ずるい定型 嘘つくアスぺ ?
アスぺの方から見た時に,定型が口先だけでいいことを言って本心は全く隠していたり,人の悪口をさんざん言っておいて,その人がくるとみんな急にニコニコしてその人に接したり,ということを見てすごくショックで,不信感を持つ,という話は何度か聞いてきました。まあ言われればそう見られても仕方ないところはあるとは思いましたが,このところ複数のアスぺの方から自分も嘘をつく,というような指摘が相次ぎました。
たしかにアスぺの方だけを「純真無垢」で「一切嘘をつけない人たち」みたいに考えることも,なんだか的外れの「美化」でしょう。一方的に悪の権化のように言うことも変なことですけど,変に美化するのもその裏返しにすぎないと思います。
私は昔から小さな子どもが結構好きだったんですが,わりと「純真」のイメージで語られることの多いその小さな子どもだって,しっかり嘘をつきます。私の子どもも,1歳のころにはもうおこられそうなことをして,そのあとそれをごまかすための嘘のような行動をとったりしてましたし (笑)
嘘のない人なんてまあいないでしょうね。うそをつくということは,人間が人間である条件だ,みたいなことを書かれている本を読んだこともあります。(というその方の主張もまたうそだったりして (笑) …,あ,今たまたま目についた本のタイトルで「人類はいません」という本があって,その内容紹介に「動物がうそをつく話」までありました!)
「ああーこの人いま場に合わせて適当なこと言ってるな、人間ってなんかそういう汚いところあるよねー、自分にもあるよなー…」
ということで,やっぱり「人間」みんなのこととして「汚いところ」を感じ取られているわけですが,その上で
「「なんかそういう汚いところあるよねー」までは共感をもっていただけるのでしょうか。あるいは、「誰も不幸にならないウソは悪ではないのだから、別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」と考えるのでしょうか。」
と問いかけられています。ま,私はそこは共感するわけですけど,特に面白かったのは「「誰も不幸にならないウソは悪ではないのだから、別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」という見方もあるんじゃないかと言われていることでした。
というのは,たとえば一時結構はまってた韓国ドラマとか,違う文化の人たちのやりとりを見ていて,日本ではあんまりそうしない場面で,結構簡単にお互いに嘘をついたりする場面に出会って,なんかちょっと私の方が不信感になったりするんだけど,その時にその文化の人たちからすれば「別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」と感じられているように思えたりしたからです。
たぶん,その人たちの間では「ここは人間関係で角を立てないように,嘘をついてもいいところ」みたいな暗黙の了解ができているんだろうと思います。だから別に言われた方も「だまされた!」とか怒る気持ちにはならないのでしょう。(たとえば相手の誘いを断りたいときに「ヤクソギイッソヨ(と聞こえましたが,先約があるんですという意味)」とか言って,ほんとは全然そんな約束もないのにしらじらしく断っているシーンとか (笑) )
そしてたぶん,日本人の間でもそういう「ここは嘘をついていいところ」があって,そこはお互いに暗黙の了解になっているから「嘘」というほど深刻な問題ではないと考えられていて,でも他の文化の人から見たら,「それはいかんでしょう!」ということになるとか,そんなことがある気がします。なんか今具体例を思い出しませんが,たしかあったような気がする (笑)
同じように定型の世界では「ここは嘘をおりまぜて言うのは前提」みたいな部分で,アスぺの方にはそういう了解が成り立たないので,それをされるとすごくショックを受ける,ということがあるんだろうなと思えたわけです。そこまでのところは,「相手の嘘」にショックを受けるかどうかの仕組みは定型アスぺで同じような気がします。
この「嘘」についてもし違いを想像するとすれば,定型では「ここはお互い嘘もありのところね」という暗黙の了解を結構作りやすいのに対して,アスペの方はそこはやはり作りにくいのではないかということでしょうか。ですからアスぺの方は「お互いに許しあえる,嘘とも言えないような嘘」というあいまいなものが作りにくく,「嘘はあくまで嘘」「嘘か本当かどっちかひとつ」みたいなシビアな切り分けになりやすいのではないか,という気がしました。
それで,アスぺの方も状況次第では嘘をつかざるを得ないときも出てくるわけだけれど,その時に嘘をつくことについての抵抗感はすごく強くなってしまう。だから定型的な感覚では割と些細に思えるような嘘でも,かなり深刻に受け止められることになる。そんな違いがもしかしたらあるかもしれないと思いました。
そのあとのAS-Pさんの
「「ウソを方便として使いながらうまく立ち回れる人がいる。自分には出来ない。くやしい。いっそウソを徹底排除した生き方を目指すしかない。そうだ、平然とウソがつける奴は人間として汚い!」という感じのこじらせ方、といいましょうか。勉強の苦手な子供が「こんなことを勉強しても何の役にも立たないだろ!」という考えに至る理屈に似ている気がします。」
というアスぺ分析も,私にはすごい新鮮な見方で,「なるほど!そういう見方があったか!」とある種感動してしまいました。これはアスぺの方にしかできない分析かもしれません。
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コメント
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私はとても嘘をつきますし、演技が変にうまいようです。
嘘をつかないと常に他人と衝突していなければなりませんが、年中嘘(「自分の気持ちとは違うことを言う」という意味です)を言うので、職場などで気づくと本来の自分とは違う人物像みたいなものが仕上がっていて、それとどんどん矛盾していってどうふるまったらいいのかわからなくなって、職場を去るしかなくなるということを繰り返していました。
嘘を言うのはとてもイヤな気持ちがします。
非常にストレスですが、とくに職場だと衝突してしまうとやっていけませんので仕方なくやります。
結局辞めるしかなくなるので一緒かも知れませんけど。
一個前の記事の話ですけど(そっちに書いた方がよかったかも知れません・・・)、定型発達者の中に、数は多くはありませんが「自分と同じような感じ方をしない相手をものすごく非難する」っていうタイプの人がいますね。
「どうしてこれを悲しいと思わないんだ!」「これをしてもらったらうれしいと思うのが当然だろう!」みたいな感じで。
「自分はそう感じない」って言おうものなら「わざとひねくれて言っている」「心がない」といった罵倒をされるという。
投稿: ひと | 2015年2月11日 (水) 20時58分
私の場合は、嘘をついてはいけないという教育の効果が大きいように思います。刷り込みというか、それによってコダワリを作られたという感じですね。これについては、色々なケースの学習によって、噓も方便という事もあり得る事は素直に受け入れています。
自分ではなるべく嘘はつかないようにしています。コダワリもさる事ながら、とにかく面倒なんですよね。記憶力も乏しいので、誰に何をどのように言ったのかを全部忘れるので…。嘘をついて上手に世渡りできる人は尊敬します。
自分の気持ちと違う事を言う、という事も基本的にはありません。こっちについては多分、私の周りには似たような人間しかいない、という事情も大きいのでしょう。技術屋稼業なんてアスペの巣窟ですから。趣味もいわゆるオタク趣味なので、結局、公私共に似たような人間の中で過ごしています。
投稿: Katz | 2015年2月11日 (水) 22時38分
ひとさん
おかげさまでアスぺの方にとってのうそについて,またイメージが膨らみつつあります。
ひとさんにとっては深刻なレベルまで無理強いをされることなのですね。パートナーが「お愛想」をいうことにすごく抵抗感を語っているのも同じことなんだろうなと思いました。
共感を強制する人,たしかにいるだろうと思います。
私は少しタイプが違うだろうと自分では思うのですが,それでも共感的な関係は大事にしたい方なので,パートナーからそっちのタイプのように見られていたように思います。
自分としては強制しているつもりはないのですが,でもたとえば子どもとの関係で,「そのやり方はまずい」と思って一生懸命伝えようとして,それが何度言っても伝わらないと,子どものことが心配で放っておくわけにもいかず,「なんでそれがわからないの!」という怒りになってしまうことがよくあったと思います。それは強制と感じられたのかもしれません。
子どもが絡むとほんとにむつかしいです。
Katzさん
ひとさんのコメントとつなげて考えると,「嘘」についての拒絶感には結構個人差があるのかもしれないわけですね。何がその差を生むのかは興味があります。Katzさんは教育の効果を取り上げていらっしゃいますし,あと周りの人の環境による経験の違い(どれほど苦い経験をしたかとか)なども影響しそうな気がします。
技術屋稼業=アスぺの巣窟というのは,ああ,やっぱり結構そういうことがあるのかと思いましたし,またそれで職場はそれなりに成り立つということも興味があります。これまでアスぺの方は定型とうまくいきにくいだけではなく,アスぺ同士でもうまう行かないのだ,という話を何度も聞いてきましたけれど,何かの条件や工夫があれば,少なくとも仕事が問題なく進む程度にはうまくいくということですよね?何がそこを分けるのかも大事なポイントかも。
投稿: パンダ | 2015年2月12日 (木) 23時56分
お久しぶりです、かずきです。
AS-Pさんのコメントには、そうそう、そうだよね、と読ませていただいていたので、
逆にここに引っ掛かるんだ、と新鮮な感じで記事を読ませていただきました。
うそに関してですが、私も子供に施す綺麗事の教育が大きな影響を与えると思います。
多くの人は「うそはいけない」と言う綺麗事のしつけを受けると思いますが
「嘘も方便」と言う言葉があるように、嘘によってうまく回ることもあるわけで、
でもその事は「うそはいけない」上になりたつんですよね。
うそはいけない、けど嘘も方便だから。
という、自分に対する言い訳ですかね。
私は最近嘘をつきました。
「第2子はまだか」としつこい親戚にたいして、(不妊に悩む方には申し訳ないのですが)「二人目がなかなかできなくて、困っている」と嘘をつきました。
本当は子供を作る計画など無く、困ってもいません。
でもその嘘のお陰で仕事上毎日顔を会わせるその親戚はそれ以降一切触れてきませんので
精神衛生上とても助かっています。
しかし、この嘘をつくまでには子供まだかコールのストレスで胃 痛で寝込む日もあり、
親戚の家業手伝いとはいえ、仕事をやめようかと悩み
夫に相談して、嘘をつくことに決め、
そこからまた一週間かけて心に決め、やっとつけた嘘です。
黙らせるための嘘、身を守るための嘘、仕事のための嘘。
きれいな理由を並べ立てても私にとっては嘘は嘘なんです。
嘘を口にした瞬間から後悔し始めましたが、
これまた私のこだわりで、自分で決めたことは最後まで貫く事に決めていますから、
嘘をつくと決めた自分ですから、この嘘だけは続けていくことになりそうです。
が、まわりには、「いつも言われて辛いからこういうことにしてある」と、本当の事を話してあって
最小限になるように気を付けているつもりです。
まとまり無くなりましたが、嘘に関しての私のスタンスです。
投稿: かずき | 2015年2月16日 (月) 21時42分
かずきさん
お久しぶりです。しばらくコメントを拝見しなかったので,さびしく思っていました。
といっても,御無理はなさらず,ご自分のペースでまた書き込んでくださいね。
かずきさんの書かれたこと,私のパートナーの律儀な真面目さの部分に
すごく共通するものを感じました。
その感覚をベースに見れば,定型の世界はほんとに
いい加減な,だましあいの世界に見えてくるかもしれません。
ああ,でも定型の世界にはそういう面があるから,
逆に「共感できて信頼できる仲間」づくりに必死になるのかも。
だましあいがあるからこそ,だまさない仲間が貴重になる,というわけです。
で,その気持ちは律儀に生きているアスぺの方には理解しにくい。
そしてそれを理解しにくいアスぺの方を定型は理解しにくい。
投稿: パンダ | 2015年2月17日 (火) 00時59分
パンダさん
かずきです。
なかなか心の体力が無いと自分と向き合う事が難しく
ご無沙汰しておりました。
冬場はどうも波がが落ちてしまうようで…。
またよろしくお願いしますね。
投稿: かずき | 2015年2月17日 (火) 12時35分
こんにちは
かずきさんのコメントが興味深かったです。
定型と思われる方々も、かずきさんと同じようなことをしてやり過ごすことはよくあると思います。
でも、それを親しい人に告白するときは
[こんな嘘をついた]という表現をしないような気がしました。
多分、それこそ嘘とは違う、許される[方便]なのかなと思いました。
それでもその親戚に[子供ができないことを実は気にしていない]とばれたら、しゃあしゃあと嘘をつかれたとひどく非難されるような気がします。
しつこく言われて本当に辛いという気持ちがあると共感はしてもらえなさそう。
私が感じてる一般の世界観みたいなものはズレているのかもなと思いますが、やっぱりこの世の中って難しそうですね。
私も、自分も気楽に相手も大事にできるやりかたをみつけるのをがんばりたいです。
投稿: お由 | 2015年2月20日 (金) 23時14分