アスぺの方の役割
Katzさんから,アスぺの方たちがこの世界で持っている大事な役割についてのコメントがあって,そういう面からも問題を考えていかないと,定型アスぺ問題はすごく偏った扱われ方しかできないなあと改めて思います。
Katzさんは定型が重視する「空気を読んで動くという事は、つまり予想以上の事は決して起きない」と書かれています。この「空気を読んで動く」というスタイルは,集団で動くときにはものすごい力を発揮することがあるのでしょう。戦後の奇跡的とも言われた日本の経済成長は,そういう「空気を読んで動く」式の集団の作り方がすごく効いた面があるように思います。
でも,この空気をよむ式のやり方は,「違う個性」と面と向かって付き合うことがむつかしいという面も持っています。それはぶつかり合いをできるだけ避けるために,強い自己主張をお互いに控え合うことを前提にしているところがあって,それができない(あるいはしない)ことは「わがまま」とか「自己中心的」とか「子ども」と見られてしまう傾向が強くなります。
日本のサッカーチームが世界のトップレベルにはなかなかたどり着けない理由について,面白い話を聞いたことがあるのですが,他の国のチーム(選手)に比べて,ボールを持った後の判断がごく短い時間ですけれど,遅れるんだそうです。それはやっぱり周りを見るからなんでしょう。
「自分がどう判断し,どう動くか」ではなくて,「周囲はどうなっていて,その中で自分はどう動かなければならないのか」をまず考えようとする。そうやって「お互いを思いやった」チームプレイが成り立つわけですけれど,周囲のことも考える分,判断が遅れる。判断が遅れれば,相手チームに対応の時間が与えられ,次にするプレーにも意外性が失われていく。
Katzさんは「イヤな事が無い代わりに面白い事も無い。」と書かれていますが,多分そういうことにもなるのでしょう。それに対してアスぺの方はそういう「空気を読んで動く」ことをせずに自分の判断で動こうとされる分,意外性を持った「新しい価値を生み出す事での貢献」が可能になるのだということになります。
日本の高度経済成長は,「強烈に異なる個性を許さず,空気を読んで動く」集団の力で成し遂げられたのだとすれば,その後世界についていけなくなってきた理由は,いろんな個性や文化がひしめき合い,ぶつかり合って成り立つ世界のやり方をなかなか取り込めないことが大きな原因ではないかと思ったりします。
戦後まだ弱かったころはいろんな意味で自分たちの中だけでまとまって,集団として海外に商売に出ればよかったし,国内は海外からヒトやモノが入ってくることを極力防ぐ仕組みになっていましたから,そういうやり方で世界に打って出ることが可能だった。でもその後,経済的に力をつけてからは,世界から日本の中にどんどん入ってくることが求められ,「似たようなもの同士で空気を読みあってまとまる」ことがむつかしい状況が生まれ,それにどう対処していいかわからないまま,混乱が続いているような気がするのです。
定型アスぺ問題も,そういう面から考えるべきところがたくさんあるように感じています。アスぺの方はまさに「空気を読めない」ことで責められ続けるわけですが,世界はお互いの「空気を読まない」ことで成り立っている部分があって,その意味ではアスぺの方が日本の定型につきつけている課題は,日本が世界から突きつけられている課題と共通する部分も持っているように思います。
私自身は「気遣い」ということ自体はとても重要だと思いますし,それは大きく言えば世界に対しても意味のあることだろうという気がするのですが,でも「似たもの同士の中でだけ通用する気遣い」にそれがとどまっている限りは,やっぱりもう通用しなくなっている。限界だろうと思います。その意味で,もし定型アスぺ間で改めてお互いの「気遣い」がうまく働けるような道が見つかれば,それは日本の社会全体がひとつバージョンアップすることになるでしょうし,さらには世界の状況に対しても,新しい何かを提供することができるようになると思います。
今朝もパートナーとお互いの気遣いについて,なかなかかみ合わずにしんどい思いをしましたが,まあそれだけ大きな課題を背負っているのが私たち定型アスぺカップルの当事者だと,そんなふうに思って自分を慰めています (^ ^;)ゞ
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