は言い返せませんでしたが、「良い人振りたい」 という自分の人格にも問題がある、と気が付いて、それからはもうガンガンにああ言えばこう言う状態で、めざすは夫婦漫才・・・(笑)

家族のためとばかりに今も奮闘中ですよ(笑)

これができるのは、あくまで私が世帯主だからであって、経済を担っている相手に小さい子供を守りながらはキツイだろうな・・・
でも、案外その時ストレートに言い返したら、あちらも予想以外の反応に固まるのかもしれません、しばらくして怒り出すでしょうが、どうせ何もなくても怒る人でしょうから、試してみてもいいかもです・・・汗  
取り合えずこちらの気持ちを伝えることにもなりますしね。

すみません我が家の場合だけを書いてみました。


アスぺ父を持つ娘さん

 じぇ,じぇんとるまん…… (^ ^;)ゞ
 じぇじぇじぇ~

 銭もないのに銭とるマンとか… 反応に困っております (笑)

> (ぶっ飛ばすのは私だけ?笑)

 おそらくそうではないかと (笑)


yasuさん

>、「良い人振りたい」 という自分の人格にも問題がある、と気が付いて、それからはもうガンガンにああ言えばこう言う状態で、めざすは夫婦漫才・・・(笑)

 この「よい人ぶりたい」というのは,かなり根深い問題ですね。事実は単に自分がそうでないことを自覚すればいいだけのはずなのに,なかなかそこがうまくいかない。yasuさんはどうやって踏ん切りをつけられたのでしょうね。

>これができるのは、あくまで私が世帯主だからであって、経済を担っている相手に小さい子供を守りながらはキツイだろうな・・・

 これは「定型アスぺ問題の自覚の有無」ということと共に,ほんとに大きなポイントのひとつなのでしょうね。定型アスぺ関係は経済も含む「力関係」によって,どんなふうに展開するかが全然変わってきてしまうと思えます。

パンダ様

>この「よい人ぶりたい」というのは,かなり根深い問題ですね。事実は単に自分がそうでないことを自覚すればいいだけのはずなのに,なかなかそこがうまくいかない。yasuさんはどうやって踏ん切りをつけられたのでしょうね。

踏ん切り・・・汗  
考えていたら収拾がつきませんので、ものすごく端折った書き方をさせてもらいます。

あくまでも私の場合
・頭に浮かぶことは、どんな人であろうと余り変わらないのではないか?
・それを言うか言わないか、立場によって使い分けたりするだけではないのか?
・同じ土俵に立ちたくなく、上に立ったような気になりたくて、言葉を呑み込むのではないか?

このような事を考えたような・・・それが踏ん切りになったのかもです。^^;

ちょっと補足します。
夫と大喧嘩をした後、自分の発した言葉に苦しめられるし、友人に愚痴をいえば余計に凹むわけです。
その原因は根拠もなく、私自身が「よい人」だと思ってきてたのですね。
喧嘩する時は「良い人」も何もないわけで、それまでの思い込みがなんと浅はかであったかを考えるきっかけになり、いろいろな刷り込みに気が付いたことは確かです。(笑)

yasuさん

>喧嘩する時は「良い人」も何もないわけで、

 これは「うーん,なるほど~」とちょっと唸ってしまいました。
 ある意味お互いに自分を押し付け合っているとも言えるわけですしね。
 結局「力で決める」,「力が正義」になってしまうわけでしょうし,
 そこでは「よい人」は後付にしかならないのかも……

 かなりリアルな問題という気がします。

言葉が足りなかったです。今更ですが補足させてください。

>  定型は「目的の共有」だけではなくて,「一緒にやっているという感覚」に
>  結構大きな価値を感じていて,場合によってはその感覚を得ること自体が
>  「目的」にもなるんだと思います。
> で,そこを諦めるということはある意味でアスぺ的な自立のやり方に合わせた結果
> と言える部分がありそうな気がします。

言ってしまえば、「一緒にやっている感覚」が大事なら、それを「目的の一つ」として掲げてしまえばいいのではないかと。裏の目的として隠してしまうから、アスペ側からわかりにくくなるのではないかな、と…。明確にぶちあげるならやり方はあると思います。勿論、何を共有しようとしているかにもよりますが。

こんな事を考えるにも理由がありまして、IT技術の方面で、まさにそういう事が議論されています。プロジェクト管理という分野なんですが。その筋の参考書など色々漁ると「達成感を演出する事でチームの一体感を醸し出す」というような話が出てきます。しかもこれが重要な要素として挙げられているんですよね。管理方法にも流派が色々ありまして、違う事を言っている流派もあるんですけども。

参考になればという程度のお話ですので、ズレているようでしたらスルーしてください。

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