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アスペルガーと定型を共に生きる

  • 東山伸夫・カレン・斎藤パンダ: アスペルガーと定型を共に生きる

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2015年1月

2015年1月31日 (土)

余力がない

 今朝,パートナーの疲れた表情を見て,「ああ,ほんとにつらいんだろうな」と感じました。

 つらくても,人に頼ることはできない。相手の為には頼ってはいけない。自分にできることを,一人で精一杯やるしかない。思い余って訴えても分ってくれない。相手の為にどんなに頑張っても通じないことが多い。努力は報われない……

 そんな世界に自分が置かれたら,どんな気持ちになるでしょう。 

「仕事でのストレス(というか頭がつかれてるだけなんですが)から家族に八つ当たりしないように「常に自分の世界にこもって頭を休める」ことが自分の最善の方法です。もし家族に愛想よくしろと言われたら、歩み寄りたい気持ちもありますが、その余力はなかなか難しいですね…。」

 というにわとりさんの言葉が改めて身に沁みます。

2015年1月30日 (金)

分かち合うと悲しみが半分か倍かの話

 前に少し取り上げたような気もしますし,関連するコメントもいただいたと思うのですが,「悲しみは分かち合えば半分になる,喜びは分かち合えば倍になる」という言葉は,定型にはかなり通用しても,アスぺの方にはなかなか通用しないということがあるようです。むしろ「悲しみは分かち合えば倍になる」という感じがあるらしい。「喜びは分かち合えば半分になる」かどうかは分らないですが。

 もしそうだとすると,それって何が違うからそうなるんでしょうね。アスぺの方が悲しみが倍になってしまうのも不思議な感じですが,逆に言えば定型はなんで半分になるのかも,考えてみれば謎です。あらゆる場合にそうなるとは限りませんが,結構そうなることがある,というのは実感としてそう思えます。カウンセリングの働きも,きっと半分はそういうことでしょうし。

 気持ちを分ってもらえた,ということは,仲間が増えたという感覚につながるのでしょうか。もしそうなら定型お得意の「群れを作りたい」欲求に関係する話なのかもしれません。「士は己を知る者のために死す」という言葉まであるわけですし,「承認されたい」という定型の気持ちはほんとに命がけなわけですよね。そこにつながる話なのかどうか。

 ただ一方で,ゆかさんは私がアスぺの方の苦しみを想像して書いてみたことについて,自分の気持ちを代弁された気がするとおっしゃってくださり,さらに「これで明日から少しトラウマのフラッシュバックが減るかもしれない」とも書いてくださっています。この場合は「悲しみが分かち合われたことで半分になった」ということだと考えてよいのか,それはまた違うことなのかも気になります。

 アスぺの方で悲しみを分かち合うと倍になるといわれるのは,たとえば自分が自分の悲しみについて相手に話し,それを聞いて相手も悲しんだ場合,悲しみが二人分になるから倍になるというふうにも考えられるし,あるいは自分が悲しいだけではなく,そのことで相手まで悲しませてしまったという罪悪感が自分に重なって,悲しみの苦しみが倍になるということなのかもしれません。どっちなのか,その両方なのかは私には分らないことですが,そこも気になります。

 アスぺの方は基本的に自分の悲しみや苦しみは,自分自身で解決しなければならないと感じられているように思います。それは生まれながらにそうだということなのか,それとももともとは他の人に助けを求めていたのに,常にその結果に裏切られ続けてきて,人に頼ることはしない生き方の方がむしろ楽なのでそうなったということなのか,そこも私にはまだわかりません。ただもしそこで「自分のことは自分で」というある種の「倫理観」みたいなものが強くアスぺの方の生き方を支えているのだとすれば,「悲しみを分かち合う」あるいは「共有してくれることを望む」ということは,よくないことと感じられるのかもしれません。

 なにしろ分らないことだらけですけど,それでも「何が分らないのかが分ってくる」ということは前進でしょうね。

2015年1月28日 (水)

「本当は私だって」

 このところ,アスぺの方から「私も本当はにこにこして会話したいんですよね」(にわとりさん)とか「私だって話し合いができなくて抑うつ状態になる」(ゆかさん)といったコメントを続けていただいています。


 たびたび書くように,アスぺの方のどこまでの範囲の方がそうなのかは私にはわからないのですが,少なくとも一部の方については,「本当は」とか「私だって」と表現されるように,定型的な付き合い方を求めているのに,それができない状況に追い込まれて,その結果「アスぺ的」とみられるようなことになって定型から否定されてしまう,ということが起こっているようです。

 ベースの所で定型アスぺの感覚に違いがあるから,ズレが蓄積されてそういう「追い込まれる」状況になってしまう,ということはたぶん間違いのないことでしょう。違いは確実にある。でもそうだとしても,追い込まれた結果として,仕方なくそうせざるを得なくなっている部分について,「アスぺの根っからの特性だ」と決めつけてしまうことはやはりできないと思うんです。

 そこの区別ってすごくむつかしいことですけど,でも時間がかかってもいいから,そこは見つめていきたいところです。

2015年1月26日 (月)

ユーモアのむつかしさ

 子どもと話をしていて,あることをちょっと私が勧めたのですけれど,子どもはそれをすると後で悲しくなったり落ち込むからやめておく,と言いました。それで私は「じゃあこんど,悲しい気分になりたいときはそれをしたらいいんだね」と笑顔で言って,子どももそれで笑っていました。

 するとその直後,話を聞いていたパートナーが真剣な表情で私に「なんでそんな人を傷つけるような無神経なことを言うの?」と言うんです。私は一瞬混乱して,子どもの顔を見たんですが,子どももパートナーの言葉に戸惑った表情をしていて,一呼吸おいてから,そんなことはないよとパートナーに説明を試み始めました。

 すると今度はパートナーの方が混乱して,何でそういう言い方で人を傷つけたことにならないのか,分らないと言います。

 私はどう説明していいのか迷いました。まず彼女がなぜそれを「傷つける発言」と感じたのかがすっとは分りませんでした。もしかすると私の言い方が「子どもに<悲しい気分になりなさい>と言ったに等しい」という受け止められ方のしたのかな,とも考え,「これはユーモアなんだよ」ということを説明しようとしました。

 高校時代,英語の先生が「イギリス人のユーモアというのは,<可笑しことを言う>というようなものじゃないんだ。悲しんでいるひとを目の前にして,君は悲しむことを楽しんでいるねと話しかける。そういうのがユーモアなんだ」と言っていたのを思い出しました。そういうユーモアがパートナーには伝わりにくいんじゃないかとかんじたわけです。

 そういうユーモアは定型的には愛情の表現にもなりうるし,場合によっては相手をけなすことがむしろ親愛の情の表現にもなります。親しくない同士なら「攻撃」の意味を持ってしまうような言葉も,親しい間では「垣根を外して親しくなんでも言い合う」という意味になり得ますし,その言葉は相手を傷つけることを意味しないという暗黙の了解がお互いに成り立つ。

 そういえば,学生時代に読んだ本によれば,サルの子どもだってじゃれて遊びあう時には,攻撃的なことを笑いながらやるんだそうですね。そうすると「これは本気の攻撃じゃないんだよ」という意味になるらしい。

 そう考えれば,こういう「ユーモア」とか,「親しみを込めたからかい」のあるやりとりを,彼女が全然理解できないことは考えられなかったし,実際そういうのを彼女もやることがありそうな気がしたので,猫の例で話をしてみました。

 つまり,彼女は猫が好きで,猫とはスキンシップを自分からすることもあるんですが((T_T)),そうしながら猫をけなすことがあるように思ったんで,その例を出して,けなすことが愛情の表現にもなることもあるでしょう。と言ってみました。そのこと自体は彼女も了解なんですが,子どもと私のやりとりをそういうものとは感じられないらしく,とても不満な様子です。

 それで,「○○さんが僕のことを<馬鹿だ>とかいうこともあるでしょう。ああいうのもそうじゃない」と言ったのですが,これには「はあ?」という反応。それを見て,私は思わず吹き出してしまいました。

 つまり,彼女がそこで「馬鹿」と私を言っているのは,親愛の情などではなく,言葉そのままの意味だったのですね! 


 結局私や子どもが説明を試みたことには納得ができないらしくて,そういう定型的なわかりにくいコミュニケーションに,改めて「得体のしれない」ものだという不信感を抱かれたような気もしました。いやあ,ユーモアってほんとにむつかしいです。

 

2015年1月23日 (金)

共感的理解が可能だということ

 

ゆかさんから「私のようなアスペルガーの女性の苦しい気持ちを代弁していただいたような気持ちになっています。」というコメントを頂きました。

 私にとってはこれは最もありがたい感想です。こういう言葉を戴きたくて,ずっとこのブログで考えてきたとも言えます。

「アスぺの方を理解する」と言っても,いろんな理解の仕方があります。たとえば定型との違いを並べ立てる。違いに関係するかもしれない脳の性質を調べる。脳にも関係するかもしれない体のいろんな機能の違いを調べる。認知的な仕組みの違いを調べる。などなど。

 私はちょっと違う視点から問題を考え続けてきました。それは,定型的な言葉で言えば「共感的に理解する」ということです。もちろん,もしもアスぺの方が全く「共感」というようなことがない方たちで,そういう方たちのことを「共感的に理解する」というのは最初から不可能なことなのだ,と言われてしまうと,「まあそれはそうかもしれないけど…」と言わざるを得ません。私が私の「共感的な理解」を押し付けたところで,そんなのは定型的な自己中心的やりかたにすぎないことになります。

 だから,私は「アスぺの方は,もしかするとこんな風に感じているのかも」と,自分の想像力を発揮して「共感的に」理解してみても,いつも「そうかもしれないけど,そうじゃないかもしれない」としか言えませんでした。私のその「共感的な」アスぺ理解が的外れでないかどうかを決められるのは,アスぺの方だけだからです。

 そんなふうに,私は自分のアスぺ理解が「正しい」かどうかは,自分がその考え方で納得するかどうかでは判断しません。あくまで自分の説明に,アスぺの方が「うん,そうだね」と言われたときに,初めて「ああ,こういう理解で大体いいのかもしれない」と思えるんです。

 そして今回,「気持ちを代弁して」もらえたとまで言っていただくことができました。特に,ゆかさんがこれまでずっと苦しんでこられた,そのとても大事な部分でそういっていただけことになります。

 もちろん,アスぺの方にもいろいろありますから,どこまでの範囲の方たちに同じように感じていただけるのかは全くわかりません。でも,少なくとも一部の方には,そう感じていただけるのだとわかったことは,私にとっては本当に大きなことです。

 定型アスぺの間で共感的に理解をしていくことは,少なくとも何かの条件があれば,決して不可能なことではない。それは単に私の勝手な思い込みや単なる幻想ではなく,現実に起こりうることなのだと,今はある程度安心して言うことが出来そうです。

 このところ,定型アスぺ問題を考えるということについて,ようやく入り口にたどり着き始めたと感じていたところですが,今は入り口を入ったと感じられるようになりました。やっと準備段階の模索が一区切りついて,これからが本番になるのだと思います。

2015年1月20日 (火)

猫の視線

 猫を見ていると,猫がスーッと目をつぶることがあります。私はこれまで,「視線を避けている」のかと思っていました。で,かかわりを避けられているのかなと。

 ところが猫好きの子どもに教えられたところでは,それは親しみの表現だということです。

 男性が相手を睨んで顔を近づけるのは,相手に対する挑発で,いわゆる「ガンをつける」ということになるわけですが,女性は顔を近づけるのは親愛の表現だということで,これも子どもから言われて,あ,そうなのかな?と思いました。

 視線をめぐる感じ方がいろいろあって面白いです。

2015年1月19日 (月)

共通の足場 再び

 今の皆さんの議論とは少し流れの違う話ですが,思いついたときに書いておきたいのですみません m(_ _)m

 

あすなろさんが掲示板で「アスペ=定型問題というより、夫が私や家族に対して行ってきたモラルハラスメントの影響に少し気づき、彼なりの方法で回避しようとし始めた。」と書かれていることについて,もわっと思っていたことがちょっと言葉になりそうです。

 

 「定型とアスぺと,お互いにいろんな感覚に違いがあって,何をいいことと考えるかも違う。だから定型が定型の感覚でだけ判断してしまうと,とんでもないすれ違いの拡大になることがある。」

 という見方が,この問題を考える時の私の出発点になります。お互いに良かれと思ってやっていることが激しく相手を傷つけ,修復しようとする努力が全く通じないか,むしろ事態を悪化させるだけになる。

 お互いに悪意を抱いているのなら,事態が悪化するのは当然でしょう。でも決してそういうことではないのに,どんどん事態が悪化していくだけというのはやはり耐え難い気がします。

 それで自分の見方や感じ方だけで相手の「悪」を言い立てるのではなく,まずはお互いの見方や感じ方の違いを探ってみよう,というのが私にとっての次のステップでしたし,このブログでやり続けてきたことでもあります。

 前にも少し書きましたように,このステップはいろんなむつかしさを抱えていると思います。まず自分自身が相手との関係で激しく傷つき,もはや自分を保つことすらむつかしくなっている状況で,自分を傷つけた(としか感じられない)相手について「悪意はなかったのかもしれない」と想像してみるわけですから,ある意味ものすごく不自然なことですし,無理をしなければなりません。

 そしてもしかすると相手は本当に悪意を持っているだけだったという可能性だって,否定はできないわけです。もしそうなら,そういう不自然な無理は,状況をさらに悪化させるだけに終わるでしょう。そういう状態での「自己犠牲」は悲劇的とも言える気がします。

 仮に幸いにして,「どうも相手は悪意でそうしているのではなさそうだ」ということが感じ取れるようになってきた場合,次の努力に意味が出てくると思いますけれど,でも「悪意」がなくても自分が相手によって結果として「傷つけられる」状態がなくなるわけではありません。そうすると,傷つきながら,でも相手をただ責めるわけにもいかない,という困った状況になる。

 それでもこの状況では,相手を悪意で理解する必要がなくなることで,これまでとは別の可能性が感じられるようになりますし,「自分が責められる(ように感じる)のは,自分が悪いからではない」と思えるようにもなれば,その分気持ちも楽になりますから,決してマイナスだけになるわけではなく,ひとつの前進と感じられるとは思います。

 とはいえ,傷つく状況がまったくなくなるわけではないし(だいぶクッションができ始めたとしても),そしてより大きな次の問題が見えてくるように思います。

 それは,私にとってのよいことと相手にとってのよいことが完全にずれちゃっているということが見えてきたとして,じゃあそれをどうやって折り合いをつけられるのだろうか,ということです。

 お互いに話し合って「今までのぶつかり合いは,誤解だったんだよね。違いはしかたないけど,決してお互いに悪意ではないし,状態を改善したいと思っているんだから,一緒に頑張っていこうね!」と感激的な「合意」とか「共感」ができればいいですけれど,そういう定型好みのスタイルはアスぺの方にはあまり通用しないようです。

 そして何よりもっとむつかしいのは,そもそも「よいこと」の感覚が違うのだとすれば,「一緒にこのことを大事にしてお互いによい関係を作っていこう」という「合意の中身」が見えてこないことです。

 頭で「こういうことを<よいこと>としておこう」というのではなくて,自分の無理ない感覚で「これは大切にしていきたい」と思えるもので,果たして定型アスぺ間で一致できるものがあるのかどうか。お互いの関係づくりの足場にできるような何かがあるのかどうか,という問題です。

 この点については,そういう共通の足場を求めること自体,そもそも無理なんだ,そういうこだわりを捨てなければならないんだ,というご意見も何度か頂いたように思います。一方でそういうものかな,と思いながら,他方で言葉にはならないながら,やはり何か違う可能性を私は感じ続けてきました。

 で,あすなろさんの最初の言葉で,その可能性がちょっと具体的に見え始めた感じがしたのです。

 あすなろさんのパートナーさんは,今まで自分の怒りだけで家族に当たり,家族を責めてこられたような印象を持ちました。パートナーさんからすれば,相手は責められて当然のことをしている,と思われていたのかもしれません。そこには人間関係で何を大事にしなければならないか,ということについての感覚の,ものすごく深刻なズレがあったかもしれません。あるいはもう少し手前の問題として,そもそも「人間関係を作る」意味自体についての感覚の違いがあったかもしれない。

 そこはほんとに根深い問題で,簡単に「共通の足場」が見つかるようなものではないのかもしれません。そこにこだわりすぎると,ますます泥沼になっていく可能性もある。

 でも,今回パートナーさんは,自ら自分を変えようと努力をされた。なぜでしょうか。

 私のパートナーの場合は自分が原因で相手が苦しんでいると思うと,耐え難い気持ちになるといことを言いますし,それは私はほんとにそうなんだなと,ようやく最近実感を伴って思うようになりました。けれどももしかすると,あすなろさんのパートナーさんの場合はまた違って「相手(家族や周囲の人)が苦しむのを見てそうしたのではなく,単に自分がしんどくなったからそうせざるをえなくなった」のだ,という可能性も否定できるわけではないでしょう。

 でも,かりにそうだったとしても,「相手を苦しめると,結局自分も苦しむ」と思われたことは間違いないでしょうし,そんなふうに「お互いが苦しむ」状況は避けたい,という思いは無理なく抱かれているように感じられたのです。

 もしそうなら,「お互いが苦しむ状況は避けよう」ということについて,ぎりぎり共有できていることにならないでしょうか。

 

 もっともっと壮絶な例もあるでしょうし,まだ見方が甘いかもしれませんが,とりあえずそんなことに注目してみたくなりました。

 

2015年1月18日 (日)

定型アスぺ問題と子ども

 定型アスぺ問題について,距離を置くしかない,という考え方もありますし,そして「離婚」という形の距離の置き方をされるカップルもあるわけです。ではそうやって関係を解消すれば問題が解決できるのかというと,これは人によっていろいろなのでしょうけれど,でもそれがむつかしく,その後もずっと悩み続ける方もある。

 関係を解消しても割り切れない思いは続く場合がある,ということですよね。定型アスぺ問題は,それだけ大きなダメージを心身に長く残し続ける例が少なくないということになるわけですけれど,なぜなんでしょうか。

 実際にカップルでいる時に何が辛いのか,ということについては,ここでも少しずつ考えてきましたし,みなさんからのコメントもいろいろありました。けれども,別れてしまったあとの辛さについては,また違った問題がそこにあるはずです。

 あ,今そのことについてのアスぺ父を持つ娘さんのコメントが入ったみたいです。書かれていることはすごく重要だと思いますが,ここではちょっと違う視点から,少し考えてみたいと思います。

 

 場合によって文字通り体を張って,命がけで向き合おうとしたにもかかわらず,関係を絶つ形にならざるを得なかったということが,埋め合わせのむつかしい深い傷を残してしまうことは私にも分る気がします。その傷は関係を絶ったからと言って消えるものではない。どうしても癒しが必要なのだと思います。そのことは一つ。

 もうひとつ私がとても大事な問題ではないかと感じ始めていることは,お子さんの問題です。もしお子さんがいらして,そのお子さんを引き取っていて,そして特にそのお子さんもまたアスぺである場合,パートナーとの関係が仮に解消されたとしても,定型アスぺ問題は決して過去の問題ではなく,今と未来の問題として,目の前にあり続けることになるからです。

 パートナーとの間で解決できなかった問題を,子どもとの間で繰り返したくないと感じるのは当然のことでしょう。子どもの為にもなんとか問題への対処の糸口を見出したいと考えるのはごくごく自然な気持ちの動きだと思います。

そう考えると,定型アスぺ問題は,単にカップルの問題ではなく,やはり「子ども」の意味がものすごく大きいように思います。そのことは最初はそれなりにうまくいっていた定型アスぺのカップルが,子どもができてからとても厳しい状況に陥る,という例が少なくなさそうだということでも,これまで何度か考えてきました。

 また今私がパートナーと別れることは考えにくくなっている理由の一つがやはり子どもの存在で,この子をいろいろあったけれど,こんなふうに一緒に育ててきた,そして子どももそこに自分の出自を大事なものとして見出している。そのことを感じると,私もそこに価値を感じるようになるのです。

 カップルを解消するにせよ,せずに模索を続けるにせよ,定型アスぺ問題に子どもの存在がものすごく大きくて,そのことを込みにして考え,気持ちを整理していかなければ,先には進めないのではないか。そんなことをちょっと思いました。

 
 

2015年1月17日 (土)

ひとつのステップ

 このところ,数人の方からご自分の家庭で変化が起こりつつある,ということが紹介されています。

 何がそのような変化を引き起こしたのか,それぞれの方の工夫や努力があって,簡単にはまとめられないでしょうけれど,ただ,定型アスぺ問題でも,何かの条件や工夫や努力の仕方によって,少しずつでも変化が起こりうる,ということは言えそうに思います。

 私にとって印象深いことの一つは,そういう変化を紹介してくださる皆さんの話が,私には「そんなにすごい状況を耐えてこられたんだ」と思うものが少なくないということです。もし私がそういう状況に置かれたら,もうきっと関係を絶ち切っていただろうと思えるような事態を,みなさん乗り越えてこられているんですね。

 定型アスぺのズレの問題については,私とパートナーの間にも随分と大きなものがあるわけですが,そのズレの結果として,相手がどのような態度を取るのか,ということについては,ほんとに千差万別だという気がします。そして最近何度か書きましたけど,男女差の問題はかなり大きそうに思います。やっぱり男性がアスぺのケースの方が,シビアな展開になる場合が多そうに感じます。それはたぶん「男性の社会的な力」が背景にあるのでしょう。

 私自身はどちらかが一方的に「耐え続ける」というような状態は望まないし,他の方にも勧めることはないと思います。そして「耐え続けること」がもし自己目的のようになってしまうのなら別ですが,ただ,今とりあえず耐えることが,次のステップにつながるということなら,また話は少し違ってくるかもしれません。変化のきっかけはどちらが提供してもいいわけですし。

 今のところは変化をご紹介くださっているのは主に定型の方のように思います。そこはまた何か考えるべきこともあるのでしょうが,今は仮に定型の側からの紹介に限られているとしても,大事なステップであることには変わりないでしょう。

 このブログで感じたそんなひとつのステップとして,ちょっと記事にしておきたくなりました。

2015年1月11日 (日)

時間がかかる 時間をかける

 

ココチさんから頂いたコメントを読んで,ああなるほどと思ったことがいくつかありました。

 定型アスぺのカップル関係って,お互いの努力が相手に通じず,ひたすら空回りを続けたり,思っても見なかった逆の結果を生んでしまったり,頑張れば頑張るほど落ち込んでいく,という展開が結構ありそうに思えます。

 それで,自分が「強者」の立場にいる時は,相手を(身体的・精神的に)暴力的に押さえつけて従わせようとするようなことにもなったり,強者ではなかったり,性格的にそれができないときにはもう諦めて相手を物理的にか精神的にか切り離すようになり,アスぺの方なら自分の世界に閉じこもる方向に向かい,定型なら他の定型に共感を求める方向に向かったりする。

 専門家にもいろんな考えの人があるように感じますが,私の知っている精神科医の一人などは,あきらかにアスぺの方に強い反感を持っているようで,「あの人たちはもうどうしようもない。気持ちを切り捨てて現実的に(妻の立場の人であれば夫を給料運搬人と割り切って考えるなど)対応するしかない」というようなことを言われていました。

 まあ,そこまでの強烈な反発を持っていなくても,実際定型が持っている「関係修復のための誠実な対応の仕方」はアスぺの方にはまったく通用しない場合が多く(もちろんその逆も言えます),その理由を定型的な感覚の枠内だけで考えても,理解することはとてもむつかしいですから,現実的な対応として「距離をとるしかない」というアドバイスが専門家から来ることも理解できます。

 「何をやっても無駄だ」という感覚,「どんなに頑張っても何も変化しない」という実感が自分を支配してしまいがちなのが,定型アスぺ関係ではないかと思います。

 そのような状態に価値を見いだせないとか,逆に自分をひどい状態に追い込んでいくだけだと感じられる状況に置かれている場合は,身を守るためになんらかの意味で相手と自分との関係を切り離すことが必要になるような気がします。単なる「自己犠牲」の精神で問題に向き合ったとしても,結局それを受け止める関係が成り立たずに,その犠牲的な姿勢が意味を持つことは残念ながら少ないとも感じられます。

 一方で,何らかの理由で一緒に生きていく気持ちが継続する場合,相手に対する期待の持ち方を少しずつ調整していく必要がありそうです。そしてもうひとつ,時間をかけるスタイルを大事にすることが大きそうな気がするのです。

 そのことについてはココチさんがちょっと書かれたわけですし,私もこれまでの記事で,たとえば何か予定の変更がある場合など,パートナーに極力早く知らせるとか,あるいは提案があるときにはかなり前から話をしておくとか,そういうことでうまくいく場合があることを書いてきました。いずれも彼女が自分の気持ちを整理するための時間をできるだけとる,というところがミソのような気がします。

 逆にそこで結果をあせると,訳の分らない混乱が生まれてしまいます。私がパートナーに「挑発され,議論を吹っ掛けられた」(と誤解するような)場面で「どうしてそうなの?」とか理由を聞くと,彼女の方からちょっとびっくりするような理屈の通らない理由が飛び出てくることがよくあり,私が混乱してしまいました。普通の時にはそんなに考えることに理屈が通らない人だとか,そんな風にはとても思えないので,その驚きはひとしおになります。

 これもまた自分自身のことや人間関係がからんだ問題については,定型的な問題理解や整理,調整の仕方がなかなか理解しにくい,独自の理解の仕方や対応の仕方をするアスぺの方の場合,定型的な枠の中での答えをせっつかれればせっつかれるほど,混乱してしまって,結果として「とりあえず思いついた答えてしのごう」ということになってしまうのかなと思えます。

 

 そんな風に定型同士の関係よりもはるかに「時間がかかる」し「時間をかける」必要があるのが定型アスぺ関係なのかなという気がします。

 で,そのことを逆に言えば,時間をかければ少しずつ変化もあるということになります。その変化は相手に起こるだけではなく,自分にも起こるわけです。

 今書いたことは定型の視点からの書き方でしたけれど,ある程度同じことがアスぺの方の視点から見ても言えるかもしれません。実際私がパートナーの生きづらさを多少なりとも実感として理解し始めるにはものすごい時間がかかりました。彼女の言っていることの意味,実際求めていることを理解するにもものすごく時間がかかることがしばしばです。というより,いまだにほんの一部しか分ってきていない感じがします(というか,「まったく理解できない」という絶望的な状態から,「こう考えれば定型的な感覚の延長でもちょっと分ってくる」という可能性に気づきはじめたのが,ここまでの経過のように感じます)。

 お互いに相当違った発想のパターンがあるらしいので,どちらから相手を理解するにも,ものすごく時間がかかるのでしょう。そして生き方のパターンも相当違うので,自分自身の気持ちを調整しながら,相手の生き方と少しずつ合わせていくにも,ものすごい時間がかかるのだと思います。

 ただ,それは「変化しない」ということではなく「時間がかかる」ということなのだと思えます。だとすれば,そうやって「時間をかける」ことに意義を見出せるかどうか,ということが,定型アスぺ関係の中では,そのお互いの関係をそれ以降どうするかに関わる大きな問題になるのかもしれません。

2015年1月10日 (土)

ちょっと変化が?

 

前の記事を書いてから,パートナーに向き合う気持ちにちょっと変化が起こり始めたような気がします。

 前の記事では,私の感覚ではパートナーからとても否定的な態度で私に接しられていると感じてしまうことについて,頭ではそうではない可能性を感じるのに,どうしても体は拒否感を感じてしまって,そういう彼女の態度の背後にある,彼女自身のがんばりやつらさに気持ちを向けられない理由を考えてみました。

 ひとつには定型的なコミュニケーションのやり方から,定型にとってそれがとてもやりにくい理由を,もうひとつには,私自身が親との関係で作ってきたコミュニケーションのスタイルが原因でそれがやりにくくなる,個人的な理由を整理してみました。

 今回私にとって特に意味があったのは個人的な理由の方らしく,ある意味自意識過剰のように彼女に向き合うようになってしまう原因が分かった感じがして,そこでちょっと気持ちにゆとりができたようです。

 そうすると,彼女の態度を見て,最初の一瞬はやっぱりまいるわけですが,それがかなり軽くなり,すぐに「ああ,また彼女がしんどいのかな」とあまりむりなく思うようになり始めた感じがします。まだ確実にかどうかはわかりませんが,なんとなく変わった感じです。

 ただし,ちょっと傑作だったのは,そんなふうに彼女のまた厳しい表情を見て,「あ,これは自分に向けられたものではないんだ」と思い直したあとで,子どもから「お母さん,お父さんにかんかんだよ」と言われたことでした。そのときは私の家事の失敗でほんとに起こってたみたいなんです(笑) ま,試行錯誤ですね。

2015年1月 8日 (木)

彼女の頑張りを素直に感じとれないわけ

 

あすなろさんから私にとっては重要と感じられたことを指摘して頂いて,今の自分としてはそこをしっかり考えないといけないと思っているところです。

 それは私の理解では,「パートナーがぎりぎりの努力の中で頑張っているのに,どうして素直にそのことをまず受け入れる気持ちになれないのか」という問題かなと思います。

 これは私の場合は,ということですが,どうしても彼女の「表現の仕方」のほうに自分の気持ちが引きずられてしまうからだと思います。つまり,とても否定的な表現の仕方(と私には感じられるもの)で応答してこられて,それを「私が否定されている」というふうに感じてしまう問題です。

 このことについてはこれまでも具体的な場面について,そういうことが私と彼女の間で起こることを何度も書いてみたように思うのですが,そういう感じ方を私がしてしまうことについては,定型的には無理もないと思える部分もあります。

 たとえば仮にの話ですが,分かりやすくするためにちょっと極端な例で考えてみます。もし相手がものすごい形相で「お前なんかあっちへ行ってしまえ!」と叫んだとして,そう言われて「自分は激しく嫌われている」と感じないというのはちょっとむつかしいですよね。たぶんアスぺの方でもそこまでいけば同じなのかなと想像します。

 でも,その状況の中で「いや相手は私を嫌っているんじゃない(かもしれない)んだ」と考え直してみる,ということを要求されるようなものですから,これはほんとにむつかしい。定型的にはむちゃくちゃ不自然な,非常識なことを要求されているわけです。しかも,「常にそうじゃないと理解してよい」のならまだ対応しやすいかもしれないけれど,実際は本当に相手が自分を嫌っている場合もありうるわけで,簡単に断定もできない。

 こちらからすると,拒否されたように感じて強く傷つきながら,同時にそうでない可能性を考えてその気持ちを抑え,しかもどっちの可能性もあると言うので,自分の態度も決められないような,ものすごい不安定な状態に置かれ続けることになります。何をどう解決したらよいかが見えない状態で,宙ぶらりんになるわけですから,それがしんどくないわけがありません。(ちなみに,相手の表現がどっちの意味なのか区別がつかない状態に置かれて混乱し,へろへろになる,というのは,アスぺの方も定型とのやり取りの中でしょっちゅう経験されていることですよね。)

 ですから,このしんどさが改善されるには,「相手はこういう表現をしているけど,本当はその意味は定型的な○○の意味ではないかもしれない」というレベルにとどまっていては無理で,「○○じゃなくて,△△の意味なんだ」というふうなある程度明確な「翻訳」の仕方が割合に安定してできるようになることが必要なのかなと思います。

 そのためは「○○の表現で,実際○○をあらわしている」という場合と,「○○の表現なんだけど,本当は△△だ」という場合と,その二つを区別できることが必要になる。翻訳の比喩でもう少し言えば,それができないと,「意訳」が正しいのか,「直訳」が正しいのかがいつまでたってもわかんないままで,どう反応してよいか分らないまま,結局解決にならない,みたいなことでしょうか。

 

 で,ちょっと前振りが長くなりましたが,私が今回ちょっと思ったのは,そういう定型の人ならそんなふうになりやすいだろう,という話だけではなく,私という人間の特徴として,そうなりやすい部分もありそうに思うので,それはなぜそうなんだろう,ということについてでした。

 もう一度問題を整理しなおしてみると,こんなことです。

 「パートナーが私とのやり取りの中で否定的な表現をしている。それは定型的には私に対する否定とも感じられるような表現なんだけど,実際は別のことが原因で否定的な気持ちになっていて,それが私とのやりとりで,あたかも私に向けられているような形で出ているだけだ。」

という事態があったとします。ですから彼女の表現については「私に向けられたもの」という理解の仕方と,「私には直接は関係ない他の事情から生まれたもの」という理解の仕方と両方の可能性があるわけですけれど,私の場合,「私に向けられている」と感じてしまう傾向が強いように思うんです。
 
 なんでも自分につなげて考えるのは「自意識過剰」みたいな話になりますけれど,問題はなぜそうなるのかですね。

 そこで改めて自分の親との関係が思い起こされてくるのです。つまり,母親は強烈に自己中心的で,自分の感情で周りを振り回すタイプですが,その自分でも持て余している感情を誰かに受け止めてほしくて仕方がなくて,父親には一切受け入れてもらえなかったので,その相手を子どもである私に求めたわけです。

 で,子ども時代の私はその母親の要求に必死で応えようとし続けてきたわけで,それが自分の対人関係の作り方の基本パターンのようになってしまったところがあります。

 つまり,母親は常に自分の感情を私に対してぶつけ,それを受け止め,それに共感することを求め続けていたわけで,母親の表現は常にダイレクトに私に対する表現であり,要求だったことになります。私はそれをそういうダイレクトな表現として理解する以外の道を許されていなかったのですね。

 この,私の体にしみこんだパターンをパートナーに対して向けると,彼女のすべての表現は私に対する訴えとして「理解しなければならない」ものになり,それに「応えなければならない」課題になってしまいます。ところが彼女にとっては素朴に自分のしんどさがそのまま表れているだけのことで,別に私に共感を求めているわけでも,何かを要求しているわけでも,私を非難しているわけでもないのだとすれば,それは私の側の極端な過剰反応ということになってしまいます。そこに私の「自意識過剰」状態が生まれることになる。

 そうすると,それは彼女が抱えている本当のしんどさを見つめられないことにもなってしまい,結局空回りの繰り返しになってしまい,その私の側のしんどさから,ますます彼女のしんどさや頑張りを素直に見つめて受け入れることをむつかしくしてしまう。


 そんなふうに考えてみると,定型アスぺ問題というのは,一般的に定型とアスぺの間ではこういうことが起こりやすい,という話だけではなく,その人その人の持って生まれた傾向や,生後に作られてきた体に染みついた生き方,置かれた状況などによって,ほんとにその人なりの現れ方をするんだなと改めて思います。そこはほんとに千差万別でしょう。ですから,定型アスぺ問題にまともに向き合おうとすればするほど,それは相手に向き合うだけではなくて,同時に自分自身に向き合うことになっていくのかもしれません。
 
 
 

2015年1月 5日 (月)

夫の未練,子の割り切り

 みなさん お正月は少しはゆっくりできましたでしょうか。

 私は久しぶりにお酒が解禁になったので,子どもとかなり飲みました (笑)
 親の介護関係でまた実家にも行ってきましたが,改めて「崩壊家庭(?)」の現実を見せつけられてきた気がします。人間というのは,シビアな状況で育てば,その中で生きていけるように,必死で独特の対処法を身に着けていくんでしょうね。 自分自身の変わり者の部分も,その対処法として考えるといろいろ納得する部分もあったりします。

 そのことは,私のパートナーも含め,アスぺの方たちにも多かれ少なかれ,かなり言えることではないのかと感じます。
 それから,前にも少し考えた,パートナーに対しての自分の「可能な限りさらに理解を深めたい」という姿勢と,親に対する「もう理解は不能ということを前提に,現実的な対処を考える」という姿勢と,その相当違う姿勢がどうして自分の中に共存しているんだろう,という問題も改めて気になるところです。

 パートナーに対しては,自分も変わっていくことを大事だと思うのですが,親に対してはそれがあんまりないんですね。まあ上手に対応できるように変わりたいというのはありますが,「わかり合えることを目指して」みたいな,そういう乗りではありません。この,親に対する自分の一種の「冷たさ」が何なのか,ちょっと気になっています。

 そういえば,私がパートナーに対してまだ未練がましく抱いているあるひとつの希望について,子どもからはあっさりと「そこはもうあきらめるしかないよ」と言われました(笑) 子どもって意外に親に対してそういう割り切りが早くできるんでしょうか? できるとすればそれはなぜでしょう?


 

2015年1月 1日 (木)

謹賀新年

 本年が皆様にとって,良い年でありますように!


 面白い話を聞きました。

 オーストラリアで仕事をしていた知り合いから,向こうではアスぺについてはとてもオープンで,職場でも「あの人はアスペルガーだから」という説明は普通に違和感なく行われるという話を聞きました。アスぺの方は一つのことに集中できる方が多く,それで仕事ではそういうところで能力を発揮されることが特性として共通理解されているようです。

 お互いにあんまり気を遣わないというのも向こうの人たちの生き方のようですが,お互いに「相手の気持ちを察しあって,思いやりを大事に」というような強い人間関係の圧力がないところでは,アスぺの方ももっと自分に合った形で,のんびりと生きていく可能性が広がるのかもしれませんね。

 そう考えると,私たちの社会って,ほんとに対人関係の緊張が強烈なのかなあと,そんなことを改めて感じます。私ももっと気を抜いて,楽しく生きられたらいいのになあと思いますね。

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