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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年3月

2015年3月31日 (火)

傷つく仕組み

 アスぺの方が自然な感覚で言われることが,時として定型にとってはとても傷つく体験になるのはなぜか。どうしてアスぺの方にそういう意図がないのに定型にそう受け止められてしまい,逆に定型はアスぺの方にそういう意図がないことを一応は頭で分ってもなお,言われると傷ついたりするのか,ということは,前からずっと謎に思っていたことでした。

 不勉強なので,すでにそういうことについて,何か説明がついているのかもしれませんが(もし御存知の方があれば,是非お教え下さい),ただ,私がこれまで見た中では「それはアスぺの方が社会性とか他者理解に<障がい>を抱えているので,他者に配慮した言い方ができないからだ」というような説明には何度か出会った気がしますけれど,どうもそれでは分り切った感じになれずにいました。多分その説明の仕方は,あくまで定型目線の説明の仕方で,そこにアスぺ目線が含まれていないと感じるからかもしれません。

 それで昨日の「なかなか身につかない話」を書いてからそのことについて少し考えが進んだ気がして,それを言葉にしてみたくなりました。

 これまでのみなさんとのやりとりや頂いたコメントの内容などから,定型の側が人と語り合うとき,「お互いの関係を調整する」という目的がかなりのウェイトを占めるのに対して,アスぺの方は「事実を確認する」という目的が大きい,という姿勢の差がありそうだということはなんとなく見えてきていました。

 で,そういう姿勢の差があって,そのずれに気づいていないときは,コミュニケーションがなんだかぎこちなくなりますし,相手の意図が分らない,という感覚もお互いに生まれやすいでしょう。

 定型の側は,「お互いの関係を調整する」という姿勢が強いので,あることをその相手との関係や相手の状態に合わせて表現することが重要になってきます。そして自然に,ほとんど意識もしないくらいのレベルで,表現の仕方の中に「私はあなたの味方です」とか「あなたとはちょっと距離をとりたいです」とか,あるいは「もうあなたとは冷たい関係です」「あなたとははっきりと敵対関係になりました」といったメッセージを込めてやりとりをすることが多くなります。

 定型にとって「この人は自分の仲間なのかどうか」ということはかなりシビアな問題で,いじめなどで「無視」がものすごく大きな力を持つのも,そういう定型的な気持ちがあるからでしょう。そして「仲間かどうか」というのは必ずしも安定したものではなく,うつろいやすいので,常に「今はどうなのか」を気にし続けなければならない。だから表現の仕方に込められた上のようなメッセージには敏感になります。

 普通に「今は別に何の問題もないよ」といういつも通りのメッセージを出し合っている間は,特に緊張もせずに気楽にいけますが,一旦違うメッセージが出され始めると,とたんに緊張が高まり,「それは何?何が問題なの?」と不安になる。

 そしてアスぺの方の「事実を確認する」というスタイルは,「冷静である」とか「客観的である」とか,そんな意味も持つ場合もありますが,定型にとってはしばしば「気持ちがこもっていない」とか「冷たい見方だ」と感じられることにもなり,場合によっては「あなたとは共感的に理解しあうことは無理だから,あとは冷たくビジネスライクにやりましょう」という宣言の意味を持ったり,さらには「あなたの感情には付き合っていられないし,あとは事実で戦いましょう」という宣戦布告のメッセージになったりさえするわけです。

 定型では特に親しい関係では,相手に自分の気持ちを理解して受け止めてもらうことがとても大事になります。辛いときなどは特にそうですね。もちろんその内容によっては受け入れがたく,批判的にならざるをえないこともありうるわけですが,そういう場合に批判するにしても,それは相手の期待には反していることを踏まえて「あえて厳しいことを言う」という姿勢になることが望まれていそうです。

 その場合には「こういう厳しいことを言うのは,私も辛いんだけど,あなたのことを考えると言わずにはいられないんです」というような言葉かけを伴ったり,あるいはなんとなくそれを感じさせるような表情が加えられたりして,「批判的なことを言うけれど,私はあなたの味方なのだから」ということを同時に一生懸命そこで伝えようとするのですね。

 ところが,定型からするとそういう期待感をもって自分の大事な人と話をしようとしたところが,アスぺの方から「事実の確認」という,期待とはずれる応答がやってくるということが起こります。しかもそれがとても困惑した表情だったり(定型の話はアスぺの方にはわかりにくいことが多いので素直に困惑の表情が出て来る),あるいは昨日の記事にも書いたように,その「事実」自体に対する怒りを伴っていたり(アスぺの方は親しい人に対しては話題自体に対する素直な感情をそのまま表現する),ということがしばしば起こり得るわけでしょう。

 アスぺの方にとっては,これは素朴に分らないことを質問しているだけだったり,気持ちに素直に振る舞っているだけで,そのことで相手との関係をどうこうしようとか,そんな意図は全くないのだと思います。けれどもその素直な振る舞いが,定型にとっては「あなたとの関係は非共感的で,敵対的なものです」というメッセージとして感じられてしまったりするわけでしょう。その結果,自分がいちばん親しみを持ちたい人から敵扱いをされて切り捨てられたような感じになり,定型の側は「傷つく」のではないでしょうか。

 アスぺの方からするとこれはなかなか理解しにくいことのように想像します。アスぺの方は親しい関係だからこそ,素直に事実やそれにまつわる自分の感情を表現したいわけで,そこで変に相手に気を遣って(接待して)うわべだけの,とりつくろった世界を作りたくはない。そしてそこで怒りを表現したとしても,あくまでそれはその事態に対する怒りを表現しているわけで,相手に対する怒りではないのも,アスぺの方にとってはあえて言う必要も考えられないくらい当たり前のことかもしれません。

 当然,アスぺの方にはそこに何か「言い方を工夫する」という発想は生まれにくい。というか,それはむしろ「親しくない者同士の関係」になってしまうことです。ですから,その自分の表現に対して定型から非難され,攻撃されさえするというのは,ほんとうに訳が分からないことになる。だからその得体のしれない非難・攻撃に傷つき続ける。


 得体のしれない非難や攻撃を受ければ,だれでも傷つき,あるいは怒ったり,恨みに思ったりするでしょう。自分の立場が相手より強ければ,それが相手に対する激しい反撃になったり,相手を抑圧して支配するような行動につながるかもしれません。そうでなければ自分の中で問題を抱え込んで,ひたすら耐えようとすることになるかもしれない。そういうことに定型もアスぺもないだろうと思います。

 たぶん,どちらにとってもそういう事態は,自分にとって親しい間柄では当然の行動をとったにもかかわらず,得体のしれない非難や攻撃を受け,深く傷つくという体験なのだろうと思えます。お互いに親しみを感じているからこそ,そのずれによって深く傷つく。親しみを深く求めれば求めるほど,逆にそのずれによって期待が裏切られることが重なり,傷も深くなるのです。

 

 もしそういう私の想像がある程度あたっているとすれば,ほんとにどっちもどっちの世界でしょう。同じような経過で,どちらも深く傷つく。その傷をいやそうとして努力すればするほど,逆に傷が深まり続ける。そういう事態に耐え切れず,自分を守るために本当に相手を意図して激しく攻撃し始めれば,それはまたさらに新たな傷を作っていく。救いようのない泥沼になっていきます。そこで傷つく仕組みやそれへの対応の仕方は定型アスぺ共に似たようなもので,ただその出発点の感覚にズレがあるだけのことになります。

 という感じで考えると,私は今のところわりといろいろなことについて分ってくる感じがあります。それでどこまでの拡がりと深さで事態が見えるのか,その見方からどういう新たな対応の仕方が見えて来るのか,また皆さんの体験やご意見などもうかがいながら,ぼちぼち考えてみたいと思います。



 

 
 
 



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2015年3月30日 (月)

なかなか身につかない話

 なんだか中々成長しないなあと思った出来事についてです。

 ある保険屋さんと契約内容についての事務的な手続きを私がして,その際,保険屋さんはさらに追加の契約について勧めてきました。で,パートナーにあとでその話をしたときのことです。なんだかすごく怒っているような口調で,一体何を勧めてきたのか問い詰めるように私に聞いてきました。

 別に私が彼女に相談せずに勝手に何かを進めたわけでもなく,単に一つの情報として,そういうことも伝えて相談しようというだけのことだったのですが,なんだか話をしたこと自体を頭から非難されているような気分になって,すごくしんどくなったんですね。なんなんだろう?とまた思いました。

 それからしばらくして,彼女の方からその手の保険勧誘について,かなり強引なやり口で老人を勧誘したりする事例に接して,彼女が強い不信感を持っていることを話してくれました。

 それでようやくわかったんですね。あの私に対する非難口調は,実は私に対するものではなくて,その保険屋さんに対するものだったのです。で,その保険屋さんに対する憤りの思いが,私と話をしていてそのまま出てきて,そして結果として私にそのまま向けられた形になってしまったことになります。

 たぶん彼女としては私を非難するつもりは全くないのでしょう。ただ,定型的には「この怒りは保険屋さんに向けられているもので,今はなしている相手は仲間なのだから,その怒りを「聞いてもらって同意を得る」とか「共感を求める」ことが大事で,その人に直接ぶつけたり,そう誤解されることはしない」というスタンスで話すのが自然なところ,そういうクッションというか,区別がないということになります。

 要するにAさんに対する怒りをBさんに話している時,Aさんへの感情がそのままの形でBさんに表現されてしまうだけだということなわけで,だからもし彼女に「理不尽に」責められて私が腹を立てて「反撃」したとすれば,彼女は訳が分らなくなって,「なんで私を責めるの?」というショックの受け方をすると思います。

 そのことに気づいて,自分が責められたわけじゃないということで,まあちょっと気分的には楽になりました。

 で,そのとき,「ああ,このパターンって前もあって,その時にも同じことに気づいたんだったなあ」と思ったんです。

 前にそのことに気づいてたときにもたしか記事にしたように思うんですが,それにも拘わらず,今回「非難された」時に,そのことがすぐには思い出せずに,またしんどくなっていました。違いは,気づくのにかかる時間が今回は前よりだいぶ短かったということでしょうか。ただそれも彼女が気づかせてくれる話をしたからで,それまではその可能性をすぐには思いつかなかったわけです。

 こういうの,なかなか身につかないものだなあとちょっと情けなくも思いました。

 

 
 
 



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2015年3月29日 (日)

個性的な定型アスぺ問題

 またもや最近感じていることです。

 定型アスぺ問題を考える時に,「定型はこうだ」「アスぺはこうだ」というような違いの発見があって,それは大事な意味を持っていました。それはお互いにとって相手の「当たり前」が違っていて,その結果おかしなコミュニケーションになり,そこで悲劇的な対立が生まれたり,時に暴力的な支配が行われたりすることがある,という可能性を知ることで,そうではないつながりを模索するきっかけとなるからです。

 で,その次のステップとして,そういう違いを持ちながらもなおつながって生きていく上でも,またその違いをよりよく理解する上でも,「違いはあるが,もっと基本的なところでここは共通している」という面を見出すことも大事になりました。それは違いに気づかないまま,勝手に自分の常識を押し付けて,「そこは同じに決まっている」と決めつけることではなくて,むしろ違いを突き詰めていくことで,「でもこの部分はもうどうしても共通してしまっているなあ」と感じられるような部分になります。

 これは私の感覚ですが,そういうところが見えてくると同時に,「相手がこう感じるのは,自分がもしそういう状態に置かれれば無理もないと思える」という形の想像力が働き易くなってきます。「相手の身になって,共感的に理解する」ということが改めてでき始める気がするのです。もちろんそこでもズレはいつでも起こりうることですが,お互いのズレに気づかない段階での,押しつけ的な共感とはやはり違いが出てきます。

 そんなふうに,「違い」を前提にした「同じ」の気づき,そして「ズレ」を前提にした「共感的な理解」が生まれ始めると同時に,面白いことに今度は改めて「それって定型アスぺ問題というより,個人の性格の問題じゃない?」とも見えるような話がぼちぼち増えてきた感じがするのです。

 私の記事で書いている中身についても,そんなコメントを頂くことが増えてきた気がしますし,みなさんのコメントでのやりとりを拝見していても,カップルによってすごく違う,という面が大きく問題になってくるような例が増えていると感じます。

 改めて「定型」VS「アスぺ」という枠で決めつけてみるのではなくて,それぞれに個性的な個人同士の関係,というところから,それぞれのひとが「自分の所はどうなんだろうか?」ということを個性的に見つめなおすことに意味が出てきているような印象を持ちます。

 それは「定型アスぺ問題」からもう一度「個人同士の問題」に戻ったという面もありますけれど,でも決してズレに気づかない段階に戻ったわけではないでしょう。その違いはたぶんこんな比喩でも言えそうに思います。

 一般的に,男女のカップルが抱える問題は「男ってこうだよね?」とか「女ってこうでしょう?」と言えるような「男女のズレ」として見えてくるものがいろいろあります。で,そういう「男女の違い」を理解することで,お互いの関係を見直したり,調整したり出来る部分もある。

 でもさらに突っ込んで見ていくと,「男だから」とか「女だから」ということを超えて,「この人だから」とか「この人とこの人の組み合わせだから」という風に,すごく個性的な問題として改めてカップルの問題が見えて来る。

 じゃあそのとき,「男だから」とか「女だから」ということは関係なくなったのかといえば,決してそうではないはずです。それぞれに個性的に生きてきた人が,その個性的な生き方の中に,「男」の部分や「女」の部分を持ちながら自分を作り,また相手との関係を作ってきているからです。

 だいぶ前にこのブログでも「障がい」と「個性」を分けられるのかどうか,ということについての議論があったように思いますが,「障がい」も「個性的に成り立つ」し,「個性」の中に「障がい的な要素」が一体になってある,という感じで見られるのではないでしょうか。

 定型アスぺ問題についての理解が深まれば深まるほど,定型同士の共通性やアスぺ同士の共通性,そしてその両者のズレが見えてくると同時に,今度はそういう見方だけでは見きれない個性の違いもまた大きな意味を持ってくるようになる。

 そこで定型アスぺ問題への対処の仕方も,それぞれの個性的な現実に合わせたそのカップル独自のものを考えていく必要が増えていく。そんなワンセットの関係がそこにはあるような気がします。

 そしてさらに具体的なところで言えば,定型にしてもアスぺにしても,成育歴などがかなり大きな意味を持っていて,同じ定型,あるいはアスぺにしても,その部分で違いが大きいと,カップルの間に生まれる問題が相当違った形で現れるし,相手に対する印象も,「根っこのところでは信頼できるか,そこに困難があるか」といった所も,そしてそれにどう対処したらいいかについても,かなり基本的なところで違いが出てくるような気がしています。

 

 
 
 



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2015年3月28日 (土)

「真意」をくみ取る可能性?

 パートナーがこのブログはむつかしすぎて全然わからないと繰り返し言っていたので,自分がやっていることは彼女に対しては結局意味を持てないのだろうかとずっと落ち込んでいました。

 それが今日,ブログの記事なのか,あるいはそこで考えたことを彼女と話してなのか,とにかくそこで定型アスぺ問題について理解を深めてきたことについて,「そのおかげで」彼女が仕事の上でもすごく楽になっていると言ってもらえました。いろいろ予想が立つので,対処しやすくなったと言います。

 これはほんとうにうれしいことで,ちょっと感激してしまったのですが,彼女に言わせると,そういうことはこれまでも何回もパンダに言ったはずなのに,やっぱり伝わってないんだね,ということでした。

 そうなんです。ほんとに不思議ですが,実際否定的な感想しか私には印象に残っていないんです。そういうことで辛くなるんですね。でも今日は報われた気持ちになりました。

 マイナスの評価は伝わりやすく,プラスの評価は伝わりにくいということが,もし定型アスぺ間で起こりやすいのであれば,お互いの関係が悪くなっていくのは当然ですよね。でも逆に言えばなぜそういうことが起こりやすいのかが分ってくれば,「真意」をくみ取る可能性が出てきますから,関係を作りなおす大事な手がかりがそこから得られるかもしれません。

 
 
 



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2015年3月27日 (金)

接待と搾取

 このところ展開しているコメントのやりとりの多さと濃さにびっくりです。ブログ主としてはひとつひとつに丁寧にお答えすべきとも思うのですが,すでに私のキャパを完全に超えてしまっていますし((^ ^;)ゞ),無理しても長続きしませんし,ここは「みなさんの間の交流場所を提供するブログ主」というふうに自分の役割を都合よく限定させていただいて,議論には基本的には「参加者の一人」として参加させていただく,という形にさせていただけるとありがたく思います。

 ところで私は「定型的な感覚とアスぺ的な感覚をどうやったらつなぐことが可能なのだろうか」ということを考え続けてきたところがありますが,そこで今までのところ感じていることは,「上手な比喩はうまく感覚をつなげる(ように感じられる)ことがある」,ということです。

 今回,アスぺの側からKatzさん亜紀子さんが「接待」と「搾取」という言葉を使って定型アスぺ問題でアスぺの方が出会う辛さや苦労を説明してくださいました。これが私にはすごくリアリティがあって,「ああそういう感じで見るとちょっと分った気になる」と思えたのです。

 詳しくはお二人のコメントを直接ご覧いただければと思いますが,多分「接待」というのは,自分の気持ちはとりあえずおいておいて,何かの目的をもって相手の人の気分を良くするように努力して対応することでしょうから,多かれ少なかれ気疲れもしますし,目的によっては罪悪感さえ感じるかもしれません。

 この感じは定型でも別に違和感なく想像できますよね。で,Katzさんが言われるように,毎日仕事など,家の外に出て人と接するときには全てその状態が続くとしたら自分がどうなるかを考えてみます。それはもうへとへとになるでしょう。家に帰ってまでその状態を続けろと言われれば,それは地獄になるはずです。

 新婚ほやほやとか,特別の時にはそれでも気分の高揚もあるでしょうし,しばらくは「家でも接待」でいけるかもしれませんが,それが長続きするわけはない。身が持ちません。……ということを少なくとも「そりゃ無理もないよな」という程度には感じられるようになります。

 「搾取」という話も,私はこれまでそういう見方が全くできませんでした。自分が持っているものを極限まで搾り取られる,という感じでしょうか。たとえば子どもが勉強していて,あるいは大人が仕事をしていて,自分なりに精いっぱい頑張る。ところが力を出し切ったと自分では思っても,相手(大人とか上司)が「まだまだ」と言って全然満足してくれない。もっと頑張れ,もっと頑張れとずっと言われ続け,最初は息切れしながらもなんとか頑張ろうとするが,そのうちにもうつばも出ないような状態になってしまう。それでもまだ相手の要求は留まる事を知らない……

 ちょっと恐怖の事態ですよね。

 もしそういうことを定型として私がパートナーに求め続けていたのだとすれば,これはちょっと深刻です。求める気持ちがなくなるかどうかはわかりませんが,でも彼女の置かれている状況のしんどさが,多少なりとも感じられるようになります。


2015年3月25日 (水)

つながりの共有とズレ

 B-bさんのコメント

「ASと関わっていくには 見返りを求めないこと どれだけ深い関係になったとしてもあっさり 別れがやってくることを覚悟の上でないと 定型は壊れてしまうと思います。」

 とあって,定型アスぺ問題はそういうぎりぎりの深刻な問題なんだよなあと,改めて思います。 

 あすなろさんも三つの例を挙げて,発達障がいといった見方もなかったころの苦労を紹介してくださっています。

 「障がい」という理解の仕方は,そうやって一部の方を枠づけることで自分たちから切り離して排除する方向にも進みうるし,違いを前提にした援助や関係の調整のほうに進むこともあるし,両刃の剣というところがあります。

 いずれにせよある程度以上(その境目はむつかしいですが)に違いが大きくなると,自分が今ある程度安定して,健康的に自分を保てる範囲を問題の大きさが超えてしまって,相手を切り離すか,自分を変えるかしないとどうしようもない状態に追い込まれて行くでしょう。

 そういう問題なんだ,という理解が持てないと,今の自分の考え方,感じ方で,今の努力の仕方で問題に対処しようとし,また周りからもそうすることを求められ,それができなければ「自分の努力が足りない」とか「もっと頑張らなければならないでしょう」とか「それは我慢しなければ」とか,そんな圧力が自分の中からも外からも続くことになって,泥沼に入り込んでいくでしょう。

 あすなろさんの紹介してくださった例なども,それが本当に悲惨な状態に進んでいった例なのだろうなと思います。

 落語の人情話なんか聞いていると,「ああ,これは今なら人格障害の話になるんだろうなあ」と感じるものに何度か出会います。でも落語が作られた当時はそういう理解はないわけですから,そこはなんとか「人情」で問題に対処しようとし,それが美談になっています。ただ実際にはそんなに美しい結末で終わることはむつかしかったでしょう。一時そういう感じになったとしても,その状態が保てるかどうか。

 夫婦関係などは,どうしようもなく密室化していく可能性がありますし,以前,夫に対して殺意を抱き続けるまでになったエピソードも,なにかで読んだか聞いたかしたことがあって,当時はただ驚くだけで理解できませんでしたが,そこまで追い詰められたとしても無理はないような,そんな問題の深刻さを今はかなり感じ取ることができるようになってきました。

 (これを書いていてふと気づきましたが,少し前なら同じようなことを書くとき,そこで「追い込まれて苦しむ」の側の人としては,定型をイメージしただろうと思います。それは意図してそうなると言うより,自然にそういうイメージがわいてきてしまうという感じで。ところが今はアスぺの方も結局同じ状況に置かれていると,わりと自然に思え,上の文章を書きながら,イメージが定型の側に全然限られませんでした。これも自分の中に起こっている大事な変化の一つかもしれません)

 やはり違いを前提にしたつながり方を考えることがどうしても必要なのだと思いますが,そこで次に問題になるのは,違いがあったうえで,なおかつ繋がれるのはなぜか,なにがつながりを可能にするのか,という問題だろうと思います。このことについては,これまでは相手に何かの魅力を感じるとか,相性の問題とか,その程度のことでしか考えられなかったし,表現もできませんでした。

 今もそこに大きな前進があるというわけではないのですが,ただ,なんとなく次のようなことを今日感じて,それが心に残ります。

 B-bさんの言葉をお借りすれば,

「基本 ASの方は そのあたりが あまりにもサッパリしすぎていて 情 というものが ないようにも感じます、どれだけ 心をつくしても 伝わらない気がします。、いえ 伝わっているのかもしれませんが それを あらわす方法がわからない?のか とにかく 一方通行なんですよね・・」

 と定型の側からは感じられるような,そういうことに私も含めて多くの定型が苦しむんだろうと思いますが,これもふと,家のことを一生懸命やっているパートナーの姿とか,あるいは老人福祉関係の仕事で一生懸命老人の生活をサポートしている彼女の姿とか,そのイメージが湧き上がってきました。

 そして,彼女は人にとって一番基本で,一番大事な「暮らし」や「いのち」を一生懸命守ろうとしている,ということを思ったのです。そして彼女にとって私と暮らすということは,その一番大事なことを一緒にやることに他ならなかった,という理解が,なんだか今までになくリアルに感じられてきました。

 私はたぶん定型の中でも特に「観念的」な傾向が強くて,暮らしのことなどはおろそかにしがちです。家事も最低限用が足りていればそれで構わない,という感覚で,細かいところにこだわる気持ちにはなれません。そんな時間があれば,もっと「価値のある精神的なこと」ができるはずだと,そんな風に思ってしまうタイプです。

 そこまで家事に時間を使うよりも,もっと簡略化して,一緒にどこかへ出かけて楽しんだりしたほうがいい,と思ってしまうタイプです。

 だから,彼女が家事の細かいことにこだわることも,文字通り「へんなこだわり」としか感じられなかったし(もちろん定型で細かい人よりも,実際にかなり細かいのだとは思いますが),枝葉末節にこだわって「人間にとって大事な精神的世界の共有」を拒否されているような,そんな印象を繰り返し抱いてしまうことにもなりました。

 でも,そういう私の態度や感じ方が,彼女を苦しめていたわけですね。彼女にとっては私のこだわる「精神的な世界」とか「観念的な世界」みたいなもの,そして「感情の共有の世界」は,「暮らし」や「いのち」という一番大事なものの上に乗っかっているだけのもので,価値がないわけではないけれど,それこそが逆に枝葉の部分なのでしょう。たぶん。

 ですから,「家族」として一番大事にしあいたい「暮らし」や「いのち」に一生懸命になる自分のことを,枝葉の感覚で軽く見られてしまい,自分の価値,感覚が認められないことに苦しむ状態に置かれ続けていたのだろうと思います。

 そういうすれ違いの結果生まれた,すれ違いのことばのやりとりを,今になっていくつも思い起こすことができます。彼女の基準からいえば自分が本当に大事にしている「家事の価値」を認めてくれないことになる私の言動に,彼女は傷つき続けただろうと思います。

 それは彼女が私と「大事なものを共有しようとした」ことを,否定し続けたことになるのでしょう。それは私が「感情の世界の共有」とか,そういう,自分が幸せに直結すると感じるような大事な世界を拒絶され続けてきたように感じるのと,ちょうど裏返しの関係になっているのではないでしょうか。

 もちろんアスぺの方も多様で,りんごさんが経験された相手の方のように,家族という関係に特別の価値を感じないように見える方もあるのでしょうし,そのあたりも「スペクトラム」なのかもしれません。また育ってきた環境や親の価値観なども影響しそうですが,私のパートナーの場合は「家族」という関係は本当に全く別格の重要性を持っていると感じます。

 だから,彼女もその「家族」を一生懸命共有しようとしたのですよね。でもその思いの重さが私には全く伝わらなかった。今もその感覚のズレが根深く続いていると思います。

 そう考えていくと,定型アスぺ間でも,人による濃淡の差はあるでしょうけれど,「関係を大事にしようとする」とか「つながりを大事にしようとする」ということはかなり共通しているのかもしれません。ただ,何をすることがその関係やつながりにとって一番大事なことなのか,という点でズレが起こる。そこでもしかすると,お互いに傷つけあっているのかもしれません。

 もしそうなら,そこから逆に共通する部分を何かの方法で深めていくことはできないのだろうか,そんなことも思います。
 
 



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2015年3月24日 (火)

お金か愛か

 Katzさんからまた面白い問題提起を頂いて,ちょっと考えています。

 話の筋はこんなことです。

 私が記事「目的の共有」であすなろさんのコメントからヒントを頂いて,「目的を共有し,やり方は個々人に任せる」というスタイルが定型アスぺ間でもしかして意味があるのではないか,ということを書きました。

 ただし,それは「やり方はそれぞれで,一緒にはできない」という意味を含んでいて,そこでは定型が重視する「一緒にやる」ことで生まれる「一体感」については諦めざるを得ないことになりそうだと私が書いたことについて,Katzさんが

自分らしく生きるとか、相手を尊重するとか、個性を大事にするとか、そういうのの具体的方法論として「目的だけ共有」が挙げられるのではないかと。というか、私には他のやり方を思い付けませんでした…。

 とコメントを下さり,それで「定型的な一体感についてはあきらめざるを得ない」という私の説明がわかりにくいと疑問を呈されました。

 私は「定型は「目的の共有」だけではなくて,「一緒にやっているという感覚」に結構大きな価値を感じていて,場合によってはその感覚を得ること自体が「目的」にもなるんだと思います。」という形で説明を試みました。それに対して,Katzさんが今回こんな問題提起をしてくださったわけです。

言ってしまえば、「一緒にやっている感覚」が大事なら、それを「目的の一つ」として掲げてしまえばいいのではないかと。裏の目的として隠してしまうから、アスペ側からわかりにくくなるのではないかな、と…。明確にぶちあげるならやり方はあると思います。勿論、何を共有しようとしているかにもよりますが。

 これは私にとってはちょっと意表を突くような問題提起で,ことばの表面的な意味は分かるのですが,具体的には何を意味しているのか,どう受け止めてどう考えたらいいのか,よくわかんなくてある意味「頭が真っ白」になるような(笑),そんな感覚がありました。

 ということは,多分こういうところにも,定型アスぺ的なものの見方のズレが隠れていて,それは結構大事な部分なのではないかとも思えたのです。

 今もそれが何のどういうズレなのかつかみきれないのですが,とりあえず思いつくところから手掛かりを探すとすれば,まずは「裏の目的としてかくしてしまう」ということがぴんと来ませんでした。それはたぶん「目的の共有」ということと,「目的達成の過程を共有することから生まれる一体感を得ること」ということと,その二つを定型は(?)ほとんど区別していないんじゃないかと思います。だから,「目的の共有」を言うと,自動的に「一体感」がそこに付随してくる感じがあって,特に「裏」でもないし,「隠す」ことでもない。

 定型的にはたぶん「おそばを食べました」と言った時に,「そばつゆでたべました」と言わなくても,「ソースをかけてたべた」可能性は考えられていない,というくらいの感じで「暗黙の了解」になってしまっているのかもしれません。でもそこの「暗黙の了解」は定型アスぺ間では共有されない可能性が大きいということなのかもしれません。

 ただし,「目的の共有」と「一体感を得ること」は定型の場合でも必ずしも一致しない場合もあります。それはかなり「政治的」なやり取りの場合で,最近よく言われている言葉で言えば「戦略的互恵関係」でしたっけ?相手と感覚的には対立的になるんだけど,利害関係でつながりを保とうみたいな話ですよね。そういう場合は「利益が一致する」というところだけに焦点を当てるようなことになるのでしょう。

でも,わざわざ「戦略的互恵関係」とか大仰なことを言って,そういう関係であることを確認しないといけないように,そういう関係は「仕方のないやりかた」みたいな受け止められ方をしていて,その限りで普通ではない,という意識があるんだと思います。本当は「信頼しあう一体感」があるべきなのに,それができないからあとは利害だけで結びつくという,かなりマイナスの感じがあります。

 なんか最近見た韓ドラの恋愛コメディでもそのあたりがしつこく問題になっていました。経済的に苦しんで,そのせいで恋人とも別れざるを得なかったヒロインが,偶然にセレブの男性と出会って,ちょっと火花が散って恋に落ちる。ただ最初は相手がセレブだとは知らなかったのだけれど,知ってからは「貧しさから脱却するために」もその相手との関係を考えるようになる,ということが起こって,そこでもともとは純愛派だったヒロインが葛藤に悩みながらセレブの世界を目指していろいろな恋愛テクニックを使うようになるわけです。

 で,もともと過去に深く傷ついた心を,彼女の純愛によって癒されていたそのセレブの男性が,彼女によって自分が「利用」されようとしていた部分を知ることになり,ショックを受けて大変になるわけです。

 その周辺に描かれるセレブのカップルも,いずれも「ビジネス」と「愛」の葛藤を,「ビジネス」を最優先にして割り切る形で困難を乗り越えてきていて,夫婦関係でもそれはもう「取引」であって,「愛し合う」関係ではなくなっていきます。で,そういう割り切りができない人間はビジネスでは役に立たない人間だ,という話になっていく。

 「お金」か「愛」か,「利益」か「信頼」か,「目的」か「一体感」か,なんかそういうことが激しく矛盾してしまうときに,ドラマが生まれるんでしょうね。ヒロインは自分のせいで傷ついたセレブ男性に対して,「利用することと愛することの区別が今は自分にはわからなくなっている」というようなことを言うのですが,考えてみればそこを特に意識して区別していない方がむしろ普通の定型的な感覚なのかもしれません。そこをベースにしながら,人によって「お金」にウェイトが強くなる「利己主義者」と,「愛」にウェイトを強く置く「純愛派」が分れて時に対立するとか,そんな感じかも。

 もし定型の感覚での「目的」か「一体感」か,という話がそんなこととしてあるのだとすれば,「目的」だけを強調することは,定型にとっては「一体感」を失い,「信頼」を諦め,「利害」だけを計算して「お金」に目がくらみ,そのためには人を犠牲にしてもかまわないと考える生き方をする,といった,かなり極端な,冷酷なイメージにつながりやすくなるのではないでしょうか。

 で,にわとりさんが周囲からそういう非難を繰り返し受けていたというのも,にわとりさんのアスぺ的な誠実さとかが全く理解されず,通じない状況の中で,定型的なそんな感覚で勝手ににわとりさんの言葉や振る舞いを理解してしまった結果のことのようにも思えてきます。

 「一体感を求めるという目的を隠している」というKatzさんの受け止め方は,もしかするとそういう視点のズレから生まれることなのかもしれないと思いました。

 また,「一緒にやっている感覚」を「目的の一つ」として掲げる,ということについて,Katzさんはプロジェクト管理(私は全然そういうの知りませんでした(^ ^;)ゞ )というところですごく重視されていることにもつながる問題として書いてくださっていますが,「一緒にやっている感覚」を「目的」にする,という視点も私は意表を突かれる問題提起で,多分ここでも定型アスぺの感覚のズレが隠れていそうな気がします。そこはまた改めて考えてみたいと思います。

 


 



 
 



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2015年3月22日 (日)

傷つけることの責任

 最近またしみじみ思うことの一つは,誰も別に選択して自分に生まれているわけじゃないのになあ,ということです。

 パートナーは自分がアスぺとして生まれたことについて,やっぱり全く意図しないところで結果として人を傷つけ,また訳が分からず傷つけられてきた自分を肯定できないみたいだし,私もパートナーも含めていろいろ人を傷つけたり傷つけられたりして生きてきましたけれど,別に二人とも努力をしなかったわけではないし,それなりに精一杯生きてきたとは思います。

 でも,現実には「頑張ればどうにかなる」というものではない世界があって,でも別に誰もそういう世界を自分が選んで生まれたわけではないし,そこで「上手に頑張れる」人がいるとしても,そうならない自分をわざわざ選んだわけでもない。ただもうどうしようもなくそうなってしまっている,としか言えない状況はあるわけです。

 もちろん,人によってはそれでも「全ては結局自分の選択,決意,努力の問題だ」と考える方もあるでしょうし,そう思うことで前向きに生きていかれたり,また生きていこうとされたりできるのだと思います。そう思える限りでは,その方にとってはそれは「正解」なのだろうとも思えます。

 でも,理屈からいえば,「前向きに生きる力は自分が選んで作り上げたものなのか」と考えてみると,それはそうは簡単に言えないこともまた事実でしょう。実際定型アスぺを問わず,子ども時代に十分受け入れられ,否定されず,肯定されて育ったかどうか,によって,その後にその子が前向きに生きやすくなるかどうかは大きく変わっていくようです。

 でもそういう成育環境を自分が選んだのかといえば,それもまたそうはいえませんから,そこまで考えれば,また元の話に戻ってしまいます。

 別に自分が選んだわけでもない自分の生き方について,しかも全然自分が望んだわけでもない形でそれが自分や人を傷つけたとして,そのことを責められたり,責任を問われたりするのがこの世の中ですよね。

 それって,ある意味で自分が自分として生きていくこと自体が罪であるというような,そんな話にもなってしまうかもしれません。「それが世の中というものだよ」と言えば言えるのかもしれませんが,やっぱり割り切れなさが残る。


 一方で掲示板で書かれているみなさんの体験やコメントしていただくご意見などを拝見していても,実際にどちらの立場からもものすごく傷つけられていることは否定しようのない事実でしょう。そこまで傷つけられれば,激しい憤りや怒り,恨みなどが積もりに積もったとしても,何の不思議もありません。「復讐したい」という気持ちが生まれたとしても,それも無理はないとさえ感じさせられます。(逆に言えばそこまでの状況を抱えながら,なおそこから「次」を考えようとされているみなさんのすごさに,繰り返し圧倒されてもいます)

 そういう激しい負の思いに耐え続ければ,鬱になるのも,これも当然でしょう。そういう状態が望ましいわけはありません。


 ある面では自分に原因があるとは言えないことで責められる理不尽があり,でも他方では現実に自分が関わって人が傷つく事態があり,そこには責任を感じざるをえない状況が続く……


 ああ,でも「答え」は意外に素朴なものなのかもしれないと,ふと思いました。過去については実質的には自分には選択の可能性はなく,明確な悪意でもない限りは,それを一方的に責任を問われ,断罪することには無理がある。そこではお互いが傷ついていることもある。でも,今現在そのことを意識できた以上,その限りで今から後の生き方には責任が生まれるということでしょう。

 パーフェクトに生きることは今後も不可能であるにしても,お互いに傷つけあわない工夫をし,そのための努力をすることは可能です。そうやって手探りをしながらすこしでも不幸を減らし,逆に幸福感を増していくことも目指せるはずです。責任は過去に向けられたものではなく,未来に向けられたものなのですね。そう考えると,少し気が楽になる感じがします。

2015年3月21日 (土)

負の思いを語り合うことの意味

 前回の,私の感覚と理解でアスぺの方が置かれた状況を想像して書いてみた記事「もしも」をパートナーにも見てもらいました。

 案の定というか,やっぱりずれると言われました。どこがずれるのか言葉になるか聞いてみましたが,それは少なくとも今は無理のようです。改めて一口に定型アスぺ問題と言っても,ほんとうにさまざまな現実と状況,個性を抱えて成り立つ問題だと思いました。

 彼女から出された疑問の一つは,「一体何のためにこういう文章を書いているのか,その意図が分らない」というものでしたが,多分その問題は彼女と私の間のズレの,かなり根っこの部分に関わっているのではないかという気もします。それがいったい何なのか,改めて考えさせられています。

 その話から,少し時間をおいてまたもうちょっと会話が続いたのですが,過去のお互いの関係の問題も振り返りながら,彼女は自分が私からいかに傷つけられてきたのか,ということを何度か言いました。それは彼女もまた私や子どもを傷つけてきた,という彼女の辛い思いを前提にしたうえでの話で,決して一方的に恨みつらみを言おうという話ではありませんけれど。

 そして今回の記事が,そういうことを私が理解した上で書かれたものなのかということを問うてきました。この問い方は定型的には「理解もせずに口先で書いているのだろう」という厳しい詰問とも聞こえます。それでそういうふうに私の方が彼女を傷つけてきた側面にようやく思い至れるようになり始めたからこそ,ああいう文章を書いたに決まっているじゃない,と私が少しムキになって言うと,やはり彼女の方は自分が尋ねたのはそういう意味じゃないと言います。

 自分はパンダがそういう気持ちになったのかもしれないとは思ったけれど,本当はどうなのか,それは分らないことだから尋ねたのだ,と言うんですね。まあそういう疑問の持ち方も,そこでの問い方も,仕方のないことなのかなと,そんなふうに私も最近は思うようになりました。

 なんにしても,意図せずに自分が周囲を傷つけていた,という思いに打ちひしがれていた彼女が,「お互い様」ということを少しずつ語るようになり,そして今回のように自分が傷つけられてきた面を問いかける,というふうになってきたこと自体は,私はとても大事な「進展」のように感じます。それができて,初めて対等に二人の関係を考えられるようになると思えるからです。

 ただ,それもまた私の思いですので,それが彼女とどこまで共有できるのか,あるいはそういう思いを共有することに,どれほどプラスの意味を実際に彼女が感じられるのか,そのあたりについては全くなんとも言えないのが現状ですね。これまでの経験からいうと,「傷つけられた」という話自体は負の思いについての話なわけですから,それを語り合ったとしても,その語りもまた負の語りとしてのみ感じられてしまう,という可能性も感じます。

 そこのところ,定型は「負の思いを語り合えた」ということ自体が,お互いにとってプラスの意味を感じられることになりうる,という感覚と,なかなか距離が縮まりにくい部分かもしれません。

2015年3月17日 (火)

もしも

 また例によって定型パンダの勝手な想像です。ズレまくってるところはまたお教えいただければうれしいです。

 もし自分が周りの人からなかなか理解されず,「きっとこういうことが求められているんだろう」と考えて相手の為にやったつもりのことも繰り返し頭から否定され,自分の素直な欲求ではないんだけど,「それはこうすべき」と言われることは我慢して一生懸命やり,それにもかかわらずそれも簡単に文句を言われ続け,友達と思っていた人はいつの間にか去っていき,あるいは友達と思っていた人からいじめられていることに気が付き……,何が「正しい」ことなのか,何が「適切」なことなのか,どこに「誠実」があるのか,ほんとにわけがわからなくなる,という状況に置かれ続けたとします。

 世の中が常にそういうものとして見えていたとしたら,自分はどうなるでしょう。それでも明るくにこにこと,人に積極的にかかわっていきたいと自然に思えるでしょうか。

 いろいろと人から裏切られ,否定され,深く傷ついているはずなんだけど,周りは全然その痛みを認めてくれず,「そんなふうに感じるのはおかしい」とまで言われ続け,「みんなだって頑張ってるのに,なんであなただけできないの?頑張ればできるはず」と「叱咤激励」され,自分でも「こういうふうに自分が感じるのは,おかしいんだ。ほんとうはそうじゃないんだ」と思うようになり,「自分の頑張りが足りないんだ」と思い込むようになる。

 そんな状況に追い込まれていたとすれば,それでも自分の「感情」というものを,意味のあるものとして大事にしようとする気持ちがどこまで続くでしょうか。「感情」を大事に人とつながろうとする意思をどこまで持てるでしょうか。


 



 
 




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2015年3月14日 (土)

「違う」と「同じ」の深い関係

 前回の「白金と青黒」の話,読み返してみるとまだちょっとうまく整理できてない感じがして,簡単にまとめるところから始てみたいと思います。

 人は他の人と同じ世界に生きていると思っていて,ただ,その世界の感じ方とかはひとそれぞれだとも思っているでしょう。たとえば「蓼食う虫も好き好き」という言い方がありますけど,「蓼」はみんな共有している同じ世界のものです。でもそれが好きかどうかは個人差があるよね,という話になっています。

 ところがまれに「ここに蓼があるでしょう」という話をしたら,「そんなもの,どこにもないよ」と否定されるようなことが起こり得ます。もうちょっと分りやすい話をすれば「幽霊」とか。「ほらそこに霊がいる」とか誰かが言ったとして,他の人には全然見えない,ということはあるわけです。

 そういう場合は「この人は霊感がある」とか,超能力者みたいな感じで周りに認められることもあるし,あるいは精神に異常が起こって,幻覚を見ている,と考えられるかもしれません。昔はわかりませんが,今は幻覚と思われることが多いのではないでしょうか。

 いずれにしても,違う世界を生きている人,みたいな感じでとらえられることになりそうです。そこでは世界が共有されていないわけですね。そういうズレがお互いの間に生まれている。そのことを「特別な能力」の結果と受け止められるか,「障がい」と受け止められるかは人や場合によっていろいろでしょうけれど。

 でも定型アスぺ問題に見られるズレは,そういうズレではないでしょう。そこに「蓼」があるとか,ないとか,そういう基本的なことについてはお互いに意見が一致するわけです。「世界は共有されている」という素朴な感覚がまずは成り立つ。

 そうすると,じゃあ「好き好き」という個人レベルの差なのかというと,実体験からすればこれがそうではない。「個性だね」と片付けられるようなズレならまあ楽なわけですけど,とてもそういうレベルではない。

 なんでそういうレベルで収まらないかというと,「これは誰もがこういうふうに見える(思える)はずだ」,と信じ込んでいることについて,定型アスぺ間では繰り返しズレがおこっちゃうんですよね。

 で,そこで「白金と青黒」の話がひとつの比喩としてわかりやすいかなと思ったわけです。

 蓼食う虫の話で言えば,「蓼」がそこにあることは理解が一致している。で,その時はそれがどんな形でどんな色で,ということについてはお互いに見方が一致しているだろうと普通は思い込んでいます。色合いとか,そういう微妙なところでは多少感じ方にずれが起こるかもしれないし,「色盲」とかがあれば,ある種の色の区別がむつかしくなるとか,そういうことはあるでしょうけれど,黒が金に見えるとか,そういうことはちょっと想像できない。

 そういう色とか形とかはその物自体が持っている性格で,自分の見方でどうにでもなるものではないと普通は思っているので,そこにズレが起こるとショックを受けるわけです。それが「白金・青黒」問題がこれほど盛り上がる原因でしょう。

 定型アスぺ問題は,少なくとも定型の側から見ると,それと似たような問題ではないかと思えるのです。というのは,定型にとって「そんなの当たり前じゃない」と思えるし,定型同士で話し合っても「そりゃそうでしょう」とだいたい肯定されることについて,全然共有されないし理解もされない,ということが起こるからです。

 定型からすると,定型同士ではほとんど見方にズレが起こらず,もう普遍の真理のように感じられていることが否定される。「それは黒でしょう」としか見えない,感じられないことについて,「金色だ」と言われる,そんなことが起こるわけですね。

 そのあたりが白金・青黒問題と似ているところだとして,逆に白金・青黒問題と定型アスぺ問題で違いがあるとすれば,こんなことではないでしょうか。



 つまり,色の見え方のズレはたぶん文化にあんまり関係ないだろうと想像できるのに対して,定型アスぺ問題は「その社会での常識」が深く関わるので,実は違う社会に行くと,そこでの定型はまた違った「当たり前」を持っていたりするというところです。

 アスぺの方が定型から非難される内容について,ある社会の中では「常識」でも,それは他の社会で通用するかどうかはわからない,というものが結構あるわけです。たとえば相手の言うことを頭から否定するような言い方を最初からしてはいけない,というのは日本ではかなり強い「常識」になっていて,それをしなアスぺの方が非難される大きな原因の一つになっていると思いますが,違う文化では全然そんなことがなかったりします。違いを言うのは当たり前だったりする。(むしろ言わないことで不信感が生まれたり)


 だから,例えばオーストラリアではアスぺの方たちは日本とは違った受け止められ方がされたりもするみたいだし,多分「生きづらさ」の内容でも違いがありそうです。以前アメリカのアスぺの方がここで質問されていましたが,アメリカでアスぺの方にサジェスチョンされるやり方は,日本では通用しにくかったりするわけですね。そこでも常識が違うからでしょう。

 白金・青黒問題ではたぶんそういう「社会によるズレのちがい」というのはあまりなさそうです。どちらも「そんなこと常識」と思い込んでいるところでズレが起こるショックなわけですけれど,その「常識」の性質が文化には関係が薄い白金・青黒問題と,かなり文化に深くかかわっている定型アスぺ問題で異なるんじゃないか,というわけです。


 さて,そうだとすると,白金・青黒問題はたぶん「目の性能」みたいなことが深く関係しているでしょうから,「話し合って見方を変えてみる」ことで「相手を理解する」ということはむつかしいでしょう。「違いがある」ところまではお互いの体験を語り合うことで理解できたとしても,それを聞いたら相手の見方が見えて来る,というのはたぶんむつかしい。


 それに比べると,定型アスぺ問題にも「脳の性能」などは関わってはいるんでしょうけれど,こちらの方はもう少し「私とは違う相手の体験の仕方」について,想像力を発揮して「なんとなくわかる気がする」というところまでは行く可能性を感じます。このブログやコメントのやりとり,掲示板でのやりとりなどでも,ときどきそういう「共感」と言ってもいいようなことも起こっていました。

 で,こういうブログや掲示板で定型アスぺ間のやりとりをすることの意味ですけれど,私の場合はひとつには「違いがあるんだ」ということをやりとりを通して結構実感できる感じがあります。白金・青黒問題で言えば「え?これが黒(金)に見える人がほんとにいるんだ!」という驚きを体験することにあたるかもしれません。

 そうすれば,「違い」を前提にした関係の調整の仕方を探る,というきっかけになり得ますし,自分をただ相手に押し付けるだけという危険性は減るでしょう。

 でも,このブログや掲示板で起こっていることはそのもう一歩先を行っているように感じられます。これも私の印象ですけれど,特に最近「アスぺの方たちも<同じように>すごく悩み,苦しんでいるんだな」ということがなんとなく「実感として」わかり始めた感じがしています。そしてそのことについてアスぺの方とやりとりをするとき,ともすれば「定型同士で悩みを語り合っている」のと区別がつかないような感覚になることもあるんです。

 もちろんそれはやりとりをしてくださるアスぺの方が定型的なやりかたに配慮してすごく合わせてくださっているからだ,という面もあるでしょう。スペクトラムでのいわゆる「浅瀬」と「深み(?)」の違いもそこに影響するかもしれません。でもそれだけではないような気がして,「違い」が分かってくると同時に,「伝わり合う」ものが増えてきているような,そんな印象を(私の方は勝手に)持ってしまうのです。

 なんかちょっと矛盾したような言い方かもしれませんが,一方では「違う」という見方は相手を切り捨てるためにも使われますけれど,「違い」の理解を深めていくと,それと同時に「同じ」部分がより深いところで見えて来るということも起こるんじゃないでしょうか。そういう形での「違い」の理解の仕方もあるんだと思います。

 相手を切り捨てる「違い」の認め方では,基本的には相手とやりとりは拒否する形になっていきますし,やりとりしたとしても罵声の投げかけあいとか,そんなふうになってしまうでしょう。あるいは感情を押し殺して単なる事務的な応答に終始するとか。

 そうではなく,「違いを知ることを通してつながりを作る」という行き方の場合は,これはやはりやりとりをすることが大前提になります。そういうやりとりの中で初めて「違い」を通して「同じ」を発見し,また「違い」を通して「自分」を発見する,ということが起こるんだと思います。

 



 
 




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2015年3月12日 (木)

白金・青黒と定型アスぺ

 定型アスぺ問題は「ここは同じだ,理解できる」という部分を探ることと,「ここは違う,理解がむつかしい」という部分を自覚することと,両方をある意味でバランスよく見ていかないとむつかしいと感じています。で,今回は「むつかしさ」の方についての話です。

 ネット上で世界的に話題だという「白金or青黒」問題を今頃知りました(時代遅れ?(笑))。ご存知の方も多いかもしれませんね。

 御存知ない方のためにまずご紹介すると,下のような写真があって,このドレスの色が白と金なのか,青と黒なのか,見る人によって違うという話が元ネタのようです。ちなみに私は青みがかった白と光沢のあまりない金色に見え,パートナーは白と茶色とか言っていました。

 実際は白金,青黒だけではなくて,オレンジに見える人がいたり,もう少しバリエーションがありそうですし,ちょっと加工したりするとまたいろんな見え方になったりもするし,同じ人が見ても画面上で見る角度を上下に変えると変わって見えることもあるみたいで,「白金 青黒」位で検索すれば,いろんな話が出てきます。実物は青と黒だったようですが,うつし方で微妙な色合いになったのでしょう。

 なんでそういうことが起こるのか心理学的な解説? みたいのもあって,一種の錯覚のようなもので,光源の影響を見るか,服自体の色合いとして見るかによって変わるんだという説明とかがされています。

 どういうメカニズムでそういうことが起こるのかはまあ専門家にお任せすることとして,何がこの白金,青黒問題に人々をそんなにひきつけるのかと考えてみると,こういうことだと思えます。


 私たちは同じ世界の中に生きていると勝手に思い込んでいるわけで,それだから他の人とコミュニケーションをとろうとするし,そうやって現実にご飯を食べ,生きているわけです。目の前の人が実は私の妄想で生み出されたイメージに過ぎない,と本気で思ったら,誰もその相手とやりとりしようとはしないでしょう。目の前のお菓子が私の妄想が生み出したものだと本気で思ったら,それを人に勧めることもないでしょう。

 二人でカレーライスを食べていて,「このカレーライスおいしいね」と言ったら,相手の人は「おいしくないよ」と言うことはあるかもしれません。それは「好みの問題」と言われるでしょう。でも「何言ってるの,私はカレーを食べているけど,あなた何も食べていないじゃない」とか言われたらショックです。私が食べていると思っている自分のカレーが相手には見えない。もしかすると私はカレーを食べていると思い込んでいるだけなのか?それとも相手がおかしくなってしまったのか?ということを真剣に悩むようになるでしょう。

 目の前のものについて,「この丸い球がさ,」と話しかけたら,「え?それ四角い箱じゃない。あんた何言ってるの?」とか言われてもショックになるはずです。
 つまり,「好み」とか「価値観」みたいなものは,人によっていろいろだということはある程度受け入れやすいかもしれないけれど,「その物自体」があるとかないとか,あるいはそのもの自体の性質とか,そういうことについてはずれていては困るわけです。そこは「誰もが共有している共通の世界」で,もしそこが共有できなくなった相手がいれば,「この人は精神に異常が出ている」と判断されたりしてしまいます。


 白金,青黒問題は,なんかその中間をいく問題になっているように思うんですね。つまりこういうことです。

 そこにドレス(の写真)がある,ということについてはみんな一致して認めることができる(と信じている)。その「同じもの」について会話が成り立つ。「この服はあなたの好み?」とか言われれば,それは人によって違うだろうと思える。でもその服(写真)の色は「その服(写真)自体の特徴」で,人の好みによって変化したり,ちょっと考え方を変えると違う色に見える,ということはない(はずだと信じている)。

 ところがその「そうだと信じている」部分が裏切られちゃうわけです。「同じもの」を見ているはずなのに,そのものの性質の理解が全然一致しない。「私たちは好みの差はあっても,同じ世界を共有して生きているはずだ」という信念が揺らいでしまうわけです。

それはやばいことなので,ネット上でそういうことが起こっているらしいように,自分と違う見え方をする人を「おかしなやつ」として罵倒するようなことにもなってしまう。そうやって「自分の信念」を守らないと不安になるのでしょう。

 これもはるか昔に見て面白かったのですが,こんな図形があります。

 

これ,黒いところに注目すると,二人の向かい合う黒い顔に見え,白い部分に注目すると一つの白い杯に見える,というやつです。

 この場合は「二つの見方ができる」ということが一人のひとでも両方体験しやすくて,「見方によって変わるんだな」ということは納得がいきやすいでしょう。人によっては顔を見やすい人,杯を見やすい人がいるかもしれませんが,他の見方もあることを教えてもらえば,多分わりと簡単にそう気づけるはずです。「この顔は好み?」と聞かれて意見が分かれたとしても,「うっそ~!信じられない!」とはならないでしょう。

 でもそこで「この黒い部分は実は金色なんだよ」とか「金色にも見えるよ」と言われたり,「白い部分は実は青でね」とか「青色にも見えるでしょう?」とか言われたら,これはもう仰天ではないでしょうか。逆立ちしたってそんな見方はできない(と信じ込んでいる)はずです。どう見方を変えてみても,黒は黒にしか感じない。白は白にしか感じない。

 そんなことがこの青黒,白金問題で起こっているのだと思います。自分には黒にしかどうしても見えないものを,他の人が金色と言い,あるいは白としか見ようのないものを青だと確信をもって言われる。

 そして相手の意見にびっくりした後,「まあこの人が嘘を言っているとは思えないし,この人にとってはそう見えるのかな」と「頭では考える」けれど,そのことで私自身の色の見え方が変わることはないわけです。感覚的には全然信用できないか,納得がいかない。

 
 で,この話,定型アスぺ問題とすごく似ていないでしょうか。

 まず,お互いに同じ世界に生きているとは思い込んでいますので,自分が見ているものは相手も同じように見えていると思ってやりとりするし,好みには個人差があることは理解できるけれど,定型同士では普通に一致する意見について,アスぺの方が全然外れていたりすると,ショックを受けるし,とてもじゃないけど「人それぞれだよね」と言って済ませられない。

 つまり,定型アスぺ間の見方や感じ方のズレは,「これは白だよね」と自分が確信し,他の人も「そうだよね,白だよね」と言ってその信念を強めあっていたことについて,「何言ってるの,これ青じゃない!」と確信をもって否定されたようなレベルのズレなのだと思えるのです。

 「注目するポイントの違い」というレベルのズレなら,注目するポイントを変えれば自分にも同じような別の見方が体験できる。でもそういうレベルは超えてしまっていて,そう簡単には相手の人の体験の仕方を自分も体験してみることができないわけですね。だから頭で「違いがある」と思ってみても,感覚的にはどうにも納得できず,強い違和感が残り続けて,だからやりとりの調整は感覚的なレベルではむつかしく,自分の感覚は押し殺して頭で調整するしかなくなったりする。

 青黒,白金問題なら,「面白こともあるよね」で済ませられるレベルですけれど,定型アスぺ問題はその「見え方の違い」「体験の仕方の違い」が,現実に一緒に生きていくことにすごい困難を生み出す,そういうようなシビアなところに関わってくるレベルになっているわけです。

 ただ,別の見方の体験が全く不可能かどうかについては,まだちょっと分りません。少なくとも部分的には「こんなふうに考えると定型でもわかる気がするなあ」と思えるところもところどころ出てきているようには思えますので。とはいえ,やっぱりそれはかなりむつかしいことは事実でしょう。

 というところで,ちょっと長くなりましたので,いったんここまでにして,「じゃあ,そこで定型アスぺがこの問題を語り合うってどういう意味があるの?」ということについて,また改めてちょっと考えてみたいと思います。
 





 
 




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2015年3月 9日 (月)

ゴミ出しの話

 家事で大変そうに見える時など,パートナーの手伝いをしようと申し出ても,大体は自分でやると言って受け入れられないので,どうしたものかなとおもいつづけていたのですが,今朝,朝のゴミ出しで大きなゴミ袋を二つ持って行こうとしていたときに,ふと気が付いて,「ついでにちょっと歩いてくるから僕が出してくる」と言ったら,これはわりにスムーズに受け入れられました。

 パートナーが大変そうだから手伝う,という形だと,「これは自分がやると決めていることだから」なのか「パンダに負担をかけないように」ということなのか,あるいは「私のことは放っておいて」なのか,なかなかこちらの「好意」を受け入れてもらえない感じになるのですが,私がそうすることに,何か別の理由が着けば彼女の方は受け入れやすいのかもしれません。





 
 




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2015年3月 7日 (土)

目的の共有

 

掲示板であすなろさんが書かれた「目的だけは共有して,あとは本人のやり方に任せるしかない」という言葉が,なんだかすごく頭に響いてきてしまいました(体全体に響くにはもう少し時間がかかるかもしれませんが)。

 いろいろなことの感じ方がほんとに違って,なかなか折り合いが付きにくい。それへの対処の仕方も当然のように異なって,一緒に調整してというやりかたもとてもむつかしい。そういうシビアな現実を前提にして,何が可能なのかと考えた時に,この言葉はなんだか大きな手掛かりを与えてくれそうな,そんな気もするんです。

 このところ,ある面では定型もアスぺも似たようなものではないか,ということについて印象を深め,そのことを少し書いてきました。たとえばKatzさんとのやり取りの中で考えた,「自分らしく自立して生きることの大事さ」みたいな言葉で表せば,定型アスぺともにそんなに違いはない。そして,そこに「他者に認められること」が大きく関わってくる点も似ている。ただ,その「自立」の具体的な中身にはおそらくズレがあると思いますけれど(「自立のイメージのズレ」)。

 AS-Pさんからの問題提起にあった「変化が不安を引き起こすのは定型もアスぺも同じ」で,ただ長期的な安定についての変化(定型)か,目の前の問題についての変化が問題か(アスぺ),そこが異なるという見方に,さらに定型も状況次第では目の前の問題が重大になって,アスぺの方と似たようなことにもなりうる,ということも考えてみました(「アスぺも定型も似たようなもの」)。……今またAS-Pさんの最新コメントを拝見しましたが,なんでこんなにわかりやすく,心に響いてくるんでしょう。ほんとに「そういうことならよく分る」感じが生まれてしまうんです。そして私の勝手な感じですけれど,「大事なことが伝わりあっている」感覚も。……

 どう対応していいのか,訳の分らない事態に追い込まれたとき,「気持ちで動く」のではなくて,気持ちを抑えて「頭で考え,頭で動く」ことをせざるをえなくなる,ということも定型アスぺともにたぶん同じでしょう,ということも考えてみました(「頭で考える 気持ちで動く」)。

 ものすごく違う定型とアスぺですが,「こういうことが生きる上で大事だよね」ということについて,定型の私の想像力でもある程度は及ぶ範囲で,意外に共有されている部分が多そうだし,また広そうだと感じられてきているわけです。

 そこが「目的だけは共有」という話につながりそうな感じがするんですね。「目的だけは共有」という言い方は,「やり方はそれぞれで,一緒にはできない」ということを含んでいるわけですけれど,でも裏返して言えば「目的は共有可能」ということになる。で,その可能性がなんとなくありそうな気がしてきているのだと思います。

 定型としてアスぺの父から激しく苦しめられてきたアスぺ父を持つ娘さんと,アスぺとして周囲の定型に激しく苦しめられてきたにわとりさんという,立場的には激しく対立してもおかしくないようなお二人の間に,真摯なやりとりが成り立っている,という,ものすごい(と私には思える)ことが実際に起きているのも,そんな「目的の共有」に関わることだと感じます。

 他方でこの「目的の共有」のためには,少なくとも定型の側は手放してあきらめざるをえなくなることもありそうです。それは「一緒にやる」という「一体感」につながるような定型的感覚です。これもそこで問題になる一体感はあくまで「定型的な一体感」で,アスぺの方はアスぺの方でまた少し違った「アスぺ的一体感」を持たれることもあるような気もしますけれど,少なくとも「定型的な一体感」についてはあきらめざるを得ないのでしょう。

 もし仮にそうなのだとすれば,そこをあきらめることでもっと大きなものが得られれば,それで幸福感が増すのでしょうし,そこが無理だと,「目的を共有する」意味自体もなくなるのかもしれません。そこは誰にとっても同じ正解がある,ということではないのかもしれません。それぞれの方が抱えた現実の中で決まっていくことかも。

 いずれにせよ,定型アスぺが一緒に生きていくうえでは,この「目的だけは共有して,あとは本人のやり方に任せる」という言葉が,何か大きなキーワードのひとつになりそうな,そんな気がしたのでした。

2015年3月 6日 (金)

自立イメージのズレ

Katzさんのコメントにまたすごく考えさせられています。

 特に印象に残った言葉を挙げさせていただくと,まず

「社会に溶け込めない者にとって内面の苦しさや違和感の原因は、自己肯定できない所にその大部分があると私は考えます。だからまずはその解消が第一。そして自分に自信が持てるようになったら、その先は自分で考えるだろう…と思うのですね。」

 これって,人が生きていくことにとってすごい大きなポイントと私も感じるんです。で,Katzさんがこういう考えを持たれているということは,そのポイントの大事さは定型だろうがアスぺだろうが,関係ないということになります。

 私の場合,とにかくアスぺの方は定型とは違うし,定型の常識を前提に考えてはいけない,というところをすごく大事と思っていたので,たとえば定型は人との気持ちのつながりの中で自分を支えようとするのに対して,アスぺの方はあくまで「自分」に限定して,他者の関わりはかえって迷惑になるのかもしれない,とも考えていました。「病気の時は一人でいたい」ということなど,その典型的な例とも思えます。

 で,そこから一歩進んで,定型は人とのかかわりの中で「他者からどう評価されるか」で自分を作る傾向が強いのに対して,アスぺの方はもともとが自分の世界で自分を作り,他者を最初から切り離されるのかもしれない,という可能性まで考えていました。

 けれどもKatzさんのこの説明を見ると,そうではなくて,アスぺの方も他者からの評価に苦しまれていること,そこで「自分」のことを悩まれているのだということがとてもよく分ります。「自信」「自己肯定」ということが,社会の中でうまくやっていけることとつながっていて,そのことがアスぺの方にとってもその「内面の苦しさや違和感」を生み出すもとになっている,というお話ですから。

 ようするに「お互いに認め合うこと」ができるかどうかでしょうか。それが成り立たないことに苦しまれている。そこは定型もアスぺも共通なんです。きっと。だとすれば問題はどうして認め合いにくいのか,でしょう。

ものすご~く失礼を承知で尊大な言い方をすれば、苦しさを除く作業に先生の力が必要だと思われるのは巨大なお世話!ではないかと。苦しさを除く為に必要な下地だけ整えてもらったら、除く作業そのものは自分自身でやらなければならないのです。」

 ここはすごく「自立」した生き方とも感じられるし,ある種「男らしい」覚悟を持った生き方みたいなイメージを持たれる方もあるかもしれません。もしかすればそういうメリハリの効いた断固とした生き方が魅力となって,そこに惹かれる異性もあるんじゃないでしょうか。

 そしてたぶん,そこに隠れた微妙なズレが,その後の定型アスぺ問題の根っこにあるような気もします。そこを言葉にするにはもう少し私の中で整理していかないといけないものがありそうですが,直観的にそう思います。

 あえてすこし言葉で探るとすれば,「自立」のありかた,「自立した後の生き方」に,何か重大なズレが生まれてきて,そこに定型パートナーが苦しむ例が多いような気がします。大事な自立をアスぺ的な形で達成するときに,アスぺの方はそれである程度の安定が得られるわけでしょうが,定型的な感覚では別の大事なものが失われてしまい,相手に自分が求めるものが得られない状態になるのではないでしょうか。

 定型の側は「アスぺ的な自立」が「切り捨て」につながってしまうような感覚を持つのかもしれません。そこの調整がとてもむつかしい。Katzさんの書かれる処方箋は,なるほどアスぺ的にはそういう感じにもなりうるんだろうなと,私なりにわかる感じはするのですけれど,それだけで定型アスぺ問題がうまく調整できるかというと,そこはまだ私には見えてきません。やはりアスぺ的な処方箋という色合いが強く感じられます。

 自立とプライドの問題については,にわとりさんが次のように書かれることも,Katzさんのお話と私の中では響き合うものがあります。

「 支援者は「何もできないんだから支援してもらわないといけないでしょ」との考えなんですが、上から目線で押しつけないでほしいというのはあります。」「軽度知的障害者や私のような発達障害だと定型者と同じプライドはありますから」

 にわとりさんが繰り返し書いていらっしゃることから想像すると,にわとりさんとKatzさんは,社会の中での活躍のされ方,ということでいえば,もしかすると対照的な位置にいらっしゃるのかもしれません。誤解でしたら申し訳ありませんが,Katzさんはいろいろなご苦労を伴いつつも,社会的にはエリートの位置をキープされているような印象がありますし,にわとりさんは「基本的な生活をどう成り立たせるのか」というところで苦労されているようにお見受けするからです。

 けれどもその対照的な位置にいらっしゃるようにも見えるお二人とも,「自分の力で生きる」ことを大事にされているその気持ちは一緒ですし,それを妨げかねない他者からの働きかけは迷惑なわけですよね。

 自分が自分らしく生きたいという気持ちは,定型もアスぺも変わりがないでしょう。そして自分が自分らしく生きるには,人から自分を適切に認めてもらえることが必要になる,というところもたぶん同じ。そこがうまくいかなくなると,悩みも深くなり,場合によってうつ状態にもなるのも定型アスぺ共に言えることなのでしょう。

 そう考えると,アスぺの方が人とのかかわりを「拒絶」しているかのように見えることがあるのは,「そもそも人を嫌っている」からではなく,自分にとって適切な関わりかたが実現できないので,関わりを「避ける」ようになったのだ,と理解できる部分がかなりあるのではないか,そんな気がします。

 昨日,たまたまyagasuriさんのブログを久しぶりに拝見したら,まさにそんなことを書いていらして,とても心に残りました。


 ですから人とのかかわりの中で自己肯定感や自信を獲得し,それが失われたり脅かされることで悩み,自分らしく自立して生きることを求める,というところでは,定型アスぺ間でそんなに大きな違いはないのかもしれません。ただ,自分らしさや自立のイメージが,何かずれるのではないでしょうか。そこで生じる悲劇はかなり多く,また大きいのではないかという気がします。これもまたじっくり考えていくべきポイントのような気がしました。

2015年3月 5日 (木)

「誇り」の問題

 引き続き,記事「アスぺも定型も似たようなもの」に寄せられたAS-Pさんのコメントから考えたことです。

 記事の中で私は時間的な見通しの持ち方について,「アスぺだから」短い時間の見通ししか持てないのではなくて,定型的な環境がアスぺの方にはわかりにくく,その場その場で手探りで対応するしかないから,長期的な見通しが持ちにくくなって,それで定型からは「一貫性がない」みたいな非難を受けやすくなる,という面があるんじゃないか,ということを書きました。逆に言えば定型だって同じような状態に置かれれば,「その場しのぎ」の「場当たり」に見える似たような生き方も多かれ少なかれせざるを得ないところに追い込まれるようになるでしょうし,その点では似たようなものではないか,ということでした。

 ところで,その際,そういう置かれた状況の違いを説明する比喩として,長期的な見通しを保証された終身雇用者と,その日その日を生きていくしかない日雇い労働者が置かれた立場という対比をしてみたのですけれど,AS-Pさんはその比喩はやはりしっくりこず,「サラリーマンとプロ野球選手」という対比のほうがぴったりくると感じられたようでした。

 それを拝見して,ああ,なるほど,と思いました。サラリーマンはある意味組織に頼って「群れて」生きていく。プロ野球選手は実力で個人として生きていく。サラリーマンの成功は組織の成功が前提になっているけど,プロ野球選手の成功は個人の才能や努力がもっと前面に出て来る。

 この二つの比喩の違いは何かと考えてみると,私があげた比喩は,アスぺの方が置かれた状況の困難さを強調する形になっているのに対して,AS-Pさんの比喩は個人の才能や努力の使い方の違いを強調する形になっているように思います。そしてなんでそういう違いが生まれるのかと考えてみると,それは「誇り」の問題に関係するんじゃないかと,そんなことを思いました。

 つまり,私自身は自分自身の置かれた状況からのシンパシーもあって,ついつい「日雇い労働者」の比喩を使ったように思いますが,その比喩では見方によってはその人の能力のなさとか,努力のなさが強調されることがあります。後ろ向きのイメージがあるかもしれません。それに対してプロ野球選手は前向きに頑張って,ある程度成功している人のイメージになるのでしょう。そういう意味でならもちろんAS-Pさんはプロ野球選手のイメージに近いですよね。

 そこはAS-Pさんが困難な状況を抱えながら,自分なりの努力で今を築かれている,「誇り」のようなものに関わる部分だと私には思えたのです。

 それで思ったのですが,「障がい者」というイメージって,素朴に言えば,一方では「差別の対象」として見て,切り捨てるようなものになったり,他方では「ケアの対象」として見て,つながりを保とうとするものになったり,なんかそのどちらかになりがちではないでしょうか。

 前者に比べれば,後者の方がいいのだと思いますけれど,ただそこには落とし穴もあって,ケアとか保護の対象として見るという見方は,どうしても「上から目線」になってしまう危険があると感じます。もちろん「それは当然のことだ」ということを前提にして考えることもできるのかもしれませんけれど,私はなんだかそこで「対等な人間関係」にこだわりたい部分があります。そしてそういう「上から目線」がおかしな具合に展開すると,にわとりさんとあすなろさんのやりとりの中で問題になっていた「支援者」など,本来味方になる人によって起こされる問題が生まれる可能性が出てくるように思います。

 そういう私自身も,パートナーから「その言い方には上から目線を感じる」と言われることがありますし,自分自身もいつも気にはしているのですが,なかなかむつかしい。

 そこで大事になることが,「差別の対象」として見るのではなく,「ケアの(というより関係を調整する必要のある)対象」としてだけ見るのでもなく,「人としての誇りをもって生きようとしている」人間同士の関係として見ることなんじゃないかという気がします。

 アスぺ父を持つ娘さんの父(ってややこしい (笑))の激しい暴力的な振る舞われ方の根っこにある怒りも,にわとりさんの苦しみも,どこか「人として誇りをもって生きていく」ことを否定されることへの怒りや苦しみを,私は感じ取ってしまいます。

 私のパートナーもそこではずっと苦しんできたように思えるし,今もそこをどうしたらいいのかが大きなテーマになっているように感じます。そのことについて私はほんとに無力だったし,むしろいろんな意味で傷つけてきた方だと思います。

 そういう「人として生きる誇り」に関わる問題と,AS-Pさんが比喩の仕方で違和感を感じられたことが,やっぱりつながっているのかなと思えたのです。

 なんか,「傷つけあうことをどうやって減らすか」という問題と同時に,お互いにそれぞれの理想をもって前向きに生きていく人間同士の関係をどう作るのか,ということが,最終的には大事になるのかなあと,そんなことを考えました。


2015年3月 4日 (水)

アスぺも定型も似たようなもの

 

AS-Pさんの問題提起を拝見していてもまた感じたのですが,最近「アスぺの特徴」と言われていることについて,「ある状況に置かれれば,定型も結構似たようなことになるんじゃないかな」,と思えることがぼちぼち増えてきています。

 記事「頭で考える 気持ちで動く 」で書いたこともその一つの例になるかと思いますが,AS-Pさんの例で説明すると,それはこんなことです。

 私が理解できた範囲でのことですが,AS-Pさんが問いかけられたのは,定型は長い時間の中での安定を求め,それが崩されることに強い不安を感じるのに対して,アスぺの方は短い時間の中で安定を求め,それが崩されるとパニックになる。つまり変化することが不安を引き起こしている点では同じと考えられないか。ということでした。

 これは,ああ,そんな風にも見れるんだなあと私にはとても刺激的でしたが,もしそういうことがある程度言えるのなら,じゃあなんでそういう違いが生まれるんだろう?ということに興味が行きました。

 アスぺをある種の理解力の障がいとして見れば,たとえば「それは定型が長い時間的見通しを持てる知的な能力を持っているのに対して,アスぺは短い時間でしかものを見られない知的な能力で,見通しの能力が足りないことの問題なのだ」という解釈もされるかもしれません。

 ただ,それはちょっと違うんじゃないかな,と私は感じるのです。

 時間的な見通しがどれだけの長さで持てるか,というのは,「周囲の状況をどれだけうまく理解できるか」ということに関わっていますよね。たとえば昔のように終身雇用が多かった時代なら,人生設計についても結構長い時間で考えることができて,それで安定することもできた。ところが今のような時代になると,「大企業」だってどんどんつぶれたり傾いたりするわけですし,自分の明日がどうなるかが見通せない,すごく不安定な状況に置かれる人が多くなる。

 そうすると,何か長期的に見てどうこう,ということを考えるのはむつかしくて,場合によってはほんとに今日明日のことをシビアに考えなければいけない状況に置かれる。今自分がやっていることが,明日も通用するかどうかが分らないし,今うまくいったことが明日うまくいかなくなれば,それはもうその先がないかもしれないわけです。

 もしそんな状況に置かれたら,「長期的な見通しについて不安を感じる」という余裕さえなくなるのではないでしょうか。とにかく「今をやり過ごせるか」が問題で,それがうまくいくか行かないかで不安が起こる。

 アスぺの方は,定型優位の社会の中で,いつもそういう立場に置かれ続けていると考えることはできないでしょうか。定型のやり方はとても分かりにくく,目で観察して頭で理解して,なんとかそのパターンを見つけて対応しようと努力する。けれどもその理解の仕方は定型の理解の仕方とやはりちょっと違うので,いくら頭でパターンを見つけても,細かい調整はむつかしいし,それこそ「型にはまった」応答になりがちで,応用が利きにくく,その結果かえって定型から「心がこもっていない」などと非難されたりする。

 定型はそこは世の中が定型基準で作られていますから,自分の自然な気持ちの動き方で柔軟に調整しながら進めることが多いわけで,そのあたりはこだわらずにその先の長期的なことを考えることができるけれど,アスぺの方にとっては目の前のひとつひとつがうまくいくのかどうか,その見通しが利かず,そこに神経を集中するしかなくて,とてもではないけれどその先を考えられる余裕がなくなる。

 たとえてみれば定型は終身雇用が保障された状態で働いていて,アスペの方は日雇いで働かなければならない厳しい状況にある,というようなものと考えられそうに思うのです。

 もしそんな理解が可能なら,アスぺの方の「目先の対応(場当たり的な理屈で応答されることがある,前に言っていたことと一貫しないことがある,など)」として非難されることは,アスぺの方の理解力とか,論理的な力とか,長期的に見る力といった「能力」や,あるいは「誠実さの有無」の問題なのではなくて,定型社会がアスぺの方にとってはすごく見えにくいしくみでできている,というところに問題があることになります。で,仮に定型が同じように先が見えにくい世の中で生きざるを得なければ,かなりアスぺの方と似たような生き方を選ばざるを得なくなる,とも言えそうに思えるのです。

その意味でアスぺの方の特徴的な生き方は,実はある状況に置かれれば,定型もかなり近いことをするような,そういう意味で定型にも「理解可能」な部分を多く持った生き方なのではないか。そんなことを最近感じています。




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2015年3月 2日 (月)

頭で考える 気持ちで動く

 大雑把な話ですけれど,頭で考えることと気持ちで動くこと,という二つのことを考えたとして,アスぺの方は素直な気持ちで定型的なやりとりに入ることがむつかしく,その結果頭でいろいろ考えて,ああいうことか,こういうことかと想像せざるを得なくなるのかなと思います。

 ところが定型とは感覚の違いがなくなるわけではないので,そうやってアスぺの方が苦労してやることについて,どうしても定型的なやりかたとはズレが生まれます。そうすると定型からは「形だけ」で「心がこもっていない」とかまた批判されたりする。

 さらにひどくなると,「お前は人間の心を持っていない」とまで言われることもある。感情が無く,計算高い,ロボットのようなやつだと決めつけられたりもする。

 でも,考えてみればもともと気持ちの面では無理をして,なんとか定型のやり方に形を合わせようとしてされていることですから,そうなるのが当然と言えば当然ということになります。本当はアスぺの方も怒り,悲しみ,喜ぶ心は豊かにお持ちなのに,定型との間では(あるいは他者との間では?),そこを封印して「頭で考えて努力する」しかなくなるわけです。

 一方で定型の側がアスぺの方に対応しようとするとき,最初は定型的な感覚で,定型的な感情的やりとりをベースに関係を作ろうとする。ところがこちらは善意で気持ちを込めて関わろうとしても,それがことごとく否定されてしまうような経験が積み重なる。

 定型が持っている感情的な関係の修復方法のありとあらゆるものを使ってみても,どうにもうまくいかず,むしろ定型的な感覚では「そのやりかたは関係を否定するものだ」と感じられるようなやりかたで返されたりして,善意で関わろうとすればするほど,逆に傷ついてしまったりもする。

 そんな経過の中で,それでもなお定型の側からアスぺの方に手を差し伸べようとすれば,もう「感情的な関わり」は封印せざるを得なくなり,「アスぺの方はコミュニケーション能力が障害されているのだから,社会適応のために,感情抜きで技術を教えるしかない」という発想になっていく。

 仮にそんなふうに事態の推移を理解してみたとして,もしそうなら定型の側もアスぺの方の側も,結局同じようなことをやっていることにならないでしょうか。

 自分に素直な気持ちで動けばトラブル続きになる。だから感情を封印して頭で考え,「頭で動く」みたいな形にならざるを得なくなる。アスぺの方は定型の気持ちの動き方には強い不信感も抱かれ,定型もアスぺの方の気持ちの動きを「心無いもの」と感じるようになる。なんか瓜二つのように感じられます。

 で,このブログでも,普通に生きていく分にはわざわざ考える必要もないようなことを,うじうじとほじくり返して考え続けています。それはやっぱり自分の普通の感覚で対処しようとしても,ことごとく限界に来てしまうから,「一体それはなぜ?」と頭で考えざるを得ない状況に追い込まれるからです。

 ただ,上に説明したような状況はなんとか超えたい,という思いの中で頭で考えているという違いはあるかもしれません。少なくとも,「どうしても気持ちの調整はむつかしい」という現実を踏まえたうえで,なお何らかの形でお互いの自然な感覚を否定せずに関係を調整する道を考える,という道を模索しているのだと思います。

 こんな風に整理してみると,私がこだわって模索していたことがなんとなく見えて来る感じがします。

             

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2015年3月 1日 (日)

テクニックの伝授で終わらない問題

 あるアスペルガー問題の専門家の方が言われている話を,知り合いから聞きました。その専門家の方は,アスぺの方が定型社会で生きていくために,いろいろなテクニックを学ばせるというやり方について,それだけではとても大事なことが抜け落ちてしまう,と感じられているとのことでした。

 その方の経験では,いわゆる「非常に優秀な」アスぺの方であれば,パターンとして適切な行動を学習し,実行すること自体はそんなにむつかしいことではないと言います。でも,仮に行動としてそうできたとしても,「なぜそんなことをしなければならないのか」は実感として分らないままになる,というのです。

 ですから,仮にそこでそのアスぺの方が定型社会に表面的には「適応」できたとしても,その方が内面に抱えている違和感や苦しみは何も変わらないままになるか,あるいはもっとひどくなる。そのことの重要性を考えないで,その苦しみに目を向けないで「テクニックの伝授」に終始して,それで良しとしてしまうやり方はおかしい,と感じられているようです。

 その話はほんとに重要なことと私も思いました。このブログで私がこだわってきたことのひとつもそこにあるように思います。

 そのことを考えた時,今このブログや掲示板でいいなと思えたことは,お互いに自分が相手からどのように傷つけられているかということを,おかしな対立の形にならずに語り合える感じになってきていることです。アスぺの方が定型の中でどんなことに苦しまれているのか,定型がアスぺの方と深い関係を持つときに,どんなことに苦しむのか,そのことをお互いに説明し,また相手に尋ねられるようになっている。

 そこから先に何が生まれるのか,についてはまだ私は具体的には分らないのですけれど,でもそこにとても大事な足場がある,というふうには感じます。単に「定型テクニック」をアスぺの方に伝授しておしまい,ということではなく,お互いに自分らしさを失わずに,あるいは自分らしさをむしろ育てる中で新しい関係を模索するという,そんなことが出来たらどんなにいいでしょうか。

 それがほんとにむつかしいことだということは,私自身日々の生活の中でいやというほど思い知らされていますけれど,でも少しずつでもそちらに向かって,歩めていると考えたいですね。これはもうそうなる保証があらかじめ与えられているわけではなく,今は願望としか言いようがないですけれど。

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