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2015年3月12日 (木)

白金・青黒と定型アスぺ

 定型アスぺ問題は「ここは同じだ,理解できる」という部分を探ることと,「ここは違う,理解がむつかしい」という部分を自覚することと,両方をある意味でバランスよく見ていかないとむつかしいと感じています。で,今回は「むつかしさ」の方についての話です。

 ネット上で世界的に話題だという「白金or青黒」問題を今頃知りました(時代遅れ?(笑))。ご存知の方も多いかもしれませんね。

 御存知ない方のためにまずご紹介すると,下のような写真があって,このドレスの色が白と金なのか,青と黒なのか,見る人によって違うという話が元ネタのようです。ちなみに私は青みがかった白と光沢のあまりない金色に見え,パートナーは白と茶色とか言っていました。

 実際は白金,青黒だけではなくて,オレンジに見える人がいたり,もう少しバリエーションがありそうですし,ちょっと加工したりするとまたいろんな見え方になったりもするし,同じ人が見ても画面上で見る角度を上下に変えると変わって見えることもあるみたいで,「白金 青黒」位で検索すれば,いろんな話が出てきます。実物は青と黒だったようですが,うつし方で微妙な色合いになったのでしょう。

 なんでそういうことが起こるのか心理学的な解説? みたいのもあって,一種の錯覚のようなもので,光源の影響を見るか,服自体の色合いとして見るかによって変わるんだという説明とかがされています。

 どういうメカニズムでそういうことが起こるのかはまあ専門家にお任せすることとして,何がこの白金,青黒問題に人々をそんなにひきつけるのかと考えてみると,こういうことだと思えます。


 私たちは同じ世界の中に生きていると勝手に思い込んでいるわけで,それだから他の人とコミュニケーションをとろうとするし,そうやって現実にご飯を食べ,生きているわけです。目の前の人が実は私の妄想で生み出されたイメージに過ぎない,と本気で思ったら,誰もその相手とやりとりしようとはしないでしょう。目の前のお菓子が私の妄想が生み出したものだと本気で思ったら,それを人に勧めることもないでしょう。

 二人でカレーライスを食べていて,「このカレーライスおいしいね」と言ったら,相手の人は「おいしくないよ」と言うことはあるかもしれません。それは「好みの問題」と言われるでしょう。でも「何言ってるの,私はカレーを食べているけど,あなた何も食べていないじゃない」とか言われたらショックです。私が食べていると思っている自分のカレーが相手には見えない。もしかすると私はカレーを食べていると思い込んでいるだけなのか?それとも相手がおかしくなってしまったのか?ということを真剣に悩むようになるでしょう。

 目の前のものについて,「この丸い球がさ,」と話しかけたら,「え?それ四角い箱じゃない。あんた何言ってるの?」とか言われてもショックになるはずです。
 つまり,「好み」とか「価値観」みたいなものは,人によっていろいろだということはある程度受け入れやすいかもしれないけれど,「その物自体」があるとかないとか,あるいはそのもの自体の性質とか,そういうことについてはずれていては困るわけです。そこは「誰もが共有している共通の世界」で,もしそこが共有できなくなった相手がいれば,「この人は精神に異常が出ている」と判断されたりしてしまいます。


 白金,青黒問題は,なんかその中間をいく問題になっているように思うんですね。つまりこういうことです。

 そこにドレス(の写真)がある,ということについてはみんな一致して認めることができる(と信じている)。その「同じもの」について会話が成り立つ。「この服はあなたの好み?」とか言われれば,それは人によって違うだろうと思える。でもその服(写真)の色は「その服(写真)自体の特徴」で,人の好みによって変化したり,ちょっと考え方を変えると違う色に見える,ということはない(はずだと信じている)。

 ところがその「そうだと信じている」部分が裏切られちゃうわけです。「同じもの」を見ているはずなのに,そのものの性質の理解が全然一致しない。「私たちは好みの差はあっても,同じ世界を共有して生きているはずだ」という信念が揺らいでしまうわけです。

それはやばいことなので,ネット上でそういうことが起こっているらしいように,自分と違う見え方をする人を「おかしなやつ」として罵倒するようなことにもなってしまう。そうやって「自分の信念」を守らないと不安になるのでしょう。

 これもはるか昔に見て面白かったのですが,こんな図形があります。

 

これ,黒いところに注目すると,二人の向かい合う黒い顔に見え,白い部分に注目すると一つの白い杯に見える,というやつです。

 この場合は「二つの見方ができる」ということが一人のひとでも両方体験しやすくて,「見方によって変わるんだな」ということは納得がいきやすいでしょう。人によっては顔を見やすい人,杯を見やすい人がいるかもしれませんが,他の見方もあることを教えてもらえば,多分わりと簡単にそう気づけるはずです。「この顔は好み?」と聞かれて意見が分かれたとしても,「うっそ~!信じられない!」とはならないでしょう。

 でもそこで「この黒い部分は実は金色なんだよ」とか「金色にも見えるよ」と言われたり,「白い部分は実は青でね」とか「青色にも見えるでしょう?」とか言われたら,これはもう仰天ではないでしょうか。逆立ちしたってそんな見方はできない(と信じ込んでいる)はずです。どう見方を変えてみても,黒は黒にしか感じない。白は白にしか感じない。

 そんなことがこの青黒,白金問題で起こっているのだと思います。自分には黒にしかどうしても見えないものを,他の人が金色と言い,あるいは白としか見ようのないものを青だと確信をもって言われる。

 そして相手の意見にびっくりした後,「まあこの人が嘘を言っているとは思えないし,この人にとってはそう見えるのかな」と「頭では考える」けれど,そのことで私自身の色の見え方が変わることはないわけです。感覚的には全然信用できないか,納得がいかない。

 
 で,この話,定型アスぺ問題とすごく似ていないでしょうか。

 まず,お互いに同じ世界に生きているとは思い込んでいますので,自分が見ているものは相手も同じように見えていると思ってやりとりするし,好みには個人差があることは理解できるけれど,定型同士では普通に一致する意見について,アスぺの方が全然外れていたりすると,ショックを受けるし,とてもじゃないけど「人それぞれだよね」と言って済ませられない。

 つまり,定型アスぺ間の見方や感じ方のズレは,「これは白だよね」と自分が確信し,他の人も「そうだよね,白だよね」と言ってその信念を強めあっていたことについて,「何言ってるの,これ青じゃない!」と確信をもって否定されたようなレベルのズレなのだと思えるのです。

 「注目するポイントの違い」というレベルのズレなら,注目するポイントを変えれば自分にも同じような別の見方が体験できる。でもそういうレベルは超えてしまっていて,そう簡単には相手の人の体験の仕方を自分も体験してみることができないわけですね。だから頭で「違いがある」と思ってみても,感覚的にはどうにも納得できず,強い違和感が残り続けて,だからやりとりの調整は感覚的なレベルではむつかしく,自分の感覚は押し殺して頭で調整するしかなくなったりする。

 青黒,白金問題なら,「面白こともあるよね」で済ませられるレベルですけれど,定型アスぺ問題はその「見え方の違い」「体験の仕方の違い」が,現実に一緒に生きていくことにすごい困難を生み出す,そういうようなシビアなところに関わってくるレベルになっているわけです。

 ただ,別の見方の体験が全く不可能かどうかについては,まだちょっと分りません。少なくとも部分的には「こんなふうに考えると定型でもわかる気がするなあ」と思えるところもところどころ出てきているようには思えますので。とはいえ,やっぱりそれはかなりむつかしいことは事実でしょう。

 というところで,ちょっと長くなりましたので,いったんここまでにして,「じゃあ,そこで定型アスぺがこの問題を語り合うってどういう意味があるの?」ということについて,また改めてちょっと考えてみたいと思います。
 





 
 




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