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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年3月21日 (土)

負の思いを語り合うことの意味

 前回の,私の感覚と理解でアスぺの方が置かれた状況を想像して書いてみた記事「もしも」をパートナーにも見てもらいました。

 案の定というか,やっぱりずれると言われました。どこがずれるのか言葉になるか聞いてみましたが,それは少なくとも今は無理のようです。改めて一口に定型アスぺ問題と言っても,ほんとうにさまざまな現実と状況,個性を抱えて成り立つ問題だと思いました。

 彼女から出された疑問の一つは,「一体何のためにこういう文章を書いているのか,その意図が分らない」というものでしたが,多分その問題は彼女と私の間のズレの,かなり根っこの部分に関わっているのではないかという気もします。それがいったい何なのか,改めて考えさせられています。

 その話から,少し時間をおいてまたもうちょっと会話が続いたのですが,過去のお互いの関係の問題も振り返りながら,彼女は自分が私からいかに傷つけられてきたのか,ということを何度か言いました。それは彼女もまた私や子どもを傷つけてきた,という彼女の辛い思いを前提にしたうえでの話で,決して一方的に恨みつらみを言おうという話ではありませんけれど。

 そして今回の記事が,そういうことを私が理解した上で書かれたものなのかということを問うてきました。この問い方は定型的には「理解もせずに口先で書いているのだろう」という厳しい詰問とも聞こえます。それでそういうふうに私の方が彼女を傷つけてきた側面にようやく思い至れるようになり始めたからこそ,ああいう文章を書いたに決まっているじゃない,と私が少しムキになって言うと,やはり彼女の方は自分が尋ねたのはそういう意味じゃないと言います。

 自分はパンダがそういう気持ちになったのかもしれないとは思ったけれど,本当はどうなのか,それは分らないことだから尋ねたのだ,と言うんですね。まあそういう疑問の持ち方も,そこでの問い方も,仕方のないことなのかなと,そんなふうに私も最近は思うようになりました。

 なんにしても,意図せずに自分が周囲を傷つけていた,という思いに打ちひしがれていた彼女が,「お互い様」ということを少しずつ語るようになり,そして今回のように自分が傷つけられてきた面を問いかける,というふうになってきたこと自体は,私はとても大事な「進展」のように感じます。それができて,初めて対等に二人の関係を考えられるようになると思えるからです。

 ただ,それもまた私の思いですので,それが彼女とどこまで共有できるのか,あるいはそういう思いを共有することに,どれほどプラスの意味を実際に彼女が感じられるのか,そのあたりについては全くなんとも言えないのが現状ですね。これまでの経験からいうと,「傷つけられた」という話自体は負の思いについての話なわけですから,それを語り合ったとしても,その語りもまた負の語りとしてのみ感じられてしまう,という可能性も感じます。

 そこのところ,定型は「負の思いを語り合えた」ということ自体が,お互いにとってプラスの意味を感じられることになりうる,という感覚と,なかなか距離が縮まりにくい部分かもしれません。

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コメント

いつも拝見させていただいております。
わたしは以前、アスペの方と交際していました。付き合ってすぐに結婚を申し込まれましたが、一年半後に、「ずっと一緒にいるんだぜ(そんな苦痛なことはできない)」と言われて、別れることになりました。
それまでは、アスペと定型問題は、お互いに学びあい、話しあえば、乗り越えられ、どこかで一致点があるはずだと考え、必死でおつきあいを続けてきました。ときには明け方まで話し合いました。相手の方は、途中で眠っていましたが…翌日話すと、きれいに、話し合いの論点は忘れられていました。
それでも別れられなかったのは、このひとは、定型との人間関係で苦しんでいて、なんとか良好な関係をだれよりも築きたいとおもっていると信じていたからでした。
たったの一年半とはいえ、そんな喧嘩や話し合いの毎日の泥沼のような関係を続けながらも、きっといつかはわかり合えるはずだと信じてやってきました。
ところが、一年半後に、一緒に暮らす話になったとき、彼は突然、「無理」だとはっきり拒否しました。
わたしは、これまでの苦労がなんだったんだろうと思いつつ、彼に聞きました。
これまで好きだといってくれたのはなぜ?彼は「そういってほしそうだったから」と言いました。
わたしは「あなたを知ろうと(趣味、考え方、悩み、好みの食べ物など)いろんな領域で、理解しようとそればかり考えて毎日過ごしてきたけれど、あなたは、わたしを知りたいと思うでしょうか、わたしに興味があったのでしょうか?」と聞きました。
彼は、「ごめん、あなたを知りたいとはじめから今も思えない」と言いました。
そこで、わたしは気づき、さとりました。
定型・アスペの問題は、理解されないことによるアスペの方の苦労を知って、定型がなんとか努力して二人の溝を埋めようとするけれども、
それはうまらない。それはなぜか?
その原因は、アスペの方の特性として、「他人に興味がもてない」ということがあるのだということだと気づきました。
定型の愛の最終的かたちは、お互いに思い合う関係であり、そのための前提として、相手の特性を理解したい、知りたいという欲求が必要なのだと思います。
もちろん、アスペの方にも、定型の特性を理解しようという欲求があります。しかし、それは、あくまでも、相手を知って、自分が叱られない理論を構築するための知識への欲望であり、あくまでも、自己防衛の範囲を超えないものなのです。
定型が求め、自然にだれもがもっているものと抱いていた先入観は、
「純粋に相手によろこんでほしい、そうすることで二人の間にあたたかいものが流れてほしい」という思いからきた相手を理解したいという思いなのです。

ぱんださんが、相手の方を理解しようとしながらも、パートナーの方に根本のところで理解されないのは、根っこにある、相手を理解したいという素朴な欲望が相手の方にないからだと思います。
批難しているわけではなく、悲しく厳しい断絶という事実が根っこの部分であるからだと思います。
わたしは、その事実を、愛というロマンチックな観念でみえなくしていたその事実が、別れのとき、一瞬だけみえたために、別れる決意ができました。
相手の方は、やっと解放されるという安堵感をあらわしました。
アスペの方にとって、定型との関係は、「接待」でしかないともいっていました。
また、彼は、自分はつるつるな球体で、定型からの言葉はいつも通りすぎるとも言っていました。(定型は、お互いにでこぼこにひっかかりあうことで関係を深めたいと思います。)

ぱんださんが一生懸命にアスペの方と定型との理解点を探ろうとなさっていますが、まずは、この断裂を理解なされた上でないと、ずれているとアスペの方から言われ続け虚しい結果になるような気がします。

この困難な断裂の上で、さらに一致点を探ろうとなさろうとするならば、そのヒントは、もしかしたら、いのちとか、生死を超えた意識とかそのようなレベルにならないかぎり、定型が心のそこから欲している、関係性からくるよろこびというものにたどり着けないかもしれないと考えています。

ぱんださんは、結婚なさっているので、そのままの関係を継続しつつも、関係性からすこしでもよろこびを感じてほしいです。
根本的な断絶を理解したうえで、人間的意識を超えた地点でのゆるやかでやわらかな、遠くからのまなざしをもつことにぱんださんのよろこびがあるのだと信じています。

これからも、ぱんださんを応援しています。

パンダさん、はじめまして。
以前から拝見させていただいていましたが、はじめてコメントさせていただきます。

いつも記事を拝見して、パンダさんが奥様との関係の中で、奥様のことを理解しようと努力し、お互いが傷つけ合わずに生きていくためにはどうすればいいか、模索されているのだと感じていました。

しかし、今回記事を拝見して、ちょっと違和感がありました。
違和感があったのは、これだけ相手(奥様)のことを考えていらっしゃるのに、それでもなお「思い至れるようになり始めたからこそ,ああいう文章を書いたに決まっているじゃない」と「ムキになって」発言されたということについてです。

なぜ「決まっているじゃない」という表現をわざわざされたのでしょうか。
このような言い方は定型的には、「こんなに当たり前な分かりきったことすらお前にはわからないのか」「分かりきったことを聞くんじゃない」というメッセージになりますよね?それとも、アスペの方にはそれが通じないから、そういう言い方をしても大丈夫だと判断されたのでしょうか。

これが常識だ、これが普通だ、と決めつけたような物言いをされると、アスペの側が(アスペでなくても定型であっても)「お前には常識がない」「お前は普通じゃない」と言われたような気持ちになって傷つくのではないか、と感じました。
こういうことについてずっと考え続けてこられたはずのパンダさんが、こういう言い方をされたということに、少しショックを受けたため、今回コメントさせていただきました。

失礼だったらすみません。

りんごさん

 はじめまして。どうぞよろしくお願いします。

 応援ありがとうございます。
 そんなふうに応援のお気持ちを持ちつつ読んでいただいていると知って
 とてもありがたく思いました。

 りんごさんの経験を拝見していて,ほんとにいろいろなパターンがあるんだなと
 改めて思います。

 私のパートナーは大学の友人の中では最初に結婚したようで,
 彼女はもう結婚はしないか,一番遅いだろうと思われていたらしく,
 驚かれたと言っていました。
 そして,私を避けることもありませんでしたし,彼女なりに
 共感的な関係を求めているように感じることもありました。

 一緒に暮らすことを提案した時もとてもスムーズでしたし,
 彼女が本を読んでいる時,近寄っていくと,
 「今までは本を読んでいるときに人が近づくと,全然読めなくなったのに,
 パンダが横にいても全然そうならなくて,不思議」
 と言われるようなこともあり,とても個性的な人ではありましたけれど,
 私も当時は幸せ感いっぱいでした。

 それからだんだんとズレが蓄積されて行って,
 それが子育ての問題で決定的になっていったのだと思います。

 そんな経緯だったので,私の場合は「あの幸せをもう一度」みたいな感覚が
 抜けないんでしょうか。
 
 相手に対する興味の強さなどは,それこそ「スペクトラム」の部分もたぶんあって,
 また経験による変化などもあって,
 そのあたりがスパッと割り切りにくい原因になっているかもしれません。
 引き続き,ゆっくり考えていきたいです。


ハンさん

 初めまして,どうぞよろしくお願いします。
 大事な指摘をありがとうございました。

 おっしゃることは指摘されてみれば基本的にその通りだなあと思えます。
 また,彼女がどうしても私に「上から目線」を感じるところがある
 というのも,そんなところが関係しているのかもしれないと思いました。

 私の「当たり前」を押し付けてはならない,ということについては
 とても大事に考えていますし,建前でもなんでもないのですけれど,
 ただ,やはりそれは「目指す」ところで,「実現している」ことではなく,
 もしそれが自然にできるようになれば,私個人にとっては
 もう定型アスぺ問題は卒業と思えるほどに困難なことです。

 記事で書いていることも,どうしても自分の「当たり前じゃない!」という
 感覚が湧き上がってしまうことについて,
 「でもこう考えれば別の見方ができるようになるだろう」
 という風に感じられたり,発見したことを少しずつ書いてみている
 というのが実態だろうと思います。
 そうやって,少しずつ自分の「当たり前」から自由になってきている
 そのプロセスが記事になっているのかなと思っています。

 ですから,基本的には「なんで自分がこんなに頑張っているのに,
 それが伝わらないんだろう」という思いやいら立ちが完全にはなくならないので,
 それがちょっとした言葉に出るのかなと思いました。

 そんな感じで「努力」が続いている状態ですので,
 これからも自分では気づかずにそういう問題が繰り返されると思います。
 よろしければまたご指摘ください。
 改めてその都度考えていきたいと思います。

初めまして。妻との「子育てを巡るぶつかり合い」でいろいろ検索している時にこのブログにたどり着き、ずいぶんと記事を読ませていただきました。最初は「なるほど、同じ『すれ違い』を経験している人がいる」と「あるある」とひざを打ちながら読んでいました。しかしながら途中から「アスペ・定型」という区別に疑問を感じるようになりました。

今回コメントさせていただいたのは、ちょうどこの記事を読んで「いや、それは違うでしょう?」と思ったら、似たような方が「違和感を感じた」というコメントを書いていたからです。

そのコメントに対する返信でパンダさんは「なんで自分がこんなに頑張っているのに、それが伝わらないんだろう?、、、そんな感じで努力が続いている」とおっしゃっています。

奥さんが「一体何のために記事を書いているのか?」と聞いたとのことですが、奥さんはパンダさんが考えたことをブログで公表することに対して「これだけ僕が努力しているのにおまえにはなぜ分からないんだ?」と責められているように感じたのではないでしょうか?「僕はあなたを傷つけたことを認めているのに、なんでそれを分かってくれないんだ?」と言えば、傷ついた方はさらに傷つくと思います。

パンダさん自身が自分の「努力」を分かってもらいたいように、奥さんも奥さんの「努力」を分かってほしいのだと思います。パンダさんはブログを書くことで、コメント欄で「分かってもらえる」こともあるでしょうが、奥さんはそういうことがない。それなのにその「記事を見せる」ということは、奥さんにしてみれば「パートナーですら私のこと全然分かってないんだ」という感じになると思います。「君も僕のようにブログ書いてみようよ」という提案だとしたら、それは「できないことをやれ」という命令に捉えられそうです、、、。

パンダさんの記事やコメントによって考えさせられたことも多かったので、何かのきっかけになればと思いコメントさせていただきました。ありがとうございました。

久しぶりに コメントを書きます。

りんごさんのコメントを読んで 共感の嵐でした。

いつか気持ちが通じる・・いつか分かり会える・・自分もそう思いながら
長い月日を ASパートナーと過ごしてきました。

でも ほんとに 根本がちがうのだと感じます。
感じ方 とらえ方 考えかた 。。

どれだけ長い年月を費やしても 絆というものが きずけない
いえ 絆はあるのかもしれないけれど お互いの絆に対する深さがちがう・・というか。

その思いの差に愕然とさせられますよね。
その差が 受け止められずに定型は 落ち込みも激しくなります、
ASの方からすれば それは あなたの勝手な思いこみ・・自分はそんなつもりではなかった。。となるのです 
基本 深いかかわりを避けていると思います。
だから 新しい出会いで浅く 軽いおつきあいに流れていってしまう。・・ような気がします。それが 深くなってくると避けるような・・・・

基本 ASの方は そのあたりが あまりにもサッパリしすぎていて
情 というものが ないようにも感じます、

どれだけ 心をつくしても 伝わらない気がします。、
いえ 伝わっているのかもしれませんが それを あらわす方法がわからない?のか
とにかく 一方通行なんですよね・・

ASと関わっていくには 見返りを求めないこと どれだけ深い関係になったとしても
あっさり 別れがやってくることを覚悟の上でないと 定型は壊れてしまうと思います。

ケイさん

 はじめまして,よろしくお願いします。

 頂いたご指摘についてまだよく理解できないところがあって,ぼちぼちお教えいただければと思います。

>奥さんが「一体何のために記事を書いているのか?」と聞いたとのことですが、

 もし書き方が不十分で誤解されていたら申し訳ないですが,彼女からブログを書くこと自体について否定されたことはありません。むしろ彼女なりに意義は認めてくれて,時々そういうことは言ってくれます。

 ただ,でも私の記事の内容については,彼女は分りにくい,と繰り返し言われます。ここでコメントを下さるアスぺの方とやりとりがあんなふうになりたつことも,どうしてあの記事でわかるんだろう,とむしろ不思議な感じを持っているみたいなんですね。

 それで,彼女はもっとわかりやすい文章を書いた方がいいと言うのですが,何をどうすることが分りやすいのかが私にはわからず,また彼女にとってわかりやすい書き方はなんなのかが彼女にも分らず,いつもそこで話は立ち往生してしまいます。

 それで,「こういう文章なら少しは分りやすく感じてもらえるだろうか」と考えたこの間の記事について意見を聞いてみたわけです。

 そういう流れの中でのことですので,「一体何のためにこういう文章を書いているのか,その意図が分らない」ということの意味は,その記事の書き方や内容についてということだと私は理解しました。

>奥さんはパンダさんが考えたことをブログで公表することに対して「これだけ僕が努力しているのにおまえにはなぜ分からないんだ?」と責められているように感じたのではないでしょうか?

 ということで,ブログについて努力は認めてくれているのですが,その内容が彼女に対してはなかなか届かない部分があるわけです。それがどうしても悔しい思いが私のほうにありますので,その気持ちを「責められている」と彼女が感じる可能性はあると思います。

>「僕はあなたを傷つけたことを認めているのに、なんでそれを分かってくれないんだ?」と言えば、傷ついた方はさらに傷つくと思います。

 ここは今の私にはまだ理解がむつかしいのかもしれません。「傷つけたことを認めている」というのか,もう少し私の気持ちに添った表現をすれば,「彼女にとって結果としてそれがそういう意味を持ってしまった(そういう意味でお互い様だった)ことが,ようやくだんだんとわかってきた」という感じです。

 前提として私や子どもが傷いたという思いが私にどうしてもあるので,その気持ちを整理しながら,なお,立場を変えてみれば,彼女の方も同じような思いになる,ということに少しずつでも思いを寄せる努力をしてきて,以前に比べればそれがだいぶ可能になってきた気がする,というのが現状です。

 ですから,今回についても彼女の言い方で私がまた傷ついた面もやっぱり否定できないのです。その思いがどうしても言葉に出てしまうのでしょうね。

 単に最初から私の方が一方的に傷つけたというときの話なら,ケイさんのおっしゃることは私が気を付ければよい,という話になって,それなりにわかる気がするのですが,そのあたりがちょっと前提が違うのかもしれません。

>パンダさん自身が自分の「努力」を分かってもらいたいように、奥さんも奥さんの「努力」を分かってほしいのだと思います。

 「努力を分ってほしい」という思いをお互いに持ってきたことは,多分おっしゃる通りだと思いますし,そういうやりとりも何度か繰り返しています。当然私も彼女の努力を頭では理解しようとしますが,でも残念なことに,感覚的にはなかなか「そうか!」と深く感じ取る力がなく,悔しい思いをしています。その中でほんの少しずつでも実感できることが増えてきている,という段階ですね。ここはなかなか一足飛びに解決できず,本当に時間がかかっています。

 ちょっとたとえ話ですが,学生の頃家庭教師をやっていて,自分が簡単に解ける問題を子どもが全く分らないときに,解けなくて苦しんでいる子どもの気持ちがなかなかぴんと来ない,という風になることがありました。それで自分がこんなに努力して教えようとしているのに,なんでもっとわかってくれないんだろう?とくやしく感じたりということもあったように思います。

 でもこれって逆に言えば,私が自分でなぜその問題を解けるのかが本当はよく分っていないことだ,とも言えるんですよね。ただ自分では無意識にできているだけで。で,自分がその問題の何に注目してどうやって解いているのかがある程度言葉で説明できるようになると,子どもも結構理解してくれるようになりました。

 逆に子どもの立場からすれば,なんで自分がこんなに頑張って苦しんでやっているのに,そのことを大人は認めてくれないんだろう,という思いも持つだろうと思います。自分が自分の見方でまともに考えて疑問だらけのことについて,大人が全然気づいてくれない。それなのに怒られる。

 それとちょっと似ているところがあるという気がします。彼女にとっては自分の世界は自分にとって当然の世界で,それを理解されないことが理解しにくいだろうと思います。だからそれをなかなか理解しない私に対して,今回のように「本当に理解しているのか」という問いかけもしたくなるのかもしれません。

 でも,私としては自分なりの努力はしているんだけど,その世界がほんとに理解しにくくて,どうしてそういう話になるのか,混乱して分らなくなるわけです。彼女が簡単に理解できることが,私にはわからないんですね。

 そんなふうにお互いに頭では相手が努力していることは理解しているんだけど,気持ちの上で「ああ,ほんとにそうなんだ!」と納得することがなかなかむつかしい。それで話し合ってみると,「そんなことも分ってもらえていないんだ!」ということをその都度お互いに発見して,そのことを言うと「自分の努力を認めてもらえないのか」ということにお互いなって,両方とも傷ついていることになります。

 というふうに今整理してみたら,少し事態の意味が分かるような気もしました。

>パンダさんはブログを書くことで、コメント欄で「分かってもらえる」こともあるでしょうが、奥さんはそういうことがない。それなのにその「記事を見せる」ということは、奥さんにしてみれば「パートナーですら私のこと全然分かってないんだ」という感じになると思います。

 記事を見せることで分ってないと思われたというご指摘については,今回の記事を見てもらった経緯は上に書いたようなことで,その経緯は彼女も分っていますので,少し違うかもしれません。

 「分ってもらえない」ということについては,ほんとにずっと続いていることですし,ほんとにお互い様のことになっています。そういう状態の中で,それでも少しずつでもわかる部分を増やしていく手探りをやっているということでしょうか。

 ただ,記事にも書きましたが,少なくとも「お互い様だよね」という理解は以前に比べてずいぶん共有されてきたように感じています。それが次につながる大事な足場になってくれないだろうかと,そのことを考えています。

>「君も僕のようにブログ書いてみようよ」という提案だとしたら、それは「できないことをやれ」という命令に捉えられそうです、、、。

 ここも私の方はそういう気持ちや言い方はありませんでしたし,たぶん彼女もそういうとらえ方はしていないと思います。

 いずれにせよ,ご指摘いただいたことについては,私がなかなか理解しきれていない大きな問題がたぶん隠れているのでしょうし,みなさんの経験やコメントなどを参考にさせていただきつつ,私なりに一歩一歩考えていくしかないかなと。


 ということで,コメントを頂いた内容については,私から見るとこんなような理解で,逆に言えば私の理解の限界はこんな感じになります。こういう私の「お互い様の事態」という理解はケイさんからみて適切でしょうか?また仮にそれがある程度言えるとした場合,自分の方が深く傷つけられた思いを抱えながら,なおかつ相手が自分から受けた傷に気づいてそれを受け止め,それに深く共感していく,ということはどんなふうに可能になると思われますか?

 多分自分自身の大きな傷を抱えてぎりぎりそれに耐えて生きていらっしゃる,カサンドラで苦しまれる方などにとっても,改めてお互いの関係を修復しようとすれば,そこはものすごく大きな壁の一つになるのではないかと想像します。ケイさんはこうされているとか,こうするだろうとか,そんなことがあればまたお教え下さい。

パンダさん

ご返信ありがとうございます。奥さんがブログを書く意義を認めているとのことなので、この記事だけで「ブログを見せて奥さんをさらに傷つけた」かのようにコメントしたのは良くなかったと思います。すみません。

とても真摯にお答えしてもらってうれしく思います。ちょっと長くなりますが、以下今の僕の考え方を書いてみます。

今回の返信を読んで思うことは、パンダさんは元々「私や子どもが傷いた」と考えていたのだが、だんだん「彼女もまた傷ついていた」ということが「以前に比べて」分かるようになり、そして「お互い様だった」ということがだんだん分かって来た、という感じなのでしょうか?

だから僕が前提としていたように「最初からパンダさんが一方的に傷つけた」という話ではない。僕はここでパンダさんがおっしゃっていることがよく分かるし、おそらくパンダさんやお子さんからするとそうなのだろうと推測します。

それでも今の僕は、パンダさんが「一方的に奥さんを傷つけたのかもしれないのではないかという『仮説』を立てて、なおかつそれに『乗って』みてはいかがですか?」と言うように思います。

パンダさんが家庭教師の話をされて、「逆に言えば自分がなぜその問題が解けるのか分かっていない」「逆に子供の立場からすれば大人は全然分かってくれない」という仮説を立てていますが、この「仮説」の中で「分からない人間」「理解してくれない人間」はパンダさんになっていると思うのですが、いかがでしょうか?

そこで教師がどんなに工夫しても理解できない生徒に対して、「僕はできること全てをやったけどもう無理だよ」とか「先生を変えてみたら」とか、あるいは優しく「そのうち分かるよ」とか、どんな言い方しても、その子は「僕が(私が)悪い」と思うと思います。

これは教師という立場で放り出すわけにもいかないでしょうから適切な例えにはならないかもしれませんが、本当にできなくて苦しんでるのはその生徒なのだから、そこを教師が譲歩して「僕の教え方が悪いんだね、ごめん」と謝ってしまうような感じです。

「妻の側からすれば私は分からない人間なのだろう」と推測した後で「いや、分かってないのは君の方だ」と確信を持ったとしても(妻のために)「ごめん、分からないのは僕の方だ」と認めるような感じです。

それを「自分は分かっている」という根拠を求めて、周囲の9割ぐらいの人間が「その通りだ」と言ったから自分は正しいと思えば、それが「定型」ということになるのだと思います。

僕もそうするだろうし、それによって僕は「安心」できます。それはよく分かります。

そこで面と向かって「君は間違っている」と言う人もいるのかもしれませんが、僕だったら相手を傷つけないように「気遣い」ながらこう言うのだと思います。「君が『分からない』ということは分かる。だけど分からなくてもいいんだよ」みたいな言い方です。

最初のその「仮説」によって妻に寄り添いながら、頭の中では「周囲を味方に付けて」確信的に「僕の方が正しい」と思っている。だけど「分からなくてもいいんだよ」とか「無理しなくていいんだよ」とか優しく言う。

それが結局「君は間違っているんだよ」と言うことにしかならない。

これを理解するのにずいぶんかかったのですが、これは僕にはまったくそのつもりがなくても妻の側からすると「上から目線」になります。

定型・アスペと区分することに僕は賛成しませんが、この「仮説を立てることのできる人間」というのは、だいたい「男性的」なんだと思います。

つまり「僕はこの仮説によって君の気持ちを理解しているつもりだ」という言い方は、結局「本当は分からないけど、だいたいそんな感じなんじゃないの?俺間違ってないでしょう?」みたいな、言葉を変えるととてもひどい言い方になるのだと思います。

となると、もうこの「仮説を立てることのできる人間」が、「仮説を本気で信じる」とか最低でも「仮説を演じる」みたいなことをやらないと、相手に「伝わらない」ように思えます。

今こうやって書いていても、自分でも訳分からないぐらいです。だけどこういった「相手の立場に立った仮説に基づいたロールプレイ」みたいなことができる人とできない人がいて、できる人はその「種明かし」をしないようにすると、逆にできない人に「伝わる」ように思います。

これは家でよくあることなのですが、妻が家で家事や子育てをやって僕が仕事から帰ってきます。その時自分は疲れていたとしても、妻に「今日はありがとう」とまず言います。
逆に僕が家で家事やって妻が仕事をして来たら、僕が家事大変だったとしても、妻に「仕事おつかれさま」と言います。

こういうのが自然にできる人は素晴らしいと思いますけど、僕にはなかなかできなかった。今考えても何か納得いかない。なぜかと言うと僕も「大変」だからです。「僕も大変だし君も大変だ。だから僕には君を気遣う余裕はない。お互い様だ」と僕が思って、妻もきっとそう思ってるのだろうと最初は考えていましたが、そうではなかった。

こういう場面で「ありがとう」とか「お疲れさま」とまず言うのは何となく「女の役割」みたいな感覚が僕にもあったのだと思います。だけど今の時代男性も女性も、父親も母親も、その役割や考え方が家父長制みたいにすっぱり分かれているわけではないし、平等にやることは素晴らしいんだけど、どこかで古い因習的な考えを引きずっているのだと思います。
そこで、自分からまずかつて「女の役割」みたいにされていたその「役目」を、僕が「仮説」を通じて演じるというような、そんな「戦術」を使っているのですが、これが意外に悪くないのです。

ああ女性はずっと「演技」して来て大変だったんだなあ、と思います。これは意識的にやるからいいのだと思います。変な話「何かよく分かんないけど、とりあえず謝っとけ!」みたいなノリです。そうでないと「共依存」になるので、こういうマジシャンみたいなことができるのは「男性」の方ではないでしょうか? 何か定型・アスペではなく、僕が「男性・女性」みたいな分け方してますが、僕はこんな感じでやってます。

ケイさん

 詳しく説明して頂いてありがとうございます。
 ケイさんって男性だったんですね (^ ^;)ゞ
 なぜか女性と思い込んでいました (笑)
 なんでだろう???

>この「仮説」の中で「分からない人間」「理解してくれない人間」はパンダさんになっていると思うのですが、いかがでしょうか?

 実際の家庭教師の場面ではそうです。ただしここでの比喩では,パートナーの方がそちらで,私は彼女の言うことを理解できない子どもの立場ということで書きました。ちょっとややこしくてすみません。

>ああ女性はずっと「演技」して来て大変だったんだなあ、と思います。これは意識的にやるからいいのだと思います。変な話「何かよく分かんないけど、とりあえず謝っとけ!」みたいなノリです。そうでないと「共依存」になるので、こういうマジシャンみたいなことができるのは「男性」の方ではないでしょうか?

 ケイさんがこの問題についての努力の中で今たどり着かれたところは,「お互い様」ではあっても,まず自分から相手の視点に寄り添うことで,事態を変えるきっかけを作る,といった感じでしょうか。

 そこがきっかけになって,事態が変っていき,相手の方の見方も変わってくる,という展開になれば,それもひとつの大事な方法なのかなと思います。

 そこで,これまでいろんな方の経験を伺って,やり取りさせていただいたことを思い起こして考えてみると,そのケイさんのスタイル(上のような理解で合っていればですが)でうまくいくかもしれないケースと,むつかしいケースがあるように思います。

 むつかしさを感じるのは,カップルの関係の中で,定型が「弱者」の立場に置かれている場合です。相手に合せて「譲歩」を積み重ねた場合,相手の方は自分のやり方に問題を感じないまま,それまでのやりかたを続けたり,場合によってはもっとひどくなる可能性を感じるんですね。

 あすなろさんの家庭などでは,そこでは「譲歩する」というのともちょっと違う形で努力をされていて,かなりシビアな状況の中に,それでも変化が生まれているように思いました。

 いろんなパターンがある中で,それぞれのカップルにとって一番いいやりかたがどの辺になるのか。ケイさんにいただいた工夫などもその一つとして,そんなことについてもだんだんと見えてくるようになるといいなと思います。


すみません、男というか、親父です、、、。

そうですか、パンダさんが「生徒」で奥さんが「教師」、、、となるともう鏡の中の鏡みたいになって、本人にも第三者にも何が原因なのかもう分からなくなりますね。

>ケイさんがこの問題についての努力の中で今たどり着かれたところは,「お互い様」ではあっても,まず自分から相手の視点に寄り添うことで,事態を変えるきっかけを作る,といった感じでしょうか。

説明するのが非常に難しいのですが、おそらくそれぞれは「お互い様だね」と思っていると思います。
。しかし相手の態度や言葉の端々から「あなたは本当は『自分が一番苦しい』と思ってるんでしょう?」とお互いが疑心暗鬼になっているような状態です。

こういう「鏡の中の鏡の中の鏡の、、、」というような状態になった時にそれを「俯瞰する」ことができるのはほとんど不可能なのですが、どうしても理詰めで考える「男性的思考」をする側の方に、「仮説」や「説明」の中では分があるように思います。

そうやって「説明」する(僕は『種明かしする』という表現をしましたが)ことによって、どちらかが「傷つき沈黙する」という事態になると、もう出口がなくなるように思います。

僕の場合はそこで自分が「演じる」という役割を担うことで「事態が好転した」と思っていますが、それはおそらく妻が「女性として社会的役割を演じなければならない」というプレッシャーを感じながら生きて来たからだと思います。

それぞれのパートナーがそれぞれの「プレッシャー」「望むこと」「欲望」があって、それはそれぞれの家族から受け継いだ根源的なものだと思うのですが、「結婚して新しい家庭を築く」とそれがガチでぶつかり合うのだとと思います。誰にとっても初めての経験で、コンフリクトは家庭の数だけ無限にある。だからそれぞれが独自に相手が「何を望んでいるのか?」を読み解く必要がある。

そこでパンダさんがおっしゃる「譲歩を重ねた結果定型が弱者に置かれ、もっとひどくなるケース」も考えられると思います。

その「欲望」が「家庭を壊すこと」「相手の人格を破壊すること」にあるような「人格障害」的な場合も考えられるので、そういう場合は「相手の視点に寄り添って演技をする」なんて生易しいことでは終わらないと思います。それこそいいように利用されて「共依存」に陥って精神崩壊すると思います。

その見極めは難しい。同意します。ただ、ネットで見ていてあまりに早急に「この人はアスペだから」と決めつけているケースがあるように感じたので、コメントさせていただきました。

ケイお父さん(?(笑))

 ありがとうございます。
 
>そうやって「説明」する(僕は『種明かしする』という表現をしましたが)ことによって、どちらかが「傷つき沈黙する」という事態になると、もう出口がなくなるように思います。

 たぶん,ここの辺りが少なくとも私個人にとっては何か重要な問題を提起して頂いているような予感はするんですが,申し訳ないことにまだ「ああそうか!」という感じにはたどり着けないでいます。

 たぶん結構深くて大きい問題なのかもと思うので,私なりに理解するにしてもある程度時間がかかるのかもしれません。かみ合った応答がすぐにはできず,申し訳ありません。またぼちぼち教えていただきながら,少し長い目で見ていただければと願っています。

 合わせ鏡の例え話は分りやすかったです。確かにこのブログの記事などで私がやっていることは,定型の私がアスぺの方を鏡にして,自分自身を理解し,そしてアスぺの方から見える自分の姿を想像し,アスぺの方から見える私に写っているアスぺの方の姿を考え,というようなこととも言えますから,その中に入り込んでしまうだけだと永遠に抜けられないですよね。

 その点については,私は「というような合わせ鏡の作業をやっている自分は何を感じて,アスぺの方と何を作ろうとしているんだろう?」というような,そんな問題をいつも気にしているので,そこでは無限の中に落ち込んでしまう,という感覚からは逃れているような気がします。

 それと,そのサイクルの中に疑心暗鬼があるかどうかちょっと考えてみたのですが,そこは自覚できる範囲では,あまりないようです。辛さはあるんだけど,そこは「彼女も立場を変えれば同じなんだろうな」という理解が深まることで,不信感が拡大していくことにはならないのかもしれません。どこまでそう言えるのか,はっきりは分かりませんが,なんとなくそんな気がしました。

 なんにしても定型アスぺ問題は,「あちらを立てればこちらが立たず」という形に落ち込んでしまうものがとても多いような気がします。そこはどう乗り越えられるのか,あるいは受け止め方自体を何か変えるべきなのか,まだまだ私には大きな謎です (^ ^;)ゞ


 

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