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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年2月 1日 (日)

お互いに頑張っていること

 掲示板でお互いにアスぺの立場からAS-PさんとKatzさんが行われているやりとりに,すごく勉強させられます。

 いろんなことを考えさせられますが,素朴なことからいえば,定型アスぺ問題を抱えながら,アスぺの方の側からそれに対していろいろな工夫を積み重ね,積極的に生きてこられた姿を感じ取ることができます。

 「アスペルガー=障がい」という見方は,場合によって「一人の人間として与えられた条件の中でその人なりにいろいろ模索しながら生きる」という人の姿を見えにくくしてしまうことがあるように思います。でも人と人とが一緒に生きていくとき,相手の人がその人なりに主体的に生きているという面を見失ってしまうと,結局単なる「強者」と「弱者」の間の支配的な関係になりやすいように感じるのです。

 たとえば大人と子どもの関係のように,力や能力の差ははっきりしていて,どちらがどちらに対して保護するような関係なのかも明確,というような場合でも,子どもが子ども自身の誇りを持って,自分なりにいろいろ工夫したり判断したりしながら生きている,その姿を見失ってしまうと,子どもとの関係は「お互いに相手を大事にしあう」ことが出来なくなってしまって,単なる上下関係になってしまいます。

 定型優位の社会の中では,アスぺの方はどうしても「弱者」の位置に置かれざるを得ないのが実情だと思いますが(もちろん家庭という閉じられた場の中では立場が逆転することもいくらでもあり得ます),そうすると「強者が弱者を保護する」というような考え方は生まれやすくても,お互いに努力をしながら「共に生きる」という関係がそれでは生まれにくくなると感じます。

 そこを超えるには,「ああ,この人もこの人なりに頑張っているんだな」と実感できることが大きいと思えるんです。でも定型アスぺ関係ではそういうコミュニケーションもむつかしかったりするわけですよね。

 ところがこんなふうに語り合っているお二人の文章を読んでいると,アスぺ的な世界については相変わらずよく分らないことが多いなりに,それでも私もそこに参加して一緒に考えているような気分にもなってきます。その感じ,結構大事な気がします。

 そしてそこではお互いに自分の経験に照らし合わせて,共感されるようなこともあるし,お互いの違いを整理して理解を深められてもいる。定型間ではわりによくあることのように思いますが,少なくとも何かの条件があれば,アスぺの方同士でもそういうことが自然に起こることを改めて感じます。

 そういうやり取りを拝見していると,「アスぺの人は○○ができない」というようなシンプルな決めつけから自分が自由になる感覚も得られます。もっといろんな可能性がそこに隠れていると思える。

 「 この掲示板でもいろいろお話を聞いてきて、私が悪いとか妻が悪いとかそういう話ではない、ということは分かってきた……つもりです。(このあたり自信がなくて急速にトーンダウンします)」

 とAS-Pさんが(自信なさそうにではあれ)書いてくださったことも勇気づけられます。私がずっとこだわってきたその感覚,アスぺの方とも共有できる可能性をまた感じられたからです。

 また,お二人ともものすごい工夫をしながら,定型社会でも生き抜いてこられているわけで,AS-Pさんは最近までそれほど大きな行き詰まりも感じずに来られたとのこと。そんな風にいろいろ工夫しながらある意味「普通」に生きていらっしゃるアスぺの方も少なくないのでしょう。

 ただ,AS-Pさんの場合もやはりお子さんが生まれられて,そこで大きな行き詰まりが訪れた,ということは,これまでこのブログでもなんどか注目してきたことがそのまま当てはまることのようです。最初にAS-Pさんが掲示板に相談を投げかけられたのも,そういう状況の中でかなりせっぱつまった感じでだったことを思いだします。

 ある意味気が合えば,惹かれあった二人のカップル関係ならそれなりにうまくいくことも少なくない。やはり問題は子どもと言った「第三者」が入る状況で起こりやすいということになりそうですね。

 Katzさんの嫌いなことについて,注目するところを変える,という工夫も印象的です。私の子どもが前面白いことを言っていて,これまでずっと苦手だったある食材について,やはり注目するところを変えたら,それなりにおいしく食べられるようになったというんです。この話,「好き嫌い」といった感覚的なことについても,ちょっと切り替えが利く可能性を感じさせられます。


 やっぱり,「お互いに頑張ってるな」と感じられるって,いいことだなと思えます。

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コメント

お世話になっています、Katzです。
掲示板はこちらのブログに付属のものだったのですね。
最近来たので、よくわかっていませんでした。
宜しくお願いします。

AS-Pさんは多分、ものすごく頑張ってこられた立派な方だと思うのですが、
私はそんなに大層な頑張り方をしていません。
AS-Pさんにもおっしゃってましたが、勉強になると言われてしまうと、
どうも尻の穴がムズムズしてきてしまいます…

定型優位の社会という捉え方にも私はちょっと違和感を感じます。
社会の中のボリュームゾーンには定型の方が多いのは事実と思いますが、
そこを突き抜けた上の方には、逆にアスペが多いのではないかと感じています。
テレビなどで見かける「偉い人」にはそれっぽい人物が目立ちますし。
そういう「偉い人」に憧れて、ああなりたいと思っているのは、逆に定型の方ではないのかなと。

色々ご迷惑をお掛けする事もあるかと思いますが、
私にはどこでどう迷惑を掛けた事になるのか気付かない事も多いので、
その都度、ご指摘いただければ幸いです。
宜しくお願い致します。

Katzさん

 初めまして。コメントありがとうございます。

 拝見していて,同じアスぺの方でも,定型の中で活躍(?)されている方とかは
 見方や感じ方などもだいぶん違ってかなり積極的になれたりするのかなと
 そんなことを思いました。

 もしそうだとすれば,しばしば「アスぺの問題」と言われることの中には
 周りの状況でそういうふうに振る舞わざるを得なくなってしまっているという部分が
 やはり結構あるのではないかという気も強まってきます。

 突き抜けた上の人の話,
 「出る杭は打たれる。出過ぎた杭は打たれない」
 ということわざを思い出しました。
 特別に優秀なアスぺの方は,「出過ぎた杭」として,この社会でも
 特別の役割を果たされているのかもしれません。

> 私にはどこでどう迷惑を掛けた事になるのか気付かない事も多いので、

 私のほうも,全く予想外の所でブログが炎上したことも何度かありました。
 どこでアスぺの方を傷つけてしまうのか,なかなか分らないことがあります。
 またそういうときにはこちらもどうぞよろしくお願いいたします。

 これからも折に触れて,いろいろ教えていただければありがたいです。
 

AS-Pさんと、Katzさんのお話、目からウロコの感覚がたくさんあって、お二人の話からわが夫を観察してみると、なるほどなーと思えることが多々あります。
ちょっと気になったのは、パンダさんがアスペの方が弱者におかれることが多いと思われていることですが、私はKatzさんの意見のほうに納得できます。
独特の感性によって、アスペの人たちから社会を変えるような偉人が幾人も生まれたことは事実ですし、彼らは決して弱者ではなく、むしろ世界の先駆者でもあったわけです。
しかし、裏話を聞いてみると、その周囲の人たちは彼を理解するのに苦しんできたというエピソードがある場合が多いです。
我が家のアスペたちは、そもそも持っている感性を信じて疑わず、それが普遍的なものだとおもっているところで、家族との摩擦が生じてしまいます。けれど自分の感性の中のものに対しては実直で完璧主義で、誰にも文句は言わせない。その部分に関しては頼りがいがあります。
要は、本人の感性にないものをどう受け入れるかの部分ですよね。
おそらく、AS-PもKatzさんも、ご自分の生き方そのものには絶対的自信があり、責任も持てる。しかし、それを相手と合わせていくとなると、非常に苦労されるのだと思います。Katzさんご夫妻の編み出された方法は、まさにその苦労の中から生まれたもので、定型的ではないユニークな方法が、アスペ定型カップルの問題解決にも少しヒントがあるような気がします。

また誤植。
AS-Pさん、敬称がなくて失礼しました!

 こんばんは。パンダさん、記事で取り上げていただいて恐縮です。

 実際のところ、あすなろさんの「自分の生き方そのものには絶対的自信があり、責任も持てる。しかし、相手と合わせていくとなると、非常に苦労する」というのが、図星です。そして、それが私が不真面目に生きていられる正体でもあるということが、だんだん分かってきました。

 これは自己の経験を振り返ってのものですが、私の場合成功体験と失敗体験の濃淡が非常に激しいというか、「何をやっても形になる得意分野」と「何をやってもうまくいかない不得意分野」が完全に分離してしまっているんですね。そして恋愛・結婚・育児といったエモーショナルな部分では後者の傾向が強いので、半ばあきらめてしまっている部分もあります。ただ、そういう部分に妻はとても鋭く、「考えるのをサボるな、きちんと真面目に考えろ」と言ってくれているのだと思います。私も、言われてみれば、まだ音を上げるには早いような気もしています。

 いずれにせよ、こうして考えていることを文章にして伝えられる場はとても貴重です。今後ともよろしくお願いします。

AS-Pさま

素朴な疑問です。
AS-Pさんが、「不真面目に生きていられる正体」とは具体的にどのようなことなのか、気になります。
もしよろしければ教えてください。
よろしくお願いいたします。

どんぐりさん

 「不真面目に生きていられる」というのは、改めて言葉にすると難しいのですが、自分があまりにも普通と比べて「どのように生きたいか」を考えていない(ように自分では感じる)ということです。やりたいことを普通にやっているだけで、周囲にそれなりに評価されて、さしたる不安も問題もなく日々が過ごせてしまう部分がある、ともいえます。

 一方で、妻が子育てに追われ、精神的にも厳しい日々を過ごしているにもかかわらず、夫として出来ることは何かを「真面目に」考えるほどの緊迫感がない。目の前で苦労しているであろう妻や、関わりを待っているであろう子どもに、胸を痛めるふりをしながら、結局私自身はそれについて何もしなくても平穏に暮らせてしまう、ということです。

 もし不真面目に生き続ければ、妻も子どもも自分のもとを去っていくかもしれないのに、どこから「そうなったらなったで、自分は何となく生きていけるだろうからまあいいや」と割り切ってしまうような、おぞましい内面を自分自身が持っている……ような気がする、という感じでしょうか。辛うじて「それは非人間的、非道徳的だよね」という「知識」によって、何とか「そこは真面目に考えなくてはいけない」という倫理観だけを保っているような状態です。

 これで伝わったでしょうか…?

AS-Pさん

詳しく教えてくださりありがとうございました。
とても、よくわかりました。

どういうことなのかなぁと私が想像したこととは、全然ちがいました(笑)
そういう意味の不真面目なのかぁ…と わかりやすく府に落ちると言いますか ストンと落ちてきた感じです。

自分自身をきちんと分析されていらっしゃるんだなと、ある意味、真面目さを感じてしまいました。

誰しも、そういう裏の気持ちといいますか、冷たい自分自身といいますか、持ち合わせていると思います。
私自身も、人情的に、世間的にこうすべきなのが道徳的?といいますか、正しいことなのだろうけど、でも自分自身がしんどくなるからどうしてもできないことがあります。
親不孝、冷たいと思われるだろうなと、落ち込みますが、譲れないこと、わかってはいてもできないことがあり、最近、罪悪感に浸ったりしています。

形はちがうし、ニュアンス的に違いはありますが、誰しもそういう部分ってあるのかもしれませんね。

改めて教えてくださりありがとうございました。

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