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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年2月

2015年2月28日 (土)

アスぺの方の役割

 

Katzさんから,アスぺの方たちがこの世界で持っている大事な役割についてのコメントがあって,そういう面からも問題を考えていかないと,定型アスぺ問題はすごく偏った扱われ方しかできないなあと改めて思います。

 Katzさんは定型が重視する空気を読んで動くという事は、つまり予想以上の事は決して起きない」と書かれています。この「空気を読んで動く」というスタイルは,集団で動くときにはものすごい力を発揮することがあるのでしょう。戦後の奇跡的とも言われた日本の経済成長は,そういう「空気を読んで動く」式の集団の作り方がすごく効いた面があるように思います。

 でも,この空気をよむ式のやり方は,「違う個性」と面と向かって付き合うことがむつかしいという面も持っています。それはぶつかり合いをできるだけ避けるために,強い自己主張をお互いに控え合うことを前提にしているところがあって,それができない(あるいはしない)ことは「わがまま」とか「自己中心的」とか「子ども」と見られてしまう傾向が強くなります。

 日本のサッカーチームが世界のトップレベルにはなかなかたどり着けない理由について,面白い話を聞いたことがあるのですが,他の国のチーム(選手)に比べて,ボールを持った後の判断がごく短い時間ですけれど,遅れるんだそうです。それはやっぱり周りを見るからなんでしょう。

 「自分がどう判断し,どう動くか」ではなくて,「周囲はどうなっていて,その中で自分はどう動かなければならないのか」をまず考えようとする。そうやって「お互いを思いやった」チームプレイが成り立つわけですけれど,周囲のことも考える分,判断が遅れる。判断が遅れれば,相手チームに対応の時間が与えられ,次にするプレーにも意外性が失われていく。

 Katzさんは
イヤな事が無い代わりに面白い事も無い。」と書かれていますが,多分そういうことにもなるのでしょう。それに対してアスぺの方はそういう「空気を読んで動く」ことをせずに自分の判断で動こうとされる分,意外性を持った新しい価値を生み出す事での貢献」が可能になるのだということになります。


 日本の高度経済成長は,「強烈に異なる個性を許さず,空気を読んで動く」集団の力で成し遂げられたのだとすれば,その後世界についていけなくなってきた理由は,いろんな個性や文化がひしめき合い,ぶつかり合って成り立つ世界のやり方をなかなか取り込めないことが大きな原因ではないかと思ったりします。

 戦後まだ弱かったころはいろんな意味で自分たちの中だけでまとまって,集団として海外に商売に出ればよかったし,国内は海外からヒトやモノが入ってくることを極力防ぐ仕組みになっていましたから,そういうやり方で世界に打って出ることが可能だった。でもその後,経済的に力をつけてからは,世界から日本の中にどんどん入ってくることが求められ,「似たようなもの同士で空気を読みあってまとまる」ことがむつかしい状況が生まれ,それにどう対処していいかわからないまま,混乱が続いているような気がするのです。

 定型アスぺ問題も,そういう面から考えるべきところがたくさんあるように感じています。アスぺの方はまさに「空気を読めない」ことで責められ続けるわけですが,世界はお互いの「空気を読まない」ことで成り立っている部分があって,その意味ではアスぺの方が日本の定型につきつけている課題は,日本が世界から突きつけられている課題と共通する部分も持っているように思います。

 私自身は「気遣い」ということ自体はとても重要だと思いますし,それは大きく言えば世界に対しても意味のあることだろうという気がするのですが,でも「似たもの同士の中でだけ通用する気遣い」にそれがとどまっている限りは,やっぱりもう通用しなくなっている。限界だろうと思います。その意味で,もし定型アスぺ間で改めてお互いの「気遣い」がうまく働けるような道が見つかれば,それは日本の社会全体がひとつバージョンアップすることになるでしょうし,さらには世界の状況に対しても,新しい何かを提供することができるようになると思います。

 今朝もパートナーとお互いの気遣いについて,なかなかかみ合わずにしんどい思いをしましたが,まあそれだけ大きな課題を背負っているのが私たち定型アスぺカップルの当事者だと,そんなふうに思って自分を慰めています (^ ^;)ゞ

2015年2月27日 (金)

またブログの役割について

 このブログや掲示板の役割についてまたちょっと考えています。

 もともとは他の当事者の方のご意見などもいただきながら,自分自身の気持ちや頭の整理のためにということをベースとして始めたブログです。それが幸いいろんな方からのいろんなコメントを頂けるようになり,そしてある方から教えていただいたイメージで,この場が「ムーミン谷」のような感じで成り立てばいいのかなと思うようになっていきました。いろんな個性を持った人たちが,その個性のままにぶつぶつつぶやいたり会話したりしながら,それぞれの人生を送っていくようなイメージでしょうか。

 特に誰かが強いリーダーシップを発揮するわけでもなく,唯一の「正解」を唱えるわけでもなく,それぞれの人がそれぞれの人生にあったその人の「正解」を探しながら,かといって孤立して生きているわけでもなく,お互いに刺激しあいながら,ゆるやかにつながって生きている。

 これって,もしかするとアスぺの方には割合なじみやすい人との関係の取り方なのかなと今ふと思いました。そしてこういう「ネット」という場での匿名でのやりとりにもうまくあったものかもしれません。

 というのは,その場に参加するみなさんは,一人一人が自分の生活の場を持っていらして,そこでは多かれ少なかれ顔の見える関係で,匿名ではない人とのやりとりをしながら生きていらっしゃるわけです。自分の言葉も相手の言葉も,ある意味で逃げられない「強制的」な力をもって迫ってくる部分があって,なかなか「ゆるやかにつながって」という感じにはならない。

 それに対してこういうネットの場では,自分の必要で,自分のペースでそこに行けばいいし,特殊な状況でもない限りはそこで何かを強制されるわけでもありません。自分の気持ちで参加して,刺激を受けたり与えたり,そんなことをしながら,また自分の生活に戻っていかれるわけです。

 最近,ネットを利用した在宅勤務という働き方(microsoftに飛びます)がどうも本格的に模索され始めたのかなという気がするのですが,それも「生活の場」を個人個人が個性的に持ちながら,ネットで「働く」という場を作る形です。「みんなで顔を合わせて働く」,「人生を会社にささげる」という形ではなく,「自分の生活をベースに生きる」ということの上に他の人たちともかかわりをもって働く,という形。

 お互いの間に距離を保てない,生活の場での生き方と,物理的にも気分的にも距離をある程度自由に保ちながら,必要なやりとりをしてゆるやかにつながりながら生きるネットの場と,その二つがうまく組み合わさった時,昔の「村にしばられて村の中だけで生きる」というのとも,「会社にしばられて会社に人生を捧げて生きる」というのでもない,それぞれが自分自身でありながらつながる形の生き方がうまく働き出すのかもしれません。

 ムーミン谷は北欧の話ですよね。聞きかじりですが,北欧はすごく個人主義が強いと言います。勝手な想像ですが,村で一致団結して生きる,みたいな形ではなく,(ちょっと単純化してますが)トナカイを飼いながらそれぞれの家庭がかなり距離をもって生きるような,そんな昔の生活スタイルがどこか影響して,お互いの間の距離を大きく取るような個人主義的なスタイルが強まったのかもしれません。そして面白いことに,そこは福祉をとても重視する社会でもあります。

 ムーミン谷の物語はそんな北欧の人たちの生き方を映し出しているのかもしれませんし,そしてそれはアスぺの方には特に魅力的に見えることがあるかもしれません。ネットはそれと重なるような人と人とのつながり方を生み出しやすい場というところがあり,もしかするとこのブログでも,そういうネットの性格が活かされてきているのかもしれません。

 そのことが,私が想像もしなかったような多くの方がこのブログを読んで下さるようになった原因のひとつかもしれないし,そしてコメントや掲示板でみなさんがつながり合ってお互いに大事な刺激を受け取り合えるようになった理由の一部かもしれません。

 そんなふうに考えてみると,このブログや掲示板の役割は,皆さんがそれぞれの人生を抱え,それぞれの場で生きていくうえで,お互いに刺激し合っていくような,そんな交流の場を提供することなのでしょう。そこでは誰か特別の「専門家」とか「リーダー」がいるわけでもたったひとつの「正解」があるわけでもなくて,来られる一人一人が主人公で,それぞれに自分らしさや自分らしい工夫を見つけていけばいい。

 多分私の役割は,そういう場を物理的に提供することと,それからそういうネットの場のつながりが持つ可能性をできるだけ活かせるような工夫を考えていくことでしょうか。まあ工夫と言ってもずぶずぶの文系,数学苦手人間で,別に何のネットの技術があるわけでもないので((^ ^;)ゞ),単にコミュニケーションをできるだけスムーズにするための工夫の模索,といったことでしょうけれど。そこから何が生み出されていくかは,それこそそこに参加される方にゆだねられていますよね。

2015年2月26日 (木)

100万を超えた閲覧ページ数

 このブログを訪れて皆さんがお読みくださったページ数がとうとうのべ100万ページを超えました。掲示板のほうにもそのほかにそれなりの方がいらしてくださっていると思うので,その数はさらに増えることになるでしょう。

 数がどうこうという話ではないと思いますけれど,それでも600を超えた記事の中から,仮におひとりが熱心に100ページの記事をお読みくださったとしても,1万人もの方がそうしてくださったということになるわけですから,さすがにその重みは感じざるを得ません。それだけ真剣に何かを求めていらっしゃる方が多いということかなと思います。最近は毎日とぎれることなく280人前後の方が訪れてくださっています。

 ココログからは,どうやって推定するのかは謎ですが,ブログの管理人には訪れてくださった方の人数だけでなく,性別や年代等の比率まで,推定して表示される仕組みになっています。どこまで正確なのかは分りませんが,大雑把な傾向として見ても,若い方が多いことに驚かされます。20代までで過半数になり,30代を加えると8割を超えるのです。また女性の方が多いようですが,男性の比率も4割以上になります。

 20代と言えば,まだ結婚される前か,結婚して間もない頃でしょうか。私のその頃を思い起こせば,まるでアスぺのアの字も思いつかない,比較的幸せな時期でした。そんな時期から,こういう重たい問題に深刻に悩まれている方が多いということでしょうか。あるいはご自身がアスぺとして苦しんでこられた若い方もそれなりにいらっしゃるのかもしれません。

 最近はありがたいことにAS-PさんやKatzさんといった,男性の方からのコメントもまた復活してきていますけれど,一時は頂くコメントの大部分が女性からのものになっていました。それでこういう問題に悩んでネットをご覧になる方は,やはり主婦などの女性が多いのだろうかと思いましたが,しかし提供されるデータでは,一貫して半数近くが男性でした。男性の方の方が発言はされずに読んでいかれる方の割合が多いということでしょう。

 さすがに定型とアスぺの方の割合までは出てきません(笑 当たり前!)。ただ,コメントを下さる方については,最近はアスぺの方と定型の方と,割合バランスがいいかもしれません。一時はアスぺの方ばかり,あるいは定型の方ばかり,という偏り方が繰り返されたりもしていましたが,そこは今は両者のやりとりがかなり進んできたからでしょう。嬉しいことです。

 このブログの記事やコメントなどがひとつのきっかけとなって,カップルの関係に変化が訪れた,ということをコメントしてくださる方もときどきいらっしゃるようになってきましたが,こんな風に集まるみなさんの気持ちから,さらに何かが生み出されていくといいですよね。

 



 

2015年2月25日 (水)

不思議なこと

昨夜遅く、ちょっとバタバタがあって、そのあとパートナーが珍しく話に来てくれたのですが、ある意味ほんとに「腹を割った」話になって、話している間じゅう、アスペ定型の壁がほとんど全く気にならないと言う、不思議な時を過ごしました。話の中身は定型アスペのズレの問題が大きなウェイトを占めていたのにです。

何か「通じている」感覚が私を支配していました。自分が認められている感覚もありました。今はただ不思議で、それが何なのか、これからも続くのか、全くわかりません。

2015年2月23日 (月)

ほっとする中身のズレはどこから?

  またこれまでに書いたことの二番煎じ三番煎じになるかも……(^_^;)

  定型もアスペの方も、家ではホッとしたいのは同じでしょう。安らぎをそこに求めるのも同じで、安らげないと苛立ったり、辛い思いになったりするのも同じだろうと思います。   問題はどうしたら安らげるか、に深刻なズレがあることのようです。

  古い言い方で「男は外に出れば七人の敵がいる」というような言葉がありました(細かいところはうろ覚えで自信ないですが(^_^;))。そして定型は家で「味方」に慰められることを期待する。労りの言葉や振る舞いで、傷を癒したい。また自分もそうやって相手を癒してあげたいと思う。

  アスペの方は、外の世界で傷つき、またよくわからない定型的な気遣いを強要されてへとへとになり、その自分を少しでも休めたい。それは「嘘」っぽく感じられる「気遣い」の世界から抜け出して、素の自分に戻ることなのでしょう、多分。

  病気になったときもそうですが、定型は回復のために労って欲しい。アスペの方は一人静かにしておいて欲しい。その違いはどこから来るのでしょう?   二つの可能性を考えます。

  定型は生まれながらに人の温もりで癒されるのに対し、アスペの方は生まれながらに人の温もりはむしろ不快で一人が心地よいという可能性がひとつ。もうひとつはアスペの方も、定型ほど強くなかったかもしれないが、やはり人を求めていたのに、自分の感覚に合った癒しが得られずに、逆の結果になるので、物心つく前の早い段階でもうそういう期待を捨ててしまい、一人で自分を癒す道を選んだのだという可能性。

  自閉的傾向の強い子の場合、赤ちゃんの頃から抱っこを嫌がってそっくり返られる、という話を聞いたこともあるので、そういう場合は一番目の可能性を感じます。ただ、それはかなり極端な場合でいわゆる「浅瀬」の方など,ある程度は定型的な「温もり」をもともとは求められていた可能性も私は否定できません。

 その理由の一つは,「人との接触を最小限にして,自分一人になって自分を癒そうとする」というやりかたは,定型でも問題が極度に重くなったりすれば,ありうることのように思えるからです。うつ状態とか,引きこもりの状態とかはそういうものではないでしょうか。

 もし定型のそういう状態とつなげて考えられるのなら,アスぺの方が「一人を望む」のは,それだけダメージが大きいからだ,という理解の仕方もありうると思えるわけです。別の言葉で言えば「二次障がい」だという見方につながるかもしれません。

 この問題,ずっと気になり続けていて,でもほんとにむつかしくて,牛歩の歩みで少しずつ整理されてきている部分もありますが,引き続き考えないといけない問題のようです。

2015年2月22日 (日)

「敵か味方か」

 にわとりさんから質問して頂いて,どうして私がにわとりさんの意図には反して,そのコメントに「攻撃的な感じ」を受けたのか,改めて考えてみたのですが,やっぱり定型は表現が「二段構え」みたいなところがあって,アスぺの方が比較的「ストレート」な表現になるところで,ズレが起こるのかなと感じました。

 そしてその「二段構え」の所で,定型は(私は?)半分は無意識的にでしょうけれど,すごく「敵か味方か?」みたいな判断をしてしまう癖があって,これがすごく冷静なとか,ゆとりのある判断を狂わせる元になっているのではないかと思いました。

 二段構えの一段目というのは,話している内容そのものです。たとえばにわとりさんが周囲の定型の方からほんとにひどいことを言われて苦しんできた。それは誰が何と言おうがにわとりさんの体験してきた「事実」であるわけで,にわとりさんはそれを確信をもって語ることができるはずです。

 そして二段目というのは,その「事実」を自分が語った時に,相手の人がそれをどんなふうに理解するだろうか,ということを気にすることです。場合によっては自分の意図とは全然違う意味を相手が誤解して読み取ってしまうかもしれないわけですから,そこをそうならないように常に工夫する。

 

 という,ここまでの話なら,要するにアスぺの方は一つのことを考えることは得意だけれど,複数の見方を同時にすることは苦手,みたいな「自閉的な特徴」がそこで出ているんだ,という話で終わるかもしれません。

 でもそういう話だけでは終わらない問題がここにあるような気がしたんです。

 それはどういうことかというと,「複数の見方」ができるかどうか,ということについていえば,たとえばKatzさんのように(違っていたらごめんなさい (^ ^;)ゞ),ものすごく頭が切れる方で,瞬時にいろんな可能性を知的に考えられるようなアスぺの方もいらっしゃるわけです。また,かずきさんのように,その場では気づきにくいことでも,あとからじっくりといろんな可能性を考えて調整される方もいらっしゃる。

 だから,問題は単に「複数の見方ができるか」というような「知的な能力」の話で済むとは思えません。Katzさんやかずきさんのように「複数の見方」を常に心がけられている方でも,やっぱり定型のやり方は簡単にはうまくいかずにかなり無理をされないと対応できなかったり,それでもずれてしまったりすることがあるわけでしょう。

 問題はだから「複数の見方」というより「どういうところに着目した見方か」ということではないかと思えるわけです。そこで定型が気にするポイントと,アスぺの方が気にするポイントにズレが生まれやすくなる。

 それで何がそのポイントになりやすいかということを考えた時に,こういう表現の仕方が一番ぴったりなのかどうかは私にはまだよく分りませんが,とりあえず今の段階で一つ重要になるかもしれないと感じたのが,上に書いた「敵か味方か」といったことです。

 「この人は私の味方になってくれる人だろうか?」(=私がつらいとき,なぐさめてくれるだろうか?私を傷つけることはないだろうか?私をかばってくれるだろうか?私と一緒に私の敵と戦ってくれるだろうか?私を必要としてくれるだろうか~必要なら味方になるでしょうし~?私の喜びを一緒に喜んでくれるだろうか~価値観を共有してくれることは味方であることのひとつの足場になりますし~?……)といったことを定型はいつもかなり気にしているんだと思います。

 だからたとえばあいさつにしても,その仕方によって,「その人の状態を知る」だけでなく,「その人と自分の関係がうまくいっているかを知る」意味が大きくなるし,相手に対して「あなたは私の意に反しているよ。私は気分が悪いよ」ということをそれとなく表現して,相手に反省を促し,関係を調整しようとする,といったテクニックもよく使っているわけです。女の子なら「拗ねて見せる」とか(笑)

 逆に自分の言葉や振る舞いで,相手に敵と思われてしまうことを極力避けるでしょう。だから表情や言い方にもそういうところですごく気遣う。ストレートには言わないことが多くなる。そこはアスぺの方から繰り返し定型の「嘘」みたいなことで指摘される部分でもあります。定型が誠実でないとアスぺの方に感じられるところでもありますよね。

 普段,あんまり意識はしていないように思いますけど,実際はそういうところにものすごいエネルギーを使うのが定型的なやり方で,大事な人との関係では単に「本音で付き合える」だけではなくて,常に「私はあなたの味方だよ」ということをお互いに確認しあって安心することも大事で,そのためにはいろんなクッションも使うし,場合によっては「嘘」もついて,相手を「傷つけないようにする」(anonimoさん)わけでしょう。そうやって相手との大事な関係を守ろうとする。

 ところがその点でアスぺの方は「事実を大事にする」傾向が強くて(ただし,「事実」の読み違いはありうるでしょうけれど),お互いの関係を守るためのあいまいな言い方や「嘘」などは受け入れがたい。仕方なくそれを受け入れる時はものすごく罪悪感も感じる(それか場合によってはもうそういう感覚も消し去ってしまって,ものすごくドライに対応する)。それはアスぺの方にとってはとても誠実な生き方になるのだろうという気がします。

 そしてそのある意味では「誠実な生き方」は,定型の側から見ると「この人は私の味方になってくれない」と感じられて,相手が自分にとって大事な人であればあるほど強いショックを受ける原因になる。「一緒に生きる」という感覚が失われてしまい,激しい孤独感を感じざるを得なくなっていく。

 にわとりさんから質問していただいたおかげで,なんかそんなずれの仕組みがあるんじゃないかという見方を思いつきました。まだわかんないことだらけですけど,とりあえずひとつ考える手掛かりになりそうな気がします。

 

2015年2月21日 (土)

生き方としてのアスぺと定型

 掲示板やコメントで,お互いにいろいろと傷つき,疑問に思い続けてきたことをかなりストレートに尋ね合い,それに答え,そしてそのことが相手の方にそれなりにちゃんとしたヒントを提供しているようなやりとりが展開してきているように感じられて,ああよかったとほんとに思います。これこそ,自分がこのブログに求めていた展開だなあと。

 こんな感じで展開していけば,なんとなく,場の提供者としての自分の役割はひとつ終わったのかなという気もします。あとは自分も一参加者としてぼちぼち参加していればいいのかなとか。

 最近改めて思うことは,アスぺの方にしろ定型にしろ,それぞれに自分が与えられた条件の中で,いろいろ模索しながら生きているんだなあということです。アスぺの方は往々にして定型からは激しく非難されるようなこともあり,大体それは「障がい者だから」というような理由をつけられていきます。そして「だからできないんだ」「だから足りないんだ」というような納得のされ方をする。

 でも,たとえばにわとりさんの書かれることを拝見していても,それは「できない」とか「足りない」とかいう以前に,ご自分に与えられた条件の中で,自分なりに努力し,工夫して生きている姿をそこに感じるわけです。そういう精一杯の工夫や努力が,けれども定型基準からいうとまた全然合わなくて,さらに否定的に見られたりして,そういうことが積み重なっていく。

 もちろんその逆も言えます。ここでコメントを下さる定型の方の多くは,ほんとにもう限界まで必死で努力されて,それが全く受け止められずに苦しみ続けてきた経験をお持ちのように感じます。そういう必死の努力が全く伝わらないことの衝撃については,私も少なからず体験し続けてきた一人です。今でも「なんでこんなに頑張っているのに…」と愚痴を言いたくなることがなくなりはしないんですね。

 そんなふうに努力に見合った報われ方をすることがむつかしく感じざるを得ないような状況を抱え,それでも必死で生きている,という点では,定型アスぺの間に違いはないように思います。そこまでさかのぼって(?)考えていくと,なんか「障がい者と健常者」みたいな区別に,あんまり意味がなくなるような気がします。どちらもが,自分に与えられた条件の中で必死に生きていて,ただ条件が違うから,生き方の形が相当違ってきてしまって,その結果いろんな悲劇も起こりうる。そしてやはり力関係からいって,アスぺの方は「障がい者」という名前がついていくようになる。そういうことなんだろうなあという気がするわけです。

 異なる生き方を作ってきたアスぺと定型が,その違いを前提にどうやって一緒に生きていけるのか。自分らしさを失うことなく,なお相手を否定せずに済んで,できれば違いがお互いの不足を補いあうような形に組み合わさっていく道を探していく。それは「定型が障がい者であるアスぺの方に気遣いをする」というような関係とはちょっと違うと思います。そこで大事になるのは,お互いの努力で,一方的な気遣いではない。

 そういうことは決してきれいごとの理想論とかではなくて,現実の可能性を持っていると,最近の皆さんのやりとりを拝見しながら感じているところです。

 
 

2015年2月17日 (火)

だまし合いと友情

 定型アスぺでずれやすいポイントのひとつに,「仲間づくりへの欲望」の強さみたいなことがあるような気がしていました。多くの定型にとって,「生きる」ことは「いい仲間を作って,いい仲間を維持して,お互いに守られて生きる」ことで,そのために相当のエネルギーを使う。

 それで相手の人が自分に好意を持っているのか,悪意を持っているのかを見分ける力はものすごく重要になります。悪意を持つ人に対しては警戒しなければならないし,好意を持ってくれる人とはさらに深いつながりを作って助け合う必要がある。

 もちろん,四六時中そのことを意識しているわけではなくて,大体はほとんど直観的に印象で決めてしまっていますし(当たることも外れることもありますが),またそれを維持するために普段の生活の中ではほとんど意識せずにお互いに「私はあなたに好意的だよ」というサインを送り合っています。

 この「仲間」関係というのは,実際はものすごく不安定なところがあります。人もその人が生きる状況も,常に変化していますから,実際はいつ何が起こるのかは誰も予想はできない。だから常に「大丈夫だよね?」「私は信頼しているよ」といったサインを送り合って,その関係を維持する努力をし続けるわけです。

 親子とか,生まれながらの関係の場合には,比較的そういう努力をしないで「信頼関係」が続く場合もあるでしょうが(それも絶対ではありませんが),友達関係とか夫婦とか,後から作るような関係の場合はますます努力が必要になる。

 子どもたちはほんとに小さなころから,そういう人間関係の厳しい世界に生きているんですね。いじめの問題なんかまさにそういうものだと思います。いつ自分が攻撃の対象になるかわからない。何がきっかけになるかわからない。いじめられないためには仲間の中にいなければならない。自分が生きていくためにはいじめられる側ではなく,いじめる側に回ることさえ必要になるかもしれない。仲間外れにされることは一番厳しいことで,とにかくそれを避けるために必死になる。

 それが子どもが生きている現実の一面だという気がします。そうやって小さいうちから徹底して「鍛えられ」ているのが定型でしょう。

 アスぺの方が子ども時代にいじめられることが多いのは,その理屈に乗れないからではないでしょうか。

 たとえば朝起きた時に「おはよう」と言う。その一言の言い方で,「あれ?今日この人,なんか調子が悪いのかな」と心配したり,「この人私に何か文句があるのだろうか?」と感じたり,「ああ,今日もこの人といい関係でいられるな」と思ったり,言葉にすればちょっと大げさですが,直観的にそういうことを定型は見分けています。そしてそれに応じた対処を心がける。そういうことをいつも普通に,ほとんど意識もしないレベルでやっているわけです。

 ところがアスぺの方にとってそのあいさつ自体が頑張らないとできない場合が結構ありそうです。元気に外向きに活動できているときはまだいいのかもしれませんが,何かの原因で気持ちが内向きになられたりしているときには特に,そのことが強く出るのではないでしょうか。

 そうすると,定型にとっては「仲間であることの確認」や「仲間としてやりとりする出発点」みたいなことについて,アスぺの方からそれを得られないことが多くなります。それが得られないということは「この人は私と仲間になろうとしていない」と理解されたり,あるいはもっと強く「この人は私に敵対しようとしている」と警戒されたりします。もう初めから「仲間外れ」の対象になってしまうわけです。

 夫婦関係は定型的な感覚では,多分もっとも強い,特別な「仲間関係」でしょう。多分アスぺの方にとっても特別な関係であることは同じだと思いますが,ただそれは上に書いてきた定型的な「仲間関係」のひとつという感覚とはちょっと違うのではないか,という気がするのです。

 アスぺの方は一度夫婦関係になれば,もうその関係を維持するために特別のことは必要ないと感じられる場合が多いのではないでしょうか。だから定型から見れば「釣った魚に餌はいらない」と感じられる大きな変化が結婚後に起こったりする。結婚するまでは「関係を作る」ためにいろいろ相手に気遣ったり,特別に意識して努力することも多いけれど,一度結婚してしまったらそんな特別の努力は必要がなくなると,ごく自然に感じられるのではないでしょうか。


 ここでもやはり「仲間関係はつねに変化するものだし,いつもお互いに確かめ合って,維持していかなければあぶなくなる」という,定型にとっては暗黙の理解になっていることが共有されていないのだろうと思います。(もちろん定型でもそのことについてすごく気にする人と,わりにおおらかな人がいて,むしろごちゃごちゃ言わない「信頼関係」をすごく重視するタイプの人もいますし,個人差は前提ですが,それでもアスぺの方に比べればかなり
気遣っていることになるでしょう)


 定型の世界は,多分信頼と裏切りと,期待と期待外れと,そういうことが渦巻きながら動いているんだと思います。アスぺの方から見れば,それこそだましあいの世界に見えるかもしれません。だからこそ定型同士では安心できる「仲間関係」が大事になる。それは常に努力しながら維持しなければならないものです。そしてアスぺの方はむしろとても律儀で,そういう「努力」の必要性を定型のようには感じられないから,定型からは「この人は私との仲間関係を望んでいない。私に敵対しようとしている」と誤解されてしまい,攻撃の対象にもなりやすい。


 なにが定型とアスぺの間にそういう「仲間関係」への姿勢の差を生むのかは,まだ私は頭がごちゃごちゃしていて整理できませんけれど,「なぜ定型がアスぺの方の言動に傷つくことが多いのか」「なぜその定型の感覚はアスぺの方には理解しにくいのか」については,こんな風に考えると少なくとも一部は分りやすくなるように思いました。
 

 

2015年2月 9日 (月)

ずるい定型 嘘つくアスぺ ?

 アスぺの方から見た時に,定型が口先だけでいいことを言って本心は全く隠していたり,人の悪口をさんざん言っておいて,その人がくるとみんな急にニコニコしてその人に接したり,ということを見てすごくショックで,不信感を持つ,という話は何度か聞いてきました。まあ言われればそう見られても仕方ないところはあるとは思いましたが,このところ複数のアスぺの方から自分も嘘をつく,というような指摘が相次ぎました。

 たしかにアスぺの方だけを「純真無垢」で「一切嘘をつけない人たち」みたいに考えることも,なんだか的外れの「美化」でしょう。一方的に悪の権化のように言うことも変なことですけど,変に美化するのもその裏返しにすぎないと思います。

 私は昔から小さな子どもが結構好きだったんですが,わりと「純真」のイメージで語られることの多いその小さな子どもだって,しっかり嘘をつきます。私の子どもも,1歳のころにはもうおこられそうなことをして,そのあとそれをごまかすための嘘のような行動をとったりしてましたし (笑)

 嘘のない人なんてまあいないでしょうね。うそをつくということは,人間が人間である条件だ,みたいなことを書かれている本を読んだこともあります。(というその方の主張もまたうそだったりして (笑) …,あ,今たまたま目についた本のタイトルで「人類はいません」という本があって,その内容紹介に「動物がうそをつく話」までありました!) 

 で,AS-Pさんが面白いことを書いてくださいました

「ああーこの人いま場に合わせて適当なこと言ってるな、人間ってなんかそういう汚いところあるよねー、自分にもあるよなー…」

 ということで,やっぱり「人間」みんなのこととして「汚いところ」を感じ取られているわけですが,その上で

「「なんかそういう汚いところあるよねー」までは共感をもっていただけるのでしょうか。あるいは、「誰も不幸にならないウソは悪ではないのだから、別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」と考えるのでしょうか。」

 と問いかけられています。ま,私はそこは共感するわけですけど,特に面白かったのは「「誰も不幸にならないウソは悪ではないのだから、別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」という見方もあるんじゃないかと言われていることでした。

 というのは,たとえば一時結構はまってた韓国ドラマとか,違う文化の人たちのやりとりを見ていて,日本ではあんまりそうしない場面で,結構簡単にお互いに嘘をついたりする場面に出会って,なんかちょっと私の方が不信感になったりするんだけど,その時にその文化の人たちからすれば「別にこの程度で『人間とは汚い』なんて極端すぎるんじゃない?」と感じられているように思えたりしたからです。

 たぶん,その人たちの間では「ここは人間関係で角を立てないように,嘘をついてもいいところ」みたいな暗黙の了解ができているんだろうと思います。だから別に言われた方も「だまされた!」とか怒る気持ちにはならないのでしょう。(たとえば相手の誘いを断りたいときに「ヤクソギイッソヨ(と聞こえましたが,先約があるんですという意味)」とか言って,ほんとは全然そんな約束もないのにしらじらしく断っているシーンとか (笑) )

 そしてたぶん,日本人の間でもそういう「ここは嘘をついていいところ」があって,そこはお互いに暗黙の了解になっているから「嘘」というほど深刻な問題ではないと考えられていて,でも他の文化の人から見たら,「それはいかんでしょう!」ということになるとか,そんなことがある気がします。なんか今具体例を思い出しませんが,たしかあったような気がする (笑)

 同じように定型の世界では「ここは嘘をおりまぜて言うのは前提」みたいな部分で,アスぺの方にはそういう了解が成り立たないので,それをされるとすごくショックを受ける,ということがあるんだろうなと思えたわけです。そこまでのところは,「相手の嘘」にショックを受けるかどうかの仕組みは定型アスぺで同じような気がします。

 この「嘘」についてもし違いを想像するとすれば,定型では「ここはお互い嘘もありのところね」という暗黙の了解を結構作りやすいのに対して,アスペの方はそこはやはり作りにくいのではないかということでしょうか。ですからアスぺの方は「お互いに許しあえる,嘘とも言えないような嘘」というあいまいなものが作りにくく,「嘘はあくまで嘘」「嘘か本当かどっちかひとつ」みたいなシビアな切り分けになりやすいのではないか,という気がしました。

 それで,アスぺの方も状況次第では嘘をつかざるを得ないときも出てくるわけだけれど,その時に嘘をつくことについての抵抗感はすごく強くなってしまう。だから定型的な感覚では割と些細に思えるような嘘でも,かなり深刻に受け止められることになる。そんな違いがもしかしたらあるかもしれないと思いました。

 そのあとのAS-Pさんの

「「ウソを方便として使いながらうまく立ち回れる人がいる。自分には出来ない。くやしい。いっそウソを徹底排除した生き方を目指すしかない。そうだ、平然とウソがつける奴は人間として汚い!」という感じのこじらせ方、といいましょうか。勉強の苦手な子供が「こんなことを勉強しても何の役にも立たないだろ!」という考えに至る理屈に似ている気がします。」

 というアスぺ分析も,私にはすごい新鮮な見方で,「なるほど!そういう見方があったか!」とある種感動してしまいました。これはアスぺの方にしかできない分析かもしれません。

 

2015年2月 7日 (土)

矛盾するイメージ

AS-Pさんの説明を読んでいて思ったことがあります。

 定型アスぺ関係で,定型の側がショックを受けたりしやすいことの中に,アスぺの方からの問題の指摘のされ方,文句の言われ方があるように思います。私の場合はパートナーから家事の仕方とか何か文句を言われる時,なんだかほんとに嫌悪感を抱かれているかのように感じてしまう表情や声で指摘されることが多いわけです。

 そうすると私は「もうそこまで毛嫌いされてしまっているのか」とか「それほどひどいことを自分は彼女に対してしているのか」とかどうしても思ってしまい,でも同時に「なんでそこまで?????」という思いがわいてきて,とてもつらいわけです。

 で,例によって彼女に聞くと,そういうことではない,ということになるわけですけれど,じゃあなんであの表情や声になるのか,そこがどうしても分んなかった。その所がAS-Pさんの書かれたことでちょっと手掛かりが頂けたかも,という気になったのです。

 AS-Pさんはこんな風に書かれています。

「具体的に言うと、普通の方が、相手の立場を想像したり考えをめぐらしているあいだ、私は「あの人の行動を『私は』どう受け止めればいいんだろう」とか、「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とか、あるいは「あの人にかき乱された『自分の気持ちを』どうやって立て直そうか」といった形の、すべて「私」主語の思考に時間を割いているような感じです。」

 ここでAS-Pさんは,ご自分が基本的には相手のことを考えたりはしない,と述べられているわけですが,同時に「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とも書かれています。このことには定型的に理解すれば,「相手の立場を想像し,考えをめぐらし」,相手の気持ちになって,その人にも受け入れられる形で,自分に思いつく一番いい形を探してその態度を決めるということになるだろうと思います。もちろんうまくいくとは限りませんが,そうしようとする姿勢は基本的には保っているように思う。(それが全くなくなるのは,もう関係が破たんした時でしょう)

 けれどもAS-Pさんがここで 「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」と書かれる時,それはそういう定型的な態度とはちょっとニュアンスが違うのではないかと思うのです。そしてそこのズレがたぶん私には今までもうひとつもやもやしてよく分っていなかったことにつながりそうに思ったのです。

 AS-Pさんの基本的な姿勢はこういうものだと言われています。

「普通は、「あの人何考えてるんだろう」とか、「あの人はどうしてそういうことをするんだろう」というような、自分以外の誰かが起こした言動について、ちょっとは考えますよね。私はそのような時間が、日常生活のなかにほとんどありません。他人のことは、はなから「どうせ何も分からない」と仮定しているような感じ」

 ですから「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とAS-Pさんが言われる時に,まず「相手がどう考えているか」ということは「どうせ何も分らない」からあまり考えない,という前提があって,その上で,自分がどう行動したら一番効果的だろうか,という「対処の仕方のパターン」のようなことを,それまでの経験などから頭で推理する,ということなんだろうと思えました。

 これはたぶん自閉的傾向の特徴,とされることについて,これまでも言われてきたことにつながりそうです。「自閉圏の人は相手の心の動きが分かりにくいから,形式的で機械的な対応になる」というような理解の仕方です。

 その見方が全く的外れだとは私も思わないし,ひとつのポイントとして大事だと思うのですが,でも定型的感覚だけから見てそこのイメージが独り歩きしてしまうと,すごくおかしな話になると思うんです。

 つまりその見方が一面的に強調されるだけだと,「自閉の人は,人の心を理解できず,人の心を持てず,人の感情を無視してまるでロボットのように利己的に実利的に生きている」というような,ものすごいイメージに結びつきやすいと思えるのです。

 実際にわとりさんはこういう経験を書かれています

「元恋人からも「おまえは鬼畜、……人の心がない悪魔だ」と言われ続けました。」

 でもそれは私が接してきて実感するアスぺの方のイメージとはやっぱりずれていきます。

 何がずれるかというと,まずひとつには,パートナーにしてもAS-Pさんにしてもにわとりさんにしても,ご自分の理解の仕方で相手(定型)のやりかたを取り入れようと努力され続けてきたということがあります。なんとか相手に応えようとする姿勢を,アスぺの方も持たれてきた(その結果絶望的になって諦める方もあるかもしれないにせよ)。

 さらに最近印象が強まっていることですが,定型が「言葉でなぐさめる(本心とは少しずれたとしても)」というような形で気遣うことについては,アスぺの方はむしろ「それは相手をだますこと」という気分になってしまい,不誠実でできない,という,とても(定型から見れば過度にあるいは融通が利かなすぎと思えるほどの)誠実さや実直さをだいじにされているのを何度も感じます。

 その点ではむしろ定型の方がずるがしこく,ひどい人間だという見方もできなくはないでしょう。そして定型のその「ずる賢さ」や「不誠実さ」にショックを受けるアスぺの方の話はいろんなところで繰り返し聞くことでもあります。

 そして「相手の為になることが嬉しい」ということも,私のパートナーもそうですし,AS-Pさんもこんな表現で言われています。

もしそれ(AS-Pさんが考えていることをコメントなどに書かれること)が誰かの何かのお役に立てるのなら、まさに望外の喜びです。」

  

 つまりこういうことです。定型的に見ると,アスぺの方は一方では「人の心を理解しない」,「無神経」で「ロボットのような」人間に見えること(そう責められること)もある。ところがもう一方では相手のことを気遣おうとし,馬鹿正直と思えるほどに誠実さを大事にし,他の人に喜ばれることを嬉しいと思う姿も感じられる。

 この二つのイメージは,全然正反対のもので,矛盾して見えますよね。一方は非人間的なイメージで,他方はすごく人間的なイメージだからです。その矛盾するイメージの両方を抱えれば,もし「アスぺはひどい奴らだ」みたいな言い方をされても,「いやそんなことはないぞ」という思いになるし,かといって「アスぺの方はやさしくて誠実で素晴らしい」と思ってみても,やっぱり定型の側は相手の言動に傷ついたりしてわけがわかんなくなる。

 そのものすごく矛盾したように(定型からは)見える二つのことが,AS-Pさんの文章ではとても素直に矛盾なく表れていると思えるのです。私なりにアスぺの方の発想をこんな風に想像してみると,矛盾がなくなっていくようにも感じます。

 「相手に認められることも,相手に喜んでもらうこともアスぺの方は基本は嬉しい。でも相手の気持ち(心)というものはどうやっても分らないものだ。だからそこは割り切って,自分にとってよくて,相手も困らないやり方を具体的に探っていくしかない。ただし,その時に「嘘をつく」ことはよくない。他人であれば,愛想も使ってごまかすことは仕方ないからするが,家族の中でそんな不誠実なことはできない。素直な自分の気持ちで接することが一番大切なことのはずだ。」

 仮にそんな感覚をアスぺの方が強くお持ちだったとします。そうすると,たとえば私が家事でパートナーが大事と思っているやり方から外れた時,それは彼女にとっては「いけないこと」ですし,「直すべきこと」です。それをされると,彼女の「理想」が崩されるわけですし,おそらくそれは私にとってもよくないはずのこと,と彼女は感じるのでしょうから,いら立ちも感じるはずです。

 ここで仮に定型が同じ立場に立たされたら,たとえまずちょっとイラついたとしても,それをすぐに表現することはあまりなくて,むしろ相手の気持ちをうまく動かして,相手の人が自分から修正しやすくなるような働きかけを優先することが多いように思います(特に日本に多い「気遣い」の関係ではそれが著しいでしょう)。

 もちろん何度言ってもうまくいかないとかになると,腹を立てて怒ったりもするわけですし,そこで相手に「暴力的に強制する」みたいなことも場合や人によっては起こりうると思いますけど,それはできるだけ避けようとして,最後の手段に残しておく。

 ところがそういうクッションのあるやり方は,アスぺの方は基本的にはとらない。とれないというより,取りたくないということなのかなと思うのです。極端に言えば「自分の素直な気持ちをごまかして嘘をついている」ことになって,とても抵抗感が強く出るのではないかと想像したのです。とくに大事なつながりの相手との間では,それはしたくない。

 そうするとアスぺの方は,自分の不快感をそのまま素直に表現することになる。それは相手を頭から否定するためでも,「最終的な否定の態度」を示しているわけもない。ただある意味自分の思いに素直で,そのことで相手にもある意味で誠実であるだけのことかもしれません。

 定型的が大事と感じている相手への「気遣い」は通用せず,定型にとっては相手との関係を断ち切るような「最終手段」として使われる態度が,アスぺの方には自然なものとして選ばれる。ところが定型はそういう態度を「最終手段の発動」として感じ取ってしまい,驚き,混乱し,傷つく。すると今度はアスぺの方が定型にそう受け取られることの意味がわからなくて途方に暮れる。

 ああ,そう考えてみると,逆に定型の側が「最終手段の発動」とか「最終警告の表明」として行うことを,アスぺの方が気づきにくいことがあることも分かる気がします。私の場合は「もう離婚しかないとまで深刻に思っている」ということを直接の言葉ではなく,間接的な言葉や態度で繰り返し示していたのを,彼女は全く気付いていなかったのですが,それは私にとって「最終警告」になるその態度が,彼女にとっては全然そういう意味を持たないからなのではないかとも思えるわけです。

 例によって私の勝手な想像ですが,なんかそれに近いようなことが起こっていないだろうかと,そんなことを考えてみました。
 

 

2015年2月 5日 (木)

追体験できるやりとり

 AS-Pさんとあすなろさんの掲示板でのやりとり や,ブログでのどんぐりさんとのやりとりなど見ていて,なんだかすごいなあと思ってしまいます。

 ひとつにはAS-Pさんの「説明力」みたいなものがすごい,と感じます。定型(この場合あすなろさんも含む)にもすごく分りやすい形でご自分のことを分析されて,またわかりやすい例を挙げて説明をされる。

 分りやすいってどういうことかというと,多分それを読むと,自分もそのAS-Pさんの体験を追体験できるような感じになることかなと思います。「ああ,そういう体験をすれば,そんなふうに感じたり振る舞ったりしても当然のように感じる」ということかな。

 で,そういう形で「自分も相手になったような感じで追体験をして理解する」というやりかた,これは定型的に言えば「共感的に理解する」ということそのものなんじゃないでしょうか。

 もしそうなら,AS-Pさんは,定型が共感的に理解しやすい形で説明をしてくださっていることになります。そしてあすなろさんやどんぐりさんとのやり取りも,すごく「かみ合ってる」感じがするんです。

 そういうAS-Pさんの説明は,AS-Pさんとして定型に合わせるためにものすごく努力して「定型語に翻訳」してやられていることなのか,それともAS-Pさんにとってもある程度自然な説明の仕方なのか,そこもとても関心があるところです。

 もし努力して翻訳を,ということなら,「定型アスぺでこんなふうに翻訳ができるんだ」という大事な例になるような気がしますし,そうではなくてAS-Pさん自身にも自然な説明なのだとすれば,「こんな風にお互いの体験を自然に共有できるんだ」ということの大事な例になると思うし,どちらにしてもすごいことではないでしょうか。

 なんにせよAS-Pさんは分析したり説明したりすることがものすごく上手な方なのだろうと思うので,全てのアスぺの方と同じようなやりとりが成り立つということにはならないかもしれません。特別な例なのかもしれません。でも少なくとも「アスぺだからそういうことは不可能だ」という話ではないことは確かですよね。

 もしそうなら,そういうAS-Pさんとのやりとりを手掛かりにして,そこからまた一歩,他のアスぺの方とも次のコミュニケーションを進めるための工夫が得られるかもしれません。


 しかし,それにしても定型(この場合あすなろさんも含む)アスぺ間でこんなやりとりができるってすごいなあと思います。そのことでAS-Pさんがアスぺではなく定型になったわけではなくて,アスぺとして生きながら,でも定型との間でそれなりに通じ合えるものを作れ,そしてお互いの理解が深まるということなわけですから。

2015年2月 3日 (火)

定型アスぺ問題の幅の広さ

>ちょっと気になったのは、パンダさんがアスペの方が弱者におかれることが多いと思われていることですが、私はKatzさんの意見のほうに納得できます。

 あすなろさんやKatzさんからこういう問題を指摘されて,ほんとに私も自分の経験の範囲でしかものを考えられないなあとつくづく感じました。

 私のパートナーの場合,子ども時代にひたすらいじめの対象だった後,学生時代ぐらいまでは「変わった人」で済んでいたのかもしれませんが,社会に出てからはやはり苦労の連続だったと思います。ゆとりを持って活躍する,という状態はちょっと想像できませんでした。

 というわけで,たとえばにわとりさんとか,ゆかさんなどが書かれるとても厳しい状況の方のイメージが私には強かったんですね。で,自然とそのイメージをベースにアスぺの方のことを考えたり,書いたりしがちになります。

 でも,比率の問題はさておくとしても,たしかにものすごい能力をお持ちの方の場合は,対人関係のハンディを補って余りある活躍をされるのでしょうし,そこである種の余裕もできるのかもしれません。

 そこまでの余裕はなくても,十分に仕事をこなされて,自尊心を傷つけられることもあまりなく,むしろ自信を持って生きていらっしゃる方もあるでしょう。ただ,家庭の親密な関係では問題が起こりやすいかもしれないとしても。


 もしかするとカサンドラで苦しまれる女性の方に,そういうパターンが多いのかもしれないとふと思いました。夫の方は社会的にはそれなりに活躍されていて,ご自分では特に問題を感じられておらず,定型の側の奥さんから問題を提起されても共有されることが困難で,逆に問題提起を責められることになったりもする。

 奥さんの側が仕事をされていれば,まだそこでの救いがあるかもしれませんが,専業主婦だったりすると,相当きつい状態になる可能性もあるように思えます。パートナーの方が社会的にも困難を抱えられていれば,「奥さんも大変ね」と周囲から同情されるかもしれませんが,それなりに活躍されていれば,「一体なにが不満なの?」という話にもなりやすそうです。

 夫婦で問題が共有されないことの辛さと,さらに周囲にも全く理解してもらえない状況に置かれて,まさにカサンドラ。そういうケースも少なくないのかもしれませんね。


 定型アスぺ問題,ほんとにいろんなケースを視野に入れながら考えていかないと,そもそも「定型アスぺ問題ってなんなの?」というところから,ずっこけてしまうことにもなりそうです。


 

2015年2月 2日 (月)

定型アスぺのつながりを作るもの

 ここ数日,お由さんひとさんゆかさんKatzさんにわとりさん とアスぺとして苦労されているみなさんとのやりとりが続く中で,ひとつしみじみ感じたことがあります。それはお互いに理解しようとするつながりというのは,「理解できたからできる」のではないという(ある意味当たり前?)ことです。

 私としてはほんとに試行錯誤,手探りの中でですが,それでもようやくここにきて,アスぺの方から共感的なコメントをいただくことが重なってきました。定型アスぺ間でも,自分が大事だと感じている問題について,感情的な面も含めて一緒に考えあうような関係は全く不可能なのではない,ということが実感されてきて,ほんとによかったと思っています。

 とはいえ,それは私が「アスぺの方をようやくちゃんとわかったから」それにみなさんが応えてくださってやりとりができてきた,ということとはちょっと違うような気がするんです。依然として私にとってはアスぺの方の世界は,ほんとに謎に満ちています。「わかった」なんて口が裂けても言えない状態です。

 でも,そういう状態でも,少なくとも一部のアスぺの方とは,定型的に言えば「共感的」とも言えそうなやりとりが可能になるんですね。「理解してしまったから」つながりができるのではない。それってなんなのかなと,そう思うわけです。

 「理解しようとする気持ち」とか「理解しようとする姿勢」が大事だ,とか,そういうこともあるのかもしれませんが,それだけではないですよね,きっと。なぜなら過去の私もそうでしたし,この問題に苦しんでここに来られ,コメントを下さるような定型のみなさんも,なんとか相手を理解しようと必死の努力を,絶望の思いに至るまで続けてこられた方が多いわけです。でもそれがほんとに通じがたいという現実があります。

 「理解できたから」でもないし,「理解しようとする姿勢を持った」からでもない。なんなんでしょう。

 

 

2015年2月 1日 (日)

お互いに頑張っていること

 掲示板でお互いにアスぺの立場からAS-PさんとKatzさんが行われているやりとりに,すごく勉強させられます。

 いろんなことを考えさせられますが,素朴なことからいえば,定型アスぺ問題を抱えながら,アスぺの方の側からそれに対していろいろな工夫を積み重ね,積極的に生きてこられた姿を感じ取ることができます。

 「アスペルガー=障がい」という見方は,場合によって「一人の人間として与えられた条件の中でその人なりにいろいろ模索しながら生きる」という人の姿を見えにくくしてしまうことがあるように思います。でも人と人とが一緒に生きていくとき,相手の人がその人なりに主体的に生きているという面を見失ってしまうと,結局単なる「強者」と「弱者」の間の支配的な関係になりやすいように感じるのです。

 たとえば大人と子どもの関係のように,力や能力の差ははっきりしていて,どちらがどちらに対して保護するような関係なのかも明確,というような場合でも,子どもが子ども自身の誇りを持って,自分なりにいろいろ工夫したり判断したりしながら生きている,その姿を見失ってしまうと,子どもとの関係は「お互いに相手を大事にしあう」ことが出来なくなってしまって,単なる上下関係になってしまいます。

 定型優位の社会の中では,アスぺの方はどうしても「弱者」の位置に置かれざるを得ないのが実情だと思いますが(もちろん家庭という閉じられた場の中では立場が逆転することもいくらでもあり得ます),そうすると「強者が弱者を保護する」というような考え方は生まれやすくても,お互いに努力をしながら「共に生きる」という関係がそれでは生まれにくくなると感じます。

 そこを超えるには,「ああ,この人もこの人なりに頑張っているんだな」と実感できることが大きいと思えるんです。でも定型アスぺ関係ではそういうコミュニケーションもむつかしかったりするわけですよね。

 ところがこんなふうに語り合っているお二人の文章を読んでいると,アスぺ的な世界については相変わらずよく分らないことが多いなりに,それでも私もそこに参加して一緒に考えているような気分にもなってきます。その感じ,結構大事な気がします。

 そしてそこではお互いに自分の経験に照らし合わせて,共感されるようなこともあるし,お互いの違いを整理して理解を深められてもいる。定型間ではわりによくあることのように思いますが,少なくとも何かの条件があれば,アスぺの方同士でもそういうことが自然に起こることを改めて感じます。

 そういうやり取りを拝見していると,「アスぺの人は○○ができない」というようなシンプルな決めつけから自分が自由になる感覚も得られます。もっといろんな可能性がそこに隠れていると思える。

 「 この掲示板でもいろいろお話を聞いてきて、私が悪いとか妻が悪いとかそういう話ではない、ということは分かってきた……つもりです。(このあたり自信がなくて急速にトーンダウンします)」

 とAS-Pさんが(自信なさそうにではあれ)書いてくださったことも勇気づけられます。私がずっとこだわってきたその感覚,アスぺの方とも共有できる可能性をまた感じられたからです。

 また,お二人ともものすごい工夫をしながら,定型社会でも生き抜いてこられているわけで,AS-Pさんは最近までそれほど大きな行き詰まりも感じずに来られたとのこと。そんな風にいろいろ工夫しながらある意味「普通」に生きていらっしゃるアスぺの方も少なくないのでしょう。

 ただ,AS-Pさんの場合もやはりお子さんが生まれられて,そこで大きな行き詰まりが訪れた,ということは,これまでこのブログでもなんどか注目してきたことがそのまま当てはまることのようです。最初にAS-Pさんが掲示板に相談を投げかけられたのも,そういう状況の中でかなりせっぱつまった感じでだったことを思いだします。

 ある意味気が合えば,惹かれあった二人のカップル関係ならそれなりにうまくいくことも少なくない。やはり問題は子どもと言った「第三者」が入る状況で起こりやすいということになりそうですね。

 Katzさんの嫌いなことについて,注目するところを変える,という工夫も印象的です。私の子どもが前面白いことを言っていて,これまでずっと苦手だったある食材について,やはり注目するところを変えたら,それなりにおいしく食べられるようになったというんです。この話,「好き嫌い」といった感覚的なことについても,ちょっと切り替えが利く可能性を感じさせられます。


 やっぱり,「お互いに頑張ってるな」と感じられるって,いいことだなと思えます。

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