AS-Pさんの説明を読んでいて思ったことがあります。
定型アスぺ関係で,定型の側がショックを受けたりしやすいことの中に,アスぺの方からの問題の指摘のされ方,文句の言われ方があるように思います。私の場合はパートナーから家事の仕方とか何か文句を言われる時,なんだかほんとに嫌悪感を抱かれているかのように感じてしまう表情や声で指摘されることが多いわけです。
そうすると私は「もうそこまで毛嫌いされてしまっているのか」とか「それほどひどいことを自分は彼女に対してしているのか」とかどうしても思ってしまい,でも同時に「なんでそこまで?????」という思いがわいてきて,とてもつらいわけです。
で,例によって彼女に聞くと,そういうことではない,ということになるわけですけれど,じゃあなんであの表情や声になるのか,そこがどうしても分んなかった。その所がAS-Pさんの書かれたことでちょっと手掛かりが頂けたかも,という気になったのです。
AS-Pさんはこんな風に書かれています。
「具体的に言うと、普通の方が、相手の立場を想像したり考えをめぐらしているあいだ、私は「あの人の行動を『私は』どう受け止めればいいんだろう」とか、「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とか、あるいは「あの人にかき乱された『自分の気持ちを』どうやって立て直そうか」といった形の、すべて「私」主語の思考に時間を割いているような感じです。」
ここでAS-Pさんは,ご自分が基本的には相手のことを考えたりはしない,と述べられているわけですが,同時に「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とも書かれています。このことには定型的に理解すれば,「相手の立場を想像し,考えをめぐらし」,相手の気持ちになって,その人にも受け入れられる形で,自分に思いつく一番いい形を探してその態度を決めるということになるだろうと思います。もちろんうまくいくとは限りませんが,そうしようとする姿勢は基本的には保っているように思う。(それが全くなくなるのは,もう関係が破たんした時でしょう)
けれどもAS-Pさんがここで 「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」と書かれる時,それはそういう定型的な態度とはちょっとニュアンスが違うのではないかと思うのです。そしてそこのズレがたぶん私には今までもうひとつもやもやしてよく分っていなかったことにつながりそうに思ったのです。
AS-Pさんの基本的な姿勢はこういうものだと言われています。
「普通は、「あの人何考えてるんだろう」とか、「あの人はどうしてそういうことをするんだろう」というような、自分以外の誰かが起こした言動について、ちょっとは考えますよね。私はそのような時間が、日常生活のなかにほとんどありません。他人のことは、はなから「どうせ何も分からない」と仮定しているような感じ」
ですから「あの人に『私は』どういう態度を示せばいいだろうか」とAS-Pさんが言われる時に,まず「相手がどう考えているか」ということは「どうせ何も分らない」からあまり考えない,という前提があって,その上で,自分がどう行動したら一番効果的だろうか,という「対処の仕方のパターン」のようなことを,それまでの経験などから頭で推理する,ということなんだろうと思えました。
これはたぶん自閉的傾向の特徴,とされることについて,これまでも言われてきたことにつながりそうです。「自閉圏の人は相手の心の動きが分かりにくいから,形式的で機械的な対応になる」というような理解の仕方です。
その見方が全く的外れだとは私も思わないし,ひとつのポイントとして大事だと思うのですが,でも定型的感覚だけから見てそこのイメージが独り歩きしてしまうと,すごくおかしな話になると思うんです。
つまりその見方が一面的に強調されるだけだと,「自閉の人は,人の心を理解できず,人の心を持てず,人の感情を無視してまるでロボットのように利己的に実利的に生きている」というような,ものすごいイメージに結びつきやすいと思えるのです。
実際にわとりさんはこういう経験を書かれています,
「元恋人からも「おまえは鬼畜、……人の心がない悪魔だ」と言われ続けました。」
でもそれは私が接してきて実感するアスぺの方のイメージとはやっぱりずれていきます。
何がずれるかというと,まずひとつには,パートナーにしてもAS-Pさんにしてもにわとりさんにしても,ご自分の理解の仕方で相手(定型)のやりかたを取り入れようと努力され続けてきたということがあります。なんとか相手に応えようとする姿勢を,アスぺの方も持たれてきた(その結果絶望的になって諦める方もあるかもしれないにせよ)。
さらに最近印象が強まっていることですが,定型が「言葉でなぐさめる(本心とは少しずれたとしても)」というような形で気遣うことについては,アスぺの方はむしろ「それは相手をだますこと」という気分になってしまい,不誠実でできない,という,とても(定型から見れば過度にあるいは融通が利かなすぎと思えるほどの)誠実さや実直さをだいじにされているのを何度も感じます。
その点ではむしろ定型の方がずるがしこく,ひどい人間だという見方もできなくはないでしょう。そして定型のその「ずる賢さ」や「不誠実さ」にショックを受けるアスぺの方の話はいろんなところで繰り返し聞くことでもあります。
そして「相手の為になることが嬉しい」ということも,私のパートナーもそうですし,AS-Pさんもこんな表現で言われています。
「もしそれ(AS-Pさんが考えていることをコメントなどに書かれること)が誰かの何かのお役に立てるのなら、まさに望外の喜びです。」
つまりこういうことです。定型的に見ると,アスぺの方は一方では「人の心を理解しない」,「無神経」で「ロボットのような」人間に見えること(そう責められること)もある。ところがもう一方では相手のことを気遣おうとし,馬鹿正直と思えるほどに誠実さを大事にし,他の人に喜ばれることを嬉しいと思う姿も感じられる。
この二つのイメージは,全然正反対のもので,矛盾して見えますよね。一方は非人間的なイメージで,他方はすごく人間的なイメージだからです。その矛盾するイメージの両方を抱えれば,もし「アスぺはひどい奴らだ」みたいな言い方をされても,「いやそんなことはないぞ」という思いになるし,かといって「アスぺの方はやさしくて誠実で素晴らしい」と思ってみても,やっぱり定型の側は相手の言動に傷ついたりしてわけがわかんなくなる。
そのものすごく矛盾したように(定型からは)見える二つのことが,AS-Pさんの文章ではとても素直に矛盾なく表れていると思えるのです。私なりにアスぺの方の発想をこんな風に想像してみると,矛盾がなくなっていくようにも感じます。
「相手に認められることも,相手に喜んでもらうこともアスぺの方は基本は嬉しい。でも相手の気持ち(心)というものはどうやっても分らないものだ。だからそこは割り切って,自分にとってよくて,相手も困らないやり方を具体的に探っていくしかない。ただし,その時に「嘘をつく」ことはよくない。他人であれば,愛想も使ってごまかすことは仕方ないからするが,家族の中でそんな不誠実なことはできない。素直な自分の気持ちで接することが一番大切なことのはずだ。」
仮にそんな感覚をアスぺの方が強くお持ちだったとします。そうすると,たとえば私が家事でパートナーが大事と思っているやり方から外れた時,それは彼女にとっては「いけないこと」ですし,「直すべきこと」です。それをされると,彼女の「理想」が崩されるわけですし,おそらくそれは私にとってもよくないはずのこと,と彼女は感じるのでしょうから,いら立ちも感じるはずです。
ここで仮に定型が同じ立場に立たされたら,たとえまずちょっとイラついたとしても,それをすぐに表現することはあまりなくて,むしろ相手の気持ちをうまく動かして,相手の人が自分から修正しやすくなるような働きかけを優先することが多いように思います(特に日本に多い「気遣い」の関係ではそれが著しいでしょう)。
もちろん何度言ってもうまくいかないとかになると,腹を立てて怒ったりもするわけですし,そこで相手に「暴力的に強制する」みたいなことも場合や人によっては起こりうると思いますけど,それはできるだけ避けようとして,最後の手段に残しておく。
ところがそういうクッションのあるやり方は,アスぺの方は基本的にはとらない。とれないというより,取りたくないということなのかなと思うのです。極端に言えば「自分の素直な気持ちをごまかして嘘をついている」ことになって,とても抵抗感が強く出るのではないかと想像したのです。とくに大事なつながりの相手との間では,それはしたくない。
そうするとアスぺの方は,自分の不快感をそのまま素直に表現することになる。それは相手を頭から否定するためでも,「最終的な否定の態度」を示しているわけもない。ただある意味自分の思いに素直で,そのことで相手にもある意味で誠実であるだけのことかもしれません。
定型的が大事と感じている相手への「気遣い」は通用せず,定型にとっては相手との関係を断ち切るような「最終手段」として使われる態度が,アスぺの方には自然なものとして選ばれる。ところが定型はそういう態度を「最終手段の発動」として感じ取ってしまい,驚き,混乱し,傷つく。すると今度はアスぺの方が定型にそう受け取られることの意味がわからなくて途方に暮れる。
ああ,そう考えてみると,逆に定型の側が「最終手段の発動」とか「最終警告の表明」として行うことを,アスぺの方が気づきにくいことがあることも分かる気がします。私の場合は「もう離婚しかないとまで深刻に思っている」ということを直接の言葉ではなく,間接的な言葉や態度で繰り返し示していたのを,彼女は全く気付いていなかったのですが,それは私にとって「最終警告」になるその態度が,彼女にとっては全然そういう意味を持たないからなのではないかとも思えるわけです。
例によって私の勝手な想像ですが,なんかそれに近いようなことが起こっていないだろうかと,そんなことを考えてみました。
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