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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年2月21日 (土)

生き方としてのアスぺと定型

 掲示板やコメントで,お互いにいろいろと傷つき,疑問に思い続けてきたことをかなりストレートに尋ね合い,それに答え,そしてそのことが相手の方にそれなりにちゃんとしたヒントを提供しているようなやりとりが展開してきているように感じられて,ああよかったとほんとに思います。これこそ,自分がこのブログに求めていた展開だなあと。

 こんな感じで展開していけば,なんとなく,場の提供者としての自分の役割はひとつ終わったのかなという気もします。あとは自分も一参加者としてぼちぼち参加していればいいのかなとか。

 最近改めて思うことは,アスぺの方にしろ定型にしろ,それぞれに自分が与えられた条件の中で,いろいろ模索しながら生きているんだなあということです。アスぺの方は往々にして定型からは激しく非難されるようなこともあり,大体それは「障がい者だから」というような理由をつけられていきます。そして「だからできないんだ」「だから足りないんだ」というような納得のされ方をする。

 でも,たとえばにわとりさんの書かれることを拝見していても,それは「できない」とか「足りない」とかいう以前に,ご自分に与えられた条件の中で,自分なりに努力し,工夫して生きている姿をそこに感じるわけです。そういう精一杯の工夫や努力が,けれども定型基準からいうとまた全然合わなくて,さらに否定的に見られたりして,そういうことが積み重なっていく。

 もちろんその逆も言えます。ここでコメントを下さる定型の方の多くは,ほんとにもう限界まで必死で努力されて,それが全く受け止められずに苦しみ続けてきた経験をお持ちのように感じます。そういう必死の努力が全く伝わらないことの衝撃については,私も少なからず体験し続けてきた一人です。今でも「なんでこんなに頑張っているのに…」と愚痴を言いたくなることがなくなりはしないんですね。

 そんなふうに努力に見合った報われ方をすることがむつかしく感じざるを得ないような状況を抱え,それでも必死で生きている,という点では,定型アスぺの間に違いはないように思います。そこまでさかのぼって(?)考えていくと,なんか「障がい者と健常者」みたいな区別に,あんまり意味がなくなるような気がします。どちらもが,自分に与えられた条件の中で必死に生きていて,ただ条件が違うから,生き方の形が相当違ってきてしまって,その結果いろんな悲劇も起こりうる。そしてやはり力関係からいって,アスぺの方は「障がい者」という名前がついていくようになる。そういうことなんだろうなあという気がするわけです。

 異なる生き方を作ってきたアスぺと定型が,その違いを前提にどうやって一緒に生きていけるのか。自分らしさを失うことなく,なお相手を否定せずに済んで,できれば違いがお互いの不足を補いあうような形に組み合わさっていく道を探していく。それは「定型が障がい者であるアスぺの方に気遣いをする」というような関係とはちょっと違うと思います。そこで大事になるのは,お互いの努力で,一方的な気遣いではない。

 そういうことは決してきれいごとの理想論とかではなくて,現実の可能性を持っていると,最近の皆さんのやりとりを拝見しながら感じているところです。

 
 

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コメント

パンダさんへ

 最近はなかなか考えがまとまらない日々を過ごしておりました。 言葉にすることのむずかしさに、何度も書いては消してを繰り返しました。 
 
 今日の記事の中で「そこで大事になるのは、お互いの努力で、一方的な気遣いではない」の部分に、ハッとさせられました。
 主人のトンチンカンと思われる言動にイライラしなくなったのも、主人なりに努力をしていると気付かされてからだったな、と…。
 元々言葉使いがキツかったのですが、「俺は言葉使いが悪いけど、悪気はないから~。」とみずから言ってしまうことに、人間関係を軽くみているように感じていました。 今になって思えば、主人なりに相手を傷つけまいとする思いやりだったのかと思い至ります。 努力していたのですよね。
 そういう前提で接していられたら、半分はいさかいは避けられそうです。

お世話になってます!
私はこの場を、新たな翻訳サイトとして活用させていただいているような感覚です。
私は随分昔から障碍児と関わる仕事などをしていたので、自分の子を持ってアスペを知る以前から、カナータイプのお子さんとの付き合いは長いのです。
けれど、昔は自閉症が知的障害者のひとつというような見方がされていたので、今思えば全く見当外れな対応をしていたなと。
息子の療育を通して、初めて自閉症の独特の感覚を知りました。そして、言葉のある息子から教えてもらったことを念頭に、カナータイプのお子さんに接したところ、不思議なほど意思が通ったことがあったのです。
幼い息子とカナーのお子さんは、感覚が近かったのかも?
それでも、これが夫の問題と共通するとは思っていませんでした。ASDが成長すれば、特性自体が定型に近くなっていくと、勝手に勘違いしていたんですね。
でも、そもそも、ASDは障害ではないので、それが薄れていくことなどない。
そのように見えるのは、知的に高い当事者の方が苦労して定型に合わせているからだと、改めてこの場で気づかされました。

障害と特性が全く別カテゴリーにあるというのは、知的障碍の方の中にも、定型的障碍者とASD障碍者がいて、やはり定型的障碍の方のほうが意思が把握しやすいし、ASDの方は、そもそもの感じ方の違いがわからず間違った対応をされていることが多い。それを知的遅れのせいにされている場合も、少なからずあるからです。

外国人に、「これ、楽しいよね?」と共感を求めても無反応だったとき、言葉の壁以前に、それを楽しいと感じる文化がない。それを言葉のせいと括られることが多いということじゃないかと思います。

私もADHDという発達障害ではあっても、支援は受けていない。だから障害者ではありません。
一時期鬱になって、通院していたときは、障害者だったと思います。

ASDが障害という認識は取りさらなくてはいけないし、同じASDであっても、自覚なく無理を重ねている人や、本当の障害を持っている方の解説者として、重要な存在だと思いますし、それを率直に伺えるこの場は、本当に画期的な翻訳ツールだと思っています。

外国語が、ひとつの言葉を覚えても、同じ用途で使えるものや、ニュアンスの違いで違ってしまうものが多くて、なかなか使いこなせるようにならないように、定型アスペの感覚も、バイリンガルにはなるには難しい!
だからこそ、些細なことでも教えていただけたら助かります!

私自身は「過去を精算したい」気持ちで今もお邪魔させて頂いてます

本当は手記を書き終えた時点で「もう此処に来るのはやめよう、いつまでも過去のことを愚痴っても仕方ないんだ」と……いつまでも過去を引きずる自分なんて情けないし、終わったことなんだからもういいじゃん……って、無理に納得させようとしました

でも「終わったことなのに」私はつい此処を覗いてしまう
結局「自分には終わってないこと」なんだと痛感しました

知りたかった、何故自分が傷付かなければいけなかったのか?
ずっと「どうしてパパは〇〇なの?」って疑問も消えなかった

過去は変えられなくても、定型の特権として「記憶の上書き」は出来る
もしもズレの認識が出来たら「過去の自分を救える」かもしれない……

そんな気持ちでお邪魔させて頂いてます

皆様、今後とも宜しくお願いしますm(__)m

杜若さん

> 主人のトンチンカンと思われる言動にイライラしなくなったのも、主人なりに努力をしていると気付かされてからだったな、と…。

 やっぱりそうなんですね?

 この「この人だってこの人なりに努力をしているんだ」ということを気づいたり感じ取れたりするかどうかが,ずいぶん大きなことなんだろうと思います。

 「お互い努力してるけどかみ合わない」,と思うのと,「なんで自分だけこんな風に努力させられなきゃいけないんだ!」と憤るのとでは天地の差ですよね。

 またなにか気づかれたこととかあれば教えてください。


あすなろさん

 「新たな翻訳サイト」という見方,ちょっと新鮮でした。

 「翻訳」の必要性についてはこのブログでもなんどか記事になりましたし,
 コメントもいただいていたと思います。
 でもそれはまだ「必要性」の話に留まっていたと思いますし,
 私が定型的な感覚をベースに,そこを延長して想像したら
 アスぺの方の言動の意味はこういうことじゃないだろうか,
 という形で翻訳の試みを続けてきただけでした。

 けれども今ここで成り立ちつつあることは,
 定型が勝手にアスぺの方について想像するということではなくて,
 アスぺの方がアスぺの方自身について説明をしようとし,
 定型が定型自身について説明をしようとする,
 そしてわかりにくいところを尋ね合う,
 という形でお互いの努力でなりたつ「翻訳」なわけですよね。

 だれかすごい「翻訳者」がいて,その「専門的な技術」にみんなが頼る,
 というのではなくて,ひとりひとりが自分自身翻訳者としてそこに参加して
 一緒に作り上げていく「翻訳の場」が成り立ってきている。
 「誤訳」もそこで修正できるし,正解も一つではなくて,
 いろんな人の視点からいろんな可能性を柔軟に考えることもできる。
 そういうの,すごくいいなあと感じます。

 たぶん,ネットという環境だからそれが成り立ちやすい
 という部分もあるんでしょうね。


アスぺ父を持つ娘さん

 アスぺ父を持つ娘さんのコメントや掲示板の書き込みを拝見していると,
 「過去の清算」ということはもうとっくに過ぎて,
 ご自分の経験を他の方の役に立つように提供してくださっている感じがします。
 
 アスぺ父を持つ娘さんにとって,「過去」はもはや
 清算すべきものではなくて,他の方にとってそれが救いの糧にもなるような
 大事な「経験」になっているのではないでしょうか。
 なんか,アスぺ父を持つ娘さんの苦しい過去が
 そこで今新たに「価値」を生み出しているような
 そんな印象を持っています。


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