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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年3月14日 (土)

「違う」と「同じ」の深い関係

 前回の「白金と青黒」の話,読み返してみるとまだちょっとうまく整理できてない感じがして,簡単にまとめるところから始てみたいと思います。

 人は他の人と同じ世界に生きていると思っていて,ただ,その世界の感じ方とかはひとそれぞれだとも思っているでしょう。たとえば「蓼食う虫も好き好き」という言い方がありますけど,「蓼」はみんな共有している同じ世界のものです。でもそれが好きかどうかは個人差があるよね,という話になっています。

 ところがまれに「ここに蓼があるでしょう」という話をしたら,「そんなもの,どこにもないよ」と否定されるようなことが起こり得ます。もうちょっと分りやすい話をすれば「幽霊」とか。「ほらそこに霊がいる」とか誰かが言ったとして,他の人には全然見えない,ということはあるわけです。

 そういう場合は「この人は霊感がある」とか,超能力者みたいな感じで周りに認められることもあるし,あるいは精神に異常が起こって,幻覚を見ている,と考えられるかもしれません。昔はわかりませんが,今は幻覚と思われることが多いのではないでしょうか。

 いずれにしても,違う世界を生きている人,みたいな感じでとらえられることになりそうです。そこでは世界が共有されていないわけですね。そういうズレがお互いの間に生まれている。そのことを「特別な能力」の結果と受け止められるか,「障がい」と受け止められるかは人や場合によっていろいろでしょうけれど。

 でも定型アスぺ問題に見られるズレは,そういうズレではないでしょう。そこに「蓼」があるとか,ないとか,そういう基本的なことについてはお互いに意見が一致するわけです。「世界は共有されている」という素朴な感覚がまずは成り立つ。

 そうすると,じゃあ「好き好き」という個人レベルの差なのかというと,実体験からすればこれがそうではない。「個性だね」と片付けられるようなズレならまあ楽なわけですけど,とてもそういうレベルではない。

 なんでそういうレベルで収まらないかというと,「これは誰もがこういうふうに見える(思える)はずだ」,と信じ込んでいることについて,定型アスぺ間では繰り返しズレがおこっちゃうんですよね。

 で,そこで「白金と青黒」の話がひとつの比喩としてわかりやすいかなと思ったわけです。

 蓼食う虫の話で言えば,「蓼」がそこにあることは理解が一致している。で,その時はそれがどんな形でどんな色で,ということについてはお互いに見方が一致しているだろうと普通は思い込んでいます。色合いとか,そういう微妙なところでは多少感じ方にずれが起こるかもしれないし,「色盲」とかがあれば,ある種の色の区別がむつかしくなるとか,そういうことはあるでしょうけれど,黒が金に見えるとか,そういうことはちょっと想像できない。

 そういう色とか形とかはその物自体が持っている性格で,自分の見方でどうにでもなるものではないと普通は思っているので,そこにズレが起こるとショックを受けるわけです。それが「白金・青黒」問題がこれほど盛り上がる原因でしょう。

 定型アスぺ問題は,少なくとも定型の側から見ると,それと似たような問題ではないかと思えるのです。というのは,定型にとって「そんなの当たり前じゃない」と思えるし,定型同士で話し合っても「そりゃそうでしょう」とだいたい肯定されることについて,全然共有されないし理解もされない,ということが起こるからです。

 定型からすると,定型同士ではほとんど見方にズレが起こらず,もう普遍の真理のように感じられていることが否定される。「それは黒でしょう」としか見えない,感じられないことについて,「金色だ」と言われる,そんなことが起こるわけですね。

 そのあたりが白金・青黒問題と似ているところだとして,逆に白金・青黒問題と定型アスぺ問題で違いがあるとすれば,こんなことではないでしょうか。



 つまり,色の見え方のズレはたぶん文化にあんまり関係ないだろうと想像できるのに対して,定型アスぺ問題は「その社会での常識」が深く関わるので,実は違う社会に行くと,そこでの定型はまた違った「当たり前」を持っていたりするというところです。

 アスぺの方が定型から非難される内容について,ある社会の中では「常識」でも,それは他の社会で通用するかどうかはわからない,というものが結構あるわけです。たとえば相手の言うことを頭から否定するような言い方を最初からしてはいけない,というのは日本ではかなり強い「常識」になっていて,それをしなアスぺの方が非難される大きな原因の一つになっていると思いますが,違う文化では全然そんなことがなかったりします。違いを言うのは当たり前だったりする。(むしろ言わないことで不信感が生まれたり)


 だから,例えばオーストラリアではアスぺの方たちは日本とは違った受け止められ方がされたりもするみたいだし,多分「生きづらさ」の内容でも違いがありそうです。以前アメリカのアスぺの方がここで質問されていましたが,アメリカでアスぺの方にサジェスチョンされるやり方は,日本では通用しにくかったりするわけですね。そこでも常識が違うからでしょう。

 白金・青黒問題ではたぶんそういう「社会によるズレのちがい」というのはあまりなさそうです。どちらも「そんなこと常識」と思い込んでいるところでズレが起こるショックなわけですけれど,その「常識」の性質が文化には関係が薄い白金・青黒問題と,かなり文化に深くかかわっている定型アスぺ問題で異なるんじゃないか,というわけです。


 さて,そうだとすると,白金・青黒問題はたぶん「目の性能」みたいなことが深く関係しているでしょうから,「話し合って見方を変えてみる」ことで「相手を理解する」ということはむつかしいでしょう。「違いがある」ところまではお互いの体験を語り合うことで理解できたとしても,それを聞いたら相手の見方が見えて来る,というのはたぶんむつかしい。


 それに比べると,定型アスぺ問題にも「脳の性能」などは関わってはいるんでしょうけれど,こちらの方はもう少し「私とは違う相手の体験の仕方」について,想像力を発揮して「なんとなくわかる気がする」というところまでは行く可能性を感じます。このブログやコメントのやりとり,掲示板でのやりとりなどでも,ときどきそういう「共感」と言ってもいいようなことも起こっていました。

 で,こういうブログや掲示板で定型アスぺ間のやりとりをすることの意味ですけれど,私の場合はひとつには「違いがあるんだ」ということをやりとりを通して結構実感できる感じがあります。白金・青黒問題で言えば「え?これが黒(金)に見える人がほんとにいるんだ!」という驚きを体験することにあたるかもしれません。

 そうすれば,「違い」を前提にした関係の調整の仕方を探る,というきっかけになり得ますし,自分をただ相手に押し付けるだけという危険性は減るでしょう。

 でも,このブログや掲示板で起こっていることはそのもう一歩先を行っているように感じられます。これも私の印象ですけれど,特に最近「アスぺの方たちも<同じように>すごく悩み,苦しんでいるんだな」ということがなんとなく「実感として」わかり始めた感じがしています。そしてそのことについてアスぺの方とやりとりをするとき,ともすれば「定型同士で悩みを語り合っている」のと区別がつかないような感覚になることもあるんです。

 もちろんそれはやりとりをしてくださるアスぺの方が定型的なやりかたに配慮してすごく合わせてくださっているからだ,という面もあるでしょう。スペクトラムでのいわゆる「浅瀬」と「深み(?)」の違いもそこに影響するかもしれません。でもそれだけではないような気がして,「違い」が分かってくると同時に,「伝わり合う」ものが増えてきているような,そんな印象を(私の方は勝手に)持ってしまうのです。

 なんかちょっと矛盾したような言い方かもしれませんが,一方では「違う」という見方は相手を切り捨てるためにも使われますけれど,「違い」の理解を深めていくと,それと同時に「同じ」部分がより深いところで見えて来るということも起こるんじゃないでしょうか。そういう形での「違い」の理解の仕方もあるんだと思います。

 相手を切り捨てる「違い」の認め方では,基本的には相手とやりとりは拒否する形になっていきますし,やりとりしたとしても罵声の投げかけあいとか,そんなふうになってしまうでしょう。あるいは感情を押し殺して単なる事務的な応答に終始するとか。

 そうではなく,「違いを知ることを通してつながりを作る」という行き方の場合は,これはやはりやりとりをすることが大前提になります。そういうやりとりの中で初めて「違い」を通して「同じ」を発見し,また「違い」を通して「自分」を発見する,ということが起こるんだと思います。

 



 
 




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コメント

かずきです。

確かに、最初からきって捨ててしまえば歩み寄る余地はなくなりますよね。
ここに集まる皆さんは、歩み寄りたくて、歩み寄る道しるべを探して、
そしてここにたどり着いたんじゃないでしょうか。


何気なく?やり取りしている中で、自分を再発見してみたり、定型の方の考えを初めて知ったり、感覚の違いを知ったり。
それを受け止められるだけの用意ができているかどうかで、
有益なやり取りになるか、受け入れられない違いになるか、だと思います。

ここに集まる皆さんは、前に進みたいと言う精神的体力が有るかと思うんです。
本当にどん底に追い詰められて居るときにそんな余裕がないと思いますし
そういう時には拒絶して自分を守ると思います。
私も精神的にキツい時には読むだけに戻っていますし…。
この場所に、あえて傷つきに来る(言い方悪いですが)事も、そうやって自分を守る為にありかもしれませんが、
コメントを続ける方はそうではないと思います。
前向きに動こうと、自分と向き合って前に進みたいと思えるときに、
パンダさんに甘えてここに来るのではないでしょうか。
そんな皆さんだからこそ、建設的なやり取りがなされていると思います。
その一端を私も担えていたら嬉しいです。


かずきさん

> この場所に、あえて傷つきに来る

 と書かれたところは考え込むところですけれど,
 そのことを含めてなお,この場を前向きな場として受け止めてくださり,
 そうやって参加してくださることがとても嬉しいです。

 定型アスぺ問題の大きさに,めげそうになることはなくなりませんけれど,
 同じ問題を抱えたみなさんで少しでもお互いに支えあえる,
 ほんとにありきたりで陳腐な言い方ですけれど,
 でもそういう場であってほしいです。

 かずきさんのコメントにも,いつも定型アスぺ間の
 新しい関係の可能性を感じてはげまされます。

色のお話、非常にわかりやすくて、なるほどとおもっていたのですが、またさらに深く追究されているんですね。

先日、今更なのに、そうだったんだ!と思うことがありました。

春の陽気がコロコロ変わるのは何故か?
春は低気圧が日本海側を通ることもあれば太平洋側を通ることもある。
日本海側を通れば南風になり、太平洋側を通れば北風になる。それによって流れ込む空気の温度が変わり、寒暖の差が激しくなる。

高気圧から低気圧へ空気の流れができるのは当たり前なのに、それが激しい寒暖の差に繋がるとは思ってもいませんでした。
無知なのは私だけかもしれませんけど^^;

地球レベルでいったら、ほんの小さな地域で起きている僅かな差ですよね。
それなのに、異常気象だとか、化学兵器陰謀説まで持ち上がって(笑)
その気候の差で体調を崩してしまう人も多くて。

アスペ定型の差も、脳のどの部分が一番活性されているかによって、ほんの小さな誤差が大きな行動の違いに繋がっているんだとしたら……

なんか、少し大らかに見えるんじゃないかと思えました。

あすなろさん

 わかりやすいと言っていただくとほっとします。
 アスぺの方にとっても少しでもわかりやすいものとなっていればいいのですが……

 化学兵器陰謀説はびっくりですが,小さな差が積み重なって大変になる,
 というのは結構いろんなところであることなのかなと思います。
 逆に言えば,その大変なことへの対処は,大きなことではなくて,
 小さなことの積み重ねが大事なのかもしれませんよね。

 その意味では一見些細なことを見つめることが大事なのかもしれません。
 こういうやりとりがそのひとつになってくれるといいのですが。
 

パンダさん、はじめまして。 AS(確定診断済)の夫を持つ者です。


今日初めてこちらに来たのですが、パンダさんの深い洞察と当事者の
方達との真摯で細やかなコミュニケーション、すごいな~と思いました。


これまでASと定型が歩み寄る姿勢のブログを見つけられなかったので
こちらに辿りつけて嬉しいです。


夫との付き合いも30年目、4年前に確定診断され、最近やっとお互いの
「違い」を言葉で説明しあえるようになりました。


それまでは、お互いに「当たり前」と思っていた事がズレ過ぎていて、
もともと違う土台の上に話しを積み上げていくので話せば話すほど泥沼
にはまっていました。


パンダさんのおっしゃる通り、今は「違う」(しかも、大きく)という事実から
スタートするしかないのを実感しています。


日頃無意識でやっている言動を、改めて「私はこういうやり方だ」と言葉
で説明するのは意外と大変な作業ですが、どっちが正しいかで非難し
あっていた頃よりずっと良いです。


夫とのズレはお互い言葉を尽くして歩み寄っても、これでもか、と新手が
現れて折れそうになることもありますが、同じ立場の方がおられると思う
とほっとします。


これからも、時々お邪魔させて下さいね。よろしくお願いします。m(_ _)m

コンテさん

はじめまして、どうぞよろしくお願いします。

定型アスペ間で、何とか対等な対話の道が開けないものかとずっと思っていましたので、そんな風に見ていただけるのはとても嬉しいです。

繰り返しめげそうにもなるところ、そういう気持ちも共有しつつ、一歩一歩進めたらいいなと思っていますので、またよろしくお願いします。

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