無知無能として善悪を考える
掲示板でB-Bさんのコメントを拝見していて,そこ,ほんとに大きな重大な問題だよなあと思ってしまいます。
私は性格なのかもしれませんが,相手に悪意がないのに,こちらが自分の思い込みで悪意を見て否定するような,そういうことは避けて,なんとか関係を改善したいと考える傾向が強いみたいです。でも相手に悪意があるのに,それをこちらの思い込みで善意のように考えてしまうことがもしあれば,それもやっぱり別の思い込みになってしまって,関係の改善とか,あるいは調整にはならない可能性を感じます。
もちろんこのことは考えだしたら頭がパンクしそうになるくらいややこしい話ですよね。たとえば善意って何?悪意って何?ある人が善意か悪意かを誰がどうやって決められる?とか考えただけでもう大変です (^ ^;)ゞ
当たり前のことですが,人は「全知全能の神」ではないので,何が絶対的に正しい善で,何が絶対的な悪か,ということを「正しく決める」みたいなことは不可能でしょう。
じゃあ世の中に善と悪はないのかというと,それはやっぱりそうは言えなくて,多分どんな人でもその人なりに善と悪の感覚があって,それを手掛かりに生きていると思えます。
前にもちょっと書きましたが,最近,やくざ屋さんの本を読むことがあって,そのことをまた強烈に感じさせられたんです。
やくざ屋さんというのは反社会的集団とか言われて,アスぺ父を持つ娘さんも書かれていたみたいに,その周囲にはいろんな犯罪行為も,たくさんの悲劇もあるわけです。じゃあ彼らは悪の固まりで,善が分らないのかというと,ある意味興味深いことにそれは全然違うみたいです。
彼らはものすごく「情」を重視するみたいだし,義侠心みたいなこととか,親分に対する忠誠心とか,それはめちゃくちゃ重要なものとされていて,そこを踏み外すとほかのやくざ屋さんから信用されなくなったり,ものすごい制裁を受けたりもする。自分で自分を罰するようなこともします。
人間って,どういう世界でも,あるいはどんな人でも,それなりに善と悪があって,それを手掛かりにその人なりの人生を組み立ててるんだなあと,しみじみ思いました。
悲劇が起こるのは,ひとつにはその「何を善悪と考えるか」というところでズレがある場合じゃないでしょうか。
「これが絶対の善だ」とか「これが絶対の悪だ」ということを決めること(あるいは理解すること?)は今の私にはむつかしいんですが,ただ人はみんなその人なりの善悪の感覚とか価値観とかを持っていて,それはその人その人が自分の抱えた現実の中で生きるためにはどうしても必要となっているもので,そこにズレがあるときに,どうやってそのズレを理解して調整できるのかを考える,ということは自分でも模索できるかなという気がします。
で,最初の問題に戻ると,相手の善悪の感覚とか基準とかを,自分のそれを使ってそのまま理解することには無理があるし,どうしても調整が必要になる。で,それは自分の善悪感情で相手を悪と決めつけることも問題になるし,同じように自分の善悪感情で相手を善と決めつけることも問題になる,ということなのかなと思います。どっちも結局自分の善悪感情だけで決めつけていることに違いはないからです。
関係の改善を考えるのなら,お互いに自分の感覚とは違う,相手の善悪感覚を理解しようと努力してみることに意味が出てくるのではないかと思います。もちろん相手を理解するためには,その「理解する自分」が壊れては元も子もありませんから,そのバランスのとり方もそこでは大きな問題になると思います。
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